国語教育における句読法の諸問題
愛
宕
八郎康隆
はじめに
今日︑国語教育での︑作文にせよ︑読解指導にせよ︑句読法 句
点︑読点の与えかたーの指導は︑かならずしも︑じゅうぶんと
は言えない︒
これは︑句点や読点を︑くぎり符号としてわりと機械的に︑単
純︑平板に扱ってきたことに問題がありはすまいか︒
言うなれば︑句読法認識の低さに起因していると言うことであ
ろう︒ 本稿では︑国語教育における句読法の諸問題を指摘し︑それら
の諸問題の内省から︑句読法の指導法を探索したいと思う︒
1︑句読法認識の問題点
句点﹁︒﹂や読点﹁︑﹂は︑くぎり符号と呼ばれる︒そこでは句
読点の機能は︑表現における︑くぎりの機能とすることができる︒
言うまでもなく句点は︑文末でのくぎりづけの︑読点は︑文中で
のくぎりの役割りを︑それぞれ担うものである︒
そのようなくぎりの要求は︑ひとえに︑表現の意味の世界に発
するものであり︑厳密に言えば︑現実の句点や読点は︑そのくぎ
りの質において︑一回性のものと言うことができよう︒
国語教育における句読法の諸問題︵愛宕︶ 見かけの符号としては︑句点は句点として読点は読点として︑それぞれ同一性のものであるが︑現実には︑これらはまさに一回性のものであり︑個性的なものである︒こうなって︑そのような句点︑読点は︑重要な意味発揮の存在となる︒ 筆者は︑右のような句読点︵←句読法︶認識に立って︑句点︑読点は︑単なる符号というよりは︑むしろ言語そのもの︑しかも次元の高い言語自体であると考えるものである︒ 従来は︑とかく︑句読点︵←句読法︶は︑作文の場合にせよ︑読解の場合にせよ︑軽く扱われがちではなかったろうか︒ 筆者は︑小学生の頃︑綴方の時間に先生から︑よくマルやテンを忘れないように︒と諭された︒今日も︑なお︑このような教室風景に接することは多い︒ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 句点や読点は︑本来︑忘れるとか忘れないとかの対象とすべきものではない︒それが︑言語自体であるという認識に立つならば︑表現者の内的要求として︑不可欠のものとなるはずである︒ これは︑ひとり作文にかかわる問題ではない︒読解や朗読にも︑かかわるところは大きい︒ これもまた筆者の回想であるが︑小学生の頃朗読時にマルやテンのところは適当に休んで︒と聞かされた︒今日も︑この情況は︑それほどに変ってはいないように見受けられる︒
一
長崎大学教育学部教育科学研究報告 第二六号
読み手︵朗読者︶としての児童は︑句点や読点をむしろ︑わず
らわしい邪魔もの︑抵抗者と意識している場合は多い︒本来︑句
点︑読点は︑読み手にとっては︑こよなき協力者でなくてはなら
ない︒望ましい朗読とは︑眼前の句読点が︑読み手に対して︑いっ
さいの抵抗性を消失し︑深い協力者となり︑そこに展開する句読
法が︑表現のリズム︵筆者の表現意識の緊張の起伏︑格調︶と
なって顕現するはずのものである︒ もっとも︑このようなことが言えるためには︑教材としての文
章がすぐれた文章であり︑すぐれた作品であることの保証が必要
であることは言うまでもない︒
2︑教科書の句読法の問題点
1のような句読点認識︑句読法認識に立って︑現行教科書の句
読法の問題点を考えてみたい︒それに先立って︑﹁小学校学習指導
要領﹂に見られる句点︑読点の条項を取り上げてみよう︒
A︑﹁小学校学習指導要領﹂に見える句読点条項
ここでは︑まず︑現行の学習指導要領と新指導要領のものとを︑
比較できるように併記してみる︒︵︵㊧は︑現行の学習指導要領︑㊨
は︑新学習指導要領を示す︒︶
︹第1学年︺
⑳C書くこと
⑭力 読点ωの打ち方に注意し︑また句点@を打つこと︒
㊨2内容 ︵言語事項︶
①ク 読点の打ち方に注意し︑また︑句点を打つこと︒
︹第2学年︺
㊥C書くこと
二
⑭オ 読点ωの打ち方に注意し︑また句点@を正しく打つ
こと︒
㊥2内容 ︵言語事項︶
nキ 読点の打ち方に注意し︑また︑句点を正しく打ちな
がら︑文章を書くこと︒
︹第3学年︺
㊥C書くこと
⑭オ 文の必要な箇所に読点のを打つようにすること︒
㊨2内容 ︵言語事項︶
ωキ 読点の役割を理解し︑文の必要な箇所に読点を打ち
ながら文章を書くこと︒
︹第4学年︺
㊨C書くこと
⑭工 句読点︵・と・︶の打ち方を適切にし︑また︑文
章における段落相互の関係にも注意すること︒
︵㊨2内容 ︵言語事項︶
ω力 句読点を適切に打ち︑また︑段落の初め︑会話の部
分などの必要な箇所は行を改めて書くこと︒
︹第5学年︺
㊥関係条項なし︒
㊨2内容 ︵言語事項︶
ωキ 句読点の打ち方︑改行の仕方などを適切にして文章
を書くこと︒
ちなみに︑現行の﹁中学校学習指導要領﹂では︑句読点に関す
る条項は見られない︒︵㊨には若干の記載が見られる︒︶
右の︑学習指導要領の中の句読点に関する諸条項を吟味してみ
て明らかなことは︑句読点の指導︑ないし句読法の指導は︑早く
も第1学年に始まり︑現行指導要領では︑第4学年で︑新指導要
領では︑第5学年で︑いちおう終る形をとっていることであり︑
第6学年には︑関係条項はすでになく︑それが︑﹁中学校学習指導
要領﹂に受け継がれているように解される︒ ・
⑳︑働両者に若干の差異はあるにしても︑句読点︑ないし句読
法の指導が︑第6学年以前で終る形をとっているのは︑句読法の
文章表現に占める重さを考えるにつけ︑いかがなものかと思われ
る︒ 現行指導要領にくらべて︑新指導要領では︑その扱いを第5学
年にまで延長していることや︑ことに︑第2学年で︑﹁句点を正し
ヤ ヤ ヤく打ちながら︑文章を書くこと︒﹂︵⑳では︑﹁句点@を正しく打つ
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤこと︒﹂︶とし︑第3学年でも︑﹁読点の役割を理解し︑文の必要な ヤ ヤ ヤ箇所に読点を打ちながら文章を書くこと︒﹂︵㊨では︑﹁文の必要な
箇所に読点ωを打つようにすること︒﹂︶としているのなどは︑た
しかに注目されるところである︒
句点や読点について﹁打ちながら﹂とした点は︑文章表現の動
的な展開過程の中で︑表現に忠実にー従来は︑これが︑ややも
すれば︑機械的︑形式的に打たれがちであった という配慮が
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤあってのことと察せられるし︑﹁読点の役割を理解し﹂は︑読点が
文表現にはたす重要な役割を︑改めて見つめさせ︑考えさせよう
とする意図に発するものと解することができる︒
しかし︑⑳・㊨通じて︑依然として問題なのは︑いったい︑﹁文
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤの必要な箇所に読点を打ち⁝⁝﹂という時の︑﹁必要な箇所﹂と
は︑どんな箇所なのか︑そしてその基準はどこに求められるのか︒
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤまた︑﹁句読点の打ち方を適切にし﹂︵︵㊧︶︑とか﹁句読点を適切に 打ち﹂︵働︶という時の︑﹁適切に﹂の基準は何なのかが表現されていないことである︒ ヤ ヤ もっともこれは︑﹁学習指導要領﹂という︑文字通り﹁要領﹂を示すにとどまる性格によるものと言うごとができようが︑いまひとつ釈然としないように思われる︒ そこで︑右の︑﹁必要な箇所﹂とか﹁適切に﹂の具体的な基準を︑﹁学習指導要領﹂に準拠して作られている︑﹁国語﹂の教科書に求めることになる︒ B︑﹁国語﹂の教科書の句読法 現実に﹁国語﹂の教科書の句読法を見る前に︑教科書作りのうえで︑書記法上︑くぎり符号ー句読点の打ち方を︑どのような基準によって統一をはかっているのかのサンプルを︑﹁新訂笥い国語4 教師用指導書﹂︵東京書籍株式会社 昭和50年 33︶ D▲D▲によって見てみよう︒
句点︵まる︶ 文の終わりにうつ︒﹁ ﹂︵︶の中などでも同様である︒題
目や標語などにはうたない︒また︑﹁ ﹂を用いないで文を引
用する場合にはうたない︒箇条書の場合︑文の形をしていな
い項目には︑原則としてうたない︒
とう点︵てん︶
原則として次のような場合にうつ︒ ω文の主題となる語のあと
・叙述の主題となる語のあと
︵ただし︑主語述語関係の場合で語句が短い時は省く︒︶
・助詞のつかない主語のあと
国語教育における句読法の諸問題︵愛宕︶
三
長崎大学教育学部教育科学研究報告 第二六号
四
このような︑
に限らず︑
語﹂の教科書は︑
見ることができる︒
ちなみに︑このような基準は︑すでに早く︑﹁くぎり符号の使ひ
方﹂︿案﹀︵昭和21年3月︑文部省国語調査室︶に示されており︑
その後︑肉付けされた形で︑例えば︑﹁学校文法概説﹂︵永野賢著︑ 助詞﹁や﹂が使われている時は︑原則としてうたない︒ ・限定や条件を表す前おきのあと ・時︑場合︑場所︑方法などを表す語句のあと ・接続詞のあと ・文の初めに用いる陳述の副詞のあと 感動詞︑呼びかけ︑応答などのことばのあと 語句をへだてて修飾する場合︑修飾する語句のあと 倒置の場合︑述語のあと 会話文などの﹁ ﹂の前 会話文などの﹁ ﹂を﹁と﹂で受けて︑それが述語に直 接続かない場合は︑﹁と﹂のあとにうつ︒ なお︑以上の原則に該当する箇所でも︑とう点を入れると かえって読みにくくなると思われる場合は︑うたなかった︒ 句読点の打ち方︵目句読法︶の基準は︑この場合 多くの指導書に共通するところであり︑小学校の﹁国 おしなべて︑このような基準に依拠していると ー 重文の場合︑切れめにうつ︒
2
ー 役わりの同じ語句が二つ以上並ぶ場合 (
3
ー 同格関係の語の間 (
4
ー 叙述に対する限定や条件などを表す語句のあと (
5
ラ (
6
(
7
(
8ラ
(
9
(
q①
D 読み誤りをさけようとする場合
の 息の切れめや︑間をあけるところ q q
昭和33年 朝倉書店 ﹁句読点の打ち方﹂︶や﹁文章表現辞典﹂︵神 コ鳥武彦他編 東京堂 11〜H︶の中に︑これを見ることができる︒ じ 右に見たような︑句読法の基準は︑小学校のほとんどの﹁国語﹂
の教科書で︑よく守られているように見受けられる︒
思うに︑﹁国語﹂の教科書に見られる句読法︵基準をふまえた︑
この句読法を︑以後﹁基準的句読法﹂と呼ぶことにする︶の性格
は︑総じて言えば︑文意を明確︑忠実に読み手に伝えるためのく
ぎりを しかも︑適用の並遍性をかなり重くみた 本命とす
るもののように思われる︒ イ○下のしゃしんは︑﹁おおおにばす﹂という︑こどもがのれるほど
大きなはをもったはすです︒︵小学校こくご二年下 学校図書株
式会社﹁めずらしいしょくぶつ﹂ 昭和45年︶
右の例文中のイの読点は︑あまりに典型的な例ではあるが︑﹁お
おおにばす﹂が︑こどもの名前でないことをけじめづけている重
要なものである︒これは︑換言すれば︑防衛的性格の読点と言う
ことができよう︒句点にせよ︑読点にせよ︑その重要な機能の一
つに︑このような防衛的機能のあることは事実である︒筆者の見
るところ︑小学校の﹁国語﹂の教科書に見られる句読法は︑右の
ような文例での機能例を頂点として︑防衛的性格︵受身的性格︶
の趣の強いもののように見受けられる︒しかもそれが︑先に記し
たように︑適用の普遍性をかなり重く見るところにいっそう特
色が強められている︒
例えば︑教材としての文章が︑いわゆる記録文であれ︑手紙文
であれ︑物語文であれ︑ほとんど画一的な句読法で処理されてい
るのである︒
筆者は︑ここに︑少なからず問題を感じる︒なるほど︑小学校
の教育課程において︑﹁基礎﹂の名のもとで︑防衛的で︑適用の普
遍性の大きい句読法を学習することの意義を︑無下に否定するも
のではないが︑一方に︑果してこれでよいのだろうかという︑強
い疑念を持たされるのも事実である︒
教育の実践に当って︑近来︑よく児童の創造性を高めると
か︑豊かな創造性を培うとか言われる︒いったい︑児童の創造
的な思考なり活動は︑何によって観ることができるのであろうか︒
筆者は︑﹁言語表現﹂︵﹁書く﹂にせよ︑﹁話す﹂にせよ︶によって
と答えたい︒私どもが︑児童の創造性を尊重すればするほどに︑
子どもたちの言語表現を大切にしていかねばならない︒かく
して︑文章表現における︑個性的︑創造的表現が重視される︒そ
の︑文章の創造的表現尊重の中で︑ひとり︑句読法が画一的であっ
てよいはずはない︒句読法もまた︑創造的︑個性的であってよい
はずである︒いな︑なければならないはずである︒
句点や読点を単なる平板なくぎり符号と見なさず︑これを︑次
元の高い言語自体であると認識する立場に立つならば︑このこと
は︑いっそう明白であろう︒
筆者は︑句読点を︑次元の高い言語自体と認識することの重
要性を強調してきた︒いったい︑次元の高い言語自体とは︑ど
ういう認識なのであろうか︒
以下に︑志賀直哉の﹁城の崎にて﹂の一節を引用して︑考えの
ほどを述べてみたい︒ ▲ △ 或朝の事︑自分は一疋の蜂が玄関の屋根で死んで居るのを見 ム つけた︒足を腹の下にぴったりとつけ︑触角はだらしなく顔ヘ ム たれ下がってゐた︒他の蜂は一向に冷淡だった︒巣の出入りに 忙しくその傍を這ひまはる妊全く拘泥する様子はなかった︒忙 ム しく立働いてゐる蜂は如何にも生きてゐる物といふ感じを与ヘ ム た︒その傍に一疋︑朝も昼も夕も︑見る度に一つ所に全く動か ム ずに傭向きに転ってゐるのを見ると︑それが又如何にも死んだ ム ものといふ感じを与へるのだ︒それは三日程その侭になってゐ た︒それは見てゐて︑如何にも静かな感じを与へた︒淋しかっ た︒他の蜂汎皆巣へ入っ仕舞った日暮︑冷たい瓦の上殊一つ残っ ム た死骸を見る事は淋しかった︒然し︑それは如何にも静なだっ た︒︵日本文学全集18 志賀直哉集 新潮社 昭和42年︶これは︑﹁城の崎にて﹂の︑よく知られている一節︵一段落︶であるが︑文中の▲印は︑試みに筆者が︑先の︑基準的句読法︵小学校﹁国語﹂の教科書に見られる︶によって加え施した読点を示す︒基準的句読法によって読点を施せば︑おそらく右のようになるに違いない︒この︑試みに加え施した読点ωは︑もとより︑単純に間違いであるとすることはできない︒ かつて筆者は︑この文章の句読点をすべてはずして︑学生諸君に︑改めて句読点を施してもらったことがあるが︑その結果は︑まことに多様な姿を示した︒原作品の句読法との一致を見せたのは一例もなかった︒一致を見せなかったことで︑それらがすべて間違いだときめつけるわけにはいかないだろう︒ ただ言えることは︑筆者が試みに句読法と同様︑学生諸君の示した句読法は︑例の︑適用度の高い︑普遍性の強い基準的句読法に近いものであった︒ これは︑原作品の句読法とは︑相当に趣を異にするものであり︑志賀直哉の内的要求に発した︑かけがえのない句読法の秩序とは︑異質のものー間違いということばをさければーと言わざるを
得ない︒
国語教育における句読法の諸問題︵愛宕︶
五
長崎大学教育学部教育科学研究報告 第二六号
山
ノ¥
筆者や学生諸君が示した様々な句読法1それは日本語の文章
にあって︑言わば可能な句読法と呼べる に添って︑様々な読
み︑朗読を実現してみたうえで︑改めて︑原作品の句読法に基い
た読み︑朗読を実現してみると︑筆者は︑今更ながら︑原作品の
句読法の発揮する︑ユニークな表現のリズム︑格調を感得せずに
はおれなくなり︑感動を経験する︒
この場面に臨んでいる作者の心情は︑この文章のリズムに生き
づいており︑心情とリズムとは一如となって︑読者に迫ってくる
のである︒ の の 私は︑表現のリズムは︑それがそのまま︑高次な意味だと考え
る︒ このような表現のリズムが︑大きく︑個性的な句読法のかもし
出す緊張に負うていることは明らかである︒
筆者が︑句読点は︑次元の高い言語自体であるとするのは︑
右に述べたような意味においてである︒
ここで問題としなければならないのは︑原作品を︑教科書教材
に採用する場合の︑原句読法の改変である︒
筆者の見たところでは︑ほとんどの︑﹁国語﹂︵小学校︶の教科
書で︑度合の差はあるにしても︑かなりの改変が行なわれている
のが実情のようである︒
改変上のよりどころとなっているのは︑やはり︑教科書に広く
適用されている︑例の基準的句読法である︒
原作品を教科書教材に採用する増合︑このような︑画一性の強
い基準的句読法によって改変して︑果してよいものであろうか︒
児童たちが︑改変された句読法による︑原作品の表現のリズム
とは違った文章表現に接しなければならなくなる事態は︑やはり 一考を要する︒ 今︑﹁国語﹂︵小学校︶の教材としてよく採用されている︑宮沢賢治について︑教科書の実際を見てみよう︒ ﹁オッペルと象﹂が︑﹁小学国語6下﹂︵日本書籍株式会社 昭和
51
︶に採られている︒︵教科書では﹁オツベルと象﹂となってい
る︶今︑句読点を除く表記面のことはおくとして︑原作品との比︐較において︑句読点を見ると︑まず︑次のような差異が認められ
る︒ω︹句点︺
①原作品では読点のところが︑教科書では︑句点になっている
もの⁝⁝⁝⁝:⁝:・⁝⁝⁝⁝⁝:⁝・::⁝:⁝⁝⁝:・⁝::⁝8
⑭︹読点︺
①原作品になくて︑教科書にあるもの⁝⁝⁝⁝⁝⁝−・⁝⁝⁝21
②原作品にあって︑教科書にないもの−⁝⁝⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝4
③原作品では句点のところが︑教科書では︑読点になっている
もの⁝⁝⁝⁝⁝・⁝・⁝⁝⁝:⁝⁝⁝・⁝⁝:⁝⁝⁝⁝・⁝⁝⁝i
これを見て︑すぐに気づくことは︑短かい作品の中に︑34箇所
もの改変箇所があることである︒その改変箇所を吟味してみると︑
⑭の①に代表されるように︑原作品よりも︑文のなかを細かく切
る方向をとっている︒ωの①の︑原作品の読点箇所を︑句点に置
き替えているのも同方向の処理であろう︒
一般に︑小学校の﹁国語﹂の教科書の句読法は︑その傾向とし
て︑ていねいに施す︵したがって︑読点によって細かくくぎる︶
方向をとっている︒この﹁オツベルと象﹂の場合も︑その方向に
依拠しての措置と受けとられる︒それはまた︑児童に︑読みやす
くするための配慮ということでもあろう︒が︑原作品を教材化す
る場合︑常套的にこのように措置することは︑かならずしも良策
とばかりは言えないだろう︒
それは︑教材とした作品が︑例えば文学作品であった場合︑こ
の種の改変によって︑ちょっと見かけのこと程度ではすまされな
い︑文学性の損傷︑消失が生じるからである︒
以下には︑改変箇所の中から数箇所を選び出して︑これを問題
にしてみたいと思う︒
国オツベルときたらたいしたもんだ︒それにこの前イネこき小屋 2 で︑うまく自分のものにした象も︑実際たいしたもんだ︒︵四︶
右の のところは︑原作品︵日本現代文学全集40 騙鮒光駄瀞集
講談社版による︶では︑うまく自分のものにした︑象も実際たいしたもんだ︒となっている︒例の基準的句読法では︑どうし
ても教科書のように︑読点の位置は改められなければならない
であろう︒が︑どうして賢治は︑このような読点の置き方をした
のであろうか︒
朗読してみると︑︐すぐ解ることだが︑この作品は散文でありな
がら︑7音︑5音の音数律を基調にした文体的特徴を形成してお
り︑これが︑この童話の世界に︑あたかもバックミュージックの
ような効果を与えていることが看取されるのである︒時々刻々に マロ ハ レ表現を定着させていく賢治の表現意識に︑ウマクジブンノ モノ パマレ ハクレニシタ/ゾウモジッサイ タイシタモンダというような︑7音
律︑5音律のリズムの支配があったものと察せられるのである︒
このような事情を考える時︑改変がいいのかどうか︑問題は単純
ではないように思われる︒
囮﹁そうか︒それではそうしよう︒こういうことにしようじゃな いか︒﹂ オツベルが顔をくしゃくしゃにして︑真っ赤になって喜びなが らそう言った︒︵12︶ 右の のところは︑原作品では︑そうか︑それではそうしよう︒というふうに︑句点のところが読点になっている︒これは︑ちょっとした改変と言えばそれまでであるが︑筆者は︑これを︑かならずしも些細なこととはしがたい︒この箇所を問題にするためには︑今少し多く︑先行の文章表現を記載すべきであるが︑割愛して︑説明で補うことにする︒ この箇所は︑オツベルが︑現われた白象に︑恐る恐る﹁ずうっとこっちにいたらどうだい︒﹂と話しかけたところ︑象はけろりとして︑﹁いてもいいよ︒﹂と色よい返事をしたものだから︑オツベルが︑﹁そうか︒それではそうしよう︒⁝⁝︒﹂︵教科書の表記︶と応じているのが当該表現である︒この場面でのオツベルの応じ方は︑ふつうでない︒顔をくしゃくしゃにして︑真っ赤になって喜びながらそう言った︒とあるように︑心のはずみを押え切れない風情である︒﹁いてもいいよ︒﹂という白象の︑思わく通りの返事を︑得たりやおうと︑間髪を入れず応じているのが︑〃そうか▲それではそうしよう︒なのである︒このような情況を想定するならば︑﹁そうか﹂のあとの▲の箇所は︑休止の大きい句点ではなくて︑やはり︑原作品のように読点でなければならないであろう︒ イ 團﹁すまないが︑税金が五倍になった︒今日は少うしかじ場へ行っ て︑炭火をふいてくれないか︒﹂ ロラ ハヨ ﹁ああ︑ふいてやろう︒本気でやったら︑ぽく︑もう︑息で︑ 石も投げ飛ばせるよ︒﹂︵12︶ 原作品の文章の句読法と異る箇所は︑ で示した︑イ︑ロ︑ハ
国語教育における句読法の諸問題︵愛宕︶
七
長崎大学教育学部教育科学研究報告 第二六号
ノ〜
の箇所であるが︑今︑イ︑ハは省略して︑ロを問題にしたい︒ロ
の読点は︑原作品にはない︒教科書の方に読点が施されているの
は︑思うに︑例の基準的句読法での︑感動詞のあとには読点を打
2ということに依拠してのことであろう︒が︑この﹁オツベル
と象﹂の原作品の中には︑﹁ああ︑⁝⁝︒﹂が6箇所︑﹁ああ⁝⁝︒﹂
は2箇所というように︑読点の有無双方が見られ︑画一的に表記
されてはいない︒
今︑取りあげるロの箇所には︑原作品に読点は見られない︒こ
れは︑オツベルが︑白象に︑﹁すまないが︑⁝⁝︒﹂と頼みこんだ
のに対して︑白象が︑いかにも気軽く︑素直に引き受ける表現な
のである︒﹁ああふいてやろう︒﹂と︑﹁ああ﹂のあとに︑読点のな
い原作品の表現は︑それがあるのにくらべて︑白象の引き受け方
が︑いかにも気軽で︑素直であることを表わしているように理解
することができるのである︒
国象は細う唾きれいな声で︑しくしくしくしく泣きだした︒︵㎜︶ 原作品には︑▲印のところに読点が施されている︒ここに読点が
あるかないかは︑この文表現の表現価値をかなり大きく左右する︒
逆に言えば︑ここには︑いかにも読点がなければならないはずの
ものと考えさせられる︒
固どいつもみんな気ちがいだ︒小さな木などは根こぎになり︑や イヒ ロオ ハ ぶやなんかもめちゃくちゃだ︒グワア︑グワア︑グワア︑グワ
ア︑花火みたいに野原の中へとび出した︒それから︑なんの︑
走って︑走って︑とうとう向こうの青くかすんだ野原の果てに︑
オツベルのやしきの黄色な屋根を見つけると︑象は一度にふん 火した︒︵13︶ 原作品には︑イ︑ロ︑ハの読点はない︒ここの文章の展開︑文脈 に即して受けとるならば︑﹁グワア︑グワア︑グワア︑グワア︑⁝⁝︒﹂ではなく︑﹁グワアグワアグワアグワアグワア︑⁝⁝︒﹂とすべきで︑音声表現としては︑テンポをつけて︑力強く︑一気に実現させるべき表現ではなかろうか︒ まだ︑問題にすべき箇所は多いが省略する︒ 右に指摘したようなことは︑多くの﹁国語﹂の教科書に見られる共通の問題であり︑今後の討究にまつべきことは多い︒ ちなみに︑﹁国語﹂の教科書外の︑諸教科の教科書の句読法のことも︑国語教育に関連することとして︑これを軽視することはできない︒
3︑句読法の指導試案
国語教育︑あるいは国語科教育において︑﹁句読法教育﹂をどの
ように秩序づければよいのだろうか︒指導をどのように実践して
いけばよいのだろうか︒
もとより︑ことは容易ではない︒
ここには︑﹁句読法教育﹂を重んじる者の一人として︑以下に︑
いくつかのことを提言してみたいと思う︒
A︑句読点は︑単なる︑平板な符号ではなく︑姿を替えた言語
だという認識を持たせるようにしていくこと︒
B︑句読法の認識を深めさせるために︑すぐれた教材を活用し
て︑効果的な経験をさせること︒
このことに関連して︑一つの例を示す︒
北川冬彦の詩に﹁雑草﹂︵﹁新編 新しい国語1 東京書籍 昭
和53年︶と題する︑次のような作品がある︒
雑草があたりかまわず
伸びほうだいに伸びている︒ イ このけしきは胸のすく思いだ︑
人に踏まれたりしていたのが
いつのまにか
人のひざを没するほどに伸びている︒
ところによっては
人の姿を見失うほど
深いところがある︒ ロしこのけしきは胸のすく思いだ︑
伸びはびこれるときは
どしどし伸びひろがるがいい︒
そして見ばえはしなくとも
豊かな花をどっさり咲かせることだ︒
この作中のイ︑ロ2箇所のところが︑句点でなくて読点であるこ
とを考えさせるのなどは︑効果的な経験にかなうことであろう︒
C︑﹁句読法﹂の教育︑指導は︑一応︑小学校4学年︵現学習指
導要領︶︑5学年︵新学習指導要領︶までとするにしても︑そ
の教育︑指導は︑さらに中学校段階にまで継続︑深化されて
いかねばならないこと︒
D︑教科書の編み方をくふうし︑例えば︑小学校の高学年段階
では︑基準的句読法によって書かれた文章︵教材︶のほかに︑
末尾に︑原作品の句読法無改変の教材を用意すること︒
学習に当って児童は︑それまでの︑いわゆる基準的句読法とは︑ かなり違った句読法の現実に遭遇することによって︑句読法意識の深化を促され︑句読法自覚を高めることができるものと考える︒ E︑いわゆる基準的句読法を︑一応理解させ︑これを駆使でき るように指導するが︑そのような︑基準を外に求める方向か ら︑次第に︑自己の中にもそれを求めるように指導していく こと︒ これを筆者は︑ ○画一的句読法から個性的句読法へ ○防衛的句読法から創造的句読法へ ○消極的句読法から積極的句読法へ ○受動的句読法から能動的句読法へなどと呼んでみている︒ F︑個性的︑創造的句読法とは言っても︑そこに︑一つの ﹁︑﹂︑一つの﹁︒﹂を施した理由について︑児童が自己のこと ばで︑それが説明できるようにすること︒ G︑句読法を︑書き手側︵表現者︶の立場からのみ扱うのでは なく︑読み手側︵理解者︶の立場からもこれを尊重していく こと︒ H︑文章表現の推敲に︑句読法の推敲の重要であることを教え ること︒その句読法の推敲法として︑朗読法によることが適 切であることを教えること︒ 以上は︑まことにささやかな提言にすぎない︒今後は︑﹁句読法﹂の教育︑指導法を︑どのように体系化していくかを︑重要な課題としなくてはならない︒
国語教育における句読法の諸問題︵愛宕︶
九
長崎大学教育学部教育科学研究報告 第二六号一〇
おわりに
この度は︑﹁国語教育における句読法の諸問題﹂と題して︑日頃考
えて来たことをまとめてみた︒読み返してみると︑言い得ていな
いことや漏れていること︑考えの未熟なところも多いが︑今回は︑
ひとまずこれでくぎることにした︒
各位の御叱声を戴ければ幸いである︒
なお︑この小稿をなすに当っては︑長崎大学附属小学校︑同中
学校の国語科の諸氏の御助力のあったことを記して︑感謝の意を
表したい︒