本論文の狙いは︑一般に評判の悪いヘーゲルの歴史哲学をもう一
度新たに考え直してみることにある︒それは勿論︑悪評に対して過
去の人間ヘーゲルを擁護することではなく︑誤解に満ちた批判に
よって覆われてしまった論点を掘り起こすことによって現在に生き
るヘーゲルの真理を語ることである︒
我々人間は︑あれこれの個々のものについてばかりではなく︑同
じ種類のもの一般やさまざまな種類のものの全体についても興味と
関心を抱く︒そこで例えば︑世界全体や人生全体について︑世界は
なぜ存在するのか︑人生にはどんな意味があるのかといった問いを
立て︑何か答えを得ようとして心を砕く︒
そして︑時間に沿って展開される人間的な出来事の総体である歴
史についても︑我々は︑歴史には一体どんな意味があるのか︑人間
は歴史を通じてどこか一定の目標に向かっているのかといった︑ 一哲学における歴史の問題 知と生lヘーゲル歴史哲学再考I
個々の歴史的な出来事ではなく全体としての歴史にかかわる問いを
立てる︒こ︑フした全体としての歴史の意味や根拠や目標を問︑フ問い
は︑一つの形而上学的な問いである︒形而上学的な問いは﹁理性が
斥けることもできず︑さりとてまた答えることもできないような問
題﹂︵カント︶として根本的な難しさを負っている︒
歴史を一つの全体として語ることができるためには︑我々は形而
上学的な原理︑あるいは超越的な理念を必要とする︒ところが反対
に︑歴史が︑我々人間によって記述され語られることによって初め
て成立することからすれば︑歴史それ自体の中に存在する原理や︑
歴史それ自体の中で実現されていく理念と言ったものを把握するこ
とはできない︒たとえ必要だとしても︑そうした原理や理念は︑カ
ント的な表現に従えば︑構成的にではなく︑ただ規制的にのみ使用
されるだけである︒
果たして歴史は︑一つの理念が実現された現実︵真理︶として考
えられるべきなのだる﹃フか︒それとも︑あたかも一つの理念が実現
された現実であるかのよ︑フに︵虚構︶語られるべきものなのだろう
菊地惠善
︵虚構︶語られるべきものなのだろミフ
ー
237
㈹へIゲルの歴史哲学
ヘーゲルの歴史哲学も︑正に歴史哲学である限り︑このアポリア
に一つの解決を与えている︒ヘーゲルの解決とは︑歴史を構成する
原理を単なる抽象的な説明原理としてではなく︑歴史を動かす原理
そのものとすることであり︑歴史を単なる出来事の連鎖としてでは
なく︑この原理が実現されていく過程そのものと考えることである︒ か︒歴史を把握することは︑形而上学的な思弁に陥らざるを得ない のである︑フか︒それとも︑歴史は︑その中で生きる我々人間にとっ ては決して最終的に把握され尽くされないものとして理解されるべ きなのだろ︑7か︒
歴史とはこうして︑一方で︑それが単なる出来事の混沌とした堆
積ではなく︑一定の意味を持った出来事の連関であるとすれば︑そ
うした連関を構成するための原理や理念を必要としながら︑他方で︑
そうした原理や理念は具体的な出来事の理解や説明を一義的に決定
するものではありえない限り︑いつでも修正され否定されざるを得
ず︑仮定された前提に留まらざる得ない︒歴史を記述するための原
理や理念は︑具体的な出来事を説明するためにはその地平を越えて
いなければならないが︑任意に想定された︑出来事の地平と全く無
関係なものであるならば︑出来事を十分に説明することはできない︒
歴史についての哲学的考察は︑歴史的な出来事と歴史を説明する原
理との間にあるこのアポリアに答えなければならない︒
ニヘーゲルの歴史哲学とそれに対する批判 知と生lヘーゲル歴史哲学再考I︵菊地惠善︶
つまり︑出来事と原理を同一化することである︒
ヘーゲルの﹃歴史哲学﹄の核心は︑次の文章に示されている︒
﹁哲学が提供する唯一の思想は︑理性が世界を支配するというこ
とa農島①ぐ①g巨具喬呂①雪①岸冨言周胃言︶︑したがって世界史に
おいてもまた一切は理性的に行われて来たという︑単純な理性の思
︵1︶ 想である︒﹂
﹁要するに︑世界史とは自由の意識の進歩a国司○1門言葺言
国①言晨厨の冒旦閏軍国言邑を意味するのであって︑lこの進歩を
︵2︶ その必然性において認識するのが︑我々の任務である︒﹂
﹁理性﹂とい︑7原理︑あるいは﹁自由﹂とい︑7理念が︑歴史を構
成するための操作概念ではなく︑それに基づいてのみ初めて﹁歴史﹂
が﹁歴史﹂として把握されるよ︑フな歴史についての根本思想である
というへIゲルの主張は︑ヘーゲル自身認めているように︑思弁が
自分で作り出す思想と︑何よりも先ず所与の事実に基付けられなけ
ればならない歴史とを︑異なった性質のものとして分離して考えざ
︵3︶ るを得ない常識にとっては︑容易には理解できないものである︒確
かにそれは︑予め哲学的に理解された抽象的な原理を異質の領域に
無造作に適用しよ︑7とする無謀な独断であるようにも思われる︒
原理と事実︑理性と現実との同一化を︑ヘーゲルは歴史哲学の中
では︑目的論的な仕方で説明している︒つまり︑﹁自由﹂とい︑フ目的︑
﹁情熱﹂という手段︑そして︑目的の実現された形態である﹁国家﹂︑
これらの契機からなる目的論的説明である︒﹁世男史的個人﹂や﹁理
性の狡智﹂といった周知の言葉は︑普遍的な目的と個別的な手段と
を同一化するための目的論的な説明概念である︒ 一一
ヘーゲルの歴史哲学は︑原理と事実︑理性と現実を同一化するこ
とによって︑人間の具体的な行為が孕む主観的な意図と客観的な意
味との分裂を引き受けながら︑単なる偶然でもなく︑かと言ってま
た︑予め決定された宿命でもないものとして歴史を語る可能性を基
礎付けるものである︒歴史は︑物語られるからと言って虚構ではな
く︑事実に基づくからといって報告ではない︒歴史は︑理念が実現
される過程であり︑そうしたものとして把握されて初めて我々に
とっての﹁現実﹂となるのである︒
②ヘーゲルの歴史哲学に対する批判
ところがしかし︑ヘーゲルの歴史哲学は︑歴史を﹁現実﹂として
把握するとい︑フ企図に成功した正にその点において︑批判され否定
されるのである︒比聡的に語れば︑虚構ではなく現実であることを
証明した途端に︑その証明が一つの虚構に転じるのである︒へlゲ
ルの歴史哲学に対して向けられてきた批判は︑例えば︑次のような
ものである︒
①歴史の流れの中に属し︑しかも︑無限に続く歴史の時間に比べれ
ば︑はるかに短い有限な時間しか生きない我々人間は︑歴史の全
体を傭職し︑その意味を一義的に決定することはできない︒我々
によって記述された歴史︑物語られた歴史は︑それ自体あくまで
歴史の産物であり︑自分だけが歴史を越えていると主張すること
はできない︒
②歴史の全体を動かすような究極の主体を想定する歴史観は︑行為
の主体としての人間を歴史の運動の手段や材料と見なすものであ
知と生lヘーゲル歴史哲学再考I︵菊地惠善︶ り︑個人としての人間の自由を否定する危険がある︒ そこで例えばツァラトゥストラーニーチェは︑一切の事物を貫く
﹁永遠の意志﹂や﹁合理性﹂を否定し︑人間の自由を次のよ︑フな
祝福の言葉によって主張する︒﹁一切の事物の上には︑偶然
含昌呈︶とい︑フ空︑無垢︵己易呂昌gという空︑気まぐれ
︵○言需壷言︶とい︑フ空︑放恋︵d言﹃日三︶とい︑フ空がかかって
︵4︶ いる︒﹂
③歴史の全体の意味︵例えば︑人間の自由や幸福の増大していく過
程︶や歴史の全体としての傾向︵例えば︑文化が向上発展してい
く過程︑反対に︑文化が堕落し腐敗していく過程︶などを考える
ことができるにしても︑それは常に一定の観点や基準の下にであ
る︒したがって︑たとえ歴史の全体の意味や傾向を指摘できたと
しても︑それによって歴史そのものを全面的に捉えたと考えるの
は︑事柄の単純化に基づく錯覚に過ぎない︒歴史は多面的に語ら
れるのである︒
④歴史を進歩や発展と見る見方は︑現在をその進歩や発展の完成と
してか︑完成に至る過程としてか見ることになり︑いずれにせよ︑
現在を積極的に肯定する態度に帰着する︒こうした歴史観は︑過
去に対する優越と未来に対する信頼に生きる素朴な楽天主義であ
ヲハロ︒
⑤歴史をある目的が実現されていく必然的な過程と見る見方は︑人
間の行為の意図や結果における悪をも必要悪として肯定する反道
徳的な立場となり︑過去になされた行為の解釈については無害で
あっても︑現在なされつつある行為に対する対応としては無力に
一一一
ぜ新たな歴史の研究の分野として構想されなければならないのか︑
これらの問いは︑既に出来上がったものとしてのヘーゲル歴史哲学
の基本前提であり︑歴史哲学以前に本来の哲学の中で証明されるこ
︵6︶ とである︒
したがって︑ヘーゲルの歴史哲学は﹁理性が世界を支配する﹂と
いう思想をすでに証明された前提として進められるのであり︑序論
なしに始められるのである︒そして実際︑ヘーゲルが読者に求める
︵7︶ ことと言えば︑﹁理性に対する信念﹂を共に抱くことなのである︒
では︑歴史哲学の基本前提は一体どこで証明されているのだろう
か︒原理と事実︑理念と現実との同一化は︑どこで証明されている
のだろミフか︒
そこで︑歴史哲学の核心に位置する問いを設定し︑それに対して
ヘーゲルがど︑フ答えているかを見ていくことにしたい︒それは︑世
界史が﹁理性が世界を支配する﹂という思想によって哲学的に考察
されるのだとして︑理性はなぜ歴史的に展開されるのか︑という問
いである︒超時間的で普遍的なものと考えられる理性と︑時間的な
事実であり特殊的なものと考えられる歴史とが︑なぜ一体化して理
解されるのだろ︑フか︒
こうした問いに一定の答えを与えているのは︑﹃精神現象学﹄にお
ける論述である︒そこでは﹁歴史﹂は︑精神の自己知としての﹁絶
対知﹂に達した﹁学﹂︵論理学︶の観点から︑純粋概念の形式が外化
する場面として位置付けられている︒精神が外化される場面として
考えられているのは︑周知のよ︑フに︑時間における生成としての﹁歴
史﹂と空間における生成としての﹁自然﹂である︒
知と生lヘーゲル歴史哲学再考I︵菊地惠善︶ ﹁この犠牲が外化であり︑そのとき精神は︑自らの純粋な自己を
自らの外なる時間として︑また自らの存在を空間として直観しなが
ら︑自ら精神になることを自由な偶然な出来事の形で現す︒この空
間の生成︑すなわち自然は精神の生きた直接の生成である︒自然す
なわち外化された精神は︑自ら定在する時︑自らの存立を永遠に外
化しているのにほかならず︑主体を回復する動きをしているのにほ
かならない︒だが︑生成のも︑7−つの側面は歴史であるが︑これは
知的な︑自己を媒介する生成a閉ミ爵§号︑凶geミミ︽暑き号
雪①ag︶である︒つまり︑時間において外化された精神である︒だ
が︑この外化はまた自己自身の外化でもある︒つまり︑否定的なも
︵8︶ のとは自己自身を否定するものである︒﹂
ここでは︑﹁歴史﹂は﹁精神﹂の外化する場面︑しかも﹁自然﹂と
は異なって︑直接的ではなく︑﹁自己を媒介する生成﹂が行われる場
面である︒
﹁歴史﹂を﹁精神﹂や﹁理性﹂の実現される場面として認識する
ことが可能となるのは︑こうした前提の上にのみであろう︒しかし
他方で︑ヘーゲルは︑そ︑フした認識は﹁精神﹂の自己知として完成
すると考える︒この点からすれば︑﹁歴史﹂は最終的には﹁精神﹂の
自己知にくまなく止場されることになる︒そこで︑次のよ︑フに述べ
られることになる︒
﹁時間とは︑定在する概念a①﹃即喧塁認の①吾巽.号﹃暑量︶︑空
しい直観として意識に表象される概念そのものである︒それゆえ精
神は︑当然時間の︑うちに現れることになる︒そこで精神は︑自らの
純粋概念を把握していない限り︑すなわち︑時間を滅ぼしていない
五
233
限り︑時間のうちに現れることになる︒時間は︑自己によって把握
されていない純粋な外的な直観された自己であり︑直観されただけ
の概念である︒この概念は︑自己自身を把握するとき︑その時間形
式を廃棄し︑直観を概念把握する︒そこでこの概念は概念把握され︑
また概念把握する直観である︒それゆえ時間は︑自らにおいて完結
していない精神の宿命であり︑必然性a閉め9月冨巴巨呂&①
zg弓呂&婆①詳号の⑦凰巽隅︾Q閂昌o寓言四号ぐ二g号匡解︶である
︵9︶ o
﹂
﹁精神﹂と﹁歴史﹂についての論述と︑﹁精神﹂と﹁時間﹂につい
ての論述とでは︑明らかに矛盾したことを述べているよ︑フに思われ
ヲ︵︾O
両者を統一的に理解するには︑どうすればよいだろうか︒一つ考
えられるのは︑﹁歴史﹂において外化された﹁精神﹂は﹁客観的精神﹂
︵﹁精神哲学﹂︶であり︑自己自身を把握することによって﹁時間﹂
を滅ぼす﹁精神﹂は﹁絶対精神﹂であるとする解釈である︒この場
合にはしかし︑その﹁時間﹂と﹁歴史﹂との関係が︑﹁絶対精神﹂と
﹁客観的精神﹂との関係にずらされただけであるから︑その両者の
関係について︑両者がどのような関係にあるのかが問われることに
︽〃今ヲ︵︾︒
もう一つ考えられるのは︑﹁歴史﹂の︑うちに外化した﹁精神﹂は︑
自己自身を概念的に把握した時点で﹁歴史﹂を乗り越えるのだとい
う解釈である︒この場合にもしかし︑﹁歴史﹂は﹁精神﹂の自己知と
い︑フ目的に達して完結するのか︑最終的に否定され乗り越えられる
べき﹁歴史﹂の場面に﹁精神﹂はどうして外化するのか︑こうした 知と生lヘーゲル歴史哲学再考I︵菊地惠善︶
①時間と概念
まず︑時間と概念との関係から見ることにしよう︒
時間が﹁現存在する概念﹂であると言われているのであるから︑
﹁現存在する﹂という限定を取り去れば︑時間と概念とは本質にお
いては同じ構造を持つと予想される︒ヘーゲルはしかし︑時間と概
念の同一性と差異性について詳しい説明を与えていない︒
そこで︑両者の関係を理解するためには︑時間と概念のいずれか
一方を手掛かりに解釈を進めなければならないことになる︒我々に
とってより身近かで理解し易いのは︑ヘーゲルの考える概念よりは
むしろ時間である︒しかし︑時間と言っても﹁現存在する概念﹂と
してへlゲルが考えている時間が︑どうい︑フ種類の時間であるかが
そもそも問題になる︒
時間は多様に語られる︒点的今の無限の連続としての物理的な時
間︑未来・現在・過去からなる意識の時間︑政治制度や社会組織あ
るいは文化的な特徴によって区分される歴史的な時間︵時代︶など
である︒﹁絶対知﹂の章で精神の外化する場面としてヘーゲルが︑空
間への外化としての自然と時間への外化としての歴史とを考えてい
ることからすれば︑ここで時間とい︑うことで考えられるのが︑特に 根本的な問いが提起されることになる︒
どの解釈をとるにせよ︑解明されなければならないのは︑精神と
歴史︑概念と時間とがどのような関係にあるのかということである︒
四概念・時間・歴史についてのヘーゲルの考え方 一ハ
︵皿︶ 歴史的な時間ではないかと理解することもできる︒
しかし︑ヘーゲルが現存在する概念としての時間に触れている箇
所を見ると︑その時間が決して歴史的な時間に限定されていないこ
とも明らかである︒その箇所とは︑数学では生きた現実は認識でき
ないとして︑数学的認識の限界を批判した﹁序論﹂である︒数学的
認識は本質において︑量すなわち非本質的な区別しか考察しない︒
そこで︑数学が時間を扱うにしても︑時間は量的なものとしてしか
扱われない︒しかし︑ヘーゲルによれば︑﹁時間は現存在する概念そ
のものa閂含の凰己①国の噌霞の①弓のcである︒大きさの原理という
概念のない区別の原理と︑相等性の原理︑つまり︑生命なき抽象的
統一の原理は︑時間における生命の例の全くの不安定と絶対的区別
︵時①旨の己日号の号の斥意ロ切匡豆号の︒言①ご三角の︒言昼匡信︶とを把
握することができない︒それゆえ︑時間という否定性は︑麻簿させ
られたもの︑つまり一に過ぎないものとして︑数学的認識の第二の
︵u︶ 素材におとしめられている︒﹂
ここでヘーゲルが考えている時間は︑数学的に扱われる時間︑物
理的な時間ではない︒そうした時間は︑﹁現存在する概念﹂としての
時間を捉えてはいないとされる︒時間は同質な単位︵一︶の連続性
ではなく︑また︑時間の統一とい︑フのも︑大きさ︵量︶としての統
一ではないとされる︒本来の時間は︑﹁生命の例の全くの不安定と絶
対的区別﹂を持ち︑その統一は量的なものとして考えられるような
抽象的な統一ではなく︑時間の否定性を内に含んだ統一だとされる︒
絶対的な区別を持ちながら︑しかも︑ある質的な統一を持つ時間と
は︑生きた時間︑我々人間の生きた時間をおいて他にない︒
知と生lヘーゲル歴史哲学再考I︵菊地惠善︶ そこで次に答えられなければ︑時間が概念であるということ︑し かも︑﹁定在する概念﹂であるということの意味は何かであり︑概念 としての概念が﹁定在する概念﹂である時間とどう異なるのか︑と い︑うことである︒
時間としての時間︑つまり普通に理解されている時間とは︑区別
の面からすれば︑一秒一分一時間といった単位としての時間であり︑
相等性の面からすれば︑量としての時間である︒こうした物理的な
時間に対して︑人間的な時間について見れば︑区別の面からすれば︑
過去・現在・未来であり︑相等性の面からすれば︑過去・現在・未
来の区別を越えて三者を関係付ける今である・過去は過ぎ去った今︑
現在は今の今︑未来はやがて来る今であり︑この今から見れば︑過
去・現在・未来は︑時間的な位置の違いを度外視すれば互いに等し
い今とい︑うことになる︒
時間が﹁定在する概念﹂であるにもかかわらず︑それを把握でき
ない理解の仕方としてヘーゲルが念頭においている態度を推察すれ
ば︑おおよそ以上のよ︑フな日常的な理解のことが考えられる︒だと
すれば︑このことから反対に推察できるのは︑﹁定在する﹂という限
定が付くにせよ︑概念の現象形態である時間は︑真実にはこのよう
な理解によっては把握できないとい︑うことである︒
単位としての時間や今とい︑フ位置的時間によって平均化された時
間ではなくて︑本質において概念であるとされる時間が︑一体どの
よ︑フな時間であるのかが示されなければならないことになる︒
( 2 )
ハイデッガーの解釈
七
通り︑現在において︑あるいは時間的現在としてそれ自身を実現す
ることとなる︒したがって︑ヘーゲルが念頭においていた時間は人
間ないし歴史的時間色の目①日罵言日巴邑○巨冨のさ﹃臼巨①︶である︒
すなわち︑意識的︑意志的な行動の時間︵庁目①日冨烏一︾シ&○口
8易gg毎里ぐ○ざ三巴用︶こそが︑未来のための企図を︑過去の認
︵過︶ 識から発し形成された企図を現在において実現するものである︒﹂
時間が﹁定在する概念﹂であるとされる時︑﹁定在する﹂というの
は︑区別が平均化され統一が内容のない抽象的なものとなっている
ことを意味し︑﹁概念﹂というのは︑区別が絶対的区別︑決して平均
化されない質的な区別でありながら︑その区別がある統一︑内容を
奪われることのない統一へともたらされる本質的な可能性を意味す
る︒この点で︑コジェーブの欲望からする解釈は︑確かに︑時間が
﹁概念﹂であることの意味を説明するものではある︒がしかし︑時
間が﹁定在する﹂概念であることの説明としては不十分である︒
コジェーブは︑欲望から人間の時間の成立を説明し︑その時間が
ヘーゲルによって﹁定在する概念﹂とされていることから︑人間が
正に﹁定在する概念﹂であり︑ヘーゲルによって﹁定在する概念﹂
として考えられているのは﹁受肉したロゴス﹂Q①巨琶の旨89②
︵M︶ としての人間だと結論している︒解釈の一貫性は別として︑時間と
概念の連関はコジェーブにおいて︑時間を欲望から︑そしてその欲
望から欲望を持つ人間を推理的に導出し︑最終的には人間とロゴス
との連関へと変形されている︒しかし︑ハイデッガーも指摘してい
たように︑時間が概念であることを欲望から解釈する解釈も︑時間
が﹁定在する概念﹂であることの理由は解明できないよ竜7に思われ
知と生Iヘーゲル歴史哲学再考I︵菊地惠善︶ ︵喝︶ る︒少なくとも︑コジェーブはその点の説明をしていない︒
水平化された時間が人間的な時間となり︑さらに時間を越えた概
念となることを可能にするもの︑それは一体何だろうか︒時間は潜
在的には概念の成立の可能性でありながら︑概念が現実に成立した
時には否定され滅ぼされるとされる︒このような両者の連関は︑ど
のような観点から十全に理解されるだろうか︒
この点についてコジェーブは︑語の意味の観点から一貫した解釈
を試みている︒﹁犬﹂という語で呼ばれる実在的な対象は︑現実に生
きた物である︒これに対して︑﹁犬﹂という語の意味そのものは︑決
して生きた物ではな姥現実の生きた﹁犬﹂を概念的に理解するこ
とは︑実際にその﹁犬﹂を殺すことではないが︑殺害に等しい行為
である︒これを時間の観点からみれば︑コジェーブによると︑生き
た﹁犬﹂が死すべきもの︑有限なものであるからこそ︑その﹁犬﹂
において︑生きた実在的な対象と生きてはいない非実在的な意味と
が分離されるのである︒時間の中で無化していく実在的なものを︑
その無化から再び救い出すのは非時間的な概念なのである︒つまり︑
﹁過去の中に消失する実在するものは︑語l概念の形で現在の中に
︵略︶ ︵非l現実的なものとして︶維持される︒﹂
ところがしかし︑時間と概念の連関についてのこうしたコジェー
ブの解釈は︑多くの示唆に富むとは言え︑次の二点で不十分と言う
べきではないだろ︑フか︒第一点は︑時間の概念的な統一に関しては
欲望を基礎としながら︑概念による時間の止場に関しては語の意味
の非実在性を基礎としており︑時間と概念の連関の解釈において︑
︵Ⅳ︶ 相異なる二つの観点が混在していることである︒そしても︑フー点
九
のだとすれば︑過去の意味は未来の現在によって絶えず変えられる
可能性がある︒ヘーゲルは︑過去と現在との関係を現在における過
去についての知識の問題とみなすことによって︑我々にとっての過
︵妬︶ 去の存在の意味の問題を見失ってしまったのである︒︵リクール︶
こうした批判の主張するように︑確かに我々は︑我々自身が歴史
的である限り︑歴史の出来事の全体を傭轍できるような地点に決し
て立つことはできないであるミフし︑過去は今現在から見た姿に固定
されてしま︑フものではなく︑未来によって絶えずその姿を変えてい
く生きた存在であろう︒
しかし︑精神が歴史的であることと︑精神が絶対的な自己認識と
いう形でのみ真理に到達するというのは︑既にその解釈を試みたよ ︑︑︑︑︑︑︑︑︑ ︑フに︑決して相互に矛盾し合うものではない︒精神の歴史への外化 ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ と精神の内化としての自己認識とは︑ヘーゲルにおいて相互補完的 ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ なものと考えられている︒その相互補完性とは︑我々が歴史を生き ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ る生き方に他ならない︒歴史とは︑我々にとって︑既に出来上がっ
たものとしてひとりでにそこに存在するものではなく︑我々が自ら
を語ることによってそこに築き上げていくものである︒そしてまた︑
我々が歴史という対象を介して自己の認識に達したからと言って︑
それは我々が歴史的であることを止めることを意味するわけではな
い︒むしろ︑我々は歴史を自己の認識に結び付けてこそ初めて︑再
び歴史の場面へと帰ることができるのである︒
ヘーゲルの﹁絶対知﹂︑すなわち︑あらゆる存在を﹁精神﹂の﹁自
己意識﹂の反省的な知識に還元し吸収する﹁絶対知﹂に対しては︑
それが己の存在と認識の有限性を忘れた人間の傲慢︵ヒュブリス︶
知と生lヘーゲル歴史哲学再考I︵菊地惠善︶ に他ならないと非難されることもある︒
しかし︑歴史的な世界をも包括する程に拡大され深化された自己
意識的な真理は︑それが批判される多くの場合に考えられているよ
うに︑果たして人間の傲慢とのみ見なされるべきものなのであろう ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ か︒むしろ反対に︑歴史的な世界に関する知識は︑究極的には︑自 ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ 己意識の反省的な知識とい︑フ形でしか成立しないのではないだろ︑7
か︒
なぜなら︑歴史とい︑フものは︑常にいま語られるものであり︑い
ま語られなければならないものだからである︒未来において︑確か
に現在は現在においてよりはよりよく歴史的に語られるであろう︒
しかし︑未来においてよりよく語られる現在とは︑私が生きている
この現在のことではなく︑未来の歴史に位置付けられた現在である︒
我々が生きることができるのはこの現在であって︑未来における過
去としての現在ではない︒
さらにまた︑我々が歴史的な行動をすることができるとすれば︑
それは我々が理解した歴史的な世界の中においてでしかないからで
︵︶ ある︒我々は歴史的な行動に先立って︑将来現れるであろう︑現在
についてのより完全な歴史的な知識をまっているわけにはいかな
い︒勿論︑歴史的な理解なしに歴史的な行動ができないである︑フと
は言っても︑その歴史的な理解がその行動の意味を意図された通り
に実現されることを保証するものではない︒しかし︑このことから
導かれるのは︑歴史的な理解は﹁絶対知﹂の資格を持ちえないとい
うことではなく︑反対に︑歴史的な理解は﹁絶対知﹂という﹁自己
確信﹂の形でしか成立しえないということである︒人間は有限だか
一一一一
︵岨︶の.雪.司.畠凋里ゞも憲口○日g昌畠厨号の⑦凰巽閉︾の︑詮
メルロⅡポンティは遺作﹃見えるものと見えないもの﹄の中でヘーゲルの
テキストのこの箇所を正確な形ではないが引用し︑己の起源を忘れてし
まう反省哲学の誤謬を批判し︑哲学的反省にとってはその反省に先立つ
事実を忘れないことが必要であることを語り︑次のように述べている︒
﹁私が世界と他者から私へと振り向き︑そして反省の道をとりえたのも︑
まず私が私の外に︑世界のうちに︑他人たちのそばにいたからでしかない
し︑そしてこの経験がたえずよみがえっては私の反省に養分を与えてく
れるのだ︒哲学の説明すべき状況とはすべて︑以上のよ︑フなものである︒
哲学がその説明をなし︑フるのは︑反省の両極性を認め︑ヘーゲルが言って
いたよ︑フに︑自己に還るとは︑自己から出ることでもある青g貫閏gのS
Q①降目蚤g風時号のg︶とい︑うことを認めることによってのみである
︑フ︒﹂︵三・言①18匡宅gご︶席ぐ璽三①①二ぎぐ璽三@⑦四罠目四aも.二︶
︵別︶自己が人格の統一を意味する以上︑その人格の成立には己の体験を脈絡
付け取り集める能力︑つまり言葉を話す能力が必要不可欠であろう︒ハイ
デッガーによれば︑ロゴスとは﹁取り集めること︵藍日日盲信︶﹂に他な
らない︒そして実際︑己を語ることの失敗が人格の解体をもたらすのであ
る︒この点からすれば︑精神分析は︑己の過去を有意味な仕方で語ること
によって自己を発見する技術と見なすことができるだろう︒
︵別︶﹁主観性は時間を引き受けるから︑あるいは︑時間を生き︑生の一貫性
︵8志望目︶と一つであるから︑時間の中には存在しない︒﹂︵三・三国一困匡
︲で○口q・勺窓口○日go旨唱①号匿も胃8頁ざ員の四毒日閏具ロ金色
︵〃︶時間と概念の関係については︑ヘーゲルの哲学体系全体に関わる問題と
して︑それ自体永遠不変なものであると論理的知識と︑時間的な展開を通
して初めて自己認識に達する精神とが︑果たして無理なく体系的統一を
持ちうるのかという周知の難問がある︒絶対者は歴史へと自己を外化し︑
歴史の中で自己を啓示するが︑絶対者の純粋な認識そのものは歴史の外
知と生lヘーゲル歴史哲学再考I︵菊地惠善︶ 観を脱ぎ捨てた境地で非時間的に展開されるのだとすれば︑絶対者はな ぜ歴史を必要とするのだろうか︒永遠の真理と有限な歴史との関係は︑ヘ レニズムとヘブライスムの総合あるいは和解としてのヘーゲル哲学の根 幹に関わる問題である︑フ︒例えば︑マクタガートは︑論理学におけるカテ ゴリーの展開が時間的な順序ではなく︑時間的な順序を辿るのはそれを 考察する人間の精神であるとして︑弁証法と時間との分離を強調してい るがQ・言.因.三o弓眉隠風.聾呂爵旨牙の國凋豊目口重R言造呂a.. 宛匡服呈陣詞匡膀呈・ロョヒ︑弁証法という思考の運動が人間の精神の時 間的な構造に基づくのではないかということは︑充分考えられることで ある︒この問題については以前解釈を試みたことがある︒拙論﹁矛盾と否 定﹂︵東京大学文学部哲学研究室編﹃論集﹄V︑昭和六十一年︶︒
︵羽︶概念的に把握された時間と通常の水平化された時間とは︑術語的に区別
すべきであるかもしれない︒しかし︑両者が初めから別々に自立して存在
するものではない点からすれば︑術語的な区別は必要でないばかりか︑む
しろ反対に有害であるかもしれない︒例えば︑﹁過去﹂は二つあるのだる
︼フか︑それとも一つだけあるのだろ︑7か︒﹁過去﹂の経験とい︑フものが︑
過去の知覚や行動そのものの擬似的な再生や再現ではなく︑現在におけ
る意識作用である﹁想起﹂に基づくものであることからすると︑過去の経
験において︑過去の体験そのものとそれを想起する現在の体験との二つ
がそこに存在するのではない︒では過去の経験は︑その存在のみか内容ま
でも︑徹底して想起という現在の意識作用によってのみ支えられている
のか︒そ︑うではない︒過去の体験が過去のものとして想起されるために
は︑その体験はいつか現在の知覚や行動として既に体験されているので
なければならない︒そうでなければ︑過去は夢や想像と区別が付かなくな
るだる﹃フ︒だから︑過去の経験とは︑想起においてのみ体験される現在の
出来事ではあっても︑既になされたこととしてのみ体験される過去の出
来事である︒﹁想起﹂とは﹁内化︵再︲旨月日眉︶﹂であるというヘーゲル
一
五
223
の言葉は︑過去が単なる再生や再現ではなく︑かと言ってまた反対に︑現
在における自由な言語的制作でもなく︑呼び戻しであり保存であること
をよく捉えたものと言︑フベきではないだろうか︒
︵別︶この比嚥の力点は︑道が予め連続しているとい︑フ点にではなく︑眺望が初
めてこれまでの道と︑これから先の道を見えさせてくれるという点にあ
る︒登山者はできるだけ広い眺望を得ることによって自分の位置を確認
し︑それから再度山道を歩み続けるのだというと︑その先に続く山道は既
に踏み均らされた登山路として知られているのではないかという印象を
招く恐れがある︒しかし勿論︑登山路が整備されているのはよく知られた
山に限られるのであって︑多くの山の場合は山道など付いていない︒それ
にまた︑登山路が標識によって示されるのは︑実際に既にその道を歩み通
した人間がいるからである︒ところが歴史の場合には︑全く当たり前のこ
とだが︑歴史の道は予め地図に記されてはいないし︑そもそもその未来へ
続く道を歩み通した人間とい︑フのも全くいないのである︒
︵路︶歴史を現在における概念的な認識に集約することの不可能性を承認する
ガダマーは︑しかし勿論︑へlゲルの歴史哲学を全面的に否定するのでは
なく︑ヘーゲルの精神概念の歴史性の根本特徴を﹁自己自身との連続性の
獲得﹂に認め︑ヘーゲルの生きた教説が︑世界史を絶対的な概念の高みか
ら演鐸することにではなく︑歴史を自己自身に結び付けるという課題の
提示にあることを指摘している︒そして︑精神が歴史を自己自身に結び付
けるということが︑認識によって過去を現在に止揚することではなく︑過
去を自己の未来に結び付けることであることを次のよ︑フに述べている︒
﹁自己の過去と一致した精神のみが︑未来に対する自由を持つことがで
きる︒﹂︵因.︲の.⑦四忌日閏︾国凋堅巨呂回国鴨のs旨寓言言の①童.旨:
の①闇日日の青雲閏訂ゞ﹈.●・国.三○言︾屋.蚤の.毛ら
︵邪︶過去がそれについての現在の知識に吸収され固定されるものではなく︑
現在との関係におけるその意味の解釈として絶えず振り返られ取り上げ 知と生lヘーゲル歴史哲学再考I︵菊地惠善︶
られる生きたものであることを︑解釈学の立場から繰り返し強調するリ
クールは︑ヘーゲルの絶対知が全体の認識を目指す点で︑特定の観点なし
には遂行できない解釈の作業の限界を逸脱するものであると断定し︑解
釈学とヘーゲル哲学との間には決して埋められない相違があることを認
める︒しかしながらリクールは︑ヘーゲルが絶対知について語る時︑﹁彼
はそれを一定の時代の中で行っており︑また彼が解釈するのは︑彼の時代
のさ中であるということを︑彼自身非常によく知っている﹂とし︑絶対知
と言えどもやはり一つの解釈であることを指摘し︑ヘーゲル哲学を﹁知の
哲学に装われた解釈の哲学﹂﹁不幸なる解釈の哲学﹂と呼んでいる︒︵P・
リクール﹁現代のへlゲル﹂︑久米・清水・久重編訳﹃解釈の革新﹄白水
社︑二四九頁︶
︵︶ピンカールは︑﹁歴史の可能性﹂の根拠として︑﹁出来事について人が物語
︵愚q具ご巴を組み立てること﹂と︑そ︑フした物語を組み立てることがで
きるためにそもそも﹁自由な行為︑つまり目的を意図的に実現する能力を
持つこと﹂との二つを挙げ︑﹁別々の行為を物語の形式の中で結び合わせ
ることによって︑我々は我々の生活に形を与えるのであり︑その形によっ
て行為は意味を得るのだ﹂と述べている︒弓.勺旨冨a︾国①帰房口重R青.
弓①日亘のご己ぐ①日凰弓卑①脇︺這麗︾ロ畠go歴史は既になされた行為や出
来事の意味を問題にするので︑一見したところ︑客観的な事実を相手にす
る実証的な学問の対象であるようにも思われるが︑ピンカールも述べて
いるように︑歴史がさまざまな行為を結び付けた物語であるとすれば︑そ
の歴史は人間の自由な行為を前提にしているはずであり︑歴史的な認識
とは行為︑すなわち未来の歴史的な行為と密接不可分ということになる︒
︵羽︶本論文では︑ヘーゲルの歴史哲学のうち︑歴史を包括的に把握する知識と
は何か︑それは果たして歴史の終末を意味するのかという論点について
しか論じることができなかった︒もう一つの重要な論点︑ヘーゲルの言
う︑歴史を理性的に認識するとはど︑フいうことかという論点も本来詳し 一一ハ
︵羽︶精神が歴史的であるということは︑勿論︑精神がいつも自覚的に過去の認
識や評価に関与し︑常に過去との関係において現在の行動をするのだと
いうことを含意するものではない︒現在の充実した生の享受という強さ
から歴史に対する積極的な否定が︑あるいは反対に︑現在の疲労した生へ
の諦念という弱さから歴史に対する消極的な無関心が︑﹁非歴史的﹂な精
神として生じることもあるであろう︒そしてさらには︑およそ歴史といっ
た連続性とは無縁の﹁非歴史的﹂︵あるいは︑非西洋的︶な精神というも
のもあるかもしれない︒しかし︑人間の自由が一定の現実の中での自由を
意味し︑しかも︑与えられた現実における欠如として意識される限りで現
在の現実の否定を意味するものだとすれば︑人間が自由であることと人
間が歴史的であることとは全く同一の事柄であろう︒この点で︑ヘーゲル
の歴史哲学は︑現在を自由の理念が最高に実現された状態として聖化す
る歴史の形而上学としてよりはむしろ︑自由の理念を歴史の可能性の条
件として副出する歴史の超越論的基礎付けとして理解されるべきであ
る︒そして︑こう理解する限り︑﹁歴史の終焉﹂といったものは︑一般の
好奇心に反して︑原理的にありえないと言わなければならない︒ く論じられる必要がある︒なぜなら︑現実の歴史が常識の考える理性的な 出来事ばかりでないことを盾に︵このことは誰しも異論なく認めるだろ うが︶︑ヘーゲル哲学にしばしば非難と潮笑が浴びせられるからである︒ そうした批判に対しては︑現実の中に非理性的な出来事があるというこ とと︑現実が理性的にのみ認識されるとい︑うこととは決して矛盾しない ことをすぐさま指摘することもできるが︑歴史の可能性と理性的な認識 との関係については︑これ以上に︑さらに詳しく論じられなければならな いだろう︒現実と理性との関係については︑次の拙論を参照されたい︒ ﹁ヘーゲルの必然性概念について﹂︵中部哲学会紀要︑第二十三号︑一九 九一年︶︒
知と生lヘーゲル歴史哲学再考I︵菊地惠善︶ ︹付記︺ 本稿は︑一部を除いて︑﹁へIゲルにおける歴史と真理﹂という題名で︑
哲学会第三十回研究発表大会︵一九九一年十一月三日︑東京大学︶で口頭
発表したものである︒論文として載録するにあたり︑本文を若干加筆訂正
し︑新たに註を付けた︒また︑発表時にいただいたいくつかの質問に対す
る回答を註の中に書き入れ︑口頭発表の意義を生かすこととした︒質問を
寄せて下さった方々に︑この場をかりてお礼申し上げる︒
一