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伝 統 社 会 と 宗 族

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伝 統 社 会 と 宗 族

井 上

前 提

本報告書は、 f中国の現代化の行方Jを共通の研究テーマとしている。したがって、文 章を寄せるに際しても、 f現代化」にふさわしい題材を選択すべきであるが、筆者は、

f現代化Jとは、時代も状況も大きく隅たった伝統社会(とくに明清時代)を対象として 研究を進めてきたから、 f現代化j という問題に直接関わる論文を寄稿する能力を持ち合 わせていないa そこで、従前の研究作業を起点とした小論を著し、それが、わずかでも共 同研究の成果に寄与できれば幸いで、あると考えている。

これまでに筆者が行ってきた研究の一つのテーマは、宗族を対象とするものである。宗 族とは、最も広い意味においては、共通の祖先から分かれた男系血縁の親族を指している が、歴史学の分野において取り上げられる時には より限定された集団が問題とされる口 よく知られているように、商欧資本主義は 構朝末期の19世紀中葉、中国社会に寵接的 な接触を開始したが、その影響は、中国社会の深部にまで到達するような深刻なものであ ったため、ウェンスタン・インパクト〈西沖の衛撃)と将ばれている日民本における中国 史研究は、以後、社会主義政権が成立する 1949年までの100年ほどの時代を、 f

(

として時代区分してきたが、この時代、欧米や日本の研究者が5齢、関心を示した対象 が宗挟という集開であった日ここにいう京族とは、族産と時ばれる共有地、耐堂(宗輯)、

族譜、こうした一連の装置を所有して、宗法と呼ばれる原理のもとに統制dれるような集 団である。こうした宗族の集団が注目を集めたのは、元来は、西欧の中間観と密接に連関 している。 18世紀の西歌iことって、慈、悲深い専制君主が、儒教的教養を備えた文宮に補 佐されて、道徳的・政治的規範に闘って統治する中国は、ユートピア的存在であったが、

9世紀になって、西散を中心とする f一元的進歩史観jの睦盛のなかで、進歩的なヨ一 口ツパに対する停清的な中田という、中国iこ厳しく軽蔑的なイメージに取って代わられる ようになったという o 宗挟は、この停滞というイメージを支える役献を担っている。例え ば、マックス・ウエーパーで、あるo ずっと何千年間を過じて破砕されたことなく存続し てきた氏族の団結と氏族の長の卓植した地位J、官吏とその家族は、資産蓄積の最良のチ ャンスを所有していたが、この種の f営利共同体Jは「合理的経済的な経営共間体の発療 とは正反対の方向j にあり、 fおまけに、厳格に氏族の拘束をうけていたj、そして、

f上からの家産制的政府は、

a

己に抗する対抗勢力として堅田に形成された下からの氏族

7… 

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組織にぶつかっ足J0 変わるととなく長期にわたって存続し続けた宗族こそが、資本主義 へと発展することなく停滞した中国社会の被患に存在したのだという確倍がそれらの苦葉 のなかに読みとれるであろう。

アジア諸国のなかでいち阜く近代化を成し遂げて、中国へと進出していった日本におい ても、西欧の中国観に通産する視点が浮上してきたことは、よく知られている岱村松裕次 は、当時における f停滞jの視点の問題点を次のように指摘している。戦前の日本では、

中国人の営む社会生活が、法的な規制よりも、より多く、宗族、村、ギノレドという f慣行 的・自律的な秩序J,こ依存する、そこiこ中国の停滞の根閣が潜んでいると考えられたが、

とうした見方は、じつは、 「自律的な秩序jの内容も実体も明らかにしないままに示され た先験的な認識であったという。 r近代ヨーロッパ的でない前(或は単に非)資本主義的 な経済社会秩序が、そこにあると云ふ認識に結びついて、ヨー口ッパに於ける前近代的な 態制の、それも時には不当に図式化せられた型が無造作にそれに適用せられ、封建的とか 半封建的とか云う合言葉で之を呼ぶととによって、その内容の尚ほ十分に明にせられてい ない、中国の在来の社会秩序が、殆んど論証を須ひずして自明なものの様に扱はれる場合 が決して少なくなかった。結果から言えば、従来そこでは、強力な上からの庄カをはね返 す、従って個々人の合理的な経済計梱を抑圧する封鎖的な殻の様な f協間体Jが、中国の 宗族や村やギノレドに於て考えられ、中国経済全体の態制も、封鎖的にして単元的な、宗族 経務・村落経済・ギノレド経、済の複合として考へられるととが通説化した。伝統的・封鎖的 な秩序が、経営合理的な個別計算を抑正し、それが経済態制全体の届定と、停i曹との根因 をなしていたと考えられたJ0 停滞の根困とされる宗族、村、ギノレド、この王者を結びつ ける契機は、 f由縁的な、或は祖先祭詑と云ふj宗教的な要素であった。中閣に広くみら れる「向性村落jの存在や fギノレド結成に於ける同郷団体の有力さなどが、ギルドと村と 宗族とを通ずる血縁的にして祖先祭記的な紐帯のー買を想定させたJ0 血縁的一体感に よって支へられたg齢、間那意識が、一方では村〈屡々同姓関係を通じて一つの宗族である ことが橡想せられた)の農民昔、他方では、也郷に出志向郷者宏、更には農々同業者をも、

村・宗族・ギルドiこ集結せしめる主要契機と考へられた J0 中国社会の長期停滞の原国を 突き詰めれば、中間的諸団体一宗族・村落・ギルドーに行き着き、とりわけ、宗族はこれ を支える f血縁的J r祖先祭記的」な紐帯が問時に村落・ギノレドの結合の紐帯ともなって いるがゆえに、停滞の般にあるものとみなされたのである。

こうした議論の前提になっている停滞の視点は、近代の日本が置かれた状況から出てき たものである。日本思想史の黒住真が提恭する、西欧、中間、日本の思想的な磁場配震は、

その点、を考えるうえで、参考になるc 近世までの日本にとって、中国が圧倒的なものであ りつづけたことは疑えないが、大航権時代の16世紀ごろから、西洋の惜報が徐々に広が り、関係域の拡大が起とり始め、さらに、 17世紀半ばに明清の交替が起こり、儒学者の 間に清朝は夷秋が中国に居鹿ったものだという考えが広がると、文化閣からの距離を媒介 に、西洋知識も思いながら、中国を棺対化しつつ日本を上昇させていった。この配置が近 代にはいっても受け継がれ、より明瞭なものとなる。近代の思想文化の時空には、 西 洋J r近代j的なもの、 f日本J的なもの、 f東洋J rアジアj的なもの、との三つの次 元が働いている。西洋的なものの力は近世以上に圧倒的なものとなり、それは、自本自身 にとって巨大な圧力の場をなしただけでなく、中国・アジアに対しでも覆い被さるような

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脅威的なカをもっていた。そうしたなかで、話本的なものの志向をとらえる場合、 f J f興亜jにグルーピングされるような立場が登場し、近代日本の思想文化のうねり を形成していくり近代史の流れに即していうならば、西洋に対抗して岳己形成する日本が 日講戦争(一八九由…九五)に勝利したことは、時代の場を主導する力が、もう吉い中国 を中心とする秩序ではなく近代的な秩序であることを、また日本人の自己意識に顕して震 えば日本の秩序が秀でたものであることを(脱歪)、当時としては知実に証拠立てるもの で、あった。さらに、日露戦争(一九O四一O五)は、日本が西洋の一端であるロシアに勝 手りしたととによって、 E本が西沖に十分に対抗しかっ恒するものだとも受け止められ、西 洋の一端への直接合戦いであるという意味で、 f興寵j的・アジア的な意味合いも結果的 に帯びていたという。そこに窺われるのは、西歌の文明を摂取して、近代化した員本が、

中国の文明令抜き去り、東に西歌文明と対等な地位にまで上昇したのだという自信である。

上記の停滞論は、こうした日本人の近代化達成の自信に裏付けられて霊場したものと考え られるo

上のように、戦前の日本における宗族観は、近代に浮上した中国社会ロ停滞という先 験的な服によって作り上げられた側面が強く、丹怠な論証によってその歴史的治革のプロ セスを明らかにするという手続きを欠いていた。史料誠査によって京嫉の摩史的沿革を確 定していく研究作業は、牧野襲、清水盛光、仁井田陸等によって行われた。宗法の原理に 支えられ、版措、病堂、共有地という物的基盤を備える宗族の形態は、漢族の文明の発生 以来、中国社会の蔀底iこ存在し続けたわけではなく、宋代に始まること、そして宋代以蜂 近代に王君津での宗族はその形態出において共通の性格を備えていることが明らかにされ たのである。

では、来代になぜとうした宗族が登場したのか。その理由は、研究上、宗法復活論ない

k芦法主義と時ばれる宋代の知識人(士大夫)の思想に注目することによって耀解され o 宗法復活論とは、周代、封建諸侯の家に行われたと経典に伝えられる謀、法の原理を復 活して、開祖の父系親族を組織化しようとするものであるが、こうした見解が登場したの は、米代に確立した科挙官察制度と緊密な関係がある。任官に捺して世襲の家格が盤ん乙 られた簡庸時代に較べて、宋代の科挙官録制度のもとでは、試験の公正、機会の均等の雄 言の徹成化が国られたため、この時代の知識人が抜拠すべきものは、家柄ではなく、学問 一儒教的教義ーであり、{需教的教養の習得によって科挙に及第し、宮僚となることが原則 であったa この制度のもとでは、捜得された官紫身分が原開として一代限りであることは 苦うまでもない。しかも、家産均分(析産)の横行により、宮擦の死後、その家産は、諸 子の関で均等に分割されることになるq 要するに、身分も富も一回性のものであり、子孫 が絶えざる営為を行わない限り、ついには、その家系が社会的に埋没する宿命にあった。

そこで、宋代の稿者は、 I京法なければ世匹なしj として、宗法の復活による名門の家系 の確立を務求した。共同祖先端茶の子孫(宗子〉が、祖先様蛇を媒介として、関担の族人 を統合する宗族の組織を詐り上げ、宗族を単位として代々官僚を輩出すれば、 f世毘Jが 実現すると考えられた。詞堂、族譜、共有地は、そうした宗法を実路するために必要とさ れた装置に他ならなしら族譜の編纂は、共同祖先以下の祖先と彼らから分派した按人の系 譜を再現するうえで必要であり、また、祖先祭記の場である嗣堂は、京子の主祭によって、

族人の統合を保つ機能をもっ。しかし、この前者のみでは充分とはいえないa 桓久的な経

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済基礎がなければ、折角作り上げた宗法の体制も解体せざるをえない口析産の対象とされ 犠田・祭田といった者採共有地がそれである。北京の著名な宮療・活仲流会3祖宗の地 である蘇HIで創始した義荘は、義出という経捺基礎をもっている点において護れている窃

京代以来、この吉氏を模範として、京嫉彫成の運動が繰り返されることになるが、そう備 した運動が大きな発展を見せる時期として注目されるのは、 16世紀以降である。この時 代は、かつてない広がりをもって粥品全産が展開した時代として知られる。沼氏識荘の本 拠地が置かれた蘇什│府城では、中国内外の酪品が集積されるとともに、城内には多様な手 工業組合が成立し、商工業都市として繋栄在極めた。地方行政都市が商工業都市としての 性格を強める傾向は、蘇4;lj府城の他、杭州、南京などは言うまでもなく、呉江県など蘇州、│

府下の県城でも同様である o かかる府城を始めとする都市の繁栄は、農村地帯における手 工業(製糸・絹織物など)の発艇と連動している。足立啓二によれば、明代中期以降、中 国先進地帯の農業は、探耕多肥を基軸として、各種労働過程・品種・耕地そのものの変革 を伴いつつ、集約化の新しい段階在lfl!えることになるが、集約化とともに重要なのは、商 業的農業(販売のための農業)の膿開である。長江デ、ルタは、棉作・抵換業在中心として、

タバコなどの並の特用農産物も加え、高業的農業の最も発達した地方となり、また、揖結 織業と結譲り業を中心とする販売目的の手工業の全冨的中心となり、開地で織られる は華北諸省や長江中流・上流域iこも広く販売され、清代には権外車場までもつにいたる。

こうした集約化と嶺業的農業の牒慌を背景として、家族労働に加えて麓傭労織を用い、販 売のための零葬を行う富農経営が登場し、新しい生産力水準と商業的農業の中心的担い手 となるという。誤島教畿はまた、農民の商品生産への原料供給と彼らの生産物の販売の 場として、当時、農村に殺生した市鎮を位置づけ、彼らの生産・生活が、市鎮を通じて、

全国の流通経路に接続されていること&示した。市鎮を通じて流通経路に載せられた商品 は、大都市へと運び込まれわ大都市の手工業に原料として供給されるとともに、全国へと 出荷されていったのである。

そうした商業化・都市化の潮流を背景として、直接農業生産に従事せず、小農民に土地 を小作させる不在地主や、流通経路から菖を抽出する商業資本が成長する。被らにとって の至高の岳擦は官界入りであるが、科挙には定数が設けられているため、そうした目標を もっ知識人は、地域に滞寵することになる。こうして大量に生み出されるようになった知 識人のうち、科挙による任官に成功した人々は、その郷里において榔紳と称されている。

また、従来の研究は、任官してはいないものの、盟家から特権をと付与された科挙及第者 (生員、挙人)を含めて、郷紳という範辱で捉えている。こうして上昇を遂げた彼らも、

獲得したところの身分と窟の永続を保障されない。多くの史料が、郷紳への上昇と同時に、

彼らの死亡後における子孫、の没落(下降)を記録に残しているのちある。欧米の研究者は っとに、こうした現銀を社会的流動性(社会移動)と呼ぶ。没落の契機をなす、いわば定 数は、科挙官僚制度がそもそも身分の世襲を認めるものではないこと、そして、富も、家 産均分により細分化おれることであるが、さらに、適切な家庇教育の欠如、浪費、放蕩な ど奈まざまであり、それらの要因が重なり合って、上昇した家の没落を引き起こすのであ る。岸本美緒は、かかる措層開の流動性が顕著な社会現象として記録される時代状況の 特徴を次のように捉えている。この時代、中国の先進地域である江南では、都市に住む大 地主や詣人・官府などの収奪階麗の華やかな治費が人々を引きつけて、農村から都市へと

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人の流れが急速に進んだこと、そうした流動化現象のなかでは、激しい競争社会が出現し、

没落の危機にある人々が権勢ある郷紳と結びついて身の安全を保とうとしたこと、そして、

一介の庶民から、科挙に及第するととによって威信ある存在へと成り上がった郷紳和五あ るいは郷紳と官府相互の関にも激しい競合・対立があり、のみならず、郷紳の家の興亡も 激しいことなどであり、そ ~3Y た秩序変動の世界的背景として、 1 6世紀以捧における国 際商業の発展を重視している O

以上のように、 16世紀以降の中国の先進地域では、かつてない規模で出現した酪業化

・都市化の潮流のなかから、不在地主や高業資本が大きな成長を遂げたり彼らの目指すと ころは科挙による住吉であったから、かかる省産階麗の成長は、とちもなおさず、科挙に 及第するためiこ舞教的教養を習得しようとする知識人が大量に新出されたというととでも ある時しかし、彼らもまた宋代以来の士大夫と同様の宿命にある。身分と富を獲得しても、

その身分は子孫に受け渡されるような永続性をもたないのである口かかる社会の壊開は、

宗族形成の連動の発展にとって好適の土壊となったと考えられる。知識人の量的拡充は、

宗法の観念を共有する人々の増大を意味し、宗族形成の動きを加速したと考えられるから である。前稿では、京族形成の運動の広がりを、明代後期の蘇什Hこ限って、紹介した。ま ず取り上げられるべきは、浩氏義荘の動向である。部氏義荘は、明報成立直後に、最大の 危機を迎えた。太祖によって発動された江南の憲民に対する大規模な弾圧のもとで、大量 の義国と族人を喪失し、その機能をほとんど停止した。しかし、周怯牟どの宮僚の協力を 得て、共有財の再建など、復興に向けての動きを開始し、名門の宗族の地位を取り戻して いった。との部氏義荘の復興と歩調を合わせるように、明代中期以蹄の蘇州では、共有地 を経済基盤とする義荘の設立や、制堂設置、族譜編纂などの宗務彩成の潮流が、続域合中

として、府下の県城、市鎮、農村へと拡大していったのである G

では、伝統社会における最後の王朝・情朝の統治下にあっては、宗族はどのような位罷 を社会に占めるのか。以下に若干の考察を加えてみたい。

京法をめぐる議論

最初に、清代においては、宗法をめぐって、どのような議論が発表されているのかを紹 介しておきたい。紹介に際しては、明代までの議論の系譜を援り返っておくと、理解しや すい口すでに述べたように、宋代に盛場した宗法護活論は、始桂嫡系の宗子が、開祖の族 人を統合し、宗族の組織を形成することを霞指すものであったが、この宗法護活論には、

大来主義と小宗主義のごつの立場があったq 前者は、罵代の古宗法に倣って、最初の祖先 (始祖)を確定し、その嬬系の宗子工大京が、庶系の四人の小京〈継高祖小泉、継曽担小 宗、継祖小泉、継禰小宗)を率いて、開祖の旗人を永遠iこ統合することを主張するもので ある口この見解を表明した鵠者としてよく知られているのは、組顧 (1033‑110

7年)である岱しかし、宋代にあっては、大京の復活は困難であるとして、西小泉のみの 復活を主張する見解がむしろ強い。つまり、四世代前の高祖を共開祖先となし、その嫡系 の宗子(継高祖小宗〉が、継曽祖小宗、継祖小謀、継禰小宗を毒患いるものである。蘇載

(1 036‑ 1 101年〉や朱寒 (11 0年‑1200年)が五??立場に立つ。しか し、小宗主義にあっても、大泉を否定していたわけではない合 『家礼 Jを繰纂した朱蕪

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は、そのなかで、程顧の祭法を受け継いで、後世に大きな影響力をもつことになる柑蛍の 制度を定めた。この詞堂制度では、始祖祭l詑を傍越であるとして退け、耐堂における祭胞 は、継高祖以下の西小宗が祭J抱を主宰するものとしたが、他方、墓祭ならば、始祖捺胞を 挙行しでも差し支えないと考え、墓所における大衆による旗人集合を規定している。

明代の丘靖 (14 2 0‑‑‑1495年)は、宋需の宗法議論を整理して、標準化した儒 者として名をとどめられるべきである。丘漉は、士大夫の観点から、国家の礼制の体系を 構想、した f大学

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義補』そ編んで、皇帝に上呈するとともiこ、当時の社会に適合するよう に朱蕪の『家札Jに注釈を施した

r

文公家礼儀節jを絹纂している。後者の f文公家干し議 J f家礼』よりむしろ広く警及したことはよく知られた事実である。丘溶は、この 詞書において、朱蕪の見解を軸にして、宋儒の宗法復活論に解説を加えたが、注目される のは、始祖をめぐる問題である。始祖嫡系の宗子が始祖以来の族人を集合するとはいって も、そもそも最初の祖先である始祖を設にするかが問題となる。そこで、彼は、始祖とし て、二者を掲げる。その祖先のなかで最初に任官した者(始有封爵者〉と最初に現荘の土 地に移住してきた者(特葬担)である。これによって観急的で峻妹で、あった始祖選定がよ

り具体化することになる。

この丘壌の見解を念頭に置いて、清代における議論の傾向をみてみよう。第一仁、清代 においても、槻の設定が問題となっている。例えば、業憲田の議論である。靖国は、

江蘇省常件i府金匿の人(金課長はもと無錫県に所属、薙正2年に県に昇格)、乾隆元 (17  36)年の進士で、礼部侍郎さと経て、工部、用部の尚喜を歴任している。 r経子云う所の、

廠の初めて民を生bの祖とは、理、譲歩?とに麗し、経に於いて拠る無しJとして、程顧の始 祖概念、の礎味さを指摘したうえで、祖先のなかで、大きな功績さとあげた号、勲爵を綬与さ れて、王公にまで上ちつめた者を始祖となし、あるいは、任官によ守方移住し、その子孫 が増えている場合、最初に当地に来訪した者を始遷祖どなせ、という。常州府江陰県の 人で、康照30 (1691)年に進土に及第し、礼部尚帯となった揚賓賓も、 f宜しく先 世の、始令ざ遷り、或いは初めて封爵合受けし者を推して始祖と為し、世よ之を寵るべ

し」という o また、蘇州、!府長洲県の入で、顕治12 (1655)年に進士に及第した証 斑は次のように苦う、 「譜学腐れてより、先王の大器、小京の法は、蕩然として余すなし。

即ち、札に調う所の、尊祖敬宗挫族の本意も、亦、重かに知る者有るのみ。加うるに、漉 従の常ならず、貧富鋼連のーならざるを以てす。故に、大家臣蜜と難も、益々にして、其 の自り出づ青習を知らず、或いは始濯の者を以て始組と為し、或いは較に仕宮せる者を以 て始祖と為す J0 現在名門を誇る家でも、祖先の系譜が判明しないため、梗宜的i之、始 選祖または官僚を始祖としているというものである。これらはともに、丘濃の見解を踏襲 するものといってよい。

第二に、宗子の問題である。丘溶は、古宗法に敬い、京子として始組踊系の子訴を掲げ ていたが、宗法を実践する段になると、問題が生じるa 前出の業意屈の苦葉に、 「今の世 は、宗法己に亡び、亦、設禄なし。数伝の後、京子は未だ必ずしも貨ならず、貴なる者は、

必ずしも宗子ならず。祭りは、貴なる者の禄を用う。脅し支子、卿大夫と為りて、宗子は 直だ是れ軽罪なれば、之を如何せん。反って、農夫、祭りを主さど号、卿大夫は祭るを得

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し む や jとあり、また、涯現は、 f今の大宗は持りて編壌と為る者多しj とい o あるいは、康照9 (1670)年の進士及第iとして、吏部尚喜から文淵閣大学士に

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進んで、康黙帝の格別の知遇を得た李光地 (1642年‑ 17λ8fz~) は、 f今、黄達せ る者は未だ必ずしも宗子ならず、市うして宗子は或いは境隷に夷なる jといい、康熊44

1γ05)年の進士にして、直隷総督、戸部侍郎、内館大学士などに任じられた李・

(江酉甑川の人)は、 「後世、乃ち始祖より下、並がに長子の子孫を以て宗子と為さんと 欲するは、乃ち誤まれること甚しからざらんや。長子の子孫、其の世世の長子は、椎に皆 熊なる能わぎるのみか、亦、皆賛なる能わず。是に於いて、障りて隷来に在る者、甚しき は或いは身を碍しめて賎行し、寒さと餓えにより自ら存する能有ダる者、有り。安んぞ奉 じて京子と為し、以て祭りをど主りて族人を統べさしむるを得んや jという。始祖嬬系の子 孫が、庶民、さらに卑賎の者へと下降していた場合、そうした者を京子となして、祖先の 察組を主宰し、族人を統合させることができょうかというのが、論者の指擬するところで ある。

では、どうするか。例えば、李主主は、京子が官僚となった場合はいうまでもなく ~2 評系 の子孫(文子)であっても、任官していれば、主祭できるようにすべきだと提案する。ま た、奏議田は、一例として、李光地の家のケースを挙げる。質なる者を主祭者となして、

宗子と直祭者(祭田などの管理者〉をど察犯に同席させ、主祭者は席の中央に、京子と誼祭 者評その在宕に、それぞれ配霊するというものであり、秦意図も、この方法に饗関してい o 管見の範菌では、担先祭配を主宰して、族人を統合するのにふさわしいのは誰かとい うような議論が公然と霊場してくるのは消代の特徴のように思われる。このことは、この 時代iこおいて、宗法の実読が活発化し、標準を定める必要が出来てきたことの現れではな いかと考えられる。

次に、宗法を実現するための装置に関する議論を紹分したい。宋代以来、当該の装置と して知られてきたのは、共有地、料堂、族譜である。清代においても、その点は変わらな い口前えば、李総は、 f天下の人心を管摂するには、宗族を収めて、風裕を厚くせよ。人 をして、本を忘れさらしめるには、必らず須く譜系を明らかにし、宗族を~文め、宗子の法 を立っぺいという宋嬬の張載の苦葉を引用した跡、 「織かに意えらく、後世の士大夫の、

専祖敬宗収族の法は、{琵だ宗偶者立て、譜系を明らかにするの二者のみ行うべし。京子を 立つるが若きは、開ち知何にして立っかを知らず。朱子謂えらく、宗法は須らく宗室及び 世嫉の家が先じ之を行い、方に以下の士大夫をして之を行わしむとo 然らば、家礼は並に 宗法を以て主と為すなりj といい、また、 f然らば、吾、意うに、宗子定評てんと欲すれ ば、必らず須らく、族ごとに、義国を置き、義学を立つベし。…j という。宗法を行うi は、京輯、族譜、義学、義田などの装置が必要であることを認、識しており、宋{需のそれを 受け継ぐ伝統的な考え方が看取される。

また、蘇持i府常熟県の入で、明末清初の時代を生きた銭謙益は、始漉担或いは官療を古 1'子(始祖)となし、その長子を大宗とすべきことを主張するとともに、 f夫れ人は祖 に本づく。祖を尊ぶ、故に宗を敬う、宗を敬う、故に族を収む。宗法廃れて自り、祖は尊 ばれず、合食の礼廃れて、族は親し求ず。後世、宗法は未だ新湯からず。之を綴ぐに食 を以てし、士大夫の祖崩有る者、成いは尚お行うべしj といい、また、蘇小'jI府嘉定県の 銭大欝 (1728年‑1804年〉も、 f古礼は、大夫、適士、宮師、倶に廟を立つるを 得たり、部うして宗子を以て祭りを主らしむ、故に百世不避の宗有り司王代以後、仕うる 者は世被あらざれば、大宗、族を叡むる能わずして、宗法廃る。貴くして大夫と為ると離

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も、猫お寝に祭るのみ。是iこ於いて、絹堂の説有り、以て其令詐祖を記り、族姓をして其 の自り出づる所を忘れざらしむ。尚お宗法の遺意ありj という。ともに、病蛍を京法実 践の要として位置づけるものである。また、松江府上海県の強氷鮭は、 「絹堂とは京在敬 う者なり。義田とは、族を収むる者なり。担宗の神、主に依り、主は則ち嗣堂に依る。制 堂無ければ、即ち以て亡き者を妥んずる無し。子姓の生けるは、食に依り、食は、剣ち問 より給さる。義国無ければ、員立ち以て生を保つ者無し。故に柄堂と義田とは原より並びに 重くして、競躍すべからざる者なちj といい、詞堂とともに、義自の設置を重んじる。義 昌の利点は何か。張永詮は、 f詰める者は其の入る所を以て大京に輸し、貧しき者は、其 の警な持所を以て、給を大宗に待つ。故に旗に、甚しく貧しく、甚しく富めるの人なしj

という o 抜人のなかの富者は、大京iこその収入を提供して、宗族共有の義司を設ける、

他方、困窮せる者は、大宗から義回収入を分配される、このようにすれば、族人の資力は 相対的に平均化容れ、貧富の偏りがなくなるというのである。これを大宗の側から見れば、

嗣堂における然舵を通じて、族人を統合する、その権威は、義田という経済基礎を得るこ とにより確かなものとなるといえる。

宋{需による捷唱以来、士大夫が宗法の必要性を訴える持、常に持ち出容れたのは、家系 新絶の危機を関避し、名門の家系を狩り上げるべきであるという論理であった。こうした 論理は、清代の士大夫も共有している。蘇持iの場合を例にとってみよう。託環によればれ

「吾観るに、呉中の大家主室は、組・父の灘業を席有せるも、佐々にして詩ネしの教えを嫡 わず、其の強き者は喜びら闘訟を為し、其の弱き者は、声色、議潟、南博、倉円余の好み に陥ち入る。市も、最も良無き者は、員Ijち又、賄財を愛喜し、以て怨怒、を衆に市う。蓋し、

未だ一再伝ならずして其の家を敗る者多しj とあるように、蘇州では、訴訟、者修、賭博 など様々な原国により、子孫が祖先の家産奇襲い、その家を傾ける場合が多い。そうした なかで、元来に蘇州呉苑婚に移住してきた千戸公(議は恭二〉なる者をと始遷砲とする金氏 f族を衆めて居しj、前明日現在に蕊るまで、科挙及第者や官僚を送り出し、

保金氏jの名声惑と得ているという o 間じく長洲の入で、独自の詩風を追求した沈徳潜 (1 673‑‑1769年)もまた、 f呉門には富i草の家、祖・父為る者、子孫長らく其 の富厚を捜らにせんことを欲し、多く余議会機みて以て之を遣すり市れども尊袈敬宗は、

皆視て不急の務めと為す。子孫為る者、惨だ諜馬のみ是れ好み、声色のみ是れ娯しみ、す の黄金を揮して惜しまず。其の、心を祖若しくは父に尽くすべきは、錐刀の末も、是れ平lT ム~o 安んぞ、其の慰みを一族に広むる能うそ盟まんや。之を究むるに、多く蔵するは

厚しく亡い、官庫そ為す所の者も、烏有に場するな号。独りそ氏のみは、父、先51FK

子、後に述べ、貨財を軽んじて水木を重んじ、世沢を綿おて以て窮まる無しjというむ 祖先が子孫のために窓揮を積んでも、子孫は組宗を大事にせずに、現世の事楽にふけり、

ついには家産を使い果たす、こうした蘇州の一般の宮室に対比して、京法実現の装置とし て義荘を設け、族人を集合したーと氏の事業を称えるのである。これらの設葉にも、家系断 絶への危機感に裏付けられた宗法的思考が椴強く働いていることが窺われるであろう。

宗族の模範としての義荘

以上のように、清代においても、宗法をめぐる議論が盛んに展開されたが、では、宗法

‑14 

(9)

r'" 

を理想、とする京版は、実際にはどの程度地域社会に定着したのであろうか。この間胞を考 えるには、京法実現の装置としての、共有地や嗣堂(宗嗣)の設置、族措編纂の事業がど の程度行われたかそ調べることが必要となる。そうした事業を全体として定量的に把擁す るに足る資料はないが、有力な手がかりを与えてくれるのは、 『民国・呉県忠J31 公署4 f議荘J (以下、 「義荘jJと略称)である。宗法の体制を形成し、維持する には、共有地、制堂〈宗量的、族譜が必要であるが、義荘は、その最も完備された形態で あり、この形式をど創設した蘇州城の沼氏義荘は宗族の模範とみなされ、京代以来、これを 模倣する動きが繰り返されたG 銭大訴は、蘇1'Hでは、活仲掩ず義田在設けて京挟そ救済し てから今に蕊る求で七草余年、 f吉氏の苔奮、猿お其の徳を食み、高義の名そ

J

寺輪伝子妥ら

して、持η;提条は呉さに在り、善の善と考l~~ き者なり。我が閤家は、列盟会3 黙を重 ね、思裕は茂英え、義を釘む君子の、先哲を希嵐う者、軽を接して興るj と述べてお号、

有体においても、沼民義誌の形態を模範として義荘を設立する綴肉にあったと考えられ G

f義荘J条は、府械内に官衝を置く呉・長洲・元和三県の義荘を記織している。 r J条に悲Jづいて作成した別表 [19 3 0年代における呉・長洲・元和五燥の義荘〕在参 照していただきたいu 記載される義荘の総計は6 3荘である。ただし、到05の察関蒋氏義荘 は、当時すでに牒止されている。また、 N025の陳氏の場合には、減盛10(1860) 議粧が焼失し、その後再建されていない。したがって、県志編纂時点で現存した義荘は、

6 1粧ということになる。この「義荘J条から引き出せる特徴そ次に紹介しておこう。な お、各議荘をど提示するに際しては、別表の番号を記し、 ( )内に姓在摘げる。

第一に、義荘設立の時代的額向である。 63義荘のうち、宋代に股立された輯荘は、 NO (出氏)のみであるの培氏に継いで古い伝統をもっ義荘は、明代後期に設立された。万暦年 間 (1 5 7 3"'"'1 6 1 9年)では、 N02(申氏〉、 N03(呉氏〉である。無禎3 (1630)  年には、持04(陳氏)が設けられた。溝代に入ると、義荘の数は持続的に増加じ始める。以下 に列挙してみよう。康熊年嵩 (1662‑‑1722年〉では、 1荘…N05(蒋氏)、薙正

1荘…担06(梅氏)0 i釜年嵩 (1 7 3 6"'"'1γ95年)は、 7荘…N07(哀氏)、

紛糾麿氏人間引で氏入手1010(翁氏〉、持011(典氏〉、持012(鵠氏)、持013(江氏〉。嘉慶年間 (1 7 9 6"'"'1820年)には、 2荘…N014(鴻氏〉、 N015(異民〉。道光年間 (18 2 1  "'"'1850年〉は、 12荘一.N016(張民人間17(在氏〉、 N018(徐氏〉、鳩山〈議氏〉、関20

(王氏)、 N021(了氏)、 N022(注氏)、 N023(程氏〉、持02訂正氏〉、 N025(捺氏人間26(張氏〉、

N027 (韓氏)0 戚 豊 年 間 (1 8 5 1"'"'1861年)は1粧‑一関28(控氏〉。関治年嵩( 8 6 2"'"'1874年)は、 12荘。..N029 (朱氏)、 N030(翁氏〉、到031(王氏)、 N032(王氏〉、

N033 (張氏)、 N034(沈氏)、 N035(沈氏)、 N036(般氏)、 N037(強氏)、 N038(陸氏)、間39( ) N040(盛氏)0光緒年間 (1 8 7 5‑‑1908年)は、 17荘…N041(程長)、 N042

(顧氏)、 N043(彰氏)、 N044(呉氏)、 N045(徐氏)、 N046(顧氏)、 N047(杭氏〉、 N048(食氏)、

N049 (張氏)、 N050(顧氏)、 N051(棟氏)、 N052(呉氏), N053 (楊氏)、 N054(播氏)、 N055( ) N056(銭氏)、 N057(張氏)。宜統年間 (1 9 0 9年‑‑1 9 1 1年)は2荘一.N058( ) N059(徐氏)0民国期に入ってからは、 N060(呉氏)が設けられている。この他、設立 年代が記されていない義荘としては、 N061(蒋氏)、 N062(厳氏)、 N063(呉氏)がある。

義荘の設置年代からわかることは、活民議荘をのぞくと、その他の三県の義荘はすべて、

15… 

(10)

6枇紀以障に設立されていることである。すでに検証したように、蘇付│では、明代後期 に、義荘(義国)の設立、絹堂の設置、族譜編纂の事業を行って、京族を形成しようとす る動きが広がりを見せている合明末期の3荘はそうした機運のなかで設立されたものであ る。清代において特徴であるのは、 19世紀20年代(道光〉以捧に忽増していることで あり、清朝が倒壊する 1911年までの間に設立された義荘は、実i4 4荘を数える。そ の事情については別に検討する必要があるが、とこでは、 16堂紀から、義荘の設立が持 続的な領向となっていることを確認しておきたい口

第ニに、義荘の所在地である。義荘は、義回収入をi鼠貯するための倉庫(狭義の義荘) や宗柄、義学などの施設を所有している。 w民国・典県志』の編纂時点において、そうし た義荘の施設が鱗州帝域内に置かれたのは、 63荘のうちの42荘である。したがって、

七割程度の義荘が、府城じ拠点を置いていたことになる。その他の義荘は蘇弁i域外に位置 するが、域外とはいっても、府城に近接する地域に設立されたものが多い。宋代以来、蘇 の繁華街として知られるのは、西北部の闘同一帯、西南部令官ト帯であり、明代には、

その中関に膏門が設けられ、このー搭も繁栄するようになった。このうち、画円一轄を 経点として、西北方向に延びる運河をたどっていくと、府城から7盟に位置する売却山は 古来、名勝の地として知られるが、その照辺には、 N04(陳氏〉、 N08(唐氏〉、持061(蒋氏)が

ある窃また、匝門の訴から、西方に延びる運河の南を上塘、北省?下塘というが、上塘に

07(衷氏)、持040(盛氏)がある。この運河を更に西に進んだところに、楓機鎮がある。同鎖 には、 N09(吃氏)がある。また、膏門の外舗では、小日醸犠の南にN013(江氏)がある。ちな みに、城内部蝦訴のN02(申氏)と砂皮巷のN023(韓民)、 N052(呉氏)は、それぞれ、創 設当初、普門外の小日鰯嬬、大将輝橋の付近、史郎に施設が聾かれていた。逆に、 N03( 氏)は、創設当初は、域内に義粧があったが、後に域外の虎却に移している。府城内外の 地域を除く農村地帯では、鎮に設けられた義荘が多い。府城東北4 0里の相域鎮には、 NO

12 (臨民〉、 N026(陸氏〉、問33(張氏)、問48(像氏)。府城東5 0里の角直鎮に所在する義荘 としては、 N05(審氏〉、 N032(王氏〉、 N035(沈氏〉、関36(殿氏)、 N063(藤氏)があるG

費孝通や福武直は、 f民国・呉県志J編纂の後iこ、現地譲査を行っているが、両者が共 通して指摘するのは、江南では、宗法によって族人間の団結を保ち、京柄、共有財産など 君伊有するような宗族の集自主主、城・鎮の都市を中心として緊密に分布している点であ

o r義荘j条から導かれるところは、そうした講査報告の結果に合致するものといっ てよい。

「義荘j条は、義荘告と設立した人々についても、一定の構報を与えてくれる。義粧の設 立主体について想、起しておくべきは、議荘が、宗法実現の装置として生み出されたことで ある。すなわち、宗法が元来、官錬へと上昇した知識人によって名門の家系樹立のために 重視されたものであり、そして、義荘がそうした京法を実現するための装寵であるとする ならば、知識人こそ、設立の主役であるはずであるo 朱子謂えらく、宗法は須らく宗室 及び世肢の家が先に之を行い、方に以下の士大夫をして之を行わしむ、とJ (前掲事緋の 言葉〉とあるは、それをよくポしている。実際、義荘を創始した活件減は北京の改革派知 識人の領袖であったし、その後に続く義荘設立の事業も多く官僚が挙行している。別表に ついてみてみよう。地2からN04まで、つまり明代後期に設けられた義荘はともに、官祭に よって設立されたもので、あったし、情代においても、官僚身分の保持者や監生、貫生など、

円 ︒

2・ ・a

(11)

郷紳の階麗に含まれる人が設立者として名を連ねている事例が少なくない射能,611, 13,  1921273738404142434449515253555657606162)。しかし、同時に控話 されるのは、その他の諸々の義荘において、清書きをもたない人々が義荘を設立している ことである。こうした人々は、国家の身分構成のなかでは、民(庶人)というとことになる が、現在研究上に用いられる庶民とか民衆といった表現を彼らに用いるのはおそらく正し くないα 義荘の設立には、多額の資金と信教的教義が必要とされるから、直接生産労働に 従事するような庶民がその立て役者となれるとは考えられないのである。 r~ 前提j 見たように、江南では、 16世紀以降における商業化の競開を背景として、不在地主・酪 業資本が分庫く形成され、彼らは癖締のステイタスを昌指したが、科挙合格者の定数はあ まり変わっていなし、から、斜挙に及第できない知識人(処士)が増大し、地域社会に滞留 することになる。栽校設立者のうち 身分をもたない人々も、多くはこうした富裕な処士 であったと考えられる。

義荘の本拠地の多くが府城、市鎮に設けられたのも、設立者の問題と関孫があるであろ う。商業資本、不在地主としての経諸活動によって富を獲得し、更に郷紳へと上昇を遂げ た人々は都甫に居住する傾向があり、おのずと、義荘の拠点も、都市に集中したものと推 測されるのである。

以上、 『民国・呉県恋Jの「義荘j条によって、蘇州における義荘設立の状況を紹介し たが、注意しなければならないのは、 f裁荘J条にi技諒された義荘のほとんどが、創設以 1930年代まで存続したものであり、設立された義粧の実数ではないことである。

つまり、設立されても、その後に解体した義荘は、 「義荘j条は収録していないと考えら れる。例えば、江都府上元巣の人で、康黒45 (1706)年に滋士に及第し、内閣学士、

礼部侍郎などを盟任した方葱は r'ltをうに、呉郡の浩氏は、義国を有ち、以て其の版人を

170 放に、宗法常に行われ、或いは敢えて犯す者なし。余嘗て以て、並世の士大夫を 嵐かんと{あ閉ま慕い数う者有るも、再世ならずして、子孫と族入、其の隷田を広分して 之 を ・ 棄 す jという。沼氏をモデ、ルとして義田を設ける士大夫もいるが、子孫や接入が、

その義国を分割し、放棄してしまうと観察するのである。方葱は、義国の喪失の寅任が子 弟・族人にあるとしているが、個別の事例としては、活氏に継ぐ依統合もつ申氏の義荘

(

02)で、康熊束に発生した事件を挙げることができる。申氏では、創設者の申時行の二 子、用懲(兵部尚書)と用嘉(参政)が、浩氏に散って規則を定めてより、主奉(宗子〉

らが統一的に義荘の収支を管理する体制をとっていたが、消代になって、!日制を改めて、

東西分管としたため、管理が乱れるようになり、それに乗じて、不肖の族人申娠六らが、

熊田の盗売、小作料の震害などの行為を働く事件そ起こした。そこで、申民の来線は協議 して特抑を立て藍すとともに、族中の進士、挙入、生員らが、県県に対して、指導役求め ている。串氏で発生したのは祭田等の盗売であるが、義回についても起とり得たであろう。

義国や線開は、義荘という宗族組織を支える経済基礎であるから、盗質iとよるその謂滅は、

宗族組織そのものの解体へとつながる可能性があり、方慈の観察から、実際、そうした事 も多かったのではないかと推娯される。

四 結 び に 代 え て

S 1A  

(12)

小論議ど終えるに際して、改めて注目しておきたいのは、宗族の模範の増大の傾向である。

その頂点にあるのは、沼氏であった。沼氏は、義荘を創始した宗族として、名声を誇った。

例えば、方砲は、 「燕楚、呉、越は、抜を者Pて思し、催、京絹有るも、呉郡の沼氏より 外は、京法はーとして行う者なしj と述べて、宗絹を所若して、親族楽居する形態が広

く普及しているものの、宗法を実現しているのは、活民のみであると絶費しているo 方範 の言葉はやや極端かもしれないが、沼氏義荘が宗法に基づく宗挟組織として評価されてい たことがわかる。蘇十11では、明代後期日替立された申氏、陳氏の 2義荘も、沼氏とともに、

蘇州の名門宗族として、名声を得ている。設立されてもその後に解体する義荘が少なか らず存在したと考えられるものの、そうしたなかで、長期にわたって符続する義荘が清代 において持続的に増大していった。義荘は、数量的には決して多くはないが、士大夫への 上昇と下降が激しい社会にあって、人々の尊崇を集めた。上昇を遂げた人々にとって、長 期存続の宗族は、科挙とならぶ異体的昌標となったと考えられる。

清朝の体制が揺らぐ 19世紀半ば墳から、義荘が急増する点、は、今後の検討に待たねば ならないが、その辞景として、ウエスタン・インパクトとの遭遇、国内の緒反乱などの勃 発などによ号、者富あるいは中華文明そのものが動揺し、そして解体していった近代の状 況を想定することはさほど不自然なことではないであろう。蘇州ではとくに或聾期 (18 

5 1年‑.....1861年)における太平天患の影響が甚大であり、社会の指導掛である伝統的 な知識人はとりわけ大きなダメージを蒙っている。後らが、自己とその家系会守るために、

ひいてはそれが社会秩序総体の維持にとっても有益であるという確借のもとに、宗法iこ基 づく親族組織化を本格化させていったと考えられる。近代の欧米人や日本人は、そうした 宗族を目撃したのでまちる。

(l  ) 東部雅博 f大英者盟のアジア・イメージJ第五輩〈ミネノレヴァ書房、 996年)

(2)  M ・ウエーパー著,木全徳雄訳~~露教と道教~ (創文社、 1971年)、 354P37 6Po 

(3  ) 村松硲次『中国経済の社会態制~ (東沖経済新報社、 1949年)

(4 )黒住真 f日本思想、とその研究…中菌認識をめぐって…J (了中国一社会と文化~~ 1 1996年)

(5)  W牧野巽著作集J123巻(御茶の水書房、 19γ98 0年)。清水盛光 f支那家族の構造~ (岩波書応、 1942 年)、開『支那族産制度放~ (岩波書定、 1 949 年)、仁井田監『中国身分法史~ (東京大学出版会、 1983年)

(6  ) 以下は、筆者の従前の研究成果による。拙稿「宋代以降における宗旗の特質の時検 討一仁井田陸の関族『共関体J論をめぐってーJ (r名古農大学東洋史研究報告~ 2

987年)、 f元来明初における来族形成の風潮J (r文経論議~ 2 7ー に 199 2年)、同「宗族形成の動因について一元末明拐の漸東・漸西を対識として‑J (r

問縛徳教授さ稀記念、 e明滑時代の法と社会J、汲古書院、 1993年)0 また、士大夫 の理解については、昭和57年度科学耕究費補助金 総合研究

ω

研究成果報告書『中国

18 

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