Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Umversrty チ ャ ン ド ラ キ ール テ ィ の 論 理学 (松 本 ) (
79
)チ
ャン
ド
ラ キ
ール
テ
ィの
論
理
学
.一.一『
明
句 論 』 第
一章 諸 法
不
自
生
論
の和 訳
と研 究 (
1
)
一 .一松
本 史 朗
序論 理学 とは 何であろ うか。 こ の 問に 対し て 筆 著に は 答え る能 力 も資 格 も ない よ うに 思わ れ る。 た だ もし も, 論 理 学 を どの 様な もの と考 える か , と問わ れ るな ら ば 「あの 山に 火あ り。 煙 あ る が 故に 」 とい う様な
推
理 に関 す る学であ る と , 普 通 誤 まっ て考え られ て い る とこ ろの もの で ある と答えて み た い 。「煙 あれば, 火 あ り」 とか ,
「
火か ら煙が 生 じる」とい う様な こ とが ,実
在論を真 向 うか ら否定 し た仏 教の 論理 学に お い て , 真に :重要な テ ーマ に な ろ う筈が ない と筆者
は考
えてい る。 こ こ で「
実
在論
」 とい うの は , もの(
個物)
がまず あ
り, その後
で そ れ に対
して 様 々な 言 葉 (名称) が符号と して 付け られる と考える思想 的立 場で あ り, こ れに 対 し て 仏 教は , 言 葉 とは 別に, その 指 示 対 象と し て の もの は存 在 しない と説 くもの であ る と思 わ れ る1) 。 こ の 様に ,実
在 論 と仏教 が全 く矛盾
的に 対立す る も の であ
る な らば,仏
教 論理 学 とい うもの は, 人が楽 天 的に想
像して い る よ うな実
在 論 的 な論理 学 とお よそ似て も似つ か な い 危 機 的な思 想で ある可能 性が あ る。 こ の 点に 関 し て, 梶 山雄 一 博士 の発 言, つ ま り, 「存在 と概 念 と の 同 一・化 とい う前 提の 上 に 構 築 される論 理 学, と くに 実在
論的形
而上学の 基盤
の 上に体系化
された 伝 統 的な イ ン ド論 理学 の 領 域 内に.おい て ,あ らゆ る存 在を 非 実在と して の もの の 空性 を 宣 言 す る中 観の 真理 を論 証 す る とい うこ とは それ 自体ひ とつ の 矛 盾で ある。 ナー ガ ール ジ ュ ナ や ブ ッ ダパ ー リ タが帰 謬 ・デ ィ レ ン マ ・テ ト ラ レ ン マ な ど , 云 い か え れ ば, 仮 言 的 否 定 的推理 とい う, イ ン ド論理 の伝統
に よ っ て排
除 された 論 証 方 法 を用 い ざる を え なか っ た とい う事
実が それを 示 して あま りある。」 2) とい う1
)こ の意 味で, “sarvam etan namamatra 卑 sarpjfiamatre pratisthitam /abhidhanat
prthakbhtttam abhidheya 加 na vidyate 〃”
とい う
Bhavasamlerdnti
・szatra (§astried ,)の一偈ほ ど, 仏教 の本 義を 明曜に示す ものは ない と筆 者に は思われる。
2
)梶山雄 一 「中観思想の 歴史と丈猷」r
講 座 ・大 乗 仏教7 一 中観 思 想 』昭和57
年,p
.14
.−
214
一(
80
)チ ャ ン ド ラキ ール テ ィの 論 理 学 (松本) 御
意
見ほ ど 興 味 深 い もの は な い 。 こ の 見解に 対 し て筆 者に は全 く異論が ないが, 筆 者 よ り見れ ば, 博士 が 「仮 言的否定的 推理 」と呼ぼ れた もの こ そ , 仏 教 論理 学 の 正統
と見
な さ なけ れ ばな らな い の である3)。今 日,仏教 論 理 学 とい え ば, 専 ら
Dignaga
やDharmakirti
の 論 理 学の み を 指 し, し か も後 者に 関 して は , 極め て 実 在論 的な解釈 が施 されて い る傾
向が 見 ら れ る。 こ のDharmakirti
に関 する実 在 論 的解
釈 の横 行
に つ い て 言え ば, こ の こ とは ,彼
の 論理学
が,専
ら晒
のの ゴη吻 やHetubinda
さ らに は ,P
プα〃吻 α ”加 醜 砂 α とい う様 な 綱 要書
一 一ま たは 教 科 書 とい うべ きか 一 一.や , そ れに 対 す る註
釈 書類を通 し ての み学ばれて来た とい う事 情と深
く関 っ てい る様に思
わ れる。 し か るに , 実 在 論 的で ない 綱 要 書 とい うもの が, 一 体 世に存 在す
る で あろ うか 。 綱要
書とは, そ の 「わ か りやす さ」とい う至 上 の 要 求を 満たすた め に , ど うして も実 在 論 的 解 釈に 依らざるを 得 ない もの なの で ある。 もっ と も, 全 ての実 在論的
解 釈 がわ れ わ れに 提 供 する 「わか りやす さ」 とは, 全く見
せか けの もの に し かす ぎず, われわ れはそ れ に よ っ て , 実は何
ひ とつ わ か っ て は い ない の で は あるが。 い ま筆
者がDharmakirti
は 中観 派で あ り,空 性を論 証 し た 人であ っ た な ど と言 え ば, 学 者の 失笑
を招 くの で あろ うが ,厳 格な論理的思考 とい う もの は , ど うして も,実
在論
的 思 惟 を その 内部か ら突 き崩 し て, ただ 中観
的思想
と し て の み 展 開が 可能
だ, とい うの が , 現在の筆
者の 率 直な 信念
で あ り, とすれ ぽあとは た だDharmakirti
が厳 密な, あるい は, 真摯
な思 想 家であっ た こ と を信 じる か否か の 問 題 し か ,筆
者に は 残 さ れ て い ない 。 こ れは無
論,Dharmakirti
の すべ て の 作品
を その註
釈書
■ ■ コ を通 して 正 確に 研 究 して はい な い筆者
の 主観 的な感 想に し か す ぎ ない 。さて , 筆 老はすで に, 梶 山博士 が 「仮言 的 否定 的 推理 」 と呼ば れた もの を こ そ 仏 教 論理 学の 本
質
と考
え るべき
で ある との 意 見 を述
べ た。 で は こ の 「仮
言 的 否 定 的推
理」
につ い て , イ ン ド仏 教の 内部で,最
も深
い 思 想的
表 現を展
開 した の は誰
で あっ た の か とい えば,筆 者
は まずCandrakirti
の 名 前を思い 起 さずにはい られ ない 。 彼の い わ ゆ る帰謬 論 法 (
prasahg
含padana
,prasahgapatti
)こ そ , 仏 教に と っ て最 も本
質
的な論理学 的方法
なの で は なか ろ うか。 従 っ て,彼
が そ の 方 法3
) こ の 点で , 「ナ ーガ ール ジュ ナ , あるい はパ ーヴ ァ ヴ ィ ヴェ ーカ (Bhavaviveka
清弁490
−570 頃)以前の 初 期 中観派の 論理 学は, 実は 本 章で 扱 う仏教 論理 学 に とっ て は異 端的 な もの で ある 。」(下線筆…者)とい う梶 山博士の お言葉は,
「本章で 扱 う」とい う限 定
語 なし に 理解 さ れるならば, 博士の 御 真 意に そ む く もの となるで あろ う。 梶山雄 一 「仏 教 知識 論の 形 成 」『講 座 ・大乗 仏教
9
一 認 識論 と論理学』昭 和59
年, p .43
参照。 一213
一Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Umversrty チ ャ ン ドラ キ ール テ ィ の論理学 (松 本 ) (
81
) を 明確
にす
るPrasannaPada
一第
一章
厂諸 法不 自生 論 」 下の 議 論に関
して考 察す
る こ とな し に, 仏 教論理 学に つ い て,あ
るい は さ らに , 仏教
の本義
につ い て , 正 し い理解
を得
るこ とは で きない の で は ない か , とい うの が, や や大袈裟
に 言 えぽ,本稿
を思い た っ た 動機
な の で ある。 本稿
で 和 訳を 示 そ う と す るPrasannaPada
“ の 部 分に お い て は,あ
る意味
で, 最 も根
本 的な 問題 が扱
れて い る。 そ れは 一 言で い っ て , 言葉の問題
なの であ
るが , そ の 場 合の 言葉
とは,決
し て自分
勝 手な独 語 で は な く,他の 人 間に 対 して語 りかけ,他の人 間の共 感を得 よ うとする 一個 の 人間 の 切 実な 言葉なの で あ り, それが否 定 的 な, あるい は絶 縁 的な言 葉で あ る が故に, か え っ て愛
語 ともな る とい う様 な, い か に も不 思 議 な構 造を もっ た人間
の真
実の 言 葉に 対 する哲学的 考 察が, そ こ.に 示 さ れて い る様に 思 わ れ る。 以 上述べ た 様に , 本 稿の テ ーマ は, 筆 者に とっ て 極め て 重 要な もの であ り, 筆 者は 初め , 用 意 周 到 な準 備の も とに完 璧 な 論 文 を目指した が, 中 途に して ,自
己 の 梵丈読 解力 と一 般的知 的 能 力が , こ の テ ーマ が要
求 す る レ ヴ ェ ル よ りも著 し く 低い もの である こ とに気がつ い た。 の み な らず怠 惰の 故に , 原 稿 締切 の 日も 目前 に 迫っ て しま っ た。 従っ て 本 稿が極め て不完
全 な もの で あ り, か つ筆
者 自身に よ っ て 幾 重に も訂正 さ れ るべき
もの であ
る とい うこ と を , 予め お断
りし て お きたい 。 なお, 本 稿で 示す 和 訳に つ い て 言 え ば, い うま で もな く全 くの 試 訳で はある が , で きる限 り, 先 学の 諸翻 訳との 相 違を 明確に し て ゆ きた い。 筆 者 に よっ て 和 訳 さ れるPrasannaPada
一の部
分に つ い て は ,す
でに い くつ か の翻
訳 が見
られる が , そ れ らの 翻 訳の 各 々 は , そ れに 先行 する諸訳 に 対 して 必 しも充分 に 批判 的で ない 様に思われ , そ れ が 不 必要な議 論の 混 乱 を招 く原因 ともな っ て い る様に 見え る か らであ
る。さて , 最 後に, 本 稿成 立 に
関
して お 世話に な っ た お二 人の 先 生 に , 深い 感 謝の 言葉
を述べ て お きた い 。 まず,袴
谷憲昭 先 生は , 仏 教の 本質
は,「
無
常 」 とい う 観念
に ある こ とを力 説 して,仏
教そ の もの に対 し て筆 者の 眼 を開い て下 さっ た 様 に 思わ れ る4) 。 また , 金 沢 篤 氏は , 哲 学 的なサ ン ス ク リ ッ ト文 献 の厳
密な読み方 とい うもの を筆
者に教 えて下
さ っ た5)。 こ の お二 人の 先 生 の あた た かい 御 指 導が な け れば筆者 は 本稿
に 着 手 す るこ ともで きなか っ た の で ある。1
本稿は , チ ャ ン ドラ キ ール テ ィCandrakirti
(7
世紀
こ ろ)
の 「明 句 論 』Pra
− −212
一 N工 工一Eleotronlo Llbrary(82) チ ャ ン ド ラ キ ール テ ィの 論 理学 (松 本 )
sannaPada 一第一
章
に 見 られ る 「諸法 不 自生 論」に 関する議 論を和 訳 し, そ れ に つ い て考 察
し よ うとす
るもの で ある。和
訳 する佃所
は ,Bibliotheca
Buddhica
,IV
に 収め られたLouis
de
la
Vall6e
Poussin
の 校 訂 本P
.13
,1
.2
〜P
.36
,1
.2
に 相 当す る が, 翻訳 に 先 だ っ て, 次に 示す 諸 資 料の 読み を 用 い て ,
一
応 自
分な りの テ キ ス トを
作
り, それを示 す こ とに し た。 〔略号〕LVP
:L
,de
la
Val16e
Poussin
‘ ‘.吻1
α〃zσゴ勿
α〃z盈 α航 7 読σ∫ (物4
勿
σ〃z∫・leasUtras
)de
ハ潅8i
σ〃
翩 α avecla
PrasannaPada
−Commentaire
de
Candraleirti
”Bibliotheca
Buddhica
IV
,1903
−1913
で採 用 さ れ た読みMs
:LVP
が 依 拠 し た三写 本 (Cambridge
,Paris
,Calcutta
)の 読み とし て ,上 記 校 訂本 の 脚 註に 示 され るもの 〔なお , こ の 三写 本が区別 される場 合に
は ,
Camb
,,Paris
,Calc
.の 略 号 を 使 用 〕TNP
:J
.W
.de
Jong
“Textcritical
Notes
onthe
Prasannapada
”毋
,20
,pp
.25
−
59
,
217
−
252
,
1978
に おい て 指示 された読み 〔こ の 場合 「指 示された
」
とは ,Read
asR
とか,Read
asLVP
とか ,Read
asacikh
−
yasor
とか の 語 を 用 い てde
Jong
教 授が 明確に ある一 つ の 読み を 支持 さ れ た場 合に 限る〕R
:上 記de
Jong
教 授の 論 交中
に示 さ れ た Pt 一マ写
本の 読み〔
de
Jong
教
授は, ロ ーマ 写 本の 異
読
を 全 て示 された の で は ない と思わ れ る 。 こ の 点 筆者は英 語の 読 解 力に 自信が な く, 同教 授 の
意
図 を誤 解 し て い ない 様に 望むが , 同教 授が P 一マ 写 本の 読みを 示す 必 要が ある と判 断 され る に
際
して の基
準
に つ い て は , 同 上 論文
P
.27
,11
.9
−15
に説 明が ある〕A
:Prasannapada
’,朿
京 大 学 図書館
所蔵 梵文写 本
,S
.Matsunami
,・A
Cata
・
4
)こ こで 「無常 とい う観 念 」 と言っ た の は, お そ らくは, 袴 谷 先 生に とっ て は, 迷 惑か も し れ ない 。 た だ筆 者の意 図とし て は, 無 常 とい う観 念よ り も前に , 何か 無常なる もの が ある, とい うの は, むしろ非 仏教 的 な, つ ま り, 非無常的な 理解では なか ろ うか, と 言いたか っ た だけで ある。 な お袴 谷先 生の 仏教 理 解の 根 底を示す 論 丈と しては, そこ に 無 常に 関す る 独 自 な 主体的 な思 索が丈 学 的に 表 明さ れ て い る とい う意味で , 「唯 識 と無我一 僕の只管打 坐一 」
「如 実 知 見一 『死に い た る病』 を読み な が ら一 」 (
r
駒 沢 大 学 仏 教 学会誌』第 7号, 昭和 40 年, pp . 51 −65 )とい う 最 も初期 の論丈を 是 非と も読ま な け れ ぽな ら ない だ ろ う。5
)金沢氏は, 本稿に 関 して も, 具 体 的に 筆者の 多 くの 誤 訳 ・ 誤解を訂正 し て下さっ たが, その 一 ktl
こ つ い て は,本論で 述べ よ う。 一211
一Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Unlverslty
チ ャ ン ドラキ ール テ ィの 論 理 学 (松本 ) (
83
)logne
ofthe
Sanskrit
ltliranuscriPts
in
the
Tokyo
University
Li
−brary
,1965
,No
.250
B
;同,No
.252
C
:同,No
.251
〔
ABC
とい う三つ の 東 大 写 本につ い て , 以下に 挙げ
る斉藤
明 氏 の 論文
(
Introduction
,P
. xv )で ,No
.250
とNo
.252
の 読みは類 似 する場 合 が 多い が ,No
.251
は概 して ,, その 両 者 よ り優 れて い る と述べ られて い るが ,
LVP
で わず
か20
頁 あ ま りに す ぎない 個所を調 査 し た 筆 者の得
た 感触
も, 氏の そ れ と
全
く同様
であ
っ た。 こ の点
は , 以下
に 示 すテ キ ス ト の 註 記に 明 らか に され る で
あ
ろ う。 ま た ,筆
者が, カ タ ロ グの 番 号 順を無 視 し てNo
.250
,No
.252
,No
.251
を,A
,B
,C
と名づ けたの は , こ の様なNo
.250
とNo
.252
の 親 近 性に よる〕T
;チ ベ ッ ト訳。 チ ベ ヅ ト訳は原 則 として デル ゲ版(
No
.3860
)
を用い るが,北 京 版の 読み を 示す ときに は , それを
T
(P
) と して , デル ゲ版のT
(D
)と区別 し た 。 なお ,
de
Jong
教 授 前 掲 論 文は , 多 くの 場 合, チベ ッ ト訳の読み を 出し, さ らに ‘ ‘
Tcon
丘rmsR
” とし て , チ ベ ヅ ト訳とR
写 本の読
み の 一 致 を 示 す こ とが しば しぼある。
従
っ て , 本稿
の テ キ ス トの脚註
で示す
T
とR
の 一致
は殆 ん どすで にde
Jong
教授に よ っ て指摘
されて い るこ とを 注 意 し て お きた い 。Prasannapada
一 の 写 本 と して は,New
York
のThe
Institute
for
Ad
・ vanced
Studies
ofWorld
Religions
出版 の マ イ ク ロ フ ィッ シ ュ
中
に , 二 種の 写 本の 存 在が知 られて い る が (de
Jong
教 授 前 掲 論 文p
。26
参 照 ),筆
者は そ れ を取 りよせ るこ とを怠 っ た ため, 今回は 利 用で きなか つ た。 いず れ, 同 上 マ イ ク ロ フ ィ ッ シ ュ が本
学に完備
された時 点で , その 二 写 本 を 用い て , テ キス トを考
え て み た い。ま た,
今
回,PrasannaPada
一の 世
界最
初の 刊本
と思わ れ る。Chadra
Das
andChandra
Sastri
:1
吻41
らツα規 ゴたほV
[rtti ,The
Philosoph
夕Of
the
1
駈 z乃の4
π σschool containing
the
aPhorismsげ
ハ磧願ガ
嬲 α withits
commentaryOf
Acharya
Chadrakirti
,Calcutta
1894
−1897
を参 照でき
なか っ た の は,筆
者の最
も遺憾
とす る ところであ
る。 同書
は普 通Calcutta
Edition
とい われるも
の で あ るがP
.LVaidya
に よ っ て ,極め て杜撰
な もの と評され て い る(
Vaidya
下一
210
一(
84
) チ ャ ン ドラキ ール テ ィ の論理学 (松 本)掲
書
,Introduction
)。 し か し,Vaidya
の 言う様
に, こ れ が単に マ ニ ュ ス ク リプ トを 印 刷に附 した に過 ぎない 様な もの だ とすれぽ, その
資
料的価値
は,皆 無
では ない であろ う。
de
la
Val16e
Poussin
本のAvant
propos
を見
る と, 彼が校 訂
に際
しCalcutta
の マ ニュ ス ク リ プ トを 用 い た の か, そ れ とも
, 上 掲の所 謂
Calcutta
edition に依 っ た の か ,余
り判
然としない 。 しか し,Vaidya
は, む しろ後 者で あっ た様に述べ てい る (下掲 書
Introduction
)。 ある い は , その 双方
を用い たの で あろ うか 。 い ずれに し て も, 現 時 点が, 直 接マ ニ ュ ス ク リ プ トに 依 存
して , 刊 本を
第
二次 資 料 と して , つ まり校 訂 者の 解 釈を示 す もの とし て, テ キ ス
トを
構
成すべ き時期
で あ る こ とは , 疑 問の 余地 がな い。 すべ て の マ ニ ュ ス ク リ プトが つ ま り
Paris
で あ れCambridge
であ れ,Calcutta
で あれ ,New
York
で
あ
れ , ま たRoma
であれ, そ の 全て の マ ニ ュ ス ク リプ トが参 照 され なければ, 校 訂 さ れ た テ キ ス ト の 価値
は激 減 す る の で ある。 そ の意
味で も,筆 者
が 以下に 示 すテ キス トは , 決 して 校 訂テ キZ トで は な く, 単に , 限 定 された資
料に 基い た 一 つ の解
釈で し か ない とい うこ とを何 度で も断 っ て お きた い 。さて ,
最後
に ,PrasannaPada
一 研 究史
に お い て , 所 謂Vaidya
本 , つ ま り,P
.LVaidya
:MadhyamakaSa
”stra {
ゾ
ハ碗8
励プ
ecna withthe
commentarPt :Prasannapada
”by
Candrakirti
.Buddhist
Sanskrit
Texts
,No
.10
,1960
が,果し た
役割
が皆無
で は なか っ た ことに つ い て 述べ てお きたい 。Vaidya
本は,de
La
Val16e
Poussin
本
と全
同で は なく
,Vaidya
の 解 釈を示 し て お り, し か もその
解
釈に は 捨てが た い もの もある。1960
年 以 降のPrasannaPada
一 研究者
が ,Vaidya
本に言 及せ ずに議 論 す る とす れば, そ れはVaidya
の学
問的 功 績を撓
無す
る もの であ り,真 の 学 問 的態 度
とは い え ない で あろ う。 とはい え筆
者 もVaidya
本
の 学 的 価 値を 無 視 し てい た一入で あ り, 金 沢 篤 氏に ご く最
近それを参
照す
る こ とを 勧め られる まで は ,それに 気がつ か なか っ た の で ある か ら, 以下Vaidya
本に 関して 充 分に 批 判 的な言及 がで きるか ど うか わか らな い 。 なお, 三 日程 前に な って ,
Swami
Dwarika
Das
Shastri
:跏 助 夕σ 嬲盈 α露 s 〃σ4
ハ砺9
摩が
κη σ ω ’訪the
commentaryP
プσsα筋 αρα露b
ヅChandrakirti
and withhindi
Sum
・ 吻 礎yby
Aeharya
Narendradeva
,Bauddha
Bharati
Series
,
No
.16
,1983
な るも
の と入手 し た 。 こ れに つ い て も,充
分な 言 及で きない で あろ うが , 一 見し て ほ ぼVaidya
本に依 存 し て い る様
であ
り, か つde
Jong
教
授の 前 掲 論 文 を 参照
して い な い の は , 明瞭
であ
る。 一209
一Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Umversrty チ ャ ン ド ラ キール テ ィの 論理学 (松 本 ) (
85
)さて , 以上 の
資料
を用い て ,P
」 ・asannaPada −’ の ご く一部の テ キス トを示 そ う と するの で ある が ,すで に繰
返 し述べ た よ うに, 以下 に示 すテ キス トは 校 訂 と称 す べ き もの で は全 くな く, 単に筆 老の 一応 の解
釈 を 示 し た もの にす ぎない 。 だ い い ち筆 者に , た と え極め て読
み やすい とい われ る ネ パ ール系
の東
大三写 本
の よ うな もの で あれ, そ れを 正 確に 読み うる様
な写 本読 解
力が ある とは 思 わ れ ない 。 つ ま り,第
一 次資料
が 限定 されて い る うえに , その 資 料を 正 確に読 解 する力 もな く, さ らに読
解 された もの を統
一 的に批 判 的に 扱 う解 釈 力が 無い とす れ ば, そこ か ら 生 じる結果
がみ じめ な もの だ とい うこ とは, 始め か ら見
えすい て い る。 に もか か お らず敢
え て 蛮勇 をふ る お う とい うの は , 本 稿で扱 うCandrakirti
の 議 論に つ い て , その 内 容 は 未だ に 正確に は 筆者 に わか らな い け れ ど も, そ こ に とに か く,仏
教の宗 教
と して の最
も根 本的
な問題
が論
じられて い るで あろ うとい う, 少な く とも予 感が,筆
者に は 感 じ られ るか らで あ る。なお以 下の テ キ ス ト に つ い て , 異
読
は , 次 の 場 合に の み, 示 され る。 〔1
〕LVP
と相違す る読み を採用 する とぎ〔
2
〕LVP
に 従 う場 合で も, 他の 資 料の読
み方
が, 全 く不 可能で は ない とか , また は興 味 深い もの と, 思われた とき〔
1
〕の 場 合, 異 読は , 例 え ば次の様
に 示 される。ex .
LVP
:yatha
;RB
:tatha
,A
:tada
,C
:一 ;T
:de
bshin
du
即 ち, まず 採 用 され ない
LVP
を 示 し, 次に採 用 された 読み , また は そ れ を支持
する よ うな, それ に最
も近似
し た読み を 下線を附 して 出し, さ らに 他の 読みがあ
れ ば, そ れを も挙 げ
る。 〔なお ,C
: 一 という様
に, 一 は 欠落
を意 味す
る こ とに する。 ま た チ ベ ッ ト訳 が , どの 読みを支 持す る か に つ い て は, 特に 明記し な い 。 そ れ につ い て は, すで にde
Jong
教 授 前 掲 論 文で 指 摘 されて い る場 合が 多い 。〕で は , 次に ,
和
訳 と註
記に際 して参
照し よ うとする研 究 論文等
を挙 げ
て お こ う (カ ギ 括弧 内は, 略 号 )。 まず, 言 うま で もな く, 下 記の 二著 作 中の 翻訳 が ,筆
者 の 和 訳に相 当す る個 所を 完全 に カ ヴ ァ ー し て い る。Th
.Stcherbatsky
:7
物θConception
ofBuddhist
.〜7
ア〃勿 α,1927
〔躍 7〃勿 α〕 山 口益 : 『月称 造 中 論 釈 』 第
1
巻 ,1947
〔『中論釈 』〕ま た そ の 個 所の 部 分 的 翻 訳を 示す もの (時に 翻訳者の 解 釈 ・ 研 究が 伴なわ れ る) に , 次の 論 文 等がある。 一
208
一 N工 工一Eleotronlo Llbrary(
86
) チ ャ ン ドラ キール テ ィの 論理学 (松 本)長 尾 雅人 :『西蔵 仏 教 研 究』
1954
〔『西蔵 仏 教 』〕江 島恵 教 :『中観 思 想の 展 開 』
1980
〔
「展 開』〕奥
住毅 :
厂
プ ラサ ン ガ ・ ヴ ァ ー キ ャ の 論証
性 」 「鈴 木 学 術財
団研
究 年報 』
No
.9
,1972
,p
.52
−68
〔「ヴァ ーキ ャ 」〕同
: 「中論の 論
述
形態
と して の プ ラサ ン ガ ・ア ーパ ッ テ ィ (1
)」『中村 博士還 暦 記 念 論 集・イ ン ド思 想 と仏 教 』
1973
,pp
.365
−378
〔ア ーパ ッ テ ィ (1
)」〕同
:厂中 論の 論 述 形 態と し て の プ ラ サ ソ ガ ・ア ーパ ヅ テ ィ
(
2
)」『鈴
木
学 術 財 団 研 究 年 報 』Nos
.12
!
131976
,pp
.60
−76
〔「ア ーパ ッ テ ィ (2
)」〕丹 治 昭義 : 「チ ャ ン ドラ キ ール テ ィ の 論理 観の 一考
察
」『関西 大 学東西学 術
研
究紀 要
』No
.12
,1979
,PP
.55
−74
〔「
論 理観」
〕 こ の うち, 丹 治 氏 と奥 住氏 の 論 文につ い て , 特に コ メ ン トを述べ て お きた い 。 まず, 丹 治氏 の 論 文は文
献 学 的な意味
に おい て , と りわ け メ リヅ トが ある様に 思 わ れる。 とい うのも氏
は, 写 本ま で は 調査
され ない に せ よ, チ ベ ッ ト訳 その他
を 用い て ,LVP
の 読み に 対 し て , しぽ しば興 味 深い 批 判的
な考察
を さ れて い る か らである。 次に, 奥 住氏 の 諸 論文
, 特に, 「ア ー パ ッ テ ィ(
2
)」
に対 して は , 以 下の 二 点に関 して, 素直
な讃 辞 を 呈 した い と思 う。 その 第一 は,Prasanna
・ ραd4
のprasajya
・pratiSedha
に 関し て , 様々 の 文 法 学書
に ま で遡 っ て, その 基 本 的 意 味 を 解 明 された こ と (こ の点で ,特
に註 (
34
)〔
PP
。74
−75
〕は , 極め て 重 要であ り, か つ 筆 者 よ り見 れば優 れた もの で ある)であ り, 第二 は , 奥 住 氏の 思 想 的考 察が, 極め て真 摯
な哲 学 的態
度に よ っ て貫
かれて い る とい うこ とで ある。 こ の真 蟄
な態 度 ゆ えに, 氏は,Candrakirti
の 方 法 一 「方 法 」 とは言 うまで も な く, 単 に論理 学 的 方法 の み を 意 味す る の で はな く ,い か に 生 くべ きか を も指 す とい う もの が, 殆ん ど宗 教的 と もい え る ほ ど, 根 本 的な問 題に関 っ て い るこ と を見
抜か れ た。従
っ て , 氏の論 文
中に は , 次の 様な極め て先 鋭的
な思 想的
表 現 を認め る こ とがで きる。 それ故 に中 論の提示する無 即 ち空 性 を把握し自覚し てゆ くため に は, 日常 一一 般の我々 の 心の 姿勢は 必然的に或る特殊な形を取らされ ざ る を得ない の で ある。 それ は一種の繰 返しな される反 復練 修で あ り, 迷い と悟 り との 問の振子の如き精神の 往復 運動で ある。 空性の 把握は, 多 くの 場 合 決 して 一足飛びに頓悟的に な さ れ る ので は な 一207
一Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Unlverslty チ ャ ン ド ラキ ール テ ィの 論理学 (松 本) (
87
) , ロ ■ ■ ロ く有自性 と無 自性との間の 往来を累 積しつ つ 徐々 に なされて行 くべ ぎ もの と考え ら れ る。 (「ア ーパ ッ テ ィ (2
)」p
.72
右 〔上 点 :筆者〕少
な く と も筆
者自
身 として は , 近 代 仏 教 学の い か な る成 果
に おい て も, 中 観思 想の 本質
を, つ ま り仏 教 の 本 義を こ れ ほ ど端 的に 指 摘 した文 章に出会
っ た こ とは な い 。 氏が こ こで 述べ られ た こ とは , 道元禅 師が 「修せ ざ るに はあ らは れ ず 」 と 説か れ た真 意か ら も大 きな隔た り は ないの で ある。 つ ま り, こ こで 否 定 されて い るの は , 一 般的
な言 葉を 用い れ ば, 神秘主 義,頓
悟 説,如 来蔵
思想
,実
在 論 なの であ っ て, その 基 本 的な考 え は, 言 葉 以 前に, または , 言葉
の な い とこ ろ に ,真
の 実 在が ある, と考え る もの である。 こ の考 えに 従 え ば, 我 々は 人 間は , 言 葉を 取 り払え ば, あ る い は 分別 を捨て さ れ ば, 真 の 実 在に め くつ会
うこ とが で きる と さ れ る が , 言葉
を捨
て る とは , 入 生 を捨て る こ とに他な ら ない か ら, こ の思 想は, 山 口瑞
鳳博
士 がい み じ く も指 摘
された よ うに6 ), 「生死は の ぞ くべ き法 ぞ と思え る は , 仏法を い と うつ み と な る」と述ぺ る道元禅
師の 言葉
に よ っ て厳
しく否定
され る こ とに な る の である。奥 住
氏の 論 文に は , か くも深い 哲 学的
思 索が展 開さ れて い る 一方で , ま た 他 方 に は , 次の様
な丈 章 も見出
され る。 こ の 様に して有 自性 論の主張が遮 遣され 終る ときには, そ れ が存立 の根 拠を 失 っ て消 の ロ ロ ■ コ リ 滅す る と 同 時に, 遮遣 の 目的を達した中 観論者の主張 もま た, 本 来 無 自性なる もの で あるか ら消 滅する。 そ れ ゆ え, (図D
) として 予 想 さ れ得る図は, 一切が消 去され た ロ コ コ . コ コ サ ■ の 完全な ブラ ン ク で あるべ きで あろ う。 こ こ に 論争の絶対 的 停止 が完成 する。 〔「ア ーパ ッ テ ィ (2 )」 註37
, p .75 右 )〔上 点 ;筆者〕筆 者
の 見 る とこ ろ に 依れば, 氏の 先の 文 章 とこ の 文 章 とで は , 論理 的に も思 想 的に も何 の連 絡 も無い 。 まず, 「中 観派の 主張は ,無 自
性であ
る か ら,消滅
する」
とい うの は, 表 現 とし て見て も, 論 理的な もの で は な い 。 無 自性であれ ば, 消 滅 . ■ しない 筈だか らで ある。奥
住 氏が ,中観派
の 主張を無 自性な るが故に有 自
性 論 者 の そ れに対
する が ご と く, 図に おい て 円で か こ ま なか っ た の は , 正 しい 理解
を示 し た もの と言 うべ きで あろ う。 しか し円で か こ まれてい な い な ら,有
自性論 者の 主張 と同様
に , あた か も シ ャ ボ ン 玉 が破 裂 し て消え去る様
に , 消 滅 する こ とは な 6 )山 口 瑞 鳳 「チ ベ ッ ト学 と仏教 」『駒沢大学 仏 教 学 部論集』第 15 号 , 昭和 59 年, p .48上 。 なお 同 論丈, 註48
(pp .52
−53
)で示 さ れた 山 口博士 の御 意 見は, 日本の 近代 仏 教学 が負っ て きた過去 の宿命と将 来へ の 課 題 を考える た め に は , ど う して も看 過で きない 重要な
もの で ある。 そ れは 一 言でい っ て 中観思想と如来蔵思想 との矛 盾性に 関 する指摘である 。 −
206
一 N工 工一Eleotronlo Llbrary(
88
) チ ャ ン ド ラ キール テ ィ の論 理 学 (松 本 ) い 筈で ある。 従 っ て , 上 の 表 現は , 氏自身
の内
的論
理性に導か れ た とい うよ り も, む し ろ, 対象
が 無 くな れ ば , そ れ を対 象 とする もの も消 滅
す る とい うよ うな や や 安 易な通 念一 そ の 典 型 的な もの は, 例え ばMadhya
’ ntavibhangabha −s.ya
adI
−6cd
の 「対 象の 不 認識に依 存 し て ,唯 識の 不 認 識が生 じる」とい う一文
に 対す る 通俗 的
解 釈な どに見 られ る で あろ うに
引
きず られた 結 果 とし か 思わ れ ない 。 そ こ で 奥 住氏 は , 「完全 な ブ ラ ン ク 」 や, 「論争 の 絶対 的 停止」の 信 奉 者で あ る か の ごとぎ姿
で , 我 々 の 前に立 ち現れ て い るが , こ の二 つ の 概 念は, 「繰
返 しな さ れる反 復
練 修」
, ま た は 「振子 の如
き精神
の往復 運動」
と い う表 現 とは, 完 全に 矛 盾す る異質的 な もの で ある。「完全 な ブ ラ ン ク」が , 目的 と して
措
定 され る限 り, そ こ に至 る過程 が長 い に せ よ短い に せ よ, ま た い か に 振 子の 往 復の 如 き紆 余 曲析
で ある に せ よ,過
程それ自体
は , 全 く無意味
な もの となる。 我 々 の 生は , 絶 え ざる無限の 創 造で ある が 故に 意味
を もつ の で あっ て , そ こ に 虚 無なる終
極が想 定 され れぽ, た ち どこ ろ に そ の 意 義を失 うの で ある。 以上 , 奥 住 氏の 論 文に 対 し, 自分勝 手 な 論 評を して しま っ た が , そ の 内 容に お い て た とえ非 礼な とこ ろが あろ うとも, 氏の御 寛 恕を望み た い 。 さて, 最 後に , 筆 者は最
近,斉藤
明氏 よ り, 次 の 論 文の コ ピーの 寄 贈を受 け , 大 きな学 恩を蒙 っ た 。A
.Saito
:‘‘A
Study
ofthe
Buddhapalita
−MUIaMadhyamaka
−vrtti ”
AThesis
Submitted
for
the
Degree
ofDoctor
of
Philosophy
in
the
Australian
National
University
,
1984
〔
Saito
〕こ の 論 文は ,
Buddhapalita
釈 〔第1
章
一 第16章
〕 の 校 訂 と英 訳を 中心 とす る もの で あるが, そ の 真 価は む しろ 『根 本 中頌』 (Mala
−Madhyamafeaha
−rika− or 漉1
α一P7
α勿 4
) 〔MK
と略 す〕 の テ キ ス トそれ 自身を確 定 し よ うとす る著
者の 厳 正 な文
献 学 的 方 法に ある と 思 わ れ る。 〔具体
的に は , 『根
本 中頌』第
一 章〜 第十六章
の テ キス トが, しば しば批 判的
研究
とと もに註記 中
に付
されて い る〕 こ の 論 文 を 読み, か つ 著 者 との 対話 を通 じ て , 筆 者が まず 第 一 に教え られ た こ とは , 『根 本 中頌 』の テ キス トを確
定す る こ と が, 如 何に 困 難な, ま た デ リ ケ ー トな作 業で あ る か とい うこ とであ
る。 ま た筆者
は氏
の論文
に よ っ て, 一章
か ら十
六章
ま で の 『根 本 中 頌 』に 関す るテ キス ト的 な 問 題 に 関 す る知 識 と, 極 め て精
度の 高い 翻訳 を手に 入 れ るこ とがで きた 。 本 論 文に見 られる氏 の 炯眼 に つ い て は , 本稿
で も触 れ るであろ う。 東 大 写 本コ ピ ーの 入手に 際し て 御 世 話にな っ た こ と と もに , 「根 一205
一Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 University チ ャ ン ド ラキ ール テ ィ の 論理学 (松 本 ) (
89
) 本 中 頌 』の テ キ ス トに 対し て 極め て漠 然 とし た 低い 意 識し か有
して い なか つ た筆 者の .蒙
を啓い て くれ た 氏の 学 恩に 対し て , 深 く感 謝 したい と思 う。で は以下に ,
PrasannaPada
一 当 該個 所の テ キ ス トと和
訳 ,註
記, さ らに 可 能で あれ ば, 研 ・究を も示 そ う 。 テ キ ス トは ,筆
者の判断
で,33
の 節に分か ち, その 最 初にde
La
Val16e
Poussin
埣:の 頁 数, 行 数を 示 した。Pr
αSαnn αP
αda
第一章諸法 不 自生 論 :テ キス ト・和訳 ・註 記
[1] (
13
.2
−13
.9
)tataS c盒iv
.alp sarpbandhab, naiva svata utpanna
jatu
vid・
yante
bhavab
kvacana
kecana
!evaM pratijfia−trayam api yojyam 〃nanu ca , naiva svata utpanna ,
ity
avadharyamarPe parata utpannaity
ani $tam
PraPnoti
!Ilaprapnoti
, prasajya ・prati§edhasya vivak §itatvat
parato
’py utpadasya prati§etsyarnanatvat !
yaya c6papattya svata utpado na sarpbhavati , sa
tasmad
dhi
tasyabhavane
na gupo ’stika6cit
jatasya
janma
punar eva ca naiva yuktam 〃
ity
−adina
Madhyamakavataradi
−dvare
りavaseya
〃〔
1
〕 そ れ.故に , 「諸の 性 質 (bhava
) は,い か な る もの も, いか なる ところに お い て も, い か な る時に, 存 在 し よ う とも (vidyante ), そ れ 自身か ら (svatas )生 じ た もの で は , 決し て な い (naiva )。」 とこ の . 様に 〔諸の 語が〕 結 合さ れ る 。 これ と 同 様 に,三 つ の主 張 (pratijfta)も, 結 合され るべ きで ある。(反論) 「そ れ自身か ら生 じ た もの で は 決し て ない (naiva )。」 と限定 さ れ るな らば, (avadharyamape ) 「他の ものか ら 生 じた もの で ある 。」 とい う 〔あな たに よっ て〕承認さ れて い ない もの (ani §
ta
)が, 帰結 しない か 。 (答論)帰結しない。 (i
)prasajya
−prati
$edha が 〔naiva と限定 さ れる ときには〕 意図 さ れ て い るか らで あ り, また , (
ii
)生 起は , 他の もの か ら〔で〕も , 〔後 に 〕 否 定され る で あろ うか らで ある 。 何であれ, ある合理 性 (upapatti )に よっ て,そ れ 自身か らの生 起があ り え ない (na sa 甲bhavati
)とい う とき,その 合理性は,「とい うの も (
dhi
),(i
)あ る もの が, そ れ 自身か ら(tasmaddhi
) 生 じ る こ とに , い か な る功徳 も無い.。ま た (ca ), (
ii
)生 じ た.ものが, ほ か な らぬ再度 (punar eva ), 生 じ る こと〔だけ〕は, 決 し て (naiva ), 理に合わない 。」
等に よっ て,
r
入中論』等を通 じ て, 確定 さ れ るべ きで ある。
bhava
は「
性質 」 と訳 す こ とに する。bhava
の 複 数 形を,Stcherbatsky
は一
204
一(
90
) チ ャ ン ドラキ ール テ ィ の 論理学 (松本) ‘‘things
” と訳 し (ノV
冨7z雇 〜2σ,P
.93
)
, 山口益 博士 は「
諸
法」
と訳 し(
「中論 釈
』P
,18
), 江 島 氏は「
諸存
在 」 と し(
『展 開 』P
.123
), 奥 住 氏は 「諸
の存
在 する もの」
ま たは 「諸 存在 」 と し (「ヴ ァ ーキ ャP
.53
), 丹 治 氏は 「諸の 存 在 する もの 」と 訳 されて い る(「
論
理観 」
P
.57
)
。 山口益博
士 の訳
は, 「中 論 』(
大 正No
.1564
,Vol
.30
)の 羅 什 の 訳 と一致 し て い る (大正VoL
30
,P
.20
)。 羅 什がbhavah
を 専 ら 「諸 法 」 と訳 し た こ とに つ い て は , 袴 谷 憲 昭 氏か ら御 教示 を 頂 い た。 「諸 法 」 とい う羅 什の 訳は ,bhava
をdharma
と同義
と見
な し た た め に生 じた もの で あ ろ う。筆
者 もまたbhava
とdharma
を 同義
(?) と考 え, その 二つ の語
に 対し て 同 じ 「性質 」
とい う訳 語を与
え た い と思 う。bhava
とdharma
が 別 の 言 葉で あ る 以上 , そ の 二 つ が 同 じ意 味を もつ 筈 が ない 。 こ れ は常識 に よっ て 理解 さ れ る こ とであ
る。 しか もなお , 両 者に 同 じ訳 語 を 与 え よ うとす
る の は,bhava
をdharma
と同じ レ ヴ ェ ル の もの と考 える必 要が ある と思われる か らで ある。 そ れ は , 次の 様な意 味である。 つ ま り, 筆者は, 常に, イ ソ ドの 哲 学 的 文 献を読む際に は , 著 者に よ っ て 何が
locus
(基 体 )で , 何が super −locus
(属 性 )で ある と考
え られて い る か 区別 し て テ キ ス トを読 むこ とが何
よ りも重要
な こ と と考
えているが ,
bhava
もdharma
も, 個 物 (dravya
) とい うlocus
に 対し て は , ともに super −
locus
とい うレ ヴ ェ ル に ある言葉
だ と思 わ れ る。 例 え ば, nilaと か ■ ■ ■ anitya とい え ば
「
青い もの」
「
無
常な もの」
を意
味 するの で あろ うが, nilatva の ■ とか anityata と かは ,「
青い もの で ある こ と」
「無常な もの で ある こ と」 とい う属
性 を表
す 抽 象 名詞 と な る。 こ の「
もの」
と「
こ と」
を 区 別 するこ とが , サ ン ス ク リ ッ トを読
む場合
に , 最 も重 要な こ とであ
る。dharma
は ,「
保
た れ るもの」
とい う意 味で, 仏 教で は 本 来, 基 体に対 す る属性 (super −locus
), 抽象 名詞 の 位 置にあ つ た の である が ,それが ア ビ ダル マ に お い て ‘‘
svalak §apa −
dharapad
dharmah
”と言 わ れる と きに は,
locus
の 位 置に転落
して し ま う。dharlna
がlocus
に な っ て し ま えば, そ れは す ぐに イ ン ド人 の10cative
absolute 的 な発 想locus
は原 因 と なる とい う考 え一 に よ り,「
原 因 」の意
味を も担 っ て くる。 とす れば, 個物
を成 立せ し め る原 因 と し て ,dharma
に element「
要 囚」
とい う訳語に もふ さわ しい 意味
が も た さ れ る こ とに なろ う。 こ こ に , 仏 教の 最 も基 本 的 概念に関 す る実 在 論 的 解 釈の 混入 が 見 ら れ る。 仏 教は 本 来, 実 在 論 の 徹底的 打破 とい う形で出 発 し たの で ある。 つ ま り,「個 物は 絶 対に 有る」と説 く実 在 論 に対 して 「個 物は, 絶 対に 無い」 とする, 言っ て み れ ば,
絶
対 虚無
主義 (
Ab
− 一203
一Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Umversrty チ ャ ン ド ラキ ール テ ィの 論理学 (松 本 ) (91 ) solute
Nihilism
)
とい うよ うな哲 学的
立 場を創
始 した の で ある 。 個物 の存
在 を破 壊 する た め に , 仏 教が用い た 理 論は,「
無 常 」とか 「縁
起 」 とか 「諸 法 」 とか い う概
念に よっ て ま とめ られる。 これ らはすべ て, 個 場の存
在を否 定 する た め に, 現実
の 生を, あるい は,時 間的流
れ に お い て, ある い は , 〔時
間的 〕関 係
に お い て ,あ
るい は,諸
の属
性 〔の関 係
〕 に お い て , 眺め よ うとす る もの で ある。 つ ま り, 仏 教は, 現 実の生を, 五蘊 とい う諸の属
性の縁 起的
関 係 とし て把えた ときにすで に, 個 物 (基体)
が有る とい う実
在 論か らは, 遠 く離れ てい た こ とに な る。 た だ, 五 蘊,十
二 処, 十八界 等の 諸 法が実 在 と見な され, 基体
と考
え られる様
に な る と, こ こに 仏 教の 実 在 論化 , つ ま り仏 教の 非 仏 教 化 とい うこ とが 生 じて くる。 こ れ に 対 し て大 乗 仏 教は , 明確に 批判酌 立 場 を 示 し て い る。 大 乗 仏 教 が 敵 対した の は ,直接的
に は 個物
が有
る と説 く実在
論者
で は な く, 諸 法が有る と説 く実 在 論 老で あ っ た。 無 論 ,後
者は , 諸 法を, 基 体の 位置
に , つ ま り, 個 物の レ ヴ ェ ル に まで 転 落 させ て い た の で ある が。従
っ て ,大 乗 仏 教が説い た の は,諸の 法の 無 自性, 諸 法 の 不生で あっ て, 個物
の 無自
性や 不生で は なか っ た。bhava
とい う概
念 が, 仏 教 史の どの 時 点で,dharma
とい う概 念 と交 錯 し て くる か とい うこ とは , 現 在の 筆 者に は 皆 目わ か らない 。 た だ 「dharma
が生 じない 」 とい うの は,筆
者の 理解か らす れば,「こ とが 生 じ ない
」
とい う奇 妙 な表 現となる。 こ の奇 妙
さを 中 和 する た め に ,bhava
に , 「変 化 」 とか 「性 質 」 とか 多義 ある こ とを利 用 し て , 「bhava
の 不生 」 とい う表 現が とられ たの か もしれない 。 あるい は,「
変 化」(
becoming
) と, 「無 常」
とい う概
念の 相似
性が,bhava
の 語の 採 用 の 一理 由 とな っ た の か。 また イ ン ドの 実 在 論 哲 学で は , sarvabhavah とい うこ とを言 うの か ど うか 7) 。 こ れ らは ,今後
の 課 題で あるが, 識 者の 御教 示 を 頂 き たい とこ ろ で あ る。 以 上 ,極
め て 主観
的な, か つ余
り文献
に基
か ない意見
を述
べ て し まっ たが,bhava
がdharma
同 様に 決し て 「個 物 」を意 味 しな い とい うの が , 筆 者の 基 本的
理 解で あ る とい うこ と だ けは, 「性 質 」 とい う訳語 に よっ て 強調 して おきたい 。 「三 つ の 主 張 」 とは, 言 うまで もな く, 諸 法の 不他 生, 不 共 生, 不 無 因 生を い うが, こ こ で , 不自
生 と ともに,,MK
,1
−1
に 示 され る 四つ の 命 題の 一 々 が 主張 (pratijfia
)と呼ば れ てい る こ とに注 意
した い 。 とい うの も, こ れ は ,Candrakirti
7
)Ahutobhaya
− (D
. ed .) }こ, 「bhavah
とは,dharmah
で あ り,bhava
とい う語に よっ て, 『これは, 一切の 外 道 と共 通 で ある 』 と解釈 される 。」 (
Tsa
,33a5
)と あ る。 この 註 釈文は,bhava
=dharma
とい う同 一視 (?)を支 持 する とともに,イ ン ド哲 学一 般 でbhava
(orbhavah
) の もっ 意味に つ い て 考え させ られる。 た だ し意味は 不明。 −202
一 N工 工一Eleotronlo Llbrary(
92
) チ ャ ン ドラ キ ール テ ィの論 理 学 (松本 ) 自身の 「我々 に は , 自己の 主張 (svapratijfia )は無
い か ら」 (本 稿 〔13
〕) とい う 言 明や, また彼に よっ て引
用 され るVigrahavya
’ vartani の「
しか し私に , 主 張 (pratijfia
)は無い 」 (本 稿 〔5
〕) とい う説 と対
比 的である様に 見え る か らで あ る。MK
,1
−1
の解
釈上 , 誰が最 初に 四 不生の 一 々 を ‘‘pratij
負a
” と呼ん だ の か,註 釈
者 達の 言 うとこ ろを見て み よ う。 まず 「中論 』 の 少 くとも,MK
,1
−1
の 註 釈文に お い て(
大正30
,2b
)
は , ‘ ‘pratijia
” に対応
す る訳語 も, 四 不生を “pratijfia
” と見る解
釈 も見 られ ない 。 こ の 点は, ・4
肋 ’o厩 αック(
D
.ed ,No
.3829
) とBudd
−hapa
”lita
註 (BP
,D
・ed ・No
・3842
)に おし・て も 同様である (Akutobhaya
− ,
Tsa
,33a
4
−7
;BP
,Tsa
,161b2
−163al
=Saito
,Part
2
,p
.10
,1
.8
−p
.11
,1
.7
)。 四不 生の 一 々 を ‘‘pratijfi2
” と呼ん だ の は, まず
Bhavaviveka
が最
初で あろ う。彼
は ,P
/o勿
砂 784 ψθ (PP
,D
. ed .No
.3853
) に お い て , 次の様
に言 っ て い る。 (1
) これ 〔= MK, 1−1〕は,主 張の 総 体 (
pratij
飴 sam 訌nya )を提示 し た の で ある。 ……主張の み (pratijfiamatra )に よっ て 意図され た (
bsams
pa
, vivak $ita
)言葉の意 味は, 証明 さ れ ない の で , こ こで 〔= 自不 生の主張に お いて は〕主張の 性 質 (pak
$a・
dharma
)は , 存 在 性 (yod pa fiid, vidyamanatva or sattva )カ〜把 られ る。 (PP
,