印度學佛敎學硏究第六十八巻第一号 令和元年十二月
﹃念仏三昧宝王論﹄
に見える統合仏教思想
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﹃念仏鏡﹄
の対三階教姿勢と関連して
︱
加
藤
弘
孝
はじめに
筆者は以前に、飛錫 ︵生没年不詳︶ の手に成る ﹃念仏三昧宝 王 論﹄ ︵通 称﹃宝 王 論﹄ ︶ の 統 合 仏 教 思 想 を 検 討 し た 1 。 そ し て こ の統合の実態、動機に関しては、唐中期という時代の諸思想 を考慮することで更なる解明が可能なのである。 これは﹃宝王論﹄に同時代の諸思想が受容されているとい う 事 情 に 起 因 す る の で あ る が、 と り わ け 三 階 教 思 想 が、 ﹃宝 王 論﹄ 上 巻 ︵念 未 来 仏︶ に 濃 厚 に 見 出 せ る 点 が 重 要 で あ る。 最も顕著な対象を取りあげることで統合の実態が更に明確に なるのである。三階教と統合仏教思想がどのように関連する かというこの課題は、同じく唐中期成立の浄土教典籍である ﹃念 仏 鏡﹄ の 研 究 成 果 と 結 合 さ せ る こ と で 進 展 し 得 る と 思 わ れる。 と い う の も﹃念 仏 鏡﹄ ︵道 鏡・ 善 道 共 ︶ は 開 元 年 間 ︵七 一 三 ︱ 七 四 一︶ 以 降 の 諸 宗 競 合 の 時 代 に 成 立 し た も の で あ り、 特 に 三 階 教 思 想 に 対 し て は 強 い 対 抗 意 識 が 見 ら れ る か ら で あ る。すなわち両書の三階教観を取り上げることで、安史の乱 前後の三階教の弾圧から復興という一連の流れを構築するこ とが可能になるのである。同時にこれは﹃宝王論﹄の述動 機とも深く関わる問題であることは間違いない。そこで本研 究では両書の三階教姿勢の検討をおこなっていく。一
﹃念仏鏡﹄
の三階教批判との関連
筆者がおこなった﹃念仏鏡﹄への体系研究の結果、次のよ う な 成 果 が 得 ら れ た。 ﹃念 仏 鏡﹄ に は 非 常 に 強 い 三 階 教 批 判 が 見 ら れ る 一 方、 善 導 ︵六 一 三 ︱ 六 八 一︶ 、 大 行 ︵生 没 年 不 詳︶ ら祖師化の側面での三階教思想の受容が確認できる。本書の 成 立 年 代 は 天 宝 年 間 ︵七 四 二 ︱ 七 五 六︶ で あ り、 こ れ は 三 階 教 弾圧の時期と重なるのであ る 2 。 ﹃宝 王 論﹄ に 先 行 す る 本 書 の 三 階 教 批 判 の 諸 要 素 は 僧 食、 悪 衆 生 ︵認 悪︶ 、 仏 像 経 典 軽 視 ︵普 敬︶ 、 四 生 衆 生 ︵普 敬︶ 、 寺﹃念仏三昧宝王論﹄に見える統合仏教思想︵加 藤︶ 院 外 生 活、 地 蔵 信 仰、 非 一 乗 仏 教 な ど に 関 わ る も の で あ る。 教団生活、寺院生活についての記述が目立ち、その幾つかは ﹃開 元 釈 教 録﹄ に お け る 智 昇 ︵生 没 年 不 詳︶ の 批 判 に も 確 認 で きるものであり、浄土教家からの批判というよりは、仏教界 全体からの批判だったのであろう。たとえば僧食は教団で共 有 す る 食 物 を 指 す と 考 え ら れ る が、 三 階 教 で は 托 鉢 ︵乞 食︶ に よ る 食 事 の み を 認 め、 そ れ 以 外 の 方 法 で 得 た 食 を 認 め な かっ た 3 。恐らくは三階師は国家儀礼の際に供養される斎食な どを受けることはなかったことが推察され、この厳格な姿勢 が他派の僧らとの軋轢を生みだしていたと考えられるのであ る。また思想面での認悪は当時の学派仏教の修道論からする と異様なものに映っていたのであろう。 両書の成立順序は﹃念仏鏡﹄から﹃宝王論﹄となるが、後 発 の﹃宝 王 論﹄ に お い て は 三 階 教 へ の 諸 批 判 が 確 認 で き な い。確認し得ないだけではなく、幾つかは解消されている点 が重要である。
二
﹃念仏三昧宝王論﹄
の三階教受容
以上の考察を踏まえた上で﹃宝王論﹄の三階教思想を検討 し て み た い。 ﹃念 仏 鏡﹄ で 問 題 視 さ れ て い た 要 素 の 幾 つ か が 解消されて受容されていることに気付かされるであろう。 まず ﹃念仏鏡﹄末﹁釈衆疑惑門﹂ ︵第十門︶ の第四問答では、 普敬に関連させて仏像や経典を軽んじる三階教の信仰態度を 論難している。 問、 三 階 法 中、 見 形 像 及 以 諸 経、 不 多 恭 敬、 為 是 泥 龕。 四 生 衆 生 是 真仏故、所以恭敬。念仏法中未知。敬仏像及経已不 ︵﹁寛永一九年版﹂三十丁裏︶ こ の 姿 勢 は 経 像 を 軽 視 す る 浄 域 寺 法 蔵 ︵六 三 七 ︱ 七 一 四︶ の 事 例 か ら も 4 、 事 実 で あ っ た よ う で あ る が、 ﹃念 仏 鏡﹄ で は 仏 像批判のみに終始しており、三階教徒は衆生への普敬を重視 するあまりに仏像を軽視しているとする。これに対して﹃宝 王論﹄巻上﹁持戒破戒但生仏想門﹂ ︵第三門︶ においては、 対 曰、 如 来 嘗 於 三 昧 海 経、 為 父 王 説。 昔 有 四 比 丘、 犯 律 為 恥、 将 無 所 怙。 忽 聞 空 中 声 曰、 汝 之 所 犯、 謂 無 救 者 不 然 也。 空 王 如 来 雖 復 涅 槃、 形 像 尚 在。 汝 可 入 塔、 一 観 宝 像 眉 間 白 毫。 比 丘 随 之、 泣 涙 言 曰、 仏 像 尚 爾、 況 仏 真 容 乎。 挙 身 投 地、 如 大 山 崩。 今 於 四 方、 皆 成 正 覚。 東 方 阿 閦 仏、 南 方 宝 相 仏、 西 方 無 量 寿 仏、 北 方 微 妙 声 仏、 是 四 破 戒 比 丘 也。 所 以 如 来 名 此 観 仏 三 昧。 為 大 宝 王 戒 品 海 者、 可 以 滌 破 戒 之 罪 垢、 得 塵 累 之 清 浄 也。 此 四 比 丘、 一 観 宝 像、 僉 為 世 雄。 念 仏之人、豈得惑於破戒之僧歟 ︵﹁嘉興蔵版﹂八丁表∼裏︶ ﹁仏 像 で あ っ て も こ れ ほ ど の 功 徳 が あ る の だ か ら、 ど う し て 仏 の 真 容 が そ う で な い こ と が あ ろ う か﹂ と﹃観 仏 三 昧 海 経﹄ を改変して引用し、仏像軽視への批判を解消した上で、普敬﹃念仏三昧宝王論﹄に見える統合仏教思想︵加 藤︶ を強調する。 更には、 ﹃念仏鏡﹄ の同問答でなされる、 一 切 衆 生 是 真 仏、 不 合 損。 一 年 之 中 損 生 無 頭 数、 殺 仏 之 罪 如 何 除 得 ︵﹁寛永一九年版﹂三十一裏∼三十二丁表︶ という日常的に四生衆生を害することへの批判も、 ﹃宝王論﹄ 巻上﹁一切衆生肉不可食門﹂ ︵第七門︶ において、 且 龍 樹 不 軽 於 鴿 雀、 高 僧 不 跨 於 蟲 蟻。 或 問 其 故。 答 曰、 斯 之 与 吾、 同 在 生 死。 彼 或 将 先 成 正 覚。 安 可 妄 軽 耶。 軽 尚 不 可。 豈 得 専 食 其 血 肉哉 ︵﹁嘉興蔵版﹂十五丁裏∼十六丁表︶ ﹁龍 樹 は 鴿 や 雀 も 軽 ん ぜ ず、 高 僧 は 虫 や 蟻 も 跨 が な か っ た。 ある人がその理由を質問した。回答して言うには、これらの 存在は私と同様に生死の世界にいるのだ。もしかすると彼ら が先に正覚を成就するかもしれないのである。どうしてみだ りに軽んずることができるだろうか。軽んずるだけでもすべ きでないのである。どうしてその血肉を食することができる であろうか﹂と述べて、肉食に関わる戒律主義を押し出すこ とで解消するのである。以上の事例からは批判要素を取り除 きながら普敬を受容していることがわかるであろう。 また﹃念仏鏡﹄には普敬と表裏をなす三階教思想の認悪へ の批判要素も存在する。 ﹃念仏鏡﹄末﹁釈衆疑惑門﹂ ︵第十門︶ の第二問答の主題は、 問、三階称悪衆生、念仏是好衆生、為当亦是悪衆生 ︵﹁寛永十九年版﹂二十九丁裏︶ と い う 設 問 か ら 窺 え る よ う に 、 三 階 教 徒 は 自 ら を 悪 衆 生 と 見 做 す が 、 念 仏 信 者 は 好 衆 生 と 見 做 す 点 を 対 照 す る と こ ろ に あ る 5 。 ここでは三階教の実践の大きな特徴である認悪を取り上げ 批判する。認悪とは他者には悪を認めず、自己の存在を悪そ のものとして認識する宗教的態度である。自身を凡夫と認識 する浄土教との共通点の一つであるが、ここで﹃念仏鏡﹄の 者たちは、念仏行者を﹁好衆生﹂ 、﹁人中分陀利華﹂として 三階教との差別化をはかっている。この差別化は自身を肯定 する思想と容易に結び付くものである。 後 発 の﹃宝 王 論﹄ 巻 上﹁無 善 可 択 無 悪 可 棄 門﹂ ︵第 六 門︶ で は、普敬に関連して悪を捨てるべきでないという。 問 曰、 若 択 善 而 従 者、 何 不 択 諸 仏 之 善、 棄 衆 生 之 悪、 乃 念 未 来 諸 仏。 而 同 過 現 正 覚 耶。 対 曰、 不 易 来 問 自 成 我 答 焉。 何 者 択 善 而 従 者、 蓋 不 得 已。 而 言 之、 為 力 微 任 重 不 能、 即 悪 而 善、 即 妄 而 真。 故 以 明 之。 苟 能 念 未 来 之 仏、 叶 不 軽 之 行。 天 地 一 指、 万 物 一 馬。 衆 生 皆 仏、 此 土 常 浄。 異 子 之 土 石 砂 礫、 同 梵 王 之 珍 宝 荘 厳。 択 善 之 至 矣。 無 悪 可 棄 矣。 即 天 台 智 者、 釈 法 華 経、 明 絶 待 之 妙。 引 証 云、 衆 生 見 劫 尽、 大 火 所 焼 時、 我 此 土 安 隠、 天 人 常 充 満、 園 林 諸 堂 閣、 種 種 宝 荘 厳。 又 勝 天 王 経 曰、 仏 所 住 処、 実 無 穢 土。 衆 生 薄 福、 而 見 不 浄。良在此焉 ︵﹁嘉興蔵版﹂十四表∼裏︶
﹃念仏三昧宝王論﹄に見える統合仏教思想︵加 藤︶ こ こ で は 智 顗 ︵ 五 三 八 ︱ 五 九 七 ︶ の ﹃ 法 華 経 ﹄ 解 釈 な ど を 切 り 口 にし て 穢 土 を 仏 国 土 と 見 て い る 。 こ れは 普 敬 と い う 他 者 に 対 し て の 視 点で あ る が 、 自 身 を 本 尊 と 見 做 し て い く ﹁ 想 自 身 為 本 尊 ﹂ ︵﹃ 宝 王 論 ﹄ 巻 上 、 第 四 門 ︶ の 事 例 か ら も 最 終 的 に は 自 ら に も 如 来 蔵 、 仏 性 を 見 出 し て い く 現 実 肯 定 、 自 己 肯 定 の 思 想 的 方 向 性 を 有 し て い たと 考 え ら れ る 。 そ う す ると や はり こ こ で も 批 判 要 素 で あ っ た 認 悪 を 明 確 に 除 去 し て い る の で あ る 。
三
﹃念仏三昧宝王論﹄
の統合仏教思想
ここで重要なのは三階教文献を使用せずに﹃法華経﹄を中 心とする正統的な仏典で理論構築をしている点であるが、注 意すべきなのは、天台教学との関わりを飛錫に過剰に見出す こ と で あ る。 既 に 提 唱 し た よ う に、 ﹃宝 王 論﹄ で は あ く ま で 当時の通念 ︵﹁法華三昧﹂ ︶ を用いて ﹁法華不軽の行﹂ として三 階教思想を学派化しているのであ る 6 。 たとえば巻上﹁一切衆生肉不可食門﹂ ︵第七門︶ では、 聞 夫 敬 慢 之 道、 一 以 貫 之。 則 移 敬 就 慢、 均 父 母 於 平 人。 逆 之 甚 也。 移 慢 就 敬、 均 平 人 於 父 母。 孝 之 大 也。 故 梵 網 経 云、 六 道 衆 生、 皆 是 我父母。孝名為戒。良在茲焉 ︵﹁嘉興蔵版﹂十六丁表∼裏︶ ﹁敬 慢 の 道 に は 一 つ の 道 理 が あ る と い う。 敬 を 移 し て 慢 と し たならば、父母を他の人々と同様の存在として扱うことにな る。これでは道理に背くこと甚だしい。慢を移して敬とした な ら ば、 他 の 人 々 を 父 母 と 同 様 の 存 在 と し て 扱 う こ と に な る。 こ れ は 孝 の 至 大 で あ る。 こ の た め に﹃梵 網 経﹄ に、 ﹁六 道の衆生はみな私の父母である。孝を戒と言うのである﹂と 説 か れ て い る。 ま さ に こ の 通 り で は な い か﹂ と あ っ て、 ﹃梵 網経﹄ を用いて三階教の普親観を通仏教化している。 ﹃法 華 経﹄ 、﹃梵 網 経﹄ な ど 正 統 経 典 の 枠 組 み で 普 敬 ︵不 軽︶ を論ずることで、三階教の独自解釈の認悪などを退けている ことに気付かされるであろう。 更には ﹃宝王論﹄巻中 ︵念現在仏︶ の冒頭において、 問、 念 未 来 仏 即 衆 生 是。 已 聞 玄 義、 事 広 理 幽 也。 又 恐 心 散 難 検。 今 欲 一 以 貫 之、 専 西 方 念 一 仏、 践 不 退 地、 祛 有 漏 心、 乗 舟 於 黃 金 之 池、礼弥陀於白玉之殿、以通三世、希霑九品 ︵﹁嘉興蔵版﹂一丁表︶ ﹁質問する。未来仏を念ずるとは、衆生を念ずることである。 すでに玄義を聞いたものの、事は広く理は幽玄である。心が 散乱して、はかり難いことを恐れる。今、その道理を通じさ せるために、西方極楽浄土に専注して一仏を念じ、不退の地 に到って有漏の心を退けて、黄金の池で小舟に乗り、白玉の 宮殿で阿弥陀仏を礼拝し、それにより三世に通じて、九品に 霑 う こ と を 願 う の で あ る﹂ と 述 べ て、 三 階 教 思 想 ︵念 未 来 仏︶﹃念仏三昧宝王論﹄に見える統合仏教思想︵加 藤︶ を 具 体 的 な 実 践 法 で あ る 浄 土 教 思 想 ︵念 現 在 仏︶ に よ っ て 包 括している。 こ れ は﹁ ﹁法 華 三 昧﹂ に 象 徴 さ れ る 通 念 を、 自 ら の 通 底 信 仰である﹁念仏三昧﹂の教義でもって再構築するとい う 7 ﹂飛 錫の修道論と合致するものである。 以 上、 三 階 教 思 想 が﹁法 華 不 軽 の 行﹂ と し て、 通 仏 教 的、 学派的なものへ再構築された上で、浄土教家に受容されてい たことが確認できた。ではこの浄土教家の対外姿勢は何を意 味しているのであろうか。 唐中期、安史の乱以降に三階教が変容していた可能性は先 学によって指摘されてい る 8 。ただそれは進歩的なものではな く、保守的なものであったと思われる。 大 行 の 活 動 年 代 の 開 元 年 間 ︵七 一 三 ︱ 七 四 一︶ 以 降、 三 階 教 の 大 き な 特 色 で あ る 無 尽 蔵 行、 信 行 ︵五 四 〇 ︱ 五 九 四︶ の 墳 墓 へ の 埋 葬 ︵捨 身 行︶ な ど の 記 録 は 途 絶 え て い く。 恐 ら く は 弾 圧により独自色を喪失していったのだと考えられる。 それを裏付ける動向として三階教徒による﹃仏頂尊勝陀羅 尼経﹄経幢の建立事業が挙げられる。これは亡くなった三階 教徒を讃える目的で建立されるものであるが、奇しくも飛錫 の 活 動 期 に 近 接 す る 九 世 紀 前 半 に 盛 ん に な っ て い く の で あ る 9 。 信 行 墳 墓 で の 起 塔 ︵捨 身 行︶ か ら、 経 幢 の 建 立 へ と 埋 葬 の形式が通仏教的に変容していった開元年間以降の事例と言 えよう。 つまりこの事例と﹃宝王論﹄の思想傾向を踏まえると、安 史の乱を境に三階教復興の機運が高まった際、仏教界の長老 の 一 人 で あ っ た 飛 錫 が 通 念 の 範 疇 で 三 階 教 を 通 仏 教 化 ︵統 合︶ したと見做せるのである。 この動向は統合仏教思想という文脈で読み取ることで理解 が更に容易になる。すなわち述動機は異端思想の矯正にあ り、異端の矯正を契機に浄土教家が主導していった僧侶論と 見做すことができるのである。 例 え ば 末 尾 の﹃宝 王 論﹄ 巻 下﹁万 善 同 帰 皆 成 三 昧 門﹂ ︵第 二十門︶ に、 遂 稽 首 多 宝 塔 。 対 之 蓮 華 僧 与 吾 、 普 観 十 方 尊 、 円 念 三 世 仏 、 長 跪 手 ︵﹁嘉興蔵版﹂十四丁表︶ ﹁遂 に 多 宝 塔 に 稽 首 礼 拝 し た。 蓮 華 僧 と 私 は 普 く 十 方 尊 を 観 じ、まどかに三世の仏を念じ、長跪手したのである﹂とあ るのが注目される。 ここで飛錫は﹁蓮華僧﹂という僧侶像を提唱しているので あ る が、 こ れ は﹃念 仏 鏡﹄ 末﹁釈 衆 疑 惑 門﹂ ︵第 十 門︶ の﹁念 仏 す る 者 は 人 中 の 分 陀 利 華 で あ る﹂ ︵好 衆 生︶ と い う 姿 勢 を 発 展させたものと言えるであろう。浄土教家における理想の僧 侶像を提唱していると思われるのである。
﹃念仏三昧宝王論﹄に見える統合仏教思想︵加 藤︶