特別寄稿
最終講義
一松下幸之助か ら学びて、いま思 う日本の行 く末‑
松 岡 紀 雄
経営の神様
「経営 の神様」 と呼 ばれ る松 下幸 之助氏 は、
まるで昭和 の時代 を見 届 け た よ うに1989年4 月、94歳で他界 した。それか ら間 もな く22年 に なる。松下 さんの身近で働 いた経験 のある者 は、
多 くが一線 を退 き、生 の桧下 さんについて語 る 人は少 な くなった。
私 は、思いがけず20代 の半 ばか ら松下 さんの 下で働 く機会 を与 え られ、11年余 にわたって格 別の薫陶 を受けた。神奈川大学経営学部 を定年 退職す るにあた り、「最終講義」 とい う形 を借 りて、松下 さんの生の姿 について語 り、 さらに は松・下 さんか ら多 くを学 んだ私が 日本 の行 く末 について今 どの ように考 えているか、率直 にそ の考 えを述べ てみたい。
毎年、「経営環境概論」や 「起業学入 門」、あ るい は 「海外広報論
」
「企 業市 民論」 とい った 私の担 当す る授業のなかで、松下 さんについて どの程度知 っているか を尋 ねるが、最近の学生 は2年次 になって も半数近 くが名前 さえ聞いた ことが ない と答 える。そ こで、 まず簡単 に松下 さんについて紹介 してお こう。松 下 さんは、現在 のパ ナソニ ック (旧社名 は 桧下電器産業) を、文字 どお り一代 で世界 的な 大企業 に育 て上 げた。1894年 に現在 の和歌 山市 で」、地主の家 に生 まれるが、父親が米相場 に失 敗 して土地や家 を失い、当時4年制 だった尋常 小学校 さえ も中退 して9歳 の折 に大阪 に丁稚奉 公 に出される。 火鉢店や 自転車屋 で働 く中で も 非凡 さをうかがわせ るエ ピソー ドを残 している が、大阪市 内に路面電車が走 るの を見 て電気 の
時代 の到来 を予感 し、16歳で大阪電燈 (現在 の 関西電力) に内線見習い工 として入社す る。 通 天閣の電灯工事 などにも携 わった とい う。やが て二股 ソケ ッ トを考案 し、23歳で独立 して借家 の土 間を作業場 に妻 と義弟の3人で会社 を興 し た。起業家精神 によることは もちろんだが、当 時健康 に恵 まれなかったことか ら、体調 に合 わ せて仕事 をす るために自分 の会社 を持 った とい うのが真相 か もしれない。ただ、傑 出 した創意 工夫 と努力の人であ り、筆舌 に尽 くせ ない苦難
にも挫 けない人だった。
太平洋戦争の惨禍 で大 きな損害 を被 ったばか りか、一時 は
GHQ
(連合 国総 司令 部)か ら財 閥指定、公職追放 まで命 じられる。50歳の時で ある。 しか し、そ うした苦境 をも乗 り越 えて立 ち上が り、 日本 の戦後復興、高度成長のシンボ ル的な企業経営者 として、今太閤 と呼 ばれる成 功 を遂 げる。長者番付 で も計10回全 国一 にラン クされるほ どに財 を成 し、遺産総額 は2450億 円 と報 じられた。「日本 にノーベ ル賞並 みの世界 的な賞の創設 を」 とい う政府の方針 で 「日本 国 際賞」が創設 されたが、 これ も桧下 さん 自身 と 桧下電器産業の寄付 によるものである。太平洋戦争敗戦 の 4カ月前、「反省 謙虚 の力 行」 と題 して全従業員 に向けて綴 った次の一文 には、松下 さんの思いが溢 れている。
「松 下電器 は、 これ まで、信念 を もって使命 達成 に敢 闘す ることを経営の指導理念 とし、 ど んなことで もや り遂 げるとい う精神 で、信ず る こと、正義 と思 うことを敢行 して きた。しか し、
自己の主張す る正義のみに固執 し、他 を顧みな いのは小乗的、独 善的な正義である。 これだけ 最終講義‑松下幸之助から学びて、いま思う日本の行 く末‑ 1
では最後 に、力 におご り、 しまいには事 をし損 じる。常 に他 を顧 み、他 の主張 を聞 き、 自らの 行動 を常 に反省 して、謙虚な気持 ちで 自らの道 に努力す ることが必要である
」
。 (松下電器産業 株式会社 [1968]171‑172頁)「一億玉砕
」
「本土決戦」が叫ばれていた、ポ ツダム宣言受諾4カ月前 であ った こ とを思 え ば、松下 さんの並外 れた洞察力、先見性 を思わ ないではい られない。PHP研究所 と松下政経塾
『LIFE』 と言 えば当時アメリカを代表す るグ ラフ雑誌 で、発行部数800万部 を誇 っていた。
その1964年11月11日号が、表紙 に和服姿で其 々 庵 (後述)の白砂 に立つ松下 さんの全身像 を掲 げ、8頁にわたって松下 さん と松下電器 を特集 した。その表紙 には、松下 さんが 「最高の産業 人
」
「最高所得者」
「思想家」
「雑誌発行者」
「ベ ス トセラー著者」 と記 されている。 この 「思想 家」
「雑誌発行者」
「ベス トセラー著者」 とい う のが、PHP研究所 のことである。PHPは、大金持 ちになった松 下 さんが道楽 で始 めた ように誤解 す る人が多 いが、事 実 は まった く異 なる。そ もそ もPHP研 究所 を創 設 したのは敗戦直後の1946年11月の ことであ り、
月刊誌の創刊 も翌47年4月である。47年1月の 松下電器経営方針発表会で、社員 に向かって次 のように語 りかけている。
「人類 の平和 と幸福 のため には、豊か に富 め る社会 をもた らさなければな らない。現在の貧 困な社会 を、一 日も早 く改善 しなければな らな い。 しか し、現在お こなわれていることは、す べて逆である。 これは、現在の社会 に繁栄 をも た らす政治がないか らだ といえる。そ して、 こ れは、真 に繁栄 をもた らす経営理念が認識 され ていない とい うことにほかな らない。現在の 日 本の状態では、国家社会の安定 をはかることが 先決問題である。 これを考 えないで会社 の安定 をはかることは考 え られない。私 は、 この考 え 方の もとにPHP運動 を起 こ した
」
。 (松下電器産業株式会社 [1968]193‑194頁)
つ ま り、健全 な国家、社会の発展あってこそ の企業経営であ り、国や社会のことを政治家や 官僚任せ に してお くわけにはいかない。経営者 はもちろん、国民一人 ひとりが国や社会のあ り 方 について真剣 に考 え、学び合 ってい く場 を設 けなければな らない。そ うい う止むに止 まれぬ 思いか ら、月刊誌PHPを創刊 したのであ る。
印刷用紙 も配給制の時代であ り、その決意のほ どが うかがえる。
さらに、後年 になってこのままでは 日本はま す ます混迷の度 を深めてい くとの危機感か ら、
新 しい国家経営 を推進 してい く指導者育成が不 可欠 と考え、私財70億 円を投 じて茅 ヶ崎市内に 松下政経塾 を設立 した。1979年、松下 さんが84 歳の時である。
松下 さん との出会い
私が い ったい どの ように して松 下 さん と出 会 ったのか、訝 しく思 う人 もいよう。 実は、私 の青春の "最大の不幸"が松下 さん との出会い をもた らして くれたのである。
愛媛県立松 山北高校 は、司馬遼太郎の 『坂の 上の雲』の主人公、秋 山兄弟の兄、秋 山好古が 晩年に4代 目校長 (1924‑30)を務めた学校 と して知 られるようになった。その松 山北高校 を 卒業 したのは1959年、戦後の経済復興か ら高度 経済成長 に向か う最 中であった。「理工系 にあ らざれば人 にあ らず」などと言われた時代であ る。元々数学 と物理が得意だった私 は、当然の ごとく電子工学科 を目指 した。 ところが、現役 入試にみ ごと失敗 して しまった。予備校 で学ぶ 必要 を感 じなかった私 はひとりで受験勉強 を続 けたが、その間に考 えが一変 した。研究室で コ ツコツと研究 を続ける人生が想像で きな くなっ たのである。 そ して1年後、一転 して京都大学 の法学部 に進んだ。 もし現役で電子工学科‑進 んでいた とした ら、仮 に技術者 として松下電器 に入社す ることはあって も、松下 さん と出会 う ことはなかったであろう。
大学では3年次に商法の権威、大隅健一郎教 授のゼ ミに入 った。親学会 とい う学生団体の経 理責任者 をしていたことか ら会計の実務知識が あ り、教授の著書‑の疑問を呈 した。ゼ ミ生み んなの前 で、「松 岡ク ンの言 うとお りです。ボ クにも勇気があった ら、その頃にもその ように 書いていたで しょう」 と言われたのにはびっ く りした。数年後 に最高裁判事 に就任 し、晩年 に は文化勲章 も受章 した方で、学識、人間性 とも に心か ら尊敬 で きる先生であった。 このゼ ミの
OB
会である 「大隅会」の幹事 を務 めていた こ とか ら、松下電器 に勤める先輩 と出会い、その 生 き生 きした姿 に惹かれ、私 も松下電器 に入社しようと決めた。
桧下 さんは1961年 に社長 を退いて会長 に就任 したが、いわゆる岩戸景気 の反動不況か ら日本 経済はそれ までにない苦境 に陥 り、私が入社 し た64年 の7月有 名 な 「熱 海 会 談」 1の後、営 業 本部長代行兼務で現場復帰 し、世間を驚かせた。
この事態が一段落 した66年の初め、念願であっ た月刊誌PHPの普及 に力 を注 ぐため、若手 の ス タッフを桧下電器か ら出向 とい う形で迎 える ことにな り、その初陣のひとりとして私が呼び 出されたのである。
松 下 さん と初 め て1対1で 向か い合 ったの は、2月末の底冷 えの厳 しい土曜 日の朝だった。
事務所の裏木戸 を開ける右手が、寒 さと緊張で 凍 えていたのを覚 えている。
当 時 のPHP研 究所 は、京 都 の南 禅 寺 畔、
「其 々庵
」 2
にあった。東 山を借景 とす る池泉 回 遊式の庭 園を望む2階建 て数寄屋造 りが事務所 だった。ガラス越 しに庭園を見渡す座敷で向か い合 った松 下 さんは、「修業 だ と思 って3年 間だけPHPで頑張 って くれ、本来は松下電器 に 入 ったのだか ら」 と言われたが、その後の一言 に身が引 き締 まる思いが した
。「3
年後 にキ ミ も引 き続いていたい、ボクもいて欲 しい と思っ た ら、その後 もPHPで頑張 ってほ しい」 と言 われたのである。や さしい物言いではあったが、本質 を逃 さない、実に厳 しい方だ とい う印象 を 受けた。
それに して も、初対面の松下 さんの耳の大 き いことには驚いた。 まるで大 きな両耳 に上品な 顔が付 いている、そんな感 じさえする耳だった。
その後、 この大 きな耳が、私の ような若造の話 にもいつ も謙虚 に、一言 も逃 さない ようにと傾 けるための耳であることを、幾度 とな く思い知
らされた。
当初 は、松下 さんの考 えを世 に発表す る役割 を担 った研究部の一員 として、松下 さんを囲ん での政治や経済、教育な どに関す る研究会 に参 加 した。松下 さんの指示や構想 に基づいて6名 の研究員がいろいろと下調べ をお こない、模造 紙 に書いて発表、毎回2時間余 りの議論 を重ね るのである。初対面で修業 という言葉があった が、早朝か らの庭園の掃除や、門の前で松・下 さ んや来客 を出迎 える ドアボーイなど、 さまざま な体験 を重ねた。国立京都 国際会館の開館前 日 には、私 を前 に座 らせて理事長式辞 を読み上げ る練習 をされたこともあった。毎月18日には真 修会がおこなわれ、早朝か ら庭掃除をして松下 さんを迎 え、伊勢神宮の内宮 を8分の 1に模 し た 「根 源 の社
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に参拝、記念撮 影 の後 で一緒 におかゆを食べ た。「治 にいて乱 を忘 れず」の 精神 を心 に刻むためである。大学 を出て まだ数年、小憎 らしい書生 っぼさ
1枚下 さんはすでに第一線 を退いていたが、経営の異変 を感 じ、全国の販売会社 と代理店の社長、それに営業所長 に 要請 し、熱海で会合 を開いた。赤字に苦 しむ販売会社の社長か らは、松下本社 に対する強い不満がぶつけ られるが、
3日目に及んで松下 さんは、「皆 さんの言い分 はよく分かった。松下が悪かった。現状 を打破 し、信頼 に応 えるため に、今 は松下が頑張 る ときだ」 と、涙 なが らに決意 を語 り、会場 を感動 と団結の場 に変 えた。200人の出席者 に直筆 の 「共存共栄」の色紙 を贈 ったことで も知 られる。
2真実真理を探究す る道場の意。1980年 には鉄筋和風づ くりに全面改装 され、「松下美術美術苑其 々庵」 と呼ばれ、
パナソニ ックの迎賓施設 となっている。
3枚下 さんは、宇宙が人間を作 ったのであ り、宇宙の根源、万物の根源 に感謝 しなければならないと考 えていた。其 々 庵 を訪れた折 には、 まず根源の社の前 に立 って静かに手 を合 わせた。時には、 この前で座禅 をす ることもあった。
最終講義一松下幸之助から学びて、いま思う日本の行 く末‑ 3
が残 っていたころである。世の中の貧富の格差 や幸不幸、 さらには憲法の解釈 な どについて、
松下 さん と遠慮 のない厳 しいや りとりをす るこ ともあった。それが理 由であろ うか、「ボクは 人の名前 を覚 えるのが苦手やねん」 と言 ってい た松下 さんがいつの間にか私の名前 を覚 え、「松 岡クン、松・岡クン」 と呼ばれるようになった。
間 もな く月刊誌PHPの拡大 を図る普及部 の 企画 担当を命 じられた。駅の売店や書店の店頭 に並ぶPHPを飾 る雑誌 ケースやポス ター、書 店向けの新 聞などは、当時私が手がけた もので ある。ス タッフの頑張 りようは尋常ではな く、
1966年3月に10万部だった発行部数 は、68年末 には100万部、69年末には150万部 にまで急増 し た。「最 も尊敬す る人」 とい う世論調査 で常 に 第1位 にランクされた時代 であ る
。
「松 下 さん のPHP」として、多 くの方々の支持 を受けた。月刊誌の部数が 間 もな く100万部 に達 しよう か とい う頃、松下 さんが記者会見でい きな り英 文国際版の発行 を口に した。ス タッフはみんな 驚いたが、 まさかそれが 自分の身に降 りかかっ てこようとは思 って もいなかった。
アメ リカPHP研究所 の初代代表 に
1970年の3月、私が初代 のニュー ヨーク分・室 長 として赴任することになった。受験英語 は得 意だった私 も、音痴故か ヒアリングやス ピーキ ングは苦手だった。「英語 もろ くに話せない私が なぜ ?」とい う問いに、松下 さんの答 えはふ るっ ていた。「ボクは、アメリカ人 に英語 を教 えに行 け と言 うてん と違 うで。キ ミの 目でアメ リカを 見て きて くれ」。これでは断る術がない。半年後 には現地法人 アメ リカPHP研 究所 を設立 して 代表 となった。羨 ましいまでの経済的繁栄の陰 でさまざまな社会問題 を抱 えたアメリカ社会か ら、多 くのことを学 んだことは言 うまで もない。
アメ リが 帯在 中の3年間、何度か帰国 して松 下 さんに報告 をお こなったが、松下 さんの姿 は、
まるで先生の話 に真剣 に耳 を傾 ける生徒そのま まであった。「ああ、そ うですか、そ うですか」
と丁寧に応 じていることに気づ き、思わずハ ツ としたことも一皮や二度ではない。わか りやす いチ ャー トや写真 を示 しなが ら、ゆっ くり話す 癖 はこの頃ついたように思 う。朝か ら夜遅 くま で私のために時間を割 き、 自身です き焼 きをご 馳走 して くだ さる こ ともあ った。松 下 さんの PHPに対す る並 々な らぬ思 い を感 じとった も
のである。
私 の体調 を心配 した松下 さんか ら帰国を命 じ られ、1973年2月中旬 にニュー ヨークを発 ち、
ローマ、スイス、パ リ、 ロン ドンを経由 して東 京 に戻 った。 ロン ドンでは、20世紀最高の歴史 学者 といわれるアーノル ド ・トインビー教授の 自宅 を訪問、 インタビューの機会に恵 まれた。
ニュー ヨークで背広 を新調 して臨んだ私 は、左 右で寸法が違 うとしか思 えない教授のズボ ンを 見て、人生で何がいったい大切 なのか を問われ る思いが した ものである。
1973年3月に東京 の国際PHP研 究所 に戻 っ てか ら数 カ月、ある日大阪の松下 さんの病室 に 呼ばれた。 しば らく雑談の後、松下 さんはベ ッ ドの上で正座 し直 し、「松 岡ク ンが代表取締役 と編集長 をやって くれ」 と言われた。英文雑誌 の編集長が務 まるような英語力 はない。「こん な私が ?」 とい う戸惑いに、「キ ミな、ボクか て、電気のことが全部わかって電器会社 の社長 をして きたんやないで。わか らへんことは、わ かった人 に助 けて もろた らええねん」。今 回 も 断る術がなかった。
幸い、若手、ベテランの有能で誠実なス タッ フに恵 まれ、懸命 に取 り組 むことがで きた。英 文の月刊誌で もあ り、執筆者 には海外の著名人 が多い。テーマを決定 して原稿 を依頼す ること か ら、常時6カ月前 には準備 を始めなければな らない。100を超 える案件 に計画的に取 り組 む ことの重要性 を日々味わった ものである。松 岡 ゼ ミ生に
「 ToDoLi s t
」4の活用 を厳 しいまでに4ToDoListで、「やるべきことの一覧」の意。日々やるべきことをノートや手帳に一覧で確認することによって、
指導 して きたの も、 この ときの体験が元になっ ている。
日本語版の季刊誌 『pHPイ ンタナシ ョナル
』
も創刊、単行本では トイ ンビー教授の寄稿7編 に、松下 さん との対談、私のイ ンタビューを添 えた 『日本 の活路』、 ドン ・マ ローニ氏 のユ ー モア溢れ る 『外 人 はつ らい よ』、版画家永瀬義 郎氏 の 『放浪貴族』、歌手 ・女優 でねむの木学 園 を創 設 した宮 城 ま り子 さん の英 文 の伝 記
『Mariko,Mother!』、 さ らに は篠 山紀信 氏 の 写真集 『アラビア半島
』
な ども出版 した。『pHPイ ンタナシ ョナル』創刊 当初売 れ行 き が芳 しくないことか ら、急速新聞広告 を強化 し たい と申し出た。 しか し、松下 さんの一言 には 参 った。「キ ミな、広告せ んで も売 れ る もの を 作 りいな。 よく売れるものを作 ってか ら広告 を 増や した ら、キ ミほん とうによう売れるで !」。
松下 さんに、「経営 の神様」 を感 じた一瞬で も あった。
編集 ・出版の実務 に加 えて、雑誌や書籍の販 売推進や購読者の管理、広告、ス タッフの採用 や経理、税務処理等 々、身体がい くつあって も 足 りない多忙 な 日々を送 った。 この頃松・下 さん か ら改めて教 え られたのは、「報告」の重要性 である。直 に会 って報告す るばか りでな く、毎 週水曜 日の朝、電話で報告す るよう指示 された。
なん と言 って も、当時すでに80歳近 くになって いたことか ら、耳で聞いてわか りやすい言葉で、
はっ きりと、ゆっ くりと話す ことを心がけた。
神様が言 うてはると思 ったら‑
松下 さんに関 し、生涯忘れることので きない エ ピソー ドがある。それは、1970年10月17日の ことである。プライベー トに過 ぎて恐縮だが、
渡米半年後、私 は一時帰国 して京都 で ささやか 結婚式 を挙 げた。披露宴の直後 に耳 にしたのが、
NHKラジオの3時のニュースである
。
「カラー テ レビの二重価格 問題5を理 由に、全 国地域婦 人団体連絡協議会が、家電の トップメーカーで ある松下電器 を標的 としてナシ ョナル全商品を ボイコッ トする宣言 をおこなった」 とい うでは ないか。松下 さんにとって、松下電器 にとって、まさに一大事発生である。
翌朝 は18日であ り、其 々庵では恒例の真修会 が開かれる。私 は妻 を伴 って松下 さんに結婚の 挨拶 をす ることになっていた。松下 さんがいっ たい どうい う表情 をしているか、 どうい うこと を言 うか、不謹慎 な言い方だが、私 は興味津 々 であった。
茶室で松下 さんに妻 を紹介 したが、松下 さん の表情 はいつ もと変わ らず穏やかだった。驚い たのは、松下 さんの口か ら出た言葉である。
「キ ミな、婦人団体 の会長や副会長が言 うて ると思った ら、商売の基本 を何 もわかっていな い と腹 も立つわな。で も、違 うで。あれは、神 様が、あの人たちの口を借 りてボクや松下電器 に忠告 して くれてるんや。神様が言 うてはると 思った ら、腹立てるわけにいかんわな。ボクも よう考 えてみるわ」。ボイ コッ ト宣言か ら一夜 にして、 こうした心境 に至 っていたのである。
1年後 には、ナシ ョナル製品の市場 占有率がボ イコッ ト宣言前 よりも上回ったのだか ら、 まさ に経営の神様 としか言いようがない。
国際PHP研 究所 の代表取締役兼英文国際版 PHPの編集長に就任 したのは、私が33歳 になっ たばか りの時である。六本木の新 しい事務所 を 訪れた松下 さんは、色紙 に 「先憂後楽」 と書い た。優 れた リーダーは、心配事 については部下 が まだ気づかない うちか らそれを心 に留めてい ろいろ手 を打 ち、楽 しみは部下が楽 しむのを見 届 けたあ とにす る、 といった意味であろう。松 下 さん自身が、常 にみずか らに言い聞かせ、実 践 して きたことに違いない。
忘れた り期限に遅れた りしないで、効率的に作業 を進めることがで きる。最近ではパ ソコンやモバ イル機器 で も簡単 に利用 で きるようになっている。
5ヵラーテ レビのメーカー表示価格 と市場実売価格 との差が著 しくかけ離れているとして、消費者の厳 しい批判 を浴 びた。
最終講義一 松 下幸 之助 か ら学 びて、い ま思 う日本 の行 く末‑ 5
もうひとつ心 に残 ってい るのは、「怖 い人 を 持たなあかんで」 とい う言葉である。小規模 と は言え代表者 となれば、直接叱った り注意 した りして くれる人がいな くな り、ついこわさを忘 れがちになろう。 自分 を律 し、身を正 しくして い くためには、道 を誤ればあの人に叱 られる、
とい う怖い人 を持たなければな らない とい う助 言である。松下 さん自身、23歳で独立 して以来、
生涯 を通 じて トップであ り叱って くれる人がい なかった と言 えるだろう。それだけに、心の中 で怖い人 を持 ち続けて きたに違いない。
このことと関連 して思い出されるのは、松下 さんの新著が刷 り上がった ときのことである。
ページをゆっ くりめ くりなが ら、「キ ミ、ほん とうにええことが書いてあるな」と真顔で言 う。
知 らない人が聞けば、「そんなバ カな、松 下 さ ん、 自分の著書で しょう」 と言いた くなるに違 いない。 しか し、松 下 さんの本 は、「お前 ら、
オ レの言 うことをよく聞け」 とい うものではな い。 自らに 日々言 い聞かせ てい ることを、「皆 さんも一緒 になって考 え、実践 しようじゃない ですか」 と其撃 に呼びかけているのである。最
も好んだ 「素直」 とい う言葉 に して も、毎 日何 回も 「素直な心 になろう」 と自らに言い聞かせ ていた。「1000回 も続 けた ら、素直 の初段 にな れるやろな」 と微笑んでいた。
自らの寿命 を超 えて将来 を見すえる
こうして松下 さんか ら学んだことを思い起 こ せば止 まるところがない。敢 えてひとつだけ挙 げ よと求め られれば、「自 らの寿命 を超 えて 日 本 と世界、人類 の行 く末 を見すえ、その思いを 人々に訴 えること」 と言 えるだろう。
ある ときな ど、70代 の後半 の こ とだが、「ボ クの寿命 もあ と5年だ と思 うか ら ・‑ 」 と私 にしんみ り言われたことがあった。みんなの前 では、「21世紀 を迎 えるまで3世紀 を生 きるん だ」 としきりに話 していたが、内心では残 され た寿命が長 くないことを悟 っていた。にもかか わ らず、常 に 日本 と世界、 さらには人類 の将来
を見す え、深 く憂慮す るとともに如何 になすべ きか を考 え、それをPHP誌や書籍、講演等 で 懸命 に訴 えていたのである。
私が神奈川大学経営学部の創設 に加 わったの は、1987年8月のことである。1990年 に初めて 学生 を前 にしたが、この とき心 に浮かんだのは、
アメ リカの社会学者、アルビン ・トフラー と、
ノーベル文学賞受賞者で もある英国の劇作家、
バーナー ド ・シ ョーの言葉である。
日本各地の視察 を終 えたばか りの トフラー氏 は英 文PHPで、「教 育 の役 割 は、未来 を生 き る人 を育てることではないか。それが、 日本の 学校 は、過去 に必要だった人 をせ っせ と育てて いる」 と苦言 を呈 した。学生は 「未来か らの留 学生」 などとも言われるが、 なるほ ど若者 は大 人が歩 んで きた時代 を再 びた どるわけで はな い。 まさに、未知の、未来 を生 きてい くわけで ある。そ うだ とすれば、 まずは未来が どうい う 時代 なのか、 どうい う課題 に直面す るのかを精 一杯考 え、 どのように対処 し、生 きていけばい いのか、少 な くとも問題意識や ヒン トを与 える のが教育者の務めであろう。
バーナー ド ・シ ョーの言葉は、皮 肉屋で知 ら れる彼 の面 目躍如であ る
。
「いろいろ考 えて実 行で きる人は実社会 に出て活躍す る。口先だけ で何 もで きない奴が大学教授 を している」。密 かに私 は、大学教授 になった後 も、実社会 に しっ か り目を向け、いわば片足 を置いて、実行すべ きは実行で きる力 を持ち続けようと心 に誓 った ものである。こうした思いをさらに深 くす る契機 となった のは、2000年秋 に母校、松山 北高校か ら創立100 周年 の記念講演 の依頼 を受 けた こ とであ る。
1300人の高校生 に向かって、何 について語 るか に迷 うことはなかったが、 どう話せ ば理解 と共 感が得 られるかについては、大いに迷 った。そ のために 目を通 した書物 は、半年 間で100冊 を 超 えた。
かつて松・下電器や経済広報セ ンターに身をお き、 とりわけ80年代 に欧米諸国か らの凄 まじい までの対 日批判 に曝 された者 として、90年代以
降の 日本企業の低迷 はあま りにも惨 めである。
その原因は、いったい どこにあるのか ? 一言 で言 えば、政治、経済、社会、国際関係、技術 等々の革命的な変化 を読み取 ることがで きず、
適切 に対応す ることがで きなかった とい うこと ではないか。
敗戦後の松下 さんが、経営者 も企業経営だけ 考 えているのでは足 りない、国のこと、社会の ことを しっか り考 えなければならない と決意 し た と同様 に、 これか らの経営学部 は、企業 を取
り巻 く社会の変化 をしっか り見す え、洞察す る 力 を身につけさせねばな らない。その ような思 いか ら、 カリキュラム改定 に際 して 「経営環境 コース」の設置 を強 く主張 し、私 自身が この6 年 間、「経営環境概論」の授業 に最 も力 を注 い で きた。
大学生の就職難の不思議
現在の学生が社会 に出て第一線で活躍 を期待 されるのは、 これか ら50年 とい うことがで きよ う。それでは、 これか らの50年、彼 らはいった い どの ような時代 を生 き、 どの ような課題 に直 面す るのであろうか。い くつか想像 で きる問題 は例示す ることがで きる。
日本 であ ま りに も急激 に進 む少子化 と高齢 化、国や 自治体 の財政の行 き詰 ま り、食料や資 源確保の困難、地球温暖化 に象徴 される環境問 題の深刻化、途上国の著 しい台頭 に伴 う日本経 済の低迷、貧富の格差拡大、学力の低下や教育 の混乱、IT革命 に象徴 され る劇 的なまでの技 術革新、大規模地震災害の発生等 々が挙げ られ る。世界 に 目を向ければ、途上国の急激 な経済 発展、貧富の格差拡大、人口爆発や資源の枯渇、
水や食料の奪 い合 い、種 々の難病の発生、国境 をめ ぐる争い、気象異変や大規模災害、テロ、
核戦争の恐怖等 々が挙 げ られ よう。
こうした問題 を列挙 しなが ら不思議 に思 うの は、数年来の大学生や高校生の就職難である。
これ ら数多 くの難題 には、少 な くとも日本の捻 力 を挙 げて立ち向か う必要があ り、い くら人が
いて も足 りない というのが道理である。それが、
大学 を出て も定職が得 られない とい うのは、 ま ことに奇妙 な話 とい うほかはない。
その原因は、 まず政治指導者 にこうした未来 を見す えた課題認識が欠如 してい るこ とであ る。キヤノンの中興の視 と言われる賀来龍三郎 氏 とは生前何十回 とな く親 しく懇談の機会 を得 たが、「日本の政治家 は次の選挙 の ことしか頭 にない」 と嘆いていた。政治指導者が直ちに為 すべ きは、 まずは国の 目指すべ き方向をビジ ョ
ンとして明示す ることである。 少 な くとも今世 紀 を見通 した国家的最重要課題10項 目な りを提 示 し、 これに対 して政府 と企業、学界、 さらに はNPO等々が文字 どお り総力 を挙 げて取 り組 む意識 を盛 り上げ、効果的な仕組みを構築 しな ければな らない。
一方、大学 としても猛省すべ き点がある。 ま ずはそ うした難題 をしっか り受け とめ、それ ら に果敢 に挑戦 してい くだけの気力 と知力、それ に体力 を備 えた人材 を輩 出 してい くこ とであ る。現状は、その点が まった く無視 されている のではないか。少 なか らぬ大学で、教室に入 り きれないほどの受講希望者がいると自慢す る教 員 に出会 うが、その中には授業 に出席 しようが しまいが、成績にも関係 な く安易 に単位 を与 え ている教員がいるように思 えてな らない。 これ では、八百長相撲 を批判す る資格 などない と言 わざるを得 ない。
「子 どもをダメにするいちばん簡単 な方法 は、
何で も欲 しい ものを与 えることである」 と言っ たのは、スイス生 まれの哲学者、教育思想家、
ジャン ・ジャック ・ルソー (1712‑78)である。
勉強 を しない学生にもい とも簡単 に単位 と卒業 証書 を与 え、学生の一生 をダメにしているのは、
多 くの 日本の大学ではないか。 こうい う学生 を 送 り出 していては、企業 はもちろん国まで滅ん で しまう。
1996年2月に学生24名 を引率 して1カ月間カ ンザス大学に滞在 したが、その とき同大学の様 子 をいろいろ知ることがで きた。 まず、同州内 の高校 を卒業 した学生な ら志願者 をすべて受け 最終講義‑松下幸之助から学びて、いま思う日本の行 く末‑ 7
入 れ るが、2年 次 に進級 で きる学生 は全体 の 80%た らず、 5年で卒業で きる学生が約半数 と のことである。加 えて、各教員の授業の様子 は 州の覆面調査官が学生 を装 って教室 に入 り、評 価 をしているとい う。 さらに、学生団体が年度 ごとの卓越 した教員 を選び表彰 をしているとい うことで、受賞者の名前 を刻 んだプ レー トも日 に した。そ うしたことの是非については議論の 余地があろうが、学生 と教育の質の向上 に並 々
な らぬ努力 を払っていることが うかが える。
文部科学省令の大学設置基準第21条では、「1 単位の授業科 目を45時間の学修 を必要 とす る内 容 をもって構成す ることを標準 とし」 と明記 さ れ、神奈川大学学則第11条で も同様の基準が示 されている。セメス ター制 を採用 して以降の授 業科 目や演習は半期で2単位 であるが、それは
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時間相 当の学修 を必要 とす る内容 をもつ とい うことになる。 このことが、学生 はもちろん教 員 にもどれだけ浸透 しているのであろうか。まずは大学の教員 自身が 日本の直面する危機 に目覚め、それぞれの専 門分野か ら将来的な課 題 を考察 し、長期的な視座 と解決への ヒン トを 学生たちに しっか りと示 さなければな らない。
そ うした力 を蓄えた若者であれば、職がないな どとい うことが起 こって くるわけがあるまい。
新 聞報道 によれば、 ソニーは2011年春の新入社 員 に占める外 国籍人材 を前年の4%か ら14%に 引 き上げる。パナソニ ックに至 っては、海外現 地法人 を含め国内外合計で新卒採用の8割 を外 国籍社員 にす るとい う(日本経済新聞夕刊、2011 年1月18日)。要 は、グローバ ル化 に伴 って、
日本 の大学 で教 育 を受 けた者 を採用 していて は、企業が持たない と考 え られているのである。
タイタニ ック号の運命
日本や世界が直面す る難題 をい くつか列挙 し たが、 これ らは 日本丸や地球号の前途に立ちは
だかる巨大 な氷 山にた とえられ よう。 この まま 推移すればまさにタイタニ ック号6の運命 であ る。「タイタニ ック号の上 で甲板 の椅子 を並 び 揃 える」 とい う英語表現がある。 豪華客船 タイ タニ ック号 は、英国か らニュー ヨークに向か う 処女航海で氷 山に衝突 した。不沈船 とまで呼ば れていたことか ら、船員 もまさか沈没するとは 考 えない。衝突のシ ョックで歪んだ甲板の椅子 を並べ直 して、 自らの職責 を果た したつ もりに なっていたのだが、 まさにこれ と同 じことが、
現在 の 日本で起 きているのではないか。
重大事 にも気づかず、なぜのほほんとしてい られるのか ? これ こそ、 まさに 「ゆでカエル 現象」である。 その名 は古典的な心理学的反応 実験 に由来す るとい うが、 ミシガン大学の経済 学者 ノエル ・ティシュ教授の著書 『現状変革型 リーダー』 (ダイヤモ ン ド社)の中で紹介 され て有名 になった。彼 の初来 日の折、経団連会館 における講演の世話 をしたことか ら、私 は本人 の口か ら直 に聞 くことがで きた。
カエルを鍋の冷水 に入れ、バーナーの上に載 せ る。 ご くゆっ くりと熱 を加 えてい くと、温度 の変化が非常 に遅ければ、 カエルは鍋の中で う ず くま り、ゆで上がって死 んで しまう。 環境の 変化が緩慢 なため、飛び出さねばな らないこと を的確 に知覚で きないで死 んで しまうとい うわ けである。それに対 して、すでに煮 えている鍋 のお湯 にカエルを入れると、カエルは じっとし ていないで咽嵯に飛び出 して死 を免れる。
この実験の鍋の形状 などに疑問を投げかける 向 きもあるが、要は、 日本人が戦後の経済発展 と平和 とい う、いわば心地 よいぬるま湯 を楽 し んでいるうちに、先 に述べたような難題が立ち はだか り危険が迫ったことにも気づかず、 この まま滅亡 に向かって しまう恐れを警告 した もの と受けとめることがで きる。
こうした私 の指摘 に対 し、「松 岡サ ンはあ ま りにも悲観的ですね、心配 しす ぎで しょう」 と
6イギ リスの豪華旅客船 (Titanic)、4万6328トン。1912年4月14日夜 ニュー ファン ドラン ド島南方沖の北大西洋上 を処女航海中、濃霧のため氷 山に衝突、翌 日未明に沈没 した。乗客 ・乗員2200人余中1500人余が死亡。 レオナル ド ・ デ ィカプリオ、ケイ ト・ウインス レッ ト主演の映画 Fタイタニ ック』 は記録的な興行成績 を収めた0
言いたい人 もいるに違いない。私 自身、そ うし た心配が取 り越 し苦労であ り、ヰ己憂 に終われば どれほ ど幸せか と思 う。 しか し、私が こうした ことを訴 え始めて以来すでに20余年、事態が改 善す る気配は微塵 も感 じられない。それ どころ か、あ らゆる面で私の憂慮 を裏付 けるような事 実が次々と現れている。
松下 さんは、その名 も 『崩れゆ く日本 をどう 救 うか』 とい う著書 を1974年 に出版 したが、ロ ン ドンで訪 ねた歴 史学者 アー ノル ド ・トイ ン ビー教授 は、「世界 史 を振 り返 って、多 くの文 明 は外 敵 に滅 ぼ され る よ りも、内か ら滅 びて いった」 と述べている。 日本 とい う国の存立 を 図るためには、軍事力 よ りも何 よ りもまず内を 治め なけれ ばな らない。世界 一 の半導体 メー カー として君臨す るインテルのアン ドリュー ・ S・グルー プ会 長 の著書 の原題 も、 『パ ラノイ ア (病的なまでの心配症)だけが生 き残 る
』
で ある。現在の 日本で最 も憂慮すべ きは、政治家 も官 僚 も、学者 も、メディアも、一般国民 も、あま りにも危機感が乏 しいことである。危機感 さえ あれば、火事場の馬鹿力 などと言われる大 きな 力や新 たな知恵が生 まれて もこようが、危機感 もな くのほほん としているところか らは何 も生 まれてはこない。
少子化の真の原因
日本 の将来、50年、100年、 さ らには数百年 先 を考 えた とき、 日本社会の存立 にかかわる最 重要問題 は少子化 の進展 であろう。少子化 は先 進国に共通 して見 られる現象ではあるが、 日本 のそれはあま りにも急激である。 このまま推移 すれば、45年後 には国民の40%以上が65歳以上 の高齢者 となって しまう。現役世代3人で 1人 の高齢者 を支 える現状の「騎馬戦」ス タイルが、
1対1で支 える 「肩車」 になると言 われる所以 である。総人口の減少 に伴 う、国力の低下 とい う事態 も避 け られない。
松下 さんが生 きていた ら、いったい どのよう
に言 うであろう。松下 さんにまつわるエ ピソー ドだが、戦後間 もないころ、大阪地方裁判所へ 講演 に出かけた。 1時間ばか りの講演 を終 えた 後で、ひとりの若い判事か ら質問を受ける。「い ま、石炭が足 りないと言われるが、 どうした ら 石炭が出ると思 うか ?」。 これに対 して松下 さ んは、「まず何 よ りも石炭 に訊 いてみ るのがい いで しょう」 と答 える。不真面 目な答 えと思っ た若い判事が怒 り出 した とい うが、松下 さんは 次の ように続 ける。
仮 に石炭が ものを言 う人間 と仮定 して、 なぜ 出ないか と訊いてみれば、石炭 は 「いまのよう な状況ではとて も出て行 く気 にはな りませ ん」
と答 えるのではないか。政府 は石炭が必要だか ら増産 しようと言いなが ら、その値段 は安 く抑 えている。いわば石炭 を虐待 しているような姿 に問題があるのではないか、 と述べている (松 下幸之助 [1990])
0
こうした考 え方 を、現在の 日本の少子化 問題 に当てはめてみればどうであろう。松下 さんな ら、「まず、誰 よりも精子や卵子、あるいはDNA に訊いてみ よう」 と言 うのではないか。その答 えは、十分 に想像がつ く。毎 日の新聞やテ レビ のニュース を見 てみるがいい。幼児虐待や子育 て放棄、家庭崩壊、待機児童、い じめ、ひきこ も り、DV、学級崩壊、格差社 会、就職難、 リ ス トラ、ホーム レス、オ レオ レ詐欺、脅迫犯罪、
無縁社会 ・・・。 これでは、生 まれて きたいな どと思って もらえるわけがない。 まず は、 日本 人のDNAが、「生 まれて きたい」 と思 える よ うな社会 にすることが先であ り、少 な くとも政 治指導者や一般国民が、そ うした社会 を作 ろう と決意 し、必死 に努力する姿勢 を示 さなければ な らない。
昨年放映 されたNHK の大河 ドラマ 『龍馬伝』
の最終回は、実 に示唆に富む。暗殺 される直前 の龍馬が妻 のお りょうさんに宛 てた手紙 であ る。そ こには、「わ しはの、子 どもらが この国 に生 まれて きて、 まっことよかった と思 うよう な、そ うい う日本 をつ くりたいん じゃ」 と綴 ら れていた。現在の 日本の リーダーに最 も求め ら 最終話義一松下幸之助から学びて、いま思う日本の行 く末‑ 9
れるのはそ うした熱い思いであ り、国を挙 げた 総合的、戦略的な取 り組みである。
それに して も、 日本の政治家 は、 どうして 目 先の些事 にばか りとらわれ、国家の大事 に対 し て戦略的な取 り組みがで きないのであろう。「日 本の政治家 は次の選挙のことしか考 えない」 と 嘆いていたキヤノンの賀来氏 は、経営者 は少 な くとも10年、20年先のことを、 しか もグローバ ルな視点で考 えなければ勤 まらない と語 ってい た。松下 さんに至 っては250年先 の ことまで考 えていたのである。1932年のことだか ら、 まだ 松下電器 も従業員1100人あま りの小規模 な会社 に過 ぎなかったが、それで も産業人の使命 は「貧 乏の克服」 にあ る と し、250年後 に桧 下電器 の 目指すべ きは 「楽土の建設」 にあると説いてい た。その 目標 に向か って、250年 を10節 に分割 し、1節の25年間をさらに3期 に分 けて活動 を 進めることまで示 していた。 こうした発想 と取 り組みが求め られるのは、企業 よ り何 よ り国家 のはず であ る。250年 は ともか くとして、せ め て国家100年の計 を国民 に明 らか にすべ きであ る。そ うした動 きのまった く見 られない 日本 の 政治家 に対 しては、大 きな失望 を禁 じ得 ない。
しか し、 こうした政治家がなぜ 国会 にいるの か と言 えば、紛れ もな く国民が選んだか らに他 な らない。私が在籍 していた当時、 日本語版の PHP誌 には毎号、次のふたつの言葉が掲 げ ら れていた。「国民が政治家 を噸笑 してい るあい だは、噸笑 にあたいす る政治 しかお こなわれな い
。 」
「民主主義国家 においては、国民はその程 度 に応 じた政府 しか持 ち得 ない。」けだ し至言である。そ うだ とすれば、国民の 多 くが まず 目を覚 まし、危機感 を持 って 自ら真 剣 に考 え、難題 に取 り組む意欲 と知恵 を備 えた 議員 を育て、選んでい くほかはない。
松下 さんの 「無税国家論
」
「経営 の神様」 と呼 ばれ る松 下 さんだが、単 に金 もうけの額だけで言 えば、他 にも神様 と呼 ばれて よい経営者 は何人 もいるはずである。松
下 さんが、ただひとり経営の神様 と呼ばれつづ ける所以は、私利私欲 にとらわれず、 自らを律 し、常 に国や社会全体のことを考 え、物事の本 質 を見極 め、先の先 を見通す力、少 な くとも見 通そ うとい う姿勢 を持 ちつづけた という点にあ る。そのことを痛感 させ られたのは、桧下 さん が 「無税 国家論」 を講演 というかたちで初めて 発表 した ときのことである。
忘れ もしない、1979年11月7日のことである。
当時、私 は国際PHP研究所 の代表 を辞 して、
松下電器の東京支社 に在籍 していた。読売国際 経済懇話会での講演 に出かける松下 さんは、私 に同行 を求めた。講演に先だって参会者全員に よる食事会が開かれ、外 国人 ビジネスマ ンと隣 り合 わせで着席することになったため、通訳 と して陪席す るよう指示 されたのである。当時の 松下 さんは喉の具合 もあって、松下 さんの言葉 を聞 き取 るのは容易 でなかった。そのために、
長年松下 さんと接 して きた私に、その役 を求め たのである。
昼食 を終 えた段階で私 は2階の通訳 ブースに 入 り、同時通訳者が松下 さんの重要 な言葉 を聞 き取れない場合 に備 えていた。 この ときの講演 内容が、大 きな話題 を呼んだ 「無税 国家論」で ある。
当時の政府 も、毎年税収 を使い切 り、足 りな い分 を赤字国債で補 うとい う財政運営 をしてい た。 こうしたことをつづけていては、やがて 日 本 は行 きづ まると憂慮 した松下 さんは、その時 点か ら20年、つ まり1980年か ら20年間にわたっ て研究 し、国民の理解 を得た上で、21世紀の100 年 をかけて 日本の 「無税 国家」 を実現 しようと 訴えたのである。つ ま り、21世紀 に入 って毎年 の税収の10%を余 らしめ、 これを年 々積み立て ていけば、22世紀 には国民や企業が税 を納めな くて も、積立金の運用益 だけで国家財政 を賄 え るようになるだろうとい う遠大 な構想である。
84歳の松・下 さんが、120年先 に向かって、それ ま で誰 も考 えつかなかった提案 をしたのである。
夢の ような話 と言 えばその とお りだろうが、
松下 さんがかねてか ら提唱 していた会社経営 に
お け る 「ダム式経営
」 7
を国家 に も取 り入 れ た 考 え方 で あ る。決 して荒唐 無稽 の提 案 で は な かった。 しか し、当時の政治家や官僚 か ら真剣 に受 け とめ られ ることはな く、その結果 は、無 残 としか言い ようのない国や地方 自治体 の財政 状況 に陥って しまった。 リーマ ン ・シ ョックの 影響 を受 けた とはいえ、政府 の一般会計 は、民 主党 政権 にな って2年 連続 で借 金 が税 収 を上 回っている。 国の長期債務残高 はやがて1000兆 円に も達 しようとしている。地方財政の惨状 もよ く知 られている。2007年 3月 には、北 海道 の夕張市 が632億 円の実質債 務 を背負 って財政再建 団体 に指定 された。人 口 わず か1万3000人 の町で、18年 間 に353億 円 を 返済 してい くのである。市職員 は317人か ら165 人体制 とな り、国内最低 の生活 を夕張市民 に強 いている。数字の上では夕張市以上 に深刻 な状 態 に陥っている政府が指導 に当たるとい うのだ か ら、 これほ ど惨 めで皮 肉な話 はない。
一見華やかに見 える神奈川県財政 も、実態 は 深刻 であ る。 当時の 岡崎洋知事 が、「本県 の財 政 は、 まさに "火 の車" とい うのが実情 です」
と、緊急 アピールを したのは1998年9月の こと である。現在 の松・沢成文知事 も、2010年度か ら 始 まる5年 間の財源不足 は 1兆 円に達す ると発 表 し、10年度の政策的事業の経費 を15%カ ッ ト す る方針 を明 らか に した。
政府 の膨大 な負債 について、一方で世界最大 の対外純資産があるのだか ら心配 はない とか、
外 国か ら借 りているのは全体 のわずか5%に過 ぎない といった主張 も聞かれ る。そ うした主張 をす る人 は、現状の ままどこまで も負債が増 え て大丈夫 と考 えているのであろ うか。そ うでは あるまい。 どこかに限度があることは認めるは ずである。
それでは、 日本 の負債激増 の流れは、 いつ ど うい う形で止 ま り、反転す るとい うのであろう。
景気が よ くなれば税収 も増 えて解決す るとい う
考 え方 は通用 しない。景気 が よ くなれば当然の ごと く金利が上が り、それに伴 って現在 は毎年 10兆 円余 りの国債 の利払いは、たちまち20兆 円 に もそれ以上 に も膨 れあが る。極度のインフレ が進行すれば負債 の実質的な負担 は軽減 される が、多 くの国民 に計 り知れないダメージを与 え る。増税 をすれば済む とい う財政学者 もいるが、
果た してそ うだろ うか。かつてのイギ リスなど を見 て も、増税 に踏み切 れば、金持 ちは容易 に 税負担 の少 ない外 国に移 り住 む。逃 げ出す こと もで きない貧 しい国民だけが国内に留 まるとい うことである。企業 に至 っては、書類 だけでい とも簡単 に外 国に本社 を移す ことがで きる。 日 本人が経営す る会社 だか ら大丈夫 などとい う考
えは甘い。今や まさにグローバ ル化 の時代 であ り、企業 は世界 的な競争 に曝 されている。税金 の高い 日本 に とどまっていては生 き残 れない と なれば、企業存続のために外 国へ本社 を移すの は 目に見 えている。 ま してや、有力企業 となれ ば、外 国人株主が相 当の割合 を占めている。彼 らは、税負担 の大 きな 日本 に とどまる経営陣に 損害賠償 を求めるな りして、 日本 に本社 を置 く
ことを許 さない。
於下 さんの 「無税 国家論」の先見性 に改 めて 脱帽 し、1980年代 か ら 「無税 国家論」 を真剣 に 受 け とめておけば と悔や まれてな らない。
国会 と地方議会の抜本的改革が急務
まず は国会や 自治体 の リー ダーが危機的状況 を しっか り認識 し、少 な くとも50年先 を見す え て、 自ら率先 して国民の意識 を変 える方向に、
直 ちに一歩 を踏み出す ことである。
具体 的には、国会議員数の削減 と報酬、歳費 のカ ッ トを実行 し、国民の危機意識 を喚起す る ことである。立法府 と言 いなが ら、法律 ひ とつ 作 れ ない よ うな人 々が知 名 度 だ けで議員 とな り、 まるで幼稚 園児の ように誰かの指示 どお り
7企業経営 にも、 ダムで水 を貯 えるように余裕のある経営が必要だとい うこと。中小企業 にはそ うした余裕がない と い う声 に、松下 さんは 「まず、 ダム式経営 をやろうと強 く思 うことだ」 と答 えている。
最終講義一松下幸之助から学びて、いま思う日本の行 く末‑ ll
に行動 し、賛否の投票 をす る。 国費の無駄 など と言って済 まされる問題ではない。私が法学部 の授業で学んだ教訓で最 も深 く心 に刻 まれてい るのは、「自分 の ことに関 して は、 自分がいち ばん悪い裁判官である」 とい うローマの法諺で ある。 国会議員 な らず とも、 自らのことに関 し て正 しい判 断が で きないの は人 間の性 で あろ う。それな らば、議員以外 の第三者で構成す る 独立の委員会 に、議員の数や報酬、歳費 につい て国民か ら納得 の得 られる提案 を求めるべ きで ある。
地方 自治体 の首長や議員のあ り方 について も 抜本的な改革が必要である。 カンザス大学 に学 生 を引率 したことはすでに触れたが、 カンザス 大学のあるロー レンス市 と平壌市 は姉妹都市の 関係 を結 んでいる。 興味深いのは両市の市議会 のあ り方である。
平壌市の人口は25万人、 ロー レンス市 は8万 人 と、規模 はかな り異 なる。 しか し、平塚市の 市議会議員の定数が30人に対 し、 ロー レンス市 はわずか5人である。 議員報酬 に至 っては、平 塚市で年 間約800万 円が支払 われてい るのに対 し、 ロー レンス市の議員報酬 は年間約72万 円、
議員のひとりが市長 となるがその報酬 も約80万 円に過 ぎない。そ もそ も議会 は、毎週平 日の夕 刻か ら開催 されるのだか ら、議員報酬で生計 を 立てるな どとい う考 え方がない。ただ し、市政 の実務責任者 はシティ ・マネジャー と呼ばれ、
実務 に長 けた適任者 を議会が選んで任命 してい る。
日本の戦後民主主義 はアメ リカを見習 った も の と考 えがちだが、全米の市議会や町議会の議 員数の平均 は6人で、基本的に無報酬のボラン ティアである。 これほ どの少数ですべてを決め るのか と懸念 を抱 くか も知れないが、テーマに 応 じて関心のある市民や有識者が出席 し、議長 の許可 を得 て発言 もで きる。NPOや市民グルー プが市政 に関わる契機 ともな り、 また一人ひと りの議員が どうい う発言 をしたか、 どうい う投 票 をしたかが、市民の 目に鮮明になる。 たいそ うな議事堂など必要 なわけがな く、会議室や学
校 の講堂などを使 って開かれる。商売が うま く いかないか ら町長や議員 になって生計 を立てよ うな どといった不心得者の登場 はあ り得 ない。
人口350万人 を抱 えるロサ ンゼルス市 の市議会 議員数が15人 と聞けば、 日本のあ り方 を再考す るきっかけに して もよいのではないか。 (ジ ョ セフ ・ツインマ‑マ ン著、神戸市地方 自治研究 会訳 『アメ リカの地方 自治』勤葦書房)
市民協働の時代
国会 をス リム化 し、地方議会 をこうした形 に 変 えることは、単なる経費の削減 に留 まらない。
人々の行政への過度の依存心 を捨てさせ、 まず は自立 し、必要 なときは住民同士で互いに助 け 合お うとす る共助の精神 を高め、ボランティア 活動 を盛 んにす る効果が期待で きる。 戦後復興 や高度成長期 には、多 くの国民、とくに男性 は、
いわゆる会社人間とな り、地域社会 はおろか家 庭 さえ顧 み ないで職場 中心 の生活 を送 って き た。文字 どお り、「一所懸命」だったのである。
民主主義の時代 を迎 えた とい うものの、せいぜ い選挙で投票 をす るだけで、あ とはすべて議員 任せ、他人任せの生 き方 をして きた。その投票 率 さえ、選挙 によっては50%を大 きく下回るこ
とがあ り、「お任せ民主主義」 と邦拾 される。 先 に述べ た政府 や 自治体 の深刻 な財 政難か ら、公共サービス とは言 って もすべて行政が担 うことはで きな くなっている。 経済の成熟化や 社会の複雑化 に伴 って、必要 とされるサービス も多様化 し、法律や予算 に基づいて決 まった対 応 しかで きない行政 にで きることは、 ます ます 限定 されて きた。行政が担 えば、公務員一人あ た り年平均約900万 円の人件費 を要 し、同 じサー ビスで もとんで もない高 コス トになって しま
う 。
一方で、一般市民の中に、議員や行政職員 を も上回る意欲やノーハ ウを持 った人々が数多 く 現れ、 まちづ くりや教育、福祉、防災、環境問 題 な どに関 して進んで公共的なサー ビスを担 う グループが登場 して きた。1998年 にはそ うした
組織 に法人格 を認める、いわゆるNPO法 (特 定非営利活動促進法) も制定 された。
NPO法 を実効 あ らしめ るために、各 自治体 では市民協働推進条例 などと呼ばれる条例づ く
りが相次いだ。私 も、平塚市、横須賀市、小 田 原市、綾瀬市でそ うした条例づ くりに関わった が、要 は公共サー ビス をNPO法人 な ど市民 グ ループと行政、場合 によっては企業 も加 わって、
「協働」で担 ってい く意識 を高 め、仕組み を整 えていこうとい うことである。
「協働」 を実現す るため には、 まず市民 のあ いだにボランティア活動が盛んになることが必 要であ り、 また同 じような思いを抱いた市民が 力 を合 わせて取 り組むことが欠かせ ない。志は あって も、活動のための資金が足 りない とい う 弱点があ り、各 自治体では市民 グループの活動
に補助金 を提供す る制度 も生 まれて きた。それ も従来のように、行政が一方的に補助対象 を選 ぶのではな く、公募、公開プレゼ ンテーシ ョン を経て、市民中心の第三者委員会が選考す ると いった新 しい形が生 まれている。
ボラ ンテ ィア活動支援 の重要性 と、NPO等 と行政 との協働 の重要性 をいち早 く察知 した神 奈川県では、1996年4月に当時の岡崎洋知事が 全国に先駆 けて 「かながわ県民活動サポー トセ ンター」を設立す るとともに、2001年度 には「か ながわボランタリー活動推進基金21」(以下 「基 金21」 と表記) と呼ばれる他 に例 を見 ない大規 模 な基金 を設けた。
財政危機 が叫 ばれていた時代 に、100億 円の 基金 を擁す る 「基金21」が どの ように して創設 されたのか。毎年の予算か ら補助金の捻 出が望 めない と考 えた岡崎知事 は、県住宅公社への住 宅建設資金の貸付金 など、毎年一定の利息 を生 みだ している県の貸付債権 を、 まとめて基金 に 充当 したのである。年々戻 って くる元金部分 を 基金 に積み増 し、運用益 を事業 に活用す る仕組 みを作 り上げた。現在、毎年 1億 円余の運用益 が活用 されている。
基金21は創設 されて10年 になるが、①協働事 業負担金、(夢ボランタリー活動補助金、(釘ボラ
ンタリー活動奨励賞の3本柱か らなっている。
中軸 は 「協働事業負担金」で、地域課題解決の ために、県 との協働で効果的に事業 を推 し進め ようとい う団体 に対 し、年間上限1000万 円、最 長5年間の負担金の拠出が認め られる。
対象事業 については、県 内のNPO法人等か ら広 く公募 され、独立 した審査会が、書類審査 や公 開プレゼ ンテーシ ョンなどを経て、協働事 業の候補 を選定 している。堀 田力、山崎美貴子 両氏の後 を受けて、私が3代 目の審査会長 を務 めて4年 目になるが、議会や行政か らは出てこ ない ような重要 な事業が提案 され、NPO等 と 県が力 を合 わせて成果 を上げてい く姿 には、大 いに勇気づけ られる。
企 業 は人 な り、 国 は ?
松下 さんは、実にお もしろいことを言ってい た。「松下電器 は何 を作 ってい るか ?」 とお得 意先か ら問われた ら、従業員 に、「松 下電器 は 人 をつ くってい ます。電器製品 もつ くっていま すが、その前 にまず人 をつ くっています」 と答 えなさい と話 していたのである。
松下 さんの言 う 「人づ くり」は、単 にモノを 上手 に作 った り売 った りす る人 の こ とで はな い。人間 として、社会人 として立派であること を目指 したのである。その点、神奈川大学の創 設者 である米 田吉盛氏が、「教育 は人 を造 るに あ り」 と訴 え、「人 はすべ て、実業家 た り、学 者た り、官吏たる前に、先ず人間でなければな らない」 として、人格の養成 に重 きをおいてい たことと相通ずるのは興味深い (神奈川大学米 田吉盛伝編集委員会編 『教育は人 を造 るにあ り
‑米田吉盛の生涯』参照)0
松下 さんの言 う 「人づ くり」が単 に口先 だけ でなかったことは、い くつ ものエ ピソー ドか ら 確 か め る こ とが で きる。細 川護 貞氏 (1912‑
2005)と言 えば、細川護興元首相 の実父である が、1943年 に近衛文麿首相 の意 を受け、天皇 に 戦中の国情の実際 を知 らせ るべ く高松宮 に各種 情報 を報告する任務 に就いた。当時のことを詳 最終講義一松下幸之助から学びて、いま思う日本の行 く末‑ 13
細 に記 した 『細川 日記』 には、1944年6月初旬 に大 阪で松 下 さんに会 った こ とが記 されてい る。
6月1日の 日記 には、「松下 電器工場視察。
電波器の製作 を見学、昼食。松下氏 は五十年配 の有為 の人、寺 田氏等 と共 に関西実業界の新進 の人。 (午後 に他 の企業 も視察す るが)松下 電 器 に較べ、人物 も田舎臭 く、経営状態 も劣 りた るが如 く感ず。」 と記 されてい る。 さらに6月 4日の 日記 には、「松・下工場 は作業 中の職員 の 一人 として、我々見学者 を振 り返 る者 な き程 に 秩序立 ち居 りた るは感心 した り。 (中略)他 は 仕事 を止 め、窓に蛸集 8して、我 々一行 を眺む る有様 な りき。 (中略)や は り社 長 の性格 は工 場経営 の上 に多 く反 映す るを見 るを得 た り。」
(細 川護貞 [1979]217‑219頁) と記 され てい る。
戦後復興の時代 に入 り、先進諸国やアジア諸 国の要人が次々 と日本 を訪れ、その多 くが松下 電器の工場 を視察 した。1959年10月には、 日本 で開かれたガ ッ ト (関税 と貿易 に関す る一般協 定)総会の出席者が、松下電器の茨木テ レビ工 場 と、高槻市の松下電子工業 を訪れる。この後、
大阪府等の主催で一行の歓迎会が開かれるが、
その席上の代表者の挨拶 は、松下 さんの 「人づ くり」 を裏付 けてあま りある。
「自分 は、ガ ッ ト総会 に出て、 日本 の 目ま ぐ る しい発展 を見て非常 に驚いたのであるが、そ れをどうい う言葉で表そ うか と考 えていた。 し か し、 きょう松下電器の工場 を見学 して、初め て言 うべ き言葉がわかった。す なわち、 日本の 工場 について一言でい うな らば、非常 に美 しく、
そ して完全 であ る‑完全 で美 しい とい う言葉 を、ここでため らうことな く日本 に呈す る。きょ う、松下電器の工場 を見 て、 この言葉 を思いつ いたのである」 (松下電器産業株式会社 [1968] 269頁)。
「企業 は人な り」は松下 さんの口癖だったが、
人如何 によって企業の盛衰が決 まるとい う考 え
に異論 をはさむ者 はいないだろう。 果た して、
国はどうか ? 国 も、企業 に劣 らず、いや企業 より以上 に、人によって盛衰が左右 されるはず である。
90年代以降の 日本経済の沈滞 も、最近のあま りに無様 な政治 も、単 に経営者や政治家の責任 で済 まされないのではないか。 これ までの 日本 の教育その ものに大 きな欠陥があった と考 えざ るを得 ない。 日本の現状 をタイタニ ック号 にた とえたが、 日本経済の競争力 回復 を図 り、先 に 挙 げた資源の枯渇や環境問題、 さらには国際間 の紛争 など、 さまざまな難題 を解決 してい くの は、つ まるところ 「人」しかない。要 は 「教育」
であ り、 日本で今 もっとも見直 されな くてほな らないのが教育のあ り方である。
これか らの時代、 どうい う教育が求め られる のか。先の トフラー氏 の表現 を借 りれば、「未 来 を生 きる人」のための教育でなければな らな い。言い換 えれば、先 に列挙 した将来直面す る であろう課題 に立ち向かい、その解決 に貢献で きる知力 と気概 を身につけさせ ることである。
そのためにどうい う力が必要か。私の考 えを と問われれば、①思いや りの心、②想像力 と創 造力、③社会力、(彰コミュニケーシ ョンカ、の
4点 を挙 げたい。
「思いや りの心」 とは、身近 な周 囲の人 は も ちろん、国籍や年齢、肌 の色、文化、宗教、信 条、 さまざま立場 を異 にす る人、 さらには自然 や次の時代 をも思いやる心である。思いや りの 心ですべての対立や問題が解消す るなどとは言 えないが、それが出発点 となることだけは間違 いない。
戦後の 日本 は 「平和 国家」 を標模 し、外 国人 を誰 ひとりとして殺 してなどいない、 とい うの が一種の 日本人の誇 りになっている。 しか し、
果た してほん とうにそ う言 えるのであろうか。
赤十字国際委員会総務部長 ジャン
・ S
・ピクテ の著書 『赤十字 の原則』 (日本赤十字社) を読 んでいて、思わず天 を仰 いだ。8 い しゅう。は りねずみの毛の ように、多 く寄 り集 まるさまをいう。