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儒家と法家・新中国と儒教 利用統計を見る

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全文

(1)

儒家と法家・新中国と儒教

著者

角田 幸吉

雑誌名

東洋法学

12

1

ページ

5-15

発行年

1968-09

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00006141/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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︿遺 稿V

儒家

と法家

 わが国においては、釈迦、孔子、基督は世界の三聖と仰がれ、その教えが人々によって信奉されて来た。ただ、井 上円了のみがキリストを除き、ソクラテスとカントを加え、孔子、釈迦、ソクラテス、カγトを世界の四聖として、 哲学堂を創建し、これを杞った。彼がキリストを除き、ソクラテスとカントを加えたことは、理由があるが、ここに はそれを述べない。  何れにせよ、わが国においては、孔子を聖人と仰ぎみたことには変りはない。殊に、中世日本の封建社会を規律す る上には、儒教は最良のものであった。だから、聖賢の道として人々に尊重され、わが倫理・道徳の大本とされたの であった。だが、儒教は修身斉家の道としては正しいものであるが、人を修めるの道は、同時に国を治める道となる ものではない。寧ろそれとは全く別なものである。  しからば、中国においては如何。私は儒家と法家とについて述べておきたい。 古い時代のことは略する。

  儒家と法家

近世中国における儒教は、まことに支配的であり、倫理、 道徳思想の中心をなしてい         五

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   東洋法学      六

た。君臣父子の道が強調され、政治機構の中核をなしていた.そこに、近世中国の悲劇があると云われる。  なぜなら、 ﹁礼は庶人に下らず、刑は太夫に上らず﹂とするのが、儒家の金言であるが、それはまことに非人道な ものである、治者はそれによって国を治めんとしたが.支那は四百余州を誇る大国であり.その間.言語、風俗.習 慣を異にする異民族が在しておむ.到底統一することが出来なかったからである.  そこであるときは、儒者から刑名法術の徒と軽蔑されても﹁法は権力者に阿らず.智ある者もこれに服し.力ある 者もこれに抗せず.貴き者も刑を免るを得ず.賎しぎ者も賞に漏れてはならない﹂と云う法家の思想が民衆に支持さ れ.儒教への反発となウていった.そこに中国の混乱があり.歴史がくり返されヅ、.中国革命の基礎となって.新中 国が成立したのである.  今の新中国に儒教の批判否定を心よしとせず郷愁を感ずるものがないではない、昔の官人が消滅したのは.中国の 最大なる不幸の一つだと云うのがそれである、確かに.清朝政府の官人たちの中には、磨きのかかった立派な紳士が いたようだ、彼らは.数世紀に亘る伝統と.教養と洗練とを身につけていた、彼らの容姿は美しいものであったらし い.けれども、それは個人として美しくとも.人格として立派であっても.治者として美しいものではなかった.  清朝の没落はそこにある.史記をみると、 ﹁衛后は孔子に接近し、市中の騎乗に彼を伴った、王と后とは共に並ん で座し、儒家が最も非難するような態度で市中をねり歩いた、ところが、市中の人々は孔子よりも、美しい若い后に 対して眼を注いだ﹂のである.そこで.孔子は﹁人は徳を敬うより以上に美を敬う﹂と云う有名な言葉を残して、民

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衆の軽蔑をあとに、その国を去り、他の有徳な統治者をさがして、旅にのぼったのであった。だが所詮、孔子はそれ を得られなかったのではないか。そのことが、何を意味するのであろうか。ある人は、それが法家の勝利を語るもの だと云っている。  人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず、と語った明治の先覚者福沢諭吉は、すぐれた教育家であったが、 すぐれた政治家でもあった。彼は儒教で養われた身分でありながら、後にきびしい儒教の批判者となったことが、そ れを証明すると云っていい。  小泉信三博士は、 ﹁人物再発見﹂の中で、 ﹁福沢の父百介は篤学篤行の漢学者であり、さらに福沢自身に対する儒 教の影響も、決して浅くないものであったが、それだけに、日本国民を儒教の束縛から離脱させる必要を痛感するこ とは、彼においていよいよ切実であったと云えるであろう。彼がある時代、今日から顧みて不必要と思われるほどに 孔子、孟子に対して反抗的、もしくは嘲笑的な言を吐いたのは、そのためであったと察せられる。彼が揮毫を求めら れて﹃巧言令色亦是礼﹄︵巧言令色亦コレ礼︶とか、 ﹃温良謙人侮﹄︵温良恭謙人ノ侮リヲ奈何セン︶とか、画いて人に与 えたりしたのも、その一端の現われであった。わざわざ註釈するまでもないことであるが、論語に﹃夫子ハ温良恭謙 譲以テコレ得タリ﹄とあり、また﹃巧言令色スクナシ仁﹄とある。福沢はそれに対するまぜっ返しをいったのであ る﹂と云っておられる。福沢は儒教の批判者となったが、福沢は単なる学者ではない。彼は常に社会に目を向け、そ の実体を知っていた。だから、こんなことにも気がついていたのであろう。よく云われる、法律は国家でつくられ、    儒家と法家       七

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   東洋法学      八

人々に配給される。しかし、道徳は国家や統治者がつくれるものではない。庶民によってつくられる。たとえ、主権 者が道徳をつくって配給しても.いつの間にか.庶民がそれを消して行く。儒教道徳もそうであって時代がそれを許 さなかったことを知ったであろう、  そればかりではない.修身斉家の道が直ちに治国平天下の道に通ずるものではない、その誤りが、長い鎖国政策と なり.顯本を後進霞家としたのであった、それを改めるのが.明治維新の大きな一つの仕事であった.  明治維新は.五個条の御誓文によって四民平等が宣告された.この御誓文は、儒教思想の否定の上に立つものであ ることは云う甕でもない、しかるに.政府は公侯伯子男なる新らしい特権階級をつくった.それを守るために.儒教 道徳の尊重が必要とされたのである.そこで.五個条の御誓文は.どこかへ消え去ったと考えたのではあるまいか. 小泉博士が云っておられる. ﹁今βから顧みて不必要と思われるほど孔子.孟子に対して反抗的な言を吐いたのは. そのためであろう。﹂  福沢が生まれたのは.天保五年︵一八三五年︶で.逝去したのは.明治三十四年︵一九〇一年︶である.さきに語っ たように.中国においては.儒教の外に.諸子百家が存しており.それぞれ自説を主張して譲らなかった.もとよ り.このことは.福沢の時代においてもそうであった.だが、福沢以前に.中国にあって.福沢のような儒教にきび しい批判を加えたものは見当らない、  中国革命の父と云われる孫文が生れたのは一八六六年で.没したのは一九二五年である.又、辛亥革命に大きな影 響を与えたと云われる梁啓超が生れたのは一八七三年で、没したのは一九二九年である。ともに福沢が誕生してか

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ら、三十幾年後のことである。  梁、孫は儒教にぎぴしく批判を加え、それを否定することによって革命を遂げ新中国をつくっていたが、儒教への 批判としては、わが福沢より後人であることを明らかにしておかねばならぬ。附言しておかねばならぬことは、私の 云う新中国と中共とは異なることである。

儒家と法家

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東 洋法学

一〇

新中国

と儒教

 従前.私は新申国については.法律制度を通してのみ.わずかに理解するにとどまウていた.   代議土として 国政に参与したときから.にわかに政治.   教育など.各般について.その理解が必要になってきた.その一端 をここにのべる、  一九三一年満洲事変が起り.翌年満洲国が建てられた.わが指導者たちは.満洲の建国は.八紘一宇のわが皇道宣 布につながるものだと主張したり、五族協和の王道楽土を、建設するのだと主張したりした、  事変はつづき混乱していった.それを解決する途は.β中文化の提携をはかる外はないとした。 ﹁揖本と中国との 親善の基礎は、儒教の復興である﹂と強調した。しかるにこの提唱は中国人になんの共感をも得られなかった.それ どころではない.この提言によって.中国人は一層強く排β、抗日運動を盛んにし.とどまるところを知らなかっ た.何故か.先ずそれを回顧せねばならなかった. 北一輝の﹁支那革命外史﹂を読み、孫文の﹁三民主義及自伝﹂を手にした。支那革命外史は、辛亥革命を知るため の貴重な文献であり、孫はその指導者であったからである。云うまでもなく、慈の思想は、棄舜の時代から孔子に至

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るまでの、中国の正統な道徳思想である。孔子によって絶たれていた正統な思想を発揚したものが、彼の思想であ る。しかるに彼の思想は、新中国人はうけ入れなかった。  その後、私は魯迅を読み、毛沢東を読んだ。そして彼らは、西洋の新思想をとり入れて、新生中国を造らんとして いることを知った。彼らの批判は儒教に向けられていた。私はすすんで幾冊かのヨー・ッパ近世史を繕いていった。  近世ヨーpッパは、中世の批判乃至否定として成立した。中世を特色づけた権威から、個性を解放することによっ て成立した。中世の葺ーpヅパの特色は、法王が絶対的権威をもって君臨したところにある。政権、王権までが、ロ ーマ法王に奉仕させられていた。元来、法王は、法庁の主であるから、その権力は宗教的な教化の範囲に、とどまる べきである。ところが、それのみではなく、自由たるべき学問の世界にも及んでいた。西pーマ帝国分裂後のp⋮マ 法王の所有する荘園は、当時の諸王のもつ領有よりも、はるかに多かった。それによって、法王のもつ権力が、如何 に大であったかを想像することがでぎる。  凡そ、一つの文明が行きづまると、それに対する不満は、原始時代へのあこがれとして現れてくる。一切のもの が、教会の手に独占された中世の暗黒に対する不満は、ギリシャ、pーマ古代への憧れとなって、現われたのであっ た。所謂ルネサンスが、それである。学問研究の自由が叫ばれ、教会の手から解放されていった。かくて、近世ヨー 泣ッパが、成立したのである。  ドイツの神学者マルチソ・ルーテルは、 ﹁基督者は、最も自由な萬物主であって、何者にも従属するものではな い﹂と主張し、法王の誤りを指摘してプ羅テスタンチズムを唱えて、宗教改革を叫んだのであった。

   新中国と儒教       二

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   棄洋法学

不幸にして、彼の主張は実現しなかったが、その波紋は. リスのカルビンによって、宗教改革が行われたのであった. の森の中に起り.近世の舞台は.イギリス人の手によって、        一二 全置−鶏ッパに及んでいった、そして・一五三五年イギ 人は.よくヨー犀ッパにおける中世否定の声は.ドイツ 開幕されたと云っている。  さて.ひるがえって申国を見る.古代申国においては.諸子百家が.それぞれ勢力を有して.その単が行われてい た、ところが.秦の始皇帝が.諸子百家のうちから.韓非子をとり入れて園学とし.諸制度をつくっていった.特 に.儒学を排斥し.或は儒者に弾圧を加え.経書を焼ぎはらつてしまった.儒書は全く世から滅却したかにみえたの である.  余談だが.中国史上.一介の小農民から身を起して皇帝の位についたものに.二人ある.  一人は漢の高祖であり.他の一人は.明の大祖朱元璋である.その一人である漢の高祖劉邦は、秦の始皇帝の没 後.各地に農民の叛乱があり、諸国諸侯がまた叛乱して世がみだれると.これに乗じて旗上げをする。油公となり、 漢王となり.遂に皇帝となって.漢朝を起したのであった。  高祖劉邦の政治は.法三章を唱え.他は秦制に則ったものであったが.それは、彼の本心から出たものではなく. 功臣褒賞の一時の便宜的なものであった。彼はまもなく.異姓功臣の王国を、同姓一族の王国に代えていった。それ ばかりではない。更に王国に対して.種々の制限を加え、将来の憂えなきに備えていった。  こうした高祖の採った王国に対する圧迫政策は、歴代の漢朝皇帝の踏襲するところである、

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 武帝は、君臣の道をただすために儒教を国学とした。 ﹁百家を罷瓢し、六経を表章した﹂のは、それである。わが 家康が、大将軍となるや、新に士農工商の階級をつくったのは、その間のこつを学んだものだと、云われている。儒 教は国学となり、孔子は文宣王と呼ばれて、神聖化され、その子孫までが街聖公と呼ばれて、聖跡あたりに長く栄え ていったのである。  こうして、儒教は漢の武帝以来、久しきにわたって国学として、国教として中国の人々に、信奉されてきたのであ る。されば儒教は、内容を批判するまでもなく、沿革に徴すれば、中国における貴族の御用学であると云わなければ ならない。  一九二年、中国に革命が起り、翌年、中華民国が成立した。革命の指導者であった孫文が、大統領とならず、軍 閥であり、官僚であった蓑世凱が、初代の大統領となった。彼は大統領になると、孔子廟を修復したり、孔子祭を行 なったりした。彼は、やがて皇帝になろうとする野心があったからである。国民も.孔子と皇帝との間に、かかわり のあることを知ることができた。  一九一三年。国会が開かれ。憲法が、起草されることになった。震世凱は与党をして、儒教を国教とせんとした が、野党の反対でそれは実現しなかった。その間、与野党の妥協があり、憲法第一九条で、 ﹁中華民国人民は、法律 の定むるところによって、初等教育を受くる義務がある。国民教育は、孔子の道をもって、修身の大本とする﹂と云 うものを、起草した。ところが蓑は、この草案は大統領の権限をせばめるのだと反対し、野党である国民党の議員

   新中国と儒教      コニ

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   東洋法学       一四

は、第二革命を志したので、混乱のうちに、この案は流産してしまった。  一九一四年、嚢世凱は大統領の権限を拡大するために、新約法なるものをつくって、専横を極めていった。かく て.中国の近代化が停頓してしまった.そこで、これまで革命に.身を献げて来た人々は.政治に望みをすてて、啓 蒙運動に転じていった.それが、新青年運動である.  機関誌﹁新青年﹂の主筆である陳独秀が、 ﹁青年に警告する﹂のなかで.中国の青年は.老成している.西洋人に は.若さがあるが.申国人にはそれがない.青年は初春でなければならない.百草がもえ出るが如く.人生の出発点 である、青年は.社会における新細胞である。新陳代謝は.天然淘汰の道である、新陳代謝がよければ.人は健康で あり.社会は豊かになり、人々は栄えて行く.しかるに.中国では.新陳代謝が活発ではない、これが中国をして各 国より落伍させているのである.中国の倫理.法律.学問、礼俗は.みな封建制度の遺物でしかないと語った。かく て、その批判は、儒教に向けられていったのである、  ﹁新青年﹂でとりあげられたものは、文学革命、国語統一、女子解放、教育改良.演劇改良.或は貞操.礼教.結 婚.親子問題などであったが.いちばん攻撃されたものが.儒教であり.孔子主義であった、  ヨー罫ッパにおける宗教改革をはじめとする新思想が.陳独秀、魯迅や毛沢東によってとり入れられ、儒教批判の 渕叢になっていたことも.そこに見のがすことはでぎない、

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 附  記 本稿は、先生が逝去される一ヵ月程前︵昭和四+一年二月頃︶ ︵走り書ぎ︶されたものである。 に東京築地の癌研究所附属病院にご入院中病室で執筆

編 集 委員

新中国と儒教 一五

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