垣 内松三研究
一教 材構造観 と読解指導過程 一 後 藤 恒 允
A St udyofMat uzoKai t o
‑
Hi sSt ur c t ur alAnal ys i soft heTe xta ndSpe c i al Te a c hi ngPr o gr a m oft heRe a di ngCl a s s ‑
Ts une yo s iGo t o
1. は じめ に
学習指導過程 は, 目標達成のため に意図 された 学習指導の継時的,坐‑的 な営みで あって, その 成立の要 因 としては,学習者の主体 的条件 ( 学習 過程),学習一指導の内容 の論理 ( 教材) ,教師の 主体 的条件 ( 指導過程 )などが あげ られ る( 1 ) O この うち教材 は,学習活動 を成立 させ るための媒材で あって,学習指導の 目標 を規制 し,学習指導過程 を決定す る ものではない。 しか し,大正 時代 は, 教材の特質 ひいては教材研 究が教法 ( 指導過程 ) を決定す る とい う考 え方が浸透 していた。垣 内松 三氏 も,指導者 自身の 「 教材の理会」 を教法の本 質 と観 る立場か ら,「 教材研究 を離れて教法の研究 は成 立」せ ず 「 教 法研 究 は教 材 か ら誘 導 せ られ る
(2)」と教材の論理 を重視 した。垣 内氏の教材本質 論 は,形象理論 に基づ く 「 教材の機構」の解 明で あ り,読解指導過程 はそれ と表裏一体 をなす 「 理 会の機構」の究明によって体 系化 された。 「 機構 」
は 「 教材の機構」 ( 形象の機構) に即 していえば, 教材の内面構造 であって,言表 と意義が有機的 に 統一 されて結晶 している多層的 な秩序 をい うO標 題 は したが って垣 内氏に限 っていえば教材機構観 と読解指導過程 となるが,垣 内理論 の特質 と課題 を論ず るこ とは,近代 国語教育論 史において読解 指導過程 を学理的 に究明 したその始源 に遡 るこ と
にな り,今 日の読解指導過程 を相対化 しつつ前進 させ てい く資料 を得 るこ とになる。
拙論 は,近代国語教育論史 を,教材の本質観 ・ 教材構造観 と学習指導過程 との関係 か ら考察 しよ
うとす る試論 の基点 となる ものである。以下,垣
内氏の教材本質 と指導過程 との関係論,芦 田恵之 助 氏の読み方数式への論究 を中心 に,影響 関係や 批判 をとりあげて考察 し,垣 内氏の形象理論 の今
日的意義 につ いて述べ てい きたい。
2. 形象の機構 と理会の機構
垣 内氏の形象理論 につ いてはす ぐれた先行研究 が多数発表 されているが,野地潤家 氏の論考( 3 ) に 示唆 を得つつ 「 形象理論 と国語教育」 ( 4 ) に依 って,
形 象の機構 と理 会 の機構 との 関係 にふ れ て み た い。 「 形象理論 と国語教育」 は , 『 国語 の力』刊行 十年後 の昭和七年,形象理論 と読方教育 との実践 的契合 を理論的 に確認 しよ うとした論考 である。
さて,垣 内氏の業績 は, 内外 の理論 を摂取 しつ つ独 自の文章本質論,文章構造論 を構築 して,内 容 と形式 を一元化 し,読 みの 「 対象の統一」 を図 るこ とによって 「 認識の統一」 を明 らかに した点 にある。したが って , 「 教材の本質 に関す る理論的 考察」 である形象理論 が 「 解釈学 ( 或 は批評学) と直接 関係 を有す る」読方教育 と直接 に結 びつ け られが ちだ った それ まで の誤解 に対 し,形 象理 論 と読 方教育 とを結 ぶ 関係 をあ らため て提 示 す る。つ ま り , 「 形象 」‑ 「 理会」 を 「 表現 」‑ 「 再 現」の作用の問題 として捉 え , 「 読方教育の指導の 目標 を再現 に置」 いて,言表の意味化 を理論 的に 究明す る。 この 「 再現」 とい う明確 な指導 目標の 設定 は垣 内理論の凝縮 として注 目されねば な らな い。垣 内理論が 「 再現 の性質」 を,叙述的機構 ・ 表現的機構 ・象徴 的機構 とい う三層構造 をもつ形 象の機構 に即 して , 「 直観 」 「自証 」 「 理会 ( 証 自証 ) 」
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秋田大学教育学部教育研究所 研究所報第 24 号 1 987
年3 月
とい う三段階の指導過程 に対応 させつつ解明 し, 体系化 していた ところに 「 形象理論 と国語教育」
の進展が あった。
読解指導過程 の第一段階 は,叙述的機構 におけ る 「 形象の直観」 である。
垣 内理論 にあっては,形象の直観 は究極的 には 象徴的機構 としての文 の原現象 を看取す るこ とで あった。つ ま り,垣 内氏は,形象の三層構造 を, 記号 と精神 との「 結 晶の構成の段階」か ら , 「 集積」
( 記号 ‑意味) , 「 原集積 」( 記号 一意昧‑意義) , 「原 現象」 ( 記号一意義) として捉 え , 「 一言一句句読 の微 に至 るまでそれ を象徴 的機構 の中に看取す る こと」す なわち, あ らゆ る記号 に表現意図 ・意義 を看取す るこ とを目指 した。
二の段階 では,文 の集積 を看取す るこ とが特性 とされ る。つ ま ( ),形象の経験的空間面 ( 文字 ・ 音訓 ・言語 ・文章) を通読 して 「 何が書 いて ある か」全体像 を直観 させ るので ある。垣 内氏の業績 はセンテ ンス メソ ッ ドを国語教育論 として導入 し た点 にあったが , 『 国語の力』 において, 「 直観 の 作用 として, その高次 的 な もの を要求」 しが ちだ ったこ とを反省 し, この段階での,文字や音訓 な どといった 「 具象的 な手がか T )」 を重視 しよ うと す る姿勢 は注 目されねばな らない。形象の直観 が, 形式面 を軽視 して新 内容 主義 になった とい う批判 にこたえ,形象理論 と 「 指導の実際 との結合 が緊 密」 になるように願 ったのである。
読解指導過程 の第二段階 は,表現的機構 におけ る 「自証」で,文の原集積 を看取す る段階 である。
表現的機構 においては,意味 は意義 に接近 しなが らなお 「 不定性」 の状態 にある。 そこに指導の困 難 さもあるが,語句の深究 を手かか りに,前段階 での直観 を検証 し , 「 単 に 『 分か った』といふ』だ けでな く , 「自分 の言葉 として語 り得 る ところ ま で」 読 み を発展的に深化 させ ねば ならない とす る。
ここで垣 内氏が, 自証 の 目標 を 「 『 再現』を吟味
して,文 の意義 を求む る学習の過程 を示す もので ある」 と規定す る 「 過程」 の語が注 目され よ う。
これは,意義 に至 る無限の層が表現的機構 の中に 存在す るこ とを意味 し,表現的機構 か ら象徴 的機 構へ は , 「 無」 ( 零位 ) を突破せ ねばな らない こと
を暗示す るか らで ある。 したが って垣 内氏は,文 の原集積 を看取す るこ とが なされた として も 「し か も意義 の探究はなは剰 されてゐる問題 である」
とす るのである。
また, この段階 における読方指導 で,読 み を倫 理 ・美学 ・宗教 といった 「 言葉 の教育」の 「圏外 に転向」 させ る方法 を排斥 し, あ くまで言語 に即 して意義 ( 精神) を把握すべ きだ とした こ とは, 垣 内氏の文学理論 の研究方法 とか らめて注 目され
よう。
第三段 階は象徴 的機構 にお ける理会 ( 証 自証) である。
形象機構 においては叙述 ・表現 ・象徴 の各機構 が基本密度 ・基本秩序 ・基本操作の函数 関係 によ って統一性 をもつ。つ ま り,基本密度 ( 原現象 に お ける意義 と記号 との結合作用)が, 基本秩序 ( 三 層 を貫 いて, そこに整然た る統一的秩序の あるこ とを表現す る もの) によって方向づ けられて,塞 本操 作 ( 基本密度 と基本秩 序 とを充実せ しめ,具 象化せ しめ る作用) によって統一性 を もつ。 この とき,叙述的機構 ・表現的機構 は象徴 的機構 に掩 有 されて記号 は意義 の象徴 的な もの として生 きて くる。理会 ( 証 自証) とは, こ うした高次の段階 で記号 と精神 ( 意義) を‑如の姿 において把握す るこ とにはか な らず,垣 内氏に とって こ うした精 神活動の鍛練 が 「 読方教育 の指導の根本命題」で
あった。
以上の三段階の読解指導過程 は, しか も 「 単 な る連続ではな くして,各層の螺旋的向上」 によっ て緊密 に結 びつ くものであった。 これは形象の機 構 において層位 のほか に層序 と層準 とを見出 した こ とに対応す る。野地潤家 氏は垣 内氏の指導過程 観の独 自性 を 「 指導過程 を,指導の層序 として考 え, しか もそこに ,1 叙述的機構 ・2 表現的機構 ・ 3 象徴 的機構 の三層序 の螺旋 的向上 を兄 いだろ う としてい る ところに」 ある と評価す る。原現象の 把握 を目指す こ とを軸 に,指導過程 の各段 階で「 再 現」の深化 を図 ろ うとす る一貫 した志 向性が重視 され るこ とになる。 この志 向性 は,形象理論 に依 る と否 とにかかわ らず,国語科教育 の指導原理 と して尊重 されねばな らないであろ う。
大正十一年の 『 国語 の力』で示 された読解指導
過程 は( 1 ) 文意の直観 , ( 2) 構 想の理解 , ( 3) 語句の深
究 , ( 4) 内容の理解 , ( 5) 解釈 よ り創作へ とい う順序
であ り,整理 されて( 1 ) 文 の形 ( 文 の直観 ・構想の
理解) , ( 2) 言語 の解釈 ( 語句の探究) , ( 3) 文 の理解
( 内容 の理解)の形 になっていた。 「 先づ文全体 を
洞察 して,それ を心の面前 に引 き据 ゑた上 で, 徐 々
に解 らぬ言語 の解釈 を辞書 に求 めて言語 の意味 を
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垣内松三研究一教材構造観 と読解指導過程‑
考‑,文の真意 を捉‑ る」 とい う 『 国語 の力』の 基本 的精神 は垣 内理 論 を貫 くもの で あ るに して ち,十年 間にお ける理論の体系化 の進展が注 目さ れ るので ある。
飛 田多善雄 氏は,労作 『 国語教育方法論史』の 中で,形象理論 に立つ実践 の書 として,西原慶一
『 形象直観読方教育の原理 と実際 』 ,佐藤徳市 『 形 象の読万教育 』 ,滑 川道夫 『 文学形象の綴方教 育 』 ,
大井修 『 形象 原理 に立つ読方教育』, 岡島繁 『 読方 教育板書機構 と学習帳 』 ,滑川道夫 『 生活形象綴方 教育の実践構築』,飛 田多善雄 『 形象理会読方教育 の実践構築』等 をあげて具体 的 に考察 しているが, 垣 内理論 の影響の大 きさが うかが える。
3. 形象理論批判の論考 とその考察
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まず, 当代 にお ける形象理論批判 として石 山僑 平氏の 「 形象理論 の教育的批判」 ( 『 教育』岩波書 店 第 3 巻 6 号
)(5)を とりあげ る。
石 山氏は形象概念の第‑規定 して 「 外 的物質及 1 表徴 と内的精神的意味 とが全 く‑如 に綜合せ られ ている」 こ とをあげ, この点では 「 形象理論 と国 語教育 にお け る形式主義 と内容 主義 とを止揚 した
こ とに不抜の功績 を有す る」 と評価す る。
石 山氏は形象概念の第二規定 として 「 一定の意 味 を中心 として統一せ られ個性的構造 を有す る」
こ とをあげ, その構造 を 「 体験 としての精神構造
‑従 って叉 それの客観化 されたる形象の構造‑ を 私 は理念 と事 象 と情調 との三契機 の綜合 と見 る」
と規定す る。石 山氏は この立場 か ら 「 文 の形象の 精神構造論 的考察即 ち知情意の全一体 としての体 験論 に塞 き,文 の形象 を理 念 と事象 と情調 との全
‑的結合 と見 るこ とは まだ行 はれ なか った」 と批 判 している。石 山氏の 「 体 験」 とは 「自我 と外界 との相関,作 用 と対象 との相関 を内に (自我 の側 に) 自覚 した もの」であ り, この点 インガルデ ン の 『 文芸作 品』 にみ られ る現象学的文学理論 の影 響 を受 けた垣 内氏 とは立脚点 を異 に していた。垣 内氏は,文学作 品の本質,客観性 を追及す るため,
「 文学作 品の内部構造か ら,それ と異質的である分 子」として次 の もの を 「 分離」す る( 6 ) 。 「 作者 自身, 及びすべ ての運命,体 験,心理 的事 態」 , 「 読者の 性格,体験 その他 の心理 的事態 」 「 作 品の中に『 出 現 してゐる』対象や事態の原型 をなす対象 と事件 との領域」 な どで ある.今 E lの文学教育論 的観点
か らすれば,垣 内氏が 「 分離」 した もの こそ重要 で あ り,垣 内氏は作品 と読者 との弁証法的 なかか わ りを減 じたこ とになる。
また,石 山氏は 「 形象理論 の最大の欠陥は形象 に到達 すべ き方法論 の窮乏である。詳言すれば形 象理論 は創作や理会の 目標 ・究極点 を形象 として 輝か し く指示す るけれ ども, それに到達 すべ き方 法的過程 の論究 に於 ては甚 だ不親切 であ り不得 意 であ り乃至 は混乱 して ゐる」 として,理論 の抽象 性,用語 の難解 さをあげている。
石 山氏は さらにマル クス主義文学論か らの批判 を援 用 しつつ 「 形象 それ 自体 の 『 対象的性格 』 」と ともに , 「 作者の素質や境遇 を反映す る『 心理的性 格 』 」や 「 歴 史的社会的性格」に論及 されねばな ら ず , 「 読者 自身 も亦歴史的社会 的制度 の下 に独 自の 個性 を有す るこ とを前提」 としなければな らない とし, これ らを自らの解釈学の課題 として もひ き うけよ うとしている。
戦後では,高橋和夫氏が 「 読解指導過程 の検討 一垣 内松三の形象直観 の理論 」 ( 7 ) で,形象理論成立 の根幹 にかかわ る批判 をしてい る。
高橋 氏は 『 国語の力』を考察 の対象 としなが ら, 教材 につ いて 「 形象理論 の依拠 した教材 は,文学 的教材 を主 とす る。第一次鑑賞,す なわち第一次 直観 が可能 な教 材 とい う限定 をす で に持 って い る」 と,類型や長 さの面か らの限界 を指摘す る。
また,最初 の読 みにおいて,通常 は,読み手は抵 抗感 をもった り自己中心的 な受 け とめ方 をす るの ではないか と疑問 を提 し,形象の直観 につ いて次 の よ うに指摘す る。
彼の形象直観 が後流 に成 り立つ ため には,読 者の経験的 イ メー ジ と文 内容 とが基本方向に おいて一致 し,文 の方が よ り深みが ある とい う限界内での事 象でなければ ならない。 これ が外 れ る と, この形象理論 は成 り立 たないの である。形象理論 の直観 は, この よ うに,現 代の読解 の 多様性か らみれば, ある限 られた 場 でのみ成立す るので あって,生活領域 ・記 号領域 の拡大 した現代 では,垣 内理論 をも包 み こんだ さらに広 い読 みの理論が求め られね ばな らないであろ う 。 ( 59 ペ)
垣 内理論 の考察対象 は,文学作 品であって,高 橋氏の指摘す るよ うに,形象の直観 は全 ての類型 で成立せ ず, また,読 みの過程 も今 日の一読総合 法 にみ られ るように全 て直観 ‑分析 ‑総合 の過程
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をた どる とは限 らない。「 分析 を し総合 を して形象 を明 らか にす る」手順 も方法 として可能 であ り必 要で もあるだろ う。
高橋 氏は しか し , 「 垣 内松三の何 よ りの業績 は, 国語教材 とい うこの形象の構造 を明 らか に したこ
とであった」 と評価 し,指導過程 の層序 につ いて 次の よ うに述べ る 。 「 ( 1 ) 叙述的機構型は形象性 の外 面的なる層位 に向 け られた理会 ,( 2 ) 示現 的機構型 は契機 に於 ける心理的 なる もの を主 とす る理会,
(3)象徴 的機構 型 は生 の根 源性 か らす る理 会 で あ る」と本質的に把握 し , 「 今 日で も,作 品理解 をこ の三層 に段階づ けるこ とは大 きな意義 を持 ってい る」 と評価す る。高橋 氏は,時の流れの中で 「 ママ 遺 産 とは,新 しい ものの うちの一部分 として変様 さ れつつ,限定 され た場 で生 き続 ける ものであ る」
と垣 内理論 の今 日も持つ生命 力 を認めている。
確 かに,垣 内氏の形象理論 に立つ指導過程論 に は二氏があげた こ と以外 に もい くつかの課題 はあ る。
一つは,垣 内氏が 「 実践 の必然性 を事象論理的 に研究す るな らば,学校生活全体 と, 国民生活全 体 を関連す る意味 に於 て,更 に一歩深 く踏み込 ま なければ ならない。 ここに私 に残 されて 居 る大 き な問題 が ある」 と反省す るよ うに,読解指導過程 を教育計画全体 の中に位 置づ ける視点が十分 に用 意 されていなか ったこ とが あげ られ る。
また, 冒頭 で述べ た学習者の主体的条件 ( 学習 過程) ,学習活動 に対す る考察 も不 十分 であった。
読解指導 は読 みの深化 を要請す る として も 「 私意 を去」 って 「 表現 の生 き生 きした過程 を追体験す るこ とに依 って,再現 として再構成す るこ と
(8)」そ の ものが 自己 目的 とされ るのではな くて,学習者 主体 と教材 との弁証法的葛藤 に よって形成 され る 学習活動の組織化が問題 に されねばな らない。
しか し,垣 内氏が,形象理論 によって教材の機 構 を学理 的に究明 し,教材研究の理論‑ 的根拠 を提 示す るとともに,読解指導過程 の理論 的体系化 を 図 った意義 は高 く評価 されねばな らない。垣 内氏 が,国語教育 を 「国語教育科学」 として原理 と実 践の契合 した新 しい学問た らしめ よ うとした基盤 に,今 日の国語科教育 ( 学)が立つ こ とを我 々は 再確 認 していかねばな らない。
垣 内理論の意義 は,次章の芦 田読み方数式へ の 論究 を考察す るこ とに よって さらに明 らかに され
よ う。
4. 芦田読み方数式への論究
垣 内氏 と芦 田恵之助 氏 との関係 は相互補完的一 体 とで も表現 さるべ く,垣 内氏は芦 田氏の実践 に 自らの理 論 の具 象化 を見 てそれ を体 系化 す る一 万,芦 田氏は垣 内氏の理論 によって立証 された 自 信 と励 ま しに よって実践 を深化 していった。垣 内 氏は芦 田氏の実践 を全 て是認 しているわけではな いに して も,芦 田氏の実践 に自己の投影 を見,芦 臼氏 を論ず るこ とによって 自説 を確認 した といえ る。 『 国語教育講話』は芦田氏の教壇行脚十年 を記 念 して編 まれ た講話集であるが,芦 田氏の読 み方 数式 とい ういわば読解指導過程 の個 人的様式の内 面 に参 入 し,形象理論 の適用 によって実践事 象の
「 動力的統一の構造」を普遍化 しよ うとした もので ある。 『 国語教育講話』の主題 は 「 実践の技術学」
である。 「 技術 とは「 一定の原理 と過程 とに従へ る 活動 」 ( 9 ) であ り,技術学 とはそれの根 底 にある もの の究明の謂 である とき, 『 国語教育講話』で垣 内氏 の 目指 していた ものが うかが えよ う。
r l ) 事象論理の展開一転機一
明確 な学習 目標 を もって毒 致密 に計画 された授業 には生 き生 きとした学習活動が生 まれ, しか もそ の中に緊張 した方向性 と秩序 を持つ。垣 内氏は芦 田氏の実践 にその原理 「 事 象論理」 が具現化 され た典 型 をみ る。 ここでい う 「 事 象論理」 とは 「 教 材 を媒介 として児童の学習 と,指導者 の間にか も
し出 され る作用 を貫 く条理」であ り,国語教室 と い う実践の 「 事象の中を通 って居 る筋道」をさす。
垣 内氏は しか も 「 芦 田先生の数 式は動 力的統一の 構造特 に転機 を基底 として姐成 されて居 る」 とそ の特性 を把握す る。
「 転機」 とは,形象機構 の三層の 「 相 関 を秩序 す る機能」の こ とであ り,学習指導過程 の分節 を 全体 として緊密 につ な ぎ連絡 をつ ける力である。
垣 内氏は芦 田氏の数 式,( 1 ) よむ
,(2)とく
,(3)よむ,
(4)か く
, (5)よむ
, (6)とく,( 7 ) よむの うちの
(4)か く
に注 目し, これ らは 「 『 か く』を中枢 とす る遠心的 及び求心的 なる精神活動」であ り,図の よ うに 「 『 か く』 を中軸 として,第一次指導 ・第二次指導 ・第 三次指導が進展せ られ,平面的ではな く,立体的 にその層の進展す る事象 を見 ることがで きるか と 考へ る。故 に 『 転機』 は単 にその連絡 を示すのみ
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垣内松三研究‑教材構造観 と読解指導 過程‑
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でな く,教 室の中に於 ける事 象状態の 『 論理』 を 示す こ とにな るのである」 と具体 的 に述べ る。
芦 田氏の数式 は,音読,書写,話 し合 い,聴 く といった全 ての言語活動 を有機 的に関連 させ て文 の生命の把握 に向けて読み を発展的 に深化 させ る ところに特色があった。その形象理論 を具現化 し, 波状 的に文 の内面 に参 入 してい くこ とか ら生 まれ
る 「 事 象論理」 は,様式は もとか く,今 日で もあ らゆ る学習過程の 中に生か されねばな らない原理 であろ う。 また
, (4)か くの段階で,板書機構 を書 写 しつつ形象 を確 かに把握 す るこ とか ら生 まれて くる 「 沈黙の深層」 は,表層の活発 さの割 には確 かな手応 えをもって学習内容 が学習者 に浸透 しな い教室の現状 に一つの反省材料 を与 える。学習指 導過程の 中に設定 され た静 かな思考の時間が もた らす効果‑事 象論理 をひ きしめ る効果 を垣 内氏は 的確 に指摘 した。
( l l ) 自己を読 む
芦 田教 式の立脚点 として芦 田氏 は , 「自己 を読 む 」 「 師弟共流 」 「 易行道」 の三つの提言 をしてい る。垣 内氏は, それが学習指導上 どの よ うな役割 を果 たすのか, これ ら 「 全体 を貫 く一つの道」 を 形象理論 の立場 か ら捉 えるこ とによって究明 しよ
うとす る。
「自己 を読 む」 は 「 読 み方教授」で提 言 され, 読 みの本 質 にかか わ る衝 撃 的 な発 言 だ った だ け に,今 日までその解釈 をめ ぐりさまざまな発言が なされて きた。 その論点は,芦 田 自身末規定 だ っ た 「自己」 の把握 の しかたにあ り, その解釈 は論 者の各々の立場,主張 を反映 している。
垣 内氏は 「自己 を読む」 とい う提 言の意義 につ いて三つの観点か ら述べ る。
第一は体 用相 関 とい う観点か らこの提 言 を 「 理 会」の本質 と受 け とめ る。「 体 」 「 用」 は世 阿弥十 六部集か らの引用で あ り, それ ぞれ本質、現象 を 意味す るこ とはい うまで もない。垣 内氏は 「 心 で
見 る といふ こ と( 体)と, 目で見 る といふ こ と( 用) が胸 中に動揺 してゐる」のが読みの実態で あるが,
「 如何 に して この中間層 ( 相)を秩序づ けるか とい ふ こ とが私 は 『自己』 を読む』 といふ こ との意義 である」 と述べ て, 内容 と形式 を重ね合 わせ相関 させ るこ とによってゆ るぎなの ない読みの心構 え を練 るために 自己 を読 め と言 った と解釈 す る。垣 内氏は, 内容 形式二元観 を克服 した 自己の立場 を この提言の解釈 を通 して確 認 した といえよ う。
垣 内氏は次 に,体用相 関の問題 を末子の言 と関 連 させ,用 を見 る ときの作用で ある読時熟,相 を 見る ときの熟である看 時熟,体 を見て用 まで下 っ て来 る ときの熟で ある翫味 時熟の三熟は,文 の本 質の機構 の本質 に即 した読む こ との機構 その もの であって, 中世芸道 において秘事 口伝 によって体 験的修得 す る もの とされた体 用相関 を観 るこ とに 科学的照明があて られねばな らない とした。体用 相関の筋道 を明 らかにす るこ とによって 「自己の 内面 にあって, 明瞭 に意識 に上 らないや うな表象 を, 明 らか に意識の上 に浮 き立 たせ てそれ を確か にす る」手続 きを読解指導過程 とした ところに垣 内理論の先駆性が あった。
第三は,直観 ・自証 ・証 自証 とい う 「 読 方体系」
は 「自己を読む」 こ とその ものである として次の よ うに述べ る。
自分 の読取 った もの を更 に深めて,本質の意 義 を掴 む といふ こ とは 自証 といふ作用のはか ない。 自分 の受取 った こ とが正 しいか どうか といふ こ とを自分 で証 明す る といふ こ とのは か ないわけである。す なわ ち自己を読 む とい ふ こ との意味 を自証 といふ意味 に打立 てて, その上 に 自証 に達 す る道 と, 自証 か ら更 に進 む 自証 体 系 を立 て た の が 私 の解 釈 学 で あ
る
(10)。
芦 田氏の提 言の真意 は,一つは読者主体 の確立 にあった。 「 教授 は児童が 自己の 日常生 活 を解釈 し,識見 を高め よ うとす る」学習態度の確 立 を教 育の本質 とす る とい う考 えに到達 した芦 田氏に と
って,学習者が没我的 に文章 を受容す るのではな く , 「 余 はか く解 した」 とい う読者主体 個 々の解 釈 ・想定 ・連想が重視 されねばな らない とす るの である
(ll)。
しか し ,「 『 国語教育易行道』では,理会 とは「 作 者 によって限定 された範囲 に,自己の考 を打立 て 」
るこ とで あ り , 、 「 作者 との共 同作業 のや うな もの」
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だ とも規定す る。 ここにい う 「 共同作業」 は,読 者 とテ クス トとの対話 的相互作用 を重視す るイー ザ‑ な どの今 日的読書 ( 者)論 の立場 に立つ もの ではない。「 作者」を規準 に して, 自己の読 みの深 化の度合 を測定 し定位 しよ うとす る。
垣 内氏の解釈 はい うまで もな く後者 の立場 に立 つ もので あ り, どの ように して, どこ まで 「自己 の考 を打立て」 るかの解 明 をしようとしたのであ り,読解指導過程 にお ける学習活動 の理論的根拠 にしようとしたのである。 ただ , 「自己を読む」こ とを体用相関 を看取す る「 修証 の教育 」 「 行持 を重 ぜ られ る教育」 とす る東洋的発想 に立 って解釈 し た ところに垣 内理論 の独 自性 と課題 が あった。
( 最 師弟共流 ・易行遠
国語教育の実践上, 師弟が教材 を媒材 に して深 部でひび き合 い共 に一つの流れ を形成 してい くこ とは容易 なこ とではない。芦 田氏がそれ を達 成 し えているのは 「 教材の機構 の本質が分 りまた理会 作用の本質 に立 って, そこに師弟が共 に理解 し合 ってその道 を進 む」 こ とにある と垣 内氏は分析す る。つ ま り,形象理論 に基づ いて,体 用相関 を看 取す る指導方法の相互 了解 と, 師弟双方の 「自己 を読 む」 自証作用が根底 にある とす るのである。
教師が 「自己を読」み き り,児童が教 師の指導 に 信頼 を寄せ て 「自己 を読」 んでい くとき,読 みの 螺旋的向上 をめ ざして教室 は統一 されて静粛 にな
る とす る。
芦屈 氏の師弟共流の立言お よびそれに対す る垣 内氏の理論的把握 は,学習方法,学習原理 を学習 者 に明 らか にす る点で,今 日の 「 学 び方学習」の 先駆 ともいえる。 また , 「 基本概 念」の転移 を学習 の過程 と見 よ うとす るブルーナ‑の考 え と底流 に おいてつ なが ってい る とも評価 で きよう。
形象理論 に よる理会 , 「自己を読む」こ とによる 師弟双方の 自己究明 を根源 として, 文章 内に「 生々 とはた ら (動 力的統一が明 らか に会得 され る」 と きに,皆読皆書,皆話皆綴が実現す る。全 ての授 業 は 「 如何 に した ら易 く学ばせ心 を安 んず るか」
に腐心す る以外 にない。今 日,全 ての学習者 に学 力 を保 障す るこ と,個 人差 に応 じた学習指導 によ って落 ちこぼれの ない学習指導法が論議 されつつ あるが,垣 内理論 お よび芦 田読 み方数式 にはそれ に対す る配慮が なされていたのであ る。
5. おわ りに
石 山僑平氏は, 日本解釈学史 における垣 内氏の 立場 につ いて 「 垣 内氏は実 に 日本 に於 ける自覚 的 解釈学の先達 である。 日本 の国語教育が初めて解 釈学 を理論的根拠 に有つ様 になったのは全 く垣 内 氏の功績 と言 はねばな らない」 と評価 してい る。
独 自の形 象理論 に よって読 む対 象 の本 質 を規定 し, それ によって認識の方法 を考察 した業績 は史 的に高 く評価 され る。西尾実氏,石 山僑平氏は垣 内理論 を批判的に継承す るこ とによって近代 国語 教育論 の根幹 的な水脈 を形成 した。
石 山氏は また , 『 国語解釈学概 説 』 ( 昭和 九年) に至 るまでの苦 闘につ いて 「日本解釈学 は ここに 初めて体 系的叙述の意図の下 に現れた。 これ等 を 通 じて垣 内氏の辿れ らた解釈学 の一路 には実 に涙 ぐましき健 闘が想像せ られ,開拓者 に対す る畏敬 の情 の禁 じ難 きものが ある」 と述べ て,創始者の 苦 しみ と孤独 を付度 している。
もとよ り,垣 内理論 お よび垣 内氏によって理論 的体系化 を得 た芦 田氏の読 み方数式 には時代様式 が もつ限界 はあった。読解指導過程 は教 師中心の 注入主義 にな りやす く,東洋的 な 「 行」一精神主 義的 にな りが ちだ った こ とも否定はで きない。
しか し,上述 した以外 に も, その理論 お よび実 践 を今 日に も生かす こ とがで きる。た とえば , 「 七 変化」の第四段階 に 「か く」作業 を設 けた こ とは, 今 E ]の理解 と表現 の関連指導 に先駆す る独創的発 想で あ り,理解 と表現 とを有機的 に関連 させ るこ とによって 「 鮮明 な理会 」 ( 『 数式 と教壇』 ) を得 さ せ,螺旋 的 な読みの深化 を図 る契機 としてい るこ とは今 日で も高 く評価 され よう
(12 ) 。 また,板書機 構 が学習指導過程 を写す鏡 で あ り,学習 ノー トと 連動すべ きこ とを理論化 し実践化 した創 見 も今 日 の学習指導の毎時の実践 に生か さねばな らないだ ろ う。
教 育遺産 を自らの実践の場の実態 に合 わせ て有 効面 を生か し具体 的な教育活動 に転化 させ てい く 仕事 は,研究 ( 理論) ,実践両面 にわたって継続 し, 深化せ ねばな らない。
注
(1 ) 長谷川孝士 『 国語教育の検討一深化 ・拡充を求 めて‑』
昭4 7 青菜図書 1 3 0〜1 3 4 ペ
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垣 内松三研究一教材構造観 と読解指導過程‑
(2) 『 形象 と理会』( 垣 内桧三著 作集第四巻光村 図書 2 4 ペ)
(3) 野地潤家 「 形象理論 に立つ指導過程」 ( 『 読解指 導論』
昭52 共文社 所収)
(4) 『 文学理論の研究』( 垣 内松三著 作集第三巻 光 村 図書 所収論文)
(5 ) F 教育
』 第3 巻 6 号 1 01 4‑1 0 2 4
ペ(6)