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現 象 学 と形 而 上 学

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Bul l .Fac .Educ .Hi r o s akiUni v . 4 7:1‑ 9 ( Mar .1 9 8 2 )

現 象 学 と形 而 上 学

‑ PhEno me nol o g l eundMe t a phys i k‑

矢 島

夫*

Ta da oYa j i ma

序 論

現象学におけ る 「根源的受動性 の肯定」について語 られ ることがある。われわれは, フ ッサ ールが,はた してそれを 「肯定 している」 と言い うるのか, また,いかなる意味でそれは可能であ るのか, と問わ ざるを えないO なぜ な らば,根源的受動性 の肯定はその存在根拠 としての根源的能動性 の肯定に至 っては じめて断 固た る肯定 とな りうるはずであ るがゆえに, この肯定に よって フッサールの現象学は形而上学にな りえたで あろ うし, またな らざるをえなか ったであろ うと考え るか らであ るO形而上学は 「存在者を存在者 として」

対象 とし,それゆえ 「在 るものが在 ること」(存在者の存在)が何を意味す るかを解 明す る学だ と言われ る。

形而上学は, この 「存在 の意味」‑の問いが , 「存在の方向」, 「存在の起源」, 「存在のアル ケ‑」か らのみ 答え られ るべ き もの と考え るであろ う。もしそ うであれば ,現象学 と形而上学 の根本的差異を ,現象学が 「意 味の発生」を問 う「意味の系譜学」 , 「意味の考古学」に踏み とどまるのに対 して,形而上学が 「存在の発生」

を問 う 「存在 の系譜学」 , 「存在の考古学」へ と踏み越え る点に求め ることも可能であ る。形而上学において

‑ ナンス ー 十 ンス ヤ ンス サ ンス

「存在 の意味」へ の問いが 「存在 の方 向」へ の問いに転回せ ざるをえないのは,( 存在 の)「意味の方向」へ サンス サンス

の問い,すなわち 「意味 の発生」へ の問いが結局 「意味 の意味」を問 う意味論ない し 「メタ ・セマソテ ィッ

」,す なわ ち 「意味あ るものを意味あ るもの として」対象 とす る学 の問いで しかあ りえないか らであ る。

現象学が意味構成 ,意味付与を主題 とし , 「意味を付与す る老」としての超越論的 自我 の 自己解釈 として展 開 され るのに対 して,形而上学は存在構成 ,存在付与を主題 とし , 「 存在 を付与す る老」としての神の 自己解 釈 として展開 され る。た しかに, この対照は均衡 を欠いている。一方の 「意味贈与」が 「超越論的 自我」の

ラ イス トウ ン ク

仕 業にす ぎないのに対 し,他方の 「存在贈与」は 「神」の御業であ るか らであ る。 この不均衡の意味を考 察す ることに よって,われわれは,現象学が, どの よ うな仕方で 「根源的受動 性」 と遭遇す るかを明 らかに

したい と思 う。

第一章 存在と贈与

お よそ何 ものかを与える者は,それをすでに, 何 らかの仕方 で持 っていたのでなければな らない。意味を 与え る者は,意味を持 っている者であ り,存在を与え る者は,存在を持 っている者であ る。 しか しなが ら, 意味を持 ってい る者が,かな らず Lも意味を与え る者でな く,存在を持 ってい る者が,かな らず Lも存在 を 与え る者でない, とい うことは可能であろ う。だ とすれば,(意味 のみを与えて)「存在 を与えない」者が, かな らず Lも 「存在 を持 たない」者であ るわけではない。それでは , 「 持つ」ことが 「与 える」ことを必然的 に合意す るのはいかな る場合であろ うか。

「 持つ」 ことの二つの仕方を考え ることがで きるO第‑は , 「自己 自身 のために」持 っているのではないと きであ り,第二は , 「それ 自身 のために」のみ持 っているときである。前者においては,何かを持つ者は,そ れを何 らかの仕方で, 自己以外 の者へ与え るべ きもの として, 自己以外の者か ら与え られたのであ る。すな わち ,占有すべ きでない もの,伝達すべ きもの として,委託 されたのであ る。 しか しなが ら , 「他者に よって 与 え られた」 ことが 「自己 自身 のために持つ」 ことを,ただちに不可能にす るわけではない。す なわ ち,起 源におけ る 「他者に よって」がつねに 「他者 のために」( 対他)を不可避 とし , 「自己のために」( 対 日)の不 可能を帰結す るわけではない。他者か ら与 え られた とい う痕跡 を跡かたな く拭 い去 り,無垢 の 「自己 自身の

*弘前大学教育学部社会科学科教室

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ために」を享受す る者を考え得ないわけではない。それゆえ, これが不可能 とな るのほ,何かが‑ 何であ れ,誰か らにせ よ‑ , 「 与 え るべ きもの」として与 え られた場合のみであ る。その とき,この 「他者のため に」の刻印が消 し難い ものとしてその与え られた ものに しるされ , 「持つ」 ことが 「与 える」ことを必然的に す るであろ う。 これに対 して,後者においては , 「持つ」ことが 「与え る」 ことを不可能 にす るよ うに思われ る

しか しなが ら , 「自己 自身のために」のみ持つ存在においても 「与え. る」 ことが必然的になる場合を考え 得ないわけではない。それは もはや,或 るものが起源において 「他者に よって」 , 「他者のために」与 え られ たか らではない。「自己 自身のために」のみ持 っている者に とっては ,その よ うな起源におけ る対他性の痕跡 は まった く消え去 ってい るはず であ る。 この 「他者 のために」は,起源におけ る対他性の痕跡 の無か ら,純 粋 な 「自己 自身 のために」の光に よって,は じめて生 まれでたのでなければな らないO「与える」ことの必然 性は , 「 誰か ら与え られたか」 , 「与え るべ きものとして与え られたか」,そ もそ も 「与え られた ものか」否か, 等 々の,あ らゆ る因縁の鎖が断ち切 られた ところか ら,絶対的開始 として生 まれたのでなければな らないO そ して この ことは,結局,その与 えるべ きものが,そ こでは じめて生 まれ,け っして他者か ら与え られた も のではない ことを意味す る。

それゆえ , 「持つ」ことが 「与 え る」 ことを必然た らしめ るのは,( 1 ) 他に 「与 えるべ きもの」 として 「与え られ て」持 っているか,( 2 ) 他に 「与 え るべ きもの」 として 「生みだ して」持 っているか,いずれかの場合で あ る。 ところで,われわれは,( イ) 或 るものを他に与え るべ き もの として与え られ て持 っているに もかかわ ら ず,その 「持つ」 ことに よって 「与える」 ことを必然た らしめ られない存在 を考え ることがで きる。 また, ( ロ ) 或 るものを 自ら生みだ して持 っていなが ら , 「与えない」ことが必然であ るような存在 を考えることもで き る。前者は,いわば 「交換の法則」を濫用す る 「悪人」であ る。後者は , 「悪神」とで も呼ぼ るべ きものであ るOそれは , 「 対他」の影を ( か りにその よ うな ものが在 った として)「対 日」の光に よって解消 し, まった く初めて何 ものかを生みだす。 しか し,他に与えるべ き何 ものを も生みだ さず, 自己が 占有すべ きもののみ を生みだす。お よそ何 ものも持たないものは存在 しないoそれゆえ, この存在は,存在す るか ぎ り何 ものか を持 っている。それは, 自らが無か ら生みだ した ものであ る。それを他に与 え るか否かは, まった くこの存 在の 自由であ るかに見え るが, この存在は他に与 え るべ きものを何も生みだ さず,他に与えるべ きでない も ののみを生みだ したOそれゆえ,それを 「与 えない」 ことが この存在に とって必然なのであ る。

「持つ」 ことが 「与え る」 ことを必然た らしめ,それゆえ,あの悪人や悪神の 「存在」を不可能にす るの は , 「生みだす」とい う概念がその厳密な意味で,す なわ ち 「無か らの創造」 として , 「存在の贈与」として理 解 され るか ぎ りにおいてであ る。根源的な 「創造」は 「無か らの創造」である。「 有か らの創造」とい うもの

ラ イ ス トウ ンモ デ イ フイ カチ オ y 7一ロ rウ ク ナ 寸 ン

は一つの形容矛盾であ り,む しろ「 製 作」ない し「変 形」と呼ぼ るべ きであろ う。創造が「生 産」と呼ばれ マテリ

ることがあ るとして も,それは 「材料」( 質料)の加工 としての 「生産」 とは徹底的に区別 されなければな ら ない。「創造」に よって生みだ され るものは ,何 よ りも 「存在」であ る。それゆえ,創造の御業に よって存在 す るに至 った ものに とって,創造 とは 「存在 の贈与」である。 この とき,その存在 を贈与 され る当の者が前 もってあ らか じめ存在 していなか った とい うことも, この贈与の事実を不可能にす るのではな く,む しろそ れを確証す る。 創造 とは,存在を贈与 され る当の者の存在の創造 として,存在の贈与である。 また, この よ

うな創造者は存在す るか とい う問いには,存在 を与 える者は存在 を持 ち,存在を持つ ものは存在す る, と答 え ることがで きるであろ う。むろん, これは , 「存在の贈与者が存在す るな らば,創造者は存在す る」とい う こと以上を意味 しない。 いずれにせ よ,われわれは , 「創造」 の概念の導入に よって , 「存在」 と 「所有」 と

「贈与」の問の連関を確保 しえた。

すなわ ち,第一に もし創造者が存在す るな らば,その存在者 自身の存在は決 して他か ら与え られた もので

あ りえず,その意味で 「存在 自体」である。そ して ,創造者であるか ぎ りでの この存在 自体の存在は , 「存在

を与える」 ことにおいてのみ成立す る。存在 を与えない創造者は背理であ り,必然的に非存在である。それ

ゆえ,何 も与えない創造者 ( 悪神)は不可能である。第二に, もし創造者が存在す るな らば,被造者が存在

しなければな らず ,その存在は創造者か ら与え られた ものでなければな らない。 この存在に とって ,「自己 自

身のために」のみ持つ こと, 自らの持つ ものを決 して他者に与えない ことは不可能であ る。 なぜな らば,創

造者に とって存在 の贈与は,それが存在す ることと同義であ り,いわば創造者 自身に存在を贈与す ることだ

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か らであ る。被造者の存在は,創造者‑ と贈 り返 され ることな しには存在 しえない。

それゆえ,われわれは , 「〈持つ〉 ことが 〈与え る〉 ことを必然 とす るのほ どの よ うな ときか」とい う問い に対 して , 「創造者が存在す るときであ り, またその ときのみである」と答え ることがで きる。 しか しなが ら, 次の よ うな反論が考え られ る。すなわ ち,第一に ,以上の考察は ,創造者の存在に よって , 「持つ」ことが 「与 え る」 ことを必然た らしめ るにせ よ,それは 「存在」についてのみであ って , 「意味」については何 も語 って いないのではないか, とい う疑問であ る。第二の異論は,創造者の存在に よって 「持つ」 ことが 「与える」

ことを必然た らしめ るにせ よ,果 して,創造者が存在す るとき 「のみ」だ とまで言え るか, とい う疑問であ る。す なわち , 「 持つ」ことが 「与え る」 ことを必然 とす るな らば,創造者が存在す る, と言え るか ど うかが まだ答え られ ていない よ うに思われ る。

第一の問題に対 しては,( 1) 創造は無か らの創造であ り,それゆえ 「すべての」創造であ るのだか ら , 「意味」

もまた, この創造者に よって, この創造者のために与 え られた ものであ るはずであ る,あ るいは,結局は同 じことにな るが,( ロ ) 何 ものかを 「持つ」者は 「存在す る」者であ り, この存在は創造者に よって, 創造者の ために与え られた ものであ るはずであ る, と答え得る。(ところで , 「何 ものかを持つ者は存在す る者であ る」, ない しは 「存在す る老のみが何 ものかを持つ」 と言え るのは, この 「何 ものか」が 「存在す る何 ものか」で あ り, この 「存在す る何 ものか」を持つ ものは 「存在を持つ」 , 「存在す る」 と言えるか ぎ りにおいてであ る。

すなわち,いかな る意味で も 「存在 しない何 ものか」を持 っているとい うことは,何 もの も 「持 っていない」

ことを意味す る。 )

第二の問題に対 しては,創造者の存在が,所有 と贈与の必然的連関を保証 し,その道で もあることが 「創 造」の定義であ る, とだけ言ってお こう。それゆえ,創造者な しでは , 「 持 つ」ことが 「与え る」 ことを 「事 実上」必然た らしめることはあ りえて も , 「 権利上」必然た らしめ ることはないであろ う。 したが って この事 実上の必然性のみか ら創造者の存在を帰結す ることはで きず, また 「この世界の創造」について も語 り得な いであろ う。

第二章 根源 と創造

さて,存在を贈与す る形而上学的創造者 ( 柿) と,意味を贈与す る現象学的構成者 ( 超越論的 自我) との 関係は,すべてを与える者,すなわち 「 存在を与え るがゆえに意味 を も与 える」者 と , 「意味を与えるのみで 存在を与 えない」者 との関係であ る。それゆえ,後者は,その語の根源的な意味では決 して 「創造者」では あ りえない。せめて , 「意味 の」創造者であ りうるのではないか。否であ る。なぜな ら,創造者は 「無か ら」

それゆえ 「すべてを」創造す る者でなければな らないか らであ る。「意味」のみを創造 し , 「存在」を創造 し ない者は創造者の名に侶せず,存在の秩序においては 「被造老」であ る。 この者に とって 「存在」は贈与 さ れた ものであ り,それゆえ この被造者は 「存在 の根源的受動性」に遭遇せ ざるをえない。「意味」の創造者た る超越論的 自我が遭遇す る 「意味」の根源的受動性は, この 「存在」の根源的受動性の‑様態で しかあ りえ ないであろ う。すなわち ,「存在」の根源的受動性が 「意味」の根源的受動性を必然的に含意 し, またその道 で もある。

ところで,なにゆえ創造は 「すべ ての」それゆえ 「無か らの」創造でなければな らないのか。「一部分の」

(無か らの)創造は,なにゆえ可能でないのか。 この よ うな創造は, 自己 自身以外に よって創造 された,な

い しは何故か知 らぬがあ らか じめ与 え られた存在を肯定 し, これに 自己の創造分を付加す る。 この付加分が

この創造以前に存在 しなか ったか ぎ りで, この付加分に関 して,それは 「無か らの」創造であ る。 しか しな

が ら,古い存在 の根源的受動性 と新 しい存在 の根源的能動性 の関係が, ここで決定的に問題 とな らざるをえ

ない。すなわち,新 しい存在の根源的能動性に よって古い存在の根源的受動性が徹底的に壊滅ない し克服 さ

れないか ぎ り, したが って,新 しい創造が存在の一部分の創造に とどまるか ぎ り, この創造は,新 しい部分

存在 と古 い部分存在 とか らな る全体存在 の創造で も,それ ら部分存在問の関係その ものの創造で もあ りえな

いだろ う。 この創造は,新 しい存在を,部分ない し付加分 としてさえ創造 したのではない。新 しい存在 と古

い存在をあえて関係づけなければな らない必然性はない, と言 うことはで きる。 しか しなが ら,その とき,

この創造に とって,それ以前の創造 とその被造者は まった く無関係であ り,無 きに等 しい。すなわち,存在

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しないのである。そのか ぎ りで この創造は , 「 すべての」 , 「無か らの」創造にはかな らない。

したが って , 「 意味」と 「存在」をそれぞれ この 「すべて」の一部分 と考え,それぞれについて別箇の創造 の可能性を考えることは背理であることになろ う。その とき , 「 意味」と 「存在」はそ もそ もどの ような関係 にあるか ,とい うことも何 ら問題 とな りえないであろ う。創造は , 「 すべての」 , 「 無か らの」創造で しかあ り えないがゆえに,意味を与えるが存在を与えない者は,いかなる意味で も創造者ではあ りえない。創造につ いては , 「すべてか ,しか らずんは無か」の原理 しか妥当 しえないのである。それゆえ, この存在に とってほ, 自己 自身の存在を も含めあ らゆ る存在は,存在の創造者 (もしそれが存在す るとすれば)に よって 「与え ら れた」 ものである。唯一つのものを与え られた者は,すでにすべてを与え られた者である。被造者に とって は,すべてが 「与え られた」 ものであ り,かつ , 「すべてが」与え られた ものであ る。すなわち, この存在に とっては , 「与え られない」ものは 「 存在 しない」のであ る。 これが , 「 創造 ( 者)が存在す る」 とい うことの 意味である。すなわち,根源的ない し絶対的 「能動性」なるものは唯一の創造者にのみ帰せ られ うるのであ って,それ以外のあ らゆ る存在には根源的 「受動性」の刻印が押 され る。 このかぎ りにおいては , 「 意味」の 根源的受動性 も 「存在」の根源的受動性 と何 ら異なるところはない。つ ま り,創造者が存在 しなければ 「根 源的」受動性について語 ることはできないのであ り , 「根源的」受動性について語 ることが意味を持 ち うるの は,創造者が存在す るときのみである。

すなわち,創造な しに も能動や受動は, したが って運動 も存在 しうるか も知れないが , 「 創造」なしに 「根 源」はな く , 「根源」があれば 「創造」があ り, またその道で もあるとわれわれは考えるのである。「 根源」

( Ur s pr ung)は , 「原 ‑跳躍」 , 「原‑湧出」 , 「原‑裂開」である。 「根源」ない し 「源泉」 とは , 「すべて」

のものの始 ま りであ り,それ以前には 「何 ものも」無 く,それ以後に 「すべて」が在 る。唯一の源泉のみが, それゆえすべてのものの源泉があ るのみである。 さもなければ,無限の源泉があ り,すべてが源泉であるこ とにな らざるをえない。すなわち,源泉は何処に もないことになろ う。

形而上学が 「すべてか無か」を原理 とす るとすれば,現象学の原理は 「あれか これか」であると言い うる。

「あれか これか」の原理は , 「すべてか無か」の原理に照 らして 「すべてかつ唯一」が選ばれて初めて,その

「すべて」の限界内においてのみ発動 しうるであろ う。現象学は非形而上学た らん とし,同時に , 「 学」た ら ん とす る。 「学」 の理念 と 「第一哲学」の理念 と 「形而上学」の理念 とは一つの同 じものであ る。 すなわち

「自己 自身の正当性の自己 自身に よる確証」の理念がそれである。そのか ぎ りで現象学は何か 「非形而上学 的形而上学」ない しは「 形而上学的非形而上学」とで も呼ぼ るべ き不可解な ものとなる。 しか しなが ら 「第一 哲学」の見果てぬ夢を追いなが らも,現象学が現象学であ り続け よ うとす るか ぎ り,それは何か 「非形而上 学的非形而上学」ない し「現象学的現象学」と呼は るべ きもの‑ と徹底 しなければな らないであろ う。現象学 は,すべてがそ こか ら開始す る 「根源」‑の遡行であ ると言われ る。 しか しなが ら,現象学においては,そ のつ ど兄い出され る 「開始」 , 「源泉」 , 「原点」はいずれ も 「さしあた り」のそれで しかな く,決 して永遠に

「第一の もの」 , 「絶対的な もの」ではあ りえないであろ う。なぜな ら,創造者以外に,いかなる 「根源」 も 存在 しえないか らである。 自己 自身を含め他のいかなるものも根源であ りえぬ ことを知 ることは, 自己 自身 を含め他のいかなるものも創造者であ りえぬ ことを知 ることである。 これは,すべてがあ らか じめ与え られ ていることを意味す る。 したが って , 「根源的受動性」の肯定 とは,すべてを与える創造者の肯定‑ と果敢に 逆転せ よとせ まる誘惑にはかな らない。このいわば 「回心」 とも呼は るべ き転換をあえて遂行せず ,「形而上 学的形而上学」ない し 「形而上学の形而上学」( 創造の形而上学 ,存在の形而上学 ,根源的能動性,創造神の 形而上学,真正の実在論)の必然性を眼前に しつつ , 「現象学的現象学」ない し 「現象学の現象学」( 非創造 の現象学,意味の現象学,根源的受動性,超越論的 自我の現象学,真正の観念論)に踏み とどま り続け るこ とに,いかなる意味があ るのだろ うか。

まず,根源的受動性の肯定か ら根源的能動性‑のこの反転を完全に遂行す るためには,その受動性が真に

「根源的」受動性であるか否かを,それゆえ, どこが 「根源」であるかをすでに知 っていなければな らないC しか しなが ら , 「 根源」‑の遡行を どこで終えるべ きかをあ らか じめ知 っているな ら,そのとき,この 「 反転」

は無意味 となろ う。なぜな らば,創造に関 しては,根源的能動性 と根源的受動性の 「根源」は同一のもので

あるか らであ るOか りに, この 「根源」を知 らずに ,「現象学的現象学」か ら 「形而上学的形而上学」‑の反

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転を断行す るな らば, この現象学がその根源への遡行の道程において,いまだ真の根源ではないとして踏み 越えて来た諸地点,すなわち,「現象学的形而上学」( 非創造の形而上学,意味の形而上学,受動的能動性, 制作神の形而上学 ,観念論的実在論)や 「 形而上学的現象学」( 創造の現象学 ,存在 の現象学 ,能動的受動性, 絶対精神の現象学,実在論的観念論)‑の反転を成就 しているにす ぎないに もかかわ らず,極限か ら極限‑

の反転であると思いこむおそれがある。「 根源的受動性の肯定」が至難の業であるのは ,それが,単にわれわ れがのがれ難 く受動性の刻印を帯びている 「こと」( 意味)の肯定であ るだけでな く,それが 「根源」である

こと, さらに根源であ る 「もの」( 存在)の肯定を意味す るか らであ る。

すでに述べ られた ように, 「あれか これか」 ( 現象学)の原理は 「すべてか無か」の原理の もとで,「 すべ て」( 根源)が選ばれて初めて 「すべて」( 創造)の限界内において意味を持つ, とい うことが依然真である に しても,現象学は 「すべて」( 根源)が選ばれたか否かを,ただ 「あれか これか」( 分析)の原理に よって 知 りうるのみである。あ らか じめ 「すべてか無か」の原理を発動 し, しか るのち 「あれか これか」の原理を 機能 させ る現象学が形而上学的現象学であ るように,あ らか じめ 「あれか これか」の原理を発動 させ, しか るのち 「すべてか無か」の原理を機能 させ る形而上学は現象学的形而上学であ る。前者は,似而非受動性に, 後者は似而非能動性に しか出会 えないであろ う。前者の分析は綜合に,後者の綜合は分析に汚染されている。

これに対 して,純粋現象学はひたす ら 「あれか これか」の原理を,すなわち徹底的な ( 根源にまで達す る) 分析を選びとるであろ う。 この原理の主体は,決 して, この原理を選び とるあれ これの 「人間‑現象学者」

ではあ りえない。「人間‑現象学者」は時 としてそのつ どの綜合に 「安息」を求め ることだろ う。 自己の選び とった原理の意味を見失 うことな く,その貫徹を自己の 「使命 ‑責任」 と感 じ続け るか ぎ り,「 人間‑現象学 者」 もまた安息を断念 し, この原理の主体 ( 化身)の支配に 自己を委ね,果 しない分析の苦界に踏み とどま るであろ うO この原理の主体 (ないしは この原理の支配に徹底的に服す る老) こそ ,「 超越論的 自我」と呼ば れているものである。

第三章 現象学と哲学の理念

われわれは,「創造」 と 「根源」の等価性に依拠す ることに よって,「形而上学」 と「現象学」のいわば 「 権 利上の」関係を,それゆえ図式的に提示 して来た。「 事実上の」関係において見るな らば,「現象学的形而上 学」ない し 「形而上学的現象学」の,おそ らく無限に多様な様態が可能であろ う。 しか しなが ら,われわれ の考察に とっては,「 純粋」形而上学 と 「純粋」現象学 の 「理念」のみが問題であ る。われわれは,意味構成 におけ る根源的受動性を 「 形而上学的事実」 として承認す ることが,現象学の 「純粋性」を必然的に蚕食 し, それゆえ 「不純な」現象学た らしめ るわけではないことを明らかに したか ったのである。そ うではな く,現 象学の純粋性を脅かす最大の危険は,「 派生的」受動性を 「 根源的」受動性 と取 り違 えるところにある。その とき,「 経験的」限界が 「形而上学的」限界 と混同され,「 経験的」 自我 と 「超越論的」 自我の区別が不可能 となるであろ う。現象学は,それが 自己 自身の根源ないし限界に,それゆえ真に根源的な受動的意味構成に 到達 しているか否かを,現象学の貫徹に よってのみ知 りうるものとして 自己規定す るとき,純粋なのである。

現象学はその純粋性をそ こな うことな しには ,自らが単なる創造の 「 痕跡」( 差異 ‑延期 ,エ クリチ ュール‑

聖書)にではな く, まさに創造の根源におけ る 「存在の誕生」,「 生 まの存在」に遭遇 しているのだ とい う絶

対的確信を持つ ことはで きないであろ う。 しか しなが ら,根源 ( 創造)は永遠に与え られない, とい うこと

が真だ としても,根源 ( 創造)が存在 しない, とい うことが必然的に真であ るわけではない。「根源‑の」な

いしは 「根源か らの」のいわば指示ない し指令が,経験の必然的地平,パースペ クテ ィヴとして与え られて

いることも可能だか らである。すなわち,根源的受動性の肯定 とい うことは,われわれの能動的構成の一定

の限界を絶対化 し,その断絶の彼方をいわば物 自体 として永遠の闇に放置 し,不可避の受動性に耐 えること

で終 ってはな らない。われわれが 「形而上学的事実」 と呼ばれ るものを限界 として 「耐える 」( 蒙む る)こと

ができるのは,壁の彼方が無ではな く,われわれがそれ と関係を結ぶ ことがで きるか らであ り,それゆえわ

れわれの能動性,志向的意味付与が何 らかの仕方で彼方 まで及び うるか らである。われわれの地平ないし水

平線は,われわれ とともに永遠に遠 ざか ることが可能である。それは 「最 も長い」道 とな るであろ う。純粋

現象学 と純粋形而上学 とは真の対極を成 している。 しか しなが ら,その対極は創造 ( 根源)において合致す

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る。それゆえ , 「 最 も短い」道があ る。超越論的 自我は, 自己 自身に対 して最小の距離にあ ると同時に最大の 距離にあ る。

なにゆえ,現象学 の主体は 「超越論的 自我」でなければな らないのであろ うか。なにゆえ,現象学 の分析 は 「自我」の分析 として開始 され また終 らなければな らないのだろ うか。 この 自我が神 (創造者)であれば, 自己 と自己の距離 は 「無」であ ると同時に 「無限」( すべて)であ ることになろ う。 自己か ら自己‑ と無限の 距離 を歩む こと,あ りとあ る存在を遍歴す ることは, 自己に とどまることにはかな らない。 これに対 して, 現象学は, この 「すべてか無か」ない しは 「すべてかつ無」の原理を放棄す ることか ら開始 され る。われわ れは , 「現象学的還元」を ,現象学 の主体 としての超越論的 自我が創造者ではない ことの決定的宣言 として, 現象学に とって不可欠の ものであ ると考えることがで きる。「人間 ‑現象学者」が 「創造 ‑根源」を知 ってい る,あ るいは知 っていると思 っていることはあ りうる。 しか し,超越論的 自我は 「創造 ‑根源」をあえて知 らない。超越論的還元は,創造 と根源 との永遠の訣別であ り , 「創造 な き根源」‑の遡行 とい う意味での 「超 越論性」の開始であ る。みずか らは創造者ではな く,に もかかわ らず根源‑の探求を敢行す る超越論的 自我 に とって も, 自己に最 も近い ものは 「さしあた り」 自己 自身であ る。現象学は このさしあた り自明な事実か ら出発す る。 ところで,創造者でない超越論的 自我に とって, 自己 自身に最 も近い 自己‑の距離は 「無」で はな く,か といって 「すべて」で もない。 この 「無でな く,すべてでない」距離は,それだけ として見れば, 単に 「有限な」距離であ るO しか しなが ら,現象学が 「根源」の探求であ るか ぎ り, この 「有限な」距離が 同時に 「無限な」距離であ るのでなければな らない。根源が ,「すべて」の ものの開始であ るか ぎ り,根源へ の遡行は 「すべ て」を歩みつ くす道でなければな らないか らであ る。「超越論的還元」とは,創造を排去 しつ つ根源を肯定 し , 「すべてかつ無」を排去 しつつ 「有限」か ら 「無限」‑ の転換を可能にす るための操作であ

る。すなわち,有限な経験的 自我か ら無限な超越論的 自我‑の転回であ る。 しか しなが ら, この操作は また, この世界が創造 されなか った可能性を徹民約に排去す ることに もなる。それは , 「すべてが同時に無 とな る」

可能性を排去す ることに よって,創造 され て しまった (ないしは存在す る)かぎ りでの この世界のなかに踏 み とどま りつつ,すでにな されて しまった創造 の無限‑ とせ まる唯一 正当な道を確保す ることになろ う。す なわ ち,根源的受動性 とい うことは,すでには じめか ら,超越論的還元その ものの意味の うちに含 まれてい たのであ る。それゆえ,根源的受動性の発見に よって超越論的還元が不可能になるどころか,それは還元の 徹底的遂行の道程において必然的に兄いだ され るべ きだったのである。

以上の考察は , 「権利上の関係」か らすれば,形而上学が 「創造 と根源」̲の同時 肯定であ り,現象学が 「創 造なき根源」の 首足であ ると考え うることを明 らかに しよ うと努めた。 しか しなが ら, この 「権利の配分」

において,現象学が決定的に 「分が悪い」 ことは明 らかであ る。現象学は,は じめか ら , 「不利な戦場」で,

「勝 目のない戦い」を戦 っているよ うな ものであ る。それゆえ,現象学 の権利根拠は, この 「もの狂い」に 似た選択 の必然性を明 らかにす ることな しには,不可解 な ものに とどまるであろ う

C

この よ うな選択に , 何 の意味があ るのであろ うか。

現象学 の命運は ,「現象学的還元」の可能性いかんにかか ってい る, と言われ る。 また, この還元の 「事実 上」の可能性が蝕 まれ ているばか りでな く , 「権利上」の可能性 も崩壊 しつつあ る, とも言われ る。われわれ としてほ,現象学 の権利は,あ とか ら 「事実」に照 らして動揺す るとい うよ り,む しろ,は じめか ら,「分が 悪い」のだ と考えたい。それゆえ,問題は, この 「分の悪い権利」 しか 自らに与えない ことに 自らの唯一の 正当な権利を求め る現象学 の 「権利」は, いかなる 「事実」に根拠を持つのか, とい うことであ る。

この問いに答え るために,われわれは, 「哲学 とい う事実」を,すなわち, 「事実 としての曹学」,ない し

「事実上の哲学」ではな く 「哲学 の権利」ない し 「権利上の哲学」を再検討 しなければな らない。 もし,哲 学 の理念ない し権利が 「第‑哲学」であ ること,すなわち , 「自らの権利 ( 正当性)をそれ 自身に よって確証 ( 正当化)す る学」であ ることにあ るとすれば, この 「自己確証」の理念は, 同時に , それ以外の 「すべて」

ロゴス

いのち

の ものの正当化の権利の要求を含意す るであろ う。 この含意関係の うちに,哲学 の 「論理」ない し 「生命」

を見 ることがで きる。すなわ ち , 「すべ てが‑であ り,‑がすべてである」とい う論理が脈動 しっづけ るか ぎ りにおいて,哲学は生 きている。みずか らの死を望 まないかぎ り,哲学はその論理 を 「すべて」にお よぼ し,

「すべ て」を 吉葉に もた らさなければな らないであろ う。 さもなければ 「無」であ る。哲学に とってはそ こ

(7)

に何 も無 く,哲学 自身 も存在 しないに等 しい ことになろ う。

「悪 しき哲学」 とい うものを考え ることは可能であ る。それは , 「すべて」の うちの一部分を もって 「すべ て」 とし,他の一部分を もって 「無」 とす るとい う仕方でのみ , 「すべ てか無か」の原理 を発動す る哲学であ る。「二元論」が悪 しき哲学であ るのは,それが,二分 された二つの存在 のいずれか一方 を,た とえ,ひそか に,ない しは,本意に反 してであれ , 「すべて」とし,他方を 「無」 とせ ざるをえないか らであ る。なぜ な ら, 同等の権利を持つ複数 の存在 の承認は , 「自己を含め,すべての ものの権利を, 自己 自身に よって確証す る」

とい う理念に反す ることにな るだろ うか らである。 この哲学の理念は , 「一つの知が , (た とえ潜在的にせ よ) すでにすべての知を合意 してい る」 ことを前提にす ることに よってのみ権利を持つO この前提の もとで,二 つの可能性を考え ることがで きる。 一つは, 潜在性の顕在化に よって 「すべて」‑ と至 る道であ り, 他方 は 「すべて」が頗在化 され てい る地点か ら出発す る道である。それ らは, いずれ も,ある決定的な 「回心」

とも呼ぼ るべ きものに よって,すなわち , 「現象学的回心」と 「形而上学的回心」 とに よっては じめて可能 と な る。前者は,いわば 自覚的な悪の徹底であ り,後者は,いわば 自覚的な善の徹底であ る0両者は,相互に 表裏をな しなが ら,永遠に一体 とな ることはないであろ う。す なわち,現象学 と形而上学は , 「一部をすべて となす」 とい う仕方で しか 「すべてか無か」の原理を生か しえない 「悪 しき」哲学 を回避す るためにそれぞ れの原理を徹底す る道 として,いずれ も 「極道」であ るが,一方が 「極悪」の道であ り,他方が 「至善」の 道であ ることに よって背離す る。現象学が 「極悪」であ るのは ,それが , 「ただ一つの ものがすでに潜在的に はすべての ものを合意 してい る」 ことを前提に し,そ の知か ら出発 しなが ら , 「た とえ潜在的にせ よ,ただ一 つの ものがすでにすべてを含意す るとい うことが可能 なのは,何ゆえか」を,あえて問お うとしないか らで あ る。現象学 の極悪性は, この 「あえて知 らない」 ことに,それゆえ 「知の希求」 とい う哲学の理念‑ の叛 逆性に存す る。

しか しなが ら , 「善良な」現象学 もまた,現象学それ 自身の企 てを無意味かつ不可能に して しま うだろ う。

なぜ な ら,ただ一つの ものがすでに,た とえ潜在的にせ よ,すべ てを合意 してい ることを 「知 っている」な らば,ただ一つの ものが与え られ てい るときにはすでに,た とえ潜在的にせ よ,すべての ものが与え られ て い ることを,それゆえ ,すべての ものを与え る創造者が存在す るとい うことを,た とえ潜在的にせ よ , 「知 っ てい る」 ことにな るか らであ る。 この事実に対す る 「あえ てす る無知」が , 「 愛知」たる哲学 の理念への坂道 であ るがゆえに,現象学は 「悪 しき哲学」であ った。「善良な」現象学 とは ,この よ うな 「不遜 な無知」をあ えて選択 しない現象学であ る。それは , 「ただ一つの ものがすべ てをた とえ潜在的にせ よ合意す る」とい うこ とが , 「創造者」の存在 に よってのみ可能であ ることを , 「すなおに」認め ることだろ う。 しか しなが ら,その とき,この創造者は,頗在的な 「ただ一つかつすべて」であ るがゆえに,潜在的な ものの顕在化 としての 「た だ一つか らすべて‑」の運動を無意味にせ ざるをえないであろ う。

だ とすれば,われわれは , 「至善」の形而上学 を選ぶべ きではないだろ うか。 なにゆえ,現象学に とどまら なければ な らないのだろ うか。形而上学 のみが , 「 一つの ものがすべ てを含む」とい う理念の完全な実現を保 証す るはずなのだか ら。 しか しなが ら , 「われわれに とっての知」が問題であ るか ぎ り, この選択に慎重にな らざるをえないであろ う。なぜ な ら, この よ うな知は ,ただ一つの知が,すべての知を , 「た とえ潜在的にせ よ」合意 してい るとい うだけでな く, まさに 「ただ潜在的にのみ」合意 してい るか ぎ りで しか可能でないか らであ る。か りに,ただ一つの知がすべ ての知 を 「顕在的に」含意 しているとすれば,そ こにあ るのは 「全 知 」 , ない しは創造者た る神に とっての知であ ることになろ う。

それゆえ ,われわれは ,二つの選択をせ まられ ているわけであ る。第一に , 「無知か知か」の,ない しは 「 端

的な無知かあえてす る無知か」の選択であ り,第二に , 「あえてす る無知か全知か」の,ない しは 「われわれ

に とっての知か神に とっての知か」の選択であ る。第一 の選択は,ただ一つの知がすべての知を 「た とえ潜

在的にせ よ」合意 している, とい うことな しには , 「それ 自らを含め ,すべ ての ものの権利を,それ 自らに よ

って確証す る学」 としての哲学 の知ばか りでな く,お よそあ らゆ る 「知」その ものが不可能にな ることを意

味す る。すなわち,あ る意味で,哲学 の理念が背理であ るとい うことは,同時に,お よそわれわれが何 もの

かについて何 ごとかを知 るとい うことがすでに背理であ ることを意味す るであろ う。第二の選択は,すでに

考察 された よ うに,「た とえ潜在的にせ よ」ただ一つの知がすべ ての知を合意 している, とい うことを選ぶ こ

(8)

とが同時 に, そのよ うな含意を可能に している創造者の肯定を必然的に帰結す るが , 「われわれに とっての 知」はあの含意が 「ただ潜在的にす ぎない」 ことを要求 し,それゆえあの必然的帰結の回避を要求 してい る ことを意味す る。

「われわれが知 るよ うに知 る」 ことを欲す るとき,すなわ ち,「何 も知 らない」 と称す る哲学や 「すべてを 知 っている」 と称す る哲学ではな く 「知 りうるか ぎ りを知 る」哲学を欲す るとき,われわれが, この 「あえ てす る無知」を選んでいることは明 らかであ る。それに よって,「すべての ものが‑ 頗在化 され るべ き潜在 性であるか ぎ りで,そ して顕在化 され るか ぎ りで‑ 知 りうるもの として,われわれの もの となる」だろ う。

「超越論的還元」を, この意味での 「あえてす る無知」の敢行 として理解す ることは可能であ る。その還元 に よっては じめて,われわれは ,「 端的な無知 と全知」の中間に,すなわ ち,われわれ人間が本来位置すべ き もの と考え られ ている位置に,真に位置す ることが可能 となるのであ る。人間であ るかぎ りの人間がそれに もかかわ らず 「すべて」を知 ることを可能にす る視点を確保す ること,そ こに こそ 「超越論的 自我」‑ の還 元 の意味を見 ることがで きるであろ う。

結 論

以上の考察は,次の ことを明 らかに した。すなわち,第一章においてわれわれは,現象学におけ る超越論 的 自我に よる意味構成 の根源的受動性 の肯定 とい うことが,何を意味す るかを明 らかにす るために,お よそ 何かが 「あ らか じめ与え られている」 とい うことが如何に して可能であ るかを問 うた。意味を与える著 とし ての超越論的 自我が ,「すべ て」の意味を与えることがで きないのは,なにゆえであろ うか。それは,超越論 的 自我が,意味のみを与える者であ って,存在を与え る老ではない ことの,必然的帰結ではなかろ うかCそ れ とも,超越論的 自我は,すべての意味を, また意味 と存在を含めてすべ ての ものを持 っていなが ら,何 ら かの理 由か ら,それを与えることを差 し控えてい るのであろ うか。持つ ことが与え ることを必然的に合意 し ないか ぎ り,与えない ことが持たない ことを必然的に合意す るわけでないがゆえに,その よ うに考え ること も不可能ではない。 しか しなが ら,その とき,超越論的 自我がすべての意味を与えることがで きるわけでは ない こと,与えない必然性が不可解 となる。意味構成の受動性は偶然的な ものに とどまるであろ う。それゆ え,われわれは ,「持つ ことが与 えることを必然的に合意す るのは

,

いかな るときか」を問い,それは 「創造 者が存在す る」 ときのみであ ることを明 らかに した。すなわち,超越論的 自我に とっては,それが意味の創 造者ではな く, したが って存在 の創造者でないがゆえに,そ して超越論的 自我な らざる存在の創造者が存在 す るか ぎ りで,すべ ての意味を与え得ない ことが,あ らか じめ与え られた意味を受納す ることが必然的にな るのであ る。それゆえ,意味付与の根源的受動性の承認は, 同時に,根源的に能動的な意味付与者の存在を, 暗黙裡にであれ前提 としては じめて,可能 とな るであろ う。

われわれは,第二章で, この根源的受動性 と創造者 との関連を,根源 と創造 とい う二つの概念の等価性を 明 らかにす ることに よって ,捉えなおそ うと努めた。根源‑ の遡行 としての現象学 は,その探求を ,「すべて か無か」(創造)の原理ではな く「あれか これか」の原理 の徹底に よって遂行す る。すなわも,現象学は,創 造を,そ う言 って よければ ,「あえて」知 らない。創造者以外にいかなる根源 もあ りえないがゆえに,現象学 に よって兄いだ され るそのつ どの開始は,決 して絶対的 な ものではあ りえないであろ う。みずか らが絶対的 な根源であ りえね こと,それが絶対的受動性 の刻印をおびてい ることを知 ることに よって,現象学 は絶対的 能動性の形而上学‑ の反転をせ まられなが ら,依然 として,果 しない遡行の道をた ど りつづけ るであろ う。

第三章は, もし創造な しに根源がな く,根源の肯定が同時に創造 の肯定を意味す るとすれば,創造なき根

蘇‑ の遡行 とい う現象学 の企てが背理 とな ることが不可避であ ることを明 らかに し,その背理性 の意味 を考

察 したO この背理性 は,現象学が ,「一部を もってすべてとなす」とい う意味においてではないが,あ る意味

で悪 しき哲学であ ることを意味す る。その ことをわれわれは,哲学 の理念に依存す ることに よって明 らかに

したO「それ 自らを含め ,すべての ものの権利を ,それ 自身に よって確証す る」 とい う哲学 の理念は , 「一つ

の知が,すべ ての知を,た とえ潜在的にせ よ合意 してい る」 ことを前提に してお り, これは また,あ らゆ る

知の原理で もあ る。 ところで, このよ うな前提についての知は ,同時に ,「一つ のものが与 え られてい るとき

にはすでにすべてのものが ,た とえ潜在的にせ よ与え られ ていること 」 , それゆえ ,その 「すべてをあ らか じ

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め与えてい る創造者 の存在」についての知を も意味す るO しか しなが ら,現象学は,その ことを 「あえて知 らない」。そ こにわれわれは,現象学 の極悪性を見 るのであ る。しか しなが ら,この 「あえてす る無知」に よ っては じめて,現象学は,われわれ人間に とっての知 の正当な る位置づけを可能にす る, とい うことを明 ら かに しようと努めたO

われわれが まだ明 らかに していない ことがあ る。す なわ ち,われわれが定義 した ような 「現象学 の理念」

に照 らして見 るとき, フ ッサ ールの現象学は どの よ うに位置づけ られ るであろ うかo フ ッサールの現象学に おいて,いわゆ る 「形而上学的事実」 と呼ばれ ているものは,われわれが定義 した創造 の概念 と, どの よ う な関係にあ るだろ うか。 フ ッサー

に とって,形而上学はいかな る意 味を持 ちえたか,等 々の問題であ る。

われわれは, これを,今後の課題 とす るであろ う。

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