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現代日本語の当為表現 : 「なければならない」と 「べきだ」

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(1)

現代日本語の当為表現 : 「なければならない」と

「べきだ」

著者 郷丸 静香

雑誌名 三重大学日本語学文学

巻 6

ページ 29‑39

発行年 1995‑06‑04

URL http://hdl.handle.net/10076/6490

(2)

現代日本語の当為表現

1「なければならない」と「ぺきだ」・

一はじめに

現代日商鹿柑の当為表現としては「なければならない」「べ善 だ」

「〜方がいい」などが挙げられる。これらはいずれも日本

語のモダ・リティの中で代表的な「判断のモダリサィ」に位置づ

けられ、益岡(一九八七)によると特に話し手の価穂判断を表

す「価値判漸のモダリティ」に属するとされる(注一)。これ

らの表現は共通した意味範囲がある一方、いずれかの表現しか

使えない場合が存在するり本稿では特に「なければならない」

と「べきゼ」を取り上げ、行為主体の意志の自由度といっ七点に注目し∴」れらの相互交換の可能性を調べ、考察を進める▼1

とによって、それぞれの意味・用法有明ちかにしていくことに

する。.参考文献、文中の用例の出典はまとめて後に記tた。用例の

中で出典の記していないものは作例である。

従来の研究.

現代日本語の当為表現「なければならない」

ない」類にっいて表現形式の史的変遷という視点からの考察に

は、田中二九六七、⊥九六九、一九八七)、渋谷(一九八八)

がある。この意味の遠いについては、坂田・倉持(一九八〇)

(一九九一二改訂版)が、

「なければならない」は、′ある事柄を個人の選択の余地を

∵残さない「絶対的なものとしてとらえる判断、づまり、人

間に与ろられた宿命、社会劇な制約1果たさざるを得ない

義務・茸任など、そうす牒以外にない事態に応じた表現で

あり、一方、「なければいけない」は、ある事柄を、選択

の余地の濁さlれた状況の中で、選択的にとらえる判断、つ

まり、必ずし虻そケする必然性のない事態に応じた表現で

ある」という傾向を認めることができる。

と述べており、渋谷(一九八八)、.森田(」九八八)、森田・

(3)

松木(一九八九)もこの考えと基本的に一致するものであると

思われる。しかしながら森田・.松木(一九八九)はこのように

遠いを述べながらも、「実際には両者欄かなり同義的に用いう

れているようである」とも認めている。

一方、「なければならない」と「べきだ」の意味の速いを述

べたものとして、森田」梅本(一九八九)/・、坂田・倉持(一九

八〇)(一九九三改訂版)、丹羽ムー九九こがある。このうち坂田・倉持(一九八〇)一(一九垂二改訂版)は、

「なければならない/いけ克い」が行軌に関する働約その

ものを凄すのに対し、.「べ垂だ」ほいわば建前としてのあ

り方を述べているに過ぎない点に両者の速いか過る1ただ、

▼建前は建前としてそうあるだけ肯く、.実際の行動をも制 約することになるので、文脈によっては塵屑な意味合い

を帯びることもある。

と述べており、森田・松木(一九八九)も基本的に一致してい

る。一方、丹羽(一九九こは、

「べき」は、話者の主観において当憲の実現を妥当な

こととして要請するという判断を表す。「なければならな

い」は、当意の実現が妻帯される状況にある、とヤっ

ことを表す

とし、話者の主観的な判断にはる妻帯か、状況そのものが妻帯

しているのか、という点に着目した鋭明を行っている。

以上が「なければなら軋ピ「べきだ」について従来行われ てきた研究の概略である。本稿では丹羽の指摘した「話者価主観的な判断による妻帯か、状況からの妻帯か」という視点は騰製するものの、両表現に欄どちらからの妻帯もあるとし、新たに行為主体の意志の自由度に漣目して、この二つの表現の意味・用法を明らかにしていきたい。「なければ尊bない」の類似の衰現として.、「なければ」の前半部が、「なくて華′「なく馬や」「な善や」「ねば」など

の形があり、→ならない」の後続部も.「いけない」「ならん」

「なりません」などの形がある。「庵‑ナればならない」と「な

ければいけない」についての意味の差はこれまでも述べられて

おり、その差異は多少認められるが、現在で博混用して使われ㌢Jとも多いことから、こ.こでは「なければならない」で統丁

して取り上げ、その意味の差は考慮に入れない。また省略形で

ある「なくちゃ」「なきゃ」なども同一に扱う。

意志の自由度と状況的妻帯

まずここでは状況的妻帯という意味を見ていくことにする。

(1)日本では、車は左側を通らなけナればならな

(2)人間はいつかは経でも死ななければならない。

(3)駅から学校まで行くには、一キロはど歩か隠けれ甜

ならない。

状況的妻帯とは缶し手の判断による妻琴つまり外部から

(4)

の留ぶの妻帯のことせいう。一「なければならなぃ」の文にお

ける状況的妻帯で、一番強制力の凄い妻帯をここでは「意志の

入る余地のない状況的要請」と呼ぶことにする。この「意志の

入る余地のない状況的妻帯」とは行為主体の意志の入る余地が

ない、つまり意志の自由度がゼロである止いうことを示す。変

えようのない現実からの妻帯であり、これが「法律」で為った

乃、「運命」であったりする。(1)は法律に基づく行為であり、状況的た妻帯される度合いが極めて清い。.「法律」かちの

状況的妻帯であることから、これは嚢となり、強制力を虻っ

表現となる。つまり(1)の一場合、月本で運瑞するかぎり、左

側を通ることが絶対尤牒でぁって、行為主体の意志によって右

側を通った乃、左側を通つたりできる問題ではない。(2)で

は「運命」か・詠歌祝胸章請であるから、その実現が一〇〇%

妻帯されている。これも抵抗しようⅥない、意志の入る余地のないことであそ(3)切ようにある事柄が実現するために必

要な条件せ尭る事実をここでは「条件的事実」と呼ぶことにする。(3)では「軟から学痘官で行く」ための条件と七て〓キロ歩くこと」が事実としてかり、これは変えゃしとがで重な

い。これも状況的妻帯がか怒り高いといえる。以上が状況駒妻

静の強い慧ロである。そこでは行為主体の意志の入る余地はな

く、意志の自由度はゼロでぁる。ここでこれら(1)〜(3)

の文を「べさだ」上交換してみることにする。(4)?日本では」車は左側を通るごl剖叫。 (5)?人間はいつかは灘でも死ぬべきだ。(6)?駅から学校まで行くには」一キロほど歩く叫劃呵

これらが「べきだ」と交換することができないのは」行為主体に意志の白呂を与えることにな・渇か・セである。(1)を「べ塗だ」にしてし辛つと1「左側を通る己とが望ましか.(が、どち

らでもいい)」というように行為主体の意志に任せる表現にな

ってしまう。(1)のような法律に基づく行為に「べ善だ」が

使われないのほ、意志の尊重をしないからである。(2)

も同様に「ベ.きだ」と交換できないのは「意志の入る余地のな

い状況的妻帯」でぁり、意志の尊重をしないからである。こ必

ように「べきだ」には「なければならない←のような「意志の

入る余地のない状況的要請」は克い。しか七ながらこれは「べ

きだ」の文に状況的妻帯が全くないということを意味するのセ

はない。話し手からの妻帯か、状況的妻帯かという問題は連続

的だからである。こ」Jでは.「なければならない」の文には行為

主体の意志が全く入らない場合があるが、「ぺ轟だ」の文には

そのような選ロはなく、意志の白届度が大きいという‑⊥とを示

すに留めておく。

行為主体と話し手

(こ行為主体が話し手以外の場合

行為主体が話し手以外の時で、聞き手に対する働きかけがあ

(5)

る場合をみてみよう。次の例題状況的要請か話し手からの妻帯

かというだけで鋭明がつくであろうか。

(7)

a

駅に着いたら、電話しなくちゃいけないよ。b「?」駅に着車たら、電話す想到矧▲よ。

話し手が肝盲手に烏有をかけ牒という行為を要請する凄ヂ(7 a)が使われるのが並邁であそこの場合、状況的妻帯とい・.つ

よりむしろ話し手からの妻帯である。しかし、そのことが(7

土臭甘展な文で為ると息わせる理由ではない。

(8)「正ちゃん、かんばら庵廿ればだめよ。でないと、

阻地の子供たヰに追い越されて⊥まうわ」(石川正

ノ一、「た之えぽくに明月はなくとも」)

一気は親が子供を励まtている場面である。シ妄「がんばる

べ琶よ」と言うと不自薦籠感じちれる。この例にみられるように、親が幼い子供に対して何々かの行為を虐属する時、「〜

しなさい」という命令の形や「なければならない」が多く使わ

れる。親が子供に題意叩する慧ロにはその美現を強制している、

あるいはその実現を大童く撃てい虻のであって、子供の意

志は考慮に入れていない。つまり(7)、‑(せの例ともに話し手がその実現を強制あるいは大壷く期待している鱒「な骨ればならない」が使われ」それゆえに瀾き手の意志の白眉度は

小さい。 くべ虐だま」でも、1もちろん良いのであるが、「べきだ」とし

た場合賄盲手Ⅵ墨壷に任せた表現となり、妻帯した毛し手具

その事態の実現への期待が小さい、あるいは関心が薄いという

こと碇なる。「なければならない」の文は行為主体の意志の自由度は小さいが、かえ」てそれが親身な表現となるのは(旦

Ⅵ例からも分かるであろう。

主のように兼⊥手側が実現を期待しての要請かどうかが」㌧聞

き手の意志を董するかど・つかに潔く関わる。「なければな・万

ない」は話し手がその事態ゐ実現を強く期待しての表現なだlナ

に、開巻手の意志は入り克くい。一方「べきだ」は話し手白身

がその実現を期待す馬鹿合いが低い。■はって聞ぎ手の意志に任

される度合いが高く、意志が尊重さ勃ることになる。童た実現

が期待される度合いは、話し手からの要請の場合よりむしろ状

況的妻帯の場合の方が強い.ことが多い。(l)〜(3)が「なければならない」しか使えないめもそのためであると考えれば

理解で轟る。

(二)行為主体が話し手の場合

次に話し手が自分自身の行為克っいて述べる慧暑考える。

(10)

「あまり時間がないの。本当はここに釆ちゃいけな

いんだけど、ちょっとした時間見つけて釆たのー′。だ

(9一)・「廿ぜい熱だ。病院に行かなくちゃいけ克いよ」

これも葡t辛が「病院に行くこと」を強く撃ている。「行

か・セすぐに戻ら克くちゃいけないのよ」.(村上春

「ノルウェイの森」)

(6)

(10)は話し手がその実現を期待しているというより状況的に

その行為の実現が妻帯されている。こⅥ文が自分から好んです

るという感じがしないのは状況的妻帯が強い証拠である。

(1・1)

「役人のケツをひっぱたいて、何とかし割引」馴1ね」

(石川正一「たとえばくに明日偲なくとも」)

(12)

「・=・■・別にだれのために芸者になったわけじゃな

いけど、するだけのことはしなければいけないわ」

(川端康成▼「雪国」)

(封)、▼(12)の例は、状況的妻帯が強く、実現が困難であっ

てもそれを乗り越えようとする存し手の前向重な姿勢が感じら

れる。この前向きな姿勢は、話し手の実現への意欲が大きくな

ると「〜したい」という気持ちを表すことになる。

′(13)

「あそこの店のうなぎ、おいしいんだよ。食べたこ

とある?」

「本当?

それは是非いつかご一緒し矧割判」

(14)

「せっかく釆たんだから、楽しまヨ司」

(13)、(14)ともに話し手の「〜したい」という気持ちが表

れている。(13)は「あそこの店のうなぎがおいしい」という

事実が状況的妻帯になり、それに基づいて話し手はその実現へ

の意欲が大きくなり、自分の行為を促している。(14)は話し

手自身の実現への意欲が大さく、話し手自身あるいは聞き手や

も.っ′上多くの人に対しての行為の促しになっている。

自分目鼻の行為の促しという意味では、独り言が挙げられる。 (15)あんなヤツに礼を言わなくてはならないとは。

この表現は明らかに「言いたくない」のである。しかし、同様

の表現で、状況が異なると全く違ったニュアンスになる。例え

ば、友人から誕生日のプレゼントが送られてきた時、

(16)早速、あの子にお礼を言わ葛

この表現は状況的にう必要だから」とか「仕方なく」といった

義務感よりも、「言いたい」気持ちが強いと思われる。つまり

(15)は状況的妻帯が強く、話し手の実現の意欲に反し・ている。

このため、義務として感じられ「仕方なく」という意味が表れ

る。それに対して(16)は状況的な妻帯以上に話し手目鼻の実

現への意欲が大善い。このように嘗舌し手の実現へ

の意欲のどちらが強いかによって、義務的な拘束を表すか、実

現への欲求を表すかが決まるのである。

次に「べ垂だ」の文で行為主体が話し手である場合(帯し手

自身の行為について述べる璧口)をみることにしよう。まずこ

こで「なければならない」と「ベjだ」の文の行為主体の違い

について述べてみたい。

(17)a(私は/君は/彼は)傘を持っていか矧刷れl刷

ならない。b(?私は/君は/彼は)傘を持っていく.想見叫。

「なければならない」の文は「私は/君は/彼は」のすべてが

行為主体になりえるのに対して、「ペきだ」の文では「私は」

は行為主体として考えにくい。このことは「なければならない」

(7)

の文で話し手自身が行為主体の慧ロ、「べきだ」に置き換えら

れないことからもわかる。

(18)

a

「じゃあ、俺はこれから、仕事で出掛け矧酬抽

・ばならない」\(井上靖「その人の名は言え

■‥【ない」)

b?「「じゃあ、俺はこれから、仕事で出掛ける叫劃

矧」・

「べきだ」が話七手白身の行為について表しにくい苦は二つ

あると考えられる。第一・に意志の董という点である。「べ善

だ」は「話し手が安当であると判断したことの行為主体への妻

帯」を表す。この.場合、話し手が巽当であると判断したことを

話し手目身へ妻帯する。、また行為主体と話し手が一致するため

に話し手の意志が董されることになる。行為をするのが自分

自身でありながら、してもしなくてもその意志を尊重するという表現は奇異である。集二に先に述べたように、「べ琶だ」は

葡し手が安当であると判断したことを妻帯しながら、その事億

の実現に対する期待は小さいという点である。′警手白身の行

為について述べる璧ロ、自分で妥当であるという判断をしてお.

きながら実は実現を期待していないという矛盾がおこる。.以上

が「ペきだ」を話し手自身の行為につぃて使うことが.でさない

理由であると考えることができるのではないだろうか。

ところで実際には「べきだ」を話し手自身の行為に使うこと

ができる萱ロもある。・

(柑)「お医者さんに見てもらうべきかしら・‥?」

人20)

「準備のために早く行くぺl割かなあ」.■

これらは自問または独り言であると考えられる。「かしら」

「かなあ」は缶し辛の不確かな態度や迷いや躊躇の気持ちを表

す。同様に、

(21)このことは、ここだけの常にしておく叫劃だろう。(望彼女にその事件について教える叫引かもしれない。これらも話し手目鼻の独り号弓あるぃは心の中のつぶや書で為

ることがわかる。(19)〜一(22)までいずれもはっ重りと言い

切らない表現であり、終助詞や「だろう」「かもしれない」等

が付けば、話し手目鼻の行為についても表すことができる。一

方、

(23)?病院に行く叫割にちがいない?

は不自然に感じられる。まず、「べきにちがいない」一という言

い回し自体が不自然に思われる。また(19)ト(2・2)」は行為重

体が話し手自身であったのに対し、(23)では行為主体が話し

手白身ではなく、話し手以外の牲かであり、そ・の行為に対する

話し手の推苦衷すように感じられる。不自然さの理由は明ら

かではないが、このことも興味深い点として挙げられるであろ

う。

度然の動作を表す用法

(8)

→塞ければならない」と「べきだ」の文でもうーつ興味深い

特徴がある。これまでみてさたものは、行為主体が話し手自身

である時にしろ、行為主体が話し手以外の時にtろ、すべてこ

れからの行為に対しての言及であった。まず行為主体が話し手

以外でヾ働きかけの場合には、「傘を持っていかなくちゃぃ軒ないよ」、「傘を持っていくべきだまも共に今まで持っていない状態、つまり未然の動作に対しての言及であ亀次に行為

主体が苦し手自身である場号「傘を持っていかなくちゃ」、

「傘を潜っ七いくべ善かなあ」も共碇、これから先の行動につ

いての重心あるいは農であをしかし虻がら「なければなら

ない」.打文は未然の行動についてばかりでなく、現在その行動

を行い尤がら言うこともできる臥

(24)

「子供がいつも泥んこになって帰ってくるから、毎

日洗濯しなくっちゃいけない」

この言葉には二つの場面が考えられる。一つはお母さんが洗濯

を始めを前につまり未然の状態で言った青畳苛あり、もう一つ

は実際に洗濯をしてい虐局中、ヤレヤレと思いながら言■った言

葉である。ここでは後者の場合に注目したいのであるが、「洗

濯を⊥ながら」というように現在もう既にその動作を行っている状況の上で「なければならない」は使えるのである。またそ

れと同時に以前から毎日行っているという繰り返tも表すこと

ができる。次の例をみてみよう。

(25)

a洗濯しなくちゃいけない。 b洗濯すべきだ。

(25b)の文は未然の萄つまり「〜㌧ていない状態」に対

して「十べきゼ」と述べている。二ぺ.(25a)のままの文で

あると、行う前つまり未然の状態の時に苦っているのか、.現在

行いなぜ言っているのか判断しにく卜。もし「さあ、洗濯t

なくっちゃい廿ない」と言うのであれば、行う前の表現となる

が、「毎日/いつも/また/こうして」などの副詞をつけるな

らば、「現在もサ既にその動作を行っている」と、いう既然の意

味を表しやすい。ところが(25b)に同じ副詞をつけたと⊥て

も少なくとも「現在はそのようにしていない状態」に対して述

べていること.になる。つまり「べきだ」の文では常にまだ行っ

ていない、未然の動作に対してのみの言及となる。一方、「な

ければならなけ」の文は未然の状態で述べる場合と」もう既に

その動作を行いながら述べる場合の両方が考えちれる。このこ

とば「なければならない」の文は副詞や前後の文脈によって動

作の未然に発した表現か、既然のものかが決定されるというこ

守を示している。次の例も同様である」いつも待ち合わせに遅れてくる友人に対して、

(26)a「どうしていつも私ばっかり待たされ凰り引可

川副瑚川の?」

、b?「どうしていつも私ばっかり待たされる珂割なl

の?」

これも「もう既に待っている」という状況がある上で、つまり

(9)

既然の動作について述べている。これを「べきだ」と交換する

ことはで重ない。「私がこの他事をやるべさなの?」のような

未だ行っていない、つまり未然のことに対してほ同じ形でも述

べることができるが、「なければならない」のように既然の動

件で「現在もう既にその状況克ある」という意味は表せないの

である。

次に「なければなちなかった」と「べきだうた」をみてみよ

,つ。

(27)・8(?私は/君は/彼は)傘を持っていく叫劃抑叫。

b(私は/君は/彼は)傘を持っていくべきだった。

C(私は/君は/彼は)傘を持っていかなければな

Iセなかった。

「べきだ」では行為主体が話し手自身の慧ロ、その行為につい

て言及で重なかヶたのに対して「べきだった」では話し手目

身の行為について言及できる。∴しれまで「なければならなかっ

た」と「べ畠だった」について、坂田・倉持(一九八〇)(一

九九三哉訂版)、森田・松木(一九八九)、丹羽(一九九一)によって研究がなされている。このうち森田・松木±九八九)

は次のように述べている。過去形「克ければならなかった」曙ある行動や態度を

とることを義務・当然と判断したのが過去の時点であるこ

宜蒜す。実際にそのように行動したか香かに制約は及ば

一ず、どちらも可能である。(中略)ところが過去形「べき だった」は、話し手が現在の視点から過去を回想して、その時点である行動や態度をとることが最も望ましかったと判断するものである。従って、実際にはそのような行動や態度をとらなかったことに対して反省・後悔を表明する場合が多い。

「べき署った」については坂田・倉持(一九八〇)(一九九三

改訂版)、丹羽(一九九こもこれと同じ考えを示している。

しかしながら丹羽(一九九一)は「なければならなかった」に

ついて、

「なければならなかった」は現在の立場から過去の状況

について叙述する場合②(筆者注二)と、共時視点からそ

の.時点の状況について叙述する場合⑨(輩着任三)があり、

両者とも判断を表すことも知識表明を表すこともあるとい

うことになる。と指摘している。(27b)、(27C)を見ると森田・榛木の指

摘どおり「べきだった」ではこの言い切りの形のままで「実際にはそのように行動しなかった」というように意煉を決定して

いるのに対して、「なければならなかった」は状況によっては、

あるい′は後に続く文によってはどちらにも解釈できる。ここで

先北見た「なければならない」と「べきだ」に共通して言うこ

とがで篭るのは動作の夷然か、既然か、という点である。ここ

でも「べ垂だった」.は「ベ.きだ」と同様に常に実現しなかった

こと、つまり未然の動作しか表していない。一方、「なければ

(10)

ならなか㌧た」は「なければならない」.と同じく未然、既然の

動作ともに表しうる。「なければならなかった」が用いられて

汗る例で、既然の動作であると解釈できるものには状況的妻帯

を強く感じる。

(28)しかしおじさんの資力なんてたかがしれているから、

そこでおじさんは、あらゆる人にむかって説得し嘲

ければなIセなかった。.(北杜夫「ぼくのおじさん」)

(調)飛行機に乗っていて」ちょっと興著して大声を出すと、南後左右のお客からにらまれて、親としても

「シーツ」といわなければな月ませんでした。(原

ひろ子「子どもの文化人類学」)先に実現が期待される度合いは、話し手からの書簡の場合より

も、むしろ状況的妻帯の場合の方が強いことが多いと述べた。

ここで状況的妻帯が懐く感じられるということは、実現への期

待の雲ロいが強かったということであり、このために実現した

ことを表すと考えられる。一方、未然の動作であると解釈でき

る例をみてみよう。

(30)もっと早くこの仕事をやら嘲別封嘲ら引瑚糾っlね。

これは「べきだった」の意味にかなり近い。次に「べきだった」

の例をみてみよう。

(31)

「君が苺のショート・ケーキを食べたくなることく

らい推察するぺきだった」(村上春樹「ノルウェ

イの森」)

(30)

(別)∴からは状況的妻帯はほとんど感じられず、話し手

の判断が示されている。話し手の判断せいうのは状況的妻帯ほ

どの強制力をもたず、また実現を期待する度合いも小さい。こ

のことによって「実現しなかった」という意味を表す表現へと

移行したと考えられはしないだろうか。従来言われて重た、現

在の視点か過去の視点かと小うほかに、この点も考慮に入れる

ことができるであろう。

まとめ、

本稿では行為主体の意志の自由度に注目しで考察を進めた。

ここで「なければならない」と「べきだ」の基本的な意味は次

のようであると考える。

なければならない…・行為主体の意志の有無に関わらず、状況的

にあるいは話し手からの実現への強い要請。

べきだ・………・・話し手が状況的に妥当で為ると判断したこ

との行為主体への覇この時、行為主体

の意志は尊重される。

行為主体の意志の自由度は状況的妻帯と希し手の妻帯に左右さ

れる。この話し手の妻帯も、話し手がその事態の実現を強く期

待してか、そうでないかによって行為主体の意志の自由度は大

(11)

きく変わる。「なければならない」の文の場合、状況的にも話し手からもその手態の実現が強く期待される。この時行為主

体の意志は考慮五入れられないために、行為主体の意志の白呂度は小さくなる。行為主体が話し手目身の埠状況的な妻背以

上に話し手の実現へⅥ義が大きガれば、夷現への欲求を表す

ことに克勺、⊥〜し莞」と小う気持ちが表われる二布状 況的凄帯の度合いの方が強い慧昆は、義務的な拘束を表すこ と思†「↓⊥たく尤い」▼という気持ちが表われる。「べき だ」ふ文は、一話し手が状況的に妥当であると判断したこ浅行

為主催へ風妻帯である。しかtながらこの時話し手はその事態

の実現を必ずレも期待していない。このために行為主体の意志

の白眉度は大善くなる。親が子どもに対し重電する時や辻葎

の文で「べきだ」が使われないのはここk理由があると言える

だろう。また「なければならない」宣r「べきだ」の文で大童な

相遠点とは、既然の動作を表せるか香かである。「べきだ」は

常に未然の動作しか表すことがで重ないが、「なければならな

い」は未然、既然の撃もに表すことができる。・このことは

逆に言うと、「べきだ」の女はその文のみで意味が決足音れる

が、「なければならない」の文の意味は前後の文脈や副詞によって左右さ勃むところが大きいと言えるだろう。

(健一)ここで益岡は判断のモダリ一㌃句中で、命題の内容に

対する許し手の確かさの判断を表す「真偽判断のモダリテ ィ」とは別のカテゴリーとして、・命魔の内容に対する話t手の価値判断を表す「価値判断のiダリティ」を蔑める必要がある切ではないかと捷喝してい.る。

(注二)丹羽は②a、b、Cとして知識表明を表すものを二例、

発話時の当為判断を表すものを一例挙げている。

(注三)丹羽は⑨a、bとして小鋭など周文章においてみられ

る、物故笹界に層点をおいて叙儀七(垂)ながら、

同時にそれを語り手の誇る現在かち回想する(回想視点)一一

例庵挙げている。

【参考文献】

坂里芋・倉持保男(完八〇)『教師用日本宴育ハンイブ

ック⑯文法甘助動詞を中心にして』(改訂版一九九三)

凡人社

渋谷

勝己(一九八八)

「江一芸柑・東京帯の当為表現‑後部

要素イケナイの成立を中心にー」

『日本学報』七号

大阪大学

須田義治(・一九九一)「『なければならない】の文」

本青学科年報』二二束京外国語大学

田中 章夫(一九六七)「江戸語・東京話ほおける当為表現の

変遷」、『国告と国文学』四十四巻四号..束帯大学

〓九六九)「近代東京嵩高当為表現」『佐伯博士

盲稀記念国語学筆

表現社.

(12)

(一九八七)「思想と表現」

『量感6

時代

と文法丁現代詩』

寺村 秀夫(一九八四)『日本罷のシンタクスと意味甘こ

ろしお出版

仁田義雄(一九九こ

冒本籍のモダリティと人整.ひつ

じ書房

丹羽 哲也(一九九こ「『べきだ】と『なければならない』」

『大阪学院大学人文垂二十三・二十四号

益岡

隆志(一九八七)

「モダリティの構造と雫価値判

断のモダリティをめぐってー」

『日本語学』六巻七号

明治書院

(一九九一)『モダリティの文法』くろしお出版

益岡隆志・田窪行朋(一九九二)

『基礎日本軍改訂版』

くろしお出版

森田

良行(一九八八)『日本帯の類意表現』‥創択社

森田良行・松木正志(一九八九)『日本育表現文型用例中心・

複合辞の意味と用法』アルク

【例文を引用した資料】

石川 正一

Fたとえばくに明日はなくとも』立風書房

井上

『その人の名は言えない』文婆春秋

川端 康成

『雪国』岩波書店

杜夫

Fぽくのおじさん一新潤社

ひろこ『子どもの文化人類学』

村上

春樹▼『ノルウェイの森』

【付記】本稿は、一九九四年度卒業論文として連出したものを

書き改めたものである。

参照

関連したドキュメント

[巻頭コラム] 伝わらなければ意味がない ▪結城

(vi) テンスというカテゴリーは,動詞だけにあるのではない。形容詞(形容動 詞)にもあるし,名詞の

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○大きい→でっかい ○晩方になって→夜になって ○戻って⇒帰って ○貰えんかな→おくれ

など)

きめの細かい対応をしなければ、信用を失うこ ともあるだろう。対応が安全サイドに多少比重が

1918 年に、デイジーはトムの妻になった。5 年後 に、大富豪になったギャツビーはデイジーを取り 戻そうとする。その手段として、まず、彼はデイ

同じく寿量品にいう。 「その他の本心を失ってしまった者(末法の衆生)は,その父(仏)が