「詠雙六頭歌考」 : 『萬葉集』巻第十六、三八ニ 七番歌について
著者名(日) 川上 富吉
雑誌名 大妻国文
巻 38
ページ 1‑23
発行年 2007‑03
URL http://id.nii.ac.jp/1114/00001335/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
﹁詠 讐六 頭歌
﹂考
||
﹃高
葉集
﹄巻 第十 六︑
一︑はじめに
﹃蔦葉集﹄巻第十六︑有由縁雑歌
詠襲六頭歌
一一 一之 目耳 不有 五六 三四 佐倍
の読み︵音・訓︶と解釈・鑑賞に
﹁詠
隻六
頭歌
﹂考
三八二七番歌について
部の﹁長忌す意吉麻日歌人首﹂︵三人
有墜 六乃 佐叡
︵三 人二 七︶
︵ 注
1︶
つい ての 私見 を述 べて みた い︒
四1
一 一 一 八
一 一 一 一
︶ ︐ ︐ − − El i
上
の第
四首
目︑
富
土口
二︑本文・訓読の校異 本文の表記・訓読の校異については︑﹃校本高葉集﹄にあるものに︑それ以降のものを一覧して︑問題となるのは︑次の
四点
であ
る︒
(一)
題認 の﹁ 頭﹂
︒﹁ 頭﹂
︵メ
︒サ イ・ サヰ
・サ
︶エ か﹁ 頭子
﹂か
︒
(二)
題調 の﹁ 歌﹂
︒﹁ 歌﹂ か﹁ 詞﹂ か︒
( 弓 歌中 の︑
﹁有
﹂の 下﹁ 来﹂ の有 無︒
﹁ア リ﹂
・﹁ アリ ケリ
・ア リケ ル﹂
・﹁ アリ ナリ
﹂か
︒
(同
歌中
の︑
﹁佐
叡﹂
を︑
﹁サ
イ﹂
・﹁
サエ
﹂か
︒
付に
つい
て︒
﹁メ﹂と訓読するのは︑校本・拾・神田・代・考・口語・全穆・松岡で︑松岡静雄﹃有由縁歌と防人歌︵続高葉集論究︶﹄
︵一
九三
五年
︶は
︑
ム
0 0
題詞の頭の字はメといふ奮訓に誤なしとせば︑眼の行書を頭の其と誤寓したものとすべきである︒
としたが︑これに対する賛否の論なし︒また︑﹃寓葉集略解﹂は︑﹁頭﹂を﹁サエ﹂と訓み︑
頭の字の下子を脱せるか
とした︒それを承けて﹃万葉集古義﹄は︑
ヨメルスグロクノサエヲウタ
詠一
一隻
六頭
子一
歌 とし たが
︑井 上通 泰﹃ 蔦葉 集新 考﹂ は︑
﹁詠 二隻 六頭 ム一 一謁
﹂と し︑
略解に和名抄に頭子ハ讐六乃佐以とあれば頭とあるは頭子の子を脱せるかといへり︒頭子は投子の轄ぜるなりと狩谷望
之は云へり︒サエは釆なり︒サイとよむべきをなだらめてサエともいひしなり︒才をサエともいふと同例なり︒
さ え
とし なが らも
︑﹁ 頭子
﹂と して
﹁サ エ﹂ と訓 むの か明 言し てい ない
︒松 岡と 同年 に出 た﹃ 寓葉 集総 理押 第八
﹄は
︑﹁ 隻六 の頭 子 を詠 める 歌﹂ とし
︑題 意の 項に
︑ 頭子
は略 解に 従ひ 子の 字を 補ふ
︒
としたが︑この後﹁頭子﹂とするものなし︒
﹁メ
﹂を
﹁サ イ﹂ と改 訓し たの は﹁ 代匠 記精 撰本
﹄で
︑﹁ 詠一 一隻 六頭 一週 間﹂ とし なが らも
︑
詠隻六頭詩
和名 云︒ 兼名 苑云
︒隻 六子
︒
一名
六莱
叫町
議⁝
娘一
賭一
︒又
云︒
雄主
六菜
︒楊
氏漢
語抄
云︒
頭子
雄監
離れ
一部
耐悼
寸案
カ︑
レハ
﹁詠
隻六
頭歌
﹂考
四
サ エ
頭ヲメト賭セルハ誤ナリ︒サイト讃ヘシ︒音ヲ以テ和語トセリ︒寄ニ佐叡トヨメルハ︑才ノ字ヲサエト云ニ准ラヘテ
意得 ヘシ と︑
﹁サ イト 護ヘ シ﹂ とし た︒
﹃蔦 葉集 童蒙 抄﹂ も︑
詠襲六頭詞すぐろくのさゐをよめるうた
襲六頭一名六菜籍籍︑襲六莱︒楊氏漢語抄云︑頭子禁跡事な此和名の仮名と此
歌の仮名と相違なる事不審也︒此集は古きによりて︑此集の仮名に従ふベし︒和名抄の以の字は衣の字誤り歎
和名 抄云
︑兼 名苑 云︑ 襲六 子︑
ザ エ
︵ 注
2︶
とし てい る︒
﹃考
﹄は
﹁メ
﹂と ある が︑
﹃略 解﹂ が﹁ サエ
﹂と し︑
﹃古 義﹂
・﹁ 総理 押﹂ の﹁ 頭子
﹂を 経て
︑窪 田﹃ 評稗
﹄︑ 武田
き − 一
﹃全註釈﹂他︑伊藤﹁稗注﹂までの諸注釈書﹁頭︵サエ︶﹂としている︒新大系本も﹁頭﹂である︒
同に
つい
て︒
﹁謂﹂か﹁歌﹂かについては︑底本が寛永本系が﹁詩﹂で︑西本願寺本系が﹁歌﹂であるちがいで︑﹁詩﹂と﹁歌﹂とで
大差 はな いと すべ きで あろ う︒
同に
つい
て︒
一本にのみ﹁有﹂の下に﹁来﹂があるのみ︒ところが︑﹃拾穂抄﹄︑﹁代匠記﹄は﹁アリケリ﹂と訓み添
︵ 注 3︶
えて いる
︒﹁ 略解
﹄・
﹁古 義﹄ は﹁ アリ
﹂で
︑﹁ ケリ
﹂を 添え てい ない
︒井 上﹃ 新考
﹄・ 松岡
・﹁ 口課
﹂も
﹁ア リ﹂ であ る︒
﹁ケ
﹁古
葉略
類緊
紗﹄
リ﹂を添えるのは﹃総稗﹄・窪田﹁評稗﹂・佐々木﹁評稗﹄・﹁私注﹂で︑その問﹁全註釈﹂が﹁アリナリ﹂と﹁ナリ﹂とし
アリケリ
てい る︒
﹁ケ リ﹂ につ いて 言及 した のは
﹁注 蒋﹄ で︑
﹁有 抹﹂ とし
︑
五六三四さへありけり||これもコロクサムシサへアリケリとあったのを︑古以外には﹁有﹂の下の﹁来﹂の字が
無いので考にイツツムツミツヨツサヘアリとし︑略解︑古義など従ったが︑新訓再び奮訓にかへし︑催馬紫︑大芹に
ゴ ロ ク カ ヘ ン イ チ ロ ク ノ サ イ ヤ ン サ ム サ イ ヤ
﹁五六加戸之伊知六乃左以也四三左伊也﹂とあるに注意し︑全緯に﹁采の数字は多分音請したであらうと思はれる﹂
といひ︑古典大系本では訓讃の方を採られたが︑﹁助数詞なしに日本語の数調を重ねる語法はなかったらしいので︑こ
の奮訓の方がよいとも考えられる﹂といってヒトフタといふやうな例の無い事に注意してゐる︒﹁来﹂の文字のあるの
は古一本で︑尼︑類︵十五・七六︶にも無いので︑古の文字は訓によってあとで加へたものとも考へられない事はな
いが︑古一本が正しい文字を惇へたと思はれる例が他︵六・九二ニ︶にもあるので︑ここも﹁来﹂の文字を原本のも
のと認むべきである︒さうすれば全註穆にアリナリと訓んだのも問題にならぬ事にならう︒
とし
︑以 降﹃ 全集
﹂・
﹃新 編全 集﹄
・伊 藤﹁ 得注
﹂・ 新大 系は
︑﹁ 来﹂ を入 れて
﹁ア リケ リ﹂ とし てい る︒
同について
﹁叡﹂は︑﹁イ﹂か﹁エ﹂か︒字音は﹁エイ﹂で︑前引の﹃代匠記精撰本﹄は﹁才ノ字ヲサエト云ニ准ラヘテ意得ヘシ﹂
とし
︑﹃ 略解
﹂は
さいばら大芹に︑五六かへしの一六のさいや四三さいや
を挙げて﹁さえ﹂と訓み︑﹃古義﹄もまた︑﹁大芹﹂を引いて
﹁詠
叫盟
主六
頭歌
﹂考
五
̲.L.
ノ、
イ チ ロ ク ノ サ イ ヤ ン サ ン サ イ ヤ ヘ サ エ サ イ
伊知六乃佐以也四三佐以也とも見ゆ︑今の歌によれば古は佐衣と呼しなるべし︑才をも︑
サ エ へ
佐衣と唱しに准ふベし︑
︵ 注
4︶としている︒﹁全註緯﹂は﹁サイは︑采の音讃である﹂としているが︑大系本の頭注に︑
采は 漢字 音お 包サ イに あた るが
︑奈 良時 代に は包 とい うよ うな 母音 の二 つ連 続す る発 音は しな かっ たの で︑ 佐叡
︵仲 田昌 巾︶
と︑子音yをはさんで発音した︒それで︑サイがサエとなっている︒
とあ り︑
﹁註 得﹄ はそ れに 賛同 して いる
︒﹃ 全集
﹄は
︑
﹁叡﹂はヤ行のエの仮名︒﹁采﹂をサエと呼んだのは︑﹁采﹂の字音サイの末尾に母音e
を添 えた もの
︒ とし
︑﹃ 新大 系﹄ は﹃ 大系
﹄と 同じ で︑
﹁采﹂の字音を示す︒﹁采﹂の漢字音は倭名抄の﹁佐以﹂であるが︑奈良時代の日本語には包という母音の連続する発
音はなかったので︑子音可をはさんで発音してE苫となった︒﹁才の字をさえと云に准らへて意得べし﹂︵代匠記︵精
撰本
︶︶
0
とし
︑﹁ サエ
﹂に 落ち 着い た観 があ る︒
三︑数詞の音訓について
以上︑四点を経て︑次の大きな問題は︑歌中の漢数字﹁一二三四五六﹂を字音で読むか訓読するかである︒﹁イチニ︑ゴ
ロク︑サムシ﹂と音読するのは︑校本・拾・代・童・問目・全稽・窪田・全註釈・佐々木・岩波文庫・私注・朝日・注得・
全集・集成・桜井・中西・角川・新編・稗注・新大系で︑﹁ヒトフ夕︑イツツムツ︑ミツヨツ﹂と訓読するのは︑考・問目・
略・古義・新考・口誇・松岡・総稗・大系までである︒いづれかについて言及しているものは︑﹁高葉集童蒙抄﹂で︑平仮
名で の訓 読を 示さ ずに
︑
此歌の事いかに共心得難し︒書而の通に讃みては何の意も無く︑只さゐの目の六ツ迄あると云ふ事迄の歌也︒尤仮名
附の通に讃みても︑又訓讃みに︑ひとふたの目のみにあらず五つ六つ三つ四っさへある襲六のさえ︑かく讃みても只
目の六つあると云迄の歌也︒何とぞ寄せる詞の縁ありて詠める歎︒
とし︑宣長﹁高葉集問目﹂は︑
コノ歌ハ︑本ノマ︑ニ訓ヘキヵ︑又ヒトフタノ︒日ノミニアラス︒イツ冶ムツ︒ミツ︒ヨツサヘアル云々ト訓ガヨキ
ヵ︑此訓︑こ︑にもしかよめり︑
と︑音・訓二様に迷い︑旧訓の音読みに与している︒﹃新考﹄は︑訓読で︑
﹁詠
隻六
頭歌
﹂考
七
J¥ 奮訓に数字を音讃したれど音請すれば三四の三は第三句に附きて五六三となるが故に二註の知く訓讃すベし
とし︑松岡静雄﹁有由縁歌と防人歌﹂では︑前の注
3に示したように︑﹁作者意吉麻日は和語を以て詠じたものとして︑断
然改 訓に 従ふ こと にし た﹂ とす る︒
﹃総 務﹂ は︑
﹃高 葉考
﹄の 音読 に﹁ 従ふ
﹂と ある
︒﹁ 全註 稗﹂ は︑ 歌中の数字を︑字音で讃むか訓で讃むかの問題であるが︑既に隻六︑采の如きも︑字音のままで使用されているから︑
釆の数も︑外園語のままに呼ばれていたであろう︒今日のトランプ︑麻雀などの外来の遊戯に︑やはり外園語がその ままに使われているような状態であったろう︒
とし︑窪田﹃評稗﹄は︑﹁隻六︑采も字音であるから︑字音が作意であったらうと思はれる﹂とし︑佐々木﹃評穆﹄もまた︑
数字は訓讃か︑音讃か問題であるが︑﹁釆﹂を音譲することからも前記の催馬築からも︑また古寓本の訓に徴しても︑
奮訓 の通 り音 讃す るの がよ い︒
としている︒﹁私註﹄は音読しているが︑﹁字音で呼ぶのであらうが︑ヒトッフタツミツの如くも訓めぬことはない﹂と言つ
てい る︒
﹁注 稗﹄ は︑ この 点に つい
︑て この数詞を和訓でよむ説が今も行はれてゐるが︑次に述べるやうに音読したものと思はれる︒
とし︑四﹁アリケリ﹂で引用したように説明し︑さらに 外来の遊戯に外来の用語を用ゐる事は嘗然であり
︵ 注
5︶
と︑断定し︑現行では音読することが定着した観がある︒
以上︑煩雑な校異を経て︑この歌の訓読を示せば︑
︵ 注 6︶
一応 次︑ の如 くで あろ う︒
チ
の 壁1
‑.L...ろ
固めのノ、〈
の 頭f
み を に 詠 あ む ら 歌 ず
ゴロクサン
五六
三
固さへありけり
ス グ ロ ク さ え
隻六の采
四
歌意について
音読
︑訓 読い づれ にも せよ
︑そ の歌 意は
︑
双六の采を詠む歌
一の 目︑ 一一 の目 かば りで はな い︒ 五の 目︑ 六の 目︑ 一二 の目
︑四 の目 まで ある のだ
︒双 六の さい ころ には
︒ とい
うこ とで
︑﹁ 只目 の六 つあ ると 云迄 歌の 也﹂
︵童 蒙抄
︶・
﹁只 頭子 の数 の一 より 六ま での 名を よめ るの み也
﹂︵ 略解
︶・
﹁歌
﹁詠
隻六
頭歌
﹂考
九
。
意︑かくれたるすぢなし﹂︵古義︶・﹁一から六に至る数詞を詠み入れたといふに週きぬけれども︑尚時人の一祭を博するに
は徐 りが あっ たの であ らう
﹂︵ 有由 縁歌
︶・
﹁歌 とし ては
︑采 を説 明し たに 過ぎ ない
﹂︵ 全註 緯︶
・﹁ 無意 味は 無意 味な がら に︑ なる 程と 首肯 され るで あら う﹂
︵総 調停
︶・
﹁一 から 六ま での 数字 を巧 に読 み込 んだ だけ であ る﹂
︵全 稗︶
・﹁ とに かく 詠み おふ せて ゐる だけ で値 のあ る歌 であ る﹂
︵窪 田︶
・﹁ 平凡 な物 を新 たな 感畳 で眺 め︑ そこ に滑 稽味 を鷲 見し てゐ る﹂
︵佐 々木
︶・
﹁た だサ イの 目を 一首 によ み入 れた だけ のも ので ある
﹂︵ 私注
︶と
−評 され てき たが
︑﹁ 注稗
﹄は
︑ たず
この 歌の 場合
︑ 一二 三四 五六 の順 に並 べず
︑
一二五六三四とし︑四に﹁さへ﹂といふ助詞をそへた理由がわから
ない︒それについて橋本君は饗の目は三と四とだけ朱の色を入れ︑他の目は黒色を入れてゐる賄に注意し︑これは玄
宗皇帝と楊貴妃の故事によると平治物語︵上・叡山物語の事︶その他に出てゐるが︑由来はともかく︑これを最後に
もって来て﹁さへ﹂をつければ︑赤い目もあるといふ事が常識に照らしてすぐ理解され︑それだけ面白さを加へる事
になるのではないかと云はれてゐる︒佐佐木氏の説に更に一歩を進められたものである︒
という鑑賞をし︑それを承けての﹁調停注﹄の解説は傾聴に値するので︑次にその長文を引用させていただくことにする︒
副助詞﹁さへ﹂は︑ここでは︑﹁注釈﹄のいうように﹁四﹂だけに添えられているわけではない︒それは︑﹁五六三四﹂
全部を承ける形になっている︒︿中略﹀奏ころの目は︑表裏合わせて︑かならず七になるようになっている︒
一の
返
しは
六︑
二の返しは五︑三の返しは四である︒合わせていつも七︒その七が中国人好みの聖数七である︒︿中略﹀双
六においては奏ころは二つを用いるものゆえ︑二つの面の数が組み合わせて呼ばれる習慣があること︿中略﹀二面を
組み
合わ
せて
︑
一二の返しは六五︵五六︶︑三四の返しは四三︵三四︶という呼び方が古くから成立していたのではな
いか
と推
測さ
れる
︒
せ催馬楽﹁大芹﹂︵﹁芹﹂には﹁競り﹂を懸けている︶に︑﹁五六がへし一六の饗や四三の奏や﹂とあるのは︑右の
推測
を保
証す
るも
のな
るべ
く︑
﹁五
六が
へし
﹂に
は﹁
一一
一﹂
︵一
一一
︶が
︑﹁
一六
の饗
﹂に
は﹁
六一
の奏
﹂が
︑﹁
四一
一一
の空
るよ うに 思わ れる
︒
には﹁三四の奏﹂が反射的に人びとの脳裡にひらめいていることを示すもので︑右の推測が妄想ではないことを証す
一つ の饗 ころ の目 を呼 ぶの に︑ 数 の順 でい えば
︑そ の返 しを 考え つつ
︑
一一
一に
対し
ては
五六
︑
四に対しては四三があるという意識は古くから定着していたと見てよいように思われる︒
とす ると
︑今 の歌 は︑
五六
︑三
まと︑五六と三とのあいだに少しく聞を聞け︑三をとくに強めて長めることで︑三と四とが連結する印象を与えるよう
の 目 のみ には あら ず
四さへありけり双六の頭
に吟請されることを要求しているのではないかと思われる︒﹁さへ﹂は﹁五六三四﹂全部を承けることはまちがいない
くちずさけれども︑その﹁五六﹂の下に﹁三四﹂を据え︑それを強調して吟む形は︑結局︑﹁さへ﹂が︑中でコニ四﹂を押し出
す機能を果たすに至る︒﹁三四﹂の一首における重さは否定しがたいと思われるのである︒
であれば︑三と四とが赤目であることが常識となっている人びとには︑﹁三四﹂を最後に据えて︑その目の赤さを指
示したことの重みがおのずからに感得されたはずである︒場の歌というものは︑常にその場の共通理解の上に立って
いるものである︒こう見てくると︑かつての橋本試案は遠慮するには及ばないのではあるまいか︒この橋本試案を先
の佐佐木﹃評釈﹂の見解に加えて︑もう一度一首の意を通すなら︑次のごとくになるだろう︒
一︑ 二 の黒 目だ けじ ゃな い︒ 五六 の黒 目︑ 三と 四の 赤目 さえ あっ たわ い︒ 双六 の奏 ころ には
︒︵ 三八 二七
︶
人間には黒目が左と右の二つしかない︑だが︑妻ころには︑六つもあって︑うち二つは赤目でさえある︒いやはや
すご いく るく る目 だー ーと いう のが
︑ 一首 の真 意だ った とい うの が︑ 目下 の筆 者の 見解 であ る︒
﹁詠
隻六
頭歌
﹂考
右の長文の解説で︑当面歌の鑑賞も十分であるかとも思えるが︑私見としては︑今少し加えたいことがらがある︒すで
に注
1で
示し た拙 稿﹁ 物名 の歌
﹂︵
﹃万 葉集 を学 ぶ第 七集
﹄︶ にお いて 外来
の遊 戯で ある 双六 の頭 を素 材に 詠ん だも ので
︑﹁ 人間 なら ば精 々二 つで
︑
サイ
なく︑五六三固など︑言う程の目迄がある︒面白いものは︑双方の釆だ﹂︵折口信夫﹁口訳万葉集﹄︶と口訳する向き
一つ 目の もの さへ ある のに
︑是 はさ うで
もあ
るが
︑﹁
︵ ひ
と
H人︶には︑二つの眼だけであるが︑それだけではなく︑五六︵H
御禄
︶二
一︵
H讃
・惨
︶︑
四︵
H
死︶まであることだ︒双六の眼には︒罪なことだなあ︒﹂とでも試訳しておくが︑
とし
︑双 六の 流行 につ いて 持統 紀三 年十 二月 条の
﹁禁 二断 襲六 一﹂
・天 平勝 宝六 年一
O月
の勅
・養 老の 捕亡 令日 条を 引い て︑
財物を賭し父母家業を忘れる者が多くあったらしく︑かなりきびしく禁じたようで︑
﹁采
﹂︵ サイ
・ツ アイ
︶は
﹁災
﹂︵ サイ
・ツ アイ
︶を 掛け たも
のか
と考 えた い︒
いず れに しろ
﹁四
﹂は
﹁死
﹂を
︑
という試訳に︑﹁語葉的裏付けが難しいように思われるが︑さもありなむと思われる意吉麻呂の歌であることもまた確かで
ある﹂という意見もあり︑ここに再考してみたいと思う︒ ︵ 注 7︶
五︑襲六賭博の流行
この歌の作者長忌寸意吉麻呂が歌人として活躍した時期は︑持統紀三年十二月条の﹁禁断機
ZL
ハ﹂ 令の 以前 から とし たが
︑
︵注
8
︶
木村康平は﹁主要な活躍時期を文武朝﹂としている︒意吉麻呂の活躍時期の限定はひとまず置いて︑この一首の世界を理 解す るた めに は︑ 万葉 集の 時代 基盤 とし て︑
﹃日 本書 紀﹄
﹃・ 続日 本紀
﹄に 見ら れる
﹁雄 主ハ
﹂記 事に 注目 して みる 必要 があ る のではないか︒社会的な背景を幅広く観察してみることにしたい︒既発表の拙稿と重複するところもあるが︑必要な事項
を通覧してみることにしたい︒
①﹁日本書紀﹄天武天皇十四年︵六八五︶九月十八日条に︑
し ん い う す め ら み こ と お は あ ん ど の お は お ほ き み ま へ っ き み た ち と の ま へ め は く ぎ こ み や と こ ろ の お ほ き み
辛酉に︑天皇︑大安殿に御しまして︑王卿等を殿の前に喚して︑博戯せしめたまふ︒是の日に︑宮処王・
な に は の お ほ き み た け だ の お ほ き み み く に の ま ひ と と も た り あ が た の い ぬ か ひ の す く ね お ほ と も お は と も の す く ね み ゆ き さ か ひ ベ の す く ね い は つ み お ほ の あ そ み ほ む ぢ う ね め の あ そ み ち く
難波王・竹田王・二一国真人友足・県犬養宿禰大侶・大伴宿禰御行・境部宿禰石積・多朝臣品治・采女朝臣竹
ら ふ ぢ は ら の あ そ み お ほ し ま す ベ お ほ み そ は か ま た ま
羅・藤原朝臣大島︑凡て十人に︑御衣袴を賜ふ︒
︵注
9
︶
とあ り︑ 博﹁ 戯﹂ は﹁ ばく ち︵ 博実
︶﹂ であ り具 体的 に﹁ 雄主 六﹂ であ った か明 らか では ない が︑ 恐ら く﹁ 錐壬 ハ﹂ であ った と 想定 した い︒ 次い
︑で
②﹁日本書紀﹄持続天皇三年︵六八九︶十二月八日条に︑
す く ろ
︿ い さ め や
十二月の己西の朔にして内辰に︑双六を禁断む︒
とあり︑明らかに繁六遊びの流行とその弊害を知ることができる︒次いで︑
﹁詠
隻六
頭歌
﹂考
四
③﹃続日本紀﹂文武天皇二年︵六九八︶七月七日条に︑
は く ぎ い う し ゆ と も が ら い ま し
博戯 遊手 の徒 を禁 む︒
ゐLと
ど し ゅ じ ん ま た よ ど う ざ い
その居停めたる主人も亦与居同罪︒
とあり︑﹁博戯﹂の禁止令が出されている︒次いで︑
④﹁続日本紀﹄天平勝宝六年︵七五四︶十月十四日条に︑
壬 成 朔 十 四 日 み こ と の り く わ ん に ん は く せ い の り お そ ひ そ か づ し ゅ あ っ こ こ ろ ま か す く ろ く い む め い い た こ ち ち
冬十月乙亥︑勅したまはく︑﹁官人百姓︑憲法を畏れず︑私に徒衆を緊め︑意に任せて双六して淫迷に至る︒子は父に
し た が っ ひ か げ ふ う し な ま た け う た う か こ れ よ あ ま ね け い き し ち だ う く に 守 に お ほ か た き む だ ん
順ふこと無く︑終に家業を亡ひ︑亦孝道を肪く︒斯に因りて遍く京畿と七道との諸国に仰せて︑固く禁断せしむ︒そ
を の こ め の こ あ げ つ ら く ゑ つ ぢ ゃ う お む ぞ く も ち た だ す な は げ ん に む と ま た ゐ ろ く ゐ で ん う ぱ
の六位巳下は男女を論ふこと無く︑決杖一百︑蔭蹟を須ゐず︒但し五位は即ち見任を解き︑及位禄・位田を奪へ︒四
ふ う ご た ま や し き こ く ぐ ん し あ ょ う い き ま た み な げ に む も た だ ま う ひ と
位巳上は封戸を給ふことを停めよ︒職・国郡司阿容して禁めずは︑亦皆解任せよ︒若し廿人巳上を札し告す者有らば︑
く ら ゐ じ よ う ゐ も の た ま あ し ぎ ぬ ぬ の
元位には位三階を叙し︑有位には物賜ふこと施十疋︑布十端﹂とのたまふ︒
と︑双六を禁断する勅が出され︑この禁制は新大系本﹃続日本紀﹂の脚注に︑
弘仁 格に 収め られ
︑三 代格 には 同日 付の 太政 官秦 とし て収 録︒ 弾正 台式 に﹁ 凡双 六者
︑無 レ論 二高 下一
︑ 一切 禁断
﹂と 継
承さ
れる
︒ とあ る︒ 次に
︑