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Taisei Gakuin University 空間と概念化 否定概念を中心に Space and Negative Inference 中桐謙一郎 Ken ichiro NAKAGIRI < 要約 > 抽象的な否定概念は具体的な空間概念における経験を基にして理解されている概念である この二つの概

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Academic year: 2021

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空間と概念化 ―否定概念を中心に―

Space and Negative Inference

中桐謙一郎

Ken’ichiro NAKAGIRI

<要約> 抽象的な否定概念は具体的な空間概念 における経験を基にして理解されている概念である。 この二つの概念は「容器のメタファー」を基盤とし て理解されている。「内外」や「越境」などの概念に よって捉えられる否定概念は,「ない」を用いた否定 文によって主に存在論的に「X がない」や認識論的 に「X ではない」の二種類で表される。この二つの 概念はそれぞれものの「存在」とものの「存在の仕 方(=存(あ)り方)」に依存している。そのような概念 化を可能にしている要因は「視覚」である。すなわ ち,「否定概念」は視覚という人間の五官による「身 体的」な概念化を基盤としている。 <キーワード> 容器,内外,否定,存在,概念化 1.はじめに 人間は自分を取り巻く外部の世界と相互に関わる ことによって多様な事柄を経験する。「経験する」と は「人間が外界との相互作用の過程を意識化して自 分のものとすること(『広辞苑』)」と規定されてい る。「自分のものにする」とは「知る」ことに他なら ない。つまり,ある対象が,その対象の周囲を取り 巻く外部世界と積極的に関わることにより,外界(ま たは外界に存在するもの)との関係性を「知る」過程 である,と言い換えることができる。 経験を通して得た知識を基盤にして,人間は多く の物事を概念化する。例えば,私たちは夏の暑い日 に木陰で休んでいるときに涼しく感じたり,赤ん坊 は母親に抱かれると安心したりするように,場所と その場所で体験した状態との相関関係を捉えて「状 態(STATES)」を「位置(LOCATION)」として概念化す る。この概念化は以下に見られるように,「状態は位 置(STATES ARE LOCATION)」メタファー(Metaphor) によって構造化される。

(1) STATES ARE LOCATION (状態は位置)

I’m in love. (私は愛している、、、、、)

She’s out of her depression. (彼女は彼女の鬱から抜け出した、、、、、) He’s on the edge of madness. (彼は狂気の縁にいる、、、、) He’s in deep depression. (彼は深い、、鬱の中にいる)

(2)

She’s close to insanity. (彼女は狂気に近い、、) We’re far from safety. (我々は安全から遥かに遠い、、、、、)

(Lakoff and Johnson 1999: 180) (計見訳) (1)では基本的にはある主体とその主体が関わる空 間との物理的な関係を表示する前置詞句in, out of, on the edge of や形容詞句 deep, close to, far from が抽象的な状態を表すために用いられている。メタ ファーとは「概念体系における2つの異なる領域間 の 写 像 (“a cross-domain mapping in the conceptual system”)」と定義される(cf. Lakoff 1987, 1993)。つまり,具体的な場所における存在論的な 相関関係が成り立つ起点領域(source domain)から, 抽象的な状態における認識的な相関関係が成り立つ 目標領域(target domain)への写像(mapping)である。 「状態は位置(STATES ARE LOCATION)」においては, 起点領域の「位置」から目標領域の「状態」への写 像となる。 このように,身体的な経験を基盤に,メタファー によって人間は抽象的な概念を具体的な概念を通し て理解している。しかしながら,この2つの概念は 同一物ではないので,(2)の「考え(IDEA)」のように, 多面的に概念化されているものも存在する。 (2) IDEAS ARE FOOD (考えは食べ物である)

I just can’t swallow that claim. (その主張はうのみにはできない) That argument smells fishy. (その議論は生臭い(=疑わしい)) (3) IDEAS ARE PEOPLE

(考えは人である)

He is the father of the modern biology. (彼は現代生物学の父である)

His idea will live on forever.

(彼の考えは永久に生き続けるだろう) (4) IDEAS ARE RESOURCES

(考えは資源である)

He ran out of ideas,

(彼はアイデアが尽きてしまった)

Don’t waste your thoughts on small projects. (つまらない計画に考えを無駄に使うな)

(5) IDEAS ARE MONEY (考えはお金である) He’s rich in ideas. (彼は考えが豊富だ)

That book is a treasure trove of ideas. (その本は貴重な思想が埋まっている宝の山

だ)

(6) IDEAS ARE FASHIONS

(考えはファッションである)

That idea went out of style years ago. (その思想は何年も前に流行遅れになった) Marxism is currently fashionable in

western Europe.

(マルキシズムが現在西ヨーロッパでははや っている)

(Lakoff and Johnson 1980: 47-48) (渡部ほか訳) (2)-(6)の例からわかるように,「考え(IDEAS)」は「食 べ物(FOOD)」や「人(PEOPLE)」という概念だけでな く,「お金(MONEY)」という概念を通して理解されて いる。このようにある概念が別の概念によって多面 的に構造化されている事実から,私たちは(2)-(6)の それぞれの事例において2つの概念を同一物...としは 理解していないことがわかる。 以上見てきたように,私たちはメタファーによっ て物理的概念を表示する語句は抽象的な概念へそ の使用を拡張しているが,拡張される概念は多岐に わたる。本稿では,本来は物理的空間概念を表す語 句が抽象的な「否定」概念へと拡張していく事例を 通して,「否定概念」のメカニズム,つまり「空間 概念」を通して理解されていることを考察していく。 2. 否定概念への拡張 Yamanashi (2000),山梨(2000)では,具体 的な空間における経験が,抽象的な「否定」概念 へと拡張される事例を考察している。(7)のように,

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「~外」は以下のように,物理的な空間表示語と 結合して複合表現を構成する。 (7) (a) 子供達は屋外で遊んでいる。 (b) バスはやがて市外へ出た。 (c) 患者は新鮮な空気を求めて戸外へ出た。 (d) 松井のホームランは場外まで飛んでい った。 (山梨 2000: 159) (下線部筆者) (2a)が「屋外」という外部空間における主体の行為 を述べているのに対して,(2b)-(2d)は空間の内部か ら外部への主体の移動行為を表しているという違 いはあるものの,(2)の文はすべて物理的な外部空間 における主体の「存在」を基盤とした表現形式であ る。(2)では「外」と複合表現を構成する要素「屋」, 「市」,「戸」,「場」によって指示されている対象は 具体的なものであるが,「外」は(8)のように,抽象 的な空間を指示するものとも結合して複合表現を 構成する。 (8) (a) これは私の専門外である。 (b) 彼は権限外の行為をした。 (c) それは私の管轄外だ。 (d) それはあの人の権限外だ。 (山梨 2000: 159) (下線部筆者) (8)の「専門」,「権限」,「管轄」はすべて抽象的 空間を指示し,主体はそれぞれの空間外部に「存 在している」ことが述べられている。空間が具 体的・抽象的に関係なく「外」を用いた複合表 現には,主体の「空間外部での存在」を意味し ている。さらに,(8)は(9)のように言い換えるこ とも可能である。 (9) (a) これは私の専門ではない。 (b) 彼は自分に権限がないことをした。 (c) それは彼の管轄ではない。 (d) それはあの人には権限がない。 (山梨 2000: 159) (下線部筆者) 「ない」を用いて言い換えられた(9)は「否定表現」 の表現形式の一つである1。(7)-(8)のように「内- 外」のような方向性に関係のある構造化は,以下の ように「存在のメタファー(ontological metaphor)」 の 一 種 で あ る 「 容 器 の メ タ フ ァ ー(container metaphor)」による概念化を通して理解され,以下 のような概念図で表される(山梨 2000: 160)。 図-1 図-1 の網掛けの部分は「容器」の外部(すなわち 外部空間)を表し,(7)の「屋外」や「市外」のよ うな物理的空間や(8)の「専門外」や「権限外」 のような抽象的空間に対応している。 (8)と同義表現の(9)は一見すると「内-外」の方向 付けとは無関係のように見えるが,(9)の「ない」の 意味機能を考察すると,「容器のメタファー」との 関係性を見て取ることができる。(9)の「ない」が表 す意味機能は2種類に分かれている。一つは(9b)や (9d)のように「X がある」に対する「X がない」の ように「存在」に対する「非存在」を意味している 場合と,もう一つは(9a)や(9c)に見られるように「X である」に対する「X ではない」のように打ち消し による「認識」を意味している場合である。「X が ない」というのは「X が容器内に存在していない」 ということ,つまり「容器内での非存在」を意味し ている。これは(8)と同様の捉え方である。例えば (8a)は「これ」が「私の専門」という抽象的空間内 には存在していないこと(つまり,非存在)を意味し ていることからも,(8)と(9)の概念化には共通性が ある。このように私たちは具体的な空間内での「存 在論的」なものごとの認識を通して,抽象的な空間 内での認識にも拡張されているが,この抽象的な空 間内での「非存在」の認識が「否定概念」の認識へ とつながっていく。次章では,「非存在」と「否定」

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との関係性について考察していくことにする。 3. 非存在と否定 (9a)の「これは私の専門ではない」という否定表 現は「これは私の専門である」という「肯定命題」 を打ち消している「否定命題」である。「否定命題」 は「肯定命題」の真理値(truth value)を真から偽へ (もしくは偽から真へ)変えることを意味するが,そ れ自体自律して存在しているものではなく「肯定命 題」の存在に依存している。例えば,カバンを開け て「(カバンの中に)辞書がない」と発言する場合, この発言が成立する背後には当然カバンという空 間内に辞書が存在しているという予想が前提とな っている。このような背景があるからこそ「肯定命 題」を「打ち消す」という表現形式の機能を持つ「否 定命題」が成立する。つまり,否定表現とは,「話 題の流れ(外)からの帰結として,ないしは己の予 想(内)の展開として,それに反する事態が来ると の判断が取らせる表現(森田 2002: 257-258)」で ある。 このように「肯定命題」を前提とする「否定命題」 の捉え方は「集合論(set theory)」による捉え方と平 行している。「集合論」における「命題」の概念化 は「容器のメタファー」を通してなされ,例えば, Lakoff and Johnson(1987)では以下のように説明 されている。

Everything is either inside a container or out of it --- P or not P. If container A is in container B and X is in A, then X is in B --- which is the basis for modus ponens: If all A’s are B’s and X is an A, than X is a B.

(全てのものは容器の中にあるか,または容器の 外にある。すなわち,P または not P である。も し容器A が容器 B の中にあって X が A の中にあ れば,X は B の中にある --- これは肯定式の基礎 である。肯定式とは次のようなものである。すな わち,全てのA が B であり,かつ,X が一つの A であれば,X は一つの B である。)

(Lakoff and Johnson 1987: 272) (池上ほか訳)

(下線部筆者) 下線部の「P または not P」のように「集合論」で はすべてのものを「容器」の「内部」に存在するも のと「外部」に存在するものとに分けて捉える。さ らに,容器内部の存在は「肯定命題(P)」として, 容器外部の存在は「否定命題(not P)」として理解さ れる。ここに「非存在」と「否定」との関連性が認 められる。ただし,単にものごとの空間内での存 在・非存在の認識にとどまらない。単なるものごと の存在・非存在であれば,その認識は「X がある」 や「X がない」のように言語化されるはずである。 否定表現は「判断が取らせる表現」であると森田 (2002)の否定表現の説明にもあるように,「肯定」 や「否定」の認識を基盤とする表現は,単なる容器 内のものごとの存在・非存在だけではなく,そのも のごとの「在(あ)り方」,「存在の仕方」を述べてい ると考えなければならない。「肯定命題」の場合に は,ものごとの存在を前提として,その「在(あ)り 方」をそのままの姿を素直に認めている場合であり, 反対に「否定命題」の場合は認めていない場合であ る。 (9)の否定表現は英語では例えば(10)のように 表される。

(10) (a) This is out of my line. not in

(これは私の専門外である)

(b) He did an act in excess of his authority.

(彼は権限外の行為をした) (c) That is outside his control. (それは私の管轄外だ) (d) It’s outside of my authority. (それはあの人の権限外だ)

(Yamanashi 2000: 246-247) (下線部筆者) (10)では,日本語の捉え方と同じように,抽象的な 「空間内部での非存在(10a)」や「外部空間での存 在(10c), (10d)」によって言語化されている。(10b)

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ではin excess of によって空間外部での存在を表し てはいるが,「越境」を表すexcess という語が用い られていることからわかるように単なる「内-外」 による捉え方ではない。この捉え方は例えば以下の ような例に見られる。 (11) (a) この仕事は僕の能力の限界を超えている。 (b) この物語は人間の理解を超えてい る。 (c) それは我慢の限度/限界を超えている。 (d) それは私の権限を超えている。 (山梨 2000: 160) (下線部筆者) 「外」を用いた複合表現と同じように,(12)のよう に「ない」を用いて否定文として言い換えることが できる。 (12) (a) この仕事は僕にはできない。 (b) この物語は人間には理解できない。 (c) それは我慢できない。 (d) それは私の権限ではない。 (山梨 2000: 160) (下線部筆者) (11)の事例は山梨(2000: 160)では以下のような概 念図で表されている。 図-2 山梨(2000)はこの概念図について,限定された空間 を前提としているわけではなく,ある水準を越えた 領域に対象が存在し,その領域が「否定の領域」と して見なされていると述べている。確かに,「越境」 の概念には空間が前提として存在していないよう に思えるが,この概念図における中央の太字の線を, 空間を定義する際に必要な要素である「境界」の一 部と捉え直すこともできると思われる。つまり,円 周の一部に焦点を当てて「容器のメタファー」の変 異形(variant)として捉えることも可能だろう。瀬戸 (1995: 163)では,この「越境」の概念を容器のメタ ファーで捉えている。ここで容器が表す空間は「知 識」である。「越境」した領域(すなわち容器の外部 空間)は「未知」の領域を表している。さらに,「既 知」の領域を表す容器の内部空間においては,「中 心」に近い領域を「熟知」の領域として捉えている。 (11a)や(11b)の例は「能力」や「理解」という表現 から「知識」に関する内容である。「能力の限界を 超えている」や「理解を超えている」という表現は 主体の知識が及ぶ範囲の内部に対象物が存在して いないことを表す。このように,「知識」として捉 えられている「容器」はその基盤を「人間」に置い ていることは明らかである。人間は外界と積極的に かかわるという経験を通して,外界に関する知識を 自己のものにしている。知識を自己のものにすると いうことは,それを自己の中に「取り入れること」 つまり「内面化」することに他ならない。「内面化」 という表現そのものにも人間を「容器」として捉え ていることが表れている3。次章では,人間と容器 との関係を考察する。 4. 容器としての人間 人間は食物を摂取する行為や排泄する行為を経 験することによって,人間そのものを皮膚を境界と して外界からは区切られた「容器性」を持つ存在物 として捉えている。人間という存在物が「容器性」 を持つということは,人間は存在する空間において 限界性を持つ存在物と規定されている2。また,内 部空間を持つ容器として見立てられた「人間」は, 「人間」の周囲を取り巻く「世界」という空間内部 に存在するものでもある。つまり,人間は空間の中 に存在する空間性を持つ存在物としての二重構造 を経験している存在物である4 このように,人間は自身を容器と捉えているから こそ「内外」という方向性を認識する。「内外」だ けでなく,「上下」,「前後」,「左右」というような 空間における「方向付け」は空間それ自体に備わっ ている性質ではないので,その空間を主体的に解釈 するものの存在なしには方向付けの概念は生まれ

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ない。さらに,そのような方向付けを行うのは人間 自身であるから,自然と私たちは自己中心的な空間 の認識を行う。したがって,私たちは人間が持つ「容 器性」という特性を外界のものに投影して把握して いる。例えば,人間にとって外界を把握する上で重 要な役割を果たす「視界」も「容器」として把握し ている。

We conceptualize our visual field as a container and conceptualize what we see as being inside it. Even the term “visual field” suggests this. The metaphor is a natural one that emerges from the fact that, when you look at some territory (land, floor space, etc.), your field of vision defines a boundary of the territory, namely, the part that you can see. Given that a bounded physical space is a CONTAINER and that our field of vision correlates with that bounded physical space, the metaphorical concept VISUALFIELDSARECONTAINERS emerges naturally. (われわれは視界をひとつの容器として概念化す るそして,自分の見る物をその容器の内容物とし て概念化している。“visual field”<視界>という 言い方にしてからが,このことを暗示している。 このメタファーは自然なメタファーであって,あ る領域(土地や床のスペースなど)を見たとき, 視力の及ぶ範囲がその領域の境界を限定する,つ まり,あなたが見ることできる部分を限定すると いう事実から発生している。境界が定められた物 理的な空間はひとつの「容器」であるとすれば, そして,われわれの視界は,境界を定められた物 理的空間と関連しているとすれば,そこから VISUALFIELDSARECONTAINERS<視界は 容器である>というメタファーによる概念が生 まれるのは自然である。)

(Lakoff and Johnson 1980: 30) (渡部ほか訳) (下線部筆者) 人間を皮膚によって境界を持つ「容器」としての存 在と捉えているのと同じように,視界も私たちが物 理的に見える範囲を境界として「容器」として理解 する。したがって,(13)のように,空間の内部や外 部を表示する語句を用いて表現することができる。

(13) The ship is coming into view.

(その船がだんだん視界の中に入ってきた) I have him in sight.

(私は彼を視界の中にもっている(=彼は私の 見えるところにいる)

He’s out of sight now.

(彼は今視界の外にいる(=もう彼は見えな い))

(Lakoff and Johnson 1980: 30) (渡部ほか訳) 私たちは外界のものの存在を認識する場合,知覚作 用をつかさどる五官のうち多くを視覚からの情報に 頼っている。「X である」という「肯定」判断は,「容 器」として捉えられた視野の内部に存在するものの 存在を視覚によって認識し,その存在の「在(あ)り 方」をそのままの姿で認めることである。 さらに,この視野の外にあるものは「見えない」 ので,そのものの存在を知ることは不可能である。 これは,「越境」概念において境界を越えた領域が「未 知」の世界であると捉える根拠となる。私たちは「知 ることは見ること(KNOWING IS SEEING)」というメ タファーを基盤にして「知ること(KNOWING)」を「見 ること(SEEING)」と捉えている。容器に見たれられ た境界を持つ空間の内側において知覚されたものは 知識と捉える。知識は内側で知覚された主観的知識 として,外側から知覚されたものを客観的知識とし て理解している。

The Objective Standpoint Metaphor (客観的立脚点メタファー)

A Person → The Subject (一人の人物 → 主体) A Container → The Self (容器 → 自己)

(7)

→ Subjective Knowledge

(中側から見ること → 主観的知識) Seeing From Outside

→ Objective Knowledge

(外側から見ること → 客観的知識)

(Lakoff and Johnson 1999: 277) (計見訳) ものの存在(「X がある」)や存在の仕方(「X であ る」)の基盤となる視覚によって捉える行為を可能に するためには「光」の存在が不可欠である。たとえ 視野の内部にものが存在していても,暗闇の中では そのものの存在を視覚で捉えることはできない。そ のものに光が当てられて初めてそのものが存在して いると認識できる。

Someone who is ignorant is in the dark, while someone who is incapable of knowing is blind. To enable people to know something is to shed light on the matter. Something that enables you to know something is enlightening; it is something that enables you to see. New facts that have come to light are facts that have become known (to those who are looking). (無知である人は闇の中に、、、、おり,一方知ることが不 可能な人は盲目、、である。人々に何かを知ることを 可能にすることは,その問題について光を当てる、、、、、 ことである。あなたは何かについて知ることを可 能にさせるものは啓蒙、、であり,それは何かあなた に見ることを可能にさせる、、、、、、、、、、、ものである。光の中に、、、、 出てきた、、、、新しい事実は知られるようになった事 実である(それを見ている人々にとって))

(Lakoff and Johnson 1999: 239) (計見訳) (下線部筆者) このような,暗闇の中に存在していたものは光の下 にもたらされることによって初めてその存在を視覚 によって「知る」ことができる。「光」の概念は「知 識」の概念へと拡張されるので,「無知蒙昧(もうま い)な状態を啓発して教えを導くこと(『広辞苑』)」 を意味する「啓蒙」も「光」の概念によって理解さ れる。また,ものに対する「光の当たり方」は「も のの「見え方」に影響を及ぼし,そのまま「捉え方」 を決定する。 5. 結び 周囲を取り巻く世界との関係性を理解するときに, 私たちは「容器性」を持っている「身体」を基盤と している。「容器」と同じく「身体」も「限界」を持 つ存在物である。さらに,私たちは時間的,空間的 に「限定的」に世界の中に位置づけられているから こそ「いま」,「ここ」が定まり,見たり,感じたり することによる具体的,抽象的概念の把握が可能に なる。否定概念の把握には根源的には身体が持つ「視 覚」機能に依存しているといえる。視覚を基盤にし たその他の概念の理解や,視覚以外の「五官」の機 能が世界の把握にどのように関与しているのかは今 後の課題としたい。 注 1. 「否定」概念のその他の表現形式については森田 (2002)などを参照。 2. 人間は空間的にのみ限界性を持つだけでなく,時 間的にも限界性を持つ存在物である。人間は永遠 に続くと思われる「時」の中で「誕生」から「死」 によって与えられる「境界」を持つ,区切られた 「時間」を生きている存在物に過ぎない。 3. その他の捉え方については山梨(2000)を参照。 4. このような二重構造は「見る」という行為にも当 てはまる。私たちは,主体的にものを「見る」存 在であるが,私たちが周りを取り巻く世界におけ る存在物であるかぎり「見る主体」であると同時 に,客体的に「見られる」存在でもある。人間は 「見る」主体であり「見られる」客体でもある。 この関係は画家が自画像を描く場合にも同様に 捉えることができる。この場合画家は,対象を描 く主体であると同時に,「自画像」であるから描 かれる対象も画家自身である。したがって,画家 は主体であり客体でもある(cf. 時枝 1941: 42-43)。

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参考文献

時枝誠記(1941): 『国語学原論』,岩波書店

Lakoff, George and Mark Johnson (1980) : Metaphors We Live By. University of Chicago Press. Chicago. [渡部昇一ほか訳『レトリックと 人生』,大修館書店]

Lakoff, George (1987) : Women, Fire, and Dangerous Things. The university of Chicago Press. Chicago. [池上嘉彦ほか訳『認知意味論』, 紀伊国屋書店]

Lakoff, George and Mark Johnson (1999): Philosophy in the Flesh: The Embodied Mind and Its Challenge to Western Thought. Basic Books. New York. [計見一雄訳『肉中の哲学―肉 体を具有したマインドが西洋の思考に挑戦する』, 哲学書房]

森田良行(2002): 『日本語文法の発想』,ひつじ書房. 瀬戸賢一(1995): 『空間のレトリック』,海鳴社. Ymanashi, Masa-aki (2000): “Negative Inference,

Space Construal, and Grammaticalization,” in Laurence Horn and Yasuhiko Kato (eds.) Negation and Polarity: Syntactic and Semantic Perspectives, pp. 243-254, Oxford University Press.

山梨正明 (2000): 『認知言語学原理』,くろしお出 版.

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