Bul l .Fac .Educ .Hi r o s akiUni v . 4 7:1‑ 9 ( Mar .1 9 8 2 )
現 象 学 と形 而 上 学
‑ PhEno me nol o g l eundMe t a phys i k‑
矢 島
忠夫*
Ta da oYa j i ma
序 論
現象学におけ る 「根源的受動性 の肯定」について語 られ ることがある。われわれは, フ ッサ ールが,はた してそれを 「肯定 している」 と言い うるのか, また,いかなる意味でそれは可能であ るのか, と問わ ざるを えないO なぜ な らば,根源的受動性 の肯定はその存在根拠 としての根源的能動性 の肯定に至 っては じめて断 固た る肯定 とな りうるはずであ るがゆえに, この肯定に よって フッサールの現象学は形而上学にな りえたで あろ うし, またな らざるをえなか ったであろ うと考え るか らであ るO形而上学は 「存在者を存在者 として」
対象 とし,それゆえ 「在 るものが在 ること」(存在者の存在)が何を意味す るかを解 明す る学だ と言われ る。
形而上学は, この 「存在 の意味」‑の問いが , 「存在の方向」, 「存在の起源」, 「存在のアル ケ‑」か らのみ 答え られ るべ き もの と考え るであろ う。もしそ うであれば ,現象学 と形而上学 の根本的差異を ,現象学が 「意 味の発生」を問 う「意味の系譜学」 , 「意味の考古学」に踏み とどまるのに対 して,形而上学が 「存在の発生」
を問 う 「存在 の系譜学」 , 「存在の考古学」へ と踏み越え る点に求め ることも可能であ る。形而上学において
‑ ナンス ー 十 ンス ヤ ンス サ ンス
「存在 の意味」へ の問いが 「存在 の方 向」へ の問いに転回せ ざるをえないのは,( 存在 の)「意味の方向」へ サンス サンス
の問い,すなわち 「意味 の発生」へ の問いが結局 「意味 の意味」を問 う意味論ない し 「メタ ・セマソテ ィッ
ク」,す なわ ち 「意味あ るものを意味あ るもの として」対象 とす る学 の問いで しかあ りえないか らであ る。
現象学が意味構成 ,意味付与を主題 とし , 「意味を付与す る老」としての超越論的 自我 の 自己解釈 として展 開 され るのに対 して,形而上学は存在構成 ,存在付与を主題 とし , 「 存在 を付与す る老」としての神の 自己解 釈 として展開 され る。た しかに, この対照は均衡 を欠いている。一方の 「意味贈与」が 「超越論的 自我」の
ラ イス トウ ン ク
仕 業にす ぎないのに対 し,他方の 「存在贈与」は 「神」の御業であ るか らであ る。 この不均衡の意味を考 察す ることに よって,われわれは,現象学が, どの よ うな仕方で 「根源的受動 性」 と遭遇す るかを明 らかに
したい と思 う。
第一章 存在と贈与
お よそ何 ものかを与える者は,それをすでに, 何 らかの仕方 で持 っていたのでなければな らない。意味を 与え る者は,意味を持 っている者であ り,存在を与え る者は,存在を持 っている者であ る。 しか しなが ら, 意味を持 ってい る者が,かな らず Lも意味を与え る者でな く,存在を持 ってい る者が,かな らず Lも存在 を 与え る者でない, とい うことは可能であろ う。だ とすれば,(意味 のみを与えて)「存在 を与えない」者が, かな らず Lも 「存在 を持 たない」者であ るわけではない。それでは , 「 持つ」ことが 「与 える」ことを必然的 に合意す るのはいかな る場合であろ うか。
「 持つ」 ことの二つの仕方を考え ることがで きるO第‑は , 「自己 自身 のために」持 っているのではないと きであ り,第二は , 「それ 自身 のために」のみ持 っているときである。前者においては,何かを持つ者は,そ れを何 らかの仕方で, 自己以外 の者へ与え るべ きもの として, 自己以外の者か ら与え られたのであ る。すな わち ,占有すべ きでない もの,伝達すべ きもの として,委託 されたのであ る。 しか しなが ら , 「他者に よって 与 え られた」 ことが 「自己 自身 のために持つ」 ことを,ただちに不可能にす るわけではない。す なわ ち,起 源におけ る 「他者に よって」がつねに 「他者 のために」( 対他)を不可避 とし , 「自己のために」( 対 日)の不 可能を帰結す るわけではない。他者か ら与 え られた とい う痕跡 を跡かたな く拭 い去 り,無垢 の 「自己 自身の
*弘前大学教育学部社会科学科教室
ために」を享受す る者を考え得ないわけではない。それゆえ, これが不可能 とな るのほ,何かが‑ 何であ れ,誰か らにせ よ‑ , 「 与 え るべ きもの」として与 え られた場合のみであ る。その とき,この 「他者のため に」の刻印が消 し難い ものとしてその与え られた ものに しるされ , 「持つ」 ことが 「与 える」ことを必然的に す るであろ う。 これに対 して,後者においては , 「持つ」ことが 「与え る」 ことを不可能 にす るよ うに思われ る
。しか しなが ら , 「自己 自身のために」のみ持つ存在においても 「与え. る」 ことが必然的になる場合を考え 得ないわけではない。それは もはや,或 るものが起源において 「他者に よって」 , 「他者のために」与 え られ たか らではない。「自己 自身のために」のみ持 っている者に とっては ,その よ うな起源におけ る対他性の痕跡 は まった く消え去 ってい るはず であ る。 この 「他者 のために」は,起源におけ る対他性の痕跡 の無か ら,純 粋 な 「自己 自身 のために」の光に よって,は じめて生 まれでたのでなければな らないO「与える」ことの必然 性は , 「 誰か ら与え られたか」 , 「与え るべ きものとして与え られたか」,そ もそ も 「与え られた ものか」否か, 等 々の,あ らゆ る因縁の鎖が断ち切 られた ところか ら,絶対的開始 として生 まれたのでなければな らないO そ して この ことは,結局,その与 えるべ きものが,そ こでは じめて生 まれ,け っして他者か ら与え られた も のではない ことを意味す る。
それゆえ , 「持つ」ことが 「与 え る」 ことを必然た らしめ るのは,( 1 ) 他に 「与 えるべ きもの」 として 「与え られ て」持 っているか,( 2 ) 他に 「与 え るべ きもの」 として 「生みだ して」持 っているか,いずれかの場合で あ る。 ところで,われわれは,( イ) 或 るものを他に与え るべ き もの として与え られ て持 っているに もかかわ ら ず,その 「持つ」 ことに よって 「与える」 ことを必然た らしめ られない存在 を考え ることがで きる。 また, ( ロ ) 或 るものを 自ら生みだ して持 っていなが ら , 「与えない」ことが必然であ るような存在 を考えることもで き る。前者は,いわば 「交換の法則」を濫用す る 「悪人」であ る。後者は , 「悪神」とで も呼ぼ るべ きものであ るOそれは , 「 対他」の影を ( か りにその よ うな ものが在 った として)「対 日」の光に よって解消 し, まった く初めて何 ものかを生みだす。 しか し,他に与えるべ き何 ものを も生みだ さず, 自己が 占有すべ きもののみ を生みだす。お よそ何 ものも持たないものは存在 しないoそれゆえ, この存在は,存在す るか ぎ り何 ものか を持 っている。それは, 自らが無か ら生みだ した ものであ る。それを他に与 え るか否かは, まった くこの存 在の 自由であ るかに見え るが, この存在は他に与 え るべ きものを何も生みだ さず,他に与えるべ きでない も ののみを生みだ したOそれゆえ,それを 「与 えない」 ことが この存在に とって必然なのであ る。
「持つ」 ことが 「与え る」 ことを必然た らしめ,それゆえ,あの悪人や悪神の 「存在」を不可能にす るの は , 「生みだす」とい う概念がその厳密な意味で,す なわ ち 「無か らの創造」 として , 「存在の贈与」として理 解 され るか ぎ りにおいてであ る。根源的な 「創造」は 「無か らの創造」である。「 有か らの創造」とい うもの
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