《論文》 『善悪因果経』管見 │ 『東大寺諷誦文稿』 『日本霊異記』 『平家物語』など │
小 林 真 由 美
一 、
『善悪因果経』
『仏説善悪因果経』(一巻)の経説は、大変明解である。仏が舎衛国の祇樹給孤独園で説法をしたときのことである。弟子の阿難(阿難陀)が、世間の衆生には好醜・強弱・貧富・苦楽・貴賤などの違いがあるのはどうしてなのかと質問をした。仏は、先世の行いによって現身に千差万別があるものなのだと答え、因果応報のさまざまな例を挙げる。「今身に端政なるものは忍辱の中より来たる。醜陋なるものは瞋恚 の中より来たる」といった具体例の列挙がほぼ巻末まで続き、最後に、この経を『善悪因果』『菩薩発願修行経』と名づけ、この経を受持する者は菩提を得ると述べる。中国で作成された著者不明の疑経(偽経)である。仏教の因果応報思想は、善悪の行いの影響は子孫に及ぶと考える儒教倫理にも通じることから、中国社会に広く受け入れられた。『善悪因果経』は、中国における善悪因果応報思想の普及を背景に作成され、広く流布した。端的で単純な内容から、仏教の初学者にも容易に受け入れられたことであろう。牧田諦亮氏は、隋代をさかのぼる成立であろうと推測し、数多い疑
経類の中でも「中国人の生活意識にとってまことに適切明解な表現をもって説かれたもの」と評している (1)。経典目録の『大唐内典録』(六六四年)には経名がみられないが、『大周刊定衆経目録』(六九五年)の疑経目録、『開元釈経録』(七三〇)の偽妄乱真録には記されており、七世紀末頃には、疑偽経典として周知されていたようである。日本にいつ伝来したのかは不明である。正倉院文書には多くの疑偽経典名がみえるが、『善悪因果経』はなく、奈良時代以前に確かに伝来していたことを示す記録はない。
二、 『東大寺諷誦文稿』の引用経典
平安初期に成立した『東大寺諷誦文稿』は、『華厳文義要決』の紙背に記された三九六行の文章である (2)。昭和十三年に国宝に指定されたが、二十年に戦火により焼失し、十四年に刊行された複製本だけが現存する。内容は法会で朗読するための文章のようである。しかし、省略が多く、単語の羅列のみの箇所も多いため、朗読用の覚書というべきものである。さまざまな経典の言葉を用いて綴られているが、経典名が記されているのは、わずか七部である。『悲華経』『方広経』 『因果経』『摩訶摩耶経』(
41~
46行)と、
『千手経』(
323行)
、『華厳経』(
352行)、『金剛頂経』(
四経典の引用が並ぶ ものと思われる。 ことが目的であったため、正確な引用である必要がなかった は翻案による文章である。口頭で聴衆にわかりやすく述べる 経典の中に同文がなく、引用というよりも経文の取意、また 354行)である。すべてその
41~
46行は、三宝礼拝における身口意
の心構えを説く文言である。(傍線筆者)
必成无上尊 41 若有人於如来所合掌一称南无仏当来悲華経云
礼拝常見无量仏 42 方広経若人於三寶所不生信世々中不値仏生信云
禄高氏族而為一切人所尊 43 因果経昔世三寶所有恭敬心之人此世作封云リシハ
人為一切人所蔑 44 敬昔世於三寶所无恭敬之心人此世作貧窮下賤之ハ
思惟仏汝由多乱想 45 摩訶摩耶経礼仏時思念汝吾須臾頃无乱想令云ヲ 摩耶夫人
46 我将行五道生死令受雑形故須臾頃許我静令思仏ヲ
悲華経ニ云ク、若シ人ノ、如来ノ所ニ於 シテ、合掌シ南无仏ト一称スルコトアラバ、当来ニ必ズ无上尊ト成ラム。
方広経ニ云ク、若シ人ノ、三寶ノ所ニ於テ信ヲ生ゼズバ、世々ノ中ニ仏ニ値ヒタテマツラザラム。信ヲ生ジテ礼拝セバ、常ニ无量仏ヲ見ム。
因果経ニ云ク、昔ノ世ニ三寶ノ所ニシテ恭敬ノ心有リシ人ハ、此ノ世ニシテ封禄ノ高キ氏族ト作リテ、一切ノ人ノ為ニ尊敬セラレ、昔ノ世ニ三寶ノ所ニ於テ恭敬ノ心ノ无カリシ人ハ、此ノ世ニ貧窮下賤ノ人ト作リテ、一切ノ人ノ為ニ蔑セラル。
摩訶摩耶経ニ云ク、(摩耶夫人ノ)礼仏シタテマツリシ時ニ思念スラク、汝、吾ヲ須臾ノ頃モ乱想无ク仏ヲ思惟セシメタマヘ。汝、乱想多キニ由リテ、我ヲ五道生死ニ将行キテ、雑形ヲ受ケシメタマヒキ。故ニ、須臾ノ頃許ニ、我ニ静カニ仏ヲ思ハシメタマヘ。ここにみられる四経典のうち、『悲華経』と『摩訶摩耶経』は、曇無讖訳『悲華経』(十巻)、曇景訳『摩訶摩耶経』(二巻)として問題がないと思われる。正倉院文書にも経典 名が多見し、古来よく読まれた経典である (3)。しかし、『方広経』と『因果経』は類似の経典名が複数存在するため、考察を要する。「方広」は「広大な」を意味するサンスクリット語 vaipulya
、パーリ語vedalla
く普及していたようである。『日本霊異記』には、推古天皇 あるが、奈良時代において特に偽経と意識されることなく広 である。『開元釈教録』巻第十八の偽妄乱真録に載る偽経で 仏の名号を唱えて懺悔滅罪を行うことを説く、仏名経の一つ 成立年代・著者不明の中国撰述経典(疑偽経典)である。諸 『大通方広経(大通方広懺悔滅罪荘厳成仏経)』(三巻)は、 ている。 (下巻第四縁)がみえるが、『大通方広経』のことと解釈され 八・第十縁・下巻第四・第十四縁)、「方広大乗・方広経典」 時期に編纂された『日本霊異記』にも、「方広経」(上巻第 悔滅罪荘厳成仏経)』であろう。『東大寺諷誦文稿』とほぼ同 として『方広経』とされるのは、『大通方広経(大通方広懺 『方広大荘厳経』『大方広仏華厳経』などがある。だが、略称 典全体をさすこともある。「方広」を冠する経典名も多く、 十二分類したもの)の一つ(「毘仏略」)をさしたり、大乗経
の
漢訳語で、十二部経(経典をの代に方広悔過をおこなって両耳が聞こえるようになった者の説話(上巻第八縁)や、常に『方広経』を読誦していた妻帯の僧の説話(下巻第四縁)がある。『政事要略』には宝亀五年(七七四)に宮中で方広悔過をおこなった記録がある (4)。『大通方広経』に『東大寺諷誦文稿』
とあるが、不信を戒めるという文脈が共通している。 方広経』には不信にして仏法を誹謗する者は「地獄に堕」す 不信の者は世々に仏に出会うことができないとあり、『大通 次の文にやや似ていると思われる。『東大寺諷誦文稿』には 42行と同文はないが、
方広経ニ云ク、若シ人ノ、三寶ノ所ニ於テ信ヲ生ゼズバ、世々ノ中ニ仏ニ値ヒタテマツラザラム。信ヲ生ジテ礼拝セバ、常ニ无量仏ヲ見ム。
(『東大寺諷誦文稿』42行)
若し不信・軽咎・不敬の人、則ち此の十二部経を謗り、及び金剛色身を謗り、及び此の大士文殊師利を謗り、及び十方の諸仏を謗れば、是の人定めて地獄に堕して無虚なり。
(『大通方広経』巻下)『因果経』(た経典名だが、『過去現在因果経』と『善悪因果経』は、成 経』と『善悪因果経(仏説善悪因果経)』の二つがある。似 43行)と略称される経典は、『過去現在因果 『東大寺諷誦文稿』の 『過去現在因果経』であったと思われる。 は見えないので、『善悪因果経』(一巻)ではなく、すべて 十)には「四巻」とある。正倉院文書に一巻本の記録或五巻 『過去現在因果経』は通常四巻だが、『開元釈教録』(巻第二 書をみると「因果経」とだけあるものは五巻また十巻とある。 こちらの『過去現在因果経』とされることが多い。正倉院文 有名な経典であるため、『因果経』とだけ書いてある場合、 三上)、東京藝術大学本(巻第四下)などが伝存している。 (巻第三上)、旧益田家本(巻第四上)、出光美術館本(巻第 上品蓮台寺本・奈良国立博物館本(巻第二上)、醍醐寺本 挿絵を画き下半分に経文を書く『絵因果経』が作成された。 表的な仏伝経典の一つである。奈良時代に、料紙の上半分に 釈迦が自分の過去世から現在世に至るまでを解き明かす、代 求那跋陀羅訳『過去現在因果経』(四巻または五巻)は、 立も内容も来歴もまったく異なっている。
因果経ニ云ク、昔ノ世ニ三寶ノ所ニシテ恭敬ノ心ノ有リ 容に似ていると思われる部分である。 『善悪因果経』が近い。次の一文は、『東大寺諷誦文稿』の内 いが、前世の行いによって現世の身が決まるという主旨は 43行は、どちらの経典にも同文はな
シ人ハ、此ノ世ニシテ封禄ノ高キ氏族ト作リテ、一切ノ人ノ為ニ尊敬セラレ、昔ノ世ニ三寶ノ所ニ於テ恭敬ノ心ノ无カリシ人ハ、此ノ世ニシテ貧窮下賤ノ人ト作リテ、一切ノ人ノ為ニ蔑セラル。
(『東大寺諷誦文稿』43~
44行)
人と為りて高貴なるは、礼拝の中従り来たる。人と為りて下賤なるは憍慢の中従り来たる。
(『善悪因果経』)傍線部「下賤」という言葉も共通しているため、43~
44行
はこの経文の翻案として考えてもよいのではないだろうか。第一節で述べたように『善悪因果経』は中国では唐代の『大周刊定衆経目録』以後、偽経として一切経から除外されていたにもかかわらず、東アジアから中央アジアにかけて広範囲に伝えられた。『仏説因果経』として敦煌本(中村不折蔵本)が残存し、ソグド語・チベット語・モンゴル語などにも訳された (5)。敦煌文書『優婆塞戒経』巻第十一の願文に、隋の仁寿四年(六〇四年)四月八日の仏誕日に、亡父追善のために、『灌頂経』『優婆塞戒経』『観無量寿経』などとともに『善悪因果経』も書写したとある。十世紀の『仏説盂蘭盆経・摩耶夫人経・善悪因果経連写経』の紙背願文にも『善悪 因果経』の経典名が見える (6)。十仏事に写経をおこない、三回忌には『善悪因果経』を書写したとある。この二つの文書は時代が隔たっているが、『善悪因果経』が追善供養のために書写される経典であったことを示している。仁寿四年四月八日楹雅珍為亡父写灌頂経一部」優婆塞一部善悪因果一部太子成道一部」五百問事経一部千五百仏名観無量寿」経一部造観世音像一躯造四十九尺幡一口」所造功徳為法界衆生一時成仏
( 『優婆塞戒経』巻第十一(
P.2276
)願文)弟子朝議郎検校尚書工部員外郎翟奉達為亡過妻馬氏追福毎斎写経一巻標題如是第一七斎写无常経一巻 第二七斎水月観音経一巻第三七斎写呪魅経一巻 第四七斎写天請問経一巻第五七斎写閻羅経一巻 第六七斎写護諸童子経一巻第七斎写多心経一巻 百日斎写盂蘭盆経一巻一年斎写仏母経一巻 三年斎写善悪因果経一巻右件写経功徳為過往馬氏追福奉請龍天八部救苦観世音菩薩地蔵菩薩四大天王八大金剛以作証盟一一領受福田往生楽処遇善知識一心供養
( 『仏説盂蘭盆経・摩耶夫人経・善悪因果経連写経』
(
P.2055
)紙背願文)『善悪因果経』の巻末に、この経典を受持する功徳が説かれているために、追善供養の写経が行われたのであろう。在家信者に内容が理解しやすく、一巻という手軽さもあり、民間仏教の場で実用的な経典だったと想像される。そのため、正式な一切経からは偽経として除かれながらも、広い地域に伝えられたのであろう。『東大寺諷誦文稿』には追善供養の文句が多く、在家者も多く集まる法会で読まれた文章であったと思われる。42行の
『方広経』も偽経で、仏名懺悔の法会に用いられる経典である。
45行の『摩訶摩耶経』は釈迦が忉利天で亡き母摩耶夫人
に会って説法をするという内容で、追善供養に読まれるにふさわしい経典である。おそらく、これらの経典は追善法会などで読誦されることが多かったので、『東大寺諷誦文稿』の筆者は聴衆にとって耳慣れた経典を引いて、法話の草稿をしたためたのであろう。『善悪因果経』の受容形態がうかがわれる資料である。
三、 『日本霊異記』と『善悪因果経』
『日本霊異記』上巻第十八縁と中巻第十縁の二話に、『善悪因果経』が引用されている。『東大寺諷誦文稿』の成立は天長年間(八二四~八三四)頃と推測されるので (7)、現存本が弘仁年間(八一〇~八二四)成立の『日本霊異記』の方が少し早く、『善悪因果経』の初出であると考えられる。上巻「法花経を憶 おぼえ持 たもちて現報を得奇しき表を示す縁」第十八。『法華経』を子供の頃から読んでいた人が、大人になってもどうしても一文字だけ覚えられなかった。すると夢の中で、前世でその一文字を焼いてしまったために覚えられないのだと言われた。夢で教えられた場所に行ってみると、夢の通りの家があり、まさしくその一文字が焼けた経典があった。その経を修理すると、経文をすべて覚えられるようになった。そして、前世で両親であった者たちにも、現在の両親にも孝養を尽くしたという説話である。
賛に曰はく「善きかな日下部の氏、経を読み道を求めて、過現の二生に重ねて本の経を誦み、現に二 ふたりの父を孝 うやま
ひ、美き名後に伝ふ。是れ聖なり。凡にあらず」といふ。
誠に知る、法花の威神と観音の験力とを。善悪因果経に云はく「過去の因を知らむと欲はば、其の現在の果を見よ。未来の報を知らむと欲はば、其の現在の業を見よ(欲知過去因、見其現在果、欲知未来報、見其現在業)」とのたまふは、其れ斯れを謂ふなり。
(『日本霊異記』上巻第十八縁)傍線部の引用文は説話の中で、前世と現世にわたる不思議なできごとを因果応報思想によって説明する役割を果たしている。『日本霊異記』中巻「常に鳥の卵を煮て食ひて現に悪しき死の報を得る縁」第十にも、『善悪因果経』の引用文が見られる。鳥の卵をいつも食べていた男が、知らない兵士に麦畑に連れて行かれたところ、男の眼には麦の穂がすべて火に見え、男は走り回り泣き叫んだ。その様子を不審に思った村人が畑の中から助け出すと、男の足は本当に肉が焼けただれ、骨ばかりになっていた。涅槃経に云はく「また人と獣との尊と卑との差別ありといふとも、命を宝 たふとび死を重 はばかることは二 ふたつ俱 ともに異なること無し」とのたまふ。善悪因果経に云はく「今の身に鶏の子を焼煮ば、死にて灰河地獄に堕ちむ」とのたまふは、 其れ斯れを謂ふなり。
(『日本霊異記』中巻第十縁)諸注釈書が指摘するように、傍線部は『善悪因果経』に同文がある。今身に鶏子を焼する者は死して灰河地獄の中に堕つ。
(『善悪因果経』)一方、前掲の上巻十八縁の傍線部の引用文は『善悪因果経』にはなく、『諸経要集』と『法苑珠林』にあることが指摘されている (8)。それぞれ二箇所にほぼ同文がある。「見其」が「当観」「当看」「但観」に、「未来報」が「未来果」に、「現在業」が「現在因」にという異同がある。夫貧富貴賤。並因往業。得失有無。皆由昔行。故経言。欲知過去因。当観現在果。欲知未来果。当観現在因。
(『諸経要集』巻第六、貧賤部第十一、述意縁第一)如斯之苦。皆由前身不施劫盗中来。故経曰。欲知過去因。当看現在果。欲知未来果。但観現在因。
(同、巻第十四、十悪部第二十三、偸盗縁第二)夫貧富貴賤。並因往業。得失有無。皆由昔行。故経言。欲知過去因。当観現在果。欲知未来果。当観現在因。 (『
法苑珠林』巻第五十六、貧賤篇第六十四、述意部第一)如斯之苦。皆由前身不施劫盗中来。故経曰。欲知過去因。当看現在果。欲知未来果。但観現在因。
(同、巻第七十四、十悪篇第八十四、偸盗部第六)『日本霊異記』は、『諸経要集』からの引用や孫引きが多いことが指摘されているので、上巻十八縁は『諸経要集』からの引用であった可能性が高い。中巻第十縁では原文を引用しているので、景戒の身近に『善悪因果経』があったと思われるが、それにもかかわらず『諸経要集』の文を『善悪因果経』として引用している。『善悪因果経』という書名が内容にちょうどあてはまるために、『諸経要集』の「故経言」の「経」を『善悪因果経』としたのであろうか。古代の文献で『善悪因果経』の書名が見出されるのは、『日本霊異記』と『東大寺諷誦文稿』のみである。両書の成立はほぼ同時期で、景戒も『東大寺諷誦文稿』の筆者も法相宗の僧といわれている。『善悪因果経』が、当時の法相宗僧徒の周辺に存在していたことがうかがわれる。奈良時代を通じて一切経目録として使用されていた『開元釈教録』に、『大通方広経』も『善悪因果経』も偽経として掲載されているにも関わらず、この二経典は平安初期まで読まれていた。これは、奈良時代の仏教界において、疑偽経典 を排除しようとする意識が薄かったことに関わっているであろう (9)。中国社会において普及した善悪因果応報思想は、古代日本の民間仏教においても主軸となる思想であった。養老七年(七二三)の太政官奏に「近在京の僧尼、浅識軽智をもって罪福の因果を巧みに説き」(『続日本紀』養老七年七月十日)とある。奈良時代初期の布教僧らは民衆を相手に「罪福の因果」、すなわち善悪因果応報を巧みに説いていたのである。それから約百年後の『日本霊異記』も、人々に因果応報の実例と理を説いて「諸悪莫作、諸善奉行」(上巻序)を勧めることを主旨としている。奈良時代の民間布教の現場で生まれた数々の因果応報説話が、『日本国現報善悪霊異記』として結実したのであろう。『善悪因果経』は悪業悪果の例が圧倒的に多く、因果応報の負の面が強調されている。おそらく「諸悪莫作」を説く説教の考案に豊富な話材を提供したであろう。『善悪因果経』は、追善供養などで読誦されるだけではなく、説教僧たちにも享受されたものと思われる。私の調査では今のところ『東大寺諷誦文稿』以後、平安時
代の文献に『善悪因果経』の書名や引用文を見出していない。平安朝仮名文学の中には、「因果」という言葉はほとんど使われていないという。天台宗・真言宗による平安新仏教の台頭以後、『日本霊異記』が描いたような善悪因果応報の世界は前代のものとなったのであろう。『善悪因果経』は、啓蒙的な経典としての役割をいったん終えたものと思われる。『今昔物語集』巻第二十第三十話に、『日本霊異記』中巻第十縁のほぼ同話がみられる。しかし、経典名がなく「人云ケルトナム」になっており、『善悪因果経』の経典名は伝えられていない。人皆此ヲ聞テ、「殺生ノ罪ニ依リテ、現ニ地獄ノ報ノ示 しめす
也」トゾ云ケル。然レバ、人此ヲ見聞テ、邪見ヲ止メ因果ヲ信ジテ、不 せっしょうすべから可殺生ズ。「「卵ヲ焼煮ル者ハ、必ズ灰地獄ニ堕 おつ」ト云ハ実 まこと也ケリ」トゾ人云ケルトナム語リ伝タリトヤ。(『今昔物語集』巻第二十「和泉国人、焼食鳥卵得現報語」第三十)
四、 『平家物語』の『因果経』
『日本霊異記』上巻十八縁の引用文とほぼ同文が、覚一本『平家物語』灌頂巻、大原御幸に見出せる。後白河法皇が大原の建礼門院をたずねたときに会った尼が、建礼門院の現在の身の上は前世の果報が尽きたせいである、今こうして身を捨てて仏道修行に励むのは、来世のためなのだと語る場面である。傍線部に、『因果経』とだけあるが、『日本霊異記』上巻第十八縁とほぼ同じ引用文であることがわかる。此尼申しけるは、「五戒十善の御果報つきさせ給ふによッて、今かかる御目を御覧ずるにこそさぶらへ。捨身の行に、なじかは御身を惜しませ給ふべき。因果経には、『欲 よく知 ち過 くは去 こ因 いん、見 けん其 ご現 げん在 ざい果 くは、欲 よく知 ち未 み来 らい果 くは、見 けん其 ご現 げん在 ざい因 いん』ととかれたり。過去未来の因果をさとらせ給ひなば、つやく
御歎あるべからず。悉達太子は十九にて伽耶城を出で、檀特山のふもとにて、木の葉をつらねてはだへをかくし、嶺にのぼりて薪をとり、谷にくだりて水をむすび、難行苦行の功によッて、遂に成等正覚し給ひき」とぞ申しける。
(覚一本『平家物語』灌頂巻、大原御幸)以下の傍線部のように、「見其」は『日本霊異記』に一致し、「果」「因」が『諸経要集』『法苑珠林』に同じである。欲知過去因。当観現在果。欲知未来果。当観現在因。
(『諸経要集』巻第六、『法苑珠林』巻第五十六)欲知過去因。当観現在果。欲知未来果。当観現在因。
(『諸経要集』巻第十四、『法苑珠林』巻第七十四)欲知過去因。見其現在果。欲知未来報、見其現在業。
(『日本霊異記』上巻第十八縁)欲知過去因、見其現在果。欲知未来果、見其現在因。
(『平家物語』灌頂巻)この引用文は覚一本・長門本・四部合戦状本・延慶本の四本にみられるが、経典名に異同がみられる。長門本は覚一本と同じく『因果経』とあり、四部合戦状本は「されば過去因果経の文には」、延慶本は「心地観経ニハ」となっている。生ある者は、必滅す。始あるものは、をはりあり。されは因果経云、「欲知過去因 見其現在果 欲知未来果
見其現在因」、過去の因をしらんとおもはゝ、其現在の果を見よとなれば、善因に依て、后妃の位を得給、悪因に酬て、かゝる浮目を御らんすると、おほえたり。
(長門本『平家物語』巻第二十)四季の月日を明かし暮らしたまひしに、先世に戒善・戒行薄く渡らせたまひければ、今斯かる御身に成らせたま ひぬ。而 されば過去因果経の文には、欲知過去因 見其現在果 欲知未来果 見其現在因と説かる。加様に先世の業報・後生の宿業を思食し知らせたまへば、兼ねて捨身の行を勤修したまはん事、何か御憚り侍ふべき。
(四部合戦状本『平家物語』灌頂巻)尼申ケルハ、「実ニ仰ハサル事ニテ候ヘドモ、心地観経ニハ『欲知過去因、見其現在果。欲知未来果、見其現在因』トテ、『過去ノ因ヲ知ムト思バ、現在ノ果ヲ見ヨ。未来ノ果ヲ知ムト思ハヾ、現在ノ因ヲ見ヨ』ト説レテ候ナレバ、忉利天上ノ憶千歳ノ楽、大梵王宮ノ深禅定ノ栄ヲ傾ワセ給トモ、御行無シキハ争カ候ベキ。
(延慶本『平家物語』第六末)覚一本と長門本は同じ『因果経』である。四部合戦状本の『過去因果経』は、『因果経』といえば『過去現在因果経』という知識によって「過去」を付けくわえたと推測される。「欲知過去 00因、見其現在 00果」とあるのはいかにも『過去現在 0000因果経』の経文のようである。延慶本には『心地観経』とあるが、『心地観経』にこの文は見当たらない。『平家物語』のこうした経典名の揺れは、典拠を確定できないために起こっ
たことであろう。『平家物語』の引用が『日本霊異記』と同文であることの指摘が、『日本霊異記』注釈書に見出せる。多田一臣氏の『日本霊異記』に「池上洵一説」とあり、本郷真紹氏監修・山本崇氏編集『考証日本霊異記』にも指摘がある。○善悪因果経―『仏説善悪因果経』。偽経という。ただし現在の本経に以下のことばは見えない。『諸経要集』が経典名を明示しないものの同文を掲出しているので、これからの引用であるらしい。『平家物語』が、やはり『因果経』を出典としてほぼ同内容の文言を記しており、このことばと『善悪因果経』とを結ぶ何らかの根拠があったと考えられる(池上洵一説)。
( 多田一臣校注『日本霊異記』ちくま学芸文庫、
一九九七年)○善悪因果経 菩薩発願修行経・因果経とも。成立は唐代、著者不明、一巻。原本は敦煌出土写本で日本の中村不折氏蔵。首部を欠く。疑偽経典。衆生の色相に貧富貴賤、善悪美醜などの違いがあるのは、前世の業因によって現在の果報を招いていることを説明している(大蔵経全解説大事典)。本縁の引用部分は、善悪因果経にはな く、諸経要集からの引用か。諸経要集巻六貧賤部述意縁によると、「夫貧富貴賤、並因往業、得失有無、皆由昔行、故経言、欲知過去因、当観現在果、欲知未来果、当観現在因」(大正新修大蔵経五十四―五三頁)。ただし、覚一本平家物語灌頂巻・大原御幸には「因果経には、欲知過去因、見其現在果、欲知未来果、見其現在因、ととかれたり」(日本古典文学大系)とみえ、ともに因果を冠する経典をあげることは、何らかの出典となる経典の存在を示唆するものといえる。
( 本郷真紹監修、山本崇編『考証日本霊異記』上、
法藏館、二〇一五年)両書とも『平家物語』が直接『日本霊異記』を引用したとは述べていない。しかし、ほかに因果を冠する「何らかの出典となる経典の存在」(『考証日本霊異記』)があった可能性よりも、『平家物語』が『日本霊異記』を、直接または間接的に受容した可能性のほうが高いのではないであろうか。当該引用部分の伝来過程を推測すると、はじめ『日本霊異記』で『諸経要集』の文を『善悪因果経』の引用とした。その部分が『平家物語』灌頂巻に伝えられ、覚一本や長門本『平家物語』で『因果経』となった。その後、『過去因果経』
(四部合戦状本)や『心地観経』(延慶本)となった。字句の異同についての精査や、『平家物語』全体の経典引用からみる考察も必要であるが、この部分に限って見るならば、このような推測が可能であろう。
前述のように、平安朝時代の仮名文学には「因果」の使用例がほとんど見いだせなくなり、その代わりに「宿世」「宿報」が多用された。この語は、前世からの因果という意味合いではあるが、過去世を具体的に探って反省するものではなく、現世の不可思議を詠嘆する語であったといわれている
)(1
(。平安時代以降、「宿世」の結果である現世の悲苦を嘆き、来世に救いを求めて極楽往生を願う浄土信仰が根を下ろし、日本人の中に過去世・現在世・未来世の三世の観念が定着した。こうした三世の観念のもとに成り立つ三世因果の思想は、『日本霊異記』に見られるような「諸悪莫作、諸善奉行」(上巻序)を目的とする善悪因果応報思想とは異質なものである。『平家物語』の「欲知過去因、見其現在果、欲知未来果、見其現在因」は、建礼門院の過去世・現世・来世の因果を語るために引かれている。この文句は、三世因果を説く言葉として、典拠不明のまま、一人歩きをはじめたようである。 『二十三問答』(夢窓疎石、観応頃一三五〇~一三五二)には、短縮した「現在の果を見て過去未来を知る」という言葉がみられる。ことわざのように伝えられていたようである。問ふて曰く、「現在の果を見て過去未来を知るとは、如何やうのことぞや」 答へて曰く、「過去とは過ぎし世、現在とは今の世、未来とは後の世のことなり。この世に命ながく人に用ひられて万乏しからぬ果報は過し世に物の命を殺さず、人をあだみかろしめず物を施し柔和なりし因縁也。喩へば春よき種をこしらへてよく生ひたつやうに土を掘り種を蒔く因あれば、秋はその実よく出でくる果あるが如し。(中略)執着ながく信心も無く、ただこの世の事にのみ心を砕きて後の世を思はざれば、地獄、餓鬼、畜生道に落つる也。喩へば春はおろそかに種を植ゑ秋手を空しくするが如し。(下略)」
(『二十三問答』)『曽我物語』や謡曲「安宅」にも類句が見られる。「それに付ても、前生の宿業こそつたなけれ。現在の果をもって、未来をしることなければ、来世いかならん、阿弥陀仏」とぞ申しける。
(『曽我物語』巻第十)〈サシ〉判 実 げにや現在の果を見て過去未来を知るといふ事 同 今に知られて身の上に、憂き年月の如月や、下の十日の今日の難を、遁れつるこそ不思議なれ。
(謡曲「安宅」)『織田仏教大辞典』の「イングワ 因果」の項の中の小項目「三世因果」には、次のように『因果経』が引かれている。三世因果〔術語〕過去現在未来三世に亘りて因果を尋ぬること。【因果経】に「欲レ知二過去因一者 ハ。見二其現在果一。欲レ知二未来果一者。見二其現在因一。」古来この文を因果経の語として処々に引けども現流の経に此の文なし。
(『織田仏教大辞典』」)この【因果経】が『過去現在因果経』と『善悪因果経』のどちらを指しているのか明記されていないが、その後の小項目「因果経」に次のようにある。因果経〔経名〕過去現在因果経の略称。別に坊刊に仏説因果経あり。羅什の訳、経蔵に入らず。『仏説因果経』は『善悪因果経』のことで、編者は両経とも確認したと思われるが、「欲知過去因~」は『諸経要集』 または『法苑珠林』の文であるため、「現流の経」になかったのはもっともなことである。このことばは、『諸経要集』または『法苑珠林』から『日本霊異記』に、そしておそらく『日本霊異記』から『平家物語』に伝えられた。やがて『平家物語』の本文から離れて巷間に流布し、「現在の果を見て過去未来を知る」という短縮された文句にもなったものであろう。
五、近世の『善悪因果経』
『善悪因果経』は、『日本霊異記』と『東大寺諷誦文稿』以降、江戸時代まで読まれていた形跡を見出すことができない。寛永二十一年(一六四四)、『仏説善悪因果経』が刊行された。経典は散逸せずに国内に伝えられていたようである。和田恭幸氏によると、近世初期版本のデータの中で、単冊で刊行されたと思しき刊記を有する刊本、本文だけの仏教経典、袋綴装という条件で絞り込むと、本能寺版の古活字刊本『百喩経』(寛永三年刊)と『仏説善悪因果経』だけが残る。『百喩経』は寺院版であるため、『善悪因果経』が唯一の経典の商業出版物であったということである。寛永二十一年版は、
中野是誰、横井久左衛門、村上平楽寺と書肆名を変えながら何度も摺刷が繰りかえされた
)((
(。『善悪因果経』には、病や身体障害は先世の業報に応じた結果であると説かれ、罪業に応じてさまざまな虫として生まれたり、種々の地獄に生まれるという例が列挙されている。通俗的な興味を刺激する内容でありながら、「経」としての体裁を備えている。近世出版界において、その商品価値を見逃されなかったのであろう。平仮名本や、『善悪因果経抄』(二巻二冊、寛文六年、一六六六)、浅井了意による『善悪因果経直解』(六巻六冊、寛文七年)、『善悪因果経鼓吹』(十二巻十二冊、延宝六年、一六七八)などの注釈書も次々に刊行され、分量も増していった。『善悪因果経絵抄』(五巻五冊、享保十七年、一七三二)や『善悪因果経和談図会』(六巻六冊、刊行年不明)などの絵入り本も多い。和田氏は『善悪因果経直解』は近世怪異小説の周辺資料として注目されるべき存在であり、浅井了意においては、その刊行以後、仮名草子中心から通俗仏書中心へと著述活動の推移がみられるという
)(1
(。同じ『因果経』という略称を持ちながら、『善悪因果経』は『過去現在因果経』とは全く異なる経歴をたどってきた。 『過去現在因果経』は時代を通じて代表的な仏伝経典であった。『絵因果経』は現代では国宝や重要文化財に指定され、博物館や美術館で多くの人々に鑑賞されている。『善悪因果経』は、おそらく奈良時代後半に伝来し、蔵外経であるために平安中期以降は表に出ることはなかった。それが突如近世出版文化の中で花を咲かせたが、近現代社会においてはこの経典からは偏見と差別の文脈しか読み取ることができない。偽経として明らかであることからも、近代以降は再び沈黙することになったのである。
※
二〇一五年九月十三日仏教文学会大会における研究発
表「二つの因果経―古代・中世文学と『善悪因果経』―」をもとに執筆しました。佐伯真一先生はじめ、貴重なご教示を賜った諸先生方にお礼を申し上げます。
注(1)
(2) 集』第一巻所収、臨川書店、二〇一四年)参照。 牧田諦亮『疑経研究』(初版一九七六年、『牧田諦亮著作 稿「東大寺諷誦文稿の成立年代について」『国語国文』第 下限は天長年間(八二四~八三四)頃と考えられる(拙 『東大寺諷誦文稿』の成立の上限は弘仁二年(八一一)、
六十巻第九号、一九九一年九月)。藤本誠氏は「執筆当初、父母追善の法華八講のために作成された手控えであった」と推論している(「『東大寺諷誦文稿』の成立過程―前半部を中心として―」、『水門―言葉と歴史―』第二十三号、二〇一一年七月)。(3)
『悲華経』は、合掌し仏名を称えて賛嘆する記述が繰り返
されるため、その部分の取意であると思われる。「如是等上首菩薩摩訶薩十千人倶。即従座起偏袒右肩右膝著地。叉手合掌向東南方。一心歓喜恭敬瞻仰而作是言。南無蓮華尊。多陀阿伽度阿羅呵三藐三仏陀。南無蓮華尊。多陀阿伽度阿羅呵三藐三仏陀」(『悲華経』巻第一)。『摩訶摩耶経』の出典については、中田祝夫『東大寺諷誦文稿の国語学的研究』(風間書房、初版一九六九)出典調査に次の類似部分の指摘がある。「時摩訶摩耶。即於仏前而自剋責其心意言。汝常何故作非利益。遊六塵境而不安定。乱想牽挽無時暫停。(中略)爾時摩訶摩耶。説此偈已而白仏言。世尊。一切衆生在於五道。皆由煩悩過患所致。故有結縛不得自在。願我来世得成正覚。常断一切此患根本。(中略)百千憶劫受余雑形。修行十善方得人身」(『摩訶摩耶経』巻上)。(4)
(5) 第二十八)。 設方広悔過於宮中、宮中方広自此始也」(『政事要略』巻 「官曹事類云、宝亀五年十二月、請僧十口、沙弥七口、
森安孝夫「
『善悪因果経』の流通とその史的背景」(『三島海雲記念財団事業報告書』二三、一九八六年)参照。(6)
(7) 章より引用。 敦煌文書の引用は注(1)牧田諦亮『疑経研究』第十一
注(2)拙稿参照。
(8)
吉川弘文館、一九六九年)参照。 菊池武「『日本霊異記』仏典考」(『日本史籍論集』上巻、 (9)
拙稿「奈良時代の疑偽経典目録について―『開元釈教録』
巻第十八考―」(加藤謙吉編『古代の氏族と政治・宗教』所収、二〇一八年)参照。(
10) 出雲路修「説話」
(岩波講座『東洋思想』第十六巻「日本思想」2、一九八九)、今西祐一郎「源氏物語」(岩波講座『日本文学と仏教』第二巻「因果」第二部第二章、一九九四)参照。(
11) 和田恭幸「
『善悪因果経直解』諸版考」(『仏教文化研究所紀要』四四、二〇〇五年)参照。(
12) 注(
11)及び和田恭幸「浅井了意の仏書とその周辺(三)
―版面に見える作家の立場と決意―」(『国文学研究資料館紀要』二六、二〇〇〇年)参照。
(こばやし・まゆみ 成城大学教授)