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本經聖判に照したる身延無間論並に日蓮門下宗新旧全敎團の墮地獄亡国論 (第九回日蓮宗教学研究大会紀要)

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Academic year: 2021

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(1)

一、法門可申抄︵定四四三︶に宜く、人には、尊卑上下の 別ありと雌も、親孝行より外に尊きはなし。釈尊は我等が 父母也。一切経は父母の孝養を教へたる教経也︵取意︶云 々と。観本抄の義に宣く、日蓮は教主釈尊の初発心の弟子 也云々と。妙密抄の義に宜く、日蓮は、いづれの宗の祖師 にも非云々と、然るに我が身延山にては、師匠たり父母た る釈尊を横の小堂へ押し込めて、弟子たり子たる日蓮を中 央の大殿堂にて本尊的祖師扱ひしでゐるとは、是れ法花総

を根本的に踏みにじりたる。大親不孝の大逆罪にあらず

や。 二、又宜く︵四四五︶本尊仏釈尊は、閻浮第一の贋王、聖 師、蟹父也。主師親の三徳を術へたる、親父釈尊の仰せを 用ひざる人は、天地の中に住むべき者には非ず。此の親不

日蓮門下宗新旧全教團の堕地獄亡国論

本郷聖判に照したる身延無間諭並に

竹田日澗

な地城を憶測すべきではなく、更にこれを如上の地域に限 定されるべきであると推論するのである。︵折込参照︶ 孝の人の住処をぱ、警楡品才三に説いて曰く、若人不信乃 至其人命終入阿鼻獄等云々︵取意︶閻淨第一の親不孝の悪 手本たる我が身延山は、是れ無間地獄の実状に非ずして何 ぞや。責任者たる法主、管長、宗務総長、宗会議員、大学 教授等の五者は、天地宇宙の間を澗歩すべき資格ありや否 や?.・ 三、法門可申抄︵四五三︶の現代訳を案ずれば、本尊と題 目とを現在に置き、戒聰だけを未来に延ばすが如き、三秘 即時に具足せざる片輪の法門は、三大秘法抄等の如き大偽 抄の示す所にして大悪法也。本門戒壇第一の戒師は日蓮其 人なるべし。六老僧等の末師の犯すべきものには非ず。戒 瑠には大小本迩の異りありと雌も、正法たる本門の教主釈 尊より、正法たる本門題目の血脈農茶羅を、授戒せられた る、身延の御草庵は、是れ、日蓮御在世より本門戒壇最初 の根本道場であったのである。曼茶羅は断じて本尊其物で はない本尊仏の御魂であり良薬の五字であり、本門題目其 物であるのである。神力別付の儀式として、末法に於て、 必ずなければならぬ所の、戒壇道場に於て本門題目授与証 たる本門題目の冠愛茶羅は、世々生々に主観的に頂戴し拳 々服潤すべきものであって、いかに百千萬円をかけた立派 な表装の掛軸であっても、必ず棺桶の中へ入れて賞はねば (理8)

(2)

ならぬものである。若も存命中だけ客観的に置き奉るとす れば五字の魂本尊として釈尊像の背後に奉安すべし。 四、諸宗異りありと雌も、仏教各宗は、悉く教主釈尊を以 て、正境本尊と仰ぐべし。多宝仏、十方仏は皆証明なるべ し。開目抄には、迩昔の多宝仏及び十方仏は、釈尊よりも 上席、又は並座同席也とあり。観本抄には、釈迦多宝十方 の三仏は二処三会として並座なれども多宝仏は宝塔品の末 から既に客仏となってゐるとある。来賓席の客仏たる証明 の多宝仏と、唯一絶待の御主人たる釈迦本尊仏とを、並座 並雁せしむる文字愛茶羅木像化の、一塔両尊三宝様式本尊 の如きは、一国二王、一天二日の大悪相である。宗門を哀 へさせ、国家を亡ぼすべき象徴である。 五、境智冥合に就て、十章抄の義に宜く、迩昔の境を捨て て木門の智を取るくし云々と。然るに境智冥合との悪宗学 たる悪熟語は御真蹟遺文にも無く本門八品にも無証文の事 である。何故に先哲学匠は釈迦多宝の二仏を並座並↓胴せし むるや。破良観等御抄に宣く、父母帥匠兄弟等の教訓なり とも用ふくからず。設ひ王の責めなりとも慨るべからず云 々と。 六、寿量神力の両品を注意して見よ。多宝仏は塔中の末座 にして囲鏡の数も僅少ならずや。宝塔品を百読せよ。多宝 仏出現の目的は本門聴法であり。迩門証明は其手段であ る。然るに先生と生徒をぱ並座同洞と見る汝の愚かさよ・ 不空三蔵の末流ならずや。咄! 七、師子身中の虫は師子を喰ふ。法花の仏法をば詩宗破ぶ り難し。法花宗の内に、事出で来たりて法花経をぱ失ふも のなるべし。是れ日蓮大聖人の遺言也。法花仏教の域不滅 は身延山にあるべし。身延山の王法たる釈迦本尊仏を域せ るが故に、米英と蘇連とは日本国を亡ぼさんとするのであ る。身延山の正法たる釈尊を失へるが故に、大天魔は、身 延山の住僧の身に入りて、山林を売り払ひ、宗門不和にし て御祈祷しるしなし。愛茶羅は本尊に非ず。中尊、別尊、 共に本尊也との本門八品の経証あらば、明示せよ。無経証 は是れ天魔外道ならず弾。良薬と六或示現とが、即ち、良 医であるとの如き、曲会私情を主張するならば、それは、 開目抄の金言に違反するものであり、不知恩の畜同学者で ある。昔の人師は蒙古退治の本尊と称し、今の某博士は米 英調伏の本尊と称した所の悪日蓮義の曼茶雑を以て本尊と した為に大東亜戦争には日本は見殊に敗けたのである。日 蓮聖人の御真筆曼茶羅と称して、宗務院へ登録されたもの が百廿三幅である。然し之は只の一幅も残らず悉く偽判、 偽筆である事、楠板愛祭羅の如し。

(3)

八、此の曼奈羅本尊を身に持ちぬれば王を武士の守るが如 く、上一人より下萬民に至る迄、悉く、悦び栄へ給ふべき 鎮護国家の大曼茶羅云友。との妙心尼抄や法花初心成仏抄

等の偽抄の金言果して奈何ぞよ!魂の腐り果てたる日蓮

宗大僧正の凡僧どもよ、汝の法花信心何処にありや!池

上御入域の聖地は、現実として裟婆即非寂光の大阿鼻地獄 を顕現せり。汝の日蓮宗は果して生きて働いてゐるか! 猛省せよせよ。次の第三次世界大戦には、身延山の、原水 爆を見る事よも疑ひなからん。増田管長の枇界立正平和運 動は、但だ、p計り言葉計りの立正にして、立正の正たる 正法の釈迦像本尊仏を正境に建立する事は聯かもなし。か るが故に、いかにいかに﹁戦争はごめんだ﹂と叫んでも、

好むと、好まざるとに、諭なく、次には又々大戦を迎へ

て、身延の山林も、堂宇も、悉く、裸にならん事、疑ふく くもあらず。 九、経文の如くならば教主釈尊と、上行日蓮大菩薩とは、 身延山久遠寺には、常住萱します事なし。諌暁八幡抄に宜 く、釈加仏を捨て奉るは、影を敬って体をあなづり、子に 向って其親を豊るが如し。八幡大菩薩は宝殿を焼き捨て、 天に昇り給ふとも、法花経の行者の正直の頭べに住み給ふ くし云々と。本仏本化並に、八幡大菩薩は、久遠の二字を 無視した所の、親不孝の山たる、身延の核神閣にはましさ ざるなり。釈迦日蓮の妙法魂は、竹田日澗の如き、正直の 頭べを以て、棲神閣とし給ふものなるぞよ・今の身延山は 全く、無神論の山也。 十、釈尊御自身の実行本尊は、始覚に即する本党の御自覚 であった筈である。曼茶雑の掛軸を以て本尊とした実例は 日蓮の存命中只の一度もなし、若もありと云はば文献を示 せ。聖域一九八年の人師の言などをなぜ信ずるか上行日蓮 大士御一生涯の実行本尊は、佐前、在島、身延とも釈迦像 一仏本尊であった事は、神国王抄、妙法尼抄、忘持経事等 の金言に依って卿かも動かすべからざるものである。観本 抄の文上は、明かに一尊四士であるが、文底は、一尊一士 である。次に出現すべき賢王等の本化の三大士は弥陀、大 日、薬師等の如く、未だ人間界に、・応生なき故に、形像表 現不可能である。但だ−名上行日蓮大士像のみ、可能であ るから、身延山にては、須らく、釈尊像をば、棲神閣の大 厨子の中央に祭り、本化四大菩薩の代表たる一名上行日蓮 脇士像をぱ、同一の厨子の中の、釈尊像の左横に入れ奉る べし。而して厨子の中央たる釈尊像の背後には本門題目の 曼茶雛を祭るべし。然らざれば、本仏本化の御魂も、巻属 の諸神も、身延の山へは断じて帰り給ふ事なし。若も日本

(15Q』

(4)

全国の寺檀共に御仏壇をして、斯く改めずんばいかに諸天 と雌も、日本国の次の戦禍を扶け得る事、断じて銀し。今 に見よ今に見よ。日蓮教の域不滅は身延山にあるべし。砂 川の大岡争なんど是れ日本国の内乱に非ずや。増田管長が 大慈大悲の灸治を以て、識告を告訴せざるは是れ、今古未 曽有の宗門の内乱に非ずして何ぞや。過税の苦悶と、寺樋 の単立とは、将に林立せんとしてゐる。内憂既にあり、外 患豈に来らざらんや。

A迷盲学者の曰く、八品の儀相曼茶羅即本尊が﹁来入末

法始此仏像可令出現歎﹂であるから、末法の本尊とは本門 八品の儀相たる曼茶羅即本尊である云々と。日澗曰く、八 品の儀相とは良医たる本門仏釈尊から、良薬たる本門題目 付属式の為体の儀相員茶羅であるから受茶羅は断じて、良 医たる本尊其物ではない。曼茶羅とは多元であって一元的 本尊の語義に該当せないものである。本尊仏たる唯一絶対 の良医釈尊を拝むべき多宝仏、十方仏、九界の衆生等の点 々たる集合体の存在を愛茶羅と言ふのであるから、断じて 断じて曼茶羅即本尊ではない。拝まれる所の唯一物たる良 医の釈尊を指して曼茶羅と云ふ事も変であり、同じく唯一 であるべき本門題目の良薬を指して曇茶羅である、と云ふ 事も当を得ない事である。拝まれる所の唯一絶対者を指し て本尊仏と称すべきであるのに拝んでゐる聴衆席の九界の 別尊をも本尊と称し、唯一の釈尊を拝みつつある十方仏や 多宝仏をも本尊として扱ふと云ふ事は、何と血迷った学匠 である事よ・ B迷盲学者の曰く、末法正意の本尊とは寿溌品の仏を中 尊の五字とする大曼茶羅也云々と、日澗曰く、本門八品並 に御真蹟遺文の何処に証文ありや。観心本尊抄に於ては、 ﹁本尊仏釈尊より本門題目付属式の為体たるや塔中の妙法 蓮花経也﹂であらねばならない。故に観本抄の流通文には ﹁妙法蓮花経の五字並に本門の本尊﹂とあるけれども﹁五 字即本尊﹂との悪義悪思想は本経聖判の何処にもない筈で ある。開目抄に宜く、無文無義不可信受云点と。十章抄に 宜く、真実の依文判義は本門に限る云々と。法本尊たる大 偽抄の本尊問答抄には、法師品、浬梁経等の迩昔の経証あ れども本門八品の文証絶無である。不空三蔵は寿量品の久 成釈尊をぱ阿弥陀仏也と称し、或は又両界の中央に法花経 を置いて本尊としている。所調、人法一如の法本尊である から現在の日蓮宗が寺も在家も皆一塔両尊三宝様式の本尊 を祭ってゐる事は是れ、真言亡国の本尊形に非ずして何ぞ や!。

(5)

C然我実成仏已来とは、祷量品所顕の報中論三の報身仏

であらねばならない﹁迩昔の経文は末は応報二身の無始無

終の顕本を説いてゐなととの開目妙の金言を信ずる限り

に於て、寿量品の仏は、断じて、法中諭三の法身仏ではな い筈である。

D迷盲学者の曰く、然我実の法身仏と然燈仏の始覚仏と

に簡んで宝号とする所の、首題の五字即本尊である云々と の如き邪見宗学は寿景神力の何処にも其証文を有してゐな いのである。

E﹁如是本尊在世五十余年無之﹂とは、如是き本化四大

菩薩の脇士たる釈迦仏一尊本尊は、仏在世には無之し、但 限八品のみ﹂であらねばならない﹁但限八口四とあるから 八品儀相の曼茶羅即本尊とは何たる早合点の曲会私情なる 事よ・己心の釈尊をば己心即釈尊だと誤解し、所化以て同 体也をぱ、所化即本仏だと曲解し、一念三千の久成開顕と 非情救済とを忘れて、単なる記小と有情のみの十界具足を 以て涛量品所顕の本体だと恩ひ込んでゐる新旧臼蓮門下宗 は何とおめでたい教団であらう。︵終り︶

▽+△▽+△

〃山路よりやまぢに暮れてけふもまた臥猪の床に宿せか らまし″と族を好んだ小川泰堂に、芭蕪や西行の面影が みられるが、居士が何故に旅人としての熱情を持ったかは 実に日蓮上人を知りまた世に知らせようとすることにあっ たので、自らの安心を命よりか、曲林一斧、本迩合鑑、成 仏道しるべ、摂折弁惑論、信仏報国論、教法万洲報布等に 見られるやうに只々大法弘通にあったのである。 其は慶応元年十月十三日の聖日に完成された、高祖遺文 録三十巻の最後の筆を棚くに、此冥薫大気なく海内に覆 い、利生化物の春の花、普く四維に蝶ぱしく広流万年の秋 の月遠く尽未来の闇を照さん、国土寧静にして四民安堵し 万物各々其所を得て寂光為土の大利益を証せんことを深翼 するのみ、泰堂考栄謹識とあるにみても窺へるのである。 藤沢の念仏門の家に生れ父孝栄天祐は遊行寺の植林の教 師でさえあった泰堂が、本化の教に浴したのは実に天保九 年二月彼が二十五才の時で、患家往診の途次たまノ、浅草 蔵前の古本屋に、持妙法華問答妙一冊を購い得たことが直

泰堂居士に就て

小 崎

雄 (152)

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