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駒澤大學佛教學部研究紀要 43 - 013松本 史朗「チャンドラキールティの論理学 : 『明句論』第一章諸法不自生論の和訳と研究(1)」

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(1)

Komazawa University

NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Umversrty チ ャ ン ド ラ キ ール テ ィ の 論 理学 (松 本 ) (

79

ラ キ

.一.一

句 論 』 第

章 諸 法

和 訳

研 究 (

1

一 .一

  本   史   朗

 

論 理学 とは 何であろ うか。 こ の 問に 対し て 筆 著に は 答え る能 力 も資 格 も ない よ うに 思わ れ る。 た だ もし も, 論 理 学 を どの 様な もの と考 える か , と問わ れ るな ら ば 「ああ り。 煙 あ る が 故に 」 とい う様な

理 に関 す る学であ る と , 普 通 誤 まっ て考え られ て い る とこ ろの もの で ある と答えて み た い 。

 

「煙 あれば, 火 あ り」 とか ,

  「

火か ら煙が 生 じる」とい う様な こ とが ,

在論を真 向 うか ら否定 し た仏 教の 論理 学に お い て , 真に :重要な テ ー な ろ うが な

筆者

る。 こ こ で

」 とい うの は , もの

物)

がま

ず あ

り, その

で そ れ に

して 々な 言 葉 (名称) が符号と して け られる と考える思想 的立 場で あ り, こ れに 対 し て 仏 教は , 言 葉 とは 別に, その 指 示 対 象と し て の もの は存 在 しない と説 くもの であ る と思 わ れ る1) 。 こ の 様に ,

在 論 と仏教 が全 く矛

的に 対立す る も の で

る な らば,

教 論理 学 とい うもの は, 人が楽 天 的に

像して い る よ うな

在 論 的 な論理 学 とお よそ似て も似つ か な い 危 機 的な思 想で ある可能 性が あ る。 こ の し て, 梶 山雄 一 博士 の発 言, つ ま り, 「存在 と概 念 と の 同 一・ 提の 上 に 構 築 され論 理 学, と くに 実

的形

而上学の 基

の 上に

体系化

された 伝 統 的な イ ン 論 理領 域 内に.おい て ,あ らゆ る存 在を 非 実在と して の もの の 空性 を 宣 言 す る中 観の 真理 を論 証 す る とい こ とは それ 自体ひ とつ の 矛 盾で ある。 ナー ガ ール ジ ュ ナ や ブ ッ ダパ ー リ タが帰 謬 ・デ ィ レ ン マ ・テ ト ラ レ ン マ な ど , 云 い か え れ ば, 仮 言 的 否 定 的推理 とい う, イ ン ド論理 の

伝統

に よ っ て

除 された 論 証 方 法 を用 い ざる を え なか っ た とい う

実が それを 示 して あま りある。」 2)

1

)こ の意 味で, “

sarvam  etan  namamatra  sarpjfiamatre  pratisthitam /abhidhanat

 

prthakbhtttam  abhidheya na  vidyate

とい

Bhavasamlerdnti

・szatra §astri

  ed ,)の一偈ほ ど, 仏教 の本 義を 明曜に示す ものは ない と筆 者に は思われる。

2

梶山雄 一 「中観思想の と丈猷」

r

講 座 ・大 乗 仏教7 一 中観 思 想 』昭和

57

年,

p

14

      −

214

(2)

80

        

チ ャ ン ド ラキ ール テ ィの 論 理 学 (松本) 御

見ほ ど 興 味 深 い もの は な い 。 こ の 見解に 対 し て筆 者に は全 く異論が ないが, 筆 者 よ り見れ ば, 博士 が 「仮 言的否定的 推理 」と呼ぼ れた もの こ 仏 教 論理 学 の 正

な さ なけ れ ばな らな い の である3)。

 

今 日,仏教 論 理 学 とい え ば, 専 ら

Dignaga

Dharmakirti

の 論 理 学の み を 指 し, し か も後 者に 関 して は , 極め て 実 在論 的な解釈 が施 されて い る

向が 見 ら れ る。 こ の

Dharmakirti

に関 する実 在 論 的

釈 の

横 行

に つ い て 言え ば, こ の こ とは ,

の 論理

が,

のの ゴη吻 や

Hetubinda

さ らに は , 

P

プα〃吻 α ”加 醜 砂 α とい う様 な 綱 要

一 一ま たは 教 科 書 とい うべ 一 一. , そ れに 対 す る

釈 書類を通 し ての み学ばれて来た とい う事 情と

く関 っ てい る様に

わ れる。 し か るに , 実 在 論 的で ない 綱 要 書 とい うもの が, 一 体 世に

存 在す

る で あろ うか 。 綱

書とは, そ の 「わ か りやす さ」とい う至 上 の 要 求を 満たすた め に , ど うして も実 在 論 的 解 釈に 依らざるを 得 ない もの の で ある。 もっ と も, 全 ての

実 在論的

解 釈 がわ れ わ れに 提 供 する 「わか りやす さ」 とは, 全

く見

せか けの もの に し かす ぎず, われわ れはそ れ に よ っ て , 実は

ひ とつ わ か っ て は い ない の で は あるが。 い ま

者が

Dharmakirti

は 中観 派で あ り,空 性を論 証 し た 人であ っ た な ど と言 え ば, 学 者の 失

を招 くの で あろ うが ,厳 格な論理的思考 とい う もの は , ど うして も,

的 思 惟 を その 内部か ら突 き崩 し て, ただ 中

思想

と し て の み 展 開が 可

だ, とい うの が , 現在の

者の 率 直な 信

で あ り, とすれ ぽあとは た だ

Dharmakirti

厳 密な, あるい は, 真

な思 想 家であっ た こ と を信 じる か否か の 問 題 し か ,

者に は 残 さ れ て い い 。 こ れは

論,

Dharmakirti

の すべ て の 作

を その

■               ■          コ       を通 して 正 確に 研 究 して はい な い

筆者

の 主観 的な感 想に し か す ぎ ない 。

 

さて , 筆 老はすで に, 梶 山博士 が 「仮言 的 否定 的 推理 」 と呼ば れた もの を こ そ 仏 教 論理 学の 本

え るべ

で ある との 意 見 を

で は こ の

言 的 否 定

につ い て , イ ン ド仏 教の 内部で,

い 思 想

表 現を

開 した の は

で あっ た の か とい えば,

筆 者

は まず

Candrakirti

の 名 前を思い 起 さずにはい ら

れ ない 。 彼の い わ ゆ る帰謬 論 法 (

prasahg

padana

, 

prasahgapatti

)こ そ , 仏 教

に と っ て最 も本

的な論理学 的

方法

なの で は なか ろ うか。 従 っ て,

が そ の 方 法

  3

) こ の 点で , 「ナ ーガ ール ジュ ナ , あるい はパ ー ァ ヴ ィ ヴェ ーカ (

Bhavaviveka

清弁

  490

−570 頃)以前の 初 期 中観派の 論理 学は, 実は 本 章で 扱 う仏教 論理 学 に とっ て は異 端

  

的 な もの で ある 。」(下線筆…者)とい う梶 山博士の お言葉は,

 

「本章で 扱 う」とい う限 定

  

語 なし に 理解 さ れるならば, 博士の 御 真 意に そ む く もの となるで あろ う。 梶山雄 一 「仏    教 知識 論の 形 成 」『講 座 ・大乗 仏教

9

一 認 識論 と論理学』昭 和

59

年, p .

43

参照。 一

213

 一

(3)

Komazawa University

NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Umversrty        チ ャ ン ドラ キ ール テ ィ の論理学 (松 本 )               (

81

) を 明

PrasannaPada

厂諸 法不 自生 論 」 下の 議 論

して

考 察す

る こ とな し に, 仏 教論理 学に つ い て,

るい は さ らに , 仏

本義

につ い て , 正 し い理

るこ とは で きない の で は ない か , とい うの が, や や大

袈裟

に 言 えぽ,

本稿

を思い た っ た 動

な の で ある

稿

で 和 訳を 示 そ う と す る

PrasannaPada

“ の 部 分に お い て は,

意味

で, 最 も

本 的な 問題 が

れて い る。 そ れは 一 言で い っ て , 言葉の

問題

なの で

るが , そ の 場 合の 言

とは,

し て

自分

勝 手な独 語 で は な く,他の 人 間に 対 して語 りかけ,他の人 間の共 感を得 よ うとする 一 切 実な 言葉なの で あ り, それが否 定 的 な, あるい は絶 縁 的な言 葉で あ る が故に, か え っ て

語 ともな る とい う様 な, い か に も不 思 議 な構 造を もっ た人

実の 言 葉に 対 す的 考 察が, そ こ.に 示 さ れて い る様に 思 わ れ る。  以 上述べ , 本 稿の テ ーマ は, 筆 者に とっ て 極め て 重 要な もの であ り, 筆 者は め , 用 意 周 到 な準 備の も とに完 璧 な 論 文 を目指した が, 中 途に して ,

己 の 梵丈読 解力 と一 般的知 的 能 力が , こ の テ ーマ が

求 す る レ ヴ ェ ル よ りも著 し く 低い もの である こ とに気がつ い た。 の み な らず怠 惰の 故に , 原 稿 締切 の 日も 目前 に っ て しま っ た。 従っ て 本 稿が極め て不

全 な もの で あ り, か つ

者 自身に よ っ て 幾 重に も訂正 さ れ るべ

もの で

る とい うこ と を , 予め お

りし て お きたい 。 なお, 本 稿で 示す 和 訳に つ い て 言 え ば, い うま で もな く全 くの 試 訳で はある が , で きる限 り, 先 学の 諸翻 訳との 相 違を 明確に し て ゆ きた い。 筆 者 に よっ て 和 訳 さ れる

PrasannaPada

一の

分に つ い て は ,

でに い くつ か の

訳 が

られる が , そ れ らの 翻 訳の 各 々 は , そ れに 先行 する諸訳 に 対 して 必 しも充分 に 批判 的で ない 様に思われ , そ れ が 不 必要な議 論の 混 乱 を招 く原因 ともな っ て い る様に 見え る か らで

る。

 

さて , 最 後に, 本 稿成 立 に

して お 世話に な っ た お二 人の 先 生 に , 深い 感 謝の 言

を述べ て お

先 生 , 仏 教の 本

は,

 

常 」 とい う 観

に ある こ を力 説 して,

教そ の もの に対 し て筆 者の 眼 を開い て下 さっ た 様 に 思わ れ る4) 。 また , 金 沢 篤 氏は , 哲 学 的なサ ン ス ク リ ッ ト文 献 の

密な読み方 とい うもの を

者に教 えて

さ っ た5) こ の お二 人の 先 生 の あた た かい 御 指 導が な け れば筆者 は

稿

着 手 す るこ ともで きなか っ た の で ある。

1

本稿は ン ドラ キ ール

Candrakirti

7

「明 句 論 』

Pra

−       −

212

一 N工 工一Eleotronlo  Llbrary  

(4)

(82) チ ャ ン ド ラ キ ール テ ィの 論 理学 (松 本 )

sannaPada 一第一

に 見 られ る 「諸法 不 自生 論」に 関する議 論を和 訳 し, そ れ に つ い て

考 察

し よ うと

るもの で ある。

訳 する佃

は ,

Bibliotheca

 

Buddhica

IV

に 収め られた

Louis

 

de

 

la

 

Vall6e

 

Poussin

の 校 訂 本

P

13

1

2

P

36

, 

1

2

相 当す る が, 翻訳 に 先 だ っ て, 次に 示す 諸 資 料の 読み を 用 い て ,

応 自

な り

の テ キ ス トを

り, それを示 す こ とに し た。 〔略号〕

 

LVP

L

, 

de

 

la

 

Val16e

 

Poussin

‘ ‘.吻

1

α〃zσゴ

α〃z盈 α航 7 読σ∫ (物

4

σ〃z∫・

   

leasUtras

de

ハ潅

8i

σ

翩 α avec  

la

 

PrasannaPada

Commentaire

 

de

   

Candraleirti

Bibliotheca

 

Buddhica

 

IV

1903

1913

採 用 さ れ た

 

Ms

LVP

が 依 拠 し た三写 本 (

Cambridge

 

Paris

, 

Calcutta

)の 読み とし て ,

   

上 記 校 訂本 の 脚 註に 示 され るもの 〔なお , こ の 三写 本が区別 される場 合に

   

は ,

Camb

,, 

Paris

, 

Calc

.の 略 号 を 使 用 〕

TNP

J

. 

W

 

de

 

Jong

Textcritical

 

Notes

  on  

the

 

Prasannapada

   

20

pp

25

59

217

252

1978

に おい て 指示 された読み 〔こ の 場合 「指 示

   

された

とは ,

Read

 as 

R

とか, 

Read

 as 

LVP

とか , 

Read

 as 

acikh

   

yasor

とか の 語 を 用 い て

de

 

Jong

教 授が 明に ある一 つ の 読み を 支持 さ      れ た場 合に る〕

  

R

:上 記

de

 

Jong

教 授 論 交

示 さ れ た Pt 一マ

de

 

Jong

   

授は, ロ ー 写 本

を 全 され で は わ れ 。 こ の 点 筆

   

者は英 語の 読 解 力自信が な く, 同教 授 の

図 を誤 解 し て い ない 様に 望む

   

が , 同教 授が P 一 写 本 を 示す 必 要 判 断 され る に

て の

   

に つ い て は , 同 上 論

P

27

, 

11

9

15

説 明

  

A

Prasannapada

京 大 学 図

書館

蔵 梵文写 本

S

. 

Matsunami

,・

A

 

Cata

4

こ こで 常 とい う観 念 」 と言っ た の は, お そ らくは, 袴 谷 先 生に とっ て は, 迷 惑か  も し れ ない 。 た だ筆 者の意 図とし て は, 無 常 とい う観 念よ り も前に , 何か 無常なる もの が ある, とい うの は, むしろ非 仏教 的 な, つ ま り, 非無常的な 理解では なか ろ うか, と 言いたか っ た だけで ある。 な お袴 谷先 生の 仏教 理 解の 根 底を示す 論 丈と しては, そこ に 無 常に 関す る 独 自 な 主体的 な思 索が丈 学 的に 表 明さ れ て い る とい う意味で , 「唯 識 と無

 

我一 僕の只管打 坐一 」

 

「如 実 知 見一 『死に い る病』 を読み な が ら一 」 (

r

駒 沢 大 学 仏 教 学会誌』第 7号, 昭和 40 年, pp . 51 −65 )とい う 最 も初期 の論丈を 是 非と も読ま  な け れ ぽな ら ない だ ろ う。

5

)金沢氏は, 本稿に 関 して も, 具 体 的に 筆者の 多 くの 誤 訳 ・ 誤解を訂正 し て下さっ たが,  その 一 k 

tl

こ つ い て は,本論で 述べ よ う。 一

211

(5)

Komazawa University

NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Unlverslty

      チ ャ ン ドラキ ール テ ィの 論 理 学 (松本 )      (

83

   

logne

 of 

the

 

Sanskrit

 

ltliranuscriPts

 

in

 

the

 

Tokyo

 

University

 

Li

   

brary

1965

, 

No

250

  

B

No

252

  

C

No

251

   

ABC

とい う三つ の 東 大 写 本につ い て , 以下に 挙

斉藤

明 氏 の 論

   

Introduction

, 

P

. xv )で , 

No

250

No

252

の 読みは類 似 する場 合       が 多い が ,

No

251

は概 して ,, その 両 者 よ り優 れて い る と述べ られて い る

   

が ,

LVP

で わ

20

頁 あ ま りに す ぎない 個所を調 査 し た 筆 者の

た 感

   

も, 氏の そ れ と

く同

っ た。 こ の

は , 以

に 示 すテ キ ス ト の 註 記

   

明 らか に され る で

ろ う。 ま た ,

者が, カ タ ロ グの 番 号 順を無 視 し て

   

No

250

, 

No

252

, 

No

251

を, 

A

, 

B

, 

C

と名づ けたの は , こ の様な

No

250

      と

No

252

親 近 性に よる〕

  

T

;チ ベ ト訳 チ ベ ト訳は原 則 として デル ゲ

No

3860

を用い るが,

   

北 京 版の み を 示す ときに は , それを

T

P

) と して , デル ゲ版の

T

D

   

と区別 し た 。 なお ,

de

 

Jong

教 授 前 掲 論 文は , 多 くの 場 合, チベ ッ ト訳の

   

読み を 出し, さ らに ‘ ‘

Tcon

丘rms  

R

し て , チ ベ ヅ ト訳と

R

写 本の

   

み の 一 致 を 示 す こ とが しば しぼある。

っ て , 本

稿

の テ キ ス トの

脚註

で示

   

T

R

の 一

は殆 ん どすで に

de

 

Jong

授に よ っ て指

されて い るこ       とを 注 意 し て お きた い 。

 

Prasannapada

一 の 写 本 と して は, 

New

 

York

The

 

Institute

 

for

 

Ad

・ vanced  

Studies

 of 

World

 

Religions

の マ イ ク ロ フ

ッ シ ュ

二 種の 写 本の 存 在が知 られて い る が (

de

 

Jong

教 授 前 掲 論 文

p

26

参 照 )

は そ れ を取 りよせ るこ とを怠 っ た ため, 今回は 利 用で きなか つ た。 いず れ, 同 上 マ イ ク ロ フ ィ ッ シ ュ が

学に

完備

された時 点で その 二 写 本 を 用い て , テ キス トを

え て み た い。

 

ま た,

回,

PrasannaPada

の 世

界最

初の

と思わ れ る。 

Chadra

 

Das

 and

Chandra

 

Sastri

 

1

41

α規 ゴたほ

 

V

rtti , 

The

 

Philosoph

 

Of

 

the

 

1

駈 z乃の

4

π σ

school  containing  

the

 aPhorisms

ハ磧

嬲 α with  

its

 commentary  

Of

Acharya

 

Chadrakirti

, 

Calcutta

 

1894

1897

を参 照で

なか っ た の は

者の

遺憾

とす る ところで

る。 同

は普 通

Calcutta

 

Edition

とい われる

の で あ るが

P

LVaidya

に よ っ て ,極め て

杜撰

な もの と評され て い る

Vaidya

      一

210

(6)

84

)              チ ャ ン ドラキ ール テ ィ の論理学 (松 本)

Introduction

)。 し か し, 

Vaidya

の 言

う様

に, こ れ が単に マ ニ ュ ス ク リ

プ トを 印 刷に附 した に過 ぎない な もの だ とすれぽ, その

的価値

は,

皆 無

は ない であろ う。

de

 

la

 

Val16e

 

Poussin

本の

Avant

 

propos

る と, 彼が

校 訂

Calcutta

の マ ニ

ュ ス ク リ プ トを 用 い た の か そ れ とも

, 上 掲の所 謂

Calcutta

 edition に依 っ た の か ,

然としない 。 しか し, 

Vaidya

は, む し

ろ後 者で あっ た様に述べ てい る (下掲 書

Introduction

ある い は その 双

用い たの で あろ うか 。 い ずれに し て も, 現 時 点が, 直 接マ ニ ュ ス ク リ プ トに 依 存

して 刊 本

次 資 料 と して つ ま校 訂 者の 解 釈示 す し て

, テ キ ス

トを

成すべ き時

で あ る こ とは , 疑 問の 余地 がな い。 すべ て の マ ニ ュ ス ク リ プ

トが つ ま り

Paris

で あ れ

Cambridge

であ れ, 

Calcutta

で あれ , 

New

 

York

れ , ま た

Roma

であれ, そ の 全て の マ ニ ュ ス ク リプ トが参 照 され なければ 校 訂 さ れ た テ キ ス ト の

は激 減 す る の で ある。 そ の

味で も,

筆 者

が 以下に 示 すテ キス トは , 決 して 校 訂テ キZ トで は な く, 単に , 限 定 された

料に 基い た 一 つ の

釈で し か ない とい こ とを何 度で も断 っ て お きた い 。

 

さて ,

最後

に ,

PrasannaPada

一 研 究

に お い て , 所 謂

Vaidya

本 , つ ま り,

P

LVaidya

MadhyamakaSa

stra {

ハ碗

8

ecna  with  

the

 commentarPt  :

Prasannapada

by

 

Candrakirti

. 

Buddhist

 

Sanskrit

 

Texts

, 

No

10

1960

が,

果し た

役割

皆無

で は なか っ た ことに つ い て 述べ てお きたい 。

Vaidya

本は, 

de

La

 

Val16e

 

Poussin

で は な

, 

Vaidya

の 解 釈を示 し て お り, し か も

その

に は 捨てが た い もある。

1960

年 以 降の

PrasannaPada

一 研

究者

が ,

Vaidya

本に言 及せ ずに議 論 す る とす れば, そ れは

Vaidya

問的 功 績を

る もの であ り,真 の 学 問 的

態 度

とは い え ない で あろ う。 とはい え

者 も

Vaidya

の 学 的 価 値を 無 視 し てい た一入で あ り, 金 沢 篤 氏に ご く

近それを

る こ とを 勧め られる まで は ,それに 気がつ か なか っ た の で ある か ら, 以下

Vaidya

本に 関して 充 分に 批 判 的及 がるか ど うか わか らな い 。 なお, 三 日程 前に な っ

て ,

Swami

 

Dwarika

 

Das

 

Shastri

:跏 助 夕σ 嬲盈 α露 s 〃σ

4

ハ砺

9

κη σ ω ’訪

the

  commentary  

P

プσsα筋 αρα露

b

Chandrakirti

  and  with  

hindi

 

Sum

・ 吻

yby

 

Aeharya

 

Narendradeva

 

Bauddha

 

Bharati

 

Series

, 

No

16

1983

な る

の と入手 し た 。 こ れに つ い て も,

分な 言 及で きない で あろ うが , 一 見し て ほ ぼ

Vaidya

本に依 存 し て い る

り, か つ

de

 

Jong

授の 前 掲 論 文 を 参

して い な い の は , 明

る。 一 

209

 一

(7)

Komazawa University

NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Umversrty       チ ャ ン ド ラ キール テ ィの 論理学 (松 本 )      (

85

 

さて , 以上 の

資料

を用い て ,

P

」 ・asannaPada −’ の ご く一部の テ キス トを示 そ う と するの で る が ,すで に

返 し述べ た よ うに, 以下 に示 すテ キス トは 校 訂 と称 す べ き もの で は全 くな く, 単に筆 老の 一

釈 を 示 し た す ぎな 。 だ い い ち筆 者に , た と え極め て

み やすい とい われ る ネ パ ール

大三

写 本

の よ うな もの で あれ, そ れを 正 確に 読み うる

な写 本

読 解

力が ある とは 思 わ れ ない 。 つ ま り,

資料

限定 , その 資 料を 正 確に読 解 する力 もな く, さ らに

解 された もの を

一 的に批 判 的に 扱 う解 釈 力が 無い とす れ ば こ か ら 生 じる結

がみ じめ な もの だ とい こ とは, 始め か ら

えすい て い る。 に もか か お らず

え て 勇 をふ る お う とい うの は , 本 稿で扱 う

Candrakirti

の 議 論に つ い て , その 内 容 は 未だ に 正確に は 筆者 に わか らな い け れ ど も, そ こ に とに か く,

教の

宗 教

と して の

根 本的

問題

じられて い るで ろ うとい , 少な く とも予 感が,

者に は 感 じ られ るか らで あ る。

 

なお以 下の テ キ ス ト に つ い て

は , 次 の 場 合に の み, 示 され る。        〔

1

LVP

と相違す る読み を採用 する とぎ

      

2

LVP

従 う場 合で も, 他の 資 料の

が, 全 く不 可能で は ない       とか , また は興 味 深い もの と, 思われた とき

 

1

〕の 場 合, 異 読は , 例 え ば次の

に 示 される。

 

ex . 

LVP

yatha

RB

tatha

 

A

tada

 

C

:一

T

de

 

bshin

 

du

 即 ち, まず 採 用 され ない

LVP

を 示 し, 次に採 用 された 読み , また は そ れ を支

する よ うな, それ に

も近

し た読み を 下線を附 して 出し, さ らに 他の 読みが

れ ば, そ れを も

挙 げ

る。 〔なお ,

C

: 一

う様

に, 一 は 欠

意 味す

る こ とに する。 ま た チ ベ ッ ト訳 が , どの 読みを支 持す る か に つ い て は, 特に 明記し な い 。 そ れ につ い て は, すで に

de

 

Jong

教 授 前 掲 論 文で 指 摘 されて い る場 合が 多い 。〕

 

で は , 次に ,

訳 と

記に際 して

照し よ うとする研 究 論

文等

挙 げ

て お こ う (カ ギ 括弧 内は, 略 号 )。 まず, 言 うま で もな く, 下 記の 二著 作 中の 翻訳 が ,

者 の 和 訳に相 当す る個 所を 完全 に カ ヴ ァ ー し て い る。

     

Th

. 

Stcherbatsky

7

物θ

Conception

 of  

Buddhist

.〜

7

ア〃 α,

1927

      〔躍 7〃 α〕          山 口益 : 称 造 中 論 釈 』 第

1

1947

〔『中論釈 』〕

 

ま た そ の 個 所の 部 分 的 翻 訳を 示す もの 時に 訳者の 解 釈 ・ 研 究が 伴なわ れ る) に , 次の 論 文 等がある。 一

208

一 N工 工一Eleotronlo  Llbrary  

(8)

86

)              チ ャ ン ドラ キール テ ィの 論理学 (松 本)

      

長 尾 雅人 :『西蔵 仏 教 研 究

1954

『西蔵 仏 教 』〕

      

江 島恵 教 :『中観 思 想展 開 』

1980

「展 開』〕

     

 

毅 :

ラサ ン ガ ・ ヴ ー キ ャ の

性 」 「鈴 木 学 術

究 年

            

報 』

No

9

1972

, 

p

52

68

〔「ヴァ ーキ ャ 」〕

      

     

: 「中論の

と して の プ ラサ ン ガ ・ア ーパ ッ テ ィ (

1

)」

            

『中村 博士還 暦 記 念 論 集・イ ド思 想 と仏 教 』

1973

pp

365

      −

378

〔ア ーパ ッ テ ィ (

1

)」〕

      

     

厂中 論 論 述 形 態と し て ラ サ ーパ ヅ テ ィ

2

)」

            

『鈴

学 術 財 団 研 究 年 報 』

Nos

12

131976

, 

pp

60

76

〔「       ーパ ッ テ ィ (

2

)」〕

      

丹 治 昭義 : 「チ ャ ン ドラ キ ール テ ィ の 論理 観の 一考

」『関西 大 学東西

            

学 術

紀 要

No

12

1979

, 

PP

55

74

論 理

観」

  こ の うち, 丹 治 氏 と奥 住氏 の 論 文につ い て , 特に コ メ ン トを述べ て お きた い 。 まず, 丹 治氏 の 論 文は

献 学 的な意

に おい て , と りわ け メ リヅ トが ある様に 思 わ れる。 とい うの

も氏

は, 写 本ま で は 調

され ない に せ よ, チ ベ ッ ト訳 その

を 用い て ,

LVP

の 読み に 対 し て , しぽ しば興 味 深い 批 判

な考

を さ れて い る か らである。 次に, 奥 住氏 の 諸 論

, 特に, 「ア ー パ ッ テ ィ

2

に対 して は , 以 下の 二 点に関 して, 素

な讃 辞 を 呈 した い と思 う。 その 第一 は,

Prasanna

・ ρα

d4

prasajya

pratiSedha

し て , 様々 の 文 法 学

に ま で遡 っ て, その 基 本 的 意 味 を 解 明 された こ と (こ の点で ,

註 (

34

)〔

PP

74

75

, 極め て 重 要であ り, か つ 筆 者 よ り見 れば優 れた もの で ある)であ り, 第二 は , 奥 住 氏の 思 想 的考 察が, 極め て

真 摯

な哲 学 的

度に よ っ て

かれて い る とい うこ とで ある。 こ の

真 蟄

な態 度 ゆ えに, 氏は,

Candrakirti

の 方 法 一 「方 法 」 とは言 うまで も な く, 単 に論理 学 的 方法 の み を 意 味す る の で はな く ,い か に 生 くべ きか を も指 す     とい う もの が, 殆ん ど宗 教的 と もい え る ほ ど, 根 本 的な問 題に関 っ て い るこ と を

抜か れ た。

っ て , 氏の

論 文

中に は , 次の 様な極め て先 鋭

な思 想

表 現 を認め る こ とがで る。 それ故 に中 論の提示する無   即 ち空 性   を把握し自覚し てゆ くため に は, 日常 一一 般の我々 の 心の 姿勢は 必然的に或る特殊な形を取らされ ざ る を得ない の で る。 それ は一種の繰 返しな される反 復練 修で あ り, 迷い と悟 り との 問の振子の如き精神の 往復 運動で ある。 空性の 把握は, 多 くの 場 合 決 して 一 な さ れ る の       一

207

(9)

Komazawa University

NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Unlverslty                 チ ャ ン ド ラキ ール テ の 論理学 (松 本)               (

87

)             ,                         ロ   ■            ■       ロ    く有自性 と無 自性との間の 往来を累 積しつ つ 徐々 に なされて くべ ぎ もの と考え ら れ    る。  (「ア ーパ ッ テ ィ (

2

)」

p

72

右 〔上 点 :筆者〕

  少

な く と も

身 として は , 近 代 仏 教 学の い か な る

成 果

に おい て も, 中 観思 想の

を, つ ま り仏 教 の 本 義を こ れ ほ ど端 的に 指 摘 した文 章に

出会

っ た こ とは な い 。 氏が こ こで 述べ られ た こ とは , 道元禅 師が 「修せ ざ るに はあ らは れ ず 」 と 説か れ た真 意か ら も大 きな隔た り は ないの で ある。 つ ま り, こ こで 否 定 されて い るの は , 一 般

な言 葉を 用い れ ば, 神秘主 義,

悟 説,

如 来蔵

在 論 なの であ っ て, その 基 本 的な考 え は, 言 葉 以 前に, または , 言

の な い とこ ろ に ,

実 在が ある, と考え る もの である。 こ の考 えに 従 え ば, 我 々は 人 間は , 言 葉を 取 り払え ば, あ る い は 分別 を捨て さ れ ば, 真 の 実 在に め くつ

うこ とが で きる と さ れ る が , 言

て る とは , 入 生 を捨て る こ とに他な ら ない か ら, こ の思 想は, 山 口

士 がい み じ く も

指 摘

された よ うに6 ), 「生死は の ぞ くべ き法 ぞ と思え る は , 仏法を い と うつ み と な る」と述ぺ る道元

師の 言

に よ っ て

しく否

され る こ とに な る の である。

 

奥 住

氏の 論 文に は , か くも深い 哲 学

思 索が展 開さ れて い る 一 , ま た 他 方 に は , 次の

な丈 章 も見

され る。 こ の 様に して有 自性 論の主張が遮 遣され 終る ときには, そ れ が存立 の根 拠を 失 っ て消               の   ロ       ロ   ■   コ   リ 滅す る と 同 時に, 遮遣 の 目的を達した中 観論者の主張 もま た, 本 来 無 自性なる もの で あるか ら消 滅する。 そ れ ゆ え,  (図

D

) として 予 想 さ れ得る図は, 一消 去 た     ロ   コ   コ   .   コ   コ      サ   ■        の 完全な ブラ ン ク で あるべ で あろ う。 こ こ に 論争の絶対 的 停止 が完成 する。 〔「ア ーパ ッ テ ィ (2 )」 註

37

, p .75 右 )〔上 点 ;筆者〕

 

筆 者

る とこ ろ に 依れば, 氏の 先の 文 章 とこ の 文 章 とで は , 論理 的に も思 想 的に も何連 絡 も無 まず, 「中 観派の 主張は ,

無 自

性で

る か ら,

消滅

する

とい の は, 表 現 とし て見て も, 論 理的な もの で は な い 。 無 自性であれ ば, 消 滅   .   ■ しない だか らで ある。

住 氏が ,

中観派

の 主張を無 自性な るが故に

有 自

性 論 者 の そ れ

する が ご と く, 図に おい て 円で か こ ま なか っ た の は , 正 しい 理

を示 し た もの と言 うべ で あろ う。 しか し円で か こ まれてい な い な ら,

自性論 者の 主張 と同

に , あた か も シ ャ ボ ン 玉 が破 裂 し て消え去る

に , 消 滅 する こ とは な 6 )山 口 瑞 鳳 チ ベ ッ ト学 と仏教 」『駒沢大学 仏 教 学 部論集』第 15 号 , 昭和 59 年, p .48上 。   なお 同 論丈, 註

48

(pp .

52

53

れた 山 口博士 の御 意 見は, 日本の 近代 仏 教学 が負

 

っ て きた過去 の宿命と将 来へ 課 題 を考る た め に は , ど う して も看 過で きない 重要な

 

もの で ある。 そ れは 一 言でい っ て 中観思想と如来蔵思想 との矛 盾性に 関 する指摘である 。       −

206

一 N工 工一Eleotronlo  Llbrary  

(10)

88

)             チ ャ ン ド ラ キール テ ィ の論 理 学 (松 本 ) い る。 従 っ て , 上 の 表 現は , 氏

自身

理性に導か れ た とい うよ り も, む し ろ, 対

が 無 くな れ ば , そ れ を対 象 とする もの も

消 滅

す る とい うよ うな や や 安 易な通 念一 そ の 典 型 的 の は, 例え ば

Madhya

’ ntavibhangabha −s 

ya

 ad

I

6cd

不 認依 存 し て ,唯 識の 不 認 識が生 じる」とい う一

に 対す る 通

俗 的

解 釈な どに見 られ る で あろ う

   

きず られた 結 果 とし か 思わ れ ない 。 そ こ で 奥 住氏 は , 「完全 な ブ ラ ン ク 」 や, 「論争 の 絶対 的 停止」の 信 奉 者で あ る か の ごとぎ

姿

で , 我 々 の 前に立 ち現れ て い るが , こ の二 つ の 概 念は, 「

返 しな さ れる

反 復

練 修

, ま た は 「振子 の

精神

往復 運動」

と い う表 現 とは, 完 全に 矛 盾す る異質的 な もの で ある。

 

「完全 な ブ ラ ン ク」が , 目的 と して

定 され る限 り, そ こ に至 る過程 が長 い に せ よ短い に せ よ, ま た い か に 振 子の 往 復の 如 き紆 余 曲

で ある に せ よ,

程それ

自体

は , 全 く無

意味

な もの となる。 我 々 の 生は , 絶 え ざる無限の 創 造る が 故に

を もつ の で っ て , そ こ に 虚 無なる

極が想 定 され れぽ, た ち どこ ろ に そ の 意 義を失 うの で ある。 以上 , 奥 住 氏の 論 文に 対 し, 自分勝 手 な 論 評を して しま っ た が , そ の 内 容に お い て た とえ非 礼な とこ ろが あろ うとも, 氏の御 寛 恕を望み た い 。 さて, 最 後に , 筆 者は

近,

斉藤

明氏 よ り, 次 の 論 文の コ ピー 寄 贈を受 け , 大 きな学 恩を蒙 っ た 。

     

A

Saito

:‘‘

A

 

Study

 of 

the

 

Buddhapalita

MUIaMadhyamaka

             

vrtti ”

AThesis

 

Submitted

 

for

 

the

 

Degree

 of 

Doctor

         

of 

Philosophy

 

in

 

the

 

Australian

 

National

 

University

               

1984

 〔

Saito

 

こ の 論 文は ,

Buddhapalita

釈 〔第

1

16章

校 訂 英 訳 もの で あるが, そ の 真 価は む しろ 『根 本 中頌』 (

Mala

Madhyamafeaha

rikaor

1

α一

P7

α

勿 4

) 〔

MK

と略 す〕 の テ キ ス トそれ 自身を確 定 し よ うとす る

者の 正 な

献 学 的 方 法に ある と 思 わ れ る。 〔具

的に は , 『

本 中頌』

一 章〜 第十六

の テ キス トが, しば しば批 判

とと もに

註記 中

されて い る〕 こ の 論 文 を 読み, か つ 著 者 との 対話 を通 じ て , 筆 者が まず 第 一 に教え られ た こ とは ,  『根 本 中頌 』の テ キス トを

定す る こ と が, 如 何に 困 難な, ま た デ リ ケ ー 作 業 あ る か とい こ とで

る。 ま た

筆者

論文

に よ っ て, 一

ま で の 『根 本 中 頌 』に 関す るテ キス ト的 な 問 題 に 関 す る知 識 と, 極 め て

度の 高い 翻訳 を手に 入 れ るこ とがで きた 。 本 論 文に見 られる氏 の 炯眼 に つ い て は , 本

稿

で も触 れ るであろ う。 東 大 写 本コ ピ ー し て 御 世 話 っ た こ と と もに , 「根 一

205

(11)

Komazawa University

NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 University チ ャ ン ド ラキ ール テ ィ の 論理学 (松 本 ) (

89

) 本 中 頌 』の テ キ ス トに 対し て 極め て漠 然 とし た 低い 意 識し か

して い なか つ た筆 者の .

を啓い て くれ た 氏の 学 恩し て , 深 く感 謝 したい と思 う。

 

で は以下に ,

PrasannaPada

一 当 該個 所の テ キ ス

記, さ らに 可 能で あれ ば, 研 ・ 示 そ う 。 テ キ ス トは ,

者の

判断

で,

33

の 節に分か ち, その 最 初に

de

 

La

 

Val16e

 

Poussin

:の 頁 数 行 数を 示 した。

Pr

αSαnn α

P

α

da

第一章

 

諸法 不 自生 論 : キス 訳 ・註 記

[1] (

13

2

13

9

)tataS c

iv

alp  sarpbandhab

, naiva  svata  utpanna  

jatu

 vid

  

yante  

bhavab

 

kvacana

 

kecana

evaM  pratijfia−trayam  api yojyam 〃

    nanu  ca  naiva  svata  utpanna  

ity

 avadharyamarPe  parata  utpanna

  ity

 ani

tam

 

PraPnoti

Ila 

prapnoti

 prasajya ・prati§edhasya  vivak §

itatvat

  

parato

 

’py utpadasya  prati§etsyarnanatvat

    yaya  c6papattya  svata  utpado  na  sarpbhavati , sa

       tasmad  

dhi

 tasya  

bhavane

 na  gupo ’sti 

ka6cit

      

jatasya

 

janma

 punar  eva  ca naiva  yuktam 〃

   

ity

adina

 

Madhyamakavataradi

dvare

avaseya

1

〕 そ れ.故に , 「諸の 性 質 

bhava

) は,い か な る もの も, いか なる ところに お い   て も, い か な る時に, 存 在 し よ う とも (vidyante ), そ れ 自身か ら (svatas )生 じ   た もの で は , 決し て  な い (naiva )。」 とこ の . 様に 諸の 語が〕 結 合さ れ る 。 これ   と 同 様 に,三 つ の主 張  pratijfta), 結 合 る。

   

(反論) 「そ れ自身か ら生 じ た もの で は 決し て ない   naiva )。    さ れ   るな らば, (avadharyamape ) 「他の ものか ら 生 じた もの で ある 。」 とい う 〔あな   たに よっ て〕承認さ れて い ない もの (ani §

ta

)が, 帰結 しない か 。     (答論)帰結しない。 (

i

prasajya

prati

$edha   が 〔naiva と限定 さ れる ときに

  

は〕 意図 さ れ て い るか らで あ り, また , (

ii

)生 起は , 他の もの か ら〔で〕も  , 〔後   に 〕 否 定され る で あろ うか らで ある  。   何であれ, ある合理 性  (upapatti )に よっ て,そ れ 自身か らの生 起があ り え ない      (na sa

bhavati

)とい う とき,その 合理性は,

   「とい うの も 

dhi

),(

i

)あ る もの が, そ れ 自身か ら(tasmad  

dhi

)  生 じ る こ   とに , い か な る功徳 も無い.。

   ま た  ca ), (

ii

)生 じ た.ものが, ほ か な らぬ再度   punar  eva ), じ る こ

  と〔だけ〕は, 決 し て (naiva ), 理に合わない 。」

  等に よっ て,

r

入中論』等を通 じ て, 確定 さ れ るべ きで ある。

 

bhava

性質 」 と訳 す こ とに る。 

bhava

の 複 数 形を, 

Stcherbatsky

204

(12)

90

)             チ ャ ン ドラキ ール テ ィ の 論理学 (松本) ‘‘

things

” と訳 し (ノ

V

冨7z雇 〜2σ, 

P

93

, 山口益 博士 は

と訳 し

中論 釈

P

18

, 江 島 氏は

在 」 と し

『展 開 』

P

123

), 奥 住 氏は 「

在 する もの

ま たは 「諸 存在 」 と し (「ヴ ァ ーキ ャ

P

53

), 丹 治 氏は 「諸の 存 在 する もの 」と 訳 されて い る

(「

観 」

P

57

。 山口益

士 の

は, 「中 論 』

大 正

No

1564

Vol

30

)の 羅 什 の 訳 と一致 し て い る (大正

VoL

 

30

, 

P

20

)。 羅 什が

bhavah

を 専 ら 「諸 法 」 と訳 し た こ とに つ い て は , 袴 谷 憲 昭 氏か ら御 教示 を 頂 い た。 「諸 法 」 とい う羅 什は ,

bhava

dharma

と同

な し た た め に生 じた もの で あ ろ う。

者 もまた

bhava

dharma

を 同

(?) と考 え, その 二つ の

に 対し て 同 じ 「性

質 」

とい う訳 語を

え た い と思 う。

bhava

dharma

が 別 の 言 葉で あ る 以上 , そ の 二 つ が 同 じ意 味を もつ 筈 が ない 。 こ れ は常識 に よっ て 理解 さ れ る こ とで

る。 しか もなお , 両 者に 同 じ訳 語 を 与 え よ うと

る の は,

bhava

dharma

と同じ レ ェ ル の もの と考 える必 要が ある と思われる か らで ある。 そ れ は , 次の 様な意 味である。 つ ま り, 筆者は, 常に, イ ソ ドの 哲 学 的 文 献を読む際

に は , 著 者に よ っ て 何が

locus

(基 体 )で , 何が super −

locus

(属 性 )で ある と

え られて い る か 別 し て テ キ ス トを読 むこ とが

よ りも重

な こ と と

えてい

るが ,

bhava

dharma

も, 個 物 (

dravya

) とい う

locus

に 対し て は , とも

に super −

locus

とい うレ ル に る言

だ と思 わ れ る。 例 え ば,  nila

 

と か       ■                                       ■     ■ anitya とい え ば

青い もの

  「

常な もの

味 するの で あろ うが,  nilatva       の      ■     とか anityata と かは ,

青い もの で ある こ と

「無常な もの で ある こ と」 とい う

性 を

す 抽 象 名詞 と な る。 こ の

もの

こ と

を 区 別 するこ とが , サ ン ス ク リ トを

む場

最 も重 要な こ とで

る。

dharma

は ,

た れ るもの

とい う意 味で, 仏 教で は 本 来, 基 体に対 す る属性 (super −

locus

, 抽象 名 置にあ つ た である が ,

 

それが ア ビ ダル マ に お い て ‘‘

svalak §apa −

dharapad

dharmah

と言 わ れる と きに は, 

locus

の 位 置に転

して し ま う。 

dharlna

locus

に な っ て し ま えば, そ れは す ぐに イ ン ド人 の

10cative

 absolute 的 な発 想

  

locus

は原 因 と なる とい う考 え一 に よ り,

原 因 」の

味を も担 っ て くる。 とす れば, 個

を成 立せ し め る原 因 と し て ,

dharma

に element

要 囚

とい う訳語に もふ さわ しい 意

が も た さ れ る こ とに なろ う。 こ こ に , 仏 教の 最 も基 本 的 概念に関 す る実 在 論 的 解 釈の 混入 が 見 ら れ る。 仏 教は 本 来, 実 在 論 の 徹底的 打破 とい う形で出 発 し たの で ある。 つ ま り,

 

「個 物は 絶 対に 有る」と説 く実 在 論 に して 「個 物は, 絶 対に 無い」 とする, 言っ て み れ ば,

対 虚

義 (

Ab

−       一 

203

 一

(13)

Komazawa University

NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Umversrty        チ ャ ン ド ラキ ール テ ィの 論理学 (松 本 )               (91 ) solute  

Nihilism

よ うな

哲 学的

立 場を

始 した の で ある 。 個物 の

在 を破 壊 する た め に , 仏 教が用い た 理 論は,

無 常 」とか 「

起 」 とか 「諸 法 」 とか い う

念に よっ て ま とめ られる。 これ らはすべ て, 個 場の

在を否 定 する た め に, 現

を, あるい は,

時 間的流

れ に お い て, ある い は , 〔

間的 〕

関 係

に お い て ,

るい は,

性 〔の

関 係

〕 に お い て , 眺め よ うとす る もの で ある。 つ ま り, 仏 教は, 現 実の生を, 五蘊 とい う諸の

性の

縁 起的

関 係 とし て把えた ときにすで に, 個 物 (基体

が有る とい う

在 論か らは, 遠 く離れ てい た こ とに な る。 た だ, 五 蘊,

二 処, 十八界 等の 諸 法が実 在 と見な され, 基

え られる

に な る と, こ こに 仏 教の 実 在 論化 , つ ま り仏 教の 非 仏 教 化 とい うこ とが 生 じて くる。 こ れ に 対 し て大 乗 仏 教は , 明確に 批判酌 立 場 を 示 し て い る。 大 乗 仏 教 が 敵 対した の は ,

直接的

に は 個

る と説 く

実在

で は な く, 諸 法が有る と説 く実 在 論 老で あ っ た。 無 論 ,

者は , 諸 法を, 基 体の 位

に , つ ま り, 個 物の レ ヴ ェ ル に まで 転 落 させ て い た の で ある が。

っ て ,大 乗 仏 教が説い た の は,諸の 法の 無 自性, 諸 法 の 不生で あっ て, 個

の 無

性や 不生で は なか っ た。

bhava

とい う

念 が, 仏 教 史の どの 時 点で,

dharma

とい う概 念 と交 錯 し て くる か とい うこ とは , 現 在の 筆 者に は 皆 目わ か らない 。 た だ 「

dharma

が生 じない 」 とい うの は,

者の 理解か らす れば,

 

「こ とが 生 じ ない

とい う奇 妙 な表 現となる。 こ の

奇 妙

さを 中 和 する た め に ,

bhava

に , 「変 化 」 とか 「性 質 」 とか 多義 ある こ とを利 用 し て , 「

bhava

の 不生 」 とい う表 現が とられ たの か もしれない 。 あるい は,

変 化

」(

becoming

) と, 「無 常

とい う

念の 相

性が,

bhava

の 語の 採 用 の 一理 由 っ た の か。 また イ ン 実 在 論 哲 学で は , sarvabhavah とい うこ とを言 うの か ど うか 7) 。 こ れ らは ,

今後

の 課 題で あるが, 識 者の 御教 示 を 頂 き たい とこ ろ で あ る。 以 上 ,

め て 主

的な, か つ

文献

か ない

意見

べ て し まっ たが,

bhava

dharma

同 様し て 「個 物 」を意 味 しな い とい の が , 筆 者の 基 本

理 解で あ る とい うこ と だ けは, 「性 質 」 とい う訳語 に よっ て 強調 して おきたい 。     「三 つ の 主 張 」 とは, 言 うまで もな く, 諸 法の 不他 生, 不 共 生, 不 無 因 生を い うが, こ こ で , 不

生 と ともに,,

MK

1

1

示 され 命 題 が 主

pratijfia

)と呼ば れ てい る こ とに

注 意

した い 。 とい うの も, こ れ は , 

Candrakirti

 

7

Ahutobhaya

− (

D

. ed . 

bhavah

は, 

dharmah

で あ り, 

bhava

とい う語に よ

  っ て, 『これは, 一 外 道 と共 通 で ある 』 と解釈 される 。」 (

Tsa

33a5

)と あ る。 この   註 釈文は,

bhava

dharma

とい う同 一 支 持 す とも 学一 般   で

bhava

(or  

bhavah

の もっ 意味に つ い て 考え させ られる。 た だ し意味は 不明。       −

202

一 N工 工一Eleotronlo  Llbrary  

(14)

92

) チ ャ ン ドラ キ ール テ ィの論 理 学 (松本 ) 自身の 々 に は , 自己の 主張 (svapratijfia )は

い か ら」 (本 稿 〔

13

〕) とい う 言 明や, また彼に よっ て

用 され る

Vigrahavya

’ vartani の

しか し私に 主 張 (

pratijfia

)は」 (本 稿 〔

5

〕) とい う説 と

比 的である様に 見え る か らで あ る。

MK

1

1

釈上 , 誰が最 初に 四 不生の 一 ‘‘

pratij

a

” と呼ん だ の か,

註 釈

者 達の 言 うとこ ろを見て み よ う。 まず 「中論 』 の 少 くとも,

MK

1

1

註 釈 お い て

30

2b

は , ‘ ‘

pratijia

” に対

す る訳語 も, 四 不生を “

pratijfia

” と見る

釈 も見 られ ない 。 こ の 点は, ・

4

肋 ’o厩 αック

D

.ed , 

No

3829

) と

Budd

hapa

lita

註 (

BP

, 

D

・ed ・

No

3842

)に おし・て も 同様である (

Akutobhaya

− , 

Tsa

33a

 

4

7

BP

, 

Tsa

161b2

163al

= 

Saito

, 

Part

 

2

, 

p

. 

10

1

8

p

11

1

7

四不 生の 一 々 を ‘‘

pratijfi2

” と呼ん だ の は, ま

Bhavaviveka

初で あろ う。

は ,

P

/o

砂 784 ψθ (

PP

, 

D

. ed . 

No

.  

3853

に お , 次の

に言 っ て い る。 (

1

) これ 〔= MK

, 1−1〕は,主 張の 総 体 (

pratij

飴 sam 訌nya )を提示 し た の で ある。 …

   …主張の み (pratijfiamatra )に よっ て 意図され た (

bsams

 

pa

, vivak $

ita

)言葉の意    味は, 証明 さ れ ない の で , こ こで 〔

= 自不 生主張に お て は〕主張 性 質 pak

$a・    

dharma

)は , 存 在 性 (yod pa fiid, vidyamanatva  or sattva )カ〜把 られ る。 (

PP

  

Tsha

 

48b

4

5

)〔な おな 訳 , 漢

r

若 灯論 』

r

論 』

No

1566

,    

Vol

. 

30

で は , 以 一 ドの丈章の下線 部が, (

1

)の下 線 部 と 一致す 。 釈 日,非 自者,    彼 聚 安立諸 起 法 者, 意 無 体 故 (大正

30

52b

);なお … …以下は, 全 く漢訳 さ れ て い な     い B)

 

四不 生 を ‘ ‘

pratijfia

” と 見 な す な ら, 

Bhavaviveka

に お けるが

く, 当 然そ れに対 して , 理 由 (

hetu

) また は,

例 (

d

stanta

)とい うものが 考 え られ て く るで

ろ う。 と

れぽ,

Candrakirti

観 点

か らすれ ぽ, 四 不 生 を ‘ ‘

pratijfia

” と呼ぶ こ と自

, 中 観

学の 基 本

か ら逸 脱 し て い た と

え る こ とも可

8

) 漢

r

灯論 』は , 多 くの誤 訳,省略を含む と は い え,

PP

の サ ン ス ク リ ッ ト原 典を想 定 す る の に ,無価 値で は ない 。

r

灯論』 を 学 的使用に た え ない と 決め つ る前に, 我々 は, チ ベ ッ ト訳 を 対照 して, 漢訳 を厳密に読ま ね ば な らない。 国 訳者の 羽渓了諦博士 は, 少な くと も,

MK

 

I

1

対 す註釈に お て は , 

PP

チ ベ ツ ト訳を も, 

Prasanna

・ ρσ

44

を も,参照 さ れ て い ない の で, その 国訳に は 不 満が残る。 一 応こ の個所の 博士 の 国訳を 示せ ば, 「自よ り に 非ず 」 とは, 「彼の 聚は諸の起 法を安立 する も, 意に無体な る が故な り。」 (『国訳 一切 経 ・中観 部

2

』P .

5

)とある。 しか し,

MK

 

I

1

引用直後の

PP

の チ ベ ッ ト訳 を和訳 し, そ れに漢 訳 を あて はめ て示せ ば, 次の 様に なる。 「これは, 主 張の 総体を示 し たの で る (彼 聚 安立。 その 中で ,

r

そ れ自身か らでは ない 』 とい う の は何か とい え ば (非 自老 ), 『生起がい か な る時 も存在 し ない (諸 起 法 者, 意 無 体)』云 々で あ り,」 (

PP

 

Tsha

 

48b4

5

以下 , 繁雑 な ため, 羽渓 博士の国 訳に対 し, 常に批 判 的言及 がで きる か どうか わか ら ない 。 一 201 一

参照

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