ローザンヌからクリンゲンタールまで
著者
藤原 佐和子
雑誌名
関西学院大学キリスト教と文化研究
号
22
ページ
73-92
発行年
2021-03-31
URL
http://hdl.handle.net/10236/00029455
はじめに
世界教会協議会(WCC)は2013年、釜山(韓国)における第10回総会で報告 した宣教と伝道に関する重要文書『いのちに向かって共に』(Together Toward Life)において、あらゆるいのちに男性たち、女性たちが共に仕えるインクルー シブコミュニティ(inclusive community)を展望している。このようなヴィジョ ンが必要とされているのは、端的に言って、「女性の参加」がエキュメニカル運 動における最古にして最大の未解決課題の一つであり続けているからだ。これ までの研究では、少なからぬ男性エキュメニカル指導者たちが女性の参加を「教 会の一致」に対する脅威と見なして繰り返し妨害してきた点や、「女性の按手」 (ordination of women)が最も教会を分裂させる(church-dividing)センシティ ブな問題と見なされてきた点について確認した2。そこで本稿では、これに関し て「最も創造的な場であると同時に、最も分裂的な場3」と評されるWCC、とり世界教会協議会(WCC)における「女性の按手」
1 ――ローザンヌからクリンゲンタールまで――藤 原 佐 和 子
1 本研究は、JSPS 科研費(20K12838)の助成を受けた研究課題「現代エキュメニカル運 動における包括的共同体に関する思想史研究」の一部である。同志社大学一神教学際研究 センター(CISMOR)リサーチフェロー研究会「教会は誰のためのものか-キリスト教、ジェン ダー、セクシュアリティ-」2020年12月12日(オンライン)における研究発表を加筆・修正した。 2 拙稿「世界教会協議会(WCC)における女性の参加」『日本の神学』(日本基督教学会)、59巻、2020年、26 - 48頁。Elisabeth Raiser, “Inclusive Community,” in John Briggs, et. al., eds., A History of the Ecumenical Movement, Volume 3, 1968-2000, WCC Publications, 2004, p. 253.「按手」の理解は諸教会間で異なる。本稿では便宜的に「按手」と訳し、必要 に応じて「叙階」と言い換える。
わけ信仰職制(Faith and Order)の潮流において、「リマ文書」として知られる 1982年の収斂文書『洗礼、聖餐、職務』の成立までにどのような議論が行われ てきたかについての歴史的経緯の整理、3つの主要文書の内容分析を試み、「女 性の按手」について論究する今日的意義についての考察を行う。
1 歴史的経緯
1-1 ローザンヌからウプサラまで(1927年〜1968年) エキュメニカル運動の歴史を紐解いていくと、「女性の按手」の問題が、その 端緒から長きに亘って提起されてきたことが見えてくる。1916年、英国教会のエ キュメニカル指導者ウィリアム・テンプル(William Temple)は「女性が按手を 受けるのを見たいと思う」と語っているが、それが教会の再一致(reunion)を後 退させるとの懸念から「(女性の按手よりも)再一致の方がより重要である」4と付 言した。信仰職制運動は1927年にローザンヌで開かれた第1回信仰職制世界大会 に始まるもので、400人の参加者のうち7人が女性であった。彼女たちは、女性 の役割について検討を求める声明文を起草し、教会と教会協議会における女性 たちの「正しい位置づけ」がすべての人の心と頭の中にあるべきであると主張 したが、初期の信仰職制運動はこの問題についてほとんど沈黙していた5。 1948年、アムステルダムにおける WCC 第1回総会において、信仰職制運動は 生活実践(Life and Work)運動と合流した。その際の全体討議では、ミニスト リーへの女性たちの完全な参加(full participation)という重要な問題について、 諸教会の間で合意のないことが明白となった。加盟教会の中には、女性たちは 教会のすべての役職に就く資格があるとする教会や、ミニストリーへの部分的 the Ecumenical Movement, 2nd Edition, WCC Publications, 2002, p. 856.4 Tanner, op. cit., p. 855. 括弧内は筆者による。
5 Constance F. Parvey, ed., Ordination of Women in Ecumenical Perspective: Workbook for the Church’s Future (Faith and Order Paper 105), World Council of Churches, 1980, p. 22. H, N. Bates ed., Faith and Order: Proceedings of the World Conference, Lausanne, 3-21 August 1927, New York, 1927, pp. 372-373を参照。
参加を認める教会もあれば、原則的には反対しないが「管理上あるいは社会上 の困難」6を懸念する教会、そもそもこの問題を検討する準備ができていない教 会があったのである。この時期からプロテスタント諸教会(以下プロテスタント) は「女性の按手」をたびたびエキュメニカルな議論の俎上に載せるようになる。 一方、ローマ・カトリック教会と正教会は自らの意思に反して強制的に議論に 引き入れられ、「聖なる伝統は明瞭かつ不変である」8という自らの信念に不当に 挑戦されているように感じ、このような動きが「教会の一致」を危険に晒すこ とを深刻に案じた。 1956年に聖公会の人々がカナダ合同教会に合流しなかったように、「女性の 按手」が教会合同の妨げとなることはあった。また、スウェーデン教会におい て1958年にフルミニストリー(full ministry)への女性たちの参加が認められ、 1960年に初めての按手が行われたことは、英国教会との相互陪餐を深刻に損な うのではないかと懸念された。カンタベリー大主教マイケル・ラムジー(Michael Ramsey)は当時、それがわずか30年ほど後に実現されると知ることなく、英国 教会で女性が聖職に就くには何百万年の何百万倍もかかると自信をもって発言 していた9。1961年、ニューデリーにおける WCC 第3回総会は、信仰職制委員会 にWCC「教会、家族、社会における男性と女性の協力に関する部門」(Department of Cooperation of Men and Women in Church, Family and Society, 以下「男女 協力部門」)との協力による「女性の按手」についての神学的、聖書的、教会論 的研究を要請する。ジュネーヴにおける会議(後述)を経て、1963年、モント リオールにおける第4回信仰職制世界会議に向けた研究文書『女性の按手につい 6 Melanie A. May, “Survey of Faith and Order Discussions on the Ordination of Women: A Retrospective Introduction to Future Work,” https://www.oikoumene.org/ resources/documents/faith-and-order-on-womens-ordination, accessed on November 4, 2020. W.A. Visser't Hooft, ed., The First Assembly of the World Council of Churches, Held at Amsterdam, 22 August - 4 September 1948, SCM Press, 2nd edition, 1948, p. 147を参照。
7 Raiser, op. cit., p. 241. 8 Tanner, op. cit., p. 856.
9 Sharon Jagger, “Could Feminists Save the Anglican Church?,” The Conversation, January 18, 2016, https://theconversation.com/could-feminists-save-the-anglican-church-53235, accessed on November 28, 2020.
て』(Concerning Ordination of Women)が作成された。モントリオール会議では 議論の進展がほとんど見られなかったと言われているが、これが「女性の按手」 に関する初期の主要文書であることは明らかである。 1-2 カルティニーからクリンゲンタールまで(1970年〜1979年) ますます多くの教会が女性を按手するようになったことを受けて、1968年のウ プサラにおけるWCC第4回総会では研究の継続が勧告された。男女協力部門のス タッフで南アフリカ聖公会のブリガリア・バム(Brigalia Bam)は、すでに女性 を按手している教会の経験に学ぶことを目的として、1970年にジュネーヴ近郊の カルティニーにおいて「女性の按手」に関する会議を開催し、その成果を『按手 はどのようになりつつあるか』10(What Is Ordination Coming to?)にまとめた。こ
れは、フェミニスト神学や解放の神学が導入され、女性たちが従来に比べて多く 発言するようになった時期に作成された、次なる主要文書である11。1971年、ルー ヴェン(オランダ)での信仰職制委員会では同文書が議論され、「女性の按手に 反対するという19世紀に亘る伝統の力を軽々しく無視することはできない。だが 教会では伝統が変わってきている。今この課題に向き合うべき時を迎えている」 12ことが認識されるようになった。一方、カルティニー会議において正教会から の唯一の参加者の声が十分に聞き取られなかったことへの反発から、感情的な議 論も巻き起こったという13。 1972年、マルセイユでの信仰職制委員会で「女性の按手」は「(この問題に 関連する教義上の立場はあるとしても)ほとんどのコミュニオンにとって、ミ 10 Brigalia Bam, ed., What is Ordination Coming To? Report of a Consultation on the Ordination of Women, Cartigny, Switzerland, 1970, World Council of Churches, Department on Cooperation of Men and Women in Church, Family, and Society, 1971. Raiser, op. cit., p. 251.
11 Natalie Maxson, Journey for Justice: The Story of Women in the WCC, WCC Publications, 2016, p. 73.
12 Parvey, op. cit., p. 24. “Faith and Order, Louvain, 1971: Study Reports and Documents,” Faith and Order Paper, No. 59, 1971, p. 93を参照。
ニストリーにおける女性の役割は規律の問題であり、教義の問題ではない」14と
考えられた。1974年、アクラでの信仰職制委員会では「一つの洗礼、一つの聖 餐、相互承認されたミニストリー」に関する収斂文書がまとめられ、「女性の按 手」はミニストリーに関する文書の「按手」の項目に位置付けられた。その後、 1978年から1982年にかけて信仰職制委員会に「教会における女性と男性のコミュ ニティに関する調査研究」(Study on the Community of Women and Men in the Church、以下コミュニティスタディ)が設置され、「教育と刷新」ユニット、 「教会と社会における女性」サブユニットとの協力が進められたことは重要な進 展であった。1975年、ナイロビにおける WCC 第5回総会の「教会と社会におけ る女性」部会では、「女性の按手に神学的な反対意見を持たない教会は、『エキュ メニカルな配慮』によって行動を抑止されないようにすること」15「女性を按手 している教会とそうでない教会は、女性の賜物の程度に応じて、ミニストリー への女性の完全な参加についての対話を続けること」などの勧告がまとめら れ、総会において可決された。このような動きに対してバチカン教理省は1976 年のInter Insignioresで、ローマ・カトリック教会は「男性のみの聖職」(all-male priesthood)という不断の伝統を変えることについて自由でないと宣言し、牽制 の姿勢を示した16。 信仰職制運動の誕生から50年を迎える1977年、クレト・ベラール(スイス) における信仰職制委員会では、「一つの洗礼、一つの聖餐、相互承認されたミニ ストリー」への諸教会の反応についてさらなる協議が行われた。「女性の按手」 についてのワーキングペーパーでは、「一部の諸伝統は、女性たちは洗礼を通し てイエス・キリストや神の民とミニストリーを完全に分かち合っているが、聖 餐のミニストリーを完全に分かち合ってはいないと述べている。このような区
14 Parvey, op. cit., p. 24.
15 Ibid., p. 25. David M. Paton, ed., Breaking Barriers: Nairobi, 1975: The Official Report of the Fifth Assembly of the World Council of Churches, Nairobi, 23 November – 10 December, Eerdmans, 1976, p. 309.
別の神学的根拠は何であろうか」17と率直に問いかけられた。1978年、バンガロー ルにおける信仰職制委員会では、正教会、ローマ・カトリック教会、復古カトリッ ク教会などの研究者の招集と、「女性の按手」に関する諸教会の立場についての 文書作成が勧告された18。 これを受けて、コミュニティスタディのスタッフで、アメリカ福音ルーテル 教会のコンスタンス・F・パーヴェイ(Constance F. Parvey)は、1979年にク リンゲンタール(フランス)で「エキュメニカルな視点から見た女性の按手」 (Ordination of Women in Ecumenical Perspective)に関する会議を開催した。 このときに初めて、女性たちの視点から「女性の按手」が議論されたとも言わ れている19。その成果は翌年、『エキュメニカルな視点から見た女性の按手』に まとめられた。これが「リマ文書」以前の最後の主要文書である。 1-3 シェフィールドからリマまで(1981年〜1982年) 1981年、コミュニティスタディを総括するシェフィールド会議は、「教会の過 半数は女性が占めているのであり、彼女たちは男性との協働のもとに教会の働 きに参加できるよう訓練され、備えられる必要がある」20との勧告文をWCC中央 委員会(ドレスデン)に送り、信仰職制委員会に対しては研究の継続を求めた。 この時期には、「女性の按手」に賛成するプロテスタントと聖公会の女性たちが 痺れを切らす一方、正教会はますます防衛的な姿勢を固めていった。フランス の正教会神学者エリザベス・ベルシージェル(Elizabeth Behr-Sigel)によれば、 正教会はプロテスタントにとっての「女性の按手」の重要性を過小評価しており、 自らの沈黙をプロテスタントから軽蔑の眼差しで見られていると感じていた21。
17 “Working Paper on the Ordination of Women,” in “Towards an Ecumenical Consensus on Baptism, Eucharist, and the Ministry: A Response to the Churches,” Faith and Order Paper, No. 84, 1977, p. 19.
18 Parvey, op. cit., p. 27.
19 Raiser, op. cit., p. 252. Parvey, op. cit., p. 3, 7, 27を参照。参加者30人のうち、女性が 18人であった。教会における「真のパートナーシップ」の探求において議論の的となっている「女 性の按手」について、共通のアプローチを模索することが会議の目的であった。
20 Maxson, op. cit., p. 26.
1982年、信仰職制委員会がその働きの最大の成果物として公にした「リマ文書」 において、「女性の按手」はミニストリーに関する章の主要部分では扱われず、 諸教会の立場がコメンタリーにおいて簡潔に説明されるに留まった。このよう な不明瞭な取り扱いに対し、一方の教会は「女性の按手」が率直に肯定されて いないと感じて失望し、他方の教会は「女性の按手」を肯定する暗黙の方向性 が含まれていると見なして反発した22。実際に、複数の教会指導者たちが「波風
を立てる」(rock the boat)ことになる「女性の按手」の問題を「リマ文書」で 取り上げないようにと圧力をかけていたことも分かっている23。
2.『女性の按手について』(1965年)
それでは、第一の主要文書『女性の按手について』に収録された「イニシャル・ ステートメント」、ジュネーブにおける会議報告、神学者たちからのインプット でどのような議論が展開されているかについて見ていこう。 2-1 イニシャル・ステートメント 「イニシャル・ステートメント」は WCC 信仰職制部門の研究主幹で、スイス の改革派神学者ルーカス・ヴィッシャー(Lukas Vischer)によって執筆された。 彼によれば、19世紀に「女性の按手」は周辺的問題として容易に却下されうる ものであったが、現在においてはそれは、教会はキリストにおいて「男と女も ない」という偉大な真実を適切に反映できているのかという根本的な問題とし て提起されているため、決して無視することができない。一方には、ミニストリー が男性だけに限られるべきことは明らかだと感じ、議論に躊躇をおぼえる教会 in the World Council of Churches 1948-1991,” Doctoral dissertation, Victoria University of Willington, 1995, p. 364.22 May, op. cit.
23 Michael Kinnamon, Can a Renewal Movement Be Renewed?: Questions for the Future of Ecumenism, Eerdmans, 2014, p. 62. マイケル・キナモンは、エキュメニストたちは「波風を立てる」 のが仕事であり、あらゆる議題は公平に扱われるべきであると反論する。
がある。しかし他方には、自らの教会論と聖書理解に照らして、「教会の秩序の 形態は決して最終的なものではない」24と確信している教会があり、時代状況の 変化に合わせて伝統の変更を考慮することによって、キリストに従順であろう としている。だがその場合でも、女性たちに(男性聖職者とは別の)限定的職 務を与えるに留まる教会もあれば、女性たちのフルミニストリーへの参加を当 然視する教会まで様々ある。 教会が互いに孤立しないようにすることが非常に重要であると考えるヴィッ シャーは、「女性の按手」を行う教会はキリスト教界の分裂を深めていると非難 する教会に対して、「聖霊は他の教会においても働いている」との認識に立ち、 他の教会における女性たちとの協力に学び、自らの姿勢を再検討するように呼 びかける。同時に彼は、「女性の按手」に反対する教会は「女性に対するリスペ クトが欠如しているのだ」と考えたくなる教会に対して、エキュメニカルな交 わり(ecumenical fellowship)という視点に立ち返り、他の教会が重じてきた連 続性の維持を真摯に捉えるようにと促している。ここで既に発見されていたのは、 「女性の按手」をめぐるエキュメニカルな議論は、単にイエスかノーかで答えら れる問題ではなく、教会論、聖書解釈、人間論などの様々な視点による検討を 要するが故に、各々が教会の本質とは何かを見つめ直す貴重な機会をもたらす という点である。したがって、「女性の按手」は「自らの意思に反して取り組む 『新たな困難』と見なされるべきではなく、むしろそれは教会のエキュメニカル な交わりにとって祝福となるかもしれない」25とも言い得るのである。 2-2 ジュネーヴ会議(1963年) 続いて掲載されているのは、WCC男女協力部門のスタッフでフランス改革派 教会のマドレーヌ・バロット(Madeleine Barot)が1963年にジュネーヴで開催 24 Lukas Visher, “The Ordination of Women: Initial Statement,” in World Council of Churches, Department on Faith and Order and Department on Cooperation of Men and Women in Church, Family and Society, Concerning Ordination of Women, Geneva, 1965, p. 2.
した「女性の按手-エキュメニカルな問題-」と題する会議の報告である。そ こでは、「女性の按手」はミニストリーについての理解の全体にかかわるものであっ て、フェミニストによる要求や少数の熱狂的な人々による煽動の結果と見なす のは誤りであると論じられた26。キリスト教の真理を現代のイデオロギーに順応 させる危険は避けねばならないが、社会的・文化的運動といった「世俗の運動 を用いて神が私たちにみ心を示されることもある」27と考えられたのである。 括弧付きの「男性の女性に関する聖書の教義」はフルミニストリーから女性を 排除しているではないかとの主張に対しては、新約聖書はすべての部分でキリ ストを証ししているのであって、教義体系の確立に関心を向けているのではない との反論が行われた。また、キリスト教のメッセージは、創造だけでなく終末に おける尊厳と価値の平等を語っているため、「教会はその起源との歴史的連続性 の中に生きているが、常に未来に向かって自分自身を新たに開き、終末論的メッ セージに新鮮な表現を与えるように神から招かれている」28として、教会の刷新 (renewal)が唱えられた。具体的な刷新の例としては、神が父と呼ばれ、キリス トが男性として受肉したことを根拠とする「教会のミニストリーの男性性」29(the
masculinity of ecclesiastical ministry)の放棄を挙げることができる。女性たちが 公的責任を負うことは「創造の秩序」に違反するとの主張に対しては、「女性の従 属性」は聖書そのものよりもキリスト教の伝統(Christian tradition)に根差すも のであると徹底的に反駁された。ジュネーヴ会議では、創造における男性と女性 の「相補関係」(complementarity)がパートナーシップの根拠とされたが、こ のような見方は後のクリンゲンタール会議において調整されることになる。 1960年代前半に強調されるようになったのは、ミニストリーと洗礼の密接な 関係性であった。受洗した女性たちは、洗礼によって与えられたすべての特権 26 “The Ordination of Women: An Ecumenical Problem (Report of a Consultation in Geneva, 10-12 May 1963),” in Concerning Ordination of Women, p. 5.
27 Ibid., p. 6. 28 Ibid., p. 7.
29 Ibid., p. 8. ジュネーブ会議において、聖書は三位一体の人格、「新しい人間」のイメージ であるイエス・キリスト、聖霊を性の領域を超えたものと見なしていると解釈された。
を他のキリスト者たちと分かち合っているにもかかわらず、彼女たちが按手か ら排除されるのは何故であろうか。多くの教会は、最初の十二人の使徒職が男 性だけで構成されていたことを理由に、「女性の按手」は教会の使徒的遺産を損 なうと主張するが、「使徒職の男性性」は、教会の未来をも支配する神の律法で はなく、人間の伝統(human tradition)に基づくのではないかと疑いうる30。見 落とされてはならないのは、十二使徒には女性だけでなく異邦人も含まれてい なかったが、教会はイスラエルに約束された栄光を広く分かち合うために、使 徒性(apostolicity)から異邦人を排除しなかったという点である。したがって、 使徒的遺産を守ろうとすればするほど、使徒的継承から女性たちが永遠に排除 され続けることにはなり得ない。このように、ジュネーブ会議は按手からの女 性の排除の問題をきわめて批判的に議論し、諸教会のいかなる判断をも「異端 と非難されることなく、聖霊の導きに従うための真摯な努力として受け入れら れることが大いに望まれる」31と結論した。 2-3 神学者たちからのインプット 同文書には、パリ・プロテスタント神学院のアンドレ・デュマ(André Dumas)、スイスの神学者で後にWCC会長を務めるマルガ・ビューリグ(Marga Bührig)らによる論文も収録されている。デュマは、「女性の按手」はある人々 にはフラストレーションや恐怖心を与えるが、初代教会においてユダヤ人と異 邦人との関係性に個人的な感情の問題が絡んでいたように、「人間の欲望や恐れ といった主観的なレベルではなく、神のみ心が何であるかという客観的なレベ ルで議論が行われることを願うべき」32であると主張した。彼は新約聖書の子細 な分析を経て、女性の排除は「聖典ではなく伝統に基づいている」33と結論し、 30 十二使徒の男性性には、十二人の族長・部族からなるイスラエルの構造が表現されてい るという。 31 Ibid., p. 10.
32 André Dumas, “Biblical Anthropology and the Participation of Women in the Ministry of the Church,” in Concerning Ordination of Women, p. 13.
「女性の按手」を世俗主義の影響としてではなく、世の光としての教会による創 造的な刷新として認識するように訴えた。 ビューリグは、新約聖書には「女性の按手」を拒否する根拠だけでなく、すべ ての職制(order)に関する根拠が無いと分析し、「女性の按手」は「主に教会論 の問題であり、社会学的、心理学的問題は、第二、第三のそれでしかない」34との 見解を明らかにした。「キリストの体」は常にこの世界に対する使命を視野に入れ ながら構築されているため、時代状況の参照を抜きにしては、いかなる教会論を も策定できない。また、ビューリグは、平等を求める女性たちの声の高まりがキ リスト教を基礎とする西洋世界から起こり、他の諸地域に広がっていったのは偶 然ではなく、福音の宣べ伝えの歴史的帰結であると捉え、第二波フェミニズムと いう新たな時代状況を肯定的に評価している。
3 カルティニー会議(1970年)
次に、第二の主要文書『按手はどのようになりつつあるか』を検討してみよう。 1970年当時、215の WCC 加盟教会のうち、約72の教会が女性を按手しており、 自らの召命を信じて按手を受ける女性の数も増えつつあった35。カルティニー会 議では、創造と贖いの計画における女性の「補助的役割」に関する伝統的解釈は、 もはや維持され得ないとの見解での一致が見られた。一方で新たに見えてきた のは、「女性の按手」を経てもなお、女性たちがリーダーシップを発揮したり、 意思決定に関与する機会がほとんど無いなどの実際的課題であった36。 3-1 按手を受けた女性たちの実際的課題 女性たちに対する差別は、未婚(unmarried)でいるように圧力をかけられたり、 34 Marga Bührig, “The Question of the Ordination of Women in the Light of Some New Testament Texts”, in Concerning Ordination of Women, p. 56.35 Bam, op. cit., p. 80. 36 Ibid., p. 2.
神学校を卒業しても「牧師の妻」となることを選択させられたりする例がその 典型であった。「独身の誓い」が義務付けられていない場合でも、国によっては、 既婚女性がミニストリーにかかわることは許されず、私生活を持たない理想的 な奉仕者のイメージは女性たちに偏って期待された。女性が同僚男性の半分の 給与しか与えられないこともめずらしくなく、彼女たちを独身にしておくことは、 教会にとって安上がりな選択であった37。また、女性たちが同僚男性から能力を 疑われたり、信徒から牧師同士の夫婦は異常で「人間的に劣っている」とほの めかされたりしていることも明らかになった38。そのため、彼女たちの中には、 女性牧師が当たり前として認められるようになるまで、「男性が大勢出席する集 会では、あまり多くを語らないように気を付ける」39ことによってサヴァイヴし ようとする者もいた。 しかしながら、按手を受けた女性たちが直面する問題の多くは、「女性」や「聖 職者」についての固定観念から逸脱した者に対する疑いの目と関係があるので はないかと推察された。また、平均的な男性よりも「優れている」ことを不当 に要求されたり、「女性の按手」に反対する人々から敵意を抱かれたりすること によって、彼女たちが自分自身を精神的に追い込んでしまうという問題も指摘 された40。 3-2 「女性の按手」のその先 興味深いことに、カルティニー会議のための準備文書を執筆したスコットラ ンド教会のイアン・M・フレイザー(Ian M. Fraser)は、過去20年間の議論か ら言って「女性の按手には、聖書的にも神学的にも何の障壁もなく」41、男性ば 37 Ibid., pp. 10-11. 38 Ibid., p. 48. 39 Ibid., p. 51.
40 Phyllis Guthardt, “Reflections on the Ministry, with Special Reference to the Problems and Opportunities of the Ordained Women,” in What is Ordination Coming To?, p.55-56.
41 Ian M. Fraser, “The Ordination of Women: Reflections on Theology and Practice,” in What is Ordination Coming To?, p. 17.
かりが聖職に就くことを支持してきた稚拙な神学的・聖書的釈義は一掃された と断言している。また、彼は過去数年間に、女性を按手するようになった教会 が「他の教会との合同交渉の際に障害となるのではないかという恐れには、全 くもって根拠がないことが明らかになってきた」42とも述べている。 しかしながら、先に触れたように「女性の按手」の実現は、問題の終結を意 味しない。例えば、チームミニストリーにおいて女性たちが同僚男性に合わせ る助け手の役割を課されている場合、男性支配は巧妙に肯定され続けているため、 フレイザーは「それぞれの才能に応じて女性を使用する」という議論は罠であ るかもしれないと警告する。そのような刷新なきミニストリーに少しの女性を 加えることは、聖職者支配的な既存の組織に数人の信徒を追加するのと同じよ うに、男性聖職者たちの体面を保つのには役立っても、「教会組織を抜本的に改 革しようとする聖霊の圧力に起因する神のフラストレーションに対処できない」 43のである。その背景にあるのは、未知なるもの(the unknown)、女性、信徒、 青年のポテンシャルという脅威に対する恐れであったり、按手を受けた男性以 外のすべての人々の「未熟さ」という奇異な信念であったりする。フレイザー もまた、教会が異邦人にまで拡張され、あらゆる国の人々が按手を受ける道が 開かれた点を重視し、人類全体(total humanity)への教会の拡張は「疑いなく、 人類全体への按手の可能性を開くための根拠である」44と述べている。 3-3 グループ報告 カルティニー会議では、「女性の按手」にかかわるミニストリー、心理的・社 会的要因、変革への取り組みについてのテーマ別のグループ議論が行われた。 以下にそのポイントを見ていくことにしよう。 42 Idem. 43 Ibid., pp. 17-19. フィンランドのレクター(lector)のような女性専用の職務をあてがわれた人々 は、男性たちと同じ地位を持たない自分を「どこにもいない人」と感じるという。 44 Ibid., p. 19.
①ミニストリー 10年前と比較して、「女性の按手」を支持する神学的議論の重みが感じられる ようになり、多くの教会ではその適切性を肯定する人々よりも、むしろ、反対 する人々がその証明の責任を負うようになったことが明らかになった。また、ジュ ネーブ会議に引き続き、洗礼を受けたすべての人々が祭司職(priesthood)を共 有するという万人祭司が、フルミニストリーへの女性の参加の根拠とされた。 エキュメニカル運動は「刷新の運動」であるため、諸教会には他の教会の決定 を尊重する準備が求められる。第二バチカン公会議の例に見られるように、教 会は一度与えられたものでありながら、今も完成(fullness)に向かって動きつ つあるため、「女性の按手」は動的な刷新のしるしとして理解できるのである45。 ②心理的・社会的要因 先に触れたように、按手を受けた女性たちの多くは好奇や疑いの目で見られ たり、ミニストリーにおいて従属的で二次的な存在として扱われたりするスト レスに晒されている46。しかし、「女性の按手」に付随すると考えられてきた問 題の多くは、職業に就いている女性たちや牧師一般に共通するものであるかも しれない。女性は肉体的・精神的に弱く、予測不可能、神経質でスタミナがな いなどの古い固定観念のゆえに、男性特権を持つ人の半分の評価を得るために、 女性たちは2倍の努力をしなければならない。彼女たちは自分の能力と大義とを 何度も証明することによって、奉仕する権利を周囲に認めてもらわなければな らないと感じさせられたり、結婚の可能性を否定されたり、女性性(femininity) を疑われたりしている。だが、教会と神学において共同体感覚と人間の全体性 の修復(restoration)に貢献できるのは彼女たちかもしれないとして、女性たち は「キリストへの愛と、教会と人々への献身という点において疑いなく平等」47 であると考えられた。
45 “Group Reports,” in What is Ordination Coming To?, pp. 59-61, 63-65. 46 Ibid., p. 65-69.
③変革への取り組み 教会と社会における女性差別は、人間性の剥奪(dehumanization)であり、 全能者への冒涜であると批判された。女性をはじめとして、「人々(女性であれ、 若者であれ、黒人であれ)」48の人間性を奪うことは、教会を麻痺させる毒を分泌 している。性によってキリスト者たちを厳格に分け隔ててきた教会構造の設計 者たる男性たちは、教会をこのままにしておきたいと思っている。しかし、こ のグループでは「正しいエキュメニカルな態度とは、ある教会が、他の教会が 動き出さないからといって変化を差し控えるのではなく、どのような点でも差 別は許されないと宣言し、いまだに差別を行い、実際に制度化している様々な 部分を真実に向かって説得しようとすることではないだろうか」49と問いかけら れた。
4 クリンゲンタール会議(1979年)
カルティニー会議から約10年後のクリンゲンタール会議において、「女性の按手」 の問題は、痛みを伴いながらも継続的な取り組みが必要であると考えられるよ うになっていたが、参加者の中には「女性の按手」の議論に飽き飽きしている 者もいれば、論争の真っ只中にある者も、問題を外から押し付けられていると 感じる者もいた50。「女性の按手」を認める教会も認めない教会も、自らのミニ ストリーの正当性を認めない教会との合同はありえないことと考えており、ロー マ・カトリック教会はこの会議への公式参加を拒否したため、信徒のみが参加した。 4-1 諸教会の立場 クリンゲンタールでは、諸教会の立場の違いがあらためて明らかになった。 英国教会は「女性の按手」を原則的に承認しながら、一致のためにそれを行わ 48 Ibid., p. 72. 49 Idem.ないことを決定していた。プロテスタントからは、女性を按手する教会をカトリッ ク教会や正教会が受け入れるか否かだけが問題なのではなく、今やその逆もあ りうるとの意見が提出された。復古カトリック教会は、聖体を受ける者が教会(す なわち花嫁、女性)であるとき、花婿たるキリストを代表する司祭は男性でな ければならないとして、聖体拝領における性的差異の重要性を主張した。正教 会ではどの教派もこの問題に関心がなく、無神論の脅威に対処する以外に夢中 になるべき問題は無いとの声も聞かれた。 一方で、第二バチカン公会議以降のヨーロッパや米国のローマ・カトリック 教会は、制度的に一致していながら神学的に多様があることが指摘され、ある 参加者は出版活動を行なっているカトリック神学者の90% は「女性の叙階」を 支持しているとさえ述べた51。プロテスタントからは、1936年から独身女性の按 手を行ってきたカナダ合同教会が20年後に既婚女性の按手に合意したことや、 西ドイツのルーテル教会ではわずか10年前に女性の独身条項が撤廃されたばか りであることが報告された。女性たちは独身である方が働きの場を見つけやすく、 牧師同士の夫婦によるミニストリーはまだ広く受け入れられていないことも指 摘された。 4-2 反対論と賛成論 クリンゲンタール会議では、「女性の按手」の問題にかかわる人々のために、 議論のポイントが聖書解釈と人間論、ミニストリーと祭司職、女性の性質、社会・ 地域社会の影響、現代の牧会実践、伝統、一致の7つに整理された。以下では、 とりわけ率直な意見が交わされた3つのポイントについて見ていくことにしよう。 ①聖書解釈と人間論 パウロは女性の任務を「男性の栄光を讃えること」であると考え、教父の大 多数がこの見解を支持している。しかし、彼が一方では、洗礼の神学(theology 51 Ibid., p. 11. デトロイトにて女性の叙階に関する第1回会議(1975年)が開かれている。
of baptism)という異なるモデルを提示していることや、ほかならぬイエス自身 が前例のない平等と敬意をもって女性たちとかかわったことを根拠として、女 性と男性は人間として対等な存在であると主張することもできる52。 ②女性の性質 神は男性と女性を相補関係(complementarity)において創造し、異なる賜 物を与えた。象徴的に男性は「父」「教会の頭」である神に対応するのに対し、 女性は「人間であるマリア」に対応するので、「教会の保護者であり、新しい命 のための道具」53である。これは根源的な存在論的差異であるので、不平等の問 題ではない。さらに、月経のある女性、結婚している女性、妊娠している女性 が聖餐を執行したり、礼拝をリードしたりするのは不適切だとの議論において は、「女性の生物学的アイデンティティは出産期を中心としたものであるため、 生涯を通して祭司職には不適当」54と考えられている。しかし、生物学的差異は あったとしても、女性と男性には共有する単一の人間性があるとする立場は、 両者を(いずれかが主・副となるような)相補関係よりも対等な相互依存関係 (interdependence)として理解する。何世紀にも及ぶ従属的社会化によって、 女性たちは才能の十分な発揮を妨げられてきたが、祭司職が男性性に囚われて いる状態から解放され、教会がよりバランスのとれたものとなるために彼女た ちは必要とされていると言うことができる。 ③伝統 「女性の按手」を認めようとした初代教会の異端グループは非難されたので、 「女性の按手」は前例がなく、必要性もない。伝統には柔軟性があり、常に更新 することもできるが、伝統に沿って継続的に行われる創造的な「刷新」(renewal) と、非連続的に行われる「革新」(innovation)は区別されなければならず、「女 52 Ibid., p. 29. 53 Ibid., p. 33. 54 Ibid., p. 34. 55 Ibid., p. 37.
性の按手」は神への不従順の極み(final disobedience)と見なされる55。他方、 過去と未来のバランスの中で「女性の按手」を肯定する人々は伝統を語るとき に聖霊論を重視し、「女性の按手」を教会を刷新するために働いている聖霊の本 質的なしるしの一つと見なす。 4-3 半世紀の議論を経て クリンゲンタール会議を準備したパーヴェイは同文書において、教会におけ る完全なパートナーシップという観点から見て、「女性の完全な人間性(the full humanity of women)を軽視した教会の一致はありえない」56とする声は、信仰 職制運動の始まりから半世紀を経てもなお、鳴り響き続けていると述べている。 クリンゲンタール会議は、教会間の意見が様々であることを痛感させるもので ありながらも、教会における女性差別の撤廃、「女性の按手」の議論、ミニストリー についてのエキュメニカルな会議への女性たちの参加の支援などの勧告を取り まとめることができた57。そして、ローザンヌからクリンゲンタールまでの50年 以上に及ぶエキュメニカルな議論の積み重ねが決して無益ではなかったことは、 翌年、英国教会、正教会、ローマ・カトリック教会が「女性の按手」について の正式協議に合意するなどの新たな諸展開に認められることになる58。
おわりに
2020年代の現在、日本におけるプロテスタント主流派の間で「女性の按手」 が当然視されるようになって久しいことを理由として、多くの人々は「女性の 按手」を既に終了した議論と見なしているかもしれない。あるいは筆者を含めて、 キリスト教があまりにも長くミソジニー(女性蔑視)と結びついてきている事 56 Ibid., p. 21. 57 Ibid., p. 41. 58 Ibid., p. 65. 同年、合同メソジスト教会(米国)が初の女性司教を、ケニア聖公会がアフ リカ初の黒人女性司祭を按手した。実から目を背けたいがために、この議論を避けてきた人々もいることだろう。 しかしながら、「女性の按手」をめぐる議論の歴史的経緯の整理と、3つの主 要文書の分析を経て言えることの一つは、インクルーシブコミュニティという WCCのヴィジョンに少しでも共鳴するところのある教会にとって、多くの人々 の想像よりもずっと深いレベルで教会に染みついている排除の問題と、「按手か らの女性の排除」というその典型例の検討を避けて通ることはできないという ことだ。そしてもう一つは、「女性の按手」をめぐるエキュメニカルな議論には、 幅広い角度から自らの教会のあり方を深く省みさせ、どのような刷新へと招か れているのかを真剣に問い直させる力がまだ十分に残されているのではないか ということである。 少なからぬ教会指導者たちが「女性の按手」に苛立ちや恐れを抱き、これを 問題視してきたのに対し、1963年のジュネーブ会議では、按手からの女性の排 除こそが問題であると批判的に考えられていた。1979年のクリンゲンタール会 議では、「女性の按手」は「教会の一致」を脅かすとの古くからの主張に対して、 女性の完全な人間性を軽視した「教会の一致」はありえないという長年の反論を、 なおも繰り返す必要があった。ここで疑問となるのは、「教会の一致」と言われ るところに生かされている人間とはいったい何者なのだろうかということである。 この問いにもっともよく答えているのは、教会による(女性を含む)様々な人々 の人間性の剥奪を告発し、人類全体への教会の拡張と「すべての人々への按手」 の可能性というインクルーシブなヴィジョンを示した1970年のカルティニー会 議であろう。そして、特に見落としてはならないのは、この時、既に「女性の 按手」に賛成する人々ではなく、反対する人々こそがその根拠の立証責任を負 うようになっていた点である。「女性の按手」をめぐるエキュメニカルな議論の 方向性に、今から半世紀前、このような重大な転換が起こっていたという事実 はいくら強調しても足りない。 そこで、今日必要であると考えられるのは、インクルーシブなヴィジョンを 思い描いてきた過去の議論を引き継ぎつつ、「女性の按手」における「女性」が 異性愛者のシスジェンダー女性に限定されてはならない点をはじめとして、過
去においては必ずしも十分な注意を払われずにきた論点を、諦めることなく明 確に問い直していくことである59。あらゆるジェンダー/セクシュアリティを生 きる人々が完全な人間性を認められ、洗礼を受け、聖餐にあずかり、按手を受 けられる真にインクルーシブな教会を思い描き、刷新のために働いていくことは、 エキュメニカルな議論の逆行が謀られない限り、もはやいかなる伝統、権威によっ ても妨げられないのではないだろうか。今後の研究では、WCCにおけるセクシュ アリティ(特に同性愛)をめぐる議論について論究していきたい。 59 「女性の按手」について論究する今日的意義は、プロテスタント主流派の立場から今なお「女 性の按手」に反対する人々の「不寛容」を非難し、彼ら彼女らに対して別なる(「エキュメニカ ルな」)不寛容をもって対抗することにあるのではない。