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密教研究 Vol. 1939 No. 71 003矢野 仁一「蒙古における喇嘛教起原 P27-39」

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一 嘲 嚇 致 の 信 仰 は 何 時 か ら 蒙 古 に 起 る こ と に な つ た か と い ふ こ と は 嘲 嚇 教 の 歴 史 上 相 當 重 要 な 問 題 で あ る。 憲 宗 の 時 代 に お い て す ら 蒙 古 の 都 ハ ラ ホ ル ム (和 林 ) に 紅 教 喇 嘛 の 僧 侶 が 來 て ゐ た こ と は、 ル ブ ル ク の ウ ィ リ ァ ム 師 の 族 行 記 (R ock hill,J o u mey of Friar Willi a m of R ubr uck, PP. 19 9, 2 4 2 ) に 見 え て ゐ る。 そ れ は と も か く、 元 時 代 あ れ 程 信 仰 さ れ た 喇 嘛 教 が 當 時 蒙 古 地 方 に 何 等 影 響 を 及 ぼ さ な か つ だ こ と は 何 人 に も 考 へ ら れ な い。 ま た 元 時 代 多 少 な り と も 喇 嘛 致 が 蒙 古 に 於 て 行 は れ た と す れ ば、 元 の 滅 亡 と 共 に 遽 に 其 跡 を 縄 ち 影 を 滅 す る と い ふ こ と も 信 ぜ ら れ な い。 勿 論 元 時 代 の 圃 嚇 致 は 元 朝 帝 室 の 信 仰 で 一 般 蒙 古 人 民 の 信 仰 と な ら な か つ た か ら 始 め よ り 蒙 古 地 方 に 於 て 行 は れ す、 元 の 朝 廷 が 蒙 古 に 退 き 喇 嘛 教 の 本 地 た る 西 藏 地 方 に 封 し 政 治 上 の 勢 力 を 失 ふ に 至 つ て 自 然 劇 臓 教 も 滑 滅 し た も の で な い か と の 推 測 も 出 來 ぬ こ と は な い。 現 に 蒙 古 史 の 一 灌 威 た る 英 吉 利 の ハ ワ ー ス (H owarth,Hist ory o f Mongols, P art I, P P. 40 4,405 ) の 如 き も、 忽 必 烈 の 時 喇 嘛 教 が ど れ 程 一 般 蒙 古 人 民 の 間 に 信 ぜ ら れ し 蒙 古 に 細 け る 喇 嘛 教 起 源 二 七

(2)

蒙 古 に お け る 喇 嘛 教 起 源 二 八 か は 誰 擦 の 徴 す べ き も の が な い、 恐 ら く 當 時 の 喇 嘛 教 は 宮 廷 の 官 吏 貴 族 問 の 信 仰 に 過 ぎ す、 一 般 蒙 古 人 民 は 依 然 成 吉 思 汗 當 時 の シ ャ マ ン 致 の 信 仰 を 改 め な か つ ﹁た も の で あ ら う、 宮 廷 の 官 吏 貴 族 問 の 信 仰 に 過 ぎ な か つ た 喇 嘛 教 も 其 後 清 滅 す る に 至 つ た 様 で あ る と 述 べ て ゐ る。 醐 臓 噺 嚇 致 が 蒙 古 に 於 て 大 い に 行 は る、 こ と に な つ 淀 の は、 西 暦 十 六 世 紀 の 後 孚 か ら で あ る・ 蒙 古 勢 爾 ド ス セ ヅ エ ン フ ン ゲ タ イ ヂ 多 斯 部 の 徹 辰 鴻 台 吉 の 嘲 臓 教 に 蹄 依 し た の は 西 暦 一 五 六 六 年、 明 の 嘉 靖 四 十 五 年 西 藏 地 方 遠 征 の 結 果 で、 此 時 シ リ ム チ の 三 河 交 會 地 方 の 陣 螢 よ り、 地 方 の 劇 臓 君 長 等 に 勧 降 使 を 登 し、 汝 等 降 を 乞 は や 我 等 は 汝 等 の 宗 教 緯 典 に 從 ふ べ く、 降 を 乞 は ざ れ ば 我 等 は 汝 等 を 待 つ に 敵 を 以 て せ ん と い は し め し こ と は サ ナ ン つ セ ツ・ エ ン の 蒙 古 源 流 に 見 え て ゐ る。 徹 辰 鴻 台 吉 は 那 爾 多 斯 部 の 祀 嚢 弼 哩 克 墨 爾 根 吉 嚢 の 孫 で 臥 嚢 弼 哩 克 墨 爾 根 吉 嚢 は 土 黙 特 部 の 組 阿 爾 坦 汗 帥 ち 明 史 の 俺 答 の 兄 で あ る。 ジ ク メ ド・ ナ ム カ (oji gs-med N a m -m K. a ) の 蒙 古 佛 教 史 の フ ー ト 蜀 逸 課 本 (Geschichte des in der M ongolei a us de m T ibet isc hen,heraus geben,uber-setzt und erlautert v on Dr.Georg H uth, 18 9 6,SS.57,58 ) に、 阿 爾 坦 汗 が 六 十 七 歳 の 初 め 癸 酉 の 年 帥 ち 西 暦 一 五 七 三 年 フ ー ト 博 士 註 記 事 は ツ 五 七 二 ﹁年 と あ る も 一 五 七 三 年 の 誤 り

西

め、

西

時、

西

り、

西

め、

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其 勢 力 を 及 ぼ し た と い ふ 認 事 が 見 え て ゐ る つ 徹 辰 鴻 台 吉 は 阿 爾 坦 汗 の 喇 嘛 教 に 脈 依 し な い 以 前 よ り 既 に 喇 嘛 教 に 脈 依 し て ゐ て、 阿 爾 坦 汗 を 鋤 め て こ れ に 蹄 依 せ し め た こ と に な つ て ゐ る。 徹 辰 鴻 台 吉 は 丙 子 の 年 師 ち 西 暦 一 五 七 六 年 (萬 暦 四 年 ) 阿 爾 坦 汗 を 訪 問 し、 今 汗 の 壽 は 既 に 高 い、 干 業 の 問 に 一 生 の 大 部 分 を 過 し、 支 那 人 を し て 封 貢 の 議 を 承 諾 せ し め、 琵 刺 ナ ロ ー ト 蒙 古 即 ち カ ル マ ヅ ク 蒙 古 を 克 服 し た、 兵 馬 の こ と は こ れ で 十 分 で あ る、 事 の 今 生 來 世 に 盆 あ る も の は 宗 教 と 維 教 と の 外 に な い、 こ れ 先 賢 も 説 い て ゐ る と こ ろ で あ る、 今 南 方 の 多 雪 地 方 に 大 慈 大 悲 観 世 バ ク バ 音 菩 薩 の 出 現 せ る 評 剣 專 ら で あ る か ら 專 使 を 發 し て こ れ を 迎 請 し、 ↑神 租 忽 必 烈 汗 が 帖 克 巴 喇 嘛 を 迎 請 せ し 時 の 故 事 に 傲 つ て、 道 教 を 設 立 せ し 盛 事 を 再 び す る 心 な き か と 説 い て、 阿 爾 坦 汗 を 動 か し た の で、

し、

漢 羅 本 に 右 翼 三 萬 人、 シ ユ ミ ツ 手 猫 謬 本 に Drei Baragh o n

し、

の 年 師 ち 西 暦 一 五 七 六 年 (萬 暦 四 年 ) 迎 請 使 を 發 し て 達 頼 喇 嘛 聖 識 一 切 之 索 諾 木 嘉 穆 呼 圖 克 圓 に 懇 請 せ し む る に 蒙 古 巡 錫 の こ と を 以 て す る に 至 つ だ と い ふ こ と に な つ て ゐ る。, 然 ら ば 阿 爾 坦 汗 の 喇 嘛 教 蹄 依 は 西 暦 一 五 七 六 年 に 始 ま る か と い ふ に さ う で は な い。 サ ナ ン・ セ ッ ェ ン に よ る と 阿 爾 坦 汗 が 始 め て 宗 教 に 心 を 寄 せ、 六 字 の 呪 語 を 踊 す る に 至 り し は そ れ よ り 三 年 前 の 癸 酉 の パ ラ テ イ ベ ヅ ト 年 帥 ち 西 暦 一 五 七 三 年 (萬 暦 元 年 ) 西 藏 の 哈 拉 圖 伯 特 地 方 に 達 征 せ し 時、 数 多 の 西 藏 人 捕 虜 と 共 に 蒙 古 に 件 ひ 露 つ た 阿 哩 克 喇 嘛 の 鋤 化 に よ つ た も の で あ る。 ジ ク メ ド・ ナ ム カ 蒙 古 佛 教 更 に も 前 述 の 如 く 阿 爾 蒙 吉 お け る 喇 嘛 教 起 源 二 九

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蒙 古 に お け る 喇 嘛 教 起 源 三 〇 坦 汗 ば 此 年 西 藏 に 遠 征 し、 當 時 同 じ ぐ 西 藏 に 遠 征 せ し 徹 辰 鴻 台 吉 の 影 響 を 被 む る に 至 り し こ と を 記 し て あ る。 阿 爾 坦 汗 が 徹 辰 鴻 台 吉 の 影 響 を 被 む つ た の は 三 年 後 の こ と で あ る が、 此 年 阿 哩 克 喇 嘛 の 影 響 を 被 む つ た の で 一 ジ ク メ ド・ ナ ム カ は そ れ を 混 同 し た も の ゝ 様 に 思 は れ る。

西 暦 一 五 七 三 年 正 月 絡 督 王 崇 古 が 北 虜 順 義 王 俺 答 の 金 字 番 経 の 給 付 を 請 ひ、 兼 ね て 嘱 嚇 僧 を し て 経 呪 を 傳 習 せ し め ん こ と を 請 ひ し こ と を 上 聞 せ し 記 事 が 見 え て ゐ る。 ﹃ 明 史 ﹄ 鞭 鞠 傳 に も、 隆 慶 中 俺 答

え、

巻 六 ○、 俺 鵠答 封 鼠 貝 の 條、 に も 萬 暦 元 年 (西 暦 一 五 七 三 年 ) 順 義 王 俺 答 に 番 経 を 頻 襲 し た 記 事 が 見 え て ゐ る。 阿 爾 坦 汗 の 剛 嚇 教 編 依 は 萬 暦 以 前 既 に 隆 慶 中 に 端 を 登 し た も の 匙 考 へ な け れ ば な ら ぬ。 サ ナ ン・ セ ツ ェ ン よ b は ﹃ 皇 明 實 録 ﹄ の 記 事 信 す べ く、 阿 爾 坦 汗 は 西 暦 一 五 七 三 年 阿 哩 克 劇 臓 渤 化 に よ る 前、 既 に 隆 慶 中 よ り 劇 臓 教 に 蹄 依 し て ゐ た も の と 考 へ る が 適 當 で あ ナ サ ル ド ス ト メ ヅ ト

る。

ば、

斯、

西

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る。

に、

教、

答、

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燧、

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)

る。

教、

深、

少、

出、

る。

(5)

阿 爾 坦 汗 の 桜 佛 (嘲 嘛 教 深 酔 ) は 其 妻 三 娘 子 の 戚 化 に よ る と い ふ 説、 蒙 古 の 喇 嘛 教 信 仰 は 明 の 宰 相 張 居 正 の 蒙 古 を 柔 軟 せ ん と の 政 策 に 基 づ く と の 説 は 如 何 な る 根 擦 に よ る も の で あ ら う か。 明 の 隆 慶 中 阿 爾 坦 汗 の 一 子 丙 兎 が 青 海 及 び 嘉 硲 關 外 に お い て 佛 寺 を 建 立 せ ん こ と の 許 可 を 請 ひ し 時、 廷 臣 多 歎 の 反 封 あ り し に 拘 ら す、 禮 臣 (禮 部 の 官 憲 ) は ひ と り こ れ を 許 し て 其 善 心 を 鼓 舞 す る に 若 か す 一 戎 の 順 逆 は 一 寺 の 遠 近 に 非 す と い つ て 一 賛 成 論 を 主 張 せ し こ と は、 ﹃ 明 史 ﹄ 西 域 西 番 諸 衛 傳 に 見 え て ゐ 為。 張 居 正 は 隆 慶 元 年 四 月 よ り 同 四 年 十 二 月 吏 部 術 書 に 陞 任 し た 時 ま で 大 學 士 を 以 て 禮 部 省 書 に 任 じ、 一阿 爾 坦 封 貢 の 議 に 就 い て、 大 學 士 高 撲 と 共 に、 群 議 を 排 し て 其 成 立 に 盤 力 し た 顛 末 は、 ﹃ 明 史 ﹄ 各 傳、 ﹃ 明 史 紀 事 本 末 ﹄、 ﹃ 國 北 三 廉 志 ﹄ 等 仁 よ つ て 知 る こ と が 出 來 る。 丙 兎 の 要 請 せ る 青 海 及 び 嘉 硲 關 外 に お け る 佛 寺 建 立 の 許 可 を 主 持 し た も の も 或 は 張 居 正 か も 知 れ な い。 、 ﹃ 明 史 ﹄ 西 域 西 番 諸 衛 傳 に よ る と、 既 に 隆 慶 中 か ら 蒙 古 諸 部 は 多 く 劇 臓 教 を 奉 じ、 阿 爾 坦 汗 の 子 丙 兎 は 焚 修 を 名 と し て、 青 海 及 び 嘉 硲 關 外 に 於 て 喇 嘛 寺 建 立 の 許 可 を 請 ひ し 時 は 既 に 其 起 工 後 で あ つ た と い ふ こ と で あ る。 西 域 西 番 諸 衛 傳 だ け の 記 事 で は、 青 海、 嘉 俗 關 外 二 ヶ 庭 の 噺 嚇 寺 共 に 萬 暦 二 年 前 後 仁 竣 工 し、 ニ ケ 腱 共 に 仰 華 寺 と い ふ 寺 額 を 赦 賜 せ ら れ た 様 に 見 ゆ る が ﹂ そ れ も 可 笑 し く、 ﹃ 明 史 ﹄ 韓 靱 "傳 の 俺 答 老 桜 佛、 後 請 於 海 南 建 寺、 詔 賜 寺 額 仰 華 と い ふ 記 事、 及 び ﹃ 皇 明 實 録 ﹄ の 萬 暦 五 年 四 月 三 邊 都 御 史 石 茂 華 が、 ﹂俺 答 の 西 海 に 寺 廟 を 建 立 し、 工 事 完 成 に つ き 寺 額 頒 與 せ ら れ ん こ と を 請 ひ し こ と を 題 蒙 古 に お け る 喇 嘛 教 起 源 三 一

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蒙 宵 に お け る 喇 嘛 教 起 源 三 二 奏 し て、 一仰 華 の 寺 額 を 賜 は つ た と い ふ 記 事 を 参 考 す る と、 西 域 西 番 諸 衛 傳 に 萬 暦 二 年 以 後 竣 工 し て 仰 華 の 寺 額 を 賜 は り し 如 く い つ て あ る の は、 青 海 の 劇 嚇 寺 で、 其 竣 工 し て 寺 額 を 賜 は り し も、 萬 暦 二 年 以 後 で な く 萬 暦 五 年 の こ と、 考 へ ら れ る。 か く て は 阿 爾 汗 の 子 丙 兎 が 隆 慶 中 よ り 建 立 に 着 手 せ る も の と し て ゐ 鯨 り の 工 事 遅 延 方 と い は な け れ ば な ら ぬ。 隆 慶 中 よ り 建 立 に 着 手 し た と 考 へ る こ と は か く て 幾 分 ど う か と 思 は れ る 黙 な き に 非 れ ど も 致 方 が な い。 或 は 丙 兎 が 隆 慶 中 よ り 建 立 に 着 手 せ る 工 事 が 何 等 か の 理 由, で 遜 延 し 或 は 中 止 し て ゐ た の が、 萬 暦 五 年 阿 爾 坦 汗 が 達 頼 剛 嚇 を 迎 請 す る 機 會 に 於 て 之 を 縫 綾 す る に 及 び 完 成 し た の か も 知 れ な 訪 い。 此 の 如 く 考 へ る と、 阿 爾 坦 汗 の 妻 も 阿 爾 坦 汗 の 子 も 阿 爾 坦 汗 に 先 だ つ て 劇 嚇 致 を 信 仰 し て ゐ た こ と 上 な る o 隆 慶 申 よ り 喇 嘛 教 の 信 仰 が 既 に 蒙 古 に 於 て 相 當 に 行 は れ て ゐ た こ と、 な る。 ジ ヤ サ ク ト ト メ ン タ イ ヂ

に、

西

ガ ル 購 爾 塒 嘲 嚇 の 勧 化 に よ つ て 喇 嘛 教 に 入 門 せ る こ と が 見 え て ゐ る。 此 頃 に な る と、 察 喰 爾 地 方 に さ へ 喇 セ ツ エ ン 臓 僧 が 巡 錫 行 敬 し つ、 あ つ た 様 蕉 見 え る, 西 暦 一 五 九 二 年 (萬 暦 二 十 一 年 ) に 嗣 立 し た 圖 椚 台 吉 の 子 の 徹 辰 ハ ン ブ ヤ ン 汗 布 延 は 宗 敬 と 法 律 と を 保 護 し、 蒙 古 大 國 民 を し て 儘 く 太 平 の 幸 福 を 享 受 せ し め た と い ふ こ と も ﹃ 蒙 古 源 流 ﹄ に 見 え て ゐ る。 三

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然 る に 叢 に 一 つ 不 思 議 な こ と は、 西 暦 一 五 六 七 年 (隆 慶 元 年 ) 帥 ち 徹 辰 鴻 台 吉 が 嘲 嚇 教 蹄 依 を 約 し て 西 藏 地 方 か ら ラ ル ジ ラ 喇 嘛 漢 謬 本 蒙 古 源 流 に 巴 古 實 喇 嘛、 シ ュ ミ ッ ト 濁 逸 誕 本 にBIargin Ia m a

に、

西

帝 イ ヴ ァ ン 第 四 世 の 命 を 奉 じ て 蒙 古 を 横 漸 し、 北 京 に 達 し た 露 西 亜 最 初 の 支 那 派 遣 使 節 ペ ト ロ フ 及 び ヤ ソ チ ェ フ は 途 中 蒙 古 到 る 庭 に 剛 臓 僧、 鍍 金 佛、 石 造 琵 葺 の 喇 嘛 廟 な ど を 見 た と い ふ こ ど で あ る。 こ れ は 英 吉 利 の バ ソ デ レ イ が 露 西 亜 の 古 記 録 調 査 の 機 會 を 得 て 登 見 し た 事 實 で あ る と い つ て、 英 吉 利 の パ ー カ ー が 其 ﹃ 成 吉 思 汗 後、 満 洲 勃 興 前 の 蒙 古 ﹄ と 題 す る 論 交 中 に 記 述 し て ゐ る と こ ろ で あ る (P arker ハ ル ハ

Mongolia,after Genghizieds and bofore the Manchus

)。 若 し こ れ が 事 實 と す れ ば、 外 蒙 舌 喀 爾 喀 に 於 て 劇 嚇 教 の 信 仰 が 起 つ た の は、 内 蒙 古 な ど よ り 鯨 程 早 い 時 代 と 考 へ な け れ ば な ら ぬ こ と に な る。 然 る 仁 バ ジ デ レ イ が 其 大 著 述 ﹃ 露 西 亜 蒙 舌 及 び 支 那 ﹄ に 於 て 西 暦 一 五 六 七 年 ペ ト ロ フ、 ヤ リ チ ェ フ ニ 人 が イ ヴ ァ ジ 第 四 世 に よ つ て 北 京 に 派 遣 さ れ た と い ふ こ と は、 酉 暦 一 六 一 八 年 に ペ ト リ ソ 及 び マ ン ド フ 二 人 が 露 西 亜 皇 帝 ミ ハ イ ル に よ つ て 派 遣 さ れ し 事 實 を 誤 傳 せ る も の で、 サ ハ ロ フ が 西 暦 耐 八 四 一 年 に お い て 一 度 其 紀 行 を 公 に せ し 以 來、 西 暦 一 九 一 三 年 バ ー ト ル ド 教 授 が 西 暦 一 五 六 七 年 の 如 き 早 期 の 北 京 族 行 は 事 實 有 り 得 べ か ら ざ る も の で あ る と し て 其 理 由 を 指 摘 し た 時 ま で、 カ ラ ム ジ ン を 始 め と し て 露 西 亜 の 歴 史 家 は 一 般 に 之 を 信 じ て 疑 ふ も の な か う し こ と を 述 べ、 バ ソ デ レ イ 自 身 も 之 に 先 だ つ 一 年、 此 の 如 き 紀 行 は 之 を か、 る 早 期 に 厩 せ し む べ き で な く、 た " 之 を ペ ト ジ ン の み の 族 行 に 薦 せ し む べ き 所 蒙 古 に お け る 喇 嘛 教 起 源 三 三

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古 に お け る 喇 嘛 教 起 源 三 四 以 に 就 い て、 数 多 の 謹 擦 を 蒐 集 す る に 至 り し こ と を 記 し て ゐ る (Jo h n Baddeley, R ussia,Mon China, V o l.II,6 8,69 )。 パ ー カ ー の 誤 解 か、 バ ソ デ レ イ の 欺 瞞 か そ れ は い つ れ に し て も 露 西 亜 の 支 那 派 遣 使 節 が 蒙 古 横 團 の 途 上 到 る 庭 で 剛 臓 僧、 喇 嘛 寺 な ど を 目 撃 せ る こ と は、 假 令 事 實 と し て も、 そ れ は 西 暦 一 五 六 七 年 の 如 き 早 期 の こ と で な く、 西 暦 一 六 一 八 年 の こ と に 過 ぎ な い と す れ ば、 外 蒙 古 喀 爾 喀 に 於 て 剛 嚇 致 の 信 仰 が 起 つ た の は、 必 す し も 内 蒙 古 に 先 だ つ・ て ゐ る と 考 へ な け れ ば な ら ぬ 必 要 は な い。 然 ら ば 何 時 頃 か ら 外 蒙 古 喀 爾 喀 に 於 て 喇 嘛 教 の 信 仰 が 起 る こ と に た つ た か。 四 サ キ ニ

)

に、

教、

嘛、

禮、

號、

法、

る。

で、

ダ ヤ ン ノ ノ ホ 達 延 汗 の 季 子 格 将 森 札 の 第 三 子 偉 徴 諾 顔 諾 諾 和 の 長 子 で あ る。 外 蒙 古 喀 爾 喀 に お い て 喇 嘛 教 の 信 仰 が 起 つ た の は 大 髄 阿 巴 岱 汗 の 時 代 と 考 へ て よ い わ け で あ る が、 阿 巴 岱 汗 の 時 代 で も 何 時 の こ と で あ る か、 其 達 頼 喇 嘛 に 往 謁 し て 優 禮 を 蒙 ぶ り し 時 は 何 時 で あ る か 知 る こ と が 出 來 れ ば わ か る わ け で あ る。 ボ ヅ ド ネ エ ク の ﹃ 蒙 古 及 び 蒙 古 人 ﹄ に 阿 巴 岱 汗 は 蒙 古 に お け る 喇 嘛 教 最 初 の 弘 布 者 で、 ジ ャ マ ン 致 の

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フ ク ホ ド 破 滅 者 で あ る と 述 べ、 西 暦 一 五 七 七 年 (萬 暦 五 年 ) 蒙 古 の 南 方 蹄 化 城 (今 の 厚 和 ) に 達 頼 喇 嘛 謁 見 の た め 族 行 を な し、 達 頼 喇 嘛 か ら 始 め て 佛 教 の 致 戒 を 授 か つ た こ と を 記 述 し て あ る。 エ ル デ ニ・ エ リ へ (Erd ヱ ル ヂ ン ズ セ E rikhe ) と い ふ 喀 爾 喀 最 古 の 喇 嘛 寺 額 爾 徳 尼 招 の 年 代 記 に も 阿 巴 岱 汗 が 脈 化 城 で 達 頼 喇 嘛 に 謁 見 し て か ら 八 年 目 に 此 寺 は 建 立 せ ら れ た 様 に 記 し て あ る と の こ と で あ る。 ポ ヅ ド ネ エ フ が 阿 巴 岱 汗 の 蹄 化 城 で 達 頼 喇 嘛 に 謁 見 し た 年 代 を 西 暦 一 五 七 七 年 と 記 し て ゐ る の も、 お そ ら く 此 年 代 記 に よ つ た も の で あ ら う。 然 る に 張 穆 の ﹃ 蒙 古 游 牧 記 ﹄ に よ る と、 阿 巴 岱 汗 が 衆 心 の 鶴 服 を 得 て 始 め て 汗 と 穗 し た の は、 達 頼 喇 嘛 に 謁 し、 経 典 を 迎 へ て 蹄 つ た た め で、 達 頼 喇 嘛 に 謁 し た の は 何 年 の こ と か ﹃ 游 牧 記 ﹄ に は 書 い て な い が、 謁 し た 場 所 は 唐 古 特 で あ つ て、 蒙 古 の 蹄 化 城 で は な い の で あ る。 ボ ヅ ド ネ エ フ は 阿 巴 岱 汗 は 西 暦 一 五 七 七 年 蹄 化 城 で 達 頼 喇 嘛 に 謁 し た と い ふ の で あ る が、 謁 し た 場 所 は 脈 化 城 で な く し て 唐 古 特 で あ る と す れ ば、 西 暦 一 五 七 七 年 と い ふ 謁 し た 年 代 も 直 ち に 信 す る こ と は 出 來 な く な る。 然 る に 達 頼 喇 嘛 は 西 暦 一 五 七 七 年 頃 に 饒 化 城 に 駐 錫 し て ゐ た 様 な 形 跡 は な い。 ロ ソ ク ヒ ル は ﹃ 刺 薩 の 達 頼 劇 嚇 及 び 清 朝 諸 皇 帝 の 關 係 ﹄ と い ふ 論 文 中 に、 西 暦 一 五 七 五 年 徹 辰 鴻 台 吉、 阿 爾 坦 汗 等 の 蒙 古 諸 王 公 等 は 達 頼 喇 嘛 を 迎 請 し、 達 頼 喇 嘛 は 翌 一 五 七 六 年 に 之 れ に 鷹 じ て 郷 爾 多 斯 地 方 に 來 り、 非 常 な 厚 待 優 遇 を 受 け、 叢 に 嘲 臓 致 の 永 遠 の 基 礎 を 竪 立 す る に 至 つ た と い ふ こ と を 記 し て ゐ る (W.Rockhill,T he D al

i Iamas of Ihassa and their Relations PP.4,5

)。 西 暦 一 五 七 六 年 蒙 古 に お け る 喇 嘛 教 起 源 三 五

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蒙 古 に お け る 喇 嘛 教 起 源 三 六 達 頼 喇 嘛 は 郷 爾 多 斯 地 方 ま で 來 な こ と が 果 し て 官 ッ ク ヒ ル の 記 し て ゐ る 様 に 事 實 だ と す れ ば、 西 暦 一, 五 七 七 年 蹄 化 城 土 黙 特 地 方 に 駐 錫 し て ゐ た こ と は、 決 し て 有 り 得、 べ か ら ざ る こ と で な い。 然 し ロ ソ ク ヒ ル の 此 論 文 は ジ ク メ ド・ ナ ム カ 及 び シ ュ ミ ッ ト に よ つ た も の で あ る に 拘 ら す、 ジ ク メ ド・ ナ ム カ に も シ ュ、 ミ ソ ト に も 西 暦 山 五 七 六 年 達 頼 剛 嚇 が 郷 爾 多 斯 地 方 ま で 來 た と い ふ 記 事 は 見 當 ら な い。 ど う も ロ ッ ク ヒ ル の 誤 解 或 は 誤 護 で あ る ま い か。 ﹃ 蒙 古 源 流 ﹄ に よ る と、 阿 爾 坦 汗 は 丙 子 の 年 釦 ぢ 西 暦 一 五 七 六 年 使 を 遣 し て 聖 識 一 切 の 達 績 喇 嘛 を 聰 迎 せ し め、 其 使 が 達 頼 劇 嚇 の 慮 諾 を 得 て 脈 る に 及 び、 青 海 の 察 卜 察 雅 勒 地 方 に 於 て 一 寺 を 建 立 し た こ と に な つ て ゐ る。 漢 課 本, に は 阿 爾 坦 汗 の 親 迎 の こ と は 見 え 委、 た " 丁 丑 の 年 印 ち 西 暦 一 五 七 七 年 右 翼 一 萬 人 は 騎 馬 往 迎 し、 直 ち に 察 卜 察 雅 勒 地 方 に 至 り し こ と が 見 え て ゐ る の み で あ る が、 シ ュ ミ ジ ト 掲 課 本 に は、 丁 丑 の 年 阿 爾 坦 汗 は 右 翼 三 部 の 人 衆 と 共 に ボ グ ダ (建 頼 嘲 嚥 ) 迎 接 の た め に 出 畿 し、 察 卜 察 雅 勒 地 方 に 至 つ て、 初 次 の 往 迎 者 を 派 遣 せ し こ と が 見 え て ゐ る。 漢 課 本 に は 三 次 の 往 迎 者 は い つ れ も 聖 識 一 切 喇 嘛 の 奇 蹟 を 面 り 目 撃 し て 信 仰 心 を 起 せ し こ と を 述 べ し 後 一 戊 寅 の 年 帥 ち 西 暦 一 五 七 八 年 に 大 衆 は 聖 識 一 切 喇 嘛 を 膿 仰 し て 皆 甚 だ 歓 悦 し、 阿 爾 坦 汗 及 び 徹 辰 鴻 台 吉 は 之 を 審 親 し て 驚 骸 の 色 あ り し こ と を 記 し て あ る が、 大 衆 が 何 慮 で 聖 識 一 切 嘲 麻 を 謄 仰 し 淀 が、 阿 爾 坦 汗 は 何 麗 で 之 を 審 視 し た か と い ふ こ と は 明 か で な い。 然 し シ ュミ ソ ト 濁 課 本 に は、 阿 爾 坦 汗 は 青 海 の 察 卜 察 雅 勒 地 方 ま で 往 迎 し た

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様 に な つ て ゐ る か ら、 漢 澤 本 で は 何 腱 と い ふ こ と も 明 で な い が、 青 海 の 察 卜 察 雅 勒 地 方 で の こ と で あ る と 考 へ な け れ ば な る ま い。 お そ ら く 郷 爾 多 斯 地 方 で の こ と で は あ る ま い。 シ ュミ ソ ト 濁 課 本 に も、 聖 識 一 切 の ボ グ ダ (達 頼 嘲 嚇 ) の 顔 が 見 え 始 め る と、 皆 非 常 な 獣 喜 の 情 を 以 て 充 さ る ゝ に 至 り、 阿 爾 坦 汗、 徹 辰 鴻 台 吉 は 最 初 の 封 面 に 於 て、 一 た び 其 容 貌 に 接 す る と、 驚 骸 の 眼 を 以 て 一 心 不 齪 に 之 を 凝 覗 し た こ と が 述 べ て あ る。 聖 識 一 切 の ボ グ ダ の 顔 が 現 は れ た 場 所 が 何 庭 で あ る か は、 サ ナ ン・ セ ツ ェ ン 課 の 蒙 古 原 丈 に は 書 い て な い 様 に 思 は る、 に 拘 ら す、 シ ュ ミ ッ ト は 蒙 古 人 の 問 に、 其 土 地 に 於 て 現 は れ た の で あ る と の 自 註 を 加 へ て ゐ る。 シ ュ ミ ッ ト は 如 何 な る 根 擦 あ つ て か、 る 自 註 を 加 へ た の で あ る か。 現 に シ ュミ ソ・ ト 濁 繹 本 に は、 阿 爾 坦 汗 は 聖 識 一 切 の ボ グ ダ と 封 話 の 後 一 旦 其 陣 螢 に 引 あ げ、 此 部 分 の 土 地 の 暗 黒 を 照 明 す る 新 時 代 の 始 ま り し 記 念 に、 自 ら 白 衣 を 穿 ち 白 馬 に 乗 り、 右 翼 十 萬 人 の 先 頭 に 立 ち て、 聖 識 一 切 の ボ グ ダ を 接 待 し、 之 を 導 い て 察 卜 察 雅 勒 地 方 の 寺 廟 に 至 る た め、 再 び 之 を 往 迎 し、 其 寺 廟 に 於 て 一 大 獣 宴 を 暴 行 し た こ と を 記 し て ゐ る。 若 し 阿 爾 坦 汗 が 最 初 に 達 頼 喇 嘛 に 封 面 せ る 地 方 が 郷 爾 多 斯 地 方 で あ る な ら ば、 封 面 の 後 陣 螢 に 引 あ ぐ る と い ふ こ と も 可 笑 し く、 之 を 察 卜 察 雅 勒 の 寺 廟 に 導 く た め 再 び 之 を 往 迎 す る と い ふ こ と も 可 笑 し い。 ど う し で も 最 初 の 野 面 地 帥 ち 達 頼 喇 嘛 の 顔 が 現 は れ た 場 所 は 郷 爾 多 期 地 方 で な い と 考 へ な け れ ば な ら ぬ。 西 暦 一 五 七 七 年 頃 達 頼 喇 嘛 の 蹄 化 城 駐 錫 と い ふ こ と は ど う も 事 實 で な い 様 で あ る。 随 て 此 年 阿 巴 岱 蒙 古 に お け る 喇 嘛 教 起 源 三 七

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蒙 古 に お け る 喇 嘛 教 起 源 三 八 汗 が 腸 化 城 で 達 頼 喇 嘛 に 謁 し た と い ふ こ と も 事 實 で な い と 考 へ な け れ ば な ら ぬ。 然 し 私 は 阿 巴 岱 汗 の 達 頼 刺 麻 に 謁 見 し た 場 所 は 青 海 地 方 で、 年 代 は ボ ヅ ド、 矛 エ フ の 入 手 せ る エ ル デ ニ・ エ リ へ 帥 ち 額 爾 徳 尻 招 年 代 記 の 傳 へ て ゐ る 如 く、 矢 張 り 西 暦 一 五 七 七 年 頃 で あ る と 考 へ る。 青 海 も 唐 古 特 四 大 部 の 一 で あ る か ら、 さ う 考 へ て も、 ﹃ 蒙 古 游 牧 記 ﹄ の 阿 巴 岱 汗 が 唐 古 特 に 赴 き 達 頼 喇 嘛 に 謁 し た と い ふ 説 に 矛 盾 し な い。 阿 巴 岱 汗 が 唐 古 特 に 赴 き 達 頼 喇 嘛 に 謁 し、 緯 典 を 迎 へ て 鶴 つ た 結 果、 衆 心 の 蹄 服 を 得 て 始 め て 汗 と 穣 し た と い ふ ﹃ 蒙 古 游 牧 記 ﹄ の 記 事 は、 既 に 其 前 か ら 剛 臓 致 は 早 く 部 民 の 信 仰 す る と こ ろ と な つ て ゐ た 様 に 考 へ て 始 め て 理 解 さ る ゝ 記 事 で、 さ う で な け れ ば、 達 頼 喇 嘛 に 謁 見 し た こ と が 部 民 に そ れ 程 の 勢 力 を 得 る わ け も な い。 叉 ﹃ 蒙 古 游 牧 記 ﹄ に 初 喀 爾 喀 有 所 謂 紅 致 者、 與 黄 教 雫、 圖 蒙 肯 尊 黄 敏、 爲 之 護 持、 ト メ ン ケ ン ノ の ノ ホ 唐 古 特 達 頼 喇 嘛 賢 之、 授 纂 音 諾 顔 號、 と い ふ 記 事 が 見 え て ゐ る。 圖 蒙 肯 は 阿 巴 岱 汗 の 弟 で、 諾 諾 和 の 第 四 子 で あ る。 圖 蒙 肯 が 黄 致 の 護 持 者 と な つ だ の は 何 時 の こ と で あ る か、 正 確 獄 こ と は わ か ら な い が 阿 巴 岱 汗 の 達 頼 喇 嘛 謁 見 の 時 と そ れ 程 隔 つ て ゐ る と も 考 へ ら れ な い。 さ う す る と 外 蒙 古 に は 阿 巴 岱 汗、 圖 蒙 肯 な ど の 喇 嘛 教 扶 持 者 と な ら ぬ 飴 程 以 前 か ら、 紅 教 派 の 嘲 嚇 教 が 既 に 行 は れ て ゐ た 様 に 思 ば れ、 前 述 の 士 謝 圖 汗 の 表 文 に 見 え て ゐ 惹 國 中 向 無 佛 敏 の 佛 教 は 黄 教 の 意 味 に 過 ぎ な い 様 に も 考 へ ら れ る。 外 蒙 古 喀 爾 喀 に お け る 嘲 嚥 教 信 仰 の 正 確 な る 起 源 を 定 む る こ と は 困 難 に し て も、 黄 教 派 の 信 仰 は 阿

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巴 岱 汗 の 青 海 に お い て 達 頼 喇 嘛 に 謁 見 し た 西 暦 一 五 七 七 年 (萬 暦 五 年 ) 頃 か ら 起 つ た も の で あ る こ と は 大 概 間 違 ひ が な い 様 に 考 へ ら れ る。 さ う す る と 内 外 蒙 古 共 に 黄 教 の 信 仰 は 西 暦 十 六 世 紀 の 後 半 か ら 起 つ ト ウ メ ツ ト ア ル タ ン オ ル ド ス セ ッ ェ ン フ ン グ タ イ ヂ

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蒙 古 に お け る 喇 嘛 教 起 源 三 九

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