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社 会 の 機 能 分 化 と 統 合

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Academic year: 2021

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(1)

社 会 の 機 能 分 化 と 統 合

F u n c t i o n a lDi f f e r e n t i a t i o na n dI n t e g r a t i o no ft h eS o c i e t y

BABA ′ Yas uo

Ⅰ :問題設定

差異、分散、断絶 といったイメージによって

「ポス トモダン」 について さかん に語 られて い たのは、ついこの間だ ったように思われる。 し か し現在では社会理論 の焦点 は、む しろ共同性 や統一性や連帯 のほうへ とシフ トしているよう だ。佐伯啓恩 のような保守主義者がそれ らを強 調す るのは、むろん当然の ことである。佐伯 は 言 う。近年、「カルチュラル ・ス タデ ィーズ」

に代表 され るよ うに、共同体 の見かけ上の統一 性を解体 し、個人をその呪縛か ら解放 しよ うと の論調が登場 して きている。 しか しそのような 議論 自体が、 メデ ィアを通 した共同化作用を前 提 としている。 したが ってその種の議論 は実 は

私』 の 『共同体か らの解放』 を問題 とす るの ではな く、『われわれ』 の 『共同体か らの解放』

を問題 とす るのである」(佐伯 [

1 9 9 8: 9 9 ])

、 と。

そ して佐伯 にとって、 そのよ うな 「われわれ」

は最終的には 「国家」 とい う枠組みに支え られ ているのである (佐伯

[ 1 9 9 8: 1 1 2 ] )(

1)0

しか し同様 の論調 は、必ず しも 「保守的」 と はいえない多 くの論者 においても見受けられる。

例えば

J.

ア レクサ ンダーによれば、 「ここ十 年で、 〔主体性 と道徳 とを〕 媒介 す る領域 に関 す る思想が、特に緊要なものとなっている。‑・ 公共性、信頼、責任への社会学的 アプローチに 対す る関心が、中心的地位 を占めるようにな っ て きたので あ る

( Al e xander [ 1 9 9 8: 2 2 4

]、

〔〕内筆者、以下同様)

(2)

。 あ るいは、 環境

問題、 エスニ ック ・コンフ リク ト、家族問題 と い った、近代 の合理化がすべての人 に強いる普 遍的問題 を契機 として 「受苦者 としての連帯の 秤 を構築 してい くこと」が必要である、 と説 く 山之 内 [

1 9 97: 2 32 ]の議論 もそ うで あ る ( 3

)。 さ らに、 デモクラシーとェコロジー こそがすべて の経済体制や政治体制の優劣をはか る試金石で あ り、新時代 の共通 の価値原理であると主張す る、千葉

[ 1 9 95: 2 8]

の 「ラデ ィカル ・デモ ク ラシー」 も挙 げてお こう。

もちろん これ らの論者の場合、共通の枠組み は均一 の実体ではな く、 あるいはフイクショナ ルであ り、動的かつ暫定的であ り、 また内部 に 多様性 と亀裂を学んでいるものとして想定 され ている(4)。 しか しそ うい った修正 によ って保守 主義者が想定す る共同体か ら決定的な距離 を取 りうるとは言 い難 い。国民国家が近代 において 初めて形成 された フィクションにす ぎないとの 指摘 に対 して保守主義者 は、国民国家 はまさに フィクションとして必要 とされているのだ と応 じるだ ろ う (佐 伯

[ 1 9 9 8: 1 0 3 ])

。 ま た小 熊

[ 1 9 95 ]

は、今 日では国民統合 の前提 と見 なさ れている 「日本人 ‑単一民族」論が、実 は国民 統合論 の一方 の極 にす ぎず、 もう一方の極 とし て 「日本 ‑多民族国家」 を前提 とす る統合論 も 常 に存在 していた ことを示 している。 とい うこ とは逆 に言 えば、「単一民族神話」 の虚構性 を 暴露 し 「民族」の多様性 を強調す るだけでは、

国民統合の吸引力 には抗 しきれないとい うこと

(2)

多様 性

1

に な る。 あ る い は

Tayl or

[

1 9 9 4‑1 9 9 6: 1 0 0 ‑ 1 0 1

] のよ うに、多様性 を強調 す る 「マルチカ ルチュラ リズム」 の立場か ら、 自文化‑の同一 化 の必要性を導 き出す ことも可能 だろ う。抽象 的個人 を前提 とす る世界市民主義 は、各文化 の 個別性 を無視す る結果 となる

そ うな らないよ う、 まず は自己が属す る文化 の特性 を自覚 し尊 重す る必要 がある、 と。

統一性が多様性 を承認 し、多様性が統一性 を 要請す る。 その意味で両者 の関係 は、対抗的 と い うよ りもむ しろ相補的であ る (図

1

)。 この 事態 は 「保守」であれ 「革新」であれ、現代社 会を思考 しよ うとす るあ らゆる論者が同一 の問 題 に直面 しているとい うことを示 しているよ う に見え る。 どち らの立場か ら見て も、現代社会 が直面す る課題 は、多様性 を生か しうる、緩 や かで はあるが統一的な秩序 をいかに して構想す るかである、 と

また社会 その ものだけでな く 社会 と自然 の関係 について、すなわち環境問題 につ いて論 じられ る際 に も、 この 「多様 な もの の緩やかな統一」 とい うモデルが援用 され るこ とが多 いよ うに思われ る(

5

)0

この種 の議論が現実的な必要性 に裏打 ちされ た ものであ り、一定 の有効性 を持 っていること には異論 の余地がない。 だが同時 に、 このよ う な 「収欽 テーゼ」 によって覆 い隠 されて しまう 次元があ りは しないだろ うか。 この 「多様性 と 統一性」 とは別 の道筋で、現代社会 を とらえ る ことはで きないのだろ うか。 また、その必要 は

ないのだろ うか。

本稿 の目的 は、 このような問題意識 を視野の 片隅 にお きつつ、 ニクラス ・ルーマ ンの システ ム理論 における機能分化 (多様性) と全体社会 の統合 (統一性) の論理 を探 ることにある(6)0

2 :ルーマン批判の新潮流 ?

まず、近年 の

(

「オー トポイエティック ・ター ン」以降の) ルーマ ンに対す る批判 の多 くが、

この 「多様性 と統一性」 をめ ぐってなされてい る と い う こ と を 確 認 して お こ う。

Kne e r

[

1 9 9 2: 1 1 1 ]

は、今 や全体社会 の合理性 の概念 は、統一性か ら差異へ、 あるいは 「中心的 シス テムによる、社会総体 を拘束す る規制」か ら、

「多 くの下 位 シス テ ムの回帰 的 な協 働

( Zu‑

s ammme ns pi e l ) 」

へ と転換 されねばな らない、

と (っ まり例 によって、多様性 を前提 とした緩 やかで動的な統一性 を考 えねばな らない、 と) 主張 した上で、ルーマ ンを次のように批判す る。

ルーマ ンは機能分化 した下位 システムそれぞれ の自律性 を強調す るばか りで、 それ らの協働 に よって生 じるはずの、全体社会 レベルでの合理 性を考えよ うとしない。 その結果、機能分化 し

た現代社会 よ りも、近代以前 の階層分化社会 の ほうが、全体 としてより大 きな合理性 ポテンシャ ルを有 していた とい う奇妙 な結論 に至 ら●ざるを えない。

また

Hel l mann

[

1 9 9 6: 5 8 ]

は、機能分化か ら 生 じる三つの問題 として、 (1)個 々の機能 シス テムの自律性 と無関連性 の関係、

( 2 )

機能分化 のゆえの統合の必要性、

( 3 )

近代化 と個人化 の 相互影響 を挙 げる。 そ してルーマ ンを批判す る とい うよ りはむ しろ発展 させ るか たちで、 「新 しい社会運動」 の機能 は、 これ らの問題 との関 連 において規定 され うると主張 している(7)0

もう一つ、

Br oc k/ Junge

[

1 9 9 5 ]

を取 り 上 げてお こう。機能分化 が近代化 のメルクマー ルをなすのは確かである。 しか しそ こか ら同時 に、社会統合 の問題 も生 じて くるはずである。

‑ 7 4‑

(3)

その問題 に対す る独特の解決法 もまた、近代化 の一側面である

ただ し、デュルケ‑ム流の規 範的統合では、近代社会 における個人の自由の 増大を説明で きない。 ミュンヒらの 「相互浸透」

概念 (

5

参照)では、各 システムの自律性 と いう論点が見失われて しまう。 したが って、

市 場 メ カ ニ ズ ム を通 して の、 資 源 の 移 転

( Tr ans f e r )

による統合 とい う解決を考 え るべ きである (ここでの資源 は、専門化 したシステ ムが自己を維持す るために外部か ら調達 しなけ ればな らないもの一般を指す)。 システムの機 能分化 は、一般化 された資源移転のプロセスに よって、初めて維持 され うるものとなる。つま り、資源転移の可能性が、共通の枠組 となるの である。「近代社会 は‑・オー トポイエテ ィック に組織化 された諸 システムのジャングルへ と分 解 Lは しない。 それ らは、資源の入手可能化 と いう相の もとで構造化 された環境のなかを動 く か らである‑。 ここに、全体社会 に共通の秤が 存在するのであ り、それは個人行為者を も包括 する。・‑われわれは近代化を、分化の展開 と一 般化 との、 相互作用連関 と して理解 しうる」

( Br oc k/ Junge

[

1 9 9 5: 1 7 7

])0

一方

Wagne r

[

1 9 9 7

]は、ルーマ ン理論 にお け る統一性 の欠如ではなくその過剰を、スペンサー‑

ブラウンを引 き合 いに出 しつつ批判 しようと試 みている

O

ルーマ ンの出発点 は差異ではな く、

あ くまで システムの同一性である、 と

( 8)

. しか しこの批判 はただちに、機能分化 した諸 システ ムそれぞれの統一性が絶対視 されるがゆえに、

全体社会 レベルでそれ らの媒介を通 して生 じて くる、 より重要な統一性を考慮できないという、

同様の批判へ と反転 してい くのである。

以上 か ら明 らかなよ うに、 ルーマ ンを批 判 (的に継承) しようとす る論者の多 くは、「多様 な ものの緩やかで動的な統一性」 という、あの

収赦 テーゼ」の枠内で議論を展開 して いる

( 9

)0 一方ルーマ ン自身 は、機能分化 した諸 システム の統合 という問題を、 まった く異なる視角か ら

考察 しているように見え る。 しか しそれについ て論 じる前 に、分化 と統合 に関す るやや一般的 な考察 を差 し挟んでおきたい。

3

:媒介の二つの型

あまりにも トリヴィアルに思われる問いか ら 始 めよう。われわれが問題 に して きた 「統合」

とは、何が何へ と統合 され ることなのか ? 答 は明白であるように見える。すなわち個別文化 が普遍的な世界市民社会へ と、あるいは分化 し た機能 システムが全体社会へと統合されること、

である。 そ して統合 は、個別 セクターを相互 に 媒介す ることによって可能 になると想定 されて い る。

Be c k [ 1 9 9 4: 2 5 ‑ 2 6 ]

によれば、 機 能 分 化 に関 して論 じるべ き問題 は、次の三つである。

①産業社会のさらなる分化、② システム間媒介 とネゴシエーション制度、③各機能 システムを 支配す るコー ドの綜合

( c odes ynt he s e s )

可能 にす る条件。 に もかかわ らずルーマ ンは、

①を強調す るのみで②③ を無視 して しまってい る・。か くして、前節で挙げた頬のルーマ ン 批判の例が、 もう一つ付 け加わることになる。

しか しここで 「媒介」 というとき、同時に二 つの ことが意味 されているのではないか。すな わち、あ らか じめ存在 している諸部分開の媒介 と、個々の部分 とその諸部分 自身が形成す る包 括的全体 との媒介、である。ペ ックの場合②が 前者、③が後者 に相当す るようにも思われるが、

む しろ③が②の前提条件 として考え られている のであ り、二つの 「媒介」 は特 に区別 されてい ないと考えるべ きだろう。

また

Lac l au / Muf f e

[

1 9 8 5‑1 9 9 2: 1 5 3 ]

は、諸要素 に統一性を与える 「仕組み」 につい ての二つの理解 として、①仕組みは偶発的で、

したが って断片的諸要素 にとっては外的である、

②断片 と仕組みの双方が、両者を超出する全体 の必然的な諸契機である、 との二つの発想 の型 を挙 げ、① のみがアルチュセール流の 「節合」

として捉え られ うるのであ り、② は厳密 に言え

(4)

ば 「媒介」である、 と指摘 している。 ペ ックの 場合部分間の媒介の内に部分/全体の媒介が含 意 されているのに対 し、 ラクラウ/ ムフの媒介 概念の場合 はその逆である。 しか しいずれの場 合で も、二つの媒介概念が区別 されていないと いうことは確認で きるだろう。

もちろん両者の区別 とい うだけの ことな ら、

形式的に言えば、 すで に吉 田

[ 1 9 9 0: 5 5 ]

な ど によって指摘 されている (「全体 に対 す る部分 の機能」 と 「部分に対する部分の機能」の区別)0

しか しここで強調 してお きたいのは、単 なる両 者の区別ではな く、その質的差異である。先 に 示唆 しておいたよ うに部分 と部分の媒介の場合、

すでに存在 している部分 の間に媒介の過程が生 じる。媒介の中で個々の部分が変容 し続 けると して も、 この点 は何 ら変わ らない。一方部分 と 全体の媒介では、媒介 を受 ける対象の一つであ る全体 は、あ らか じめ存在す るのではな く、媒 介の過程 において構成 される。少 な くとも、媒 介過程 は第‑のケースとは異 なって、媒介 され るものの外側 に存在す るわけではないのである。

それゆえにここにおいてわれわれは、アルチュ セールがル ソーの社会契約論 の内に見出 した、

あの 「ずれ」 に直面 していることに気付かざる をえない。

「・‑‑困難 は以下の点 にある。すなわち、

あ ら ゆ る 契 約 に お い て 二 人 の 受 取 人

〔 Par t i e sPr e nant e‑PP. 〕

が契約行為 に先 立 ち、 またその外部 に存在す る。 ル ソーの社 会契約 において は、

PP

.1 〔‑個人〕 のみが この条件 に従 い、

PP. 2

‑共 同体〕 は反対 にそれを まぬかれて いる。

PP. 2

は、 当然 の ことなが ら、契約の以前 には存在 しない。

P P. 2

それ自体が契約の産物 なのであ る

社会 契約の逆説 は、それゆえ、二 つの

PP.

を対 置 させなが らも、その一方 は契約の以前 に、契 約の外 に存在す るのにたい して、他方 は契約 の以前 にも契約の外 にも存在 しない、 一一な

ぜな らそれは契約の産物その もの、 より適切 に言 えば、契約の目標であ り、契約 の目的で あるか ら一一という点 にある。契約 における 二人の受取人のあいだの この理論的な規定の ちがいのなかに、われわれは第一 のずれを明 記 す る こ と に し よ う。」

( Al t hus s e r

[

1 9 6 6‑1 9 7 4: 1 6 7 ‑ 1 6 8 ] )

そ してアルチュセールは、 「契約 であ って同 時 に契約 で ない」 とい うル ソーにお け るこの

「ずれが、 逆 に 「言葉 の 《遊 び》」("

j e ux"

demot s )

として、『契約論』 に対 す るさまざ まな解釈の余地を もた らしていることを指摘 し て い る

( Al t hus s e r [ 1 9 6 6‑1 9 7 4: 1 7 2 ‑ 1 7 3 ] )

0

この 「ずれ」をいかに して埋 めるか とい う問題 が、解釈 と理論を展開す る契機 となるのである。

第‑ に、

PP

.1‑個人 か ら出発 して、 その出発 点の内部 に共同体を可能 にす る道徳性を求 めよ うとす る、「カ ン ト的な読み方」(カ ッシーラー など)が考え られ る。第二 に、客観的精神が具 現化 された全体性 と しての

PP. 2

のほ うを出発 点 と見な し、そこに契約の可能性の歴史的な条 件 としての国民の理論を重ね合わせようとする、

ヘーゲル流の読み方 もある。そ して第三 は、契 約者ではな く契約 という行為その ものの内に構 成的契機を見出そ うとす る、 フッサール的読み 方である

( 1 0) 0

こうしてみると、ル ソーによる 「ずれ」 の設 定 と、解釈者 によるその隠蔽の試みによって、

1

節、第

2

節で述べて きた諸議論のはば全範 囲がカバーされていることがわか る。 ル ソーの 問題設定 は、 こうであった。 「各構成員 の身体 と財産 とを、共同の力のすべてを挙 げて防衛 し 保護す る結社形態を発見す ること。そ して、 こ の結社形態 は、それを通 して各人がすべての人

と結 びっ きなが ら、 しか も自分 自身 に しか服従 せず、以前 と同 じように自由なままでい られる 形態 であ ること

」 ( Rous s e au [ 1 9 7 9: 1 2 1

])。

現在 さまざまなかたちで論 じられているの も、

‑ 7 6‑

(5)

諸部分 の多様性 を維持 しつつ、 それをいかに し て調和の とれた統一性へ とまとめ上げていくか、

であ った。 そ して解答 は契約 ない し媒介 として 与 え られ る。 しか しその際、

PP. 1

PP. 2

の問 に、 あるいは媒介 され る二つの項 目 (部分 と全 体) の間に、理論上 のずれが生 じざるをえない。

このずれをいかに して埋 めるかをめ ぐって、 さ まざまな理論的立場が分岐 して くるのである。

しか しず れ に よ っ て 開 か れ る こ の 遊 域

( Spi e l r aum)

は、理論展 開 の可能性 を開 くと 同時 にそれを制限 して しまう。 そのよ うに問題 を立てて しまえば、 あとは 「解決」 の余地 はア ルチュセールが挙 げて いた リス トにはぼ尽 くさ れて しま うか らである。 すなわち、 レベルの異 なる二つの極 の うちのどち らかか ら出発 して他 方 に至 るか、 さもなければ第三の項 目を 「根源」

と して設定す るか、である。後 はせいぜい、 こ れ らの立場 を 「弁証法的」 ない し 「多次元的」

(ア レクサ ンダー) に組 み合 わせ るだ けで あろ う。 現 に最近 の議論 は、 結局 の ところそ こへ

「収赦」 しているようだ。だか らこそ、「収赦 テー ゼ」が成 り立っよ うに見えるのではないか。 あ るいは、 とりあえず現代社会 における個人 の思 考 ・行動 パ ター ンの多様性 を強調 した上 で、

「に もかかわ らず現代社会 の統合 はいか に して 可能 になるのであろうか。 それ こそが現在の社 会学 が直面す る課題である」 などと論文を締 め くくるの も、無難 な手か もしれない。 もちろん この種の議論が必要 になる局面 も存在す るのだ ろうが、理論的にはあまり生産的 とは言えない だろ う。 それは、「そ うい うか たちで問題 を立 てれば こうい う答 になるはずだ」 とい う、予想 の範囲内を動 いているにす ぎないか らである。

4

:ルーマンにおける機能分化 と統一性

1

節 の最後で も述べたように、本稿の目的 は、 ルーマ ンに依拠 しつつ今述べた遊域 ‑閉域 の 「外 に出 る」 ことにある。 この目的のために は、「媒介の論理」 をめ ぐって、 アルチ ュセ‑

ルと並ぶ もう一本の補助線を引かねばならない。

だがその前 に、 ルーマ ンの機能分化 についての 議論 を簡単 に振 り返 ってお くことに しよ う。

全体社会 内で分化 したあ るシステムの機 能

( Funkt i on)

は、形式的に言 えば、その システ ムが取 り結ぶ諸関係の うちで、 自分 自身への関 係である反省

( Re f l e xi on)

お よび他 の システ ム との関係 で あ る遂行

( Le i s t ung)

か ら区別 され る、全体社会への関係 を指 している。 この 関係 を、従来 のパ ーソンズ型 の機能主義理論 に したが って、 ある下位 システムが全体社会 に対 してなす (その システムのみがな しうる)貢献 の ことである、 と理解す ることもで きよ う。例 えば政治 システムの機能 は集合的拘束力を もつ 決定 の産出であ り、経済 システムの機能 は稀少 性を増大 させ ることを通 して稀少性 を減少 させ ることであ り、法 システムの機能 はコンフ リク ト・パースペクテ ィブを適法的 に処理す る可能 性 を与 え る こ とで あ る ‑ ‑ と い う よ う に

( Kr aus e

[

1 9 96: 1 0 0 ] ) 0

しか しルーマ ンが強調 しているのはむ しろ、

その前提 となるコー ドの側面である。各 システ ムが 自己に割 り当て られた貢献 を排他的に遂行 しうるためには、 あ る特殊化 された コー ドを用 いた コ ミュニケー ションによ り、社会内のあ ら ゆる出来事 にアプローチで きねばな らない。 ま た逆 に、その コー ドを用 いるコ ミュニケーショ ンは、すべて問題 の システムに所属 しなければ な らない。例えば法 システムは合法/不法のコー ドを通 してあ らゆる問題 に関 して コ ミュニケー トしうる し、 また合法/不法の コー ドを用 いる コ ミュニケーシ ョンはすべて法 システムの一部 である、 とい うことになる。機能 システムの統 一性 は、その システム自身 にとってのみ妥当す る二分 コー ドに定位す ることにある、 と言 って もいい

( Luhmann [ 1 9 8 6: 2 5 3 ] )

。 これ はす な わち、「あ らゆる機能 システムは、 普遍性要求 を提起す る一一ただ し、 自分 自身の領域 に関 し て の み

( Al l e Funkt i ons s ys t e me er he be n

(6)

Uni v e r s al i t at s ans pr t i c he

abernurf t i rj e i hr e nBer e i c h. ) 」( Luhmann [ 1 9 97: 9 83 ] )

い うことである。 もうひとつ 「ただ し

を重ね るな らば、 ここでの 「領域」 は空間的に限定 さ れ うるもので はな く、件 の コー ドを通 して観察 された社会全体 に及ぶのであるが。 だか らこそ ルーマ ンは、 システム分化 を全体の部分 (領域) への分割 として捉えて はな らないと、次 のよ う に注意 を促 している。 システム分化 において問 題 な の は、 「全 体 」 を 「部 分 」 ‑ と分 解

( De kompos i t i on)

す ることではない (デ リダ が時間 に関 して この点 を指摘 し、 「差延」 とい う概念 を提案 したの と同様 に)。われわれにとっ て問題 となるのは、根源的統一性 を分解す るこ とで はな く、 マークされないまま前提 とされて いる世界状態

( We l t z us t and)

のなかでの区別 の創発である。 どの下位 システムも、固有 の シ ステム/環境差異 によって、 自己が属す る包括 的 システムを再構成 す るので あ る

( Luhmann [ 1 9 9 7: 5 9 8 ] ) 0

したが って、機能 システムの 「外」 は存在 し ない (これが 「システムの閉鎖性」 の意味であ る)。 もちろん法 システムか ら、「法 と経済 の関 係 (はいか にあるべ きか)」につ いて考 え るこ とはで きる。 しか しそれ はあ くまで法 システム か ら見た法 と経済 の関係 なのであ って、それが 経済か ら見 た法 と経済 の関係 と一致す るとい う 保証 はない。「これ らの記述 は収赦 しえ ない。

各 々の機能 システムにとって環境 は、 したが っ て 全 体 社 会 は 、 異 な っ て 見 え る か・ら」

( Luhmann

[

1 9 87: 3 5 ] )

。 ここで は 「媒介」 は システムの内部 でのみ可能であ って、媒介 を通 して共通 の 「全体」へ と飛躍す るあの道 は、完 全 に閉ざされている(ll)0

か くして多 くの論者が指摘 しているとお り、

ルーマ ンの描 き出す機能分化社会 は、調和 ある 全体 を保証す るいかなる契機 を も欠 いて いると いう結論 にな る。 これはすなわちルーマ ン理論 はあま りに も一面的であ り、媒介 メカニズムに

関す る考察 によ って補完 されねばな らない、 と い うことを意味す るのだろうか。 ルーマ ン理論 によれば、全体社会 はまった くのカオス‑と陥 っ て しまうはずだ、だがそれ は事実 に反す る (あ るいは、 に もかかわ らず秩序 は現 に存在 してい る)、だか ら何 らかの媒介 メカニ ズムを考 え る 必要があるはずだ、 と。 しか しわれわれは、 こ の二つの 「はずだ」 の間 (「に もかかわ らず」) に立 ち止 まって、両者 を繋 ぐ道筋 について考え てみ る必要があ りは しないだろうか。

5

:ラカンのゲーム

「はずだ」 を介 してル ソーに見 られたあのず れを飛 び越 える、その論理 が畢 む問題点 を、 あ るいはその論理 とは別 の可能性 を、明 らかにす るために、 ここで補助線 として用 いたいのは、

ラカ ンの有名 な 「囚人 のゲーム」である(12)。長 くなるが、概要 を確認 してお こう。

刑務所の所長が三人 の囚人 を とくに選んで 出頭 させ、次 のよ うな意見 を伝 え た。「きみ た ちめ うち一人を釈放す る ことにな った.・

ここに五枚 の円板があ る。その うち三枚が白、

二枚が黒 とい うふ うに、色 だ けによ って区別 されている。わた しは この うち どれ を選 ぶ か 理 由を言 わないで きみたちの背中に一枚ずつ 円板を貼 る。直接 これを見 ることはで きない。

ここには姿を映すよ うな ものは何 もないか ら 間接的に も見える可能性 はま った くない。き みたちは、仲間 とそれぞれのつ けて い る円板 はとくと見 ることがで きる。もちろん、きみた ちの見た ものをお互 いに言 うことは許 されな い。・‑‑釈放 の処置の恩恵 を受 けるのは、最初 に自分 の色 について結論 をだ した ものにか ざ る。もうひとつ、きみたちの結論 には論理的な 理 由づ けが必要であ って、単 に蓋然性 だ けで はいけない。このために、きみたちの一人が結 論 を言 う準備がで きた ら、それを審議 す るた めの呼び出 しを受 けるためにこの戸 口か ら出

ー7 8‑

(7)

て もらいたい ‑三人の囚人 にはそれぞれ 白い円板が貼 られた。‑‑・

三人の囚人は、いっとき考えた後で、いっしょ に数歩前進 し、並んで戸 口を出た。 彼 らはそ れぞれ次 のよ うな似かよ った解答 を用意 して いた。「私 は白です。それがわか る理 由 を申 し 上 げます。私 の仲間た ちが 白で あ る以上、も し私が黒であれば彼 らはめいめい こう推論で きるはずです、『もし自分 も黒であれば、もう 一人 の仲間 は自分が白だ とい うことがす ぐに わか るはずで、そ うすればただ ちに出て行 っ て しま う。 だか ら私 は黒 で はない』。 そ こで 二人 とも自分が白だ と確信 してい っしょに出 ていって しま うはずです。彼 らがそ う しない のは、私が彼 らと同 じ白だか らです。 そ こで 私 は自分 の結論を言 うために戸 口に進み出ま した。」このように して、三人 は同 じよ うな結 論 の理 由づ けに力 を得て同時 に出て行 った。

( Lac an

[

1 9 6 6‑1 9 82: 2 6 3‑ 4] )

一見す るとこの 「ゲーム」で は、各個人 の合 理的推論 の相互作用か ら、 ひとつの 「全体的秩 序」 たる共有知 が創発 して くる過程が描 き出さ れているよ うに見え る

しか し純粋 に論理的 に 考え るな らば、 ラカ ンの この議論 は問題 を学ん でいる。 セ ミナーの翌 日にラカ ンに反論 の手紙 を したためた とい うあの学生 の言 う通 りに、で あ る(13)。 そ してまた、 この学生の議論のほうが、

正続的なゲーム理論 の立場か らすれば、 まっと うな ものであるはずだ。「囚人 の ジ レンマ」 を 初 め とす る通常 のゲーム理論で は、各人 の合理 的推論 か ら共通 の秩序が成立す る可能性 をい っ たん否定 した うえで、反復的な トライアル ・ア ン ド・エラーのなかか ら秩序が形成 され る蓋然 性 とその条件 を探求す るか、 さもなければ例 の

「はずだ‑‑・に もかかわ らず ・‑・はず だ」 の論 理 によって別の レベルに位置す る秩序 を天下 り 的に導 出す る、 とい うよ うに議論が進 め られ る か らである。

パーソンズの 「ダブル ・コンティンジェンシー」

をめ ぐる議論が後者 の典型であることは、今 さ ら確認す るまで もあるまい。 ルーマ ンとの関連 で言 えば、 樫村 [

1 9 9 8: 6 ‑ 8 ]

も言 及 して い る

Dupuy [ 1 9 90 ]

を後 者 の例 と して挙 げ うるだ ろう。 デュピュイは別 の箇所で、 ルーマ ンを次 のよ うに批判 して もいる。 ルーマ ンはシステム の作動 を超越す る作動 を一切認 めないが、それ では規範的秩序 の存在 を説明で きない。 システ ムの自己超越

( s e l f ‑ t r ans c e nde nc e )

によって 生 じる秩序、例えば‑ イエクのい う自生的秩序 を考えることによってのみ、われわれ は秩序 の あ り方 を把握 す る ことがで きる、 と

( Dupuy

[

1 9 8 8: 5 6‑ 6 7 ] 0

一方 ラカ ンのゲームでは、 この種の論理的推 論 にはない要素が付加 されている。 それは、時 間の経過 (あるいは、時間の 「せ き立て」 ない し 「性急 さ

」)のなかでの現実的な接触である。

無限 に与え られた時間の中で、他人が動 く/動 かないとい う二者択一 を手掛か りとす る論理的 推論 を行 っている限 り、註 (

1 3)

で述べた学生 の 批判 に見 られるように、答の出ない堂 々巡 りの なかに留 ま らざるをえない。 しか しこのゲーム において は、他人 よ り早 く結論 に到達 しなけれ ばな らない (あるいは少 な くとも、他人 に遅れ ないよ うに しなければな らない)。 この時間的 圧力のゆえに各人 は、場合分 け手続 きによるシ ミュ レーシ ョンを放棄 し、 自分の色 については 未決定 に しておいたまま、何 が起 こるかを待つ とい う状態 に留 まることになる。 この未決定状 悲 (待機す る、 あるいは梼樺す るとい う第三 の 選択肢)の三人がお互いを注視 しあうことによっ て、個人 の推論 によっては到達不可能な 「真理」

(三 人 と も白) への跳 躍 が可 能 とな るの で あ る(1

4)。

この跳躍 を可能 にす るのは、 あ らか じめ 間主観的に分有 されている知識や規則で も、個 人の うちに備 わ っている能力で もな く、 また共 同体 と個人 を同時 に産出す る、特定 の行為 ( えば、契約) の本質で もない。 「真理」 を もた

(8)

らすのは、限 られたタイム ・スパ ンの うちで、

確実 な根拠 を もたないまま、他者 との現実 の出 会 いに自らを賭 けること、すなわち 「転移」 な い し 「愛」 なのである。「したが って転移 とは、

幻想 である。 しか し肝心 なのは、われわれはそ れ を飛 び越 え て

( bypas s )

、 直接 実理

( t he Tr ut h)

に到達す ることがで きないとい う点 で

ある。真理その ものが、転移 に特有の幻想 を通 して構成 され るので あ る

」( 豆i蓋e k[ 1 9 8 9: 5 7 ]

)

( 1 5) 0

以上か ら明 らかなよ うに、 このゲームにおい て個人 と全体 (真理)を繋 ぐ道筋 は、第

3

節で 述べた 「ずれ」 を埋 める三つの方策 のどれ とも 異 な っている

われわれはそ こに 「多様 な もの の統一性」 をめ ぐるあの陸路 を抜 け出る可能性 を見出 しうると考え る。 そ してまた、 それ こそ がルーマ ンが 「機能 システムの統合」 に関す る 議論 において試みていることなのである。

6

:時間のなかでの 「統合」

ルーマ ンに関 して、 ラカ ンのゲームか ら真 っ 先 に連想 されるのは、例の 「ダブル ・コンテ ィ

ンジェンシー」 の扱 いであろう.

自我

Ego

と他者

Al t e r

によ る〕 相互 の注

( Rt i c ks i c ht )

の循環 のなかに位 置す る自 己言及 は、否定的な ものである一一そ してま さにそゆれえに、生産 的

( f ur c ht bar )

なの である。/ 〔社会 システムが〕新 しい条件づ けに対 して開かれているのは、 この否定性 と 同一 の条件 に基づいての ことである. その条 件 とはすなわち、偶発性の二重化である。 自 我 は他者 を、他我

( al t e rEgo)

と して経験 す る、 というわけだ。自我 は、パースペクティ

プの非同一性 と同時 に、両方 の側で、 この非 同一性 の経験が同一であることを も経験 して いる。 それゆえに両者 にとって状況 は、規定 不可能で、不安定で、耐え難 い もの となる。

この体験 の うちで、パースペクテ ィブが収敷

す る。 それによって、 この否定性を否定す る ことへの関心、規定への関心 を仮定 しうるよ うに な る。 か く して 、 ・‑‑待 機 状 態

( War t e s t and)

のなかでの システム形 成 の 可能性が与 え られる。 この可能性 は、構造 を 発展 させ るために、 ほとん どあ らゆる偶然 を 利用 しうるのである

。 」( Luhmann [ 1 9 8 4: 1 7 2

]、傍点筆者)0

大洋

[ 1 9 9 4: 7 6 ]

は、 ル ーマ ンの この議論 に は飛躍がある、 と指摘 している

同様 に

Mi l l er [ 1 9 8 7: 2 0 4‑ 2 0 8 ]

も次 の よ うに批判 を行 って い る。 ルーマ ンは、ダブル ・コンティンジェンシー とい う問題 の自己触媒的活動 を、即 ダブル ・コ ンテ ィンジェンシー問題 の解決へ と転換 して し まう。 自他 の体験が異 なるとい うことを両者が 承認す ることか らただちに、その一致 による問 題解決が生 じて くる、 と。 しか しそのためには、

差異 の認識 を可能 にす る共通 の基盤が必要 なは ず だ・

‑・ ・ 。

この点 に関 して は、大洋や ミラーは論理的に は完全 に正 しい。 ラカ ンを批判 した学生が正 し いの と同様 に、である。 しか し実際にはルーマ

ンの ダブル ・コンテ ィンジェンシーは、 ラカ ン のゲームと同様 に、時間の圧力のなかに置かれ ている。 自己言及的に閉 じられているがゆえに、

A‑A

という無内容 な規定性 (‑規定不可能性) しか もたないシステムが対略 した状態のなかで は、 あ らゆるで きごとが自己規定の契機 として 用 い られて しまう。何 もしない こと (蹄措す る こと、待機す ること) もまた、 「時間 が た った のに何 もしないままだ」 とい う出来事 と見 なさ れ るのである。 ダブル ・コンティンジェンシー とい う問題の 「解決」 は、「共通の基盤によっ てで はな く、時間のなかでの現実的な接触によっ て、 そ して時間の流れに強 い られっつ とりあえ ずの仮定 に自らを賭 けることを通 して、生 じる のである。二つの〕 ブラック ・ボ ックスが互 いに遭遇す ると、 いわば白さを産み出す ことに

‑ 80‑

(9)

なる。 それは少 な くとも、相互 の交流のために は十分 なのである。二つのボ ックスは、それぞ れの単 なる仮定を通 して、 リア リテ ィの確か さ を産出す る。 とい うのはこの仮定 は、他者の側 で の 仮 定 の 仮 定 に 至 る か ら で あ る 」

( Luhmann

[

1 9 8 4: 1 5 6 ‑ 1 5 7 ] ) 0

ここには確かに 「飛躍

がある。 この飛躍 を 可能 にす るもの こそ、論理的推論 とは別 の次元 に位置す るもの、すなわち時間の圧力の もとで の 「転移」 なのである(16)(転移 に伴 う幻想 こそ が真理を構成す る、 とい う先 に引用 した ジジェ クの言葉 を想起すべ きだろう)。 ルーマ ンが、

事実的に生 じるコ ミュニケーシ ョンが間主観性 を基礎づけるのであ って、逆ではないと述べて いるのは

( Luhmann [ 1 9 9 0 b: 1 9 ] )

、 この よ う な意味 においてである。 あるいは次 のよ うに も 述べ られている。

古典的な間主観性 の問題‑・‑に代わ って 登場す るのは、次 のよ うな事実 である。社会 的な自己観察 と自己記述 は、 そ もそ もコ ミュ ニケーションと して しか生 じえないとい うこ とか らして、 それ 自体観察 と記述 にさらされ

したが って、すで に存在 している記述 は 不断 に記述 されなお してい くのである。 そ こ か ら 、 不 一 致 の パ ー ス ペ ク テ ィ ブ

( i nkongr ue nt ePe r s pe kt i v e

)が継続的に 産出されて くる。 それゆえ、確かに自己記述 は一 に して同一 の問題であるが、 それが主題 化 され るや否や、 ほとんど強制的に多数 の解 決 を産み出すのである

」( Luhmann [ 1 9 9 7: 8 7 6 ] ) 0

この解決 の産 出を 「強制」す るもの こそ、時 間の圧力 に他 な らない。 ただ しここでい う 「 決」 は、 さ らなるコ ミュニケーションを続 けて い くためにとりあえず役立っ手掛か り (フォン‑

フェルスターのい う 「固有値」)にす ぎないの であるが。 しか しコ ミュニケーションが続かな

ければいかなる間主観的な 「真理」 も生 じえな いはずである(17)0

以上 のよ うなルーマ ンの ダブル ・コンテ ィン ジェンシー概念 は、 システム言及 に関 しては中 立的に構想 されているがゆえに、個人 どうしの 場合 のみでな く、機能 システム間の関係 (統合)

に対 して も適用可能である。現 に先 の引用 にお いて想定 されていたのは、対面的相互行為 よ り

もむ しろマクロな システム間関係であ った。

ここで統合概念 について整理 してお こう(18)0 ルーマ ンは統合を、(構造 的 に カ ップ リングさ れた)下位 システムの自由度 の制限 として定義 している

( Luhmann[ 1 9 9 5 a: 2 3 8 ] [ 1 9 9 7: 6 0 3 ] )

0 ただ しここでの 「制限」 は、 自己同一的な シス テムがあ らか じめ所有 していた選択可能性 の う ちのい くつかが削除 され る‑‑ とい うよ うに理 解 されてはな らない。機能分化 したシステムは、

コー ドのみによって統一性が与え られるがゆえ に、 それ 自体 としては無規定状態 に陥 らざるを えない。例えばかつては永遠 の法‑ 自然法‑‑莱 定法 とい う‑イアラーキーによって内容を与 え られていた合法/不法の区別 は、機能分化 しシ ステム外か らの規定 を受 け付 けな くな った法 シ ステムにおいて は、支えを失 って空転 して しま う。合法 と不法 は、互 いの否定 とい うかたちで 無内容 な循環関係 をなす ことに しかな らない。

機能分化 は、 自己言及 を含 み込 んだ機能 シス テムの、作動上 の閉鎖性 に依拠 している。 その 帰結 として、機能 システムは自身 を、 自ら産出 した無規定性 とい う状態へ と移 し入 れ ることに なるのである

」( Luhmann [ 1 9 9 7: 7 4 5 ] )

0

ダブル ・コンテ ィンジェンシーに関 して述べ たよ うに、このような無規定な 「ブラック ・ボッ クス」が時間の圧力の もとで注視 しあ うことに よって、相互 に規定性を送付 しあえ るようにな る。 ただ し相手か ら送付 された規定性の契機 が どのよ うに作用す るかを決定す るのは、 あ くま で当の システムの構造 なのだが (この事態 が

構造的カ ップ リング」 と呼ばれる所以である)0

(10)

この統合 ‑制限が、 システムの規定性 ・同一性 を産 出す るのである。 この意 味で、 「全体社会 の分化 は 〔相互依存〕打破のメカニズムとして 役立っ」

( Luhmann [ 1 9 9 0 a: 6 7 ‑ 6 8 ] )

。 そ して この統合 は、「いかに して可能 か」 と問 われ る まで もな く、常 に生 じて しまっている。 む しろ

「いかに して」 とい う問 いは、事 実 的 な統合 に よ って規定 された特定 の システムの内部 におい て、初 めて生 じるのである。 この統合が生 じて しま うのは、 あ らゆるシステムがその作動 を事 実的に

( akt ue l l )

に実行 す る (あ るいは、 実 行 しない) か らである。 この ことか らしてすで にシステムは、他 の事実的な もの との同時性 と い う条件 に服 す る。 それゆえ、懇意的ではあ り えないのである

( Luhmann [ 1 9 91: 2 6 ] )

0

あるいはわれわれ は、時間の経過 の中で事実 的に常 に生 じて しまっている統合 と、特定の シ ステムの内部 か ら探求 された り根拠づけ られた りす る統合 (法 システムか ら見た法 と政治の統 合 など)とを、すなわち事実的な作動ないしオー トポイエーシス ・レベルにおける練合 と、 シス テムの内部 において生 じる観察 レベルでの統合 を区別すべ きなのか もしれない。前者の統合 は、

註 (1)で 「信頼」 に関 して述 べ たの と同様 に、

社会秩序 の問題 に対す る解決 とい うよ りもむ し ろそれ 自体 が問題 を形成 すーる。 したが って、

古典的な統合概念か ら見 れ ば、 現代社会 は統 合 されて いない

( de s i nt e gr i e r

t) もの と して 記述 されざるをえないだろ う・‑・。一方 ここで 提案 された概念形成 か らは、反対 の診断が導か れ る。現代社会 は過度 に統合 されてお り、 それ に よ っ て 脅 か さ れ て い る の で あ る 」

( Luhmann [ 1 9 9 7: 61 8 ] )

。観察 レベルにおける 統合の考察や試み はむ しろ、作動 レベルにおけ る統合 とい う問題 を不可視化 し、隠蔽す るため になされ ることになる。

7

:結語

最後 に、次 のよ うに問いかけてみ る必要があ

ろう

以上 の考察 はわれわれが答 を留保 してお いた、 あるいは 「脱構築」 しようと試 みたあの 問題、すなわち 「多様性 を含んだ統一的秩序 を 何 に依拠 して、 いか に して構想すべ きかとの 設問に対 して、 どんな寄与 をな しうるのだろう か。特 に環境問題 に関 して は、何 を述べ うるの だろ うか。

残念 なが ら、実践的指針 となるよ うなどんな 回答 も与 ええないと、言 わねばならない。ただ、

統合 について考え る以前 にすで に統 合 は生 じ て しまっている」 と言 い うるのみである。 しか

しこのまった く無内容 に見 える言明か ら、 さら にい くつかの含意 を引 き出す ことは可能だろう。

第一 に、「多様性 を生かす秩序」 に関す る こ の問いかけを 「現代社会 (学)が直面する課題」

と して設定す ること自体か らして、すでに過度 の斉‑性 を仮定 し、多様性 を抑圧 しているので はないか。 この種の問題設定 によってわれわれ はいわば、「多様性 につ いて論 じよ うとす るな ら、一様 に語 らねばな らない」 とい うダブル ・ バイ ン ド状態 に置かれて しまうのである

( 1 9)

。 そ

して、「多様 な ものの緩やか な統一」 を称揚 す るこの語 り口は、決 して新 しい もので もない。

む しろそれは、かっての 「物象化 された構造 ・ 対 ・創造的主体」、「構造主義 ・対 ・ヒューマニ

ズム」 といった図式 の反復 のよ うに見える。固 定的で一方向に暴走 しがちな社会 システムの論 理 に、柔軟で創造性に富んだ社会運動なりラディ

カル ・デモクラシーを対置せよ、というわけだ。

しか しわれわれはむ しろ、 ア ドルノの言葉を想 起す る必要があるのではな いか。 「ヴ ィル‑ル ム ・ケ ラーは・‑‑物象化 に対 しては人間化で し か対抗で きない、 と言 っている。 だが‑‑芸術 は厳格 に自分 の経験 に従 って、管理 された世界 の弦惑機構を突き破るようでなくてはならない一一 疎外 に答 え る もの は、 異化作用 だ けで あ る」

( Ador no [ 1 9 6 3‑1 9 9 8: 1 2 0 ‑ 1 21

])

( 2 0) 0

第二点。 そ うは言 って も、 われわれ は現実 に は常 に様 々な システムの内部か ら、統一性 ・統

‑ 8 2‑

(11)

につ いて語 り続 けることにな るだ ろ う。 それ な しには、 われわれが 日々直面 す る諸 問題 を解 決 して い く展望 が失 われて しまうであろうか ら。

そ して、 そのよ うな試 みのなかで、他者 (個人 も機能 システム も含 めて) と様 々な関係 を取 り 結ぶ ことにな るだ ろ う。 しか し、他者 と協力 し て いる場合で もコ ンフ リク ト関係 にあ る場 合で

も、 あ るいは他者 を例 えば 「多様性 の敵」 と し て (具体 的 には、「原理主義 者 」 だ とか 「シス テム合理性 の信奉者」 と して)排 除 しよ うと し て い る場合で も、別 の レベルにおいて はわれわ れ はすで に他者 と統合 されて しま って い るので あ る。

環境 問題 とは、 きわめて抽 象 的 に言 え ば、 社 会 とその外部 (他者 と しての 自然) とを、調和 の とれた、す なわ ち再生産 ・持続可能 なかたち で、統合す るに はど うすればいいのか とい う問 題 で あ る。 だ とすればそ こにおいて もわれわれ は、統合 の二 つ の レベルを区別す るべ きで はな いだ ろ うか。一方 で、調和 あ る統合 を もた らし うる、 あ るい は社会 と自然 とを シ ンクロさせ う るよ うな様 々な制度 や理念 が探求 されて い る。

しか しその種 の探求 も含 めた社会 のあ らゆ る作 動 は、社会 の内外 で生 じるあ らゆ るで きごとと 同時 に、 すで に存在 して しま って い る

この作 動 レベルにおいて は、 そ もそ もシ ンクロの問題 な ど存在 しない。 そ こで はあ らゆるシステムが、

自然 に シ ンクロされ るか らで あ る

( Luhmann

[

1 991: 42 ])

。 ただ し先 に も述 べ た よ うに この

「シ ンクロ」 は、 問題 の解 決 で はな く問題 そ の もの と して登場 して くる。 それ は、新 しい理念 の確立 や制度 の改革 な どによ って は除去 で きな い。理念 や制度 の探求 の ほ うが、問題 と しての この シ ンクロを前提 と して い るか らであ る。 ジ ジェクが、 ラカ ン派精神分析 が環境 問題 に対 し て取 る態度 と して次 の よ うに述べて い るの は、

われわれ と同様 の認識 を踏 まえての ことで あろ う。 すなわち ラカ ン派 は、 エ コロジー的危機 の リアル さを受 け入 れ る。 ただ し、 そ こにいか な

る意味 もメ ッセー ジ も付与す ることを拒否す る、

(

2i 云e k

[

1 9 92: 3 5 ] ) 。

くりかえす ことにな るが、 われわれ は 「つね に‑すで に

」 ( i mmmers c hon)

他者 と統 合 さ れて しま って い る。 したが って、他者 を愛 して いよ うが憎 んで いよ うが、 そ うい った感情 とは 別 の次元 において、常 に他者 を歓待 しなければ な らない。 クロソウスキーに倣 って言 えば、 わ れわれ は常 に 「歓待 の綻」 に服 して いるので あ る。 ただ し、 これ は単 に制約 を意味す るだ けで はない とい うことを確認 してお きたい。 とい う の は、 自 らを開 いたまま他者 と注視 しあ うあの 瞬間がなければ、われわれは決 して ドアに向か っ て一歩 を踏 み出す ことがで きなか った はず だか ら。 た とえその ドアが どこに通 じる もので あろ うとも、 で あ る。

(1) 経済 にお ける共同的基盤

(

「信 頼

」)

の重 要 性 を 強 調 す る同 様 の議 論 と して 、 佐 伯 [

1 9 97: 2 0 8‑ 2 25 ]

も言 及 して い る

Fukuyama

[

1 995‑1 99 6]

を挙 げてお こ う。 ただ し、 佐

[ 1 9 97: 2 21 ‑ 2 22 ]

が、 フクヤマ と同類 の議 論 と して

Luhmann [ 1 97 3‑1 9 90 ]

を 引 き合 いに出 して い るの は誤解 に基づ くものである。

フクヤマや佐伯 の議論 のなかで は、信頼 は当 事者 に とって も観察者 (社会科学者) に とっ て も、複雑性 を縮減 し社会 を (フクヤマの場 合 な ら、特 に経済 を)安定 させ る 「メカニズ ム」 であ る。 しか しルーマ ンにおいて は、 当 事者 か ら見 ればそ うで あ る (当事者 は自体 を その よ うに観察 す る) と して も、社会科学者 (セカ ン ド・オー ダーの観察者) か ら見れば、

信頼 へ の依拠 は複雑性 とい う問題 の単 な る変 形 ・隠蔽 にす ぎず、 それ 自体 また問題 を生 ぜ しめるものなのである

( Luhmann[ 1 97 3: 3 2 ‑

1 9 90: 5 3 ] )

。 ただ し、 初 期 の ル ーマ ンにお い て は、二 つ の観察 レベルの差異 がそれ ほど強 調 されて いなか ったの も事実 なのだが。

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