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死の害の形而上学

鈴木生郎(Ikuro Suzuki)

慶應義塾大学

私たちは、おそらく未来のどこかの時点で死を迎える。そして、死後にも私たちが 魂や死体として存在しつづけると考えない限り、死が私たちの存在の終焉であると考 えるのは自然である。すなわち、次のテーゼは一定のもっともらしさをもつ。

終焉テーゼ:人は死ぬと、存在しなくなる。

他方、私たちの死が自分自身にとって害悪であると考えることも自然である。なぜ なら、私たちが死を怖れ、死を避けようとすることのうちに、死が私たち死すべきも のにとって害悪であることが前提されているからである。もし死が害悪でないならば、

こうした私たちの態度はまるで根拠のないことになってしまうだろう。

しかし、もし死が害悪であるならば、私たちはその死の害をいつ..

被るのだろうか。

私たちが死の害を生前に

...

被るとする回答は、いかにも奇妙に響く。なぜなら、生前に はまだ死は生じていないからである。他方、死後に...

害を被るとすることにも困難があ る。なぜなら、終焉テーゼによれば、死後に害を被ることができるようなものなど何 もないように思われるからである。したがって、死が害悪であることを認めることに は、哲学的な困難が伴うことになる。

この問題に対し、私は本発表でまず次の点を明らかにしたい。すなわち、死の害に 関するもっとも説得力のある説明——剥奪説(deprivation theory——によれば、私 たちが死の害を死後に...

被ると考える根拠は十分にある、という点である。すると、次 のテーゼもまたもっともらしいことになる。

死後の害のテーゼ:人は死の害を死後に被る。

しかし、そうであるとすれば、終焉テーゼとこの死後の害のテーゼをどうにかして 調停する必要がある。これに対し、私は次の二点を示したい。第一に、通時的同一性 についての特定の理論である三次元主義(Three Dimensionalism)と、時間について の理論である永久主義(Eternalism)の組み合わせを採用するならば、私たちは、終 焉テーゼと死後の害のテーゼを調停することができる。第二に、これまで提示されて きた形而上学的枠組み、とりわけ H. Silverstein が擁護した四次元主義(Four

Dimensionalism)と永久主義の枠組みは、終焉テーゼと死後の害のテーゼを調停でき

ない点で三次元主義+永久主義の枠組みよりも劣っている。

本発表は、こうした議論を通じて、特定の形而上学的枠組みを擁護するのみならず、

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死の害を巡る倫理学的考察と、持続や時間、存在に関する形而上学的考察との密接な 関係を明らかにすることを目的としている。特に、死の害に関する考察が、こうした 形而上学的考察に接続されることでより明晰化されること、そして同時に、こうした 形而上学的考察もまた死の害を適切に扱えるかどうかによって評価されうることを示 すことができれば、本発表は十分に成功したと言えるだろう。

参照

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