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華僑概念の再検討のために

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(1)

華僑概念の再検討のために

一76年度在外研究の概要とG.W.スキナーのこと一

市 川 信 愛

       も   く   じ 1.76年度在外研究出張をふりかえって  に)課題への接近

 ② 主要訪問研究機関と研究者たち

  ① Univ. of Hawail&East West Center   ② Univ. of California&Stanford Univ.

  ③Columbia Univ.&Harvard Univ.

  ④London Univ.;SOAS&State Univ. of Leyden.

2,G. WiUiam Skinnerの華僑研究  (1)研究業績とプロフィール   ① はじめに

  ② 研究のあらまし   ③教授のプロフィール

 ② 華僑概念の再検討のための3論文

3.タイの中国人一変貌する社会における同化問題(抄訳)

 (1)不正確な人口推計  (2》中華思想と同化問題  (3)バンコク中国人街と移民問題  (4)同化問題の2命題

 (5)同化率決定の4要因

 (6)同化への中国人の姿勢一命題検証一  {7)アメリカの同化との比較

 (8)タイ的同化

く資料そのユ〉華僑研究文献目録(英文のみ)

  インドネシア華僑に関する文献一オランダ国立Leyden大学所蔵一

1.76年度在外研究の概要

 (1) 課題への接近

 昭和51年IO月1日から同年ll月31日までの61日間,文部省在外研究員(短期)として,

アメリカ合衆国,イギリス,オランダ,フランス,イタリー等の国々における主要な東南 アジア研究機関および,著名な研究者,専門家を歴訪する機会をえた。

 研究課題を「東南アジアにおけるコミュナリズムの研究一華人社会 報 の経済基盤

を中心に一」としたのは,次のような,私の東南アジア研究へのアプローチから来たも

(2)

のである。

 1973年2月15日より3月16日まで本学東南アジア研究助成会の援助で,ホンコン,タ イ,マレーシア,シンガポール,フィリピン,タイワンを歴訪,東南アジアへの概括的ア プローチを同学の藤田剛正,有田辰雄(現在名古屋学院大学)の両氏と試みたことに最:初 の契機があった。そのときの共通主題は,「東南アジアにおける貿易,流通機構の研究」

で,私はとくに,タイ国の第1次産品の流通機構に関心をもち,その成果は文献調査研究 にとどまったが,拙著『タイ国経済とミドルマン』 (本学東南アジア研究叢書第8集1974 年3月)として出版することができた。

 翌,1974年には,年末から翌年初あにかけて本学経済学部と商業短期大学部の学生有志 からなる「長崎大学東南アジア学生研究会」の創設にかかわったことから,現地研究旅行 の引卒を引きうけることになり,半月そこそこであったが,約20名のメンバーとともに,

ホンコン,タイ,マレーシア,シンガポールを訪門,主として各地でビジネスマン,海外 協力隊員等として活躍している本学卒業生諸氏との交流を深め,現地とのコンタクトを学       注(1)

生ベースにおいても確立することができた。

 この2回の,短期(半月〜1ケ月)の現地調査旅行を通じて,当初の問題意識である,

開発途上国における1次産品流通問題のもつ重要性,とりわけその中枢を握るものが,東 南アジア外国人一華僑であり,それへのメスを加えることなしには,東南アジア諸国の経 済問題各般にわたる研究は,極めて片手落ちになるということであった。

 このような研究主題への関心移行のさ中に,幸運にも,翌1975年,須山卓博士(当時本 学経済学部教授,現在九州産業大学教授)を代表とする在外学術調査計画「東南アジア華 僑社会の幣派主義の変貌適程に関する実証的研究」が文部省の助成対象として採択せら れ,そのパートナーとして参加することができたことである。同年7月上旬に出発,IL月 中旬まで(須山教授は,病気のため途中で帰国されたが),ホンコン,シンガポールの大 学・研究所で調査打合せと準備を行い,マレーシア(東,西を含む),タイにおける主要 な地方都市の実情調査を,かなり詳細に行うことができた。その成果の一部は,須山博士 との共著『華僑社会の特質と蓄派一その歴史的変容過程の研究一』 (同東南アジア研 究叢書ll号)として,とりあえず公表することができた。この導線を一歩進めるために,

研究方法論の再検討ないし反省,主要先進国とりわけアメリカにおける研究業績の実情把 握,及び関係文献,資料の収集は,ようやく問題の核心に接近し始めた自己に対する,

一つの必然的課題と方向であった。このような動機と問題意識から,頭初に掲げた研究課 題の下に,在外研究員べ応募を行ったものである。この応募は,課題の設定は異っていた が,二回目に当り,短期大学に籍をおく者にとっては狭い門といわれていただけに,その 承認は大きな喜びであった。ただ一つ残念なことは,年令の制約(50才が限度)から,長期

(1〜2年)を希望したにもかかわらず,短;期(2ケ月,数年前までは3ケ月であった)

として途中で変更せざるをえなかったことである。ともあれ,東南アジアしか知らない私

(3)

にとって,短期とはいえ,アメリカと西ヨーロッパ諸国の歴訪は絶好の新たな研究機会を 与えたといえる。

 そのための準備にまず,1976年春,前年度の海外学術調査の概要をとりまとめた小冊子 の英文ペーパー Pang Society and Economy of Chinese Imigrants−Astudy       注(2)

on Communalism in Southeast Asia をプリント版で作成,事前に三門希望の大学,

研究機関,図書館および研究者,専門家に送付し,受け入れの可否を照会した。あわせ て,個入的ないし公的な紹介の労をとってもらったのは,次の2人のアメリカ人であっ

た。

 Prof. Ezra Voge1

  ハーバード大学(社会学部)教授,Ph.D.同学東南アジア評議会会長,当時来日中  Mr. Jonathan:L. Silverman

 前,アメリカセンター福岡支所長,77年春帰国国務省在勤

 なお,国内では,アジア経済研究所のスタッフおよび,京都大学東南アジア研究センタ ー所長市村真一教授のアドヴァイスに負うところが多かった。

 短い訪問旧聞であったが,それぞれの大学,研究所,図書館等でうけた町尽は,予想を こえるものがあった。とりわけアメリカの各地において,事前に周到な受け入れ準備と応 対をいただいたことは,特記し謝意を表さなければならない。とりわけ,前記ペーパー(英 文)の小冊子を中心とする直卒な意見の交換,および個人的,小グループでのディスカッ ションやミーティング,ゼミナール等での批判と指導は,多くの示唆をうけるとともに,

今後の学術・研究交流への貴重な契機となったと思う。だが,何分にも2ケ月間という短 期間の滞在は,研究機関数をしぼることに努めたものの,訪問する人,機関ごとに当初 予想した以上に多くのデーターや新たな専門家への紹介等に接し,期日の制限一短かさが

くやまれたことがしばしばであった。

 以下,訪問した機関と面接した人々およびデーターの概要をアメリカ合衆国を中心に多        注(3)

少紀行誌的だが紹介することにしよう。

 (2) 主要訪問研究機関と研究者たち

  ①Univ. of Hawaii and East West Center

 まず羽田からJALで10月1日夜行便でHonoluluへ飛び,時差のため同月同日朝到 着,ホテルに入るとすぐ,Univ. of Hawaii,の社会学部に, Voge1教授から紹介をうけ たAssociate Prof. Pat. Steinhof(女性)を訪問し,スケジュールを打合せ,日本から の留学生田口君(ICU出身)を助手としてつけてもらうことになる。約1週間の滞在中,

主として利用したのは,

 East−West CenterのFood InstituteとPoPulation Instituteの資料室およびその附

属図書館であった。

(4)

 ここには,九大農学部土屋圭造教授がかつてVisiting Pvof.として滞在しておられた 関係で,所長秘書のMiss Fonni Leekaiが何くれと世話をしてくれた。また,土屋教授 の紹介で同センターの出身で同大学農学部作物研究室にAsso. Researcherとして働い ている長谷川氏(Ph.D.)が,学内外の案内役も買って出てくれて助かった。とくに,

Hawaiiのdown townにあるChina tawn見学は印象に残った。

 また,田口君の案内で,インドネシア華僑の研究をしているDr. Dewey(女性)と,

ベトナム史を研究しているDr. Larn(ベトナム系アメリカ人)に会い,持参したPaper に対する意見や,彼等の業績についてきいた。

 余暇をみては,E. W. Centerの附属図書館Gregg M. Sinclair Libraryに通った が,毎日夜9時まで開館され,身分証明書の提示の必要もなく全くフリーに利用でき,従 って市民にも開放されている。流石に東南アジア各国から集められた文献・資料は豊富 で華僑関係の目録とカードセレクトするのに忙殺された。だが,専門別にAssistant.

Librarianがいて,それぞれの分野のデーターに精通し,研究課題への質問に詳細かつ 懇切に対応してくれる。わが国の大学附属図書館のシステムとの相違を痛感したし,

Librarian自体,単なる図書館員(事務官)ではなく,研究職として, Assistant Prof.

以上にランクされ,個室さえ与えられている者もある。かなりの華僑関係所蔵文献,資料 のリスト(コピー)を作成することができたが,その検討ないし解説は,後日を期したい と思う。ともあれ,ハワイ大学とE.W.センター滞在は,私にとっての,欧米出発の 第一歩であり,オリエンテーションとしての意味があった。このほか,個人的な友人や,

お世話になった方々は枚挙にいとまがないが,割愛したい。

 ②Univ. of California&Stonford Univ.

 ハワイを正味5日間の滞在に切りつめて,本土のSan Franciscoへ飛ぶ。今度は United Air Lineを使ったので,ようやくアメリカへ来たという気分になったが時差の       注(4)

疲れは未だとれない。ホテルは,アメリカ第一の規模をほこるChina townの入口に近 いBush st。のVictoria Hote1にとった。フロントで手続きをしていたら,本学の桜井 助教授が早耳年前,投宿されたことがあると,日本語の流調なマネージャーが語ってくれ た。到着して早速事前に連絡と指示をうけていた通り(後述参照)Stanford Univesity の人類学部Prof. G. William Skinnerへ電話連絡したら,直ちにCalifornia州滞在予 定約2週間の日程を指示していただいた。

       注⑤  翌朝ホテルに,Univ. of California Berkely.の人類学部長Prof. Jack Potterの使

いという日本の留学生浜田トモ子君(同大学院博士課程在学)が車でむかえに来てく

れ,すぐその足で,Berkelyへ向う。Potter教授の研究室で,同大学人類学部における

東南アジア研究の概況をきき,彼の下にマレーシアから留学している中国系マレー人

Miss Mary Juddに紹介してもらい,4人で中食をとり研究主題など話し合った。

(5)

 午後は,たまたま日本人の心理テストを,名古屋市民を対象として行った結果報告のゼ ミナーが,浜田君の指導教官,Prof. Vosの研究室であるというので傍聴させてもらっ

た。

 セミナー終了後,同大学のキャンバスの案内を彼女がしてくれ,かけ足で図書館の内部 も管見,Dr. Potterのアドヴァイスで,研究主題と滞在日数の制約から,主な滞在地を

Stanfordに移すことをすすめられ, Barkelyは1日だけで切りあげることとなった。夜 はChina townが丁度中国の双十節前夜に当り,在米華僑のにぎやかな祭りに接したの は印象に残った。行事は台湾系のみ,毛主席死去のたあ中共系は中止されたと言う。

 翌日は,Univ. of Stanfordの学内宿舎からわざわざSkinner教授自身で,車を運転 して迎えに来ていただのには恐縮した。Bay bridgeを案内,途中の風光を観賞しなが ら,自分の家族のことや日本訪問の思い出,知人も少くないことなど話された。大学の近 くのホテルに落ちつき,食事はChinese Restaurantで馳走になったが,中華料理に 詳しく,流暢な中国語(北京語)でボーイに注文された。ご夫人と教授へのささやかな土 産を差上げる。

 翌日教授の研究室を訪ねたが,流石アメリカ随一の名門校というだけに,すばらしい施 設に感歎する。1966年以来,同大学がベトナム反戦運動のメッカであったということを聞 いていたが今ではその名残りすらなく平静さは意外な位だった。滞在中一度もキャンバス の野外での学生集会やデモの光景に接しなかった。ただし,学生会館内のビラや各種のミ ーティングは,中々活発に行われているように思えた。全く初対面の訪問者である私への 周到な配慮を示す一証左として,教授のSilverman氏宛の手紙を敢えて引用しておく。

16September l976 Mr. Jonathan L. Silverman

Diretor, Fukuoka American Center l−3−36Tenjin

Chuo−ku, Fukuoka Japan

Dear. Mr. Silverman:

  Thank you for your letter of g Septernber concerning Professor Ichikwa/s forthcoming visit to the United States, I arn afraid his own letter mllst have gone astray.

  Iam hapPy to do what I can to make Professor Ichikawa/s stay at Stanford

usefu.1. The:East Asian Collection at the Hoo∀er Institution contains importallt

primary materials on the overseas Chinese in Southeast Asia, and the Curator

(6)

there, Dr. Ramon H. Myers, would, I arn sllre, be happy to assist him in getting started. Incidentally Dr. Myers speaks Japanese with reasonable f111ency. There is another professor on campus, Dr. Doglas P. Murray,

who has done research on the Chinese in Malaysia. But as I am sure you are aware, Stanford isエ10t a major center for Southeast Asian Studies. I have an occasional Ph. D. student who does dissertation research on the overseas Chihese(one recently finished up, two in process), but most of my students who specialize in China do their work in Taiwan or Hong Kong. I notice that Professor Arthur P. Wolf is on Professor Ichikawa,s itinerary. He is, of course, my colleague in this department and I will be happy to introduce them. But it should be understood that Wolf/s work is lilnited to Taiwan.

   The chief obstacles to a profitable visit are, as you surmised, the pressure of tirne and the language barrier. The visit is timed for the second week of our academic year, a period when everyone is frantically busy. We do have one Japanese stlldent in our Ph.D. program and I might be able to prevail on him to do some intepreting. But he is not my student, and so I have no leverage on him, and he cannot be expected to take much time from his studies. We lwiユ1 try to work something out, but I fear there will be times when no one is tending to Ichikawa/s needs.

   Please convey my regards to Professor Ichikawa and my eagerness to meet him.  For his convenience I list my telephone numbers:

       0ffice   415/ 497−4636

       H:ome 415/327−6270

1apPreciate your intercession.

 Sinceτely,

鰍¢レ乙一・望_欧

 G。 William Skinner

 翌夕刻,この手紙に事前に知らせをうけていた著名な学者(夫人を含む)や,日本人の

同大学院(他学部を含む)のPh.D.学生を教授の私宅に招待されて, Home Partyが

開かれた。これもまた,およそ予想していなかったことであるし,日本の大学での慣行に

は,まずないことだけに,深い感銘をうけた。学者については,上記手紙の文中に誌され

(7)

ているので列席したPh.D課程の学生たち(滞在中,種々世話になった)を紹介しておく ことは,私の義務でもあると思う。

 Miss Liza Crihfield(人類学部,日本の芸者社会の研究),

 Mr. Seiichiro Takagi(政治学部,国際関係論専攻在学lO年とのこと)

 Miss. Fujita(ICU卒で,入学したばかりでテーマの設定は,これからだという)。

 翌日から,有名なHoover大統領(同大学出身)の寄進によって建てられたといわ れる,Hoover Institute内に, Skinner教授専用のデスグを使用させてもらい,豊富な 文献資料の全面的な利用が許され,滞在中の拠点がそこに決った。当研究所には,日系

アメリカ人のLibrarian, Mrs. Emiko Mashiko(益子恵美子)がいて,日本からの来訪者 に対する実質的な世話を担当,これまでに来所した日本の学者の消息を詳しく知ることが できた。同研究所は,地域を大別して次の6区分とし,独自の出版活動も行い, General Catalog−by Reg:on を毎年刊行している。

 Africa, Asia, Latin America, Middle East, Eastern Europe&the Soviet  Union, Western Europe,

 とりわけ,Asia Sectionのうち中国語関係が充実している。そのほとんどの文献は,

Skinner教授がCornell Univ.在勤中, Southeast Asia Programの一環として,彼の Research AssistantであったGiok Po Oeyに命じて作成された次の目録(寄贈をうけ た)に収録されており大変役立ったことを特記しておかねばならぬ。

  Survey of Chinese Lang1ユage Materials on Southeast Asia in The Hoover Insti一  tute and Library (May.ユ953).

 (アンダーラインは,単行本を示す,以下同じ)

 もちろん,日本語関係もよく集収され,雑誌・新聞も整っており,かねて聞いてはいた が研究環境のすばらしさを再認識した次第である。

 滞在中の週末はカリフォルニア州随一の観光地,Santa Cruzで休養することができ た。その案内と世話を買って出てくれたのは,Univ. of CaliforniaのSanta Cruzの校        注(4)

舎の人類学部に勤めるAsso. Prof. Thomas P. Rohlenだった。片道何と,フルスピー ドで3時間もかかるところを,ホテルまで自分の車で迎えに来てもらい,全く初対面の私 に,家族をあげてのもてなしをされた。彼はアメリカ国務省の神戸領事館に勤めていた元       注⑥

外交官で,途中大学へ移り,日本企業の人事管理の研究でPh.D.をとった。九大の文学部 に一年留学,博多の夜の思い出を博多弁で話したりした。Red woodsの続くHigh way のすばらしさ,森の中にすっぽりとつつまれた,彼の勤めるSanta Cruzのキャンバスの 環境のよさ,海岸での彼の同僚の一家も交えての海水浴や波乗り遊び,翌朝は,彼の一家

(7人という大世帯)と一緒に,近くのHot cake Restaulantで食事をとったり,彼の自

宅にまねかれて,子供たちと遊んだり,アメリカ式の接客方式そのままを初対面の外国人

に彼の夫人の提唱でプレゼントされたのだと,あとで聞かされた。今度の旅行での最大

(8)

の思出の一つは,The Rohlenとの出合いだったと思う。私事にわたるが,彼の長女 Gingerと私の息女とは,以来Pen friendとなった。2日間のレジャーのあと,彼はま た,フルスピードでStanfordまで送りとどけてくれたのである。

 滞在の総括は,私からのPaperに対する教授じきじきの隔意のない卒直な批判と意見 だった。そのために,正味半日(4時聞近くをCoffee timeを含めて)割いてもらっ た。同学部には,現在華僑を研究している学生は,マレーシアに調査に出かけて不在のた め,教授と1対1でのミーティングがもたれたわけだが議論の途中,followできなくな るときを予想して上述した,日本人留学生藤田君をassistantとして列席してもらった。

極めて,ユニークな教授の研究モデルを基礎とする多面的な問題点の指摘と批判を数多く うけたが,それらについては,別項にて詳述することとしたい。

 このほかWee:k dayの学部をあげてのGarden party(各人が材料を持ちよる)や,

Miss. Crifieldの自宅への招待,日本人留学生高木君の案内で,大学の近くのDown Townで,彼のガールフレンド(混血)を伴ってのNight Club行きなど,思い出は少 くない。予定の日程があまりにも早く過ぎ去ったことを心残りに,霧の深い日の午後,

San fran Sisco空港から,更に南下して, Univ.of California, Los Angeles Carnpus

(U.C. L.A.)のあるLos Angelsへと飛んだ。空港まで送って来ると言われる教授 の厚意を固辞し,Miss Crifieldと彼女のボーイフレンドの車で,今回の第1の目的地,

Stanfordをあとにしたのである。

 U.C. L. A.では,たまたま留学生の友人香川大学教養部助教授菅沼惇氏が,忙しい スケジュールの中を割いて,正味3日間キャンバスの案内をしてくれた。広大なキャンバ スに,何度迷ったか知れない。一目で分る日本からのおのぼりさんに,学生たちは皆極め て親切だった。特定の研究室を訪ねることはせず,主として中央図書館で,華僑関係の文 献,資料のチェックを試みたにとどめたが,この分野では,Barkeleyの方がはるかに充 実していた。滞米40余年の著名な八島太郎画伯との出合いは忘れられないが,ただ,ロス 市と大学の巨大さに圧倒されたことが,強く印象に残った。文字通りスケジュールに追わ れて,西海岸から,東海岸へと移動したのは,IO月も半ばすぎていた。

③Columbia Univ.&Harvard Univ.

 主要な研究地での滞在を終えたという気安さもあって,途中Chicago CityとWashing一       注(7)

ton D. C.を訪ねた。事前のapPointmentはなく,Univ. of Chicagoはただキャンバ スを散写したにとどまる。西海岸の学生の自由な服装と打って変って,きちんとした身骨 の学生が目立ちキャンバス内も整然とし,建物もイギリス風の古風なレンガ造りが主体を 占めることが印象に残った。五大湖に近く紅葉が美しかった。

 Washington D, C.では,国会図書館を訪ねるのが主目的で,残りは観光に費した。

流石にこの図書館はよく整備されており,わが国の国会図書館のモデルとなったものだと

(9)

いうだけはある。日本関係,中国関係のSectionが同じ建物の同じFloorに隣…接してあ ったので利用には至極便利だった。田中敏子さんという佐賀県出身の女性の職員が細かい ところまでよく案内してもらい助かった。だが,ここでは,華僑関係の文献は少く,E.

W.CenterやStanfordとCaliforniaの両大学で見た以外のものを見出すことは出来な かった。いずれも,2〜3日間の滞在で切りあげ,WashingtnからN. Y,へは飛行機 をキャンセルして,メガロポリスを車窓に眺めながら,日本の新幹線を摸したといわれる 特急Metropolitan Linerで北上した。西海岸の真夏から一気に初冬の東海岸の生活への 急変にふるえ上り,あわててコートを買いに入った店は都心のデパートであったが,文字 通り,黒人街の中に包囲されてしまっていて店員も黒人の数が,白人をしのいでいる。

大学すら例外でなく,Chicagoもそそうだったが,その典型がNew YorkのColumbia Univ.である。

 Columbia Univ.では,事前に連絡が届いていて, Asso. Prof. Myron Cohenが待機 していて下さった。Colombia大学

は,正に黒人街ハーレムのド真中に あり,最近もキャンバス内で殺傷事 件があったという。Cohen助教授 からも,充分の注意をうながされ た。通学には,安くて便利な地下鉄 を利用したが,下車駅を1つでも乗

り越すとハーレムの中心駅で,一目 で分るおのぼり日本人(ネクタイを してカバンを下げて)とみると,つ

       (注)右より3人目Cohen助教授,コロンビア大学にて けねらわれることは必常だからである。しかし,昼問のキャンバス内は,普通の大学の構 内風景と少しも変らず樹木につつまれた古風な建築様式は,どこか,Chicago大学を想 起させるものがあった。

 指定された日の午前IO時に,彼の研究室を訪ねた。そこは, The East Asian Institute of Columbia Univ.という文字が記された,構内第一のモダンな高層ビルのほぼ中層に あった。1949年の創立というから,アメリカでも戦後早々に創設された部類に属する。こ こも研究調査活動は,Ford Foundationと, Rockefeller Foundationに依存してなされ ていた。現在のモダンな建物は,1962年建設されたもので,それを契機に調査,研究分野 が拡大され,現地調査に主力が注がれるようになったという。Cohen助教授は,研究所 長代理の職にある。

 私の到着を待って,研究所のスタッフを紹介され,学内のレストランで,中食パーティ

が準備されていた。黒人,日系2世,女性をもまじえた6人の多彩なスタッフで,かなり

活発な質問がよせられた。ただ,心残りなのは,Name cardを使わない習慣のアメリカ

(10)

で,口答で名前を名乗られてもすぐメモすることも出来ず,ここに紹介できないことであ る。女性のResearch Assitantが,キャンバス内を案内して下さったが,ここの附属図 書館East Asian Libraryも,中国関係の文献,資料がかなり充実していた。(写真参照)

 滞在はわずか四日間だったが,最終日Cohen助教授宅(キャンバス内にあるアパー ト)に招かれ,日本に留学したことのある彼のPh. D.学生を交えて,持参したペーパ ーについての討論会をもってもらった。文化人類学の立場からの指摘が多かったがそのい

くつかは,かなり的を射たものもあり,内容については別稿でとりあげることにしたい。

 この教官のアパートの眼下には,黒人のハーレムである密集したスラム街が一面に広 がっており,正に大学のキャンバスは,ハレムの中央にそびえる城郭を思わせるものがあ る。これでは,黒人の反感を買うのも無理はないと思えた。厳重な囲い(三重になったド ァと通路)のアパートでも,なお危険なため,家族は郊外の私邸におき,教官たちは単身 で住んでいるのだとのことだった。

 尚,Cohen助教授の業績の一端を,寄贈された著書,論文を中心に紹介すると,次の

とおりである。

  Chinese Family Economy and Development in Yen−Liao, South Taiwan 1967,

 (unpublished doctoral dissertation, Columbia Univ.)

  Variations in Complexity among Chinese Family Groups, The Ilnpact of  Modemization. (Transactions of the:New York Academy of Sicences No.5所  収)1967.

  ACase Study of Chinese Family Econorny and Deveユopment.(Jollmal of Asiall  and African, Vo1.3, No.3〜4所収1968.

  The Family in Trarlsition in TAIWAN(Fogarty Internetional Center Proceedings,

No.3所収)1969,

The Role of Contract in Traditional Chinese Social Organization (B−3, Social and Politica10rganization所収)1968 P

Development Process in the Chinese Domestic Group (Family and Kinship in Chinese Socicety;by Stanford Univ. Press,1970所収).

Hou.se United, House Divided−the Chinese:Family in Taiwan Columbia Univ.

 Press,1976.

 以上の労作から判断されるように,華僑というより,台湾を中心とする中国人社会とり わけ客家に関心を持ち,最近までその家族相続関係のField Surveyに約2ケ年間台湾 に滞在してまとめたのが,最後の著書であるb新進気英の学者という印象をうけた。

 なお,同大学での特色の一つは上述したEast Asian Libraryの存在である。 Collec−

tionsの分類は,言語別にChinese, Japanese,:K:orean, Westernの4つになされてい

る。開館時間は,平日は9.OO A. M.〜10,00 P.Mで,土曜日がIO。OO A.M.〜6.OO

(11)

P.M.日曜が休館である。欧米を通じて,平常日の夜回開館は一般的で,同大学のよう な,ハレムに囲まれたキャンバスでさえ,断呼として図書館だけは,夜間も学生のたあに 開放しつづけているのが印象に残った。

 いよいよ,アメリカ滞在1ケ月の予定も残り少くなり,最後の訪問地,Bostnへ向う 夕刻は,N. Y.には例年より1ケ月近く早い初雪が舞っていた。

 Harvard Univ.は,アメリカを代表する大学の一つといわれるだけあって, Boston 全体が,落ついた学園都市という雰囲気をただよわせていた。アメリカに来てはじめて,

安心して夜の町を独り歩きできたのはここだけだったし,美しい公園には野生のリスが遊 んで,冬空のもれ陽を楽しむ老人の姿がベンチにみられた。省みると全く,ベルト・コン ベアーに乗った形で西から東へとただ一途に,大学めぐりをして来た緊張感がここでよう やくほぐされるような思いだった。大学の近くにVoge1教授のはからいで投宿した下宿 屋も,文字通りの学生のために建てられたものだったし,部屋代も1日5ドルという安さ

だった。

 ここでの主目的は,二つあった。一つはHarvard−Yenching Institllteの附属図書 館,Yenching Libraryの蔵書をチェックすること。いま一つは1975年,マレーシアに 調査旅行中,マラヤ大学のLee Poh Ping講師(経済学部, Ph. D.)から聞かされた,

アメリカの勇敢(?)な女性学徒がゲリラの出没する北部マレーシアのChinese New Village(一種の戦略村)の実態調査に単身で入って,2年余り頑張ってきた当のMiss Jadith StruchがVoge1教授の下にスタッフとして帰っていると知ったたあである。

 10月も押し迫った一日,彼女と学内のレストランで会ったが,普通の女性としか見えな かった。政治社会学の専攻だけに私のペーパーに対しては,政治的視角の不充分さについ てかなり手きびしい批判がよせられた。一方,彼女の研究はヴェトナムで見事に失敗した 戦略村と同じパターンのものが,華僑のみの集団社会を入門的に作り,ゲリラ対策として 役立てようとしている「新村」である。ただマレーシアのChineses:New Village lこつ いては成功とする彼女の見解には,にわかに賛同できないものを感じた。近く,彼女の著 書が出るということだった。

 一方,上述のYenching Institute内の研究室には,日本でも著名な板坂教授がおら

れ,小川孝氏(長崎国際親善協会長)の紹介状をたずさ.えたこともあって,種々便宜をは

かってもらい助つた。また,日系3世の大学院生渡辺君が,板坂教授(日本文学担当)か

らの紹介で,キャンバスの案内,大学街での散索の相手をしてくれたし,ことに,有名な

生活協同組合の図書部では,アメリカ最後の土地だけに,文献・書類をまとめて購入して

Sea Mai1で日本へ送るのを手伝ってくれた。彼の両親は, WashingtonのCallegeの

教師で,彼自身は,High Schoo1を:Londonで過し, M.A.をHavardでとるために入

学したという。アメリカ社会でのHarvard学閥の存在については,批判的だったが,白

人のみが在学中そのためのクラブに入門を許されるという。

(12)

 在米中の心残りの一つは,Skinner教授の前任校で,数多くの華僑研究の学者を生み,

併せてぼう大な研究業績をもつCorneU Univ.を訪ね, Southeast Asia Programの現 状について学ぶことができなかったことである。

 事前に,Silverman氏を介し, Voge1教授の紹介をもって照会したところ,たまたま 当方の訪問希望予定の日程が,大学の重要な行事と重なり,受け入れが不可能という回答 が来たことである。また,Skinner教授が去られたあと,東南アジア研究者関係のう ち,華僑問題を課題とする者が,大学院学生を含めていなくなったとのことであった。

 なおアメリカ合衆国における東南アジア関係の研究機関をもち,業績もある大学として 知られるもののうち今回訪問しえなかったものを付記すると,次の8つとがある思う。

 Central Washington State College, Univ. of Michigan  Northern Illinois Univ., Ohio Univ.

 Sollthem Illinois Univ.,Carbondale, Univ』. of Washington, Seattle  Univ. of Wisconsin, Madison, Yale Univ.

④London Univ.,S.O.A.S.&State Univ. of Leyden.

 BostonからLondonへ向う夜行便のBritish Air wayの窓外には,眼下に美しい夜景 が広がっていた。時差に追いかけられるように安眠する余裕もなく,未明のLOndonの

ピース空港についたときは氷雨が降っていた。緯度はBostonより北になるのに,暖流 の関係で,それ四丁さを感じなかったのは助かった。空港から,事前に紹介してもらって いたUn.iv. of Lodonの近くのホテルに何度電話しても通じず,止むなく,Information で安宿をあっせんしてもらって落ついたが,自ら作った:Hard Scheduleが,そろそろう

らめしい気になりかけ,体力も,限界に近づいたことを感じ始めた。

 幸か不幸か,アメリカの大学と違い,イギリスの大学は,至極応揚で,街自体も緊張感 を何となくほぐすような,日本人のハダに合うムードをただよわせていた。治安も,アメ

リカの都市と比べものにならぬ位に良い。

 まず,London大学内にあるSchool of Oriental and African Studies(S.0.A.S.)

を訪ねる。Lect urerのDr。 Ruth Mcvey(タイの政治学専攻)に会うためである。学部 長の,Prof, C. D. Cowanから,出発前にMcvey女史に会うようとの返信をもらって

いた。τ

Aメリカの大学では,余程のことがない限り,教官たちは毎日自分の研究室に出勤

しているので,行けば何とかなるさと考えたのが間違いだった。まず,各学部の教官に会

うには,一応日本の研究事務室に当るSecretaryを通じ,そこのOKがなければ会うこと

が出来ない。事前のAppointmentがあってもこの原則は変らない。来意を通じると彼女

は講議のある日まで出校しないという返事だった。その日まで待つはかなかったが,幸

い大学のすぐ前が,大英博物館なので,そこに通うことにした。同博物館内には,Kar1

(13)

Marxが勉強して,不朽の名著 Das K:apita1 を書いた著名な図書館がある。入館を申し 込んだところ,少くとも3ケ月以上滞在する者でなければダメだと,岸べもなく断られて

しまった。折角日本から来たのだから,昔K.Marxが勉強した机の場所(No.13と いうことを,ものの本で読んでいた)だけ見せてほしいと守衛に交渉したが,第一K.

Marxとは何者だと反対に尋ねられる始末,押し問答の末,上役らしい人物が出て来て,

勉強している人の持料をしないという条件で,Desk No.13を確認できる近くまでは入 館させてもらえたが,許可時間はタッタ5分間,思いはとげたものの,そのデスクの上に は,マイクロリーダー機が1台乗っかっていただけだった。

 ロンドン到着4日目に,やっとMcvey女史に会うことが出来たが,気さくなオバさん といった感じの人。タイ語が自由に話せるが,自分は政治学だから,華僑のことは分らぬ とのこと,次のスタッフに会うようといわれた。

 Leader Prima Cowan(マレー史)

 Prof. Walker(中国の経済及び経済史)

 Editter Dick Willson(China Quarteryの編集責任者)

 PrQf. Charles Fisher(アジア農業地理学)

 だが,これらの人たちは,いずれも華僑問題プロパーの研究者ではなくその周辺的分野 を追求していて,それなりに関心の所在がわかり一応参考とはなった。ただ討論の雰囲気 は,アメリカとは全く打って変って,極めてひかえ目であり,こちらから質問しない限 り,自らの業績や積極的見解などを表明されるようすはほとんど期待できなかった。

 なお,SOASの附属図書館は近代的な設備で全面開架の上,1細い配慮がなされ,例え ば,本棚のすぐ近くのFloorのコーナーで,関係文献,資料の閲覧ができるだけの空間 とデスクが用意されている。三笠宮がオリエントの研究に約1ケ年滞在されたことは,よ く知られていた。

 なお同大学には,客員教授として滞在中の井上英明助教授(立正女子大学)に何くれと お世話になった。氏の紹介でOxford大学Dr. McMuUer(Oriental Institute)を訪問 予定を立てたが,先方の都合で果せず,有名な故Victor Parce11教授の遺業に接しえなか

ったのは心残りであった。1週間の滞在中ほとんど雨で,この頃からヨーロッパは年間で 一番不順な季節に入り,太陽がのぞくことはまれとなった。オランダへ移るころには,早

くもXmasの売り出しが始っていた。

 オランダでは,State Univ. of Leydenの附属研究機関Japanse en Koreaanse Taa1

の所長,Prof. Dr.:F. Vosを通じて,オランダの学界が旧植民地インドネシアを中心

とする東南アジアにおいて華僑研究の概要を知ることが主目的であった。Vos教授は長

崎にも再三こられたことがある。たまたま,教授は不在で,助手(名前は失念)がキャン

パスを案内してくれたが,そこはキャンパスというより,Leiden市そのものが大学と融

合した街といった方が正確で,部内の各所に,大学の関係機関や建物が分布している。同

(14)

じことは,ドイツ,フランスでの大学都市もみられた。春から初夏に訪ねたら,有名なチ ューリップが,Leydenの市街をおおっていたにちがいないが,それでも,家やマンショ ンのテラスには,花壇がしつえられているのが見られた。

 助手君は,私の訪問目的をきくと,Vos教授への電話での挨拶もそこそこに,近くに ある,中国学研究所(Sinobgical Institute)へ案内してくれた。新進の研究者で,最 近, Chinese in West Kalimantan の歴史的研究をしているDrs. L. Blusseがいる

とのことだったが,所要で不在,代りにResearch Ass.のDr. T. Siauw Giap(中国 系オランダ人)に会うことが出来た。全く,突然の訪問にもかかわらず,同研究所の本命 である壮心領インドネシアの華僑関係の資料・文献の巨大な集績を紹介された。うち訳は オランダ語,英語,インドネシア語,中国語,日本語その他と,言語別に分類されていた が,彼がたまたま,4年ほど前事の機関からの依頼で作成したという同所蔵のlndonesian Chinese関係出版物のリストを渡されたので,英文のものに限り文末に紹介しておく。

今次本学東南アジア学生研究会の主対象訪問地が,Indonesiaだからでもある《資料その 1》参照

 周知のとおり,東南アジアにおけるコミュナリズム研究の業績および成果は,戦前旧植 民地宗主国に始り,戦後はアメリカがそれを継承発展し,研究の方法および研究分野対象 の両面において,質量ともに多彩である。もちろん,その主要なものは,わが国に紹介さ れ,また近年すぐれた研究成果が,わが国の学会においても数多く発表され,新らしい方 法論と分野の開拓もなされている。しかし,公表形式(ほとんど日本語)の制約もあっ て,わが国との学術交流は極めて立ちおくれている。今回の在外研究は,ささやかながら その契機にはなりえたと思う。

注(1)その後同学生研究会(Students Society for Sollth East Astan Study of Nagasakt   Univesity)は毎年現地研究旅行をつづけており,第2回目には,藤田剛正助教授指導の下に,マ   レーシア半島を国際列車で縦走しつつ,沿線の主要都市の状況を視察することに一応の成果を収め   た。つづく第3回目は,タイ国の社会経済の現況を足で調べることに重点をおき,初めての試みと   して学生のみの自主研究を,計画から実行まで一貫して行い,タイ国各地を踏査,一つの画期をな   した。目下計画中の第4回は,経済学部グループと短期大学部グループと別々に活動する方向で準   備がすすんでいる。

   なお,機関紙『東南アジアの潮流』 The Stream of South Eatern Asia を,ユ975年6月   第1号を発行つづいて毎年『年報』の形で現地研究旅行を中心とする小論文,レポートを収録し,

  現在第4号を編輯中である。拙稿としては,

   「総論一東南アジア研究への接近」(第1号,5〜14頁所収)を掲載した。

注(2)同ペーパーの原文は,須山教授の論述をベースとするものであり,訳文の校閲には,本学清野健

  助教授に負うところが大きい。尚paperは,シンガポール大学出版 Asian Study に近く掲

  回したいという照会があっている。

(15)

注(3)この項は,かなり紀行文的記述に流れた傾向があるが,毎年1人平均派遣される本学東南アジア   研究助成会,および文部省の長,短期の在外研究の報告も,研究に当然随伴するHumah−Relation   や欧米大学の外国入学者への対応等の紹介がほとんどなく,今回のささやかな経験からその必要性   を痛感したので,敢えてこのような報告を,論文の冒頭にかかげた次第である。

注(4)San FrandscoのChina townにおける「蓄社会」の詳細な実証的研究は,内田直作教授が   スタンフォード大学にVlsiting Profとて滞在中になされた研究がある。後述文献目録参照。

注(5)教授の略歴については,Robert Tilman Biographical Dicttonary (オハイオ大学)に   よると,次のとおりである。(原文引用)

  POTTER, JACKM, b Oakdale, Tenn, Oct l3,36;m58. ANTHROPOLOGY.

   Educ:Califorrlta, Berkeley, AB,58, PhD(anthroP)64;Chicago,58−59。 Prof.

   Exp:Frorn lnstr to asst prof anthrop, Univ Calif, Berke】ey,63−66, ASSOC   PROF ANTH:ROP, UNIV, CALIF, BERKELEY,66−Res:Chtnese studies;social

  and cultural anthro−pology. Pllb1:Co−auth, Peasant society:areader, Little, 67;

  atlth, Capitalism and the Chinese peasant, Univ Ca11fornla,68. Add:Dept of

  Anthropology, Un1versity of California, Berkeley, CA 94720.

   同大学のキャンバスには,Center for Southeast Asia Stadiesがあり,東南アジア各地か   らの留学生(M.A.およびPh. D.)をうけ入れており,数多くの業績のあることは知られてい   る。ただ,Potter教授としては,私の当面する課題が,華僑であることから, Skinner教授と   事前に協注の上で,スタンフォード大学へと引きつがされたものと思う。

   なお同センターの附属図書館には,インドネシア関係の文献が多く,特殊なコレクションとして   知られているのは

   the Thompsorl−Adloff Collection of So1ユtheast Asian Clippings

  なおFord Foundattonから,3,000万ドルの現地研究費が援助されたという(1960年の設立   以降70年まで)o

注(6)Thornas P. Rohlen For Harmony and Strength 1974, Univ. of California Press.

  の近著があり,日本企業内の人事管理問題を人類学の立場から調査分析している。なお,Rohlen   教授からは,出発前Sllverman日読に,次のような意向が伝えられて来ていたので助教授自身   助の厚意ある判断で,Week−endのレジャーをうけもiって下さったものと思う。

  Yes, I will be hapPy to attempt to assist Prof。 Ichikawa when he vtsits our campus.

  We do have several experts on Sou.th East Asla, but unfortunately the two I would   have him speak with are both presentユy in Indonsla. Nor can I be very encouraging   about ou.r library resollrces, slnce only lts specialty−the South Paciflc−might have

  somethlng he could not find elsewhere. In sllm,王will do my best, but compared   to the experts and library resources at Stanford I/rn afraid he may be disap−

  pointed.

注(7)念のため附言すれば,Univ. of Chtcagoには, Comrnittee on Souther Asian Studies

  があり,京都大学にある東南アジア研究センターとは,Stuffの交換を含む,巾広い交流がな

(16)

されている。今回は,そことのContactをとる余裕はなかった。また,

Townもあるとのことだったが,確認できなかった。

小規模ながらChina

2.G. William Skinnerの華僑研究

(1)研究業績と教授のプロフィール

  ① は じ あ に

 わが国で,華僑のことを実務的にも,学術的にも,多少なり学ぼうとする者で,G.

William Skinner教授の名を知らぬものはない。にも拘らず,教授の著作の中では,極 めて限定された用語,概念として以外には,ほとんどOversea Chinese(華僑)という フレーズを用いられていないことを知る者は少いだろう。最近,中共が華僑概念の使用を 排除するようになる一方,反対に台湾政府が,伝統的に華僑対策を推進したこともあり,華 僑の二重国籍や同化問題が,イデオロギー的様相さえ帯びるようになって来ている。それ より,はるか以前から,華僑の研究に着手された教授が,今日のような政治的,イデオロ ギー的背景への配慮がなされていたとは考えられない。昔,日本語の「支那人」という用 語が差別概念として排除されたのに対し,英語のChineseは,依然として市民権を得,

例えば,Thailand chinese, Malaysian Chinese, Indonesian Chineseという表現で,

結構間に合うためかも知れない。勿論,シンガポールでは,Singaporianと自称し,

Chinseseという呼称を棄てつつあるのだが,このような素撲な問題視角から,今回の訪 問中に得た,教授の諸著作を整理研究してみたいと思い立った次第である。

 とりわけ,再三のべたとおり,教授の人柄に魅せられたことや,公私にわたる周到な指 導から,多くの教示,示唆および研究上の便宜を供されたことは忘れがたい。だが,一方 高名な教授の数多い研究業績のうち,わが国の学界には,そのごく一部しか紹介されてい ないことは,一つの驚きでもあった。その学恩にこたえるためにも,拙訳をかえりみず出 来る限り,教授及びその業績の一端を紹介することは,私の義務でもあると思う。

 そこでまず,教授の研究の歩みのあらましと,私が知りえた限りでの人問としてのプロ フィールを紹介しておこう。

  ②略歴と研究のあらまし  く学 業>

 1925年2,月14日,カリフォルニア州・オークランド(Oakland)に生れる。

 1947年,Come11大学で修士(BA)取得,

 1949〜52年の間,3回にわたって奨学金をうける。(49年Corne11大学Scholarship)

 1954年Ph.D.取得,人類学

(17)

 1956〜58年,学位取得後の現地調査のためCornell Modern工ndonesian Projectの1   員として,インドネシアのJavaに滞在。

 <職 歴>

 1951〜55年,Corne11大学Southeast Asia計画の現地支配人(Directer)となる,その   間1951〜53年と1954〜55年の2回にわたりタイ国駐在事務所長としてバンコクに居住   し,フォード財団援助のもとに,綿密かつ大がかりな実地調査を行う。

 1956〜58年,同大学Far Easterll Studiesの:専任調査員となる。

 1958〜60年,コロンビア大学社会学部,助教授(Assistant Prof.)

 1960〜62年,コーネル大学人類学専任助教授(Associate Prof.)

 1962〜65年,同大学教授として在職

 1965年,スタンフォード大学教授となり,現在に至る。

 <兼任歴>

 1965〜66年,East−west Centerに専門家として滞在

  このほか,中国関係,人類学関係の学会や各種委員会の会員,理事,会長等を歴任す   ること,1961年以降実に15件をこえ枚挙にいとまがない。私の訪問したときには,学   内ではフーバー研究所長,アジア研究所理事を兼ねておられた。所属学会はAAAS;

  Amedcan Academy of Politic&Social Society;Arnerican Anthropology Asn.

  ;Arnerican Ethnology Society;同Sociology Asn.;Asn. Asian studies;Royal   Anthropology Institute;Social ApP1, Anthropologyの多きにのぼっている。

 〈出版業績の一端〉

 この間における,華僑および中国関係の論文と著書について,リストアップすれば,次        注(1)

のとおりである。 (アンダーラインのものは著書,○印はわが学会にほとんど未紹介)

 1954年哲学博:士論文

   Leadership in Bangkok, together with an historical Survey of Chinese Society  in Thailand (コーネル大学, Wason Collectionにマイクロフイルムとして所蔵)

 1957年 ℃hinese Assimilation and Thai Politics The Journal of Asian Studies   Voユ. XVI,:No.2(2月号)所収

 1957年 ℃hange and Persistance in the Thai Society ;Oxford Univ.Press.(論?)

④ユ957年 ℃hinese Society in Thailand:an Analystical H:istory, CorneU U. Press   山本同等rタイの華僑社会』1972年バンコク日本人商工会議所

③ユ958年 Leadership and Power in the Chinese Comrnlmity of Thaiユand , Corne11   Univ. Press.出版,アジア経済研究所訳『タイ国における華僑社会』1961年 01959年 Overseas Chinese in So1ユtheast Asia , The Annaユs of American Aca−

  demy of Political and Social Science, No.231所収

01959年 :rhe:Nature of Loyaユties in Rural Indonesia , Loca1, Ethnic a:nd

(18)

   National Loyalties in Village Indonesia, Yale Univ., New Haven(シンポジ    ウム論文集所収)

O1960年 ℃hange and persistance in Chinese Culture Overseas:Thailand and    Java J. S. S。 S.(Journal of the South Seas Society)No。16所収,なお同    誌はシンガポール発行のもの

O1961年 Java/s Chinese Minority:Continuity and Change The Journal of    Asian Stlldies Vo1.1xx,:No.3(3.月号)所収,なお,同論文は書評

O1963年 The Chinese Minority R. T. Mcvey著Indonesia, HRAF Press所収 01964年 The Thailand Chinese:Assimilation in a Changing Society ASIA.

   No.2(秋季号)所収

01964〜65年 Marketing and Social Structllre in Ru.raユChina Jallrnal of Asian    Studies No.24−1〜3所収

01971年 ℃hinese Peasants and the Closed Community:An Open and Shut

   Case. Comparative Stlldies in Society and Hlstory, Vo1.13, No.3Cambridge    U.Press所収

O1973年 Modem Chinese Society, an Analytical Bibliography    Language         I in Western

         〃       豆  in Chanese          〃       皿  in Japanese

   Stanfod Univ. Press.

   〔Review, JAA, XXV−2,1976〕

O1974年 ℃hinese City Between Two Worlds Stanford Univ. Press,

01975年 ℃hange and Persistence in Thai Society  (コーネル大学記念出版物への    寄稿論文,書名不詳)。1957年の論文と同名,ただ内容の異同未確認。

0!976年 The City in Late Irnperial China Stanford Univ. Press

O1976年 Mobility Strategies in late Imperial China:ARegional Systems Ana−

   Iysis , Regional Analysis, VoL l, NY, Academic Press,所収

  ③プロフィール

 なお,以上の略歴に下下の教授のプロフィールを添えておこう。彼は幼少のときから神 童といわれるほどの秀才で,義務教育とHigh Schoo1を2回にわたって特別進級し,平 均学令より2才も若く大学を卒業し,直ちに外交官(国務省)の採用試験にパス,中国中

・南支に派遣され,語学の研修のかたわら,中国農村社会の研究に興味を懐き,自らも農 村調査に従事したといわれる。

 ところが,中国革命(1949年)の進展により,その実施が困難となり,給費生としてコ

(19)

 一ネル大学へ入学.MAからPh.D へと進んだ。タイにおける華僑社会 の研究は,そもそも彼の本意ではな

く,中国本土における農村社会の研 究が行えなかったことから,次善の 方向として,止むをえずえらんだ研 究テーマであったらしい。それは,

大学院在学中,タイに滞在し,ドク ター論文として結実するとともに,

コロンビア大学助教授として就職後 右よりスキナー教授,ローリン助教授,タリフイールド嬢 も,フォード財団がコーネル大学に対して行った研究「東南アジア研究計画」の責任者と して,タイに3ケ年間滞在,不朽の名著を,ユニークな実地調査結果をもとにまとめあげ たのである。 (前述④及び③)。筆者は,1975年,須山卓教授のパートナーとして,「華 僑社会における帯止主義の実証的研究」のため,タイに滞在中(約40日間),スキナー教 授のインタビューの対象となった華僑の代表者(現在も活躍中)に,数名会う機会をえた が,そのいずれもがスキナー教授を高く評価していたことからも,彼の調査がいかに綿 密,周到なものであったかが首肯される。

 彼の学問,研究に対する姿勢は,その天性の上に,日本の古武士を思わせる風貌さなが らに,自己にも他人にも極めて長し,厳格であり,彼の弟子は勿論,パートナーとしての 研究に参加した者も,余程の者でないと,正に骨破微塵にやっつけられたという。その面

目がいかんなく発揮されたのは,コーネ大学時代で,共同研究者として1年間行動を供に された東京水産大学布川謙二郎教授によると,当時「鬼のスキナー」というニックネーム で呼ばれたという。

 スタンフォードに移ると同時に,今の夫人と再婚された由。筆者の滞在中自宅のパーテ ィに呼んでいただいた折,初めて夫人にお会いしたが,若く愛らしい小柄な方で,背の高 く精血な教授とは正に対象的な印象をうけた。タイ,インドネシアのfield Surveyに随 伴され,よきasistantとして,教授の研究を助けたことで有名である。タイ料理が大好 で,自らも調理に腕をふるわれる由。ただ,日本には未だ一度も来訪されたことがないと のことだった。 (上掲写真参照,スタンフォード大学キャンバス内の教授の宿舎前)

 その厳格な教授が,筆者の滞在(約2週間)の間,極めて周到な受け入れスケジュール

を組んでおいて下され,同学のWolf教授,その他への紹介は勿論,助手及び大学院生に

命じて,フーバー研究所ほか,キャンバス内のすばらしい諸施設の案内と利用の便を計っ

てもらったのには只々感謝のはかなかった。後日この話を教授を知る友人にしたら,コー

ネル時代とは別人のように,角がとれたのかなと信じられないという顔をしたものであ

る。その一例を挙れば,私をホテルにわざわざ教授自身が送迎され,更にカリフォルニ

(20)

ア,バークレー校舎にまで片途3時間近くかかる距離を自から運転して下さったのだか ら……。そのご厚意に報いるには,このささやかな論著の紹介は,あまりにも小さいとい わなければならない。

 最後に現在教授がStanford. Univ.の自分の大学院学生に対して, Traditional Chinese Society というテーマで講議をしておられるが,そのReference Bibliographyを与え

られた。現在の教授の研究課題,対象,関心の所在を知る重要な契機ともなるので後日紹 介することとする。

 (3)華僑概念再検討のための3論文

     一同化問題を中心として一

 最近の新らしい東南アジア情勢の展開とりわけナショナリズムと,現地社会への華僑の 反応の仕方に関連して,「華僑」という用語,概念の内容およびその使用に対する様々な反 応がなされている。「華人」「華商」「第三民族」「在外同胞」等々がその一例である。

その中心的問題の一つは,同化問題をどうとらえ,いかに認識するかにかかっている。わ が国における論者としては,河部利夫教授,載国旗氏らがその代表といえるが,その源流と

しては,G. W. Skinner教授の詳細かつ広範な実態調査にもとつく実証に求めらるべき であり,それにならぶ立証を行った者は,わが国を含めて世界に見出すことはできまい。

 以下古典ともいえるSkinner教授の次の3論文を逐次紹介(抄訳)し,教授の同化問題 に対する考え方を探る。いずれもわが国においては未公開(和訳として)のものである。

 ①Chinese Assimilation and Thai Politics.(1957)

 ②The Thailand Chinese:Assimilation in Changing Society(1964)

 ③Java/s Chinese Minority:Continu.ity and Change(1g61)

 ①は前節で掲げたように,JAS Vo1. xv1, No.2.1957年2月号に掲載された,スキ ナーの華僑研究の初期のもので彼のアプローチがタイから始つたことを立証する。

 ②は,雑誌 ASIA 1964年秋季号に掲載されたもので,東南アジア各地(主としてタ イ,インドネシア,ブイリピン)の実証的研究をふまえた上での,同化問題での彼の所説 の展開を示すものである。上記2論文を比較研究することにより,スキナーの華僑の現地 社会への同化のとらえ方を,より明確にすることができよう。

 ③は両者の中間の時期,1961年JAS 3月号に発表されたものである。変るものと変らざ るものの追求をインドネシア,ジャワ華僑についてみたすものである。これと関連して,

わが国における東南アジア華僑問題を考察する場合の問題発生の始期について,大別して 2つの異る見解があることにふれておこう。

 一つは,古代末;期にまでさかのぼって,中国人の海外移住の源流をとらえ,華僑形成の

端緒とするもので,その代表的見解は,須山卓教授に見出される。いま一つは,アヘン戦

争(1840〜42年)後の清朝政府の門戸開放以降の,いわゆる近代史に限定しようとするも

(21)

       注(2)

ので,河部利夫教授に典型的にみられる見解である。また,激仲勲氏の華僑問題を世界 史的にみて,帝国主義段階において発生を1みたとする見解も,後者に含めてよいであろ

う。

 両者の見解の当否は別としても,華僑問題の性格規定ないし,それへの歴史的段階論的 視座として,19世紀中葉以降とそれ以前とが基本的に異る条件の存在することは,当然認 めてよいであろう。須山教授も,段階論的異質性を無視されるわけではないが,華僑問題 に基本的に一貫する「異郷流亡」的側面をより重要視される点に特徴が認められる。その 見解を要約すると,次のごとくに言える。

  i華僑の中に一貫していたのは,失われた郷里の再現と,同族結集の強い意識である。

 換言すれば,流亡者的「望郷の思い」が作用していたことを否定しえないであろう・加  えて,イデオロギー的に儒教に根ざす中華思想的な発想が貫かれている。」「かかる特  性は,決して固定化されているものではなく,時の流れに応じて客観的評価と,従って  観念に変化が起ってくるものであるが,しかし昔も現在も依然として歴史的過程を通じ  て存在しており,華僑自体が海外異邦人(Oversea−stranger)であるとの過去長年にわ  たる幾多の試練に堪えぬいてきた体験的形成物である。その意味では,歴史的連続的で  あり,伝統的遺制的であり,保守的残有物であるとも言える。換言すれば,かかる伝統  的なものは,今日では徹底的に変容を被る運命にあるとはいえ,近代化の過程には,あ  らゆる段階において必然的に近代化に進もうとする力と,伝統的社会の全面的近代化を        注③  阻止しようとする強力な力との活発な斗争が行われるのが一般的な現象である」と・

 この見解と,スキナーの所説とをかかわらしめるものとしては,インドネシアの華僑を 対象としたこの論文が好個のものとなろう。もちろん,その後の激動する10余年をへて,

政治,経済,社会の中における,変るもの,変らざるものの評価は,改めて追求さるべき 新たな課題であろうが,この論文はそのための一起点を与えるであろう。以下,節を改め て,紹介と検討を加えることとする。(文中ゴチは引用者のもの)

注(1)一部,後に掲げるLeyden大学での華僑関係リストと重複するものがあるが,そのままにした。

注② 河部教授はこう言われる。

  「……に由来する海外移住にまで言い及ぶが如きは,中国民族の海外交渉史と華僑研究と混同する   ものと言えよう。」『中国総覧』所収,567頁。

注(3)須山卓・市川信愛共著r華僑社会の特質と報派』1976年,長崎大学東南アジア研究所, 「導言」

  参照。

3.タイの中国人一変貌する社会における同化問題〈抄訳〉

 (1)不正確な人口推計

 タイ中国人の「人口推計」の歴史をふりかえることから,主題への接近を試みたい。ユ9

世紀初頭から今日まで,西洋および中国の研究者たちは,タイ中国人の数を,驚くほど一

参照

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