19世紀前半江戸近郊農村における女子教育の一研究 : 武州生麦村『関口日記』から
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(2) 68. 久木幸男・三田さゆり. 関口塾が「長百姓支配+の維持に果した役割を明示するものである。. しかし農民の分解が急速に進む19世紀前半の江戸近郊農村において,関口塾が果した このような役割は決して目新しいものではなく,手習塾史料としての『日記』の価値ほ, 結局のところそれはど高いものということができない。. 『日記』の教育史史料としての価. 値はむしろ,子どもの通過儀礼や女子の武家奉公に関する記事が比較的豊富に含まれてい るところに求められるのではないかと思われる。通過儀礼も武家奉公ち,教育史的にみて 重要な事象でありながら,これまでややもすると等閑に附されがちであった。通過儀礼に 関しては,主として民俗学の研究成果に依拠した若干の研究も近年発表されているが8' 『日記』の通過儀礼関係記事の中にほ,在来の通説の修正を迫まるようなものも含まれて いるし,わずかに三田村鳶魚の業績9)によってその実態が知られる武家奉公に関してほ, 三田村がとりあげていない,娘を奉公に出す側からの記述として,注目に価するものがあ るoそれゆえ本稿では,とりあげる範囲をこの二点にしぼり,とくに前者については女子 の場合を主として考察したい。そのことが,手習・遊芸椿古・女訓書による教育などに限 られがちであった在来の江戸時代女子教育史研究の対象領域を,多少なりとも拡大するこ とに連なり得るなら,大きい幸いである。 注. 1). 『郷土よこほま』61号,. (1971年9月). 内田四方蔵「関口日記と関東取締出役+. 19ff・はかにやや特殊な問題を扱ったものとして,. p・. (『神奈川県史研究』 24号,. 1974年6月,. p.. 17. ff.). がある.. 2)金銭関係以外の塾軒こかかわる記事としてほ,江戸で火災に遭って生麦村に疎開してきた少女 の入門記事(『日記』天侠5年2月17日・巻7,. p・. 98・巻,貢ほ構浜市文化財研究調査会刊本. のそれを現わす・以下同じ),江戸の著名な出版元山口屋から『庭訓往来』を求めた旨の記述 (『日記』天保15年10月3日,巻10,. p・. 118)などがある.山口崖は藤右衛門の三女おみつ. (おなかと改名)の再嫁先で,かつ長女おしげの子元善が養子として入っていた.なお疎開少 女の入門については,. 『横浜市教育史』上(p. 114)も紹介している.. 3. 『横浜市教育史』上, p.. 4. 石川. 謙『寺子屋』 p.. 5. 入江. 宏「近世下野農村における手習塾の成立と展開+. 6). p.24). 『日記』嘉永元年4月29日(巻11,. 114. 142.. (『板木県史研究』 13号,. 1977年3月,. p.129),. 7)東作側の百姓のうち.与次右衛門(巻5, p・. 33),甚五郎(巻8,. (巻3,. p・. p・. p・374),久左衛門(巻5, p.223),次郎作(巻10, 106)ほ子女を開口塾に入門させており,切飼しをうけた茂右衛門. 334)も同様である(括孤内は『日記』刊本中の入門記事のある箇所).. 8)庄司和晃「日本人の発達観と教育+ 子-その誕生の周辺+. (庄司『柳田国男と教育』 p.. (石川・直江編『日本子どもの歴史』. 3,. 155. p.99ff,),田嶋. 子育ての習俗とその思想+ (『岩波講座・子どもの発達と教育』 2, 9)三田村鳶魚「御殿女中の研究+. (『三田村鳶魚全集』3,. p.. 9. fE.),直江広治「農民の. p.. -. 「民衆の. 2ff.).. ff.).. (久木幸男).
(3) 69. 19世紀前半江戸近郊農村における女子教育の一研究. Ⅰ. 1.生麦村と関口森. 『開口日記』に現われた女子通過儀礼 『日記』に現われた女子通過儀礼について考える前に,生麦村. 甲一般的状況,関口家の村内における位置およびその家族構成を概観しておきたいoそう することが,以下の考察にとって便宜と思われるからである。 まず生麦村に関しては, 『新編武蔵風土記稿』に次のような記事があるo 生麦村は東海道往還のかかる所にして,海にそひたる地なり,神奈川川崎二宿の間に あり,神奈川へは一里,川崎-は一里半を隔つ,江戸日本橋より六里の行程なり,子安 掛こ属せり・-家数二百四十二軒,その内漁猟を産とするもの六十軒ばかりなりl). 1803年(事和元)の「村明細+に. 江戸時代を通じて一円の天鏡であったこの村の村高は,. よれば約653石で乞),この数字は19世紀前半を通じて変っていない.家数(戸数)にも 大きい変動はない。しかし天保の飢偉に際し「村中窮民百廿軒余+′が合力銭の支給をうけ ていることや3),. 1866年(慶応2)には高持百姓が僅か36人に減じている事実4)からう. かがえるとおり,この間にお汁る生麦村農民の分解は急速に進展している.農間余業老も 著しく増えており, 1803年の上記「村明細+では商業を営む老9人が報告されていたのが, 職人12人,髪結1人が数えられてい. 1827年(文政10)の「村明細帳+でほ商人19ん. る5).いっぽう関口家は1806年(文化3)から1846年(弘化3)に至る40年間に,拷 ち高を25石6斗から6). 46石4斗余-と,ほとんど倍増させている7).多くの江戸近郊. 農村・街道筋宿村の場合と同じく生麦村でも,. 19世紀前半における商品経済の急激な港. 透は,多数の無高百姓・農間余業老を析出し,関口家など少数の地主-の土地集中をゃた らしたのであった。. 関口家はもと中世の土豪の系譜をうける家柄(ただし本家ではない)で8', える範囲でも,藤右衛門一束作一束右衛門の三代むキわたって, 方名主を勤めているo. 『日記』官こみ. (途中退役期間ほあるが)也. とくに藤右衛門ほ経営の才に富み,すぐれた政治手腕を有していた. 捻か,狂歌・俳讃の噂みもあり,医術の心得ももっていた。開口家の経営の基幹をなすの ほ地主としての農業経営と考えら れるが, 1850年までの小作料収. 第1表. 関口家の小作料収入・小作人数. I-;iこ高あ収入(栄)t娼l典. 入・小作人数は第1表のとおりで あるo一貫して低調に発展してい. 斗. 升. 1820(文政3). 80. 1. 1829(文政12). 94. 午(天保5)までの伸展が著しい。. 1834(天保5). 藤右衛門のすぐれた経営手腕の結. ることがうかがえるが,とくに藤 右衛門が東作に家督を譲る1834. 果であろう。 小作料収入と並んで開口家の経. 済を支えた金融業(小口の質貸しお. 俵. 人 18. %2,. p.. 3. 22. 2. 26. %3, 巻5,. p.646ff・. 3. 98. 1. 3 27. %7,. p.255ff・. 1840(天保11). 103. 2. 33. 巻9,. p.99rff.. 1850(嘉永3). 110. 3. 2 31. *12,. 1飢4(文化11). 26. 荏)畑は除く。. 436fE.. p.386fE・. p.. 1ト作料は1俵-4斗として計算。 典拠は『日記』刊本の巻,貢。. 70fE・.
(4) 70. 久木幸男・三田さゆり. 1812 よび土地書入れを伴なう大口貸し)ち,藤右衛門の手腕によって着実に発展しており, 午(文化9)にほ580貫文だった年間新規貸附金は(ⅠⅠ,第6表参照), 1834年には約1440. 貫文に増えている9).このはか1830年(天保元)から,肥料(〆粕). ・釘・履物などの販売 にも手を出しており10),また土地の売買によって利を博したこともあった11)。藤右衛門ほ, 前記1827年の「村明細帳+′では商人の中に数えられていないけれども,その金融・商業 活動は他の19人の商人を遥かにしのく小ものがあった. ている木屋五郎兵衛・岸惣八・南次郎右衛門. 「村明細帳+で「質商+′と記録され. 倖・南は生麦村の小字名)は,いずれもその. 営業資金の融通を藤右衛門に仰いでいるほどである12'. 経営手腕にすく小れた藤右衛門ほ,村役人としての卓抜な政治的力量の持ち主でもあった ようである。いったい,農民の分解が進む19世紀前半ほ,農村の共同体的諸関係が後退 し,小前百姓と村役人層との対立が様々のレベルで顕在化する時期であるが,生麦村でも この対立ほ,. 1830年頃までほ特定の村役人に対する小前百姓の個人的反発の形で,以後ほ. 小前層の集団的反抗の形で∴しばしば現われている。例えば1810午(文化7)に若者頭が 組頭勘四郎と対立した事件,.. 1812年(文化9)小前百姓が名主市右衛門に「無礼+を働い た事件, 1813年(文化10)浦名主十左衛門方で小前百姓が「狼籍+に及んだ事件, 1817年. (文化14)小前百姓が猟師頚十次郎を批判した事件, 1827年(文政10)立場茶屋を営む百 姓と年寄勘四郎とが争った事件などが『日記』にみえている13'.ところが少なくとも『日 記』に現われている限りでは,藤右衛門が一般農民と対立し,あるいは批判をうけた記事 ほ見出されない。地主・高利貸としての開口家の経済的優越が,小前百姓の批判や反抗を 許さぬほどの圧倒的なものだったためでもあろうが,一つには藤右衛門が村民統御に巧み だった結果セもあろう。. 1810年の事件後程なく,彼が組頭と対立した若者頭の結婿の媒的人をつと 1817年の事件では扱い人として調停に成功し,また漁法の制限をめくtlって浦名主十. このことは, め14',. 左衛門と漁民たちとが対立した1823年(文政6)にも,その調停に当って無事解決に至っ ている15'諸事実から,容易にうかがわれるところである。とくに1833年(天保4)の凶作 に際し,同年12月百姓の一部に「徒党+の動きが出た時には,同月5日その動きをつか んだ藤右衛門は村役人を督励して翌6日逸早く「浦方助郷御免顧,浦方困窮二付拝借麻品 々+を代官役所-提出するとともに,. 12日にほ合力米(白米12俵)の支給を行なって混 乱を未然に防いだ16'.生麦村の場合,郷蔵貯蔵の稗の放出が正式になされたのほようやく 翌年3月のことであるから17),叙上の対応は極めて迅速かつ適切なものだったというべき であり,藤右衛門のすく小れた政治能力を示すものであろうo 経済的・政治的に村内で卓越した地位にあった藤右衛門ほ,文化的教養の面でも指導的 位置を占めていた。彼は初歩的な医術の心得を有し18',年間20-30貫文の薬科収入を得 ていたはか(ⅠⅠ,第6表参照),先行研究が明らかにしているように教訓書『孝行薪草』を江 戸馬喰町の書樺山口屋藤兵衛から出版し19',村内外の同好老と俳讃連を組織している20'. また近村の名主の依頼をうけて「村明細帳+の書き方を教えたこともあった21)。故実に通 じた名主として老練性を買われたのであろうが,同時に教養ある名主と広く認められてい.
(5) 71. 19世紀前半江戸近郊農村における女子教育の一研究. たからでもあろう.若年の頃江戸飯田町伊藤尚貞の私塾に学んだことが2皇),恐らく彼の教 養形成の基礎をなしたものと思われるのであるが,その教養ほ名主としての勢望を村内外 で高めるものでもあったのである。 関口家は,内田四方蔵紹介の1799年(寛政11)の「宗門人別帳+によると,藤右衛門 『日. 夫婦・母・娘2人・下女の6人家族で23),その後娘1人・息子2人が出生している.. 記』の記述に従って藤右衛門の孫の世代までを含めて系図風に記すと下記のとおりである。 なお名不明のため掲げなかったが,藤右衛門の伯母が鶴見村鍛冶屋源助家に,姉2人が村 内清水久保吉右衛門および鶴見村勘右衛門にそれぞれ縁づいている。また真作はおとくと 結解する以前軒こ加瀬村四郎左衛門妹おりつ・登戸村伝右衛門娘おなると結嬉している(い ずれも離掛。他の姻戚関係はそれぞれ当該箇所に注記したが,こうした姻戚や村内子女の 通過儀礼に際しての贈答記事などが『日記』に数多く現われている。とくに上述したよう な開口家の地位からして,同家の交際範囲はすこぶる広く,この種の記事ほ豊富である。 これらの記事をとおして,生麦村およびその周辺の江戸近郊農村における当時の通過儀礼 の実態を,相当程度うかがい知ることができるのである。 土. 一元 -おしシヂ 鶴見六郎着工門と結婚, のち別居,. 大奥 鈷婦,のち死弘 中東お乗代部屋方に奉 公, 1797-1865. 江戸三田竹山三郎兵衛 と結婚,馬喰町出口塵 藤兵衛と再籍,おな み,おなかと改名, 1801?∫-44. 1762. 藤右衛門幼名藤五風号東 おりえ鍛冶屋谷川源兵衛 娘, 1743′-1832. ll. @,. 1764-1849. -お. 1814-. 書六部右エ門鼻名,1815こ. と1817-46. 竹次郎1819-お. の. ぶ1820-. -福太郎1821-. おみつ -・. 衛製名,. 一事. 1795-1848. -おちえ 江戸両国川村松五郎と. 日山口塵養子,藤兵. -音次郎1823-兼次郎1825-お. おいえ岸九着工門妹,. ひ・さ1827_. 1776′}1861. 一束H作翌・S忘・-6%2金r東右衛門幼名梅二,のち1833おとく神奈川紀伊国屋 -お 三郎兵衛妹. 一可. 青木町大農屋-入婿, 1807-53 斎三郎異名,. 2.七夜から初節句まで. り え兼吉と鈷賂1827∼57. -紋次郎斎三摩異名,. 1830-. -福次郎遠州屋静六養子, 1832-お. 第1図. 婚,おまちと改名, 1835・-. -お. 舌 F3. あい戸塚内山保太帝と結. ぬ い1835∼45. 開口家の家族構成. 出生後の比較的大きい行事である七夜から初節句あたりま. での乳児期の女子通過儀礼について,かなりまとまった記述があるのは,藤右衛門の孫お.
(6) 72. 久木幸男・三田さゆり 第2表. 開口家関係女児の出生・七夜記轟(1850年以前) 母. 出生年月日 おこと■. 1817年6月. おのぶ. 1820年1月. 15. 日. 六郎右衛門. 出生場所. 七夜記事. 七夜叫. お. 近所 1日. 女子. 1820年6月 (名不明) 12 日 1827年7月. おとく*. 6日. 1827年9月. おひさ. 三郎兵衛. おなみ 開. 口. 家. 1月8日. 六郎右南門 おしげ 鶴見村六郎右衛門方 東. 作. おなる 関. 口. 家. 7月12日. 三郎兵衛. おなみ 三田三郎兵衛方. 可. 書. おいの. 可. 吉. おいの. 女子 1842年10月 ** (名不明) 8日. 東. 作. おとく 関. 口. 1843年11月. 東. 作. おとく 開. 口. 7日. 1827年12月. おりえ. 20. 日. 1835年2月. おぬい. 30. おいつ***. 日. 1日. 阿ら 産婆 礼. 礼. 奉毘 巻. 青木町大黒屋. p・. 5, 62. 巻. 5,. p・. 77. 青木町大黒屋. 注)典拠は『日記』刊本の巻,貢。*7月20日死亡,. あいの場合である。彼女ほ1835年(天保6). 産婆. 家. 10月14日 産婆招待,. 家. 11月7日. へ引膳. **11月6日死亡,. 近所1芸2 f.. 表書雛近所へぼ110i ***11月29日死亡. 8月21日,関口家で生まれた。『日記』の. 8月20日条に「今夜丑中刻お解安産,女子出生致ス+とあり,ついで8月27日条に 「出生女子七夜内祝,近所不残引膳, 酒肴代, -弐古文 竹輪蒲鉾, -百廿四文 茸弐拾, 魚代24)+とみえるo七夜ほ命名式のほずであるが,おあいの名の初見ほ翌 -. -. 月の宮参りの記事においてである.。むろん命名が行なわれなかったのではなく,その旨の 記載が省かれたのであろう。第2表に掲げたおあい以外の関口家関係女児(外孫を含む)の 場合にも,七夜に命名のことが記されている例はない。男児のケースだが,. 1807年(文化. 4)生まれの可吉の七夜にほ命名が行なわれ,近所・弟戚の女性, ,産婆,腰抱ら6人を招 待している旨の記述がある乞5).ただし,可書と命名したことを「出生名前可書と改ル+と 書いているのほ,七夜以前に仮り名をつける習俗がこの地域にあったことを示唆するもの かもしれない。 七夜に行なわれる産毛剃りの記述も,おとくの場合を除いては全く欠けている。おとく. については「湯あみ髪刺通す26)+とあって,生後三日目になされるはずの正式の抹浴(港 初め・三つ目・三日祝)も七夜に併せて行なわれたようである。湯初めが3日目になされな かった例としてはおのぶの場合があり,隆雪がつづいて「寒気+だったため6日目に延期 されている27'o (真作・おなるの子,. しかしおあいを含めて他の女児の場合には湯初めの記述はない.穀太郎 1829年9月25日出生,翌年2月13日死亡)の場合には「出生三ツ目二付,. 椎.
(7) 73. 19世紀前半江戸近薙農村における女子教育の一研究. 婆々来り浴乞8,+と記されているo女児についても行なわれなかったのではなく・一々特記 するほどの重要性が認められなくなっていたのかもLれないo民俗学の主掛こよると,港. 初めは新生児の生存疲を承認する重要な儀礼だとされている。この日まで「おくるみ+に くるまれていた新生児が,湯初捌こ際して初めておとなと同じく袖のある産着を着せられ・ 一個の人間として過されるからだというのである色9'。しかしこのことほ少なくとも19世 紀前半の生麦村ではそれはど重視されていなかったようであるo この点ほ七夜もほぼ同様であろう○民俗学老のいうところに従えば,七夜ほ単なる命名 式にほとどまらず,広く親額縁者や近隣を招いて名前を披露する「大切な儀式+である30'o しかし『日記』にみえる範囲では,招待者は産婆を含めて数人以内,あるいほ近隣-の配 り物が行なわれるだけで,広く名前を披露するという意味は稀薄になっているo生麦村近 辺の)[僻地方では,三日祝に「萩の餅を作って親戚・朋友・近隣-醍+り,七夜にほ「親 戚知人を招待して祝宴を催す+風習が1930年代にもあったといわれているが31),生麦村 ではそれより百年も前に三日祝・七夜ともに盛大にほ行なわれなくなっていたといえよう。. 七夜以後,宮参り以前の儀礼で注目されるのは,生後14日目の雪隠神参りであるoた だしこれが行なわれたことが記されているのは可吉の場合だけで32',おあいその他女子に っいてほ記載がない。雪隠神参りは「関東とその周辺に見られる面白い習俗+といわれ・. 新生児の初外出・宮参りのための準備として「危険と思はれるものに対して融和策をと る+趣旨のものと解されていが3'oしかし『日記』の記述は簡単なので,このような民俗 学者の解釈の当否は確かめ難い。 宮参りはおあいの場合は生後38日目に行なわれており・ 29日条に「お愛儀今日宮参.)致ス. ー弐古文. 『日記』1835年(天保6). 竜泉寺江祈念料. 9月. 赤飯壱重渡84'+とみえるo. 祈念料が竜泉寺-支払われているのほ,鎮守砂山社の別当を同寺住職がつとめていたため であが5,.同月27日粂には「出生お愛宮参り延侯而今日赤飯蒸侯而所々配ル36)+とあり, 他地方でも多くみられるよ 38日目に行なわれたのは延引の結果であることが判明するo ぅに33日目が通例だったのであろうo関口家では宮参りの祝に赤飯を配ることが多かっ たようで,おあいの兄穀太郎,梅二(東右衛門)の場合も同様である87'o梅二(1833年2 月9日出生)の場合は,村内20軒・村外の親戚・知己7軒に配っており・これに対し金1. 朱ないし200文位の祝金または祝品が到来しているoしかし村内には・親戚・知人を招い て祝宴を張る家もあり,関口家の家族が村内女児の宮参りの祝宴に招かれている記事もみ ぇる38,.鎮守参詣という行為をとおして氏子-村人の一員としての承認をうける行事と考 ぇられている宮参りではあるが39',その受けとめ方が家によって多少とも変りつつあった ことが推測せられる。. ふつう生後100日前後に行なわれる喰初めの行事は,. 『日記』には梅二の分しか現われ. ていない。関口家の本家など2軒-引膳がなされているほか行事の内容も不明で40)・川崎 地方に後世まで残ったといわれる掛こ小石を載せる風評1)の存否も確かめ難いoこれに対 し川崎附近でほ比較的早く消滅したらしく,神奈川県下他地域でもあまり報告例をみない. 初節句42,は,当時最も盛んに行なわれた行事の一つだ-たことが『日記』からうかがわれ.
(8) /--メ. 74. 久木幸男・三田さゆり. る。. まずおあいの場合,. 8月生まれの彼女は生後6か月余で初節句を迎えたが,. 2月末から. 3月初めにかけて,つごう38人から祝賀の金品が寄せられている.この38人という人 数も相当多いが,その内訳ほ村内33人,他村親戚5人で,村内のうち11人が開口塾の 手習子およびその父兄であることが注目される48'o初節句には母方実家から雛人形を贈る のが「ありきたりの風44)+といわれ,おあいの母おとくの実家からほ内裏雛一対が届いて いるoしかし初節句の贈答ほ,. 「生れ子の世間-対する仲間入りを意味した45'+とも解釈さ. れているo関口塾に学ぶ子どもたちが祝儀を贈っている例ほ,この解釈を補強するものか もしれない。. 開口家ほ交際範囲が広かったので,他家の女児の初節句に際して祝儀を贈っている事例 が『日記』にほ数多く見られるoそのうち関口家が母方実家に当る場合を除いた諸例をま. 第3表. 女児初節句における関口家からの贈与例 贈. 金. 与. 1806. 年. 2. 月 28 日. 鶴見鍛治屋源助娘お幸*. 1808. 2. 月 27 日. 1809. 年 年. 2. 月 27. 日. 本宮おなつ娘 隣ひさ. 1811. 年間2月. 30. 日. 岸九右衛門孫*. 雄代500支. 晶. 雛代500文. 輿. 巻1,. p.5. 100文. 巻1,. p.121. 200文. 巻1,. p.166 p.6. 1813. 年. 3. 月 1. 日. 鶴見書兵衛娘りき. 離代300支. 巻2, 巻2,. 1815. 年. 2. 月 26. 日. 本官今出産お粂. 離代銀2朱. 巻2,. p.385. 1819. 年. 2. 月 30 日. 飯山油量孫娘. 雛代300文. 巻3,. p.369. 1823. 3. 月 1. 孫左衛門. 雛代300文. %4,. p.248. 1824. 年 年. 2. 月 29 日. p.388. 年. 2. 月 28. 日. 200文 雄代300文. 巻4,. 1827. 南次郎右衛門娘 和泉屋甚五郎娘. 巻5,. p.10. 1828. 年. 2. 月 4. 日. 登戸伝右衛門孫娘*. 巻5,. p.89. 1828. 年. 2. 月 4. 日. 大黒鼻おりえ*. 五人畔人形 雛人形(代3分). 巻5,. p.89. 1828. 年. 3. 月 4. 日. 竹山徳兵衛娘*. 肴代2朱. 巻5,. p.146. 1836. 3. 月 3. 日. 金弥盲人. 巻8,. p.ll. 1837. 年 年. 2. 月 29 日. 巻8,. p.133. 1840. 年. 2. 月 27 日. 次郎右工門孫娘 与次右衛門娘*. 200文. 巻9,. p.10. 1840. 年. 2. 月 27 日. 次郎右衛門孫はる. 300文. p.10. 1840. 年. 2. 月 27. 喜平次孫. 巻9, 巻9,. 1845. 年. 3. 月 1日. 1846. 年. 3. 月 3. 日. 紀伊国屋お高*. 1847. 年 年. 3. 月 3. 日. 1849. 2. 月 29. 日. 紀伊国屋三郎兵衛方* 鶴見幸吉*. 1849. 年. 2. 月 29. 日. 1850. 年. 3. 月 1日. 注). 日. 日. 鶴見幸吉娘*. 100文 文. 魚代300. 1先 金50疋. 雛代金2分 離代金100疋,交魚. p.201. p.10. 巻10,. p.. 141. 巻10,. p.. 311. 巻11,. p.. 123. 巻11,. p.. 220. 馬場久右衛門. 雛代50疋 雛代50疋. 巻11,. p.. 220. 大黒星孫きみ*. 雛料100疋. 巻12,. p.7. *は親戚。典拠は『日記』刊本の巻,貢。.
(9) 75. 19世紀前半江戸近郊農村における女子教育の一研究. とめたものが第3表である。初節句祝・雛代・肴代などの名で親戚の場合2朱-1分程度, 村内の場合100文-300文位が贈られている。これに対して贈与をうけた側が関口家の人 を招いて祝宴を催している例は『日記』には見出されない.関口家でもおあいの初節句に 際して, ,近隣-餅を配っているだけである46'oしかしおあい初節句の前日には饗宴の材料 と思われる食品が購入されており47',また初節句以外の雛祭の際にも同様の事例がみられ る48'。初節句と否とを問わず,雛祭には家族だけの祝宴を持つのが通例だったのであろう○ 初節句に当る女児のいない家にもたいてい女子ほおり,それぞれ内輪で祝宴を催したので あれば,とくに初節句に際して他家の人を招待することもなかったのかもしれない。した がって初節句においてほ,共同飲食に代って節句祝や餅などの贈答が「生れ子の世間ぺ対. する仲間入り+の東認を意味したのであろう。.そしておあいの場合,彼女-の節句祝の贈 与が子どもたちの名でなされたことほ,この仲間入りが具体的には子どもの仲間入りを意 味したものとも解せられようo仲間入りとほ,むろん子どもの一人として東認されたとい うことで,生後6か月の女児が実際に子ども組に加入したというのではない。後述のごと く当時の生麦村には子ども組が存在したのでほないかと考えられるのであるが,加入年齢 ほもちろん7才以上だったはずだからである。、港初め・七夜・宮参りなども,それぞれ 「世間へ対する仲間入り+を意味する儀礼であったが,それらが当時の生麦村ではかなり 意義を失なっていたのに対し,初節句は重い意味をもっており,それだ桝こ盛大に執り行 なわれたのである。 3.三才賀と七才筆. 3才. 初節句以後の女児通過儀礼としてほ,周知のように初誕生,. の髪置き, 7才の帯解きなどがある.このうち初誕生については,女児の与れが祝われた 記事が『日記』には全くみえない。おあいの場合だけでなく,第2表にあげた関口家関係 女児で生後間もなく死亡した3人を除くおこと以下6人についても同様であるoもっとも 初誕生は,初子の場合に親戚などを招いて祝われたともいわれている如'oもしそうなら・ 初子でないおあいについて初誕生祝いがなされなかったのは当然ということになろうoと ころが可書の初子であるおりえの場合にも初誕生記事はみえず,少なくとも最も近い親戚 である関口家の人が招かれた形跡もない。あるいぼ当時のこの地方では,女児の初誕生を 祝わなくなっていたのかもしれないo 『日記』 1834年(天保5). これに対しおあいの兄梅二の初誕生については,. 2月9日粂に「梅二誕生日二付,赤飯二而所々江送1)膳遣ス5¢'+. とみえる.東日本に多いといわれる51)力餅(餅背負い)が行なわれたか否かほ明らかでな いが,見逃し難いのは,梅二の誕生祝がその後も再三行なわれていることである占すなわ ち梅二3才(数え年)の1835年(天徳6)の『日記』には, 二月九日. 梅二誕生日二付,赤小豆飯製,近所-膳配ル52'. とあり, 9才の1841年(天保12). 2月9日粂には「梅二誕生日二付,小豆飯二而与次右. 衛門・源介二軒引膳,お萩も招請58'+,さらに翌1842年同日条には「梅二誕生日二相当り 小豆飯二而与次右衛門方江昼飯引際4)+とみえる(与次右衛門は関口家本家,源介は藤右衛門母 このはかの年に誕生祝が行なわれた の実家,おし例ま藤右衛門長女で当時生麦村本官に居住) o. かどうかは明らかでないが,梅二の父東作の場合も,その28才および30-32才に当る.
(10) 76. 久木幸男・三田さゆり 第4蓑. 年. 月. 1806. 年11月. 三才・七才賀における関口家からの贈与例. 扇. 日. 贈. 与. 金. 晶. 典. 拠. 3. 藤尾おふぢ. 1分2朱. 巻1,. p.27. 年11月12日. 7. 喜平次娘. 100文. 巻1,. p.94. 3? 鶴見源助娘*. 1分. 巻1,. p.95. 18 07. 年11月12日 年11月13日. 坂口星浅右衛門娘. 100文. p.95. 1807. 年11月14日. すさみ屋茂兵衛娘. 100文. 巻1, 巷1,. 1809. 年11月8. 本宮金平孫娘. 200文. 巻1,. p.206. 1810. 年11月. 7 日. 3. 縮緬禰祥袖(代銀3殺5分). 巻1,. p.262. 1810. 年11月. 7 日. 7. 本宮お常 藤尾おふぢ. 1分2朱. 巻1,. p.262. 1811. 7. 鶴見鍛冶屋お幸*. 2朱. 巻2,. p.52. 1812. 年11月18日 年11月10日. 7. おなつ娘. 100文. 巻2,. p.141. 1812. 年11月14日. 3?. 岸九右衛門孫おせん*. 200文. 巻2,. p.142. 1813. 年11月8. 3. 源助娘お八重*. 200文. p.244. 1813. 年11月10日. 7. 本官おまん. 100文. 巻2, 巻2,. 1815. 年11月11日. 100文. 巻2,. p.512. 1818. 年11月. 日. 3? 次郎吉娘おふみ 7 きりや仙之介娘. 100文. 巻3,. p.302. 1818. 年11月8. 日. 7? 鎌太郎娘はな. 100文. %3,. p.302. 1819. 年11月. 日. 3. 100文. 巻3,. p.434. 1819. 7? 次郎舌娘. 100文. 巻3,. p.435. 18 22. 年11月11日 3 年10月. 3. 竹山お延雀. 着類(代1両),半衿(代銀6匁2分). 巻4,. p.161. 18 23. 年11月12日. 7. 岸市五郎娘*. Soo克. p.295. 18 28. 年11月. 3. 和泉足甚五郎娘りえ. 2未. 巻4, 巻5,. 18 29. 年10月25日. 3. 登戸伝右衛門孫娘*. 3分. 巻5,. p.346. 18 29. 年10月26日. 3. 大黒屋おりえ*. 着類(代2両). 巻5,. p.347. 18 33. 年11月14日. 7. 清水久保おいよ*. 100疋. 巻7,. p.71. 18 41. 7. おとみ*. 緋縮緬福神袖(代3分). 巻9,. p.185. 18 41. 年11月1日 年11月15日. 3. 本官銀蔵孫娘. 1朱. 18 47. 年11月12日. 7. 200文. 巻9, p.186 巻11,p. 31. 18449. 年12月1日. 7. 村田産勘左衛門娘 今出屋おせい. 不明. 巻11,. 1807 18 07. 注)種別の3,. 2. 日. 日. 日. 8. 6. 7. 日. 日. 7,. 麦田屋市松娘. p.95. p.244. p.198. p.265. -はそれぞれ三才賀,七才賀および三才か七才か不明を,?は推定をあらわす。. 贈与先の*は親戚,準は関口家が母方実家に当る場合o典拠は『日記』刊本の巻,貢.. 1829年(文政12)および1831-33年(天保2-4)に誕生祝が行なわれている55).民俗学. 老の主張によると,近代以前の民衆の間でほ「誕生日を祝うのほ『初誕生』の時だけであ った56)+とされているが, 示している。. 『日記』の上引の記事は,この主張が必ずしも正しくないことを. 女子通過儀礼として初誕生が余り重要視されなかったらしいのとは反対に,髪置き,帯 解きほ生麦地域でも盛んに行なわれ,. 『日記』でほそれぞれ三才賀・七才賀とも呼ばれて. いるoそのうち関口家から祝いが送られた事例は第4表のとおりである.数的にほ三才賀.
(11) 77. 19世紀前半江戸近郊農村における女子教育の一研究. と七才賀がほぼ相半ばしており,一般にほ両者に軽重の違いほなかったように見うけられ る。開口家から贈っている祝いの金品にも,両者の差ほなかったようである。ただ三才賀 は,. 「延期+の名のもとに省かれることも時折あったo男児の例であるが梅二の場合がそう. であり57',ややのちのことになるが鶴見村草書(-孝吉,可書次男)の娘についても「七才 迄廻し侯58)+といわれているo. おあいの三才賀の記事も『日記』にほみえない。彼女が3才の1837年(天操8)には兄 梅二の五才賀が祝われたので,妹の分ほ「延期+,つまり省かれたのであろう。彼女の七才. 賀の記事は, 『日記』1841年(天保12). 11月15日粂に「お愛内祝ニ付,近所子供招キ赤. 飯振貯9'+とみえているo祝儀到来の記述はなく,彼女の七才賀が「近所子供+への「赤 飯振舞+を中心とするものだったことが判る。この場合は男子五才賀の場合も同様で,梶 二の時は・「近所子供・手習子供不残,自在餅振舞60'+と記録されているoこの時は餅2俵 11月2日の二掛こわたって赤飯用と 分が用意され,またおあい七才賀にほ10月30日, 思われる構米を香いているので61',招待された子どもが相当多数に及んだことが推測せら れる。当時の江戸における髪置き・帯解き(およぴ男子5才の袴着)については,. 「各あらた. に衣服をとゝのへ,産土神-話し,親戚の家々を廻り,その夜親類知己をむかへて宴を設 く8皇'+とか, 「町家に至りては男子女子とも粋と優美をつくしたる衣類を着飾り・帯・腰帯 の結びに至るまで好みをつくし,実母或いほ叔父母介添なし-打揃いて産神へ参詣する 樵,これまた大いに江戸の自負する出で立ちにて,御代の豊かさを知られたり63'+とか述 べられており,華美な衣服を着飾って神社-参詣すること,親族知人を招いて祝宴を催し, 挨拶廻りをすることなどが一般化していた.開口家でも享二・84'梅二の五才賀には親戚・ 近隣を招待しており,享二の場合にほ鎮守に参言旨した旨の記述がある餌'oまた第4蓑の莱 尾に掲げた今出産おせいほ父に伴なわれて挨拶廻りをしている66'oおあいの場合これらの ことが行なわれたか香かは明らかでないが,いずれにしても近隣の子どもたちとの共同飲 「小児. 食が中心になっていたことほ確かである.6里を隔てた江戸の場合とほ相当異なり, の祝は七才を以て最後とし,それからほ所謂る子供仲間-入ることになりますo即ち七才 までは神の子と云ほれ,この年を境として冷めて大人の世界-入る下準備が開始されるこ とになっていました87)+といわれる七才賀の本来の意義が,この地域でほ失なわれていな かったというべきである。 7才という年が「大人の世界-入る下準備+の始まる時期と見なされていたことは・梅. 二が7才の正月から父に代って村内-の年礼に赴いていることからもうかがわれるが68'・ 七才賀を迎えた開口家子女が直ちに子ども組に加入したかどうかを直接に示す記述は『日 「神輿彩 記』にほない。ただ梅二9才の1841年(天保12)砂山社の神輿が修復された際, 色ニ成,町内揃単物出来,梅二分壱反求秩入用+として1分2朱が支出されている事実 は69),梅二がこの時までに子ども組に加入していたことを示唆するものとも考えられる. またおあいほ1847年(弘化4). 13才の5月,母方実家神奈川紀伊国屋-預けられたが,. 『日記』同月18日条に「お愛より子供仲間江之文届ク70'+とみえている。この「子供仲間+ は,単に彼女の遊び友だち・倍古友だちア1'とも解せられるが,文字どおり子ども組の仲間と.
(12) 78. 久木幸男・三田さゆり. 解する余地もある.生麦村には後世まで子ども組が存在したらしい形跡があり72',梅二. おあい兄妹が子ども組に加入していた可能性は大きい。そしてもし19世紀前半の生麦村 に子ども敵が存在し,おあいたちがそれに加入していたのであれば,多くの地方でそうで. あったように・やはり7才という時期が加入時期だったと見なして差し支えないで奉ろう. しかしもし子ども組が存在しなかったにしても,叙上のように年始の挨拶廻りや手習など の椿古に入ることによって, 「大人の世界へ入る下準備+は7才以降に開始されている。い ずれにしても七才賀が子どもの成長過程において有した意味の大きさほ明らかであったと いうことができよう。. 七才賀以降の通過儀礼としては元服(成年式)がある。一人前のおとなとしての社会的 東認を受ける重要な儀礼の筈であるが,. 『日記』にはその記事が少ない。関口家女子の元 服例ほ藤右衛門三女おみつ(おなみ)の場合のみ73'(他に関口家下女の1例がある74,),男子 は梅二(満作)の場合だけである75'oその他享二執筆の「和気塾塾生日記+に彼の元服の記 事がみえるが78',それらによると男女とも元服はごく簡略に行なわれている。元服年齢ち おみつ18才(推定),享二17才,満作16才と区々であり,時期もおみつ8月,享二1 月,満作11月と,全然-敦していない。郷村共同体の中で営まれる儀礼という意味は大 きく後退しており,そのため他の子女の元服記事が『日記』に洩れることになったのであ ろうo女子は鉄渠つ仇男子は前髪を落すだけの,全くの個人儀礼化している感が深く, 娘組・若者組加入との関係も明らかでほない。元服を経ることによって万事おとなとして 過されたのか否かもまた不明である。. 4・小括-『日記』に現われた女子通過儀礼の教育的位置. 以上, 『日記』に現われ. た女子通過儀礼の諸相を,時にほ男子のそれをも参照しつつ概観したが,通過儀礼一般の 教育的ないし教育史的意義については,すでに先行諸研究が明らかにしているところであ つて,あえて蛇足を加えるまでもない。そうした一般論ではなく, でそれがどのような教育的位置を占めていたかを簡単に整理しておこう。. 19世紀前半の生麦村. その際何よりも注意しなければならないのは,出生後の三日祝・七夜から三才賀・七才 賀・元服に至る諸儀礼が,すべて同じ重要さをもっていたのではないということである。 『日記』に現われた範囲でほ,初節句と七才賀以外は多分に形骸化していたといっても, 決して過言ではない。通過儀礼ほ確かに子どもの成長の節目ごとに営まれるものではある が,その節目のいずれもがつねに同じ大きさ,同じ重さのものと見なされていたのではな いoある地域でほある節目が,他の地域でほ別の儀礼が,それぞれ重視されている。この 事実を看過し,各地の事例を単に列挙して,全体としてそのいずれもが同じ重さをもって いたかの如き印象を与える叙述がなされることが,従来往々にして少なくなかった。地域 と時代とによる差異をその要因とともに明らかにすることが,通過儀礼の教育的位置と意 義とを正確に把捉するために何よりも必要であろう。 伝統的儀礼のあるものを形骸化せしめる要因は多々あろうが,その一つに合理的思考の. 定着をあげることができよう。先述のように関口家で三日祝が延期されたのは,. 「寒気+ のためであった。三日祝は出生直後の危機をのりこえた新生児の生存権承認の儀礼と考え.
(13) 79. 19世紀前半江戸近郊農村における女子教育の一研究 られているが,寒気の中で抹浴さ. 第5義. 男子七才賀の事例. せる危険を冒してまでこの儀礼が. 開口家. 固執されなかったのほ,合理的思. からの 祝金. 考が伝統的慣行をのりこえた一事 例だといえる。. 共同体的諸関係の後退も,また 伝統的通過儀礼の形骸化を促した. 1808年11月25日 1818年11月9日. 本宮幸八. 1823年11月12日. 本宮伝七郎. 1846年11月15日 1850年11月15日. 隣喜多郎 鍛冶匡達次郎 本官喜平次孫倖. 一要因であろう。このことは,先. 述したとおり宮参りに対する村民. 輿 1,. p.. 156. ……^8o董 3,. p.. 301. 4, p.. 295. 10,. p.. 332. 12,. p.. 128. 荏)典拠は『日記』刊本の巻,貢。. の意識に分裂が見られたことにも. 現われているが,この地域で重視されていた初節句についてさえ,それを延期するケース が現われている事実からも,またたやすくうかがい知ることができる。延期理由は明白で すきみ. ないが,経済的理由に基づくものではないようである。延期したのが富裕な商人号慶安兵. 衛の一族和佐宗緊や浦名主十左衛門だからである77)。恐らく初節句行事の中心をなす贈答 についての共通理解が失なわれつつあったのであろう。 「小児の祝は七才を以て最後+といわれる七才賀に関してほ,初節句のように延期され た事例が見出されない。それどころかもともと五才賀が祝われた管の男子についてさえも, それを七才賀に改めている例がみられる。検出し得たのは第5表のごとく僅か5例にしか 過ぎず,かつ男女ともに七才賀を祝う地方のあることも知られているので7S),この地域で も古くから男子七才賀が存在したと考えられるかもしれない。しかし享二,梅二の時代ま でほ五才賀を執り行った関口家でも,梅二(東右衛門)の子英太郎・健次郎についてほ,. 五才賀をやめて七才賀を祝うようになっている79'.男子七才賀が五才賀に変ったあではな く,五才賀が次第に七才賀にとってかわられたのであろう。男女ともに7才以後に手習な. どの諸梧古に入ることが一般化する中で,こぅした傾向が現われたものと考えられる。つ まり7才以後は,子ども組加入による共同体的諸関係の中での教育が一方でほ継続される とともに,他方,諸椿古事などそれとは一応異質の教育段階に入るのであり,その大きい 節目に当る時期の儀礼として七才賀ほ重視されつづけたのであろう。 これに対して元版の本来の意味が稀薄化したのは,叙上の如く7才以降の教育に共同体. 的諸関係の中での教育とは異質のものが入っ七きたためであろう.諸捨古事の完了の時期 と元服の時期とは一致しないのが通常だからセある。おみつが元服したのは武家奉公を了 えた直後であったが,享二ほ和気柳斉塾在学中,満作は「手習農業等仕習+のため馬場村 久右衛門方に住込み中に元服している80)。元服がもともと共同体的諸関係の中での教育の. 完結を意埠したにしても,そのことが直ちに教育全体の終了を意味しなくなっていたのが, 19世紀前半生麦村の実情だったのである。しかしおみつの元服に近隣から祝晶が到来し ている事実や,他家男子の元服祝に藤右衛門が招かれている事例81)などからうかがえるよ うに,元服の社会的意味が全く消滅し去ったのでもない。このように通過儀礼の多くが形 骸化しつつもなお一応存続しつづけたのほ,共同体的諸関係が後退を重ねつつも全面的に.
(14) $0. 久木幸男・三田さゆり. ほ崩壊していなかっ'た当時の江戸近郊農村の状況の反映であり,通過儀礼ほその中でそれ なりの教育的位置を保持していたのであった。 注 1. 『新編武蔵風土記稿』. 66. (大日本地誌大系本,巻3,. 「享和三年生麦村明細+. 3. 『日記』天操7年10月4日(巻8,. 4. 『日記』慶応2年6月4日(巻16,. 5. 「文政十年六月橘樹郡生麦村明細帳+. 6. 『日記』文化3年12月20日(巻1,. 7. 『日記』「弘化二巳歳金銭出覚+ 12月29日(巻10,. 8. 『横浜市史』巻1,. 9. 『日記』「天保五年質覚,貸金覚+. p.. (『日記』巻1, p.. p・. 237).. 294).. 2. p.53).. p.20). (『神奈川県史』資料編,近世7,. p1. 597. f・).. p.33). p・. 307).. 583f.. (巻7,. p.. 267. ff.).この年の小口質貸は46両余,大口貸は. 168両余,合計215両余.当時の銭相場は1両-6貫700文である. 10). ll). 『日記』天保元年5月7日・6月6日・12月20日(巻6, 『日記』文化10年4月14日, 巻3,. 12). p.. 13). p.. p・33,. p・92).. 「文化十三丙午年金銭出入之覚+9月16日(巻2,. p・212,. 101).. 『日記』文政9年11月15日, %5,. p・26,. 「文政十一年貸方+閏6月21日,. 7月13日(巻4,. p・594,. 108ff.).. 『日記』文化7年6月8日,文化9年6月19日,文化10年12月22日,文化14年4月5 日,文政10年10月9日(巻1,. p.242,巻2,. p.110f.p.256.巻3,. p.148f.巻5,. p.66). 14. 『日記』文化8年3月7日(巻2,. 15. 『日記』文政6年3月27日(巻4,. 16. 『日記』天保4年12月5日,. 17. 『日記』天保5年3月9日(巻7,. 18. p・8). p・252). 7日,. 12日(巻7,. p.77ff・).. p・183). 生麦村には小島玄貞・玄弥父子,近村の鶴見村にほ小林玄英・岩村友益などの専門医師がい た.藤右南門が診療したのは軽症患者のみで,重症者はこれら専門医師に任せられていたよう. である. 上,. 19. 『神奈川県教育史』通史鼠. 20. 内田四方蔵「関口日記の研究(-)+. 21. 『日記』文政7年4月7日(巻4,. 22. 藤右衛門は尚貞を「飯田町先生+,. p・. 147. f・. (『郷土よこほま』61号,. 1971年9月,. p.. 28ff.).. p・397). 「飯田町師匠+と呼んでおり,尚貞死去に際しては葬儀に出. 席している(『日記』文化6年12月22日,文化8年4月30日,5月17日,巻1, 巻2,. p.18,. p.211.. p.20).. 23. 内田四方蔵「関口日記の研究(-)+. 24. 『日記』天侠6年8月20日,. 25. 『日記』文化4年5月10日(巻1,. 26. 『日記』文政10年7月13日(巻5,. 27. 『日記』文政3年1月6日(巻3,. (『郷土よこはま』61号,. 27日(巻7,. p.358,. p・66). p・51).. p.502).. p・360).. 1971年9月,. p・. 20)..
(15) 81. 19世紀前半江戸近郊農村における女子教育の一研究 28). 『日記』文政12年9月27日(巻5,. 29). 直江広治「農民の子-その誕生の周辺+. 30). 牧田. 31). 母子愛育会霜『日本産育資料集成』. 32). 『日記』文化4年5月17日(巻1,. 33). 大藩ゆき『児やらひ』 (ジープ社版). 34). 『日記』天操6年9月29日(巻7,. p・365)・. 35). r文政十年六月橘樹茄生麦村明細帳+. (『神奈川県史』資料鼠近世7・. 36). 『日記』天昧6年9月27日(巻7,. 37). 悶記』文政12年11月2日,天保4年3月9日好日記』巻5,. 38). p・338)・. (石川・直江編『日本子どもの歴史』. 3・ p・. 144)・. 73・. 茂『人生の歴史』p・. pi 382・. 366,. p・. p・67f・)I 126. p・. f・. p・. 598)・. p・364)I. p・348・巻7,. 『日記』文化11年9月21乱文政9年6月5日好日記』巻2・. p・361・巻4,. p・4)・ p・. 560)・. 134・. 39). 大藩ゆき『児やら&』 (ジープ杜版). 40). 『日記』天保4年5月23日(巻7,. 41). 母子愛育会編『日本産育資料集成』. 42). 母子愛育会編『日本産育資料集成』の「初節句+の噴にほ神奈川県下の報告例がなく・相模民. 43). 俗学会編『神奈川の民俗』,和田正洲『日本の民俗』 14,神奈川にもほとんど記述がない・ 28日, 27日, 「孫女愛初節句二而簾代到来之覚+倦8・ p・8ff・ 『日記』天保7年2月26日,. p・. p・26)・ 441・. p・. p.107). 79・. p・. 44). 桜井徳太郎『日本人の生と死』. 45). 大藤ゆき『児やらひ』 (ジープ社版). p・. 46). 『日記』天保7年2月30日(巻8,. p・10)・. 47). 『日記』天保7年3月2日(巻8,. 48). 『日記』文政10年・3月2日,文政12年3月1日(巻5,. 154・. p・11)・ p・11,. p・287)・. 470・. p・. 49). 『神奈川県史』各論編5,民俗,. 5()). 『日記』天株5年2月9日(巻7,. 51). 宮本常-. 52). 『日記』天侠6年2月9日(巻7,. 53). 『日記』天保12年2月9日(巻9,. p・碍)・. 54). 『日記』天保13年2月9日(巻9,. p・200)・. 55). 『日記』文政12年12月2日,天保2年12月1日,天保3年12月1日,天保4年12月1日. 「日本の子ども+. (巻5, p.356.巻6,. p・95)・. (『官本常-著作集』 8,. p・. 79)I. p・251)・. p・244,. p・76)・. p・416f・巻7,. 56). 直江. 57). 悶記』天保6年11月5日(巻7,. 58). 『日記』嘉永4年11月9日. (巻12,. 59). 『日記』天任12年11月15. 日(巻9,. 60). 『日記』天保7年11月12日. (巻8,. 61). 『日記』天保12年10月30. (石)ff.・直江編『日本子どもの歴史』3・. 広治「農民の子-その誕生の周辺+ p・370f・)・. 日,. 174).. p.. p.186). p.. 178).. 11月2日(巻9,. p.184f・).. 3) p・ 66・. 62). 斎藤月琴『東都歳事記』 (東洋文庫版,. 63). 菊池貴一郎『絵本江戸風俗往来』 (東洋文庫版). 64). 『日記』文化3年11月10日(巻1,. p・27f・)・. p・. 191・. p・. 159)・.
(16) 82. 久木幸男・三田さゆり. 65. 『日記』文化3年11月19日(巻1,. 66. 『日記』嘉永2年12月1日(巻11,. 67. 大藤ゆき『児やらひ』 (ジープ社版). 68. 『日記』天保10年1月1日(巻8,. 69. 『日記』天保12年5月27日(巻9,. 70. 『日記』弘化4年5月18日(巻11,. 71. p.29). p.265). p.. 213.. p.325).. p.97).. p.7). 『日記』「弘化二巳歳金銭出覚+ 12月19日粂に「-八拾文 p・. お愛犬筆求+とあるのは(巻10,. 305),遅くともこの頃からおあいが手習を始めたことを,また「弘化三丙午歳金銭出覚+. 月15日粂に「-金弐朱也. お愛三味線礼,藤星江連ス+とあるのは(巻10,. 7. 321),同じ. p.. く三味線藩古を始めたことを,それぞれ示している.なおこれに先立つ1842年(天保13. ). 関口家を訪れた知人が「子供両人墨筆+を土産に持参しており(巻9,. p. 207),当時すでにお あいが手習を始めていた可能性もある.なお「子供両人+のこの時の年令ほ,梅二10才,お. あい8才である. 72)生麦では子どもが活躍する蛇神の条が後世まで行なわれており,子ども組の存在が推定され る(高林倉之助「生麦の蛇条+,相模民俗学会編『神奈川の民俗』. p.. 73. 『日記』文政元年8月7日(巻3,. 74. 『日記』天侠12年11月22日(巻9,. p.187).. 75. 『日記』弘化5年11月15日(巻11,. p.142).. 76. 「和気塾塾生日記+文化15年1月16日(野村兼太郎「徳川時代の私塾生活+,. 308. ff.).. p.284).. 『むかしと今. と』p. 138). 77. 『日記』天侠6年2月28日(巻7,. 78. 柳田国男「社会と子ども+. 79. 『日記』文久元年11月10日,. p.181,. p.254). (『定本柳田国男集』15, p.. 230. f.).. 14日,慶応元年11月11日(巻14,. p.297.巻15,. 400). 80). 享二は1812年(文化9)から1820年(文政3)まで,すなわち11才から19才まで江戸 筑地和気塾に在塾し,満作は1844年(天保15)から1851年(嘉永4)まで,つまり12才 から19才まで馬場村名主久右衛門方に住込んだ.. 81). 『日記』文化5年10月18日(巻1,. p.152).. (久木幸男). ⅠⅠ開口三姉妹の武家奉公 1・奉公期間と奉公先 除桝f,. 通過儀礼がその節日々々をなした共同体の中での教育作用を. 19世紀前半の女子教育の分野としては,手習,裁縫,遊芸,および武家奉公があ. った。このうち武家奉公ほ,女子教育のいわば総仕上げの意味をもつ。奉公とはいっても 給金目当て,あるいほ「口減らし+のためのものではなく,いわゆる行儀見習を目的とす るものに限ってのことであるが-。. 武家屋敷に奉公にあがるためにはある程度の教養が必要で,その教養としては手習はい うに及ばず,とくに遊芸の噂みが要溌された。喜田川守貞の『近世風俗志』にも次の一文 がある。. p..
(17) 83. 19世紀前半江戸近郊農村における女子教育の一研究. 江戸は特に小民の子と雄ども,必ず一芸を熟せしめ,夫を以て武家に仕へしめ,武家 に仕ざれば良縁を結ぶに難く,一芸を学ばざれば武家に仕ゆること難し1) 守貞は「江戸の小民+といっているが,後述のように江戸近郊農村では,上層農民がそ の娘を武家屋敷に上げるケースが少なくなかった。しかるべき屋敷へ奉公に出るためにほ それなりに経費も多くかかり,富裕な農民でなければその負担に堪ええなかったはずであ るが,恐らく「良縁を結ぶ+ことを目的としてのことだったろうと思われる。関口家でも その娘たちを次々に武家奉公に出している.藤右衛門の三人の娘-おしげ・おちえ・お みつ,東作わ娘おあい,おしげの娘おこと,おみつの娘おのぶ,可吉娘おりえなどが武家 屋敷に奉公したことが, 『日記』から知られる。そのうち,おしげ・おちえ・おみつの三姉 妹のケースについてほ比較的詳しい記事が『日記』に残っているので,これをとりあげた い。. 『日記』の始まる1806年(文化3)には,次女のおちえがすでに奉公に上っている。こ の年,彼女は数え年10才である.当然長女のおし例まこれ以前に奉公に出ていたのでは ないかと推翻されるが, 『日記』の中でおしげの奉公についての記載が初めて現われるの は,. 1807年(文化4). 3月9日条である。 お滋江戸行,母義同道,長五郎供2). 奉公先が松平備中守屋敷であることは同年3月15日の記事から判る8)。この時彼女は 13才であった.約1年半後の翌1808年(文化5). 8月14日には松平屋敷を下がるが4),. その後次のようにたびたび奉公先を変えている。 01809*'(文化6)香-1810年(文化7). 3月6日(約1年). 01810年3月14. 日-1811年(文化8). 01飢1年4月15. 日-7月28日(約3か月). 01811年7月28. 日-1812年(文化9). そして翌1813年. (文化10). --芝新銭座観世新九肘'. 3月中旬(1年). --奉公先不明¢). --有馬様御部屋方7) 8月17日(約1年). ・-諏訪様屋敷8) 3月,数え年19才で結解している。この間約4年8か月, 5回の奉公に出たことになるが, 1806年以前から奉公に出ていたとすれば,奉公期間はつ ごう 5-6年,奉公回数は6回位ということになろう。 ある。他の2人の娘の場合ほ,. 1回平均1年前後という短かさで. 1回の奉公期間がかなり長い。. おちえが1806年以前から奉公に上っていたことは前にも述べた。奉公先が市ヶ谷にあ ったことは,. 『日記』同年11月16日条に「一昨十四日,母義市ヶ谷迄千恵迎二行,源左. 衛門供9)+,翌1807年(文化4). 3月. 25. 日条に「源左衛門,市谷ちゑ方江急飛脚二遣. しかしその後間もなくこ ス10)+とみえることから判るが,具体的な奉公先は判明しないo の市ヶ谷の奉公先を下り,次いで2回の奉公に出る。 01808年(文化5) 4月7日-1811年(文化8) 2月15日(2年10か月) --木下淡 路守隠居お次小姓11) 01812年(文化9). 5月23日-1813年(文化10)閏11月13日(約1年7か月). 笠原相模守屋敷12) その後帰宅したがまた出府し,結局1815年(文化12). 4月,おしげと同じく19才で. --小.
(18) 84. 久木幸男・三田さゆり. 結嬉している。1806年以後の奉公期間は5年半,. 1回平均2年弱ということになり,おし. げの2倍近い長さである。 三女おみつほ次の3回奉公している.. 01812年(文化9). 15日(8か月). 3月15日-1.1月. 01813年(文化10). 01815年3月16日-1817年(文化14). i. 1806. 年l. 1811. ④. (9. お. 旦⊥_ 望⊥. ?. 3. 月. 3月16日(2年). 1 18121. @i. Ji. 4看7. &. 尾. 8. 森. 3. 平. 月. 月月?. 月. 9. 雫. 14. 世 新 九. 6 14. 15塁28 哲17. 日. 守. 日. 壁. 日. レヂ. ①. 3. ^. 日. 日. 月. 育 ケ. 月. 月. 令. 7 日. ゝ. ズ.. 18131. 18141. 18151. 18161. 1817. 8. 日. 日. ② 4. --桜田相馬様御奥15). 月. @. お 3. -・・奉公先不明14). 5月18日(2年2か月). 1810 1 1808 f1809J. 1807. -・・下谷御徒士町横井栄三13). (文化12). 3月8日-1815年. 莱. 2. 5. 下 秩 路 守 障. 月. 月. ,T 空. 15. 23 日. 霜. 月. 日. 模. 13. 萱. 日. 壁 ①. お. 関 11. ②. (卦. -. 注)一. (. 事公期間(---一推定) 第2図. おみつの生年ほ明らかでないが,. S套ll. 3. 月井月. 月. 15$15. 8. 日一日. 日. )内は奉公先(?は不明). 3 ?. 月 16. 5. 高. 月. 塁. 18. 日. 日. ○内数字は奉公回数. 関口三姉妹の奉公期間. 1799年の「宗門人別帳16)+にはその名がまだ見えない. ので1800年以後の出生であることほ間違いない。結嬉したのほ1819年(文政2)で,柿 たちと同じくこの年が19才だったとすると,. 1801年生まれだと,. 1801年(享和元)生まれということになる。. 1807年に七才賀を祝った筈だが,. 『日記』同年11月条にはその記事. がない。しかし関口家でほこの時家星の改築が成ったところで,家兄振舞などを盛大に催 しており17),七才賀記事が記載洩れになった可能性が大きい。 1800年生まれだとすると七 才賀は1806年に当るが,この年ほ1802年生まれの享二の五才賀が祝われているけれど ち,おみつ七才賀の記事ほない。彼女の生年はやほり1801年と見て大過ないであろう。.
(19) 85. 19世紀前半江戸近郊農村における女子教育の一研究. そしてもしそう考えてよいなら,彼女ほ12才から奉公に出,正味4年10か月奉公した ことになる。. 1回1年半の平均である。. 以上を図示したものが前真の第2図であるが,三人ともかなり頻繁に奉公先を変ってい ることが判る。奉公といっても下働きではなく行儀見習なので,あまり長期間同じ屋敷に 奉公すると,特定ゐ作法ばかりが身についてしまい,後々かえって困ることがあったのか もしれないo. ことに関口家は農家であり,生活慣習の違いも少なくなかった筈である.そ. のため長期にわたって-か所を勤め上げることをせず,次々に奉公先を変えたのであろう。 その奉公先のうち,具体的に判るものを列記すると次のとおりである. くおしげ奉公先〉. ○松平備中守親明 ○観世新九郎. 能御役者. 小ツヅミ. 22万石. ○有馬中番犬輔頼貴 ○諏訪因幡守忠粛. 居城豊後杵築. 3万2千石. 3万石. 上屋敷外桜田18). 芝新銭座居住19). 居城筑後久留米 居城信州高島. 上屋敷三田町通20). 上屋敷木挽町原21). くおちえ奉公先〉. ○木下淡路守利虎. 居城備中足守. 2万5千石 2万2千石. 01ト笠原相模守長貴. 居城越前勝山. 上屋敷麻生広尾22) 上屋敷神田構外乞3). くおみつ奉公先〉 ○相馬因幡守樹胤. 6万石. 居城奥州中村. 上屋敷外桜田24). おみつ奉公先には, 他に下谷御徒士町横井栄三があり,旗本と思われるが石高などほ判 明しない。またおちえ奉公尭は『日記』には「有馬様御部星方+とあるのみなので,上記 の久留米藩主以外に,越前丸岡藩主有馬左兵衛佐誉純(5万石)あるいは,上総五井藩主. 有馬備後守久保-(1万石). 25'だったのではないかとも考えられるo. しかし三田村鳶魚も述. べているように,民衆の娘の武家奉公ほ「小大名なら直奉公も出来+るが,大奥や大大名. では「部屋方といって,長局にいる奥女中に使用される26)+のが通例であった。事実関口 三姉妹の奉公先は,この「有馬様+以外はすべて小大名や旗本であり,それらは直奉公で あったと思われる。これに対しておしげが「御部屋方+であった「有馬様+は大大名,具 体的には久留米藩主だったと見るのが適切であろう。. 2.奉公中の諸経費と給金. おしげが松平備中守-奉公に上った直後の『日記』に次. のような一文がある。. お滋蒲団井畳紙・枕・袷・鏡・下駄等,市場村伝次郎方-相療,江戸松平備中守様御 足敷加藤文五郎様迄屈ケ申侯27) ふとんから履物に至るまで,身廻品の一切をすべて実家で用意して送っていることが判 るoまたおちえが木下淡路守隠居に奉公した際にほ,. 「仕度代+. 3両が支出されている28)o. この3両の中には,上記のような身廻品の購入費のはかに,奉公党-の附け屈も恐らく含 まれていたであろう。このように行儀見習の武家奉公に出るためにほ,その準備段階から, 実家がすべてを整えなくてはならなかった。また奉公中にも,さまざまな物入りがある。 その主なものは衣服や身廻品,盆暮および季節ごとの届け物,そして折にふれての附け届.
(20) 86. 久木幸男・三田さゆり. であるoそれゆえ『近世風俗志』は, 「美服多く諸費を観ぎる女ほ大禄の家,或ほ上稗に 出す29)+と述べ,また国学者橘守部が自宅で面倒をみていた娘の両親に送った手続の中に も・武家奉公に出すと年200両の費用がかかるといっている80'.200両というのほ多分の 誇張のようではあるが・いずれにしろ武家奉公に相当の費用がかかったのは事実である。 もっともこれらの費用ほ, 『日記』でほ父藤右衛門や祖母おりえの出府費用などの中に含 めて記されていることが多いので,その金額を正確に算出することほ難しいが,判る範囲 で明らかにしてみよう。 まず正月にほたいてい藤右衛門が出府し年始の挨拶をしているが, えの奉公先と見られる「市ヶ谷+. 1808年の例ではおち. 「年頭年玉+として2朱を贈っている81).季節の届け 物ほ,夏・秋にかけて桃・梨・柿・栗などの果物や海産物(干物),農産物(蚕豆・肴など) -. を贈っていることが多い32'.梅干・焼米・餅・黄粉・小麦粉を進物にしていることもあ る83'o歳暮の贈物は『日記』に記載洩れになっている年もあるが,記録されている限りで は, 「御備二組・半切百枚・こんぶまき・里芋・きん平,切餅,鮒味噌漬,赤貝,ひらが4,+ と見えており,食品を主とした正月用品一式が贈られていることが判る。 また4月・. 5-6月,. 9-10月には,衣服の交換がなされる。季節外れで不用になった衣. 服ほ,すべて奉公先から下げておくのであるが,この時新調晶と取換えていることも多い。 例えば1811年にほ,おちえ用として8月に小袖代1両,. 11月に衣料費6両余が支出され. ている85'o衣服の交換や届け物は・人を雇って運んでいる場合もあるが,たいてい祖母や. 父の仕事になっている,。その場合ほ恐らく,奉公先の主人や上役への挨拶と附け届を伴な ったようであるoだいたい2朱位であろうか。祖母や父が出府する際にほ,最低1-2分. から2-3両を持参しているが,それらは自家用の男物のはか,こうした附け届や娘の小 遣に充てられたようであるoだいたい1月1回位の割合いで祖母が出府しており$6',その 主な目的ほ娘の奉公先を訪れることだったと思われる。佐に1回平均1分2朱を附け届や. 娘小遣に支出したとして,. 1年の合計は4両2分,それに衣料新調費,届け物購入費(自. 家産のものが多かっただろうが,果物・海産物には購入品もあったと思われる)を合すれば,年間. 所要経費ほ少なくとも6-7両(掛こ換算して40-50貫文)には達したであろうo■ 当時の関口家の家計状況ほ第6真のとおりであって, の5-6%に当る。その上1806-11年および13年にほ娘2人,. 40-50貫文ほ家計支出800貫文 1812年には3人が同時. に奉公していたから,単純計算すればこの時期の奉公経費が家計総支出に占める割合いは, それぞれ10-12%および15-18%となる。これは相当の高率だといわねばならない。 その上,奉公に上る時の支度金,奉公周旋老への謝礼,奉公下りに当っての挨拶料,さら に途中宿下りの際の土産代など,臨時の出費も少なくなかった。これだけの費用を負担す ることのできる裕福な家庭でなければ,娘を武家屋敷へ行儀見習に出すことなど,とうて い無理なことであった。それだ桝こ,娘にとっても実家にとっても,いわゆる箔がつくこ. とになり得たわけである。 したがってこのような武家奉公では,給金を貰うことを目的にほしていない。しかし給 金が支払われなかったのではない。. 『日記』にも僅か次の4例ながら給金の記事がある。.
(21) 87. 19世紀前半江戸近郊農村における女子教育の一研究 第6表 A.. 項. 1812年2-12月 貫 文. 禾. A,. 1813年1-12月 貫. 文. Bの平均. 貫. 文. 139, 229. 6. 140, 939. 7. 140, 084. 7. 子. 75, 539. 1. 166, 575. 7. 121, 057. 4 118, 183. 2. 無. 尽. 97, 425. 0. 138, 941. 3. 薬. 科. 19, 025. 0. 30, 100. 0. 24, 562. 5. 料. 15, 568. 4. 15, 148.1. 15, 358. 2. 他. 112, 554. 2. 108, 135. 1. 110, 344. 6. 459, 337. 7. 599, 839. 9. 529, 588. 8. 品. 228, 608. 6. 276, 911. 1. 252, 759. 9. 金. 148, 016. 1. 143, 661. 0. 145, 688. 6. 用. 189, 883. 4. 93, 000. 0. 141, 441. 7. 費. 101, 673. 1. 74, 668. 0. 88, 170. 5. 24, 246. 0. 12, 963. 4. 164, 653. 9. 138, 805. 0. 151, 729. 5. 848, 330. 5. 756, 541. 1. 802, 435. 8. 金. 580, 966. 3. 1, 159, 097. 5. 870, 031. 9. 金. 1, 026, 305. 3. 1, 964, 683. 0. 1, 495, 494. 2. 畑. 作. 小 の. そ A lコ. 計 用. 日. 尽. 無 出. 掛. 費. 府. 衣. 料. 費 令. 規. 1, 680.8. 達. 小 雑. 返. B.. 却. 売. 利. 釈. 開口家の家計. 貸. 計. 付. 済. 『郷土よこはま』 注)金1両-7貫文,銀1匁-119.5文(内田四方蔵「関口日記の研究(-)+, 61号, p. 23)として計算.物納の田小作料は,売却されて貨幣収入となるの 1971年9月, で除外した。なお1飢2年は『日記』の記載不備の1月分を除き,翌13年ほ閏年で13か月な ので,両年の平均分をも算出した。なお各年赤字になっているのは,収入に附落しがあるた めであろう。. ②1810年4月15日. ①1809年4月22日「-金弐分也. お萩給金,母買物ニ遣+. 「金壱両壱分也. 志け給金,右読取前々持参金壱両ト五百文ニ而. 千恵給金,伺弐分也. 都合金弐両三分五百文ニ相成侯内,金三分相返リ供ニ付,金弐両ト五百文之雑用ニ相成 供+③1810年7月20日「入金弐分也 也+ ④1811年4月19日「入金壱分弐朱. 母方より取,お千恵奉公中,小遣分預,給金 お滋給金入87'+. ぉしげの給金記事はすベて奉公に上った直後のもの,おちえの分は木下淡路守隠居に奉 公中のものであるが,いずれも給金が父藤右衛門の手に渡った時にのみ『日記』に記され ている。これらの時以外にも給金は支払われていたと考えるのが妥当である。金額は①③ および②のおしげ分が2分で,これがふつうだったようだ。支払われた時期ほ4月と7月 なので, 3か月ごとに2分ずつ,つまり1年2両が定額だったのであろうか。これほ,. 碑を中働きと云,中働き年給二両余88)+という『近世風俗志』の記述とも符合する(②の おちえ分と④は別だが)0. ∫. 藤右衛門に渡されなかった給金は,多分娘たちが小遣として費消したのであろう㌢oただ 奉公始めの物入りの多い時にだ机親元に預けたのであろう.娘たちの給金を・そのまま. 「上.
(22) 88. 久木幸男・三田さゆり. 江戸での買物などに母(藤右衛門母,つまり娘の祖母)が使ったとの①②の記述からも,そ のように考えられる.三女おみつの給金記事がないのは,彼女の奉公期間,とくに1814 年以後ほ姉たちが奉公をやめたため実家の負担も軽くLなり,したがって給金を親に渡す必 要がなかったからであろう。しかし優に全額渡されたにしても,. 6-7両と 1年2両では, 推定される経常的な奉公経費1/3程度にすぎない。結局,奉公の見返りとしては,行儀作. 法が身につくということ以外にはほとんど何もなく,少なくとも金銭的には実家からの持 ち出しが遥かに多かったわけである。 しかも実家関口家の苦労ほ,こうした経済的負担だ桝こはとどまらなかった。それは娘 を奉公に出した当初,奉公口の周旋・身元引受け・届け物の仲継ぎなどをする特定の「宿+ をもたなかったことであるoそのため衣服・道具を一々実家から運び込む煩しさがあった. だけでなく,奉公出替りの際,次の奉公口がすく叩こ見つからずに苦労することが多かっ た39)o開口家が「宿+をきめるようになったのほ1811年からで,おしげは芝金杉三丁目 近江星章兵衛を40),おちえ・おみつほ新川の糸屋中村庄蔵を41),それぞれ「宿+としてい る。もっともおちえが小笠原相模守屋敷に奉公する際には,芝宇田川町の翁屋伊藤七右衛 門を倣親としている42)。そのためであろうか,おちえは小笠原屋敷でほ比較的高い地位を 与えられたようである43).しかしその後,伊藤七右衛門の好ましくない「風聞+を耳にし た藤右衛門は,調査の上で養女縁組を解消,同時におちえに小笠原家から暇をとらせた44)o 「宿+の設定ほ上記の苦労を除いたかわりに謝礼など経済的な負担増をもたらしたが,仮 親も少なくともおちえの頃合,また別の心労を生み出すものだったのであるQいずれにし ても娘の武家奉公ほ,その親たちに大きい犠牲を要求するものだったといわざるをえな い。. 3・小括一女子教育の-分野としての武家奉公の意義. このように様々の犠牲を払. ってまで娘を武家奉公させたのほ,それが「良縁を結ぶ+ことに連なると考えられたから であろうが,奉公を了えた関口三姉妹ほ,それぞれ然るべき相手と結嬉した。すなわちお しげは鶴見村六郎右衛門と,おちえは江戸両国若松町川村松五郎と,おみつ(おなみと改 名)ほ江戸三田新網町竹山三郎兵衛と結解している45)o. このうち六郎右衛門は百姓代を勤. める富農で46),かたわら薪炭商を営んでいたようである47).また川村松五郎は米穀・醤油 商と考えられ48),竹山三郎兵衛ほおしげが暫く奉公した有馬家の出入商人だったらしい49)0 いずれも確かに「良縁+だったというベきであろうb. ところが当時の激しい経済変動のなかで,六郎右衛門・三郎兵衛はともに商売に失敗し, おし軌ま別居,おみつは離掛こ至っている50)o. またおちえは結婿後4年で夫に死別,さら. にその8年後に婿家を出た51)。三姉妹の結婿はいずれも不幸な結果に終っている。しかし それゆえに「良縁+でなかったとか,武家奉公の「効用+が疑わしいなどとほいえまい。. おしげほその後生麦村で水油商を営んでたくましく生き52),おみつほ馬喰町の書津山口星 へ再嫁するが53),娘時代の武家奉公の経験を直接活かしたのほおちえであるo彼女ほ将翠 家斉の寵臣中野播磨守清茂(石翁)に仕え,ついで中野の斡旋で本丸中老お美代の方繋星 方として,. 1827年(文政10)から足かけ13年間奉公する54).彼女に「永のお暇+が出た.
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