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自然、縁起、現実、個性と教育的人間像
その三,ペスタロツチの 探究 よりうかがいしるもの一
鮪学研究室 大 谷 時 中
目 次 序 説 主題について本論文の構想 本 論 探究 にうかがう仏教的心理
第一章 探究の内的自由に於ける我と自然 第二章 探究の自然的状態に於ける我と縁起 第三章 探究の社会的状態に於ける我と現実
第四章 探究に於ける内面的醇化と個性 第五章 探究の道徳的状態に於ける我と自性清浄心
結 語 智慧安息と悉有仏性
一両者は自然の帰結である一
序 説 主題について本論文の構想
ペスタロッチーの生涯に於て宗教的自覚にあいふれた第一の書は,1780年に於ける 陰 者の夕暮 であり,その第二の書が1797年に於ける 探究 委しくは 人類の発展におけ る自然の歩みについてのわたしの探究 (Meine Nachforschungen Uber den Gang der Natur in der Entwicklung des Menschengeschlechts)〃であることは周知の通りである。
前者については「その二,陰者の夕暮に於ける仏教思想的なひびきを中心として」本記要 第11号に於てとりあげてあるので,この度は 探究 を中心にして彼に於ける教育生命の 原理を主題にみられる私の仏教哲理が到達した一・連の心理に於て薫じ観るべく「その三,
ペスタロッチの 探究 よりうかがいしるもの」を設題した。尚,主題については本紀要 第10号に「その一,根本仏教の立場に於ける素描」としてとりあげたように,それは仏教 思想的教化の陶冶大系を企図したものであり,「その二」並びに,「その三」は比較教育 哲学の立場に於て入間形成の歴史的現成を更に理解し,尚一層,主題の内奥にふれようと することを意図したものである。
扱て, 夕暮 が人間の教育乃至陶冶の問題を中心としてその所論を展開しているのに 対して 探究 は政治,経済,宗教など広く人世一般の問題を,つぶさにとりあげている。
然し,ペスタロッチーに於けるこの両者の研究中心点は,岩崎喜一博士も亦その著 ペス タロッチの人間の哲学 に閑明している如く,両書は何れも「人間自然」の問題をll】心と たものであり,そこからペスタロッチーの思索と実践は,その感性的,経験的体験を通し て発展しているのである。事実彼が探究に於てとりあげた人間生活諸般の事象は迷蒙の人 間状態を理解せしめる手段であって, 目的はむしろ背後にある人間の陶冶によって,迷 蒙の民衆を救済することにあったのである。こころみに探究発展の基礎と考えられるこの
「人間〔」然(die menschliche Natur)」の問題にしても,そこにとりあげる 自然人 とは,それは夕暮と同じく 純一無雑な我 を示したものであり,1」.又人類の発展段階と してことづけた「自然的状態(Naturstand),社会的状態(gesellschaftlichen zustand)
道徳的状態(sittlichen zustand),なる三つの層も,それは正しく純一無雑な白然人と しての自己に於て現成されるとしている。即ち彼はこの三層は最高度の動物的純潔に於て
つの心の働きが調和統合する我に於て成立するものとなし,而も道徳的状態を以て最高の 理想とはするものの,その根本的基盤は白然状態に於ける純一無雑な白然人としての我に
より生成されるとみるのである。
惟うに彼の探究は期待される白燃人として次項に重要な意義を認めているようである。
(a)期待される自然人は晴れやかな気分から発するものであること。
(b)期待される自然人は自然状態の無邪気な快適さの中に存在すること。
(c)期待される自然人は「好意」に満ちており,ここに好意とは「我欲」のないことで
あること。
(d)期待される自然人は我欲に対する好意の優越により,没我の働きから「愛」の世界
に入り,道徳的となること。 隔
そしてこのような期待される自然人は,彼が人類の発展に於ける自然の歩みを,まことに 探究した結果到達した自然人たるものの根本条件であり,且又人間形成の陶冶像でもあり いかにも彼が創造せんとした人間自然の陶冶理想でもあると私は考へる。
かかる人間自然の陶冶理想を,自然,縁起,現実,個性と教育的人間像なる主題に照しな がら,諸法実相乃至自然法爾の仏教的教化理想よりうかがい知ろうとするところに本章の
目標がある。 一
本論 探究 にうかがう仏教的心理
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第一章 探究の内的自由に於ける我と自然
ペスタロッチーの探究は, 或一人の貴族にささげる書簡(Zuschrift an einen edlen Mann) から始まるが,この献詞より 人問像,それは私の個性の眼に如何ように映るで
あろうか,(Bild des Menschen, wie es sich meiner Individualitat vor Augen stellt)
の終りまでは,彼のこの著作に於ける序説としてみられると同時に,又この著作にとり あげられた問題の実質的方面の叙述とも考えられる。彼はその貴人を尊敬するが故に,殊 更にその名をあげてないのであるが,この人間は実は仮空の人物に非ずして且unzikerの 論断によればProf, Dalliel Fellenbergであり,彼は1779年から85年までSchenkenberg の上級法官(Obervogt)をやり,その後1798年までBern政庁の政活に参与し,1801年に この世を去った人である。このダニエル・フェレンベルクこそペスタロッチーが個性の眼 に映じた最高の自然人であり,社会人であり,道徳人であったのであろう。
その或る貴人への献辞とは如何なるものであったか。「それは或る国にご人の人間がい て二人とも別々の道に於て民衆のために真理を求めた,その一人は門地の高き貴人,他の 一人は低きにいて徒らに苦労している人であった。貴人は夜もねむらず毎日を民衆に捧げ て善を行なうことに努力,聴て彼の知慧によって,その国の民衆に幸福を与え,栄冠は彼 の頭上に輝き,有司百官は彼を信頼し,民衆は沈黙して彼に服従した。然るに他の一人の 努力は徒労に終り,その目的は遂げられず,況や民衆に奉仕することも出来ず,不幸と苦 悩は彼の真理の力を挫き,何等の感化力や権力もなく民衆はあげて彼を嘲笑した。」と云 う現象に対するペスタロッチーの疑問を,この貴人は次の如く解きほごしていることに於註1 て,彼ペスタロッチーの個性の眼に映る人間像は,この貴人に集中されたのである。即ち 貴人は,その徒労の人が真理の討究に対して不断の努力を重ねて居ることを耳にしたとき,
彼は徒労の人の茅屋を訪れて 貴方は人生に何をみたのであるか と聞いたところ,徒労 の人はっぶさに己が生活の履歴を物語ったので,貴人も徒労の人が知らない数多くの事情 を話した。この対話に於て,徒労の人は聴てこの貴人こそ,まさしく正義それ自体にふさ はしき人柄であることを理解したが,又一方,貴人も徒労の人の誠実あふれる経験的生活
に心をうたれたのである。ここに両人は感激し合い,遂に互に他を会得する。そして静寂 ◎P
のなかに新しい真剣な道が両人の眼に映し出されたが,まもなく二人が別れるとき,二人 の唇からは,おのずから次の言葉が流れて来たのである。
「吾等は二人とも善を求めた。而して吾等は二人とも間違っていた。
(Wir meinten es beide gut, und wir irrten beide」
註2
探究の始めに彼が誌した献詞の内容は以上であるが,吾人はここに何を知るであろうか。
この献詞の主人公である貴人,フェレンベルクはペスタロッチーと親交もあり,互に共 感を抱いた間柄ではあるが,この献詞の内容を内省してみると,そこには人間に於ける内 面的価値観の問題と人生空観の心持があらはれて来ることである。即ち人間生活というも のはその外面的結果により価値評価すべきものではなくて,むしろその価値は人問の内面 的世界の中に胎蔵されると云うことである。そこで内面的価値を尊重するということを考 えてみると,それは殊に他人格を尊重することから出発するが,他人格を尊重することは
自己を没することなくしては不可能である。価値観の転換をここに必要とするが,価値の 根本的転換には必然的に前に述ぶるが如き人生空観の心理が伴はれてくる。ここに貴人と 徒労の人をみても畢寛するに彼我ともにその空を観じてか我に価値ありとせず彼に価値あ
りとせざるにいたり,そこにこの献詞の偉大なる飛躍が今一次元高い世界にもたらされ探 究に於けるペスタロッチー独特の人間教育指針が定立されてきたのである。
人間というものは,おのおの 自己の中に存する真理 そのままが,我のすがたである とすれば,貴人と徒労の人とが互に他を理解した心境は両者ともに事々無擬の人生を感じ 得たことに他ならない,もとよりここには自己にとりのこされた特殊なものでさえ沈潜す るかも知れないが,総てそれは自己の普遍性を明かならしめる。然ればペスタロッチーは ここで人類は全体としては破滅の底に沈みっつあるのに個々人は何故に向上しっっあるの かと云うことを悟得したのであろう。更に彼は境遇と人間との関係も考え, そもそも環 境が人間をつくるのか,人間が環境をつくるのであるか と。この彼の問を内観してみる
と前者,環境が人間をっくるということは,それは所詮必然性の法則にもとつくものであ り,後者,人間が環境をつくるということは,それは能詮,自由の法則にもとつくもので あるが,元来,必然性の法則と自由の法則とは相互交錯して人生に於ける現実の我を生成 している。人類の発展過程に於ける自然の道を探究した彼が到達した現実の人間の根本間 題もここにあったのであろう。それ故に彼は「私はどのようにして現にあるが儘の私にな
ったのか。人間はどのようにして現にあるが儘のものになったのか。」と自問し,それは 結極,外部的には「強制と努力(Zwang und Muhe)」,内部的には「私の権利と私の幸註3
註4
福(mein Recht und mein Gl廿ck)」によるものと自答し,後者こそは私の自然に対す 註5
る第一の根本感情であるとしている。而もそこに於てさえ「それは私に代って,そのこと
(即ち自然の行為)をなすことは出来ない(Die Natur kann das nicht f葺r mich tun)」
筆者註 註6 と殊更に加筆しており,蝕に可能者の究極は自然に非ずして自然を主宰する自己にあるも のとして,深く深く我の根底をもとめている。更にそこに於ては,自然性による力が単純 であればあるほど我が動物的なる感覚も思惟も行為も健全になるが,他方その要求の度が 過ぎれば過ぎるほど単純性を喪失し浄福の状態は継続できなくなるとしている。故に人間
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は人間の我欲や自己保存の衝動に対抗するものが必要となるが,この対抗する力を彼は真
ヨ タ
理と正義に求め,それは我の内心に縁りて起っ我の心の作用に於てのみ存在するとみたの である。かように我の内的自由に縁起する人生観のなかには仏教心理に観じ得られる自然 法爾と共鳴する多数の系条がみられる。何となれば仏教一貫の道理,自然法爾も亦内的生 命を尊重するからである。
自然法爾にっき福島政雄先生は これは少しの無理もないという意味の言葉であろう と謂われているが,蓋し,それは諸法実相の世界を証得する人生最高の知見である。親鷺 はその 自然法爾章 に 自然といふは,自はおのずからといふ。行者のはからいにあら ず,しからしむといふことばなり。然といふは,しからしむといふことば行者のはからい にあらず,如来のちかいにてあるがゆえに,法爾といふは,如来のおんちかいなるがゆえ に,しからしむるを法爾といふ。 行者のよからんともあしからんとも,おもわぬを自 然とは申すそとききて候。 弥陀仏は自然のようをしらせんための料なり。 などと述 べているが,ここに 自然法爾 とは入間は自分自身の立場に於て自然の法である仏法を 実相し即心是仏の境涯にいたることが浄福えの道であることを意味しているのである。即 ち弥陀えの本願に於て自己は脱却し,そこに 我 が脱自的に統一されるということを親 鶯は申されている。探究の 貴入と徒労の人 もこの脱自的統一に於て相手を知り,我を 知り,自然を観じ内的自由の生命を悟証したものと考えられる。凡そ自然法爾に於て現象 化される脱自的統一の人格は最も自己に即して陶冶された結果の所産なるが故に徹底した 自我の自覚である。故に親鶯に於ては「親鶯は弟子一人ももたずさふらう。そのゆへは,
わがはからひにて,ひとに念仏をまふさせさふらはばこそ弟子にてもさふらはめ。弥陀の 御もよほしにあつかりて念仏まふしさふらうひとを,わが弟子とまふすこと,きはめたる 荒涼のこと W9・」の暗がきかれたのである・御人生8・年の生涯に亙り・心身脱落の 果に達し得た仏法の真理を謙虚に大衆路線の最中に提供した胸裸と,ペスタロッチ_が80 年の生涯の果に,再びノイホーフにかえり人聞愛の前には十字架をもおそれず,いよいよ 人類の浄福にその心を燃した胸裡を相ならべるとぎ,人間生命にささげる最内部の位相に 於て両者には有無相通ずるもののあることを私は切に感ずる。
第二章 探究の自然的状態に於ける我と縁起
人間には内面的な独立性の自由が存在することはペスタロッチーの信ずるところであ る。ここを基盤として真理と正義を考察し,そこから自然的状態,社会的状態,道徳的状 態,へと発展する。自然的状態について彼は「言葉の真の意味に於ける自然状態とは最高 度の動物的純潔の状態である。この状態に於ける人間は純然たる本能の子であり,彼は本
能に導かれて単純無邪気にあらゆる感覚の楽しみへとおもむく。」と云う如く彼の自然状
@ 註8
態とは動物的無垢清浄の状態のことであり,この状態にある人間は自然の本能に従い,全 く単純無邪気に生活する。叉一方,単純無邪気な自然人の生活は好意の生活である。この 自然人における好意の生活はそれ自体が社会的状態,道徳的状態に即自してゆくのであ る。自然人の単純無邪気な快適さこそ,社会的状態,道徳的状態の基礎であり,又そこに 自然人は真に自己と調和均衡することができる。故に真の調和均衡は我欲に対する好意の 優越によりてのみ可能であり, 人類もた掌この好意の優越に於て道徳的となることを知
る。凡そ彼がみた自然人の好意は我欲を優越して没我となり,その没我的な愛が,畢寛社 会生活,道徳生活の基盤となるのである。無邪気な自然人は,あくまでも 墜落せざる自 然人(unverdorbenen Naturmenschen)〃であり,邪気のある自然人はついに 堕落せる 自然人(verdorbenen Naturmenschen)〃に降下しているが・そこに非人間性の芽が生じ・
やがて社会的,道徳的に即自していけなくなる。
自然状態に於けるこのような動物的真理はかくして全く人間の無邪気な快適さに基因す るが,私はこれを仏教哲理としての「如」或は「器」の境涯になぞらへてみたいと思う。
何となれば自然人の無邪気な快適さは「即如・即器」の時間,空間に於て生きるからであ
る。
「如」には四つの意がある。即ち「①時間,空間を超越して変異せざること,〜本性・
真如,②現象のその儘のすがた,〜法爾如然,③平等無差別の意〜一如,④事物の相似を 表す場合〜ごとく」。叉「器」には「①根器・器量などと熟字し,教法を信受し又は是を 註9
タ際に修し得る能力を有する者を容器に磐へていう。②器世間即ち衆生を容れ得る山河大 地等をいう。」などの意味がある。何れの意を通してもそこには何か時間の動と永遠の静
註10
相即せしめる不可分離の性質が存在しており,それがそのままペスタロッチーに於ける 純粋自我としての無邪気と単純に共鳴してくる。「大乗仏教の根源である般若思想に於て は法体としての空を一つの大きな容器とみる。何時でも容器を空にしてなるぺく多くを容カラ
れようとする,遠離を般若波罹密と名つく所似もここに存する。」。人間形成に期待する
註11
仏教の有する教化理想の偉大さはここにあるが更に容器をカラ(空)にするところに 如 の世界が展開される。故に如実知見の解脱も考えられる。更に鈴木大拙博士は 如 を
次の如く説明している。 「如が仏教的に用いられるときは,ごとくの意味ではなくても ● ● ●
のが本然のままでの姿と云う義になる。日本語のままが該当する。自然法爾と同意語であ
● ■ ・ ・
る。如は必ず如実であり,真如である」と。般若思想が縁起する真如縁起も,それが唯一
註12
の真如,即ちロゴス的原理を宇宙及び我々人間の大源と考える点に於て積極的意味があ る。 器 も 如 と同じく大器小器,各々そのうつわに応じて自在に開けるものてそこ
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に入間の凡てを救済する。かくして如とか器とかいうものは存在と当為を統一し諸法実 相としての世界を悟証する即自的な人格のすがたを形成すものである。而も如と器は
空 に於て躍動するものなるが故に 真空妙有 の世界観を創造する。ペスタロッチ 一の自然人が到達する無邪気な快適さも,彼が〃私の探究の基礎(Die Grundlage meiner Nachforschungen) に於てとりあげたように,人間の知識,財産,権力,名誉,服従,
暫
x配,主権,目由,暴政,国法,好意,愛,宗教などの人間生活を如実知見に説きおと し,それらを一般価値の転換に於てとらえている。即ち彼は「私が快活に力強く毎日私の 獲物を確実に見つけるのと,年間勘定をしたり,礼状を書くとか,白己より脱皮して居る 人間とを比べるとき,その悦楽に何とへだたりがあるのだろうか。」と。又は「すべての 帳的関係における燗共通の偏頗と社会的状態に於ける彼蝦通の硬化とは,この状態 にある噸の自然力の内的彫化による帰結で I」と反省しそこに彼の鞭実践は一
w内面的発展をとげていくのであるが,このような彼の言葉は,仏教心理に於て色,受,
想,行,識の五蔽を無我として飛躍的発展をとげる空観に比するとき,更にその意味も開 かれてくる。蓋し彼ペスタロッチーの自然的状態に於ける我はまさしく縁起実想を観じた 人間に於てのみ具現されるものと言へるのである。
第三章 探究の社会的状態に於ける我と現実
探究によれば自然人が社会人に即如してゆくとき,そこには既に単純な享楽は消去され ている。即ち彼は主題として取りあげた 本書の本質 に「私の自然は単なる感覚的な楽 しみの地点にとどまることはできない。私は私の本質の故にこの感覚的な楽しみを私の努 力の手段にしなくてはならないし更にそれをこの努力を支えている目的の手段にしなくて はならない。そこからこの努力なしに自然のうちには存しないが,この努力によって,だ ●
ゥら又私の意志によって,私が自然のうちに持ち込む,さまざまの関係が成り立つ。…・
私は自から世界となる一そして世界は私によって(durch meinen Wi11en)世界とな る一私は世界から離れぬものとして世界のつくったものである一世界は私から離れぬ ものとして私のつくったものである。だが私は私を世界から,又世界を私から引き離す一 種の力を私自身のうちにもっていて,この力によって私は私自身のつくったものになる。
こうして私は世界の中で私自身を三様の仕方で感ずる。」と述べ,その三様のあり方とし 註15
て,
(a)自然がつくったものとして私は 必然性の作晶(ein Werk der Notwendigkeit)
であること。
(b)人類がつくったものとして・世界力りくったものとして私はア・レプスの頂きか削、
川に流れ落ちる水の一滴であり,聴ては永遠の大海の中に滅びるものであること。
(c)私自身がつくったものとして自分は自分の中に自分を彫りつける内面的醇化へと志 向するものであることQ
をあげている。この三様の感じ方は存在と当為を統一せんとする人間生活の表現てあるが それは仏教的人間観に於ける繋縛と解脱の問題を思はせるものである。仏教の人間観に於
ヨ
トは 繋縛 は所詮,必然性の原理に縁る一方 解脱 は能詮,意志の自由にもとついて 諸法を実相として解決しょうとするが,それは彼の三様の感じ方を悟得することであり,
そこに社会的状態に於ける我の現成がみられる。
゙は又「白然は白然の仕事を完全になし終えた。そのようにあなたはあなたの仕事をな
せ・(Di・N・t・・h・t ih・W・・k ganz g・tan,・1・・tue au・h du das d
ソ」と力説し・更に「あなた自身を知れ,そしてあなたの動物的自然(tierischell Natur)の深い理解の 上に,しかし又,肉の繋縛のただ中で神のように生きうるあなたの内面の力(innern K・aft)をも+分に囎してあなたを酉享化する欄・かかラと叫ぶが・これらの諜
の中に愈々自然的状態は社会的状態へと歩みを進めてくるg然し社会的状態の実際のすが たは余りに堕落した白然人によって形成されており,彼が終生の問題とした単純無邪気な 人間自然の影は極めてうすくなっている。然しこの単純無邪気な人間自然こそ動物的状 態,社会的状態,道徳的状態の三者を,又感性的経験的なものと神的理性的なものとを,
或は又存在と当為とを統一する〃中の位置(Mittel stand) をなすものであり・自然が本 質的な意味に於て発展する原動力となることは先にふれた通りである。然りながら社会的 状態の現実は事実,〃市民的半人間(ein bUrgerlicher Halbmensch) に占められペスタ
ロッチーの悲痛もそこにあった。福島政雄先生も「ペスタロッチの如きも原始陛の要点に 気づきながら実際の上については悲観し,その著 探究 においては社会的状態という利 ,
ネ性中心の暗黒なる国家社会の有様に悲痛せる趣がある」と申されている。実際,自然的
@ 註18
状態から社会的状態への移行になると,その基盤たる人間自然についても幾多の難解点に 到達するが,彼は即自然を以てそれを解決している。然しそれは第一の神である自然の創 造した純我の世界にわれが立ち還ったことにもなるのである。それ故に「自然の作品とし て私は社会的状態を知らない,動物的無邪気には義務もなく拘束もなく制約もない。……
しかし誰にもせよ,他人がそこで働き主張し歩む限り,もちろん私は社会的状態が厳格な 法と苛酪な法律とに従わされることを喜ぶだろう。」と云う彼の内的自由より発露する社
@ 註19
会的状態に於ける我,それは人間の裡なる法則がそのまま社会法則に移行しているすがた _一 ナある。以上のように人間社会の生活の上に,最後の統一を凡て より内部の , より高
き感覚 に求めるペスタロッチーの純粋な真理感覚を仏教の 智慧 は如何ようにみるか。
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仏教に於て智は闇那(梵,J飴na)で決断を意味する。それは即ち事理の是非正邪を弁 別する心のはたらきにして智慧のことである。仏陀に於ても悟界にいたる真因は智を得る
ヨ
アとにありとして修行の因に縁って到達せる仏の位層即ち仏果にいたるも猶も亦智を主徳 とするように仏教も智慧を最一ヒのものとして尊ぶQかの竜樹に於ける「大智度論」や「中 論」もその一典型である。故に智については仏教もその経典に於て複雑な分析をしている が,ここには根本智と後得智のこ二智によってペスタロッチーの 人間自然 をうかがい,
そこから社会的状態に於ける我を理解しようと思う。
根本智とは根本無分別智,或は無分別智,如理智とも云い,真理に冥合して能詮,所詮 の差別なき主客統一的な絶対の智慧のことであり,それは又後得智に対して存在し,後得 智を生ずる本なるが故に根本智という。然しそれだけでは何の意味も生じて来ない。 そ こに意味が生じてくるのは根本智が後得智を生ずると根本智は後得智に戻り,後得智が根
o o ● ● ■
杢智嬉津オう÷畢杢智信摩得智停專うという菩薩行である。菩薩行には必ずこのように往 と還が具せられているところに大きな意味がある。それは又性得と修得の立場に於ても同 様に考えられることて,これが大乗仏教の理想的人生観を表現した 無住処温藥 ともい われるものであり,又,騨に所謂,無分別の分別ではあるが,無分別の分別即分別の無分 別と説かれる所以でもある。かくして根本智は空ともなり諸法実相ともなって内的人間の 創造に力をいたしてゆく。ペスタロッチーが探究で云う自然人の単純と無邪気は仏教哲理 てみれば根本智即般若波罹密を思わしむる。ここに根本智を性得,後得智を修得として考 へてみると,この二智の往還極りなきところ,やがて 無住所温禦 の心境も生ずるが,
然し根本智は根本智としてそれ自体であり,後得曽は後得智としてそれ自体であることは 否定てきない。その根本智はペスタロッチーに云わしむれば,自然への感覚による自然的 状態に於ける我を限定するものであり,後得智は社会的状態に於ける我を限定するものと
考えられる。勿論ここに限定とは我を表現してゆくことに他ならぬ。 ● ● o … ● ● ● ● ● ● ● ● ● ・ ・
更に仏教哲理に於ける自利の内容は利他である。そこで白利完成が即ち根本智であると ソク
キれば・根本智は利他と不離になる・そこには即ちGesellschaft即Gemeinschaftの世 界が開けているではないか・ ペスタロッチーも亦「あなた自身を知れ。 (Erkenne dich
sel
ッ。」と諭が・それは我を知ることに他ならない・我・鵠を矢rlらずしては社会も なく道徳もない。たとえあったとしてもそれは堕落を生ずる社会であり道徳である。そこ には人問の又人間社会の知識,権力,名誉,服従,支配,経済,国権,自由,愛,宗教,等々のものは歪められて自然の道から離れてゆくのである。かく考えみるとき,彼が抱く 人間陶冶の基盤である自然の道,自然の方法,自然の秩序,自然の書が現実に与える示唆 は余りに偉大であるが故に,吾人は彼の教育思想を時に近く,又ある時は遠くに,みがち
なのである。然し偉大な人物の遺した思想は,時間,空間,民族,言葉,風土を超えて,
或は目的的に,或は手段的に世界の人類に影響している。
第四章 探究に於ける内面的醇化と個性
ペスタロッチーの探究は何よりも先づ自家生命の内面に於ける矛眉を発見し,その矛盾を 自己の根本問題としてとりあげ,そしてそこに 我れとは何ぞや と云う疑問を持ち出す ところから彼の人類の発達に於ける自然の歩みに対する討究が出発していることは既に知 ったところである。故に探究の内容は幾多の祉会問題,政治問題,経済問題にふれながら も,そこに相対的解釈をなさず,むしろ絶対的な内心の啓示に於て,彼独特の表現と叙述 により解決の端諸を我々に提示している。而も彼が提出した間題は,彼自身この 探究 が或る一…定の哲学的根本原理から出発しようとするものではないと言っているように何れ
も概念的思惟としてではなくて,人間としての体験と言榮とが相互に融化する人間生命の 位相をとらえているのである。 それは十八世紀後半, 一般に於て考えられた 自然の光
(illumination) ともいうべきものであろうが,ここに彼の探究は理性の法則からその歩み を進めたものではなくて,実に彼自身の生命の体験それrli体に於て,叉一方その内面に流 れる真理感覚それ自体に於て歩を進めていることがわかるが,このあたりに探究に於ける 内面的醇化が人間陶冶に対して絶対的な足場を設定している。1ド実 探究 には先づ主題 の〃私の探究(meine Nachforschungen) を始めとして,彼が力強く表現している 私・
自身の生業(Meiner selbst werke)〃など,「Meiner」「Meines」「Meine」「lch」とい う主体的言葉によって統轄せられる場面が非常に多いのであるがそれは,彼がわれの生命 の根本に出立して「我れ」に深く沈潜し以て人間の普遍相を悟得したためである。弦に我 れに即して世界を解決する鍵が彼に依り与えられるが,ペスタロッチーこそ人生を直観し
そこに人間の苦悩を理解し,我れの問題は即ち人類全般の問題であることを知った典型的 人間と考えられる。故に彼は云う。「自分は我が真理が民衆の真理であり,我が過誤が民 衆の過誤であることを確信する。」と。かくして彼の個性の眼には, 堀り下げられたわ
@ 註21
黶hというものがつよく我れの,内面に醇化されて映り出されて来るが,そこに於ける我 というものは全く個性的であり,人類的であり,道徳的でもある。然らば彼は如何にして 我を内面的に醇化するのであろうか。彼は,それは努力と克己によると謂う。彼によれば 努力と克己により人間は我欲を超越して好意の世界にたちいり,やがてそれは愛の世界よ
り道徳の状態に入ると。
事実彼は「私は私自身の力によって,私自身の作品としての私を私の自然によって可能 なあらゆる完成に高めなくてはならない。」と必然性としての自己を個性的人格にまで加
註22
大谷:自然,縁起,現実,個性と教育的人間像 87
エする人間の努力と意志を内面的醇化のよすがとして極めて重視しているのである。然れ ば彼は云う。「私の自然のうちにあると思はれるさまざまの矛盾および人類が本来の意味 の社会的状態の中にある限り,一般に免かれることなく,また免かれえない真理と権利と の欠除は,何れも私が単に人類の作品であって未だ私自身の作品てない陶冶の地点に立ち
とどまろうとし,而も私自身の内面的醇化の実現がとうてい不可能なこの地点で私を完全 なものと信じようとする私の感覚的動物的な傾向の結果である。」と。矛盾,対立という 現実の相において我れと云うものを鋭くよんだ諜であろ解
このような内面的に醇化された我れを仏教哲理よりながめるとそれは 真空妙有 の理 法にも明かな如く矛盾対立えの自我の飛躍としての無我,すなはち真個とも言うべきもの である。個性の絶対的なすがたとしての自我は無我に通ずるところそこに真個を現成す
る。凡そ価値の位層に於ては自我と称し無我と称するもその真個たることに於ては何等の 差異もみられないのであるQ
正法眼蔵現成公案に曰く「仏道をならふといふは,自己をならふなり。自己をならふと いふは,自己をわするるなり。自己をわするるといふは,万法に証せらるるなり。」とあ るが,翫に於ても姓の根糠を明力・に自己に帰している.このことは選妥㌔ッチー の神が人間に近接していることと近似した人間観のみかたに等しく,もともと自我の理解 ということも自己を遠くはなれては存在しないものなのである。更に 仏道をならふとい ふは自己をならふなり と説く道元のことばは脚下の照顧としてはかのソクラテスの 汝自 身を知れ(gn6thi seauton) にひとしく,それは又ペスタロッチーに於ける我れの内面的 醇化に明かに具体化されているのである。又道元の言う 自己をならふといふは,自己を わするるなり ということに対してはペスタロッチーも亦「没我(Selbstveleugnung)の
働きを以て愛(Liebe)とし,それは本質的な我に於て現成する。」と云っているあたりに次 註25元の同一性を感ずる。だから彼も造物主が創ったものとしての我れは 必然性の作品 で
あるが,更に自分自身がつくったものとしては 自由な作品 であり,それを内面的醇化に 於て現成せる個としているのである。更に道元の云った 自己をわするるといふは,万法 に証せらるるなり とは,私記には「万法に証せらるることは,自巳をみな万法につくる なり。」とあるように,ペスタロッチーが探究する自然もそれ自体,道元の万法に証せら るることになってくるのである。おもいここにいたれば彼の内面的醇化はまことに道元の
云う「霊知はつねにありて不変なり」,「霊知するが故に。これを霊知といふ,また真我 註26と称し,覚元といひ,本性と称し,本体と称す。」に近くなってくるのである。 註27
第五章 探究の道徳的状態に於ける我と自性清浄心
われはわれの内面に於て一つの強い力を有していると云うペスタロッチーの信条は,既
にいくつかの点で説明しているが,道徳的状態に於ける我も先づそこから出発する。即ち 彼は我々は社会的状態に於て道徳がなくても立派に生活できるし,又道徳などというもの が皆無でもお互いに善を行い,心を理解しあって各自が権利と公正を保持することができ るとしている。「道徳は全く個人的である。それは二人の間に成り立つことはない。何人 も私に代って,私は道徳的であると感ずることはできない。(Die Sittlichkeit ist ganz
individuell;sie bestehet Dicht unter zweien. Kein Mensch kaDn fUr mich fUhlen Jch bin. Kein Mensch kann fUr mich℃fUhlen,Ich bin sittlich)」と云う如く我れの内面的
註28
醇化に於て道徳は現成し,そこに彼の道徳は全く我れの意志の自由に於てのみ発露する。
かくて価値の k産.者として我れの絶対性が定示される。
長田新先生ほ 寸究に於けるペスタロッチの倫理説は,カントの批判哲学に一致した。即 ち人間陶冶は外から来る乙のではなくて,内而的自宜から形成せられるもの,1停等が児童 を教ふる…切の八礎は,本来児童自身の裡にあるものとペスタロッチーはイえた。故に彼
(ナトルプ)はゲルトルードの家庭教育を叙して「子供は嘗て学ばざりしにも拘はらず,ゲ 筆者註mL・トルードの示したものを悉く捕えた。これ彼女の教授が何かを児童の心のうちに投げ込
んだのではなくて,ただ児童自身のうちにあった力を発展させたばかりである・」 1とナ ll主29。L30
トルプ(P.Natorp)の意見をとりいれて説述しているが,いかにもペスタロッチーに於け る神の感覚は白己を堀り下げる度合に応じて存在し,そこに神えの尊弧は又自愛に化し,
かくして神と我れとの関係は我れの内心と我れとの関係でもあり,神を信ずることは我れ の内心を,畢意我れが信ずることにもなるのである。更にペスタロッチーは,「道徳的本 質としての私は,ひたすらわれ自身の完成に向って進む。そして私の自然のうちに存する
と思はれる多様の矛盾を,私自身の中で解消させることは,ただ私が道徳的本質であると きにのみ可能となる。」と云うあたり,彼の意味する道徳的状態の全貌を表現しているもの
Ii主31
と考へられる。このような我への内面的醇化に於てだ成される道徳的状態に到達せんがた めには,吾人は吾入の無知による迷妄や吾人の不正の障害というものを,幼少期に真理や 正義として誤認してしまうようなことを極力回避しなければならない。それには幼い時期 に単純と無邪気を培い,以て子供らしさを保護する必要があり,そこに修学期というもの の存在忌我もあり,かくして凡そ「乎人の幼児期,修i学期,成人期について真理であること が,その儘,我々の動物性,社会性,道徳性に於ても冥理となることをペスタロッチは強
く主張しているのである。かくの如く彼の謂う道徳的状態に於ける我れは,あくまでも我 れの内面性にもとつくが故に,人聞の自然的状態に於ける自然性も道徳的状態に結着する
ことが極めて容易である。然し…方に於ては社会的状態の暗い影は,なかなか道徳的状態 に結着しにくいものとペスタロッチーも亦みている。このことはルソーの自然観に影響さ
大谷:自然,縁起,現実,佃1生と教育的人聞像 89
れる点も多々あろうが,又彼自身が当時の世相をみて社会の暗さをしみじみと感じたこと にもよるものと思われる。彼が人問の知識,取得,財産や資産,社会的状態,権力,名 誉,服従と支配,社会的権利,貴族,王権,自由,暴動,国法,好意,愛,宗教等を通し て人類の発展に於ける自然の歩みをつぶさに探究した所以も社会的状態の1倍さを明るくす るためであり而も:社会生活現象としての権力,名誉,服従,支配,貴族,商業と取引,王 権・舳など畝のようにみていること1・於ても彼の眼に映じた社会的状態の㈱が,如 何に低次であったかを示している。
(a)勧(M・・ht)について1ま「燃の編としての私は・勧の力1ま認めるが,勧 の権利は認めない・ CAls Werk der Natur erkenne ich wohl die Gewalt der
Macht, aber nicht ihr Recht.)」
(b)名誉(Ehre)については[撚の作品としての私は名誉を知らない。(Als Werk
註32
der Natur kenlle ich die Ehre nicllt)」
註33
ic)服従(Unterwerfung)については「白然の作品としての私は服従を知らない。
(A1・Werk der N・tu・k・・n・i・h k・in・;…)動物的鮒β気と服従との共存は狼と
羊が並んで同じ草を食う夢の国の風景である。」(d)支配(B・herrschung)}・ついては「燃の講として鍬よ支配を矢嚇い.動 物的無邪気は他を支配しない。(Als Werk der Natur erkemle ich sie nicht;
tierische Unschuld beherrscht nicht)」
(e)貴族(Ade1)については「動物的無邪気(Tierische Unschuld)は貴族を知らない。」
註35
(f)諜(H・・dlu・g)については「自然の綿としての私は,諜を矢。らない。翻的
無邪気は 商業を知らない。」
(9)王権(kronrecht)については「動物的無邪気はこの権利が何であるか知らない。
註37
自然は王冠を知らない。」註38
(h)舳(Freih・it)については「自然の傭・としての私は動牛勿的舳(tieri,ch。 Freih。it)
を要求する。人類の作晶としての私は市民的自由を要求する。私自身の作品とし
ての私は道徳的自由を要求する・(als Werk rneiner sebst auf sittliche.)」と。
ド
ネ上をみても知られるように,彼に於ける自然の偏として伽轍的状態を猫翫 いのである。それは彼が社会的陰影の悲惨や低級を余りに知ったがためであり,奈辺に彼 の内的自然観は極度に道徳的状態へと速度を強めているのであるが,ここに彼独特の理想 議が生れ・又燗教育に対する彼特有の鞭的陶冶の原理がみられるのである。かくし て彼の道徳的状態は内面的に醇化された我れの顕現により,ひたすら没我,無欲の状態と なり,そこから好意,愛,宗教など社会的状態の明るい面へと伸展し,道徳の世界へと流れ
込むのである。然し,ここに言う好意,愛,宗教は堕落した社会人のものとは全く異なる もので,例えばここで彼がとりあげる宗教については自身次の如く云っている。「基利督 教は全く道徳である。だからそれはまったく個々のノ澗のイ ・1納人格の事がら(di・Sach・
der Indivldualitat)である。」又, 「人類の作品,国家の作品としてのみ宗教は欺隔であ
註40
る・た・粕身の偏としてのみ緻は真理である・」轟
以上の如き道徳的状態に於けるわれの理解を仏教哲理に於ける白性清浄心にうかがって みよう。大乗仏教の理想的概念の一つである真如(Tathata)とは宇1il万有に遍通する常 住不変の智であり,偽妄ならざる真実の義と改転なき如常の義から,これを真如と言うの である。馬鳴の著作とされる大乗起信論によれば「心真如者即是一法界,大総相法門体。
所謂心性不生不滅。一切諸法唯依妄念而有差別,若離心念則無一切境界之相。 (心真如と は即ち是れ一法界にして,大総相,法門の体なり。謂う所は心性の不生不滅なり。一切の 諸法は唯妄念に依りてのみ差別あるも,若し心念を離るるときは則ち一一切の境界の相無な ヨ
黷ホなり。)」とあり, 真如法性 に縁る法については,「是故一切法,従本巳来,離言説 註42
梶C離名字相,離心縁相,畢尭平等,無有変異,不可破壊,唯是一心,故名真如。 (是の 故に,一切の法は,馨より琶葉,言説の相を離れ,名字の相を離れ,心縁の相を離れ,畢寛
ことさ
平等にして,変異あること無く,破壊すぺからず,唯是れ一心なるのみなれば,故らに真如と 名つく。)」と説かれているが,ここに一切の法は凡て真実とみなされ・故に真の如であ
註43閨C諸法実相となる。更に又真如法性をみるに,そこに於ては我の心が外界の影響によっ て虚影となることをつよく警戒している。ここでペスタロッチーの道徳的状態に於ける我
● ● ● ● ● ● o
れをながめると,それは真如法性の理より 離言真如 の現成とみられよう。事実,彼に於 ては「哲学は余業であり」,まことに人格の人として,その思想の実践者であったのであ る。その述作をみてもこの探究のみならずなぺて直接的直観と体験によるものが多く,そ
註44
こにあとから概念的沈潜もみられるのである。
以上の如く彼に於ける我れはまさしく彼が直観と体験に於て深く万象の中に融化したあ かつきに現成したものであるが故に,そのわれは社会的,道徳的の位層に於ても確固たる 土台として我を支えていくのてある。彼の探究が我を内面的に醇化して没我,無欲の状態 にもちこみ,そこから好意と愛え,或は道徳や宗教えと自巳をはこぶすがたは,ひるがえ せば法がはこんで自巳のなかに入ったすがたである。佑孕哲翠g専夘々ミ窄な㍗不窄1三なう
(真空妙有● o ● o)9轡し}∫替ぞ㍗才丁(弾得}3「「窄(興)空や窄(摩撃)1テ料層
のとも考えられる。いつれも人倫至高の相たることに差異はない。これが自性清浄心の典● ● ● ● ● . . o
型である。この自性清浄心を更に深めるためには般若波羅密に関係せしめる要がある。般 若波羅密,、くわしくは般若波羅密多(Praj舶paramita)と音訳するが,知度こも訳され
■
大谷:自然,縁起,現実,個性と教育的人間像 91
大乗経典の根本理想である。それが自性清浄心に直接関係する所以は,そもそも般若波羅 密は般若皆空を実相とするがためである。般若皆空に由来する自性清浄心は本来自受用三 昧に於て即身成仏の義ともなり,故に即身道である。そこに 法をみる者は我をみる。我 をみる者は法をみる。 と遺された仏陀の言葉が現象化される根拠がある。ペスタロッチ 一が我れの内面的醇化に於て単純と無邪気の理法を体験し,そこに諸法実相としての自然 を現成し,それを基盤として人類の発展段階を自証反省したゆきかたをみるに,そこには 自性清浄心に於ける泊性・) 創撒と無1琳〃1こ対する論及の余地は残すも。)の,それ が聴て一切世問の根源となる我れの開眼であることに於て,探究の道徳的状態に於ける我 と仏教哲理に於ける自性清浄心とを対比せしめる意義をみるのである。
結 語 智慧安息と悉有仏性
一両者は自然の帰結である一
私は私自身の力によって私自身の作lll占としての私を私の白然にとって可能なあらゆる 完成に高めなくてはならない・ ということが探究に於ける自己陶冶の金科玉条であるこ とは既に述べ樋りである・そして御ヨ射その法理にしたがって一生を全うした.波瀾 騰を次から次えと受けても彼の本質1よ微動だにもしなかったということ1まその生涯を みれば明らかなことである・「梱よ・ペス夘ッチの偉大さを,氏の心構え1。求め,氏の 生き方に探ろ)とするのである。即ち如何ような生き方でも出来たのに,あのような生き 方をしなければいられなかったという所1・・氏の真の1軟さがある拷えるのである.そ れは氏の行マた事業の偉大さではなくて,氏の性格の偉大さである。」と田中寛一博士は qべているが・柵・心購者として彼の人格を蜘、表現してい慧㌘鶉ペスタ。ッ チ肖の鰍さはその諜のf轍さにグトずして・その人間の偉大さにあることは,彼の事業 の失敗を責める人は後世玖もいない・むしろその失敗の連続に同 1青と肝を寄せて居る 事実に於ても明瞭である。幾多の事業にうちやぶられ乍らも彼は愈々,自己を信頼し,自 己の道を堀り下げるかたはら・生命の働く限りその生業を敷衡していった。そして人生五
+年を超えてようやく達した彼の道呂よ・それが〃探究 に於ける人類の発殿階に於け る 自然の道 であったのである。
扱ていままでの叙述をふりかえってみて,彼の言葉を一つ一つ概念的に統括すること は・その精神の深淵広大なるた副・極めて騰であることを知った.然い・ま私なりに私 が理解した程度に於て課題に即して私の反省をまとめてみよう。
・ そこで今一度 私は私自身の力によって私自身の作品としての私を私の自然にとって可 能なあらゆる完成に昂めなくてはならない。 と言う彼の心情にふれてみたい。前言せる
■
92 茨城大学教育学部紀要第卜二号
如く彼の世界観はすぺて〃自巳自身の所産,(Werk meiner selbst) であったことに異論 をはさむことはできない,ということは, 簾て私は環境が人間を作ることを知ったが,
同時に私は人間が環境をつくる。 ということを知ったと云うペスタロッチーの言葉であ る。元来,人間形成の主体については人により異なるが,兎に角彼は 私の個性の眼に は,それはただ,このようにしか映らない。 として専心白分の道を開拓し,以て入間と 環境との統合的一元化をはからんとしたのである。そして彼は近代教育学の実践的相始者
となったがそこに自己自身の所産に於いて彼が求めたものは何か。これについては,長田 新先生は次の如く説いている。即ちペスタロッチーに於て決定的なものは,
「(a)単なる自律思想ではなくて更に高貴な力である。
(b)道徳命令ではなくて愛である。
(c)個人主義ではなくて,内面性である。
(d)二元論ではなくて,高き精神と自然的基礎との結合てある。」と。
@ 註46
上記に於て(a)に於ける 高貴な力 とは何かとしきりに私は考えた。畢尭それはペスタロ ッチーの全生命,全教育思想を意味するものであり,それを分析すれば, 愛と内面性 ,
精神と自然 との統一ということになる。即ち自己自身の所産に於て彼が到達したわれ は先づ第一に現にあるが儘の私てあり,それ故に内的自由な我であり,内面的価値観を胎 蔵した我であった。その我は自然的状態との接触に於ては無理のない即自的な生命へと発 展して,そこに単純と無邪気の世界を現成したのであるQ然しそこに単純と無邪気は既に
努力と意志 を志向し,努力と意志は 自利より利他 へ 自愛より他愛 へと醇化 し,それは矛盾をば自己の内心に於て解消しつつ社会的状態へと生成発展,臆て我れの内 面的醇化は白己の問題即人類の問題を形成し,以て,自己をならうことにより,価値生産 者としての道徳的状態に達し,かくてそこに於ける我は神を我れの近くにみるにいたるの である。故に動物的無気は詐らず,祝福もせず,呪咀もしない。又瞳落せる自然の作品と
しての宗教は迷である。人類や国家の作品としての宗教は欺隔である。ただ私自身の作品 としてのみ宗教は真理であると彼は云う。彼こそ人間に即して人間を人間たらしめた「師 匠の真理。(Meisterwahrheit)」である。
註47
このように彼が自己自身の所産に於て探究した人類の発展に於ける自然の歩みを本論文 に於ては仏教哲理にみられる 自然法爾 或は 縁起実相 よりながめ,そこに真如即真 我を反映し以て自性清浄心にたちいたらしめた。然しここに幾多の無理もみられる。福 島政雄先生はその著:〃教育生命の原理〃に「しからば,ペスタロッチの人道主義は教育思 想の根本を示すものとして真に深きに徹しているのであろうか。ここに東洋の精神殊に大 乗仏教の精神を振りかえって更に一歩を進むるの要を感ずるのである。大乗仏教の精神は
o
大谷:自然,縁起,現実,個性と教育的人間像 93
人道に帰するのであるけれども人道主義ではない。ペスタロッチは人道主義という色彩が 強い。ここにその相違点がある。もしペスタロッチを以てソクラテスに比ぺるならば如何 であるか。ソクラテスは人道に終始した人である。しかも人道主義者ではない。ソクラテ スは如何に悲痛のどん底に落ちても常に人生に遊戯するという余裕を保持している。・
中間略……しかるにペスタロッチの生命には遊戯の趣はない。悲痛なる趣を以て一貫して いる。もとより 陰者の夕暮 には宗教的胱惚境とも称すべきものがあって悠々たる境地 が全く無いのではない。しかしそれは家庭の人ペスタロッチとしての一種の法悦境であっ て,人間社会全体の問題となればただ悲痛の趣が勝って来る。ここにペスタロッチ独自の 境地があると共にその人道主義の不徹底境があるとおもう。」と述べているが,ここに教
註48
育と宗教の問題点或は相違点が存在する。即ちソクラテスや仏陀の本体は宗教的信条であ って教育的活動ではない。何となれば宗教的信条というものは実用,乃至効用に於て何等 割り切る必要もなければ,又割り切れるものではなく且つ宗教の極致は信条にあって信条 は時に理性を超えるから。然るに教育的活動というものは実用,乃至効用に於て何等かの 割り切りを本質とする。故にそれはあくまでも人間の科学的な理性に俣つべきものであ
り,単に信条の解決するところではないのである。舷に私は福島政雄先生の所見に思うこ とは先生が宗教的心情を余りに高く教育作用の上に位置づけたのてはないかと愚考するこ とである。惟うにペスタロッチーはたしかに彼の当時に於ける社会的状態にはしみじみと 暗さを感じている。然し彼は神には逃避しなかった。そこに彼は 師匠の真理 として後 世にその名を遺したのである。これを 煩悩の徒 とみることは宗教的立場であって教育 的立場ではない。教育の主体性に立てば,彼ペスタロッチーが人道主義者であって人道そ れ自体ではないところに彼の意義がある。私は彼の 探究 にとりくんで,むしろ教育作 用に於ける宗教的なものの意義をつぶさに理解し得たのである。何故なれば本研究 その 2 にとりあげた結語,「この課題に於て陶冶と教育を如何に観ずるか。」に於て明らか
註49
にしたようにペスタロッチーの人間形成は,教育(Erziehung)に先行して陶冶(Bildung)
の世界を非常に重視しているからである。では陶冶の世界は何故宗教的心情に関聯してく るのであろうか。それは教育作用を内からの作用と外からの作用とに分けてみるとき,陶 冶的作用は全く内面的であるからである。それは心情の答え得るところではあるが,理性 の答え得るところでないこともある。彼が人間形成の根本義として陶冶的精神を強調し,
それを人類救済の心情として実践したすがたは,いかにも道元が 悉有は仏性 なりと人 間の真個を尊重し,やがて知解の宗教を超越して身心による生命の教化に入ったすがたに 比すべきものがあり,何れも神を仲立とする本然の教育活動であることを私は痛感するの
であるQ
幾多の人々は自然的状態に於ける感覚的な夢を追ひ少しもそれ以上のものを有しない。
又幾万の人々は社会的状態の欲望満足を事として少しもそれ以上のものを持たない。そこ でペスタロッチーは唯一人この世界を救済する純粋の陶冶的世界を探究したが暗い社会の 陰影は彼を鉄鎚でうちくだくのみであった。然し彼は愈,人道の樹下に身を投じそして人 道主義の大樹を養育せんとしたのである。「私わ死んでも猶,人道の大樹の根を強めた い。」と云う彼の強烈な理想主義,それは既に宗教的理想主義ともいうぺきもので,生成
註50
せんとするもののみが救済される相対的世界であるところ仏陀の絶対救済と同じ意味では
キ三
ないが,やはり美しい聖らかな人間性の最も偉大なるものに於て人間を現実に救済してい る。それは蓋し教育道が到達すぺき人間主義の理想郷であり,智慧に安息せんとする人間 万有のすがたでもある。この智慧に安息することと仏性の悉有性とは両者ともども,それ は白然の帰結にまたなければならない。 (1962.10,31)
註1 H.Pestalozz1:Gesammelte Werke. Hg. von EBosshart, E.Dejung, LJくemter, H.Stettbacher,
10Bande, Rascher, Z廿rich,1946
(以ドH.Pestalozzi Gesammelte Werkeと略す)
Bd.8,(S.37)
註2 ditto (S.38)
註3 ditto (S.107)
註4 ditto (S.108)
註5 ditto (S.108)
註6 ditto (S.110)
註7 歎異鋤第六条
註8 H.Pestalozzi:Gesammelte Werke. Bd.8,(S.121)
註9 東方書院編輯部編纂 仏教辞典 839頁
註10 同 上 171頁
註11拙稿その2 第3章 我亦仏心一個性開顕参照 註12鈴木大拙著 禅思想史研究一盤珪禅第三 悟りと悟る
註13H.Pestalozzi:Gesammelte, Werke。 Bd,8(§,132〜133)
言主14 ditto (S.134)
註15ditto (§191〜192)
言主16 ditto (S.196)
訟17 ditto (S.196)
註18 福島政雄著 教育の根本原理 第三章発達論
註19HPestalozzi:Gesammelte Werke. Bd.8,(§,211〜212)
註20ditto (S.196)
註21ditto (S.40)
註22 ditto (S.247)
註23ditto (S,243)