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「日本と /か ブラジル」という限界を越えて

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(1)

人文論叢 (二重大学)第28号

 20H

「 日本 と/か ブラジル」 とい う限界を越えて

― ある日本人 の移動 に関す る生活史 ―

 

 

要 旨 :本稿は、ブラジル移住経験のある日本人男性、S氏の生活史をおもに移動ルー トの再構成 を通 じて素描するものである。

この作業により、筆者をあ、くむ移民の研究者たちがもはやその研究対象をどこか特定の空間一

― 移住先なり出身国なリーー に押 し込めておく、「近代」特有のやり方がますます困難になって きていることが理解されるであろう。それを遮、まえ、本稿ではつぎに く住むこと〉から く移動す ること〉へとわれわれ研究者の視点をシフ トしていく可能性を検討する。

1  

は じめ に

本稿 の 目的 は、 大 き く2つあげ られ る。 第 1に、 あ る 日本人男性S氏へ のイ ンタ ビューを もとに、彼 の生活史、 と くに移動 に関す る歴史 を素描す ることである。

S氏1968年に最後 の くあ るぜん ちな〉丸 に乗 って ブラ ジル にわた った人物 で あ り、 日伯 間 の移 民 に関す る研 究 に着手 しな けれ ばな らな い筆者 に と って は、 この事 実 こそがS氏に接

近す る直接 の原 因 とな った。つ ま り筆者 には、 〈ブラジル〉 にいた く日本〉人 とい うあゝうに、

「 ブラ ジル とい う土地」 と「 日本 の出 自」 とい う属性 の両方 を備 えた人物 のみが「 調査 に対 し て適切」 とい う規定 が働 いていたのであ り、S氏はまさにその規定 に合致 した人物 であ った と い うことにな る。 しか し、後 に何度 もあ、れ ることにな るであろうが、彼 の人生 は、 当初 の筆者 が望 んだよ うな企 て、つ ま り、 あ る調査対象 を「 ブラジル」 とか「 日本」 とい う特定 の土地 に 配置 しよ うとす る企 てを拒否 す る もので あ った。 詳 しくは後述 す るが、 やがてS氏は ブラ ジ ルを離 れ、 日本、 アメ リカを経て、最終 的な活躍 の場 を (S氏の現住所 がある)カナダの ブ リ

テ ィッシュ・ コロ ンビア州 に移すのであ る。

S氏の こう した経歴 か ら、本稿 の第2の目的がおのず と浮 か びあが る。 これ までの 日伯 間の 移民研究 の特徴 を簡潔 にい うな らば、 その多 くはブラジル に住 みつづ けている 日本 (日

)人

つ ま リブラ ジル を「 ホーム」 とす る 日本 出 自の人 び とを対象 に して きた。1990年の 日本 のい わゆ る「入管法」(出入 国管理及 び難民認定法)改定以後 は、調査対象 が次第 に「 ブラ ジル に 住 む 日本人」 か ら「 日本 に出稼 ぎにきた 日系人」 に シフ トして きたが、 それで も調査 対象 を

「 日本 とブラ ジル」 な い し「 日本 か ブラ ジル」 とい うあゝうに、特定 の空 間 をホー ム とす る人物 た ちに閉 じ込 めて しまお うとす る企 て 自体 は変 わ っていない。 これ らの研究 において は、「 ブ ラジル にわた った 日本人 に とっての 日本」 あ るいは「 日本 に帰 ってきた人 に とっての ブラジル (ない し日本)」 に関す るエスニ シテ ィお よび忠誠心が扱 われてきた といえ る。 しか しこれ ら先 行研究 の手法 で は、 筆者 がで あ ったS氏を は じめ、戦後 の移民 の多 くにつ いて理解 を深 め る には限界 がある。 その限界 は、 た とえば彼 らの きわめて フ レキ シブルな移動 をあゝりかえ るだけ で も明 白であろ う。「 日本 とブラジル」 であれ、「 日本か ブラジル」 であれ、2つの空 間 に調査

(2)

者 がみずか らの対象の居住 を閉 じ込 め ると、S氏のよ うな人物 を正確 に理解 で きるはずがない。

そ こで これ らの フ レキ シブルな戦後移民 の現状 をよ り正確 に とらえ るために、 いかな る方法論 が適切 なのかにつ いて検討す る必要 もある。 これが本稿 の第2の目的で あ る(D。

調 査 に つ い て

本来、筆者 の専 門 とす るところはカナダの北西海岸 (太平洋沿岸)の先住民 を人類学的 に研 究す ることであ る。つ ま り筆者 は、移民研究全般 は もちろん、 ブラジル移民 に関す る研究 につ いては門外漢 に等 しい。そのような筆者が 日伯間の移民 に関す る研究 に携 わるよ うにな ったきっ か けは、2008年に同僚 の社会学者 と人類学者 で立 ちあげた「 日系 ブラ ジル0ペル ー人 の ソシ オセ ン トリック・ ネ ッ トワー クの機能 の社会学的調査」 とい う研究 プロジェク トに研究経費が 配分 され ることにな った ことであ る (注 1参)。

この、一見「 どうで もいい」情報 は、 じつはつ ぎの点で重要である。つ ま り、筆者 は最初か ら く日本 とブラジル〉 あるいは 〈日本 とペルー〉 とい う2つの空間 に関係す る もの に、 みずか らの調査 を限定 されていた とい うことである。 この事実 に対 して当初何 ら疑 問 ももたなか った 筆者 は、 みず か らの調 査地 で あ るカナ ダのキ ャンベ ル・ リバ ー (Campbell River)と い う町 の 日本食 レス トラ ンで板前 と して働 き、 カナダに来 る前 は ブラジル に住 んで いた とい うS氏

の ことを思 いだ した。彼であれば、 このテーマの調査対象 に「妥 当」 と考 えたのである。

2010年 1月 、別 の調査 で カナダにい こうと していた筆者 は、「里帰 り」 して いたS氏とたま た ま同 じ飛行機 に乗 りあわせ た。 その場で筆者 は彼 に、 ブラジルでの話 を聞かせて ほ しい と頼 み、 いずれ時間を とってイ ンタ ビューをす るとい う約束 まで とりつ けることがで きた。 その後 2010年 9月S氏に直接 イ ンタ ビューを とるまで、筆者 はS氏と何度 か コ ミュニケー シ ョ ンを とって い る。 その手段 はお もに電子 メール と電話 であ るが、 この段 階 です で にS氏はブ ラジル にい くき っか け、彼が これ まで に移動 したおおよそのルー トな どにつ いての情報 を提供 して くれていた。 これ ら数 回のや りとりで さえ、筆者 にはきわめて貴重 な情報収集 であ ったが、

2010年 4月以後、S氏が多忙 にな った ことによ り、 電話 や電子 メールでのや りと りは減少 し てい った。 それか ら直接 あ ってイ ンタ ビューす る9月まで、筆者 は関連す る文献 を読 み、 また

S氏が「 自分 の人生 を知 るため にはぜ ひ とも読 んでおいて ほ しい」 と勧 めて くれた資料類 を閲 覧す ることに費 や した。

2010年 9月にカナダを訪 れ た筆者 は、計3回 S氏にあ って会談 した。 この3回の うち2回 はいわゆるイ ンタ ビューの形 を とってお り、 われわれは1回日のイ ンタ ビュー に6時間、2回 目のイ ンタ ビューには2時間を費や した。紙幅の関係上、本稿ではそのイ ンタ ビューのデータ をすべて載せ るのではな く、彼 の半生 の概略を載せ るに とどまるであろ う。、しか し彼の半生 に 関す る概 略で さえ、戦後移民 の活動 や思惑 を知 るためにはおおいに役立 つ と思 われ る し、 また その知見 は これ までの 日伯 間の移民研究史 になにか しらの反省 を もた らすか もしれない。

3 S氏の移動史

3‑1 

日本での生活 (1948‑1968)

S氏は 1948年 に6人兄弟の末 っ子 として、新潟で生 まれた (2010年 現在62歳)。 その後家

‑132‑

(3)

立川陽仁

 

「 日本と/かブラジル」 という限界を越えて 一 ある日本人の移動に関する生活史 一 族 は東京 に移 り、S氏の父 は印刷工場で働 いた。6人兄弟 とはい って もかな り年齢 に開 きがあ っ たので、S氏が 中学生 にな る頃にはS氏以外 の兄弟 はみな家 をでてお り、両親 とS氏しか家 に

は住 んで いなか った。 しか もS氏の母親 が糖尿病 を患 ってか らは、S氏は父親 と2人で生活 を 営 む こと も多 くな っていた。

S氏の回想 のなか に、兄弟 はあま り登場 しない。 日本 にいた20歳頃 までのS氏の はな しに 登場す るのは、む しろ新潟 の従兄 であ る。従兄 とはい って もS氏よ り25歳年上 であ る彼 は、S 氏 が6歳くらいの ころにブラジル北部 の アマ ゾ ン河 口に位置す る トメアスー (Tomc̲Acu)に

移住 したので あ るが、横浜 か ら出発 す るまで の約3週間 の準備期 間 を東京 のS氏宅 です ご し てお り、 その後 もたびたび手紙 でS氏に ブラ ジルでの状況 を事細か に伝 えて きた。「小学生 の 頃 自分 は 自転車 が欲 しくてたま らな い事 が あ った、6人兄弟 の末 っ子 と して育 った家庭 はそれ ほ ど裕福 で もな く当然買 って もらえ るはずが無 い。 そんな時 ブラジルの従兄 が 自転車 を送 って くれ た夢 を何度 か見 た」 と語 るよ うに、 幼少期 のS氏には、従兄 の語 るブラジルが憧 れの土 地 と して認識 されていた。

S氏は「 なぜ ブラジル にい ったのか」 と聞かれ ると、必ず「悪 い従兄 にだまされて」 と冗談 ま じりで答 え る。 しか し本音 の ところで は、S氏は、彼 をブラジル にい くよ う仕 向 けたのは母 親 だ と考 えてい る。就職 を考 えな くて はな らな くな った高校3年生 時 に、S氏はブラ ジル にわ た った従兄 か ら頻繁 に手紙 を受 け取 るよ うにな った。彼 はこの ことにつ いて、 おそ ら く母親 が その従兄 に頼 み こみ、 ブラジル にS氏か関心 を もつ よ うな手紙 を書 かせ たので はないか と推 測 したので あ る。 この真意 はわか らず終 いで あ るが、 少 な くとも母親 が一番S氏の ブ ラ ジル 渡航 に乗 り気 だ ったのはた しかな ことらしい。

S氏が高校生 の ころ、 た しかにブラジルの トメアスー は ピメ ンタ (黒胡椒)作付 の成功 で、

日系人社会 を中心 におおいに好景気 を満喫 して いた。S氏の従兄 は機械技師で、 ピメ ンタ農家 で はなか った ものの、 ピメ ンタ景気 の恩恵 を授 か っていた ことは容易 に想像 できる。 いずれ に せ よ、 こう した当時のブラジル (トメアスー

)の

好景気 と家族 か らの後押 しが あ り、S氏は 日 本 で就職 せず、 ブラジル にい く決心 を したので あ る。

ブ ラ ジル に移住 す るための申請 をお こな ったS氏は、許可 が下 りるまで魚群探知機 の会社 でアルバ イ トをす る。 そ こで正社員 にな らないか とい う誘 い も何度 もあ ったが、彼 は「 ブラジ ル にい くか ら」 とい う理 由で断 りつづ けた。誘 いを断 りつづ けることによって、 やがて彼 は こ の会社 に居づ らくな る。 そ こで この会社 を辞 め、 その後 しば らく、 ブラジル渡航 の許可 がお り るまで、新橋 の別 の会社 でアルバ イ トをや ることにな った。

当時の ブラジル移住政策 は、 サ ンパ ウロな ど南部 で はな く北部 のアマゾ ン開拓 に力 を入 れ る よ うにな って いた (今野・ 藤崎 (編)1983:189‑191)。 つ ま り農業従事者 を厳選す る傾 向が み られたわ けである。 しか し他方 で、技術者 の募集 も増加 してお り、S氏の場合 は後者 の資格 で応募 していた。 もちろん農業従事者 のほ うが移民 と しての認可 を得 やすか ったであろ うが、

S氏に とって都合 のいい ことに、彼 は従兄 か らの呼 び寄せ とい う形 を とることがで きた。 この よ うに、S氏に とってはブラジル渡航 の許可 を得 ることにそれ ほ ど大 きな問題 はなか ったが、

それで も彼 は、海外移住事業 団の指示 によ り、S氏は近 くの横浜ではな く神戸か ら出発す るこ とにな ったので、神戸の移住 セ ンターに入所すべ く住民票 を神戸 に移 さなければな らなか った し、 さ らには一時期農業 に関す る指導 も受 けさせ られたのである。 こう した準備期 間を経 た後 1968年20歳S氏は最後 の 〈あるぜん ちな丸〉 にて出航 したのである。

(4)

S氏6人兄 弟 の家族 で育 ち、 また両親 が と もに病気 が ちで あ った ことだ けを考 え るな ら ば②、彼 のブラジル移住 の直接 的なき っか けは、初期 の戦前 の移民 と同 じく、経済的理 由によ るよ うに思え る。 しか し当時の 日本 は高度経済成長期 にあた っている し、実 際彼 もアルバ イ ト で入社 した会社か ら正社員 にな る誘 いを うけつづ けていたわけであるか ら、 じつは経済的なプ ッ シュ (押し出 し)要因 はそれ ほ ど大 き くなか ったはずである。S氏が ブラ ジル移住 を決心 した よ り直接 的な要 因 と して、 われわれ は本人 のい う「(当)若か ったので先 の ことはあま り考 えて いなか った (し)一度 口にだ した ことは必ずや るタイプの人 間なので、後 で引 っ込 みが つかな くな った」 とい う理 由をま じめに受 け入れていいように思 われ る。

お りしも当時、 日本 ではマスメデ ィアを通 じて ブラジルをは じめ とす る海外への移住 を さま ざまなスローガ ンで打 ちたてて いた。海外移住事業 団による『海外移住事業 団十年史』 (1973) をみ ると、 その典型例 がす ぐにみつ け られ る。 まず 目につ くのは、海外移住新 聞 とい う手書 き で作成 された当時の新 聞の写真群 である。 これ らの新聞では、挿絵 (漫

)つ

きで「 ジャンプ したい ものみんなあつ まれ」 な ど、 日本 か ら飛 びだ して海外 で夢 を実現す ることをよ じとす る 台詞 が多 くみ られ る。 同書 に掲載 された昭和47年 10月 17日 の朝 日新 聞をみ ると、 そ こには

「 日本 には夢 がな いよ」 とい う見 だ しで若者 の海外移住 の増加 を報 じた記事 もみ られ る (海 移住事業 団 1973:204)。 さ らには昭和45年の静 岡新聞では、 同県の高校教師研修会 に関す る 記事 で、「海外へ雄飛

 

スケールの大 きい教育 を」 と銘打 ち、 その準備状況 を伝 えている (海 外移住事業 団 1973:201)。 この よ うに、 当時 日本政府 (より正確 には海外移住事業 団 となろ

)や

マスメデ ィアは盛 ん に海外移住 のきっかけとして「大 きな ことを成す な ら海外で」 とい う言 説 を流 しつ づ けて きた。S氏と同 じ く最 後 の 〈あ るぜ ん ちな丸 〉 に同乗 したI氏は、

NHK取

材班 が作 成 した ドキ ュメ ンタ リー番組③のなかで、 ブラ ジル に移住 した理 由 と して

「 日本 にいた らで っか い ことはで きな い し……」 と答 えてい る。 ここでI氏が本 当にそ う思 っ てテ レビの取材班 にそ う答 えたか どうかは、 それ ほど問題ではない。少 な くともわれわれは、

マスメデ ィアが上記 の「 大 きな ことを成すな ら海外 で」 とい う言説 を補強 し、S氏だ けでな く I氏がその言説 をみずか らの うちに体現 していることを明 らか にすれば十分 で あろ う。 ただ、

〈あ るぜん ちな丸〉 に乗 って いたまさにこの とき、S氏だけでな くI氏も「若 い故 に」深 く考 えて いなか った こ とは、

NHKが

追跡調査 を して放送 した30年後 の番組 のなかで明 らか にな る。1998年当時、歯 科医院 を開業 しよ うとす る息子 のため に千葉県 に出稼 ぎに来 て いたI氏 は、30年前 の 自分 の映像 を見 て「 若 くて何 も考 えて いなか った」 とい う遮ゝうに、S氏と同 じ 言説 を繰 り返 してい るのである。「先 の ことはあま り考 え」 ない多 くの若者 は、「大 きな夢 を叶 え るために海外へ」 とい う、 いわば移住 イデオ ロギー と呼べ るものにの っとうて、海外 に出発

した とみ るほ うが妥 当であろ う。

さて、 〈あるぜん ちな丸〉 は神戸か ら横浜を経 由 して、 その後ハ ワイ、 ロスア ンジェルス、

パ ナマ、ベネズエ ラのカラカスに停泊 し、2ヶ 月後 にブラジル北部 のアマゾ ン河 口にある都市 ベ レン (Be16m)に た ど りつ いた。 この2カ月 の船旅 が (船酔 いをのぞいて)心身 ともに快適 な ものであ り、 かつ多 くの旅行者 に とっては忘 れがたい、貴重 な経験 であ った ことは、S氏 は じめ、多 くの旅行者 の回想 か ら明 らか にな る。筆者 の意 図 に反 し、S氏は ブラジル にい く前 の 日本での生活 に関す るはな しか らブラジルでの生活のはな しにす ぐさま移行 しようとはせず、

この船旅 のなかの、食堂の豪華 さ、 日々繰 り広 げ られ るパーテ ィと交友関係、経 由先のハ ワイ での ドライブな どにつ いて雄弁 に語 ろ うと した。S氏に とって、 この2カ月 の船旅 が ブラジル

‑134‑一

(5)

立川陽仁

 

「 日本と/かブラジル」 という限界を越えて 一 ある日本人の移動に関する生活史 一 に滞在 した約20年と同 じ程度 に重要 で あ った とい うの はいいす ぎであろ うが、 それで もきわ めて重要 な部分 で あ った ことに変 わ りはない。事実、S氏は当時 同 じ船 にの った「仲 間」 たち との交流 を、 カナダに移 ったいまで も維持 してい る。

3‑2 

プラ ジルでの生活 (1968‑1988)

2カ月 間 にお よぶ 〈あ るぜん ちな丸〉 での船旅 を終 えたS氏は、 アマゾ ン河 回の都市 ベ レン に到着 した。 当時のベ レンはイ ンフラの不整備 が著 しく、 ほ とん どの家 にはテ レビや ラジオ も なか った。 また、手 にす る紙幣のほとん どがボ ロボ ロの状態 であ った。電力 の供給 も昼間だ け に限 られ、 い くつかの家 では 自家発電機 で夜 の電力 を補 った。S氏は最初 の半年 を例 の従兄 の 家 です ご し、彼 の仕事 を手伝 らたが、 やがて従兄 とそ りがあわな くな り、従兄 の家 をでて独 自 に仕事 を探す ことにな った。 かつて、 ブラジル にわた った 日本人 といえばサ ンパ ウロであれ北 部 であれ、農業 をお こな うのが通例 であ った。 ブラジル北部 で は、 当時 ピメ ンタ栽培 が全盛期 を迎 えてお り、「 黒 いダイヤ」 と呼ばれ るほ ど経済 的利益 をあげていた (新藤 ほか 2009:282‑

283)。 しか しS氏は 自分 もピメ ンタ栽培 をや ろ うとい う気 にはなれなか った よ うで、最 終 的 には三 菱商事 のベ レン支社 に就職 した。 なお、S氏は三 菱商事 で働 いた期 間、21歳にてベ レ ンで看護 師を していた 日本人女性 と知 りあい、結婚 して3人の子供 を もうけることにな るが、

後 にカナダに移住 した際 に離婚 した。

三菱商事 での彼 のお もな仕事 は、 ベ レン近郊 にある トメアスーの 日本人植民地か らピメ ンタ を買 い付 けることであ った。 そ こで彼 はベ レンか ら トメアスーに転勤 にな り、 そ こに2年間住 む ことにな る。

 

トメアスーの 日本人植民地 の住人 には、若 い世代 を中心 に、S氏と個人 的 に仲 良 くして いた人 も数人 いた よ うであ るが、基本 的 に彼 は トメアスー植民地 の 日本人 た ち と距離 をおいた。S氏いわ く、

 

トメアスーの住人 の ほ とん どは 日本 の「 田舎」 出身 で、東京 出身 の S 氏 とは根本 的 にそ りがあわない ことも多 く、 また「 サ ラ リーマ ン」 でそれな りの収入 が あ った

S氏に対す る トメアスー住人か らの妬 み も少 な くなか った。 さ らに、 同植民地 の ピメ ンタはす べ て この組合 を通 じて価格 を決 め られて売 られ るとい う規定 を破 り、個人 的 にS氏に近寄 っ て ピメ ンタを組合価格 よ り高 く買 い取 って もらお うとす る人物 もお り、 この ことがS氏と植 民地 との関係 に緊張 を もた らした よ うで あ る。 これ らの ことはすべて、S氏が トメアスーの 日 本人 と距離 をおいた要 因 とな ったのであ る。

彼 が トメアスー植民地 の 日本人 と距離 をおいた理 由は もう1つ考 え られ る。

 

トメアスーに限

らず ブ ラジル全域 において、1970年頃の 日本人 コ ミュニ テ ィで は、戦前 にブラジル にわた っ た戦前移民、 その子供 た ち (2世3世

)に

、戦 後渡伯 した「新移民」 が加 わ った状態 で あ っ た。 こう した さまざまなタイプの「世代」 が同 じコ ミュニテ ィを構成す るなかで、 そ こには明 確 な序列 ―一 戦 前移民 の1世2世……「新移民」 とい う順での序列 一一 ができつつ あ った (三 田 2009:82‑88,122‑130)。 同 じことは トメアスー に もいえ る。 こう した状況 にお いて、

1968年にブラジル にわた った当時20歳S氏が植民地 の序列 に組 み込 まれ るのを嫌 が ると し て もなん ら不思議 はない。S氏に とって は、 みずか らを植民地 の ビジネス・ パ ー トナー と して 位置づ けておいた ほ うが、 当然居心地 が よか ったはず で あ る。

S氏は三菱商事 での仕事 を大変責任が重 く、 かつ ス トレスのたまる ものだ と回想 してい る。

そ して24歳の頃 (1972年)、 4年間勤 めた三菱商事 を退社 し、ベ レンにてパ ン屋 を開業 した。

彼 に と って はベ レンでパ ン屋 をや って いた これか らの14年間 こそが、 ブラジル にお ける経済

(6)

的な黄金期 とな る。

パ ン屋では、前 日までに注文のあったところに毎朝パ ンを届 け、午後 にはまた注文をとりに い くとい うのがル ーテ ィンで、多 くの注文 を受 けていたS氏のパ ン屋 は経済 的 に安定 して い た どころか、かな りの利益 をだ していた。彼のパ ン屋の隣 に別のブラジル人経営のパ ン屋が開 業 した ときで さえ、S氏のパ ン屋 にはなん ら影響 を及 ぼ さなか った。 その (隣人 の

)パ

ン屋 は 半年 で潰 れ、 そのテナ ン トをS氏が買 い とってパ ン屋 を拡 張 した ほ どであ る。 パ ン屋 の経営 に飽 き足 らなか ったS氏は、 その後 ブテ ィックゃスナ ックの経営 に も乗 りだ し、 また 450メ ー トル ×4.5キ ロメー トルの農地 を購入 して牧場経営 に も乗 りだ した。パ ン屋 のそばに2ベ ッ ド ルームの部屋 を もっていた彼 は、 そのほかに も新 しくで きた高層マ ンションに3ベ ッ ドルーム の部屋 を買 った り、ベ レンの高級住宅地 に家を購入 した りもした。

しか し1980年代 にな る と、 ブラジルには大 きな経済危機 が2回訪 れ る。1980年、石油価格 の高騰 によ り、 ブラジルの財政赤字 は100億 ドルを超 え、年率100パーセ ン トを上 回 るイ ンフ レが訪れた。 しか しそれだけで は終わ らず、1980年代後半 にな ると品不足 や闇取 引が横行 し、

1988年にはイ ンフ レ率 が900パーセ ン トを超えた (ci三田 2009:151‑152)。 この経済危機 は、 当時パ ン屋 の ほか にブテ ィ ックとスチ ックを経営 していたS氏に もあゝりかか る。 彼 も資 金繰 りが困難 にな っていき、パ ン屋 をのぞ くすべての事業 を ここで打 ち切 らざるを得な くな っ た。 それだけで はブラジルか ら離れ るきっかけにはな り得 なか ったか もしれないが、当時、経 済危機 で貧困 に陥 った人 び とによる犯罪が激増 した ことによ り、彼 はとうとうブラジルをでて い く決心 をす る。1980年代後半、S氏とその家族 は、 わずか に航空機 に預 ける2つの荷物 と2 つの手荷物 を もって、約20年住 んだ ブラジルを離れて移動 を開始す るのであ る。

3‑3 

日本 とアメ リカでの生活 (1989)

ブラジルを離 れ たS氏の家族 は、 とりあえず 日本 に帰国 した。1980年代後半、数多 くの ブ ラ ジル 日系人 が 日本 への出稼 ぎを開始す るが、S氏も彼 らと同 じ感覚 で 日本 に帰 って きたので あ り、 もちろんそれ ら多 くの 日系人 と同様、 日本 を移住地 とす る選択肢 ももっていた。 しか し 彼 は、結局 日本 で暮 らす ことをあ っさ りと断念す るのであ る。S氏によれば、 日本 に帰 った彼 は、 まず もって (日本在住 の)日本人 による欧米志 向、 と りわ けアメ リカ志 向を感 じとった と い う。つ ま リブラジル に住んでいた とい うこと、 ポル トガル語 ができるとい うことは、 日本で 暮 らす にあた って何 ら利点 を もたない と感 じとった。 その ことの影響 は、S氏本人 よ りもむ し

2世とな る子供 た ちに大 き く、 もはや 日本語がほとん どできない彼 の子供 たちが 日本 に適応 す るのはむずか しい と悟 ったS氏は 日本移住 を断念 したのであ る。

日本 に帰 る とい う選択肢 を捨 てたS氏がつ ぎに 目を向 けたのが、 北米 であ った。 彼が北米 に 目を向けたのは、上記 の 日本 における欧米志向 も関係 あるか もしれないが、 それ以上 に彼の 人 的ネ ッ トワニ クの ほ うが大 きな きっか けを与えた。 ブラジル において、彼 にはカナダ出身の 人 び とと交友関係 があ り、 カナダでの生活 について情報 を得 る機会があ った。 そ こで彼 は、そ れ らカナダ人 たちか らの情報収集 を さらにお こない、 その上 でカナダヘの移住 を決断 し、移民 局 に申請 をお こな った。 しか し移民局か らなかなか返事 が来 ないなかで、彼 は別の交友 ネ ッ ト ワー クを利用 し、 アメ リカ在住 の友人 の誘 いでアメ リカにい くことにな るのである。 しか しS 氏 はす ぐには渡米せず、東京 のす じ屋で約 1カ 月、板前 と しての修業 をす る。 その経験 をいか

し、北米ではす じ職人 になろ うと考 えていた ことは想像 に難 くない。

‑136‑一

(7)

立川陽仁

 

「 日本と/かブラジル」という限界を越えて 一 ある日本人の移動に関する生活史 ― す じ屋 での修業後、S氏は友人 の誘 いのままアメ リカの ロスア ンジェル スに向か った。 しか しい ざアメ リカにい ってみ ると、 た とえ労働 ビザを もっていて も必ず しも働 けるわ けで はない ことを知 る。 それで もなん とか ロスア ンジェル スで仕事 を開始 したS氏で あ ったが、彼 には あわな い職場 の環境 のため、 1カ 月 でその店 をやめ、 デ トロイ トに移 る。 デ トロイ トでは 日本 食 レス トラ ンNで 3カ月 ほ ど働 いた。 しか しその頃、 よ うや くカナダの移民局 か ら許可 が下

りたので、彼 はデ トロイ トを離 れ、 カナダに移住 したのであ る。

最 終 的 にS氏が ア メ リカで はな くカナダを選択 したの は、 ビザ や永住権 が ア メ リカよ り多 少 は と りやす い とい う理 由による。 それで も彼 は、 当時 のカナダにおけるす じ職人 の需要の高 さ、 そ して小 さい子供がいることな どが配慮 されな けれ ば、 カナダで会 って も許可が得 られな か ったで あろ うと移民局 にいわれたそ うである。S氏41歳か ら42歳の頃であ った。

3‑4 

カナダでの生活 (1989‑)

ブ ラ ジル で は「 サ ラ リーマ ン」 を経験 し、 その後 はパ ン屋 を営 んだS氏で あ るが、 カナダ ではほぼ一貫 してす じ職人 と して働 きつづ けてい る。 ただ、本項 で示す よ うに、彼 は (お もに カナダの西側 を)さまざまな理 由か ら移動 しつづ けて きた。筆者 が この論考 を したためている 2010年だ けで も、S氏2度の引 っ越 しを している。

カナダ にわた った直後 のS氏は、 いきな り3つの「 問題」 に直面 した。 第 1に 、労働 ビザ か ら移民 ビザ (永住権獲得

)に

切 り替 え るために必要 な金額 を貯 め ること、第2に相つ ぐ両親 の死、第3に英語 であ る。

カナダに移住後、S氏はまずバ ンクーバー近郊 のサー レー (Surrey)の 日本食 レス トラ ン S で職 を得 た。店 のおかみ さんか ら悪質 ない じめを経験 した と感 じたS氏で あるが、「移民 ビザ を得 るまで は こ こで働 こ う」 と考 え、 レス トラ ンSで働 きつ づ けた。 当時 の彼 の月 収 は約 1,500ド ルと考 え られ る。 この額 自体 が多 いか どうか は さてお き、 とにか く彼 は、移民 ビザの 申請 に必要 な、一定金額以上 の残高 を証 明す る残高証 明書 の提 出まで、働 きつづ けて貯金 を積 み重ねな けれ ばな らなか った。結局彼 は、 い くらかの幸運 も手伝 って無事 に残高証 明書 を提 出

し、1980年代 当時 はほぼ不可能 といわれた労働 ビザか ら永住権 へ の切 り替 えに成功 した。

カナダに移 ってす ぐ、姉 が訪問 して きた。 その ときに彼 は、 まず父親が、ついでその半年後 に母親 が亡 くな った ことを知 らされた。 ただ、 ブラジル に旅立 った際、彼 は親 の死 に 目にはあ えないだ ろ うことを覚悟 して いた らし く、 これ もまたみず か らの運命 なのだ と考 え ることに し た とい う。

日本 とブラ ジルのそれぞれで20年を費や したS氏に とって、英語 圏での生活 はは じめてで あ り、 当然英会話 はほぼで きない状態であ った。 もちろん彼 には語学学校 に通 うとい う選択肢 が あ った ものの、 彼 はそ う しなか った。 レス トラ ンSで働 いて いた頃、 彼 の休 み は 日曜 と月 曜で あ り、 その うち月 曜を彼 は ゴル フ場 です ご して いた。彼 はで きるだ けア ジア人 とラウ ン ド をまわ らず、 イギ リス系 カナダ人 とラウ ン ドをまわ るよ う心 が けた。彼 に とって は ゴル フ場 で の会話 が英会話能力 を磨 く1つの場 であ った。

さて、 サー レーの レス トラ ンSを「 永住権獲得 まで の仮 の就職 口」 と考 えて いたS氏で あ るが、彼 は結局 この店 で7年間働 きつづ けた。彼 が結局 この店 を辞 めたのは、経営者 が店 を韓 国人 に売 り払 った ことが き っか けであ る。 この韓 国人新 オ ーナーは経費削減 のために人件費 や 材料費 を削 り、 その こ とがS氏におおいに不満 を抱 かせ た。 そ こで彼 は、 レス トラ ンSを

(8)

め、 つ ぎにバ ンクーバ ー近郊 の コキ ッ トラム (COquitlam)にあ る 日本人経営 のス早パ ーで、

テイ クアウ トのす しをつ くりは じめた。

コキ ッ トラムで2年半 働 いて いた頃、店主 が急死 した。 その店主 は亡 くな る直前、S氏

「 店 を頼 む」 といい残 した らしい。 しか し遺族 とのい ざこざにまきこまれ るのを嫌 が ったS氏

は、 そのスーパ ーを辞 め、バ ンクーバーのダウ ンタウ ンにあ る老舗 レス トランKで板前 をは

じめた。 いわゆ る「 花板」 にまで昇 りつめたS氏で はあ るが、 オーナー とのい ざこざのため、

2年もしない うちに店 を辞 めている。

その後S氏は、 バ ンクーバー近郊 の リッチモ ン ド(RichmOnd)の 日本食 レス トラ ンに移 っ た ものの、 その レス トラ ンには 1日 か 2日 いた くらいで、 その頃誘 いがあったバ ンクーバー島 中部 の町 コー トニ ー (COurtenay)に あ る 日本食 レス トラ ン

Yに

す ぐに移 る。S氏いわ く、彼

Y店のオーナー と単 に馬があ っただけでな く、両者 がデ トロイ トの レス トランNで働 いた 経験 を共有 していた ことが、両者 の好調な関係を後押 ししたようである。 こうしてバ ンクーバー 近郊 の移動 を繰 り返 していたS氏は、 この ときは じめてバ ンクーバ ー島へ と移 ることにな る。

52歳の ことである。

S氏Y店で働 いた5年後、 この店 も日本人 で はない経 営者 の手 に移 ることにな った。 そ れ と同時 に、 彼 は、 休 暇 の際 しば しば

Y店

に訪 れ て い た キ ャ ンベ ル・ リバ ー (Campbell River)とい う町の夫婦が経営す る日本食 レス トラ ンT店に移 ることにな った。筆者 がS氏 知 りあ ったのは、彼 が この

T店

で働 いていた頃の ことであ る。

T店5年間働 いたS氏は、2010年62歳に して独立 してみずか らの店 をだす ことを計画 す る。 そ こで彼 は、 アルバータ州 に住む友人か らの誘 いに乗 じ、車 にすべての荷物 を積んでカ ルガ リーに移動 し、 そ こでテイクァウ トの店 をだす準備 をお こな った。 しか しその2カ月後、

なん らかの理 由でキ ャンベル・ リバーに戻 ってきた。現在 はキ ャンベル・ リバーでテイクアウ トの店 をだす ために、準備 を進 めているところである。

4 S氏

の「 居 住 」 と「 移 動 」

前節 で はS氏の生 活史 の概略を、 お もに彼 の移動 と労働 に焦点 をあてつつ素描 した。 こう した簡単 な概 略であ って も、 いざ彼の人生 を過去 のブラジル 日系移民研究史 に位置付 けると、

い くらかの知見 が得 られ るのではないであろうか。本節ではまず、過去 のブラジル 日系移民研 究史 のなか にS氏の移動史 を位置付 ける試 みか らは じめる。 この作業 によって、S氏の半生 が

もはや過去 の研究史 のなかに位置づ け られないことがわか るであろう。 この ことをあ、まえ、つ ぎに、彼 の移動史 をよ り的確 に理解す る試 み として、 ク リフォァ ドの移動 とい う概念を検証す ることに したい。

4‑1 

プラ ジル移民研究史 とS氏の移動史

改 めて言 い訳 が ま しい ことをいわせて もらうと、筆者 は本来 カナダ北西海岸 の先住民 を専門 的 に研究す る人類学者 であ り、 ブラジルの 日系移民 に関す る研究 については門外漢 に等 しい。

したが って、本項 にて言及 され るブラジルの 日系移民研究史 は、 そのすべてを網羅 した もので はな く、 ご く一部 の もの しか考慮 されていない可能性 もある。 その ことを認 めた上 で、筆者 は あえて過去 の ブラジルの 日系移民、 および彼 らに関す る研究史 の特徴 として、以下の3点をあ

‑138‑

(9)

立川陽仁

 

「 日本と/かブラジル」という限界を越えて 一 ある日本人の移動に関する生活史 一 げておきたい。

第 1に 、戦 前 に ブ ラジル にわた った移民 につ いての研究 で あれ、 あ るいは1990年以後 の 日 本 に出稼 ぎで戻 って きた移民 につ いての研究 であれ、研究 のテーマは圧倒 的 に彼 らのエ スニ シ テ ィ、 よ り具 体 的 に は 、 エ ス ニ ッ ク・ ア イ デ ンテ ィ テ ィ に 関 す る もの が 多 い (cog.

HIRABAYASHI ct al.(eds。 )2002;LESSER(ed.)2003;前  1996;中││ほ (編)2010)。

ブラ ジルで 日本 の敗戦 を素直 に受 け入れ られなか ったいわゆ る「勝 ち組」 の人 び との心理、 も はや帰国が絶望 的 にな った彼 らに とっての 日本 の位置づ け、 さ らには、 ブラジルでは盆踊 りを 踊 り、 日本 で はサ ンバ を踊 ろ うとす る出稼 ぎ 日系人 たちの揺 らぎな どは、 もはや研究 テーマの 定番 とみな して も問題 ないであろ う。筆者 はこうしたエ スニ ック・ アイデ ンテ ィテ ィに関す る 研究 に重要性 が あ ることを認 めてはい るが、 日伯 間の移民 を対象 と したエ スニ シテ ィ研究が、

1980年代 か ら1990年代 にか けて社会学、人類学 においてす で に提示 されたエ スニ シテ ィ研究 の結論 を再認 して いるだけだ とい う印象 ももってい る。 ただ、本稿 では この件 につ いては深 く 論 じることは しない。

2に、 時代 によ り、研究 の対象 に大 きな偏 りが あ るとい うことで あ る。戦前 の最初 のブラ ジルヘ の 日系移民 の時代 か ら1990年の入管法改正 まで、研究 され る対象 はお もにブラジル に 住んでい る 日系1世あ るいは2世以降の人 び とであ った。 しか もその ほ とん どは、 サ ンパ ウロ を中心 とす るブラジル南部への移住者 であ り、

 

トメアスーな ど北部へ め移民 につ いて は ご く一 部 の例外④をのぞいて研究の対象か ら除外 されてきた。 さらに、S氏の よ うないわゆ る戦後 の

「 新移 民」 も、 ほ とん ど研 究 され る ことが なか った よ うで あ る。 今野 と藤 崎 に よ る『 移民史 (南米編

)』

(1983)を例 に とると、約200ペー ジにお よぶ ブラジル に関す る記述 のなかで、戦 後 の新移民 に関 して はわず か2ペー ジ しか割かれて いない。 それ に対 し、1990年の入管法改 正後 は、 ブラジルか ら日本 に出稼 ぎで戻 ってきた 日系移民 に焦点 をあてた研究が激増 している。

ブラジル移民 100年の歴史 を総括 した三 田の著作『「 出稼 ぎ」 か ら「 デカセギ」へ』(2009)で は、 ブラジル移民 の100年の歴史 においてはまだ20年の歴史 しかない 日系 ブラジル人 の 日本 へのデカセギに関す る記述 に、全体 の半分 のペー ジが費や されている。

戦前 にサ ンパ ウ ロにや って きた、 お もに農業従事者、 お よび入管法改正以後 のデカセギ 日系 ブラジル人へ の研究対象 の集 中は、研究者 の側が恣意 的 に対象 を選 んだ結果であるか もしれな いが、 同時 に移民 のマ ジ ョリテ ィの動 向を反映 した もので もあろ う。つ ま り、初期 の研究 にお いては 日本か らブラジルにわた り、サ ンパ ウロやその周辺で農業 を営んだ人 びとがマジ ョリテ ィ であ り、 かつ そのまま研究対象 にな ったのであ り、戦後 に移民 した人 び とは少数派 と して研究 対象 か ら除外 され た といえ るで あ ろ う0。 それ に対 して1990年以 後 の 日本 に出稼 ぎで戻 って きた人 び とに関す る研究 の増加 は、 それ もまた出稼 ぎ民 の数量 的デー タを反映 したのだ といえ るであろ う。

この ように、研究 の対象 とな る人 び とにつ いて はそれぞれの時代背景 に応 じた変化がみ られ る ものの、研究者 が研究対象 をきめ る上 でブラジルを くホーム〉 とす る人 び と、 ない し日本 を くホーム〉 とす る人 び とを暗黙 の条件 に据 えてい るの も事実 で あ る。敷衛 してい うと、研究対 象の設定 において は どこか特定 の場所へ の 〈居住〉 とい う条件 が前提 とな ってい るのであ る。

これが第3の特徴 であ る。 もし く居住〉 が研究対象 を設 定す る条件 の1つだ とみなすな らば、

先行研究 が「 ブラジルの 日本人」 と して ほとん どの場合農業従事者 を選 んだ もう1つの理 由に た どりつ けるか もしれない。すなわち、農業従事者 に くらべては るか に移動性 の高 く、 いつ ブ

(10)

ラ ジルを離 れ るかわか らない「 商売人」 や「 サ ラ リーマ ン」 では、「 ブラジルにわた った 日本 人移民」 を研究 しようとす る側 にとっては不都合 なのである⑥。

以上 に述べ た特徴 を もつ研究史 に、S氏の移動史 を配置 してみよう。す ぐに理解 され るのは、

彼 の半生 はまさに上記の「 ブラジルにわた った 日本人移民」 とい う対象設定 にうま く収 ま りき らない ことである。S氏はブラジル移民全体の5パーセ ン トを占めることさえない戦後の移民 で あ り、 しか も高度経済成長期 にあたる1968年の、450人しか いない移民 の1人で あ る (海 外移住事業 団 1973:257)。 当時、 日本政府 はブラジルで もアマ ゾ ン開拓 に向けて集 中的に移 民 を送 り込 み (今野・ 藤崎 (編)1983:183‑191)、 彼 もその方針 どお りに北部 にい くが、政府 の思惑 に反 して農業 には従事 しなか った。移動可能性の比較的高い「商売人」 としての彼は、

1980年代 に景気 が後退す るやtさ っさと荷物 をま とめて ブラジルをでてい く。 多 くの 日系 ブ ラ ジル人 が 日本 を「 デカセギ先」 として選 び、 そ して さまざまな文化的差異 に悩みつづ けてい まにいた るが、彼 は「 日本 はだめだ」 となれば、す ぐにアメ リカやカナダの状況を調べて移動 を繰 り返すのである。 これ らの ことは、すべて これまでの移民研究のなかでは「例外」であ り

t

また研究対象 と して「 相応 しくない もの」 して片づ け られ る もの特性であろう。

で は、S氏は本 当にただの例外なのであろうか。 これを判断す るだけの十分 な数量的データ を筆者 は持 ちあわせていないが、必ず しもそ うで はない と筆者 は考えている。 た しか にS氏

は戦前 にサ ンパ ウロにい った農業従事者 とは多 くの面で異な っている。戦前の移民の場合、彼 らは 日本 国内の経済か ら閉めだされた「棄民」 としての側面を もつ としば しばいわれ るが (三 2009:HO…113;ci今野・ 藤崎 (編)1983)、 S氏をあゝくめた戦後 の移民 の多 くは 日本 で高 度経済成長期 を体験 してお り、少 な くとも日本か ら経済的に押 しだ された とい う感覚 は共有 し て いない。彼 ら戦後移民 の多 くは、「 日本 にいては食べていけない」 とい う感覚ではな く、 む

しろ ―一 日本政府 のイデオ ロギーにの っとった部分 もあろ うが 一―「 日本 にいてはできない 大 きな ことを成 し遂 げたい」 とい う感覚を共有 し、 それがき っかけで移住の決断を した。つ ま り、戦前 の移民 が「 もはや海外 にい くしか選択肢がない」状況であ ったのに対 し、戦後の移民 は 日本 に残 るとい う選択肢 もあるなかで、 あえて海外移住 を選択 したといっていい。 さらに、

戦後 の移民、 と くに1960年代以後の移民 においては、S氏の従兄 のような技術者、あるいは S の よ うな商売人 と して移住す ることもじつ は多 くな っていた (三田 2009:131‑132)。 また、

統計 のなかや研究 の対象 と して現 れない人 び と 一― た とえば「失敗者」 やS氏の よ うにブラ ジルをでて 日本以外 の国にい った人 び と 一― もそれな りに多 いのではないか。つ ま り、 日伯 移民100年の歴史 か らみれ ばS氏は少数派 に入 るで あ ろ うが、戦後移民 とい う枠 のなかで と

らえ るな らば、彼 はけっして例外 とはいえないはずである。

ブラジル と日本 をつな ぐ移民 の状況 は、入管法 が改正 された1990年を境 に劇 的 に変化 し、

また研究史 もそれ に対応す るための努力 を して きた。 しか しさまざまな種類 の少数派 ―― 移 住 した ものの生活が苦 しく、 日本 に帰 らざるを得 な くな った「 失敗者」 たち、「失敗」 は して いない ものの 自由意思 でブラジルを離れた人 たち、 日本人 コ ミュニティでの生活を嫌 ってブラ ジル人 のただなかで生 きることを選択 した人 たちな ど ―― を軽視 してきた ことは否めない。

現代 に生 きる移民 の多様性 を理解す るためには、S氏の よ うな戦後移民をあ、くめ、 こうした少 数派 の動 向を例外視す るべ きで はない。 そのために もS氏の よ うな戦後移民 の動 向を も的確 に把握 し得 る、理論 の形成が求 め られ るはずである。 そ こで次節では、S氏の よ うな現代 の移 民 をあ、くめた移民研究 に向けて、若千 の検討 を加 えたい。

‑140‑

(11)

立川陽仁

 

「 日本 と/かブラジル」 という限界を越えて 一 ある日本人の移動に関する生活史 一

4‑2 

居住〉 か ら く移動〉 へ?

ここで まず、再 びS氏の移住史 を振 り返 ってみたい。 そ うす ると、彼 の (少な くとも20歳 以後 の

)生

活 において は、 〈居住〉 と同 じくらい く移動〉 の側面 が重要 であ ることが理解 され

るはずである。

日本 を出国 してか らのS氏は、何度 も引 っ越 しを してい る。 まず20歳の ときに 日本 か らブ ラ ジル にわた った彼 は、1989年に 日本 に戻 り、 その後 もカナダ、 ア メ リカ とわた り歩 いて最 後 にカナダにい くわ けで あ るが、実 際の ところ、 こう した国家 間の移動 ルー トのみを提示 し も、彼 の移動 の本質 はみえて こないであろう。 ブラジル に移住 した彼 は、 ブラジル国内だけ もベ レンか ら トメア不―、 そ して トメアスーか らベ レンに移動 し、 さ らにベ レン内で も何度 も 引 っ越 しを した。 また、1989年に最終的 にカナダに住 む ことにな った後 も同様 に、 ブ リテ ィッ シュ・ コロ ンビア州 とアルバ ー タ州 のあいだで何度 も引 っ越 しを した。 ここで、「 同 じブラジ (ない しカナダ

)内

、 しか もブラジル北部 (ない しカナダ太平洋側

)で

の引 っ越 しだ」 とみ な して彼 の 〈移動〉 の側面 を軽視 す ることは意 味 をな さない。 なぜ な ら、彼 に とって国境 はそ れ ほ ど大 きな意味 を もたなか った と思 われ るか らである。彼 に とって、ベ レンか ら トメアス までの移動 (実際 は転勤 で あ ったが)、 ベ レンか ら東京への移動、 ロスア ンジェル スか らデ ト ロイ トまでの移動 は、 そ う違 うものではない。S氏とその家族 は、 どこにい くにあた って も多 くの荷物 を携帯せず、軽快 で手軽 な移動 を維持 した。 この点 において、S氏の言葉 は示唆的で あ る 一一 「 自分 のや りた い ことをや るのにいろんな ところにい って、 ……その ときに本 当に 必要 な ものがわか る。[自]の部屋 にある もののなかで、本 当に必要 な もの って、実 は段 ボー 1個2個 くら しか な いん じゃな いか」。S氏が 〈移動〉 にあ る種 の力点 をお くことは、彼 の荷物 の少 な さだ けでな く、語 りのなかか らもうかがえ る。筆者 の思惑 に反 し、S氏が 日本 か らブラ ジル に移動す る際の 〈あ るぜん ちな丸〉 での生活 に関 して饒舌 に語 った ことは、 それ 自 体 われわれが いま以上 に移動時 の生活 その もの に注意 を向けるよ う示 唆す る ものであ る。

この よ うに、S氏の移動史 はわれわれ に対 していま以上 に く移動す ること〉 に力点 をお くこ とを要求す る。 それ と同時 に、「 ブラジル」 とか「 日本」 とい う空 間上 の枠組 みに縛 られない 視点 を求 めて もい るので あ る。

移動 す ることへ の眼差 しは、 じつ はそ う真新 しい ことで はな い。人類学 において は、 た とえ ばター ナーがす で に1960年代 に移動 の局面 を強調 して いたが (Turner 1969)、 あ くまで彼 は 巡礼 における移動 につ いて扱 ったのであ り、旅 その ものへの視点 および旅 のなかの移動 とい う 行為へ の眼差 しは欠 いて いた とい って よい。 その後旅 その ものを理解 しよ うとす るべ く勃興 し たはず の 〈観光人類学〉 も、移動 の過程 の重要性 を指摘 した もの は少 ないよ うに思 われ る。 そ うい う意 味で、広 い意 味での人類学 ない し隣接諸分野 に、旅、 お よびその移動 の過程 に注意 を うなが したのは、 ク リフ ォー ドだ といえ るであろ う。 ク リフ ォー ドはデ ィアスポラに関す る論 考 のなかで、 〈居住〉(ホーム)よ りはむ しろ 〈旅〉(トラベル

)の

概念 お よびそれ に伴 う方法 論 こそが、現代 のデ ィアスポラお よび コスモポ リタニズムを理解す る鍵 にな ると主張 してい る

(ク リフ ォー ド 2002:27…54)。 本稿 で は詳 しく遮ゝれ ることは しな いが、筆者 は ク リフ ォー ドの 議論 に全面的には賛 同 していない°oただ、S氏のような戦後移民の動 向をみる上で、 ク リフォー

ドの指摘 は少 な くとも2つの点で示唆的なのはた しかな ことであ るよ うに思 われ る。

第 1に 、 〈居住 す ること〉 よ り 〈旅す ること〉 に重 きを置 くク リフ ォー ドの視点 は、 〈旅す ること〉あるいは流浪す ることにある種の異常性を付す、近代特有の視点を暴露す る。 クリフォ

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