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民間 文
大正から昭和初期における石油製油技術の発展
一一ランプ油から動力用燃料油への転換一一
石 田 文 彦 日
1
はじめに2 石油製品の消費量,生産量と用途の推移 3 新しい製油技術の導入
4 技術導入と国産化
5 輸入原油による製油体制への移行
6
製油産業の国家統制7 おわりに
1
は じ め にわが国の製油産業はランプ用灯油の製造から始まったが,電灯の普及とともに,灯油の消費 量は明治37(1904)年頃をピークに漸次減少していく。一方,第一次世界大戦を契機として内 燃機関が発展し,石油の主たる用途は照明用から動力用に転換すると共に,石油産業の中心は 灯油から揮発油,軽油,重油,機械泊への移行が世界的趨勢となる。この結果,石油産業は工 業の基幹産業になるとともに,軍需産業へと変貌していく。この移行過程において,石油資源 の乏しいわが国では,石油製品の増大する需要を国産原油では賄いきれなくなり, 1920年代か ら原油と石油製品の輸入量が急増する。この結果,石油の陸揚げに至便で、,製品の消費地に近 い太平洋沿岸に次々と大製油所が設立され,油田のある新潟県を中心に発展してきた石油産業 は,輸入原油による製油産業へと転換する。さらに,昭和9 (1934)年に「石油業法」が施行
キーワード内燃機関節発油パイプスチル分解蒸留石油業法
*
2003年12月12日受理** 上越教育大学
( 1) 石田文彦,石井太郎 明治期における石油製油技術の発展 ,『技術と文明』 13巻2号, 2003年,
23頁。
され,民間主導で発展してき製油産業は国家統制下に置かれる。このような石油製品の消費量 の増大と消費構造の変化に対応して,もっぱら灯油の製造を中心に発展してきた製油技術も変 革を余儀なくされる。
この製油産業の転換期に関する先行研究は,石油市場への外国資本の攻勢とそれへの業界の 対応,「石油業法」の成立過程等,主として経済・政策の視点からなされ,技術への論及は希薄 である。石油産業の通史で製油技術に触れてはいるが,その多くは消費構造の変化に対応して 海外から導入された技術の羅列の域を出ない。この内,『日本石油百年史』は日本石油の技術 内容に詳しし資料としての価値は高いが,社史という限界がある。板倉忠雄「石池精製業に おける技術的発展の諸段階」は,当時の最大の技術課題であった揮発油量産の道を拓いた分解 蒸留に詳しいが,米国でのこの技術の発展過程を述べたものであり,また機械泊の高品質化を 図った減圧蒸留等その他の技術には触れてない。
本論文は,製油産業の転換期にあたる,大正元(1912)年から「石油業法」の施行される昭 和9 (1934)年迄の期間における,わが国の製油技術を論究したものである。はじめに,石油 製品の消費量,生産量と用途の推移を分析する。次に,当時の製油技術の状況,新技術の導入 と定着の過程,製油装置の国産化,および製油業界の対応等を述べる。さらに,輸入原油によ る製油体制への移行,従来殆ど触れられていなかった海軍の製油技術,および製油産業の国家 統制へ至る技術背景等を論ずる。
2
石油製品の消費量,生産量と用途の推移大正元 (1912)年の日本石油株式会社第38回決算報告書に,「鉱油 (機械泊一一引用者)及燃料 油ハ其用途益拡張セラレ常ニ供給不足ヲ感ゼリ」とあるように,すでに大正初期から機械油と 燃料油 (揮発油,軽油,重油)への需要は旺盛てwあった。大正元 (1912)年から昭和9 (1934)年 迄の石油製品の消費量,生産量と用途の推移を検討する。
(|)石油製品の消費量と生産量
石油製品の消費量の推移を図−
1
に示し,図を作成する基になった生産量,輸入量と消費量 を付録1
に記載した。なお,本論文では石油製品の生産量と輸入量を加算した値を消費量と (2) 例えば,森川英正 わが国石油業発達史覚え書 , 『経済志林』7巻l号,法政大学, 1970年, 23頁,武田晴人
r
燃料局石油行政前史』,産業政策史研究所,1979年,阿部聖 第二次大戦前における 日本石油産業と米英石油資本一日本の石油政策に関する一考察 , 『商学論纂』Vol.23, No.4,中 央大学,1981年, 169頁,阿部聖 1920年代の日本石油産業 ,r商学論纂』Vol.24, No.4,中央大 学,1982年,115頁,阿部聖 満州事変期の石油政策 1934年石油業法の成立過程一 \『中央大学大 学院論究』No.16, 1984年,資料研究l頁。(3) 東燃15年史編纂委員会『東燃15年史』,1956年,飯牟礼渚 『石油工業綜説』,産業図書株式会社ゆ 1956年,板倉忠雄「石油精製業における技術的発展の諸段階」,有沢広巳編 『現代日本産業講座III,』 1960年,岩波書店, 319頁,井口東輔編 『石油現代日本産業発達史II』,交拘社ゅ 1963年,海老原 昭三・阿部彰・木村徹・高橋毅夫『石油精製業現代の産業』,東洋経済新報社, 1966年, 日本石油株 式会社・日本石油精製株式会社社史編纂室編 『日本石油百年史』,1988年。
26
大正から昭和初期における石油製油技術の発展(石田)
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︵同︶酬和運
重油
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1912 1917 1922 1927 1932 年度
図ー l 石油製品の消費量の推移 注本邦(植民地を含む)の生産量,但し,19121921年は内地のみの生産量。
出所 日本石油繍 r石油便覧』,19121921年は1927年版の第7‑A表, 200頁, 19221926年は1927年版の第 7‑B表, 203頁, 19271931年は1932年版の第7表, 283頁, 19321934年は1935年版の第8表, 354頁。
し,また軍の消費量,および商船等が外国の港で積取購入する重油等も含まれてない。
240‑300万石/年を推移していた総消費量は,大正11(1922)年頃から平均16%/年の割合 で増加し,昭和9 (1934)年には戦前の最高値1,600万石と,大正元(1912)年の6.7倍となる。
第一次世界大戦を契機にわが国の重工業は飛躍的に発展したが,戦後の不況においても,「石 油ヲ燃料トスル舶用及航空用ノ機関等ヲ製造スル者 (中略)等ハ格別影響ヲ受ケス依然比較的 好況ヲ持続シタ\;;と,内燃機関の需要は 衰 え る こ と な し 関 東 大震災,さらに金融恐慌,世 界大恐慌と続く昭和初期の未曾有の経済不況にも関わらず,石油消費量は一貫して増加を続け た。その内訳を見ると,灯油の消費量は
3 / 5
に減少するが,その他はいずれも増大し,とくに 揮発油は120倍となる。大正全期間で合計消費量の多いのは灯油 (全消費量の36.4%)と軽油 (20.9%)であるが,大正12(1923)年頃から重油と揮発油はともに平均28%/年の割合で増大 し,昭和期には重油 (34.6%)と揮発油 (33.1%)が全消費量の約70%を占めるに至った。すな わち,大正から昭和にかけて石油消費が拡大するとともに,主たる消費製品は灯油 ・軽油から 揮発油・重油へと変化した。次に,石油製品の生産量の推移を図−
2
に示す。ここで,原料は国産原油と共に,輸入原油 をも含む。総生産量は,大正元(1912)年には110万石であるが,同年のロータリー掘削機の導入,およ び大正3(1914)年の秋田黒川油田の大l質油により一時的に倍増する。その後,大正11(1922) 年頃から輸入原油の急増により,石油製品の総生産量は平均13%/年の割合で増加し,昭和9
(1934)年には670万石と, 大正元(1912)年の6.1倍になる。この23年間を通じて,生産量の多 ( 4) 農商務省工務局編 『主要工業概覧第三部機械工業』,1922年, 3頁。
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1912 1917 1922 1927 図−2 石油製品の生産量の推移
注本邦(植民地を含む)の生産量,但し, 19121921年は内地のみの生産量。
出 所 図ーlと同じ。
1932 年度
いのは軽油(全生産量の30%),揮発油(24%),機械油(19%)であり,とくに,揮発油の生産量 は690倍となった。なお,石油製品の生産量は需要以外にも関税にも左右される。すなわち,
軽油は関税が高いために圏内生産により賄われ,また石油消費産業の保護政策から「燃料用重 油輸入免税」が大正9 (1920)年から施行され,重油は主として輸入品により賄われた。なお,
軽油は揮発油,または機械泊を製造する過程で副産物として製造される。したがって,明治期 には殆ど製造されていなかった揮発油を製造する技術の開発が重要な課題となった。
( 2 )石油製品の用途
大正6 (1917)年の日本石油株式会社第48回決算報告書に「揮発油ハ主トシテ自動車等増加 ノ為メ軽油ハ漁船ノ需要増加ノ為メ機械泊ハ諸工業発展ノ為メ」とあり,当時の石油製品の主 たる用途を端的に述べている。図 3に示すょっに,自動車は平均30%/年,発動機漁船は平 均20%/年の割合で増大し,また農業用発動機は大正9 (1920)年頃から急増する。一方,電 灯も大正期には平均16%/年の割合で増大するが,昭和になると飽和傾向にあり,広〈普及し たことを示唆している。
〔灯 油〕
灯油の消費量は電灯の普及により,明治37(1904)年の220万石をピークに漸次減少するが,
漁船と工業動力用の小型発動機,暖炉,および厨炉の燃料としての用途が開発される。第一次 世界大戦を契機とする工業化の促進は,わが国の農業労働力の払底をきたし,農商務省は,そ の対策として大正9 (1920)年頃から農業用小型発動機の普及に努め,農業の機械化 (籾摺機,
( 5)
脱穀機,精米機ゐ揚水ポンプ等)を図った。
5
馬力以下の電気着火式発動機が戸畑鋳物,久保田( 5) 農工用小型発動機については,小林正一肌鈴木徳蔵 『農工用小型発動機 内燃機関工学講座 第12巻』,共立社, 1939年を参照。
28
大正からH百日初期におけ平 る石油製油技術の発展(石田)
雪量 証 言 12
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8誤 記 主 皇 軍 主 悔ト 4 重量 也
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+ー自動車 一合一発動機漁船 一骨一農業用発動機~ー電灯
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1912 1917 1922 1927
年度0
1932 図−3
電灯,自動車,発動機漁船,および民業用発動機の個数の推移
出所逓{言省電気局編 r~気事業要覧』. 第45回, 1995年, 382頁, 日本輸送史研究会編『近代日本輸送史ー論
考・年表・統計 』,運輸経済研究センター, 1979年.466‑467
頁 ,
r日本漁船発動機史』
,日本舶用発動機会,1959年,6と9頁(牒林統計に依る),小林正一郎, 鈴木徳蔵『農工用小型発動機 内燃機関工学講座 第12巻L
共立社, 1939年,162頁。
鉄工所,
山岡発動機工作所等で量産された。こ れ ら 新 し い 用 途 が 開 発 き れ , 灯 油 の 消 費 量 は 大 正 末 (1925)年迄首位を維持する。
〔軽油〕
( 6)
軽 油 の 主 た る 用 途 は 漁 船 用 発 動 機 の 燃 料 で あ っ た 。 漁 船 用 発 動 機 は 灯 油 を 燃 料 と し て い た が,
明治44(1911)年に 池貝 鉄 工所 が安価な軽油を燃料とする高 圧 縮 無点 火 式 の 注 水 式 ボ リ ン ダー
( 7)
B o l i n d e r
型 焼 玉 機 関 を 国産化 し , 大 正3(1914)年に は 新潟 鉄 工 所 も 生 産 を 始めた。その普及に より,「昨秋 (1915年秋一一引用者)の石油(軽油一一引用者)騰貴は,我が水産業者をして,本 年 の 発 動 機 船 漁 業 に 対 し 懸 念 せ し む る 所 あ り し が , 本 年 に 入 り 一 月 上 旬 に 至 る や,暴 騰 に 腫 ぐ
( 8)
に暴騰を以てし,其の勢殆んど底止する所を知らざるの有様」と , 軽 油 の 需 要 は 急 増 す る 。 漁 船の動力化により遠洋漁業が可能になると共に,沖合漁業,沿岸漁業にも普及し, 5 20馬力
の焼玉機関は漁業に一大革命をもたらした。
しか し な が ら , 昭 和 に な る と 発 動 機 の 進 歩 に よ り, そ の 燃 料 は よ り 安 価 な重油 に 移 行 し , 軽 油 は 沖合 漁 業 用 の5
馬 力 程 度 の小型 発 動 機 用 燃 料に 限
られてくる。
〔揮発油〕
揮 発 油 の 最 大 の 消 費 源 は 自 動 車 で あ り , 例 え ば , 昭 和1
2(1937) 年 に お い て,揮 発 油 の97% は 自 動車エンジン用燃料であった。 そ の他 の 用 途 は 飛 行 機 エンジンの燃料 , 溶 剤 と し て の 動 植( 6)
漁船発動機史については,『
日本漁船発動機史』,日本舶用発動機会,1959年を参照。( 7)
焼玉機関の過熱を防ぐために注水が必要であり,清水を船に搭載する
。 ( 8)軽油の暴騰と本年の発動機船漁業 ,
fl](産界』4
01号,1916年,1
16頁。 ( 9) 水回政吉 『石油 ダイヤモンド産業全書1
2』,ダイヤモンド社, 1938年, 116頁。物浸出,護
1
莫・樹脂溶解と機械洗浄用等であった。明治期の自動車の輸入総数は約600台にすぎ ず,貴顕紳士の高級禁沢品としての自家用車で、あっ立しかしながら,関東大震災による市電 の壊滅を契機に,市営パス, トラック等の需要が急増する。大正14 (1925)年に米国のフォー ドが,さらに2年後にはセ。ネラルモータースが,それぞれ横浜,大阪に組立工場を設立し,昭 和初期の自動車の大部分は両社の生産による輸入組立車であった。〔重油〕
大正9(1920)年に「燃料用重油輸入免税」が施行され,図− 1に示すように重油の消費量 は急増する。免税の対象となったのは,①鉱業 (1934年の免税重油の0.25%)・工業 (9.79%)・運輸 業 (19.77%)・漁業(34.29%)の発動機用,または気缶用,②精錬用 (10.03%),③窯業用 (3噂87
%),④金属加熱用(21.附)の燃料て、ぁ去すなわち,昭和9(1934)年頃の重油の三大用途は 漁船,金属加熱,および商船の燃料であった。
大正9(1920)年,新潟鉄工所は静岡県の鰹漁船,第2太洋丸と海運丸に100馬力のディーゼ ル機関を据え付けた。重油を燃料とする舶用ディーセ守ル機関の鴫矢とされ,その後大型遠洋漁 船はディーゼル化されていく。また,翌年池貝鉄工所は重油を燃料とする無注水式焼玉発動機 を国産化し,従来の軽油を燃料とする注水式に代わる。昭和5(1930)年の日本石油第75回決 算報告書に「近時漁船機関燃料ノ重油化ハ益其ノ傾向顕著トナリ為メニ軽油ノ売行漸減ヲ見」
とあり,漁船内燃機関の重油化が進む。すなわち,漁船内燃機関として,電気着火機関(5馬 力以下,灯油または軽油,沿岸),焼玉機関 (30馬力以下,軽油から重油へ変遷,沖合),さらに熱効 率の良いデイーゼル機関 (30馬力以上,重油,遠洋)が次々に開発され,馬力の増大と燃料費の 節減を図る。この結果,例えば昭和2(1927)年度の発動機付漁船の燃料消費量は,わが国の 石油製品消費量593万石の26%にあたる156万石であり,その内訳は重油72%,軽油15%,灯油 10%,揮発油3 %である。発動機の進歩により,主要燃料を1900年代は灯油, 1910年代は軽油,
1920年代以降は重油と,より安価な製品に変遷しながら,漁船は戦前において自動車とともに 最大の消費源であった。
明治41(1908)年に三菱長崎造船所で竣工した東洋汽船の旅客船天洋丸 (13,426トン)は,初 めてボイラー燃料に重油を使用した。しかしながら,重油燃焼の技術上の問題,および当時の 重油の価格が高価で、不安定等の要因により,ボイラー燃料が直ちに石炭から石油に代わること はなかった。しかしながら,安価な輸入重油の普及により,大正11(1922)年に大阪商船が重 油 噴 燃 船13般 を 購 入 し , ボ イ ラ ー の 重 油 化 が 進 む。わ が 国 初 の デ ィ ー ゼ ル 商 船 は , 大 正
(10) 自動車については村松一郎,天津不二郎 『陸連・通信 現代日本産業発達史XXII』,交詞社,
1965年, 102頁を参照。
(11) 武田晴人『燃料局石油行政前史』,産業政策史研究所, 1979年, 218頁の数値を基に算出。
(12) 清水を積み込む手数が無く,気筒の磨耗が少ない。
(13) 阿部整 1920年代の日本石油産業 \ 『商学論纂』Vol.24, No.4,中央大学, 1982年,120頁の 第1表を基に算出。
(14) 内野稔,朝永研一郎「蒸気動力」『日本機械工業五十年』, 日本機械学会, 1949年, 241頁。
30
大正から昭和初期における石油製油技術の発展(石田)
12 (1923)年に三菱神戸造船所が建造した大阪商船の客船音戸丸 (600馬力)で英国製ディーゼ
ル機関を搭載し~;~ 初の国産機関を搭載したのは,昭和元(附)年に三菱長崎造船所が建造
した大阪商船の貨物船もんてびお丸(2,300馬力)であった。昭和6 (1931)年のテ明イーゼル機関 を搭載した, 100トン以上の商船は297般, 512,416トンであり,建造商船の80%以上はディー セ会ル船であっ忠 三菱神戸造船所が大正6(即 )年に製作した自家発電用の250馬力の空気噴 射式ディーゼル機関は,陸上動力用テゃイーゼル機関の鴫矢とされ,大正9 (1920)年には新潟 鉄工所が300馬力機関を製造し,日本絹布(後の鐙紡)に発電動力用として納入した。昭和元 (1926)年には池貝鉄工所と新潟鉄工所が無空気噴油式ディーゼル機関を完成させ,テ前イーゼル 機関の製作は本格的となり,昭和5(1930)年には発動機製造株式会社が農工用に 5‑10馬力の 小型機関の生産を始めた。
このように重油は動力用燃料としてあらゆる分野に進出し,自動車用燃料の揮発油と合わせ ると,昭和9 (1934)年には石油製品消費量の約70%を占めるに至る。
〔機械油〕
第一次世界大戦を契機に重工業が飛躍的に発展するとともに,機械?自の需要も拡大していく。
とくに,内燃機関では消費燃料油の約10%の機械泊を消費するとされ,機械池は動力用燃料油 と共に需要が増加する。機械油は用途により必要とする比重,引火点,粘度,凝固点等が異な り,種類が多い。例えば,昭和8(1933)年現機械油はスピンドル油他(一般工業),マシン
(17)
油(漁船発動機),およびモビル油(自動車)にそれぞれ凡そ
3
分のl
づっ消費された。3
新しい製油技術の導入大正から昭和初期における主要な技術課題は,①増大する需要に応じる大量生産方式,②揮 発油の量産技術,③輸入品に対抗できる高品質で安価な製品の製造技術を開発することであっ
fこ。
(|)大正期 ( 1‑1)導入技術
〔連続蒸留〕
複数の横置円筒釜を連結し,連続的に原油を仕込み連続的に各種蒸留池を得る連続蒸留
co n ‑ t i n u o u s d i s t i l l a t i o n
は,明治15(1882)年に露国のメンデレエフによって考案され,翌年にノ ーベル兄弟により実用化された。米国では明治18(1885)年に,ア トランテック精製会社A t ‑
! a n t i c R e f i n i n g C o .がこれを
実施したが,その後発展せず,パッチ蒸留b a t c hd i s t i l l a t i o n
(四分蒸留)が主流となった。なお,パッチ蒸留では,一定量の原油を釜に仕込んで蒸留した後,
(15) ディーセ引ル機関史については,岩田清『ヂーゼル機関の発達』,山海堂, 1943年を参照。
(16) 土屋藤丸 船舶用ディーゼル機関に就て , 『燃料協会誌』第110号, 1931年, 1257頁。 (17) 平木義良 昭和卜年日本の石油需給関係 \ 『燃料協会誌』第168号, 1936年, 1180頁。
釜を放冷して残池を流出させ,さらに原油を仕込む非連続的操作方式により製油を行う。連 続 蒸留が露国で発達したのは,主油田地帯であるパク一地方では石炭の産出が少ないために,燃 料の節約を重視したこと,および燃料に重油を使用したこと等による。わが国では,米国に追 従してパッチ蒸留を採用してきたが,明治
2 7 ( 1 8 9 4
)年に初めて1 0
石釜と4
石釜を連結して連続 蒸留を行った記録があり,明治2 9 ( 1 8 9 6
)年には蔵王石油が1 0 0
石釜2
基で連続蒸留を試みるが,(18)
翌年には中止した。明治
3 2 ( 1 8 9 9
)年,日本石油柏崎製油所は2 3
石 釜4
基を一組とした連続蒸留(19)
装置を試作したが,技術的に未熟で実用化には至らなかった。
日本石油の秋田県黒川油田で大正
3 ( 1 9 1 4
)年5
月に大噴油が起こり,秋田製油所では原油 処理能力の増大が火急のこととなった。また,黒川池田は重質池であったこともあり,燃料の 節減と,当時需要が増大しつつあった重油の増産を図るために連続蒸留装置を建設することに した。翌年1
月に日本石油製油技師長高野新ーは,その調査に露国のパクーに派遣された。周 年5
月に傭聴されたノーベル兄弟産油会社技師アーシャーウィル・ガスバリアンが装置の設計 を指導し,新潟鉄工所が製作を担当した。この装置は1 5 0
石の円筒横置釜5
基からなり,5
基 の内4
基は既存の釜を改良したものであった。同年1 2
月の日本石油第4 5
回決算報告書に「重油 ノ製出ト製油燃料ノ節約トニ関シテハ予定ノ効果ヲ奏スルニ至レリ」とあり,連続蒸留法は初 めて実用化された。大正8 ( 1 9 1 9
)年に宝田石油が製作した連続蒸留装置を図−4
に示す。冷 却 槽
残 i尚 治(重 油)
図 4 連続蒸留装置
出 所 水国政吉 石油工 業に就て (英一)ヘ r工業化学雑誌』
2 2
編,1 9 1 9
年,6 9 3
頁。(21)
本装置には,留出泊の廃熱を利用して原油を予熱する熱交換器を付設した。第
l
釜の温度を 最も低くし,第 2釜,第 3釜と順次に温度を高くしておく。ポンプによって連続的に送り出さ( 1 8 )
伊藤一隆編 『日本石油史』, 日本石油,1 9 1 4
年,2 3 0
頁。( 1 9 )
杉卯七 本邦産原油並に其精製法に就て, 『日本鉱業会誌』第3 6 6
号,1 9 1 5
年,6 5 6
頁。( 2 0 )
日本石油株式会社・日本石油精製株式会社社史編さん室編『日本石油百年史』,1 9 8 8
年,1 9 13
頁。( 2 1 )
直立円筒形で,内部に汽缶管を設置し,原油は汽缶管内を,留出油はその外側を互いに逆流する 簡に熱交換する。3 2
大正から昭和初期における石油製油技術の発展 (石田)
れる原油は,先ず蒸留釜1‑4,および残溢油 (重油)釜5に付属の熱交換器において次々と 予熱された後,第
1
蒸留釜に張り込まれる。第l
釜で蒸発した油は,熱交換器と冷却槽を順次 通過して液化され,半製品タンクに貯蔵される。第l
釜の残溢泊は,第2
釜,第3
釜と順次に 移動し,それぞれの釜の温度以下の沸騰点を有する成分が留出され,最後の第4釜の蒸留残溢(重油) は第
5
釜に連続的に排出される。連続蒸留の利点は①連続操業による量産性,②分留油 の蒸留廃熱を原油の予熱に,また原油を分留油の冷却に (熱交換)利用する経済性,および③ 重油の品質向上にある。〔ガソリンプラント〕
明治期においては,揮発油は引火性が強いために危険物視され, 「きちがい草水」と称きれ て多くは破棄され,その一部は灯油への混合に利用されていた。例えば,宝田石油が横浜製油 所で揮発油の製造を開始したのは,明治44(1911)年であり,同年のわが国の揮発油生産量は
(23)
3,800石にすぎず,輸入量は31,800石であった。 原油中の鐸発
i r h
成分の沸点は220℃以下と広〈,成分に応じて航空機,自動車,溶剤等の用途に当てるので,沸点範囲の狭い製品に分留する必 要がある。このために,加熱
i l i : L
度220℃迄の留出油を洗浄後, さらに蒸気蒸留釜で再蒸留する。蒸気蒸留は重油から機械油を製造する方法と同じである。すなわち,直火加熱により局部過熱 されて重質油が軽質油に分解するのを防ぐために,蒸留釜の下底に設置された蒸気蛇管と蒸気 吹込蛇管に過熱水蒸気を送入して加熱・蒸留する。ところで,わが国で産出される原油の揮発
(24)
油成分の含有量は,例えば西山原油では16‑36%,新津原油は0‑27%と少なく,原油中の揮 発油成分を分留するだけでは増産を望めない。このために,大正になると揮発泊の供給は需要 に追いつかず,その価格は図−
5
に示すように,石油製品の中では常に最も高〈,例えば,大 正3(1914)において揮発油の価格は灯油の1.
8倍である。このような状況において, 天然ガスから揮発油を採取するガソリンプラントgaso
l i n ep l a n t
を導入した。わが国で初めて天然yゲス事業を企業化したのは日本天然瓦 斯会社であり,明治 39 (1906)年に西山油田でyゲス井戸の掘削に成功し,ガスをパイプラインで長岡に送り,燃料,(25)
灯火用等に供給した。 日本石油も明治42(1909)年から伊毛治I
E E
でガス採 取を始め,大正3 (1914)年には米国ナショナル・サプライ ト社の圧縮冷却型ガソリンプラントをG・A
・ライカード技師の指導により西山油田に設置し,天然yゲス50万立方尺から揮発油18‑24石/日を生産し,
翌年には宝田石油も装置を購入した。圧縮冷却型装置は,
i
慮過器を通した湿性ガス(プロパン,ブタン,ペンタン等を含むガス)を圧縮機で圧縮し,温度上昇した圧縮ガスを冷却機で冷却・凝結 する。新潟鉄工所は大正4(1915)年に同装置を模造して日本石油に納入し, 翌年には小倉 石
(22) 宝田石油臨時編纂部編『宝田二十五年史』,1920年,203頁。
(23) 日本石油伊藤一隆編纂 r石油便覧』,石油時報社, 1921年, 229‑31頁。
(24) 日本石油栗田淳一編纂『石油便覧』,石油時報社, 1932年, 247‑8頁,253‑4頁。 (25) 前掲(18)' 445‑9頁。
(26) 松沢伝太郎 天然揮発油採収に就て", r日本鉱業会誌』 No.367, 1915年,751頁,および前掲 (20)' 193 4頁。
80
70
60
50 }.(!
\
一←・一一原油 一一ー一一知発油 一一合一一灯油
X一一軽油 一一+一一重油 一一+一一機減刑l
s
: :
40一 一 。 一 一 米
直宝足 30
IO
。
1912 1917 1922 1927 1932 年度 図−5 原油と石油製品の価格の推移
出所 原油.新i章一最低, 1912‑1931年は r石油便覧J,1932年,290頁,1932‑1934年は r石油便覧L 1935年, 359頁,揮発t由,1914‑1923年は自動車ー最低 (日石), 武田晴人 『燃料局石油行政前史L 産業政策史研究所,
1979年, 184頁, 1924‑1934年は自動車一容総含(日石),図口東輔 『石i!IJJ,交絢社,1963年,付録32頁,灯
油,1914-1923年は白編蛎ー最低(日石),武田 n~r 人,同前, 1924-1934年は白銅煩ー谷線含(日石),田口来輔,
同前,軽油,1914‑1923年は黒花・赤全勝一最低 (白石),武田H青人,同前, 1924‑1934年は発動機一容岩手合(日 石),田口東輔,同前,重油.1912‑1930年は平木義良『燃料協会誌』 110号, 1931年, 1242頁, 1931‑1934年は 特重油(白石),田口束輔,同前,機械t由,19211925年は
C
マシン泊ー最低(日石),武田崎人,同前,1926 1934年は
c
"7シン泊,『燃料協会誌』 175号,1937年, 450頁,米,日本銀行統計局編 r明治以降本邦主要経済統計L 並木書房 (復刻l版). 1999年,90頁。 (27)
油 に も 納 入 し た 。 同 所 で は 明 治34(1901)年 か ら 石 油 洗 浄 用 の 空 気 圧 縮 機 を 製 造 し て お り , こ (28)
の 技 術 が 生 か さ れ,直 ち に 模 造 で き た。そ の 後 , 吸 収 型 ガ ソ リン プ ラ ン ト も 導 入 さ れ,わ が 国 (29)
で 昭 和8 (1933)年 に は 圧 縮 冷 却 型16基 , 吸 収 型23基 と 合 計39基 が 稼 動 し て い た。
〔熱分解蒸留〕
大 正12(1923)年 の 揮 発 油 消 費量43万 石 の64%は 輸 入 品 で あ っ た。圏 内 産 の64%は 直 留 揮 発油 (30)
(原油から分留された揮発
r
由), 36%は天然 ガ ス 揮 発 油 で あ り , 直 留 揮 発 油 量 は 石 油 製 品 総 生 産 量 188万 石 の5 %に す ぎ な い . こ の よ う な 輸 入 過 多 の 状 況 下 で , 導 入 さ れ た の が 熱 分 解 蒸 留t h e r ‑ mal c r a c k i n g d i s t i l l a t i o n
である。 熱 分解の現象は,すでに慶応、元 (1865)年にJ Young
により 発 見 さ れ て い た が , 大 正2 (1913) 年に 米 国 ス タ ン ダ ー ド 石 油 の パ ー ト ン
B u r t o n
が 揮 発 油 製(27) 山下良彦編纂 『新潟欽工所四十年史』, 19~:4年, 120頁。
(28) 天然ガスと吸収泊(軽油)を吸収搭に送入して両者を接触混和させると,ガス中の揮発油は吸収 油に吸収される。者
! f
発泊を吸収した油を熱交換器で加熱して蒸発塔に注入すると,搭を下降する間に 揮発油は蒸気となって上昇し,塔頂から送出されて冷却l恭で液化される。(29) 松沢伝太郎 経質液休燃料に就て, r日本鉱業会誌』第583号,1933年, 844‑5頁。
(30) 水田政吉 日本石油株式会社のクラッキング・プロセッスに就て,
r
燃料協会誌』第21号,1924 年,397頁。34
大正から昭和初期における石油製油技術の発展(石田)
迭に初めて熱分解蒸留を実用化し,自動車時代を迎えた米国で著しい発展をした。例えば,大 正末
(
1925)年において米国
では,2,327基の装置が稼動し,掠発油の製造量は73万石/日であっ 7~~ わが国でも , 大正7 (
山8)年から日本石油化学研究所で,米国留学から帰国した中村雄
七郎がパートン式とリ
ッ
トマン式
とを兼ねた熱分解装置を新潟鉄工所に試作させ,実験を始め(32)
た。宝田石油柏崎製油所も同年に10石パートン式を,また海軍でも大正11(1922)年にノ〈ー卜
(34)
ン式を,翌年ク
ロスCross式を試作して小規模工業的実験を開始した。初めて実用化されたの は,日本石油鶴見製油所が大正13(1924)年に米国から購入したダップスDubbs式分解蒸留装置 であった。 これを導入した直接の契機は,日本石油製油部長 ・技師長水田政吉が「震災後,我 が国自動車の数は急激に増加lした。従って揮発油の需要も激増しつつある。それで我々はあら ゆる方法に依り揮発油を増産して,其の供給を賛沢にする事を目下の急務と考へ,又事業界並(35)
に国家の為め貢献する所以と
信ず
る」
,と述懐しているように関東大震災後の自動車急増であった。
米国のユニバーサル産油会社UniversalOil Products Co.と 特 許 到 雌 の 契 約 を し て 装 置を購入し,米国人技師の指導で据え付け稼動きせ,翌年には2
号機を購入した。従来の蒸留は,原油に混合した炭化水素化合物を沸騰温度の差によ
って
分留する物理的成分 分離である。一方,熱分解蒸留は,i
熱分解により原油中の重質炭化水素(例えば,炭素の割合が 高い重油,軽油)を軽質炭化水素(炭素の割合が低い揮発t由)に変えて分留する化学的成分分離で ある。したがって,熱分解蒸留では,揮発油の製造量は原料中のその含有量に依存すること無 しまた原油の他に安価な重油,軽油も原料となり,その選択範囲が拡大する。分解揮発油は,
直留揮発油に比べて芳香族炭化水素,不飽和炭化水素,酸化物
を含有する割合が高いために悪
(36)
臭があるが,内
燃機関の燃料としてはノッキングknockingが 少 な し 揮 発 油 の 最 大 消 費 源 で ある自動車燃料に適する。原油を
330℃以上の高温で加熱すると,次式で示すように,高沸点 の重質炭化水素CnH 2 n + 2
は低減i点の経質炭化水素C n ‑ m H ( 2 n ‑ m ) + 2 に分解し
,同時に炭素C
と分 解 ガス( 主成分はメタ ンC
凡)が生成される。
2 C n H 2 n + 2 =2Cn ‑ m H c 2 n ‑ m ) +2+ mCH, + mC
実際の操業においては, 反応株内において高温の原料を沸点以上で液相に保留し,ガスと炭素 の発生を押さえて揮発油の収得率を高くするために,高圧下で分解させる。ダッブス式分解蒸 留装置を図−
6
に示す。(31) 水田政吉 日本石油株式会社のクラッキング・
プロセッスに就て(第二報)(承前),
r燃料協会 誌 』
第39号, 1925年, 1100頁 。
(32) 日本石油会社クラッキング法実施, r日本鉱業会誌』第404
号,
1918年, 1016頁,および前掲 (20)' 191頁。
(33) 水田政吉 石油に就て
( 其 二 )
", r工業化学雑誌 』第
22編, 1919年, 796頁。 (34) 燃料懇話会編『
日本海軍燃料史(上)』,原書房, 1972年, 160頁 。
(35) 前掲(30)'412頁。
(36) エンジンの気筒内において,圧縮される揮発油と空気の混合気体の圧縮比が大きい程,エン
ジン
の馬力は大きくなる。しかし,圧縮比をあまり大きくするとエンジンはノックし,期待する出力を得 られない。この現象をノγキングと称する。分解剖[発
n h
図−6 ダッブス式分解蒸留装道出所 r日本石油百年史L 1988年,241頁を基に作成。
装置は鉄菅蒸留器パイプスチル
pipestill (例えば,内径1
0・長さ920・厚さ0.64cmの鋼管50本), 反応室
reactionchamber (直径300・高さ450・厚さ3.2‑3.5cm,容量1
80石の鋼鉄製直立円筒),精留塔
dephlegmator (直径1
10・高さ670・厚さ2.2cmの鋼鉄製直立円筒)等から構成される。精留塔で予熱 された原料(重油)を,ポンプにより加熱炉内のパイプスチルに連続して注入する。 ここで,原料の流速を lm/s 程度と大きくし,パイプスチルでは加熱するのみで分解する時間を与えな
(38)
い。加熱された熱油は反応室に送られ,高温高圧下での液相分解により揮発油を生成し,同時 に発生する炭素は反応室の底に沈積し,残溢泊
(重油)はパイプスチルに張り込まれ,原料と して再利用される。なお,反応室底に蓄積した炭素が
多量になると作業を停止して反応室から
(39)
取り出す。揮発油は精留塔に噴射されると
気化し,搭の上部から注入される原料によ り冷却されながら,重質油分を分離して精製され,冷却槽で液化され,受け槽を経てガス分離槽に送ら れ,不凝縮ヌゲスを分離した後に,半製品タ
ンクに貯蔵される
。なお,精留塔で凝縮した重油は,
上部より注入される冷却用原料と共にパイプスチルに送られる
。夕、
ッブス式は,精留塔が熱交換器ともなる,反応搭と精留塔の残法池
(重油)を原料として再利用する循環式である,製油工程が自動化 され,連続操業されること等により,揮発油の歩留まりが高い量産方式である。
半製品揮発油は硫酸, および苛性曹達でそれぞれ洗浄された後に蒸気蒸留釜において再蒸留さ れ,分留された揮発油は再洗浄されて製品となり,釜残泊は軽油として回収される。 ダ
ッブス式装置の当初の稼動状況は,分解混度480 ℃,分解圧力 9
.8kg/cm',原料処理量
330石/
日,連続操 業 4 日,分解揮発油の産出率は張込原料
(重油)の35%と報告されている
。 分解蒸留は揮発油(37)
日本石油のダップス式装置の稼動状況については,前掲
(30)'(31),および水回政吉 日本石
治株式会社のクラッキング・プロセッスに就て (第二報) ,
『燃料協会誌』第38号 ,
1925年, 1028頁に
詳しい。(38) 速度が遅いと,分解により生成する炭素がパイプに固着して操業不能になる。
(39) 精留搭の内部には,水平に数個の穿孔隔板baffleplateを設けてあり,隔板が一個の分留器の代
用となる。精留搭に
l噴出された油蒸気の低沸点成分は上へ上へと上昇し,高沸点成分は隔板に溜まり,
最上部に揮発油が,最下部に最も沸点の高い重油が溜まる。
36
大正から昭和初期における石油製油技術の発展(石田)
製造の主流となり
,クロス式,ジェンキ
ンス式等も導入きれ,昭和
9(1934)年にはわが国で(41)
8基カミ稼動し,揮発油生産量は280万石と,分解蒸留を導入する前年の大正12(1923)年の19倍
となる
。(1‑2)大正末(1925)年頃の製油業界
海軍機関中佐福田秀穂、の大正
14(1925)年の調査報告を基に,
当時のわが国の製油業界を概観する 。大正
10(1921)年に宝田石油と合併した日本石油の大正13(1924)年の製油量は 152万(43)
石と,わが国の総製油量の
73%を占めている。その他に,
27の中
小製油業者が開業しており,その内訳は秋田県の矢島組製油所等
2業者,新潟県の
山岸製油所等22業者,東京近郊の小倉石 油等 3 業者である
。日本石油は秋田,新潟,新津,柏
11崎,鶴見,北海道,台湾の 7 製油所,および油田を所有
している
。原油を蒸留するパッチ蒸留釜は
39基(釜の容量
70‑600石)で合計容量は9,040石,また連続蒸留用の釜は
4式
26基
(200‑600石)で合計容量8,800石,と両者は同規模である。なお,いずれも従来の鋼鉄製横置円筒釜である。
その他 に,機械油製造用の蒸気蒸留釜は
39基(
75‑600石)で合計容量11,000
石,揮発油再蒸 留 用 の 蒸 気 蒸 留 釜 は
14基(
50 300石)で合計容量
(45)
2,190
石,夕、ッブス式分解蒸留装置
2基,ガソリンプラント
17基,製蝋装置
1基,実験用のノ
ー トン式分解蒸留釜 3 基を所有している
。その製油工程を概述する。原油とともに採取される湿 性ガスをカツリンプラントに送り,天然ガス揮発油を製造する。原油を
パッチ蒸留,または連 続蒸留により揮発油,灯油と軽油に分留し,釜残油
(重油)を過熱水蒸気蒸留して機械油を製造する
。これら半製品を別々に洗浄して製品とするが,揮発油のみは洗浄後,さらに過熱水蒸 気蒸留により精製し,製品とする
。なお,分解蒸留装置は大正13(1924)年6月から稼動し,
分解探発油の製造も始めた。経済性の見地から,連続蒸留では熱交換器により廃熱を
利用し,廃棄物の利用が普及する
。例えば,洗浄で生じた硫酸浮を蒸気分解して硫酸ピッチと廃硫酸に分離し,前者を蒸留加熱用燃料に使用し,後者を煮詰めて硫酸に再製する。従 来,加熱燃料に は重油を使用していたが,その用途拡大にともない,硫酸ピ
ッチ,ピッチ,および石炭に変わった。
一方,原油の多くを輸入に依存している中小製油業者は,原油を10〜70
石の横置円筒釜に張
り込み,軽油を儲出した残溢油に過熱水蒸気を吹き込んてい蒸留し,機械油を採取し,釜残はピ(40)
橋本圭三郎 日本の石油業
,『燃料協会誌』第77号,1929年 ,
191頁。 (41) 小林久平『石油工業現代日本工業全集19J,日本評論社,
1936年 ,
198頁。
(42)
福田秀穂「日本の石油業」
,『海軍燃料廠調査報告第5号』, 1927年 ,
87頁,(防衛研究所図書館
所蔵,燃306。)(43)
前掲(
20)'968頁。
(44)
新潟県の業者は共同て、 株式会社組織の 共問販売所を設立 し,原油の買い入れ,製品の統ー と販売
を共同て'ffった。(45) 工学会編『大正工業史下巻第三編工業要覧』,原書房, 1994
年(復刻),
69頁
。ッチとなる。製造法は旧来のパッチ蒸留であり,規模も家内制工業である。大正期の1
4
年間に,わが国で生産した石油製油の割合を,付録−
1
を基に算出すると,軽油35%,重油20%,灯油 と機械油はともに1 9%
,揮発油7 %
であり,軽¥8:1の生産量が最も多い。このように,大正末期の製油業界は,油田を所有し,連続蒸留,ガソリンプラント,分解蒸
留等の技術を導入してあらゆる製品を製造し,国内生産量の73%を占める日本石油と,原油の 多くを輸入に依存し,旧来のパッチ蒸留により軽油と機械泊を家内制工業により製造する,
2 7
の中小製油業者とに二極分化している。( 2 )昭和初期の製油技術
( 2‑ 1
)導入技術〔減圧蒸留〕
重油からの機械油の製造では,重油の分解により生ずる不飽和炭化水素類および軽質炭化水 素成分は,機械油の粘度と引火点の低下,凝固点の上昇等の品質劣化をきたす。そこで, ドル トンの分圧の法則を利用した方法,すなわち蒸留釜内に過熱水蒸気を吹き込むことにより泊蒸 気の分圧を下げて,機械1自の沸点を重油の分解温度3
2 0
℃以下に下げる過熱水蒸気蒸留をする。と こ ろ で , 第 一 次 世 界 大 戦 に よ る 輸 入 途 絶 に よ り 国 産 の 機 械 泊 の 性 能 が 向 上 し , 大 正
8 ( 1 9 1 9
)年にはその自給率は74%
になるとともに,「現今 (1 9 1 9
年一一引用者)て、は海外品に対抗(46)
すべき品の殆ど悉くが製出可能」,となった。 しかしながら,同年には工業生産額が炭業生産 額を上回り,工業化が加速し,さらに内燃機関の機能向上により機械油の需要が増大すると共 に,その種類と 性能への要求は益々高くなる。この結果,外国産高級油への依存が次第に高く なり,昭和元 (
1 9 2 6
)年にはその自給率は54%に迄低下する。このような状況下で導入された のが減圧蒸留法である。この方法では,真空ポンプで蒸留釜内を減圧して油の沸騰点を下げ,分解を防止する。例えば,常圧で3
5 0
℃の炭化水素のi ? l l
点は,5mmHg
では1 8 4
℃に迄低下する。昭和
2 ( 1 9 2 7
)年,日本石油と小倉石油は米国からシュルツSc h u l z
式減圧蒸留装置を,また昭 和4 ( 1 9 2 9
)年には丸善鉱油が独固からへックマンH eck ma n
式減圧蒸留装置を購入した。へ ックマン式は丸善鉱油の宮本雄介と宮田吉郎,およびへックマン社の技師エーリッヒ ・ホフマ ンが共同で設計したものであり,翌年には同装置の改良品が江戸川石油にも納入された。さら に,昭和6 ( 1 9 3 1
)年には宮本雄介が同装置を基に再設計したM ・H
式減圧蒸留装置を,石川(47)
鳥造船所と新潟鉄工所が製作し,それぞれ早山石油と新津製油所に納入した。図
7
にM ・H
式装置を示す。円筒横置釜の頂部中央に精留簡が,その上に凝縮器が設置されている。蒸留釜に張り込まれ
( 4 6 )
前掲(3 3 ) , 7 8 7
頁。( 4 7 )
M ・ H式については,宮本雄介 へックマン及びエム・エチ鉱i r t 1 i .
威圧蒸留機に就て ,『燃料協会 誌』第1 5 4
号,19 3 5
年,84 5
頁を参照。3 8
大正から昭和初期における石油製油技術の発展 (石田)
釜内の過熱水蒸気蛇管によ た原料(重l!li)は,
油蒸気は精留筒で各種機械 り加熱・蒸留され,
冷却器, およ それぞれ凝縮器,
?由に分留され,
び分離池受槽を経て製品タンクに貯蔵される。
装置の内部は真空ポンプにより
2mm H g
に保持 され,蒸留中の油温は1 6 0 ‑3 0 0
℃である。本装・1︐放熱管
原料を直火加熱でなく,過熱水蒸 置の特徴は,
および精留筒 気蛇管により間接加熱すること, 加熱火鳩
を設置したことにある。火炉内の受熱管の内部 に蒸留水が装嘆きれ,熱せられた過熱水蒸気は 蒸留釜内の放熱管により原料を加熱
・
蒸留して 蛇管内を循環する。本装置は過 受熱管に戻り,減圧蒸留と精留筒により高品質 熱水蒸気蒸留,
製品を製造できること,
1 0 0 ‑1 8 0
石と小容量で I人の職工で操縦できること等を特 あること,取り扱いが簡単,
徴とする。設計者の宮本は,
フレキシブル,ハンデーであること,経費を省
き職人の技量を発揮し得る余地を残すこと等を設計思想、とした。M
・H
式は,機械池の製造に 製油と販売の規模に適した装置で, 昭和10 ( 1 9 3 5
)年迄に1 8
特化していた中小製油所の技術,( 1 9 3 4
)年には機 これら減圧蒸留法の導入により,昭和9
の中小製油所に約3
0
台納入された。械油の自給率は
85%
となる。〔管蒸留
p i p ed i s t i l l a t i o n
〕明 治
4 4 ( 1 9 1 1
)年に米国人ト ランプルT rumb l e
が実用化した管蒸留器パイプスチ ルp i p e ( 1 9 2 0
)年頃から分解蒸留装置に採用されて発展し, 旧来の円筒横置蒸留釜にわが国では,大正1
0 ( 1 9 2 1
)年に海軍徳山燃料廠がトランプ(48)
ル式ノマイプスチルを初めて購入したが,実用化には至らなかった。昭和
5 ( 1 9 3 0
)年に日本石(49)
油は図−
8
に示すフォスターFo s t e r
式ノマイプスチルを導入し,実用化した。 製油装置の主流となった。s t i l l
は,大正9
替り,原油から各種製品を分留する。熱交換器で予熱された 本装置は常圧系と減圧系とからなり,
ポンプによりパイプスチル (直径l
O c m ・
長さl,OOOcm
の鋼管10 0
本がー繋ぎ)に連続的に注 原油を,入する。加熱炉では発熱体からの轄射熱と燃焼ガスの対流熱によりパイプスチルを温め,パイ プスチルからの伝導熱によって油を加熱し,直火過熱による分解を避ける。加熱された油液は,
油蒸気は精留棚を通過する間に比重の遠いにより揮発油, 常圧精留塔に噴射されると蒸発し,
( 4 8 ) ( 4 9 )
前掲(
3 4 ) ' 1 4 6
頁。水田政吉 日本石油株式会社下松製油所概要\ 『燃料協会誌』第1
0 2
号,1 9 3 1
年,2 6 1
頁。原油
図−8 フォスター式パイプスチJレ
出所木村乾 石油蒸留法の進歩に就て\ 『燃料協会誌』第168号,1936年,ll60頁。
灯油は上部へ,軽油は下部へと分留され,それぞれ側面の留出管ーから排出され,冷却器を経て 受槽へ導かれ,残溢油 (重油)は塔底に溜まる。この間,精留塔の側面から過熱水蒸気を,ま た塔頂から温度調節用の揮発油を吹き込む。常圧精留搭底に留積した重油は,約50mmHgの 減 圧精留塔に送られ,同様に軽油,機原料,機械池に分留され,釜残はアスフアルトとなる。な お,精留塔て、の残溢重油と凝縮泊は熱交換器に送られ,原料の加熱媒体となる。原料の流通速 度,パイプスチルと精留塔の温度と圧力等が計測されてバルブの開閉等にフィードパックされ,
製油工程を自動制御しながら,連続操業される。このパイプスチルと精留塔を組み合わせた製
(50)
油方式の特徴は,原油の加熱と分留が分離されて分留が精確である,熱効率が良い (55 80%), 蒸留能力が大きい (2'000‑6 '000石/日),装置内の滞油量が少ないので火災の際の危険が少な い等である。
(2 2)昭和9(1934)年頃の製油業界
海軍の調査による,昭和7(1932)年の石油製品の主要業者別生産額を表 1に示す。なお,
本調査の業者数は24であるが,商工省鉱山局の調査による昭和9(1934)年の製油業者数は53 である。また,調査した業者の合計生産量473万石は,同年の総生産量の93.6%にあたる。
(50) 熱効率は単独釜で30‑35%,連続釜で40%,パイプスチルで5580%である。
(51) 前掲(41)'84‑8頁に所収。
(52)
7
製油所からなり,鶴見製油所と下松製油所は最新の設備を有し,主として輸入原油からの製油 を業とする。(53) 1893年以来 小倉常吉が個人経営により採油業と製油業行ってきたが, 1925年に株式会社とな る。
(54) 1931年に三菱商事と米国アソシエイテッド石油社Associat巴dOil Co.との共同出資により設立さ れた。わが国の石油業における外資提携の先駆である。
40
大正から昭和初期における石油製油技術の発展(石凹)
表一| 主要製油業者の石油製品の生産量(1932年) 単 位 石 製 油 業 者 揮発
1 r u m 1
由 経れ1J 機械れ1J 霊i l l !
メ~、5ロ 1· 割合直
f i l
分解 (%)日 本 石 油 895 699 248 066 170 893 619,214 385,235 103 822 2 '422' 929 51. 2 小 倉 石 油 345 158 169 197 176,049 243' 154 73 774 1,007,332 21.3 三 菱 石 油 178,516 89,258 59,320 2,023 20,734 135,828 485,679 10.3
ノj、計 1,419,373 506,521 406,262 864,391 479,743 239,650 3,915,940 割合(%) 97.1 100 89.4 76.3 55.1 78.3 82.7 早 山 石 油 42,134 15,800 49,142 39 517 9 563 156,156 3.3 江戸川石油 28 762 63,767 92 529 2 丸 普 鉱 油 3,775 10,406 49 679 63,860 1.3 そ の 他18 681 28 795 180' 401 238,491 57 036 505,404 10.7
ノl、~i 42,815
。
48,370 268 711 391 454 66 599 817,949 割合(%) 2.9。
10.6 23.7 44.9 21. 7 17.3合計 1,462,188 506 521 454 '632 1, 133,102 871, 197 306,249 4,733,889 割合(%) 30.9 10.7 9.6 23.9 18.4 6目5 100 注 1932年の全石油製品生産額は5'059, 111石であり,本調査による4'733,889石はその93.6%にあたる。
出所。「応急計画調笹目録 石油ニ隙]スJレ現況需品書J,r国家総動員計画関係也類』,1933年lー5月,阿部壁 満州 事 変
J
切の石油政策ー1934年石油業法の成立過程ーヘ 中央大学大学院論究』 No.16,1984年, 7頁に所収の第3表を基に作成。
(52) (53) (54)
日 本 石 油 は 全 生 産 額 の51.2%, 小 倉 石 油 は21.3%,三 菱 石油 は10.3%と 三 社 で82.7%を 占 め ている。 大手 三 社 は あ ら ゆ る 製 品 を 製 造 し て い る が , と く に 揮 発 油 の97.8%を製造している。
一 方, 中 小 業 者 は 機 械 泊 の44.9%を , ま た 軽 油 の23.7%を 製 造 し て い る 。 大 手 三 社 と , 中 小 業 者 で は 比 較 的 規 模 の 大 き い 江 戸川石 油 の 主 要 な 製 油 装 置 を 表 −
2
に示す。製油所 日 本 石 油
鶴見製油所 下松製油所
小 倉 製 油 東京製油所 横浜製油所
三 菱石 油 川崎製油所 江戸川石油
表−2 製油所の主要裳置 (1934年) 主要装置
NNO式原油蒸留パイプスチル(3,600石/日,国産),連続蒸留装置(200石・ 6基, 国産),パッチ型揮発油連続蒸留装置(国産),ダッブス式分解蒸留装置(830石/日)
2基
フォスター式原油蒸留パイプスチル,クロス式分解蒸留装置(830石/日) 2基,ス ミス・レスリー式郷発油再蒸留装置,ノ〈ッチ型機械j由連続蒸留装置(国産),パッチ型 揮発油
J f i l
統蒸留装笹(国産)循環式連続トッピングプラン ト(2,200石/日,国産), ゼンキンス式分解蒸留装置 (1,000石/日)2基,シュルツ式減圧蒸留装置,ケロッグ式
i
威圧蒸留装置小念式トッピングプラント(2,200/日,国産),パッチ蒸留釜(国産) 3基,クロス 式分解蒸留装置(830石/日),ケロyグ式減圧パイプスチル(1,000石/日) 2基,シ ュルツ式j成圧蒸儲装置(200石/日) 4基,郷発れ
h
述統再若草惚装置(550石/日,国産)クロス式分解蒸留装澄(2,600石/日),ケロッグ式減圧蒸留装置(880石/日),揮発 油再蒸留装置(1,300石/日)
パッチ蒸留釜(50石,国産) 4基,M・H式
i
威圧蒸留装誼 (100石/日,国産) 2基 出所水田政吉 日本石油株式会社下松製れh所概要 ,『燃料協会誌』第102号,1931年, 261頁,降旗三七男 小 倉石油株式会社横浜製油所司王業概要に就て\『燃料協会誌』第152号, 1935年, 603頁,奥田英雄『小倉常吉伝L小倉11¥吉伝発行会, 1976年,小林久平 r石川l工業現代日本工業全集19J,日本評論圭!:,1936年, 231頁。
大 手
3
社 は 最 新 の 米 国 製 の パ イ プ ス チ ル , 分 解 蒸 留 装 置,減 圧 蒸 留 装 置 等 , お よ び 国 産 の 連統蒸留装置等を設置し
,連続蒸留による多品種 ・
大量生産システムを取り入れている。一方,中小製油所は M ・ H式減圧蒸留装置と旧来の横置円筒釜を保有しているのみで,パッチ蒸留に
よる主として機械油と軽油の少量生産でヤある。なお,表一2
のパッチ型揮発油連続蒸留装置は,
パッチ蒸留釜内部に仕切板を
設けて数室に分割し,一方の室より 他方の室に石油を流動させて
連続蒸留する装置である。各室の上部を共通にし,仕切板に沿って鉄管を取付けてあり,原油
を連続的に仕込み,各室底部の泊は鉄管を通して次室に溢流し,第1室で最軽揮発油が分留さ れ,第2
室から重揮発油と, j順次に各種比重の揮発油を連続的に製造する。機械油の製造も,
同じ方法である。本方法は日本石油が独自に開発した。多品種・大量生産システムの一例とし て,日本石油鶴見製油所の製油工程を図− 9に示す。
釜留l,(i,
図−9 製油工程
出所 日本石油編 r製油業の発達L 1934年, 4頁を基に作成。
原油はパイプスチルに張り込まれ,精留塔で直留揮発油,灯油,軽油に分留され,残溢油
(重油) の一部は分解蒸留装置に送られて分解揮発油となり,残りは機械泊,蝋,アスフアルト 等となる。
このように,多品種を大量生産する大手業者と
,機械泊と軽油の製造に特化した中小業者に 2
極分化した構造は,大正期と変わりない。4 技術導入と国産化
(|)技術導入の様相
わが国の製油技術は民間主導,とくに日本石油の積極的な技術導入により発展してきた。大 正から昭和初期における製油に関する,外国からの主要な技術導入を表−
3
にまとめた。明治期のパッチ蒸留による灯油の製造技術は,在来のランビキ技術の延長線上にあり,現場 での経験,欧米の視察と翻訳書等により改良を図ることが出来た。一方,大正から昭和にかけ て導入されたガソリンプラント
,分解蒸留,減圧蒸留,管蒸留等は ,欧米で学理に基づいて開
(55) 前掲(1), l頁。
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