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『宗教研究』季刊第3年第4輯(*110号)

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(1)

――目次――

1,

現代生活における宗教と文化との反発と照応,姉崎正治,Masaharu ANEZAKI,pp.1-11.

2,

宗教の文化否定性,鈴木大拙,Daisetsu SUZUKI,pp.12-40.

3,

倫理性と宗教性との実存的関連,吉満義彦,Yoshihiko YOSHIMITSU,pp.41-55.

4,

教育における宗教性,高橋俊乗,Toshinori TAKAHASHI,pp.56-75.

5,

基督教と文化,桑田秀延,Hidenobu KUWATA,pp.76-94.

6,

転換期の思想文化と仏教,永井哲二,Tetsuji NAGAI,pp.95-107.

7,

弁証法神学における人間の問題,佐野勝也,Katsuya SANO,pp.108-135.

8,

バルト神学における文化の問題,菅円吉,Enkichi KAN,pp.136-150.

9,

安心の構造,戦争と宗教に関する一問題,西沢頼応,Raiō NISHIZAWA,pp.151-164.

10,

インドネシヤ未開民における宗教・政治運動,馬淵東一,Tōichi MABUCHI,pp.165-191.

11,

古代イラーンの文化と宗教,足利惇敬,Atsutaka ASHIKAGA,pp.192-214.

12,

天主教伝来と朝鮮近世文化,金孝敬,Hyokyon KIM,pp.215-229.

13,

我国における鏡背文様とその宗教的背景,前田泰次,Yasuji MAEDA,pp.230-265.

14,

仏造像創始への経過,仏像起源考序説,Osamu TAKADA,pp.266-294.

Posted in 1941

(昭和16)年

(2)

、′ ノ ヽ 人の心は境に随って動き、生活は珪境に刺せられる。此は今更云ふまでもない明白の事寛であるが、其と同時 に忘れてならぬ事とLて、心は多少とも境地を刺し、又場合によつては幾分は之を創作する。従って生活は、心 と境との能動受動の関係交渉、又は調和と衝突との間に廃して、或は左、或は右の方向に動托しっつ進行する。 ここに心と亭つたのは極めて一般の意味、又従って漠然の用法であるが、後に少Lくその内容を検査するまで、 極めて弘い意味で用ひておかう。而して左といひ右といつたのは、心と境とどちらが主になり客になり、どちら が他方を制御部導する原動力になるかといふ意味である。 この左右といふ事は、又内と外とも呼び得ることで、心の動きは多様であつても、兎に角多少とも自意識を伴 った内からの聾動を源泉とする。︵此をしも全く外界の影響所産だと解繹する様な巷説は、今論評の限でないと してぉく︶。但し、この主動の活動でも、生理生物弥要素の多い方面では、外の影響に多く制せられるのは勿論 現代生活に於ける宗教と文化との反撥と照應

現代生活に於ける

宗教と文化との反撥と照應

妨 崎 正 治

(3)

現代生活に於ける宗教と文化との反撥と照應

の次第で雪が、それでも心の他の方面の勢力が此の影響晶御し又減殺して、内からの聾動に多くのカを輿へ

ることの雪のも、亦拒み得ない事箕である。鍛練老経挺禁欲行者が性欲の支配を離脱するなど、又もつと極端

の場合としては、殉教者の心が早く莞のかな窪飛びさつて、直接身鰻の苦悩を感じなくなるなどの事例塞

げ得る。但し此様な特別の場合でなくても、叉程度は違っても、同様の雷殆ど絶て心の働きに見られる。例へ

ぼ感覚の外釆刺激でも、注意集中の如何に依って知覚の強弱明暗を左右するのは初歩の心理的事象である。

此く云ふのは、此等の車を心理事象とトて観察する篤でなく、凡そ物事の生存、特に生命には中嶺といふべき

主動の源泉があり、其核心と外項との交渉開聯が生命の運用となるといふことを述べん警ある。両トて人間の

生命では、その生理的方面と共に心理的方面に於て、その中心原動力︵共晶と名けうとも︶と環境周囲との交

渉が、その生活を蓮督する。この道螢に常つて、心の主動が優越して能く環境を制トヾ又幾分でも之を壁東レ又

は創作する場合には、心が精神とトて働くので雷、僻教の所謂る心吉常る。之に反トて外境の支配に刺せら

れ、之に順應し追従Lてのみ働く場合には、之を心作用と云ひ、彿教でいぶ心夙に大約相常する。箇々の欲望や

感じ、又知覚や認識は、外境に應じて動く心所で雷、根本意志と共に理想欣求、娘本自覚と共に融合意識、此

等は心主宰の能動として、外縁の勢力差右する。此の二面の封照は、他の論文や﹁現代文化に於ける科壌と宗

教﹂で、外應性と内法性の二面として述べた鮎である。

内外二面の交渉といふ専態に基いて、宗教と文化との関係を見ると、頗めて大鰐に云つて、宗教悪玉の内藤

性に放耗を据え、表に文化には心所の外應性が多く漂れる。薯トニ者の差異封讐徹底ト㌻の二面に警

592

(4)

\ i\

るならば、問題は簡単に、二者の封立と交渉とのみを観察して足るわけであるが、事態はそう簡明には片肘かな

い。即ち人生の高専絶て心と境との相関反撥で動き、その中で宗教、特にその浪板の信仰は内線性の榎本ともい

ふべきであるが、その蟄表は儀鰻制度、組織活動となり、教義理論にも又垂術文飾にも開聾する。通常は此等の

蟄現金膿を持して宗教といふから、宗教それ自身にも二面を具へてゐる澤になる。

他方、一般に文化といふのは、人間生活の吐合的蟄表として、その機能には外應性が秀でてゐる。然しその中

でも、聾術、特に詩と青紫とは精神的創作力に待つことの多い事象であり、従って内組性の源泉と密着トて蟄表

する。垂術の中でも建築になれぼ、賛用要素が有力になる焉に、源泉よりも蟄表の方が重きをなす様になる。其

から他方面に移れば、畢間、教育、政治、産業、歴臍、軍事など、段々外囲の事情に帽應し、此に動かされるこ

とが多く、大拭の場合には、其等括動の板心原動力に透徹しないで、外面聾表や組織構造のみを主として進行す

る。そこで近頃世間では、文化といふ語を賓務に直接開Lない文聾や巷間などにのみ適用して、箕務又は武備と

封立する風もある。この用迭の適否には今深入りせす、人間生活が社食的括動を呈して、その間に何なりとも生

活に関する思想、意固、目的、又は気脱が宿るならば、其は絶て文化だとして観察を進めう。つ要り何等の意国

憲萎もない天然生活︵此の如きものがありとすれぽ︶に封立Lて文化があり、而トて、宗教が此意義での文化の 中で、如何の位置を占め、又如何なる活動をするか、又すべきかといふ鮎を観察Lて見たいのである。 先に述べた通り、宗教にはその蟄露文外装ともいふべき要素があり、その方面が文化葛象とLて大切の勢力で

ぁる。例へぼ、根本信念から湧せ出る蔓感の中に、天地人生を接し収めて、それが文垂、音楽などに蟄表する場

現代生活に於ける宗教と文化との反撥と照應

(5)

合、その結果が宗教的垂術となをと共に、文一般に垂術にも勢力を及ぼす。此は何れの圃、何れの時代にも見る

尊貴で■あり︵勿論、程度の濃淡色々あり、又は反趣的に動く場合もあるが︶、哲峯思想や科挙研究も亦同様に、積

極なり消極なり、宗教思想、宗教的世界観との交渉を免れ頂い。法制や政治、又産費や軍事は、今日は全く世俗

の専とLて宗教と離れてゐる様であるが、元釆︵少くともその初蟄の時と歴史の或る時期には︶宗教と密接し、 神霊信念又は神聖観念を源泉とL、その支配を受けてゐたことは、今更一々由す必要もない位の革質。 そこで注目すべき事には、宗教が此等文化事象を産み出L、又は之を支配し、此と交渉を密にするに従って、

宗教自身が却て自らの根抵源泉から遠ざかり、内藤性を失ひ、一短文化事象と併むで、政令の外應性の一面とし

て働く様になる。此も事例を挙げるまでもない位に明白の事資であるが、極端の例を奉げて見やう。キリスト自

らも又そ一の最初の信徒も、常時の政治権力とは最も練達い賎民であつたのみならず、その信念も亦、政治や法制

に謝しては寧ろ反射に消極の態度を有してゐ牽。頗るに英数がロマ帝国の迫害を凌ぎ切って後、その国教となつ

てからは、自らが却て帝国法制政治の相綬者となり、帝国瓦解後に於けるキリスト教禽は厳然たる法制組織、政

治勢力となつた。

同様に、併教は、元乗出豪行者の一国として、総て世間生活の文飾享楽を捨離する宗教とLて出費した。然る

に併滅後二有年を過ぎない間に、堂塔建築の威厳を具へ、彫刻旗髪の美を壷す儀式宗教となり、それから三四有

年の間には圧搾たる経典文牽を開蟄Lて、その布教俸播は、牛以上此等牽術の魅力に辟L得る位である。其が日

本に発て虞言件数となるや、殆ど全く聾術宗教となり、あらゆる牽術を産み出すと共に、自家宗教の本領をも嚢

現代生活に於ける宗教と文化との反撥と照應 594

(6)

ノノ ■ 術の申に汲L去った感がある。其からつゞいて、不立文字の膵宗が、牛は詩文の趣味に経常し、茶道にまでも変 形Lた如き、専修念併、信心篤本の浮土虞宗が、一向一揆の囲結となり、本願寺迭主を中軸にした封建的勢力と なり了つた如き、一々事例を説明するきでもなからう。 此等は絶て、宗教が〓琴文化へ没入Lた現象といふべく、宗教信念の内藤性が外に蟄表Lて敢合生活に勢力を 張りつつ、段々に自家本釆の特色から遠ざかつて、終には逆に紅魯文化に退礎するに至ったもの。其の追従が甚 しくなつて、自分の本領を殆ど全く没却する様になれぼ、途些一つ、即ち自己の存在意義を失つてLまふか、又 は断然現代社食を超越し撥無して、反撥的に本葬の精細む喚起し、内藤の力を新に聾挿するか、この二つの何れ かにな、る。︵此外に、現茸に封する抵抗反撥が強く、馬に視覚社食、特に政治勢力に歴迫せられて、滅亡に瀕す ることもあるが、此は別個の問題とLてここには扱はぬことにする︶。 そこで滅亡滑滅については、それだけで事の終結になるから取り立てて云ふ要はなく、他の一途、即ち本性の 聾揮といふ方が宗教の生命にとつて重要事になる。此は多くの場合に、所謂る宗教改革、又は精赫の復活と、いふ 事であるが、この二つの呼方には又自ら性質様態の差を含むでゐる。即ち前者は、多少とも歴史的停統に纏綿L て、教組の古に辟らうといふ意味であり、多くの場合に復古の形式を伴ふ。従ってその改革運動に按古代の文化 を為共に復興せうとして・、時代錯誤の要素の加はることが往々にLてーある。鎌倉時代の併敦に於ける戒律復興や、 英国の宗教改革中、苗代の教愈組践に重きを置いた小数波の蓬動などが其である。但し此程の改革運動でも、そ の意固する所は、畢に時代を逆韓せうとするのでなく、本釆の精蹄を復活せうとするにあるが、其と形式方面と 現代生活に於ける宗教と文化との反撥と照應

(7)

現代塵活に於ける宗教と文化との反撥と照應

の聯絡を重んずる焉に、それだけ純粋に内藤性の動きでないものを含む。之に反Lて、総て形式の累を脱Lて衷

心紳零に親爽せうとする精神復清は、即ち神秘冥合の欣求であつて、場合によつては教組又は一人格の重を目標

とすることはあつても、其は歴星的に見た人格でなく、時間をも祀禽環境や停統をも超越し藍盤の交通を目指す

のであるから、一切の外應要素と絶縁する。其結果は或る歴兜的宗教の復活更生になることもあれぼ、又は全然

の新気運む蟄輝することもあらうが、そのどちらであらうと、要鮎は内薙電性の直凄の黎動にある。

宗教内轟性の黎揚について、右二様態の加は、概念で直別Lて見る馬の分別であつて、尊鷺の箕際に於ては、

両様の分子が多少とも混合してゐるのが多く、只その比率に於て甲乙の多少を見るのである。例へば、道元繹師

ヤアシジのフランシスの場合の如きは、両様が極めてよく融合してゐるが、法然上人やエッカん卜の如きでは、

改革運動の要素は存せす、殆ど純に精神生活の動きである。之に反Lてルーテルや日蓮上人の場合では、牒系あ

る宗教の改革といふ方面が秀で、それだけ多く吐合的文政治的顧慮が有力の位違を占めてゐる。

此等類別の専は、説明の篤正二言したのみであつて、其は又別に考ふべき論題であり、ここで肝要な鮎は、宗

教の文化没入、即ち外應性偏倍に封する精神本性の反撥、内藤性の聾揚復活といふ専にある。誓へで云はぼ、植

物は成長Lて枝葉を張ケ、花を咲かせ寛を結ぶが、その終局には果茸が木から落ちて土に締り、叉それから萌芽 Lて新な成長を途げる。﹁花は根にかへり、虞味は土にとどまる。﹂然るに土にとど変るのは、新に種熱睨の新生

命を聾揚する焉である。而して宗教の生命には、〓々文化の花を開くといふ作用もあるが、又その花が散って賃

を潜び、箕が土に腐ることもなけれぼならず、法華経の理想が聾寛倶成にあるのは、この生命の全牒を統合して

566

(8)

、\ ノ の見地である。之に反Lて、宗教が外應性に偏L、吐合環境に生を托して、一般文化の申に没入LてLまふのは、 恰も切花の如きもので、花は咲いても、又如何にいけ花として実はトくとも︵虞言彿教の如く、又元のPシヤ闘 教の如く︶、賛は結ぼす、自家の生命を失って社食環境の中に没入して終には凋落する。今まで宗教史の牽多の 時期に於てその賛例を見たことか。それにも拘ら、ず、一般文化の燦爛に眼眩じて、その中に浮遊するを能とL、

又時勢に媚びて自家の生命の根本を思はない宗教家がいつの世にも亦多いのである。

そこで韓じて吐合生活に於ける一般文化を見ると、特別の方面、特別の場合の外は、一般に生括の豊富充箕と

いふことを目的とするから、主とLて外應性で動く。文拳、青紫、造形美術の如き、美的衝動乃至零感を基にす るものでも、聾表を必要とL、作者自らも自分の内藤おけで足れりとはせす、表現そのものがワグネルの所謂る 美的強歴冒呂的とLて動く。然し此等の専は今の主題でないから、これだけに留めておいて、他方外界資料を

主とする文化事象を見ると、産業経済や法制政治は勿論の事、此等と聾術との中間とも見るべき料率でも、をの

基本は知識、即ち虞理寛相の探求にあるにしても、期する所は利用厚生の馬の搾取にある。︵近代の自然料率は 特にその方面を能事とする︶。従って有形の利用傾値を高専とする。而して現代文化は資に科挙を原動力にLて 居て、科峯の成功が厚生の要求を激聾L、又この要求が科挙を促進してゐることは、眼前の蕃箕に歴々であり、

其の焉にあわて者は、科畢さへあれぼ人生の幸福は満足するとすら考へてゐる。然るに科峯の資料そのものは人

間自身の利害を眼中に置いてゐないから、その成果を利栢の焉に︵但L多くは有形又直接の︶用ひることも出番 ると共に、之を如何なる害悪にも破壊にも用ひ得る。科挙といふ外應性文化を偏重し、殆ど之を迷信Lて釆た規 現代鹿沼た於ける蔑教と女化との反撥と照應

(9)

現代生活に於ける宗教と文化との反撥と照腹

代人間は、その篤に自分自らを検査Lて見ることを忘れ、料率を善用するも濫用するも、それは人間自らだとい

ふことすら考へない様になり、而して今やその恐ろしい結果が意外の爆蟄をしてゐるのに失心しっつ、侍ほその

迷信の中に彷復してゐるのである。

今日の科峯文化は叉箕に産業史庇であり、その産業は機械工発とLて、人生を機械化してゐる。人間は自分の

利用厚生の為に機械を黎明し使用し、自らその主人公となつたと点ってゐる間に、寛は自らその奴隷となつて発

た。膏に産業や日常生活を機械的にするのみならす、杜合生活そのものをも大きな機械組織にLて、其で萬事が

動くと考へ、又発部は之を貴行してゐる。ソビエト文化が即ちそれで一あるが、その反封に個人の自由を旗じるし

としてゐるアメリカ文化も、人間を樺械や組織の奴隷にする鮎に於ては、辟趣に於て同じである。而Lてその勢 の趣く所、機械的組織にはまらない一切蔭、之を人生から排除Lなけれぼ止ます、宗教は勿論全然之を排斥L、

文畢でも萎術でも、この槙械的生活の表現たるものの外は、一切絶滅させうとする。ロシヤの檜蓋や建築などに

此鮎のしるしが歴々としてゐるを見よ。我邦では、一方ボルシェビズムを排斥Lながら、新Lがりやは︵その内 面の意義を考へてか知らずにか︶、其等を模倣する者があり、教育者や政治家も二向無関心で之を眺めてゐる。

外面に表はれた此等事象の内貴意義に考へ及ぶあたまが彼等にはない番であらう。

機械文此、それに伴ふ機械的人生観について、ここに一つ話柄がある。丁度五年前、ジネバの尊重協力合議で、

前年釆の議題たる機械文化についての報告と討議の時、ソビエト聯邦五年計量の統計主任として有力者であつた

オシンスキーが桜械文化讃美の一段を演説した。その中には、共産主養祀昏に於ける機械の数用や意義などを詮

59S

(10)

没して、最後に結着、人間自らも亦一喝の機械だといふことで結むだ。そこで自分は正面から駁論を加へるのは 愚だと考へ、質問とLて只一瓢だけ説明してくれと迫った。即ち﹁我々の知り得る限では、何れの機械も、之を 動かす原動力を要するが、人間といふ機械を動かす力は何か﹂と。彼の答蹄には又々色々機械といふことの説明 があつたが、結着、人間を動かす力はSy温かme 即ち組織だといふにあつた。此は所謂る﹁科峯的社食主義﹂の 趣意に副ひ、又近代の科峯的文他の見地を能く言ひ表はしたものであるが、その所謂る 払篭tかme は、誰が又は 何が作り出し叉動かすのかといふ問題は、彼の考へ及ぼぬ所であつた。 其はさておき、その翌年パリで同じ合議を緩けた時、忘れも得ぬ圃祭日七月十四日の朝、開合と共に、議長は、 ﹁オシンスキー君が死刑になつたとの報を得た﹂と報告した。之をきいて息はす懐然としたが、彼は寛にスター リンが所謂る番滑の鋒にか1つて死刑に廃せられたのである。即ち彼は自ら一分に加はつて盛り立てただ互を莞 の犠牲になつたのであるが、彼はその最後に臨むで、再び量賢かヨ0 の人生に於ける意義を考へたであらうか、 望tぎ¢の為に殺されるのを本望だと点ふたであらうか。此の如き人生観、又その道命は、漏りオシンスキー個 人の事ではなからう。近代の機械文此、又共に信を招いて人生の能事此に塞きてゐると考へる者、個人も国民も、 眼には見えないでも、又自らは之を意識しないながらに、皆同じ道命をたどつてゐるのでなからうか。 もろともにぉしつおされつきりぎLに おちもゆかむす闘ぐにのたみ・ 此は、外遊の申に年々此の如き危機の迫るのを見ての感じであつたが、今後も此の形勢は益す進むここと息ふり 現代生活に於ける京敦と文化との反撥と照漉

(11)

∵頭首″

現代生活に於ける宗教と文化との反撥と照隆

一ひ

そこで倫淳二歩を進めて見るに、人々の多く云ふ通り、世界特に西洋の近代文化は段々宗教を離れて禿た、叉

宗教自身も東西共にその源泉から遠ざかつて釆た。現代文化は人間精神の内藤性を見失ひ、外囲望現に動かされヾ

機械的組織で動いて、その歩趨が年々に加はつて発た。その結果が現在の爆蟄状態である。

そこで問題は、この爆賀状態の行末如何といふことになるが、行末を遠く考へるよりも、現にその中に如何な

る徴侯が看取せられるかといふ鮎に興味がある。ぎこ包ど旨b監富﹁苦しい時の神頼み﹂といふのは、個人の小

利審について、硯箕を超えた何物かに、何等かの蚕にすがりつくことを指した言やあるが、人類の文化全餞につ

いても同様の祈りの心が危機の中には蟄動する。ロマ文化の爛熟から崩壊に至る間に於けるキリスト教の勃興、

平安文化の没落浸際して浄土門の流行と、共につゞく鎌倉時代の新沸教など、;箕例を説明するまでもなから ぅ。而Lて今日の世界文化爆蟄の中に、此に似た徴侯があるかといふ問題になれぼ、其を今までいぶ意味での宗 教又は教脅の中に求めるよりも︵其中にもあらうが︶、却て機械文化と爆蟄状態そのものの中に見る方が早からう。 例へぼ、信念とか紳屈とかいふ専に正反封の機械工業の中で、機械そのものに封Lて一種の藤堂感が附着︵又は 蟄生︶Lてゐるのは、党に記したオシンスキーのみならす、どこの囲にも見られる。ソビエト聯邦では、今まで の寺院を俗了して、反宗教博物館にLたが、他方には却てその主義を紳聖とL、又印度ジャガナトの神事に封す る狂信狂熱に似た情を以て、機械工場を見る様になつてゐる。︵現在モスクワなどの防禦哉闘にも、此気風が動 いてゐると想像し得る︶。

其と同様に、今日の哉挙が如何に科畢戟であつても、叉如何に械械化が進むでも、戦闘に際し、叉哉寧そのも

600

(12)

のに卸する人々︵特に戦闘員自身︶の態度は、決して単に科峯的又は徴税的ではない。身の運命を托するといふ 態度の中には、何かの類の、宗教的要素を含むでぉることは苗と異なることはない。ヒトラーが司令に動いてゐる ドイツ兵は︵又恐らくその敵の側でも同様︶、千三石年前モハンメドの為に身命を投じたアラビヤ兵と、似通った 心地で動いてゐると息はれる。︵ヒトラーとモハンメドとの顆似といふ事もあるが、此は別問題としておく︶。我 邦でも、兵士各個と共に、戦車艦艇などに護符の伴ってゐるこ・と、而してその護符の表する紳蚕については、必 しも明確な観念はなくとも、兵器そのものの精を仰ぐといふ様な現象のあること、叉戟寧を戦闘として見る外に、 哉寧そのものに紳聖の意義ありとすることなど、皆同様の徴候でなからうか。 哉寧に関する方面の尊は、現在その渦中で事象を汎く又的確に蒐め見る専は困難であるが、後白その総括達観 が出乗る様になれぼ、右の論鮎を完うするに足る様にならう。︵反封の事もー部には出て乗るかも知れぬが︶。そ こで現代の文化危機と、それに伴ふ内線性の蟄動については、﹁現代文化に於ける科学と宗教﹂の終りに概括し ておいたに譲るが、結着する所、人間の生活が飴りに装置仕掛に動いて釆た極、人間天性の他の牢固が、今や反 撥的に聾動L始めてゐるのである。人の心が境に刺せられ、組織仕掛の奴隷となつた為に、反撥的に本能性の爆 蟄がおこり、その極まる所、恐らく此からは韓じて、自ら主人公とLて境地を剃L、又新境地を創作せうとする 方向にも動き始めてきたらしい。この新境地が如何なる文化とならうか、その中に宗教が如何なる位置を占めう か。又その内容たる信念又は蚕感が如何なる表現を呈せうか。ここに我々にとつて痛切で文意義深い問題が横は T⊥ る。この間題の虞義を把へて、充茸Lた解繹を輿へ得る人文は国民は、即ち脾釆の文化を支配する人とならう。 わ 現代生活に於ける宗教と文化との反撥と照應

(13)

どんな宗教にも文化否定の一面がある。或はこれが宗教の本質であるかとさへも考へられる。此に文化と云ふ

のは人間作為の諸施設を意味する。宗教も人間性の聾揚には相違ないが、即ち人間文化あ二面ではあるが、此一

面はいつも他の譜面に封して否定的態度をとる。即ち宗教は人間の篤ではあるが、いつも宗教自身の中に人間な

らざるものを見て居る、或は見んとLて居る。それで自らを人間の他の作為工夫と直別する、而して此区別を強 調せんとするの散り、或は時に他を全く否定L碁らんとさへする。その結果却て宗教自らを病的なものにLて他

の迫害を受けることもある。それにも拘はらす、宗教の非文化性とでも云ふべき面が人間にとりて不思議な誘惑

を持って居る。予は特に﹃不思議﹄と云ふ、此の誘惑は非合理性であるからである。或はかう云ってもよい、宗

教そのものが元釆非合理性のものだと。﹃非合理﹄と云ふ表詮は面白くないかも知れぬ。﹃非﹄の字義には、穣極

的に香定すると云ふ心蒋は入れ充くないのである。偵ミ宗教には合理的論議で推及すべきで太いものがある。合

宗教の文化否定性

宗教 の 文化否定性

鈴 木 大 拙

︼二 602

(14)

理性を宗教に持ち込むべきでなくて、合理性は却って宗教から出るようにLなくてはならぬ。即ち宗教に﹃合理﹄

の通らぬところがあれぼ、合理はその合理性をすてて、宗教の方へ自ら食通の途を拓くやう譲歩すべきであると

云ふのが、予の所謂る宗教の非合理性であり、又やがてその文此否定性でもあるのである。

アチンチャミステリアス それでどんな宗教でも不思議である、神 秘である、驚異又は紳異で充ちて居る。併し此小篇では此所秘とか

紳異とか云ふ宗教の相貌を叙述せんとするのでなくて、宗教の文化否定性或は世間逃避性とも云ふべきを少L取 扱って見たいと息ふのである。而L出奔うべくぼ更に歩を進めて、此否定性の究克は何れに在るかを見たい。

アコスミズム どんな宗教でも厭世的で、出世間的で、逃避的で、禁欲的でないのはない。夫が韓一歩すると無事宙論となる。

厭世観は悌敦の特色だとか、印度民族の心理だとか云ふけれども、基数でもその根本の性格においては、厭世

的である。その罪悪観を見よ。世間の諸相は何れも罪悪でないものはないではないか、而Lて此罪意の故に常初

の第一歩を踏み誤りて、赫と相背くことになつた。罪悪観がなくては基数はなり立たぬ。基数的生活の最後には、

紳との折合ひがついて、頃罪の鰹験があつても、侍英中には人間原罪の意味がはいつて居る。人間は紳そのもの

でないからである。

カルマ

彿教では業と云ふ。無明の一念が忽然とLて起って釆てからは、此世は業の世界である。忽然念起を時間的に 解Lても、基間的に解しても、結局は同意義となる。即ち人間i彿教では一切衆生と云ふが、それが営業所成

なのである。これに縛せられて、生死の世間に頭出頭没する。此業繋の尊茸を自覚するときに厭世親が成立する。

凛教の文化否定催

(15)

高等な宗教は厭世観の墓石の上に築かれる。而して此墓石の意味は、全部の構造に浸透Lて行く。但ミ英人英 人の心理的特質によりてこの意味又は気分が積極的に現はれるか、消極的に潜伏するかの相違があらう。 厭世の気分が積極的方面に動くとき、所りがある。所りはそれ故、宗教そのものであるとも見られる。所少の ないところに宗教はないのである。所りの本営の意味を知らぬ人は、﹃祈らずとても紳や護らん﹄などと云って、 極めて璃薄な安心をLようとLて居る。が、﹃紳や護らん﹄と云ふそのことが既に祈りの心なのである。﹃斬ら す﹄と意識的には口に言はせて居るが、その心の底には大いに祈って居るのである。人間は無意識に自らを欺く ことをする存在である。併L所らすと云って所るところ、言あげせすと云って大に言あげして居るところに、ま ヽヽヽヽ た人間性の矛盾がある。而Lてその矛盾が面白いので芝居をやつて見る。芝居は人間につきものである。宗教に ヽヽヽヽ 所りがつきものであるのと、殆んど正反封の意義において。併L源は何れも人生の矛盾に在る。 所幻を現世的なものと息ふのは、或る一部の彿教者の誤解である。紳は人間に要るものは皆下さると云ふ、又 すべては摘陀の方から輿へられると云ふ。それは人間がかりに自分を紳や弼陀の方に据えて云ふのである。業繋 の人間、罪悪の人間である限りは、折るのが人間である。折りの力を頼りにすると云ふと、それは又別問題であ ヽヽ るが、とに角、人間は折る。此所りから効果が表はれるやうにと考へるのほ、折りでない。それは鳥居をだLに して、稲荷さんと物物交換をやるのである。宗教的祈りは絶封性を帯びて居る。﹃一つやるから一つくれ﹄と云 ヽヽ ふやうなけちなのは祈りでない。自分の仝存在を投げ出すのが宗教の所りの生活である。﹃叩けよ開かれん﹄で 宗教の文化否定性 沸教徒これからの努力は解脱に向けられるのである。 ▲_ 一四 fb4

(16)

ぼ、ま潔折りの虞鮨を攫んで居ない。開かれようが開かれまいが、そんなことに頓着なLに、全容在を亀げて、 無慮の淵に飛び込む。所男とは捨てることである。 所カと云ふと何か取るやうに鳳はれる。それで仮りに積極的と云っておく。冷てるは消極的な感じを喚び起す。 尊意は同一物である。而Lて悌敦では此捨てる方面が目立って見える。基地上人は﹃捨てよ﹄と云ふ。締着は、 ﹃放下著﹄と云ふ。般若は﹃一切基﹄と云ふ。文字の表面からすると、文化否定性は沸教において、より明白に 見られるやうだが、それは文字の上だけのことだ。﹃一切拾離﹄なき所βは宗教的でない。宗教性なるものを詮 ヽヽヽヽヽ くところには、何かの意味で、此﹃拾離﹄がなくてはならぬ。箕は﹃厭世﹄と云ふ語はな誉ぬるい。 三 印度は各種宗教の塩床である。世間・出世間の概念は悌敦に限られて居ない、印度の宗教は何れも出世間生活 を冒瞭とLて居る。それで政治的には大した躍進の跡を見せないが、彼等の宗教的生活には驚異を催するものが ある。印度でなけれぼと息ふことがいくらもある。これは主とLて気候風土的環境が所謂る出世間的生涯を大に 可能ならしめたものであらうか。一衣一鉢・樹下石上など云ふことは寒帯地方で行はれ得る仕事ではない。填及 アンコライト にぉける基数聖者の際 栖生活の如きも、挨及以外の国土では不可能であらう。北欧や北支部の如きところでは、 印度や挨及で見られたやうな人間或は集囲生括否定の生活は見難いのである。 大鰐において、世間相を形成するものは、名と利と色と力である。近代風に云へぼ、自己生存の欲、稔族有縁 の欲、桂力獲得の欲である。是等の諸欲が基礎的衝動力となつて集国生痛が営まれる。併し是等のカは、カ本葬 乗数の文化否定性

(17)

宗教の文化否定性

〓ハ

の性質とLて、必ず自己を肯定し、自己を損大し、自己を旺盛ならしめんとする。その結果は必ず岡寧である。 力と力とは衝突せ一ずには居られぬやうに出釆て居るのでJ冨。衝突すれぼ必ず左膝ち言放れる。世間相は修

羅の巷である。右往今釆、東西南北の歴史は何れもこれを堆梧に物語る。力には強弱以外の億値療準はないので

ぁる。但ヒ人間のどこかに、力以外のものがあると見えて、自分等は是非とか善悪とか虞佑とか美醜とか何とか

云ふものを説く。ところがそれが却て力の動きに口箕を輿へることになる。即ちカは名を善悪とか正邪とか云ふ

ものに侶甘て、その本釆の面目を蟄揮する。名の好きにつられ、論琴の整へるに似たるにつられて、力の横行に

●●●● 賛成して、これを援助する、これをLてその求むるところを獲せしめる。彿麿中に︵無且量鮭︶三毒段・五志段 と云って、世間相を殊に描き出Lたものがある。こんな事が印度で、或は支部で、特に烈しかったと云ふわけで

ない。

力のある魔に宗教はない。宗教は力の世界と没交渉である。それ故、宗教は出世間の境地に去って行く。﹃豪

を捨て、欲を棄てて抄門となる﹄のである。﹃国王・王子・大学官長などに親近するな﹄と云ふは、カに近づ

くなとの義である。又﹃諸モの外道、世俗の文筆を造り、外書を讃岐するものに親近するな﹄と云ひ、﹃兇戯の

相次・相撲を見る窪と云ひ、﹃狩草薙狗を畜ひてこれを殺し、牧独漁捕を事とするものに親しむ藍と云ふは、

名や利などを邁離せよとの義である。﹃女人の身において、能く欲相を生ずるの相を取するべからす﹄と云ふは、

色を離れと云ふの心である。﹃常に坐繹を好んで、閑廃に在り、その心を修鋳せよ﹄と敬うるは、出世間生活の

●●●●●●● 礎磯を示すものでぁる。︵引文の句は、無量毒感及び港藻軽からである︶ 605

(18)

′、 も∵f ー\ \ 、予 〟 ・ ′

ヽヽ

世間がいやで、山へはいつたが、山でもどうも面白くなかったら、どこへ行くのか七.尋ねられることもある

が、山は山として、どうも世間を出たいと云ふ心持は、、どの宗教人にも抱かれて居るのである。世間の離れられ

ぬことは彼等にも勿論わかつて居る。元釆自分等が世間を作って居るのである。自分等が世間から生れたのであ

る、自分等が世間そのものなのである。が、それでも世間を出たい、離れだいと云ふのが、宗教である。これは

勿論矛居である。而して此矛盾が宗教なのである、人間なのである。自分が自分を否定して、自分にならうとす

るー此に宗教がある。宗教の人間否定、文化否定は深い矛盾から出て居るが、それと同時に此矛盾、此否定を

どうすることも出釆ぬのである。

宗教人は世間を見て単なる欲所生だけだと考へない。彼は世間を韓欒無常だと敬する、而して無常なるものは

虚妄だと云ふのである。如何なる文化にも縛欒性はまぬかれぬ、随ってそれは虚妄である。宗教人はそれ故に虚

ヽヽ 妄を出て、虚妄ならざるところに入らうと欲する。世間の億値なるものはあてになちぬと、彼は主張する。﹃諸

サンカラクル 行無常﹄と彿者は説くが、その行と云ふのは﹃行馬﹄を云ふのでない。凡て﹃作馬﹄性をもつたものとの義であ

ダルマ る。而して作馬なLに文化はない。文化も無常である、生滅の法則に従廃する、而して一切生滅の法は虚妄であ

こケウツタラ る。世間は虚妄である、虚仮である。宗教はそこから脱離しなくてはならぬ。宗教は出世間の放である。﹃出﹄

の義を﹃離れる﹄と見てもよL、﹃超える﹄と見てもよし、﹃優越する﹄と見てもよい。とに角﹃没入世間﹄でな

くて出世間でなくてはならぬ。

四 乗数の文化否定性

(19)

天随子が﹃山中の愴﹄は、此恰の環境と内的生活とを能く描き出し居る。

ムニ

カラ、クヲノ 言開l二軍翠徴表。日暮白雲棲一年間可白雲軌弊配も敷地訂倍一雲未鞄﹄ ュモズナラ 近代的生活に慣れたものは、電気だの、水道だの、瓦斯だの、ガリワンだの、石鹸だのと云って、白雲の横は るところでは中≧くらLにくいのである。併L現代人でも原始的生括に道男たいとの心持ほ決して滅却Lて居な 一入 宗教の文化否定性 ・﹃超え﹄るにLても、﹃出る﹄にしても、精細的・観念的・知的なる鴻のも■あるべく、又器械的・物理的なる もあり得る。所謂る﹃一切迭は基である。一切の語言の道は断えて居て、生も滅もない。出でず、起きす、名な ●●● く相なく、箕に所有なし。無量無遽、無碍無障だ﹄︵迭葦経︶と、観じて因縁顛倒の世間そのものの中に、自分の 行虚を定めて居る宗教人も、固より有るととであらうが、山に入少て芸に隠れるのも可なりにあるのである。世 間人で出世間人だつた練磨居士の如きもあれぼ、又他方では精静的にも物理的にも出世間人であつた寒山・拾得 の如き、叉日本近世の良寛和侍の如きもある。 漢民族は世間人である、仁義や穐契などを八釜敷云はぬと気のすまぬ民族である。それで孔子は盲世の師と仰 がれて居る。孔子は漢民族の典型的指導者で、文代表替である。それにも拘はらす唐代や宋代の詩集を見ると出 世間的気分の横溢したのが渾山ある、.而Lてそれがまた詩人だけでない、俗人までの心を引きつける。﹃山中暦 日なL﹄の如き、I﹃雲深うして虚を知らず﹄の如きは、最も人口に勝気するものの一二である。 支部のお寺は大抵山水深きところに建てられてある。石屏が﹃湘西寺﹄

ハ︵ワニズラノ︵ト

シテナリ ﹃東岸棲壷西岸山。沸湘一片在こ中間可紅庵不ゾ到漁改上。恰輿こ白雲一相野閑。﹄ の詩に云ふ、 608

(20)

い。原始的生活は、器械的出世間ではあるが、その中に生活の簡易此と云ふことがある。而Lて此簡易化、単純

化は、倍院生括の形態である。形態の中から時に、或はその形態を現賓せしめた心的なるものが出て滞ることが

ある。現代人は夏期たキャンピングをやる。若いものにとりては、これは〓榎の腎陰であり、バイオニヤ精細で

あるが、キャンピングは単にそれだけでない。その中に宗教的・出世間的な精細の要求がある。即ち文化の重荷

をふりすてて潤達自由ならんとする精神がある。集囲生活でないと文化は成立せぬ、高して此文化生活は一種の

りビド 繋縛である。子供は著物をぬいで虞裸になるのを喜ぶ。フロイドはこれ盈性的だと云ふが、それは精神分析の至

らぬところである。予はこれを宗教的要求の前影だと見る。近釆日本では﹃みそぎ﹄の行事が紀行すると云ふ、

これは固より純粋の宗教的なものではないが一子供のはだかになりたがるのと一脈相通ずる心理であるがき

っまりは文他生括の衣冠束帯を脱却せんとする心の現れである。﹃みそぎ﹄が宗教となるにほ、更に進一歩の境

地を開拓すべきは無論である。

とに角、文他人は云ひ知れぬ多くの荷物を背負って居る。集囲生括でないと、人間生活はないのだが、この集

圃なるものは、雑多の形式で、その中に棲息する国貞を拘束する。群衆心理の賛達1或る一面では、雷同附和

であるが、この心理の黎達のために、拘束を甘受するのが人間である。ところが、此甘受にも程度がある。人人

によりて固より相違はするが、或る人にとりては、その自覚が割合に鋭く感ぜられる。それでその限界を突破せ

んとする。ソローの如き人間は決Lて稀な貿例ではない。愴院的出世間的生活按やはり集囲的なものの一形態で

ある。或る意味では、政治的せ間的なものよりは凌ぎ易いであらう。が、集圏は集囲であるから、制約がある、

義教め文化否定性

(21)

宗教の文化否定性 二〇 ぎよう 繋縛がある、ソ這−の如きは境野を行かうと云ふのである。本釆の意義で云ふモンク行をやらうと試みた人であ る。昔しの基数の聖者と一面相接嘱して居るものが見られる。 けだものわた 基督が暖野に世を避けたこと、聖者フランシスが鳥や獣の群に入り去ったこと、澤迦が山から山を度ったこと、 ●●●● 何れも人間的集囲の制約から離脱せんとしたものである。世間的生活文化の否定である。ソ這−の著述ウヲルデ ンは此間の消息を洩Lたものとして、宗教人の﹁讃を値する。その﹁簡︵第一篇中︶に云ふ、﹃とに角、生をつ きつめられるところ資で、つきつめたいと思ふのである。捨てられるものをすべて捨て去りたいのである。而L ヽヽヽヽヽヽ て最後に残るものは何か。それがやくざなものなら、それでもよい。そのやくぎの全部を、爽難物なLに受け入 れたい。叉之に反Lて生が崇高なものなら、それを心ゆく空で鰹験したい、而Lてそれをわが次ぎの行動にぉい て矯飾なく説き出したい。云云﹄ソローは百年前の米国人であるが、その頃清酒としてアメサカに入り込んで禿 た印度思想を、彼も十分に吸ひ込んだのである。その結果はウヲルデンの湖畔に丸太小屋を建て1生層の単純化 を資行したのである。其頃から次第に物質化L乗らんとする米国文化き資本が積立られ、織道が敷き列ねられ んとLた米国の物質的蟄居に封Lて、反旗を萌したのがソロ−である、言論の上だけでなく、貿践の上せも。 近頃彿蘭西人で、ゴントラン・ドユ・ボンサンと云ふ人が、加奈陀の遜北に棲んで居るエスキモ民族の間に数 ●●●●● 箇月間親しく生活Lた、その経験を書いたのにカブルーナと云ふのがある。此生活経験と云ふのほ、極めて原始 的なもので、人間を赤裸裸にLたものであつた。所謂る近代文明又は近代文化なるものの隻影を留めぬ生活であ る。著者は単なる冒険でそんなことをやつたのではないらLい。改も赤心の平和を求めて両かも得ること能はぎ 6IO ′

(22)

る近代人の一人であつたのである。此虚にも文化否定のご洞息が窺はれる。 普通欧米人が近づき得べき最後の地鮎ペリイ河口に出て釆たとき、ドユ・ボンサンは今まで生活して釆た五首 哩北方のエスキモ任地に勤して息郷の念に堪へなかったと云って居る。これから又﹃文明﹄の世間に還るのかと 息ふと、何だか今まで王さ真のやうな気持で暮Lて居たのが、急に奴隷になり下るやうだったとのことである。 ﹃恩知らずのやうだが、自分にあるあらゆる本能的衝動は、自分自身の世界を拒否するのであつた﹄と。原始生 ●●●●● 括・・裸鰻生括・文化否定の生活が、これほどまでに、カブルーナの著者を魅惑するとは、彼も想像しなかったこ とであらう。﹃自分は今や心の中に言ひ志せぬ精細的落付を得た。たゞの光を捨てて本営の黄金を手にした。彼 地で鉢験した雪や氷と鼠と其危険は箕に自分の救ひ主であつた、これを昧はなかったら、自分の蚕性は此肉身の 中に情なくも死んで行ったことであらう。自分はあの北極の生活で自らを内面から遣り直Lたαだ﹄と、かう云 ふことまで云って居る。畢生が夏休み中のキャンピング又は山登りも、或る意味では蛋性再建の淡き夢の跡を逐 ふ﹃無意識﹄からの要求ではなからうか。 五 原始的生括で蚕性再建の資を奉げると云ふことのうちに、﹃自然﹄に腐れと云ふ人間性がある。自然と云ふも のを、どんな意味に解するにLても、とに角、人間生括∫人間の文化生活−1と封疏させて考べるのが、菩等 の普通の考へ方である。ルソーの自然論は論理とLては徹底Lないでも、何やらそこに菩等を引きつけるものが ある。自然は時によくないものと解せられ、﹃紳ながら﹄も必ずLも至幸の意味を持たぬが、﹃天虞爛漫とか、 乗数の文化否定性

(23)

宗教の文化否定性 二二 ﹃本有の性﹄とか、﹃巳むを得ざるの誠﹄などと云ふと、人間の無意識はこれに向ふものである。自然を﹃征服﹄ すると云ふ近代人も、何かにつけ自然に接蠣Lたいとの心持を有って居る。固より﹃征服﹄︵予は此語をきらふ︶ の封象となるのは物理的自然で、﹃本有の性﹄などと云ふ自然ではない。が、それでも宗教人ならばその物理的 なるものの裏に、人間を超越Lたものを認める。山や川や基気や光なさ云ふものの中に此超越したものを、見ん とするのである。吾等を引きつけるものは、こんな﹃自然﹄でなくてはならぬ。此に文化否定の自然の姿を拝み 得る。 ヽヽ ヽヽ 東洋の人の方が西洋の人よりも、這箇超越底をより善く講み、より深く解するやうである。寒山の詩の如きは

﹃鐘鼎の家﹄とは文化の宿りどころである。必ずしも名利樺力の併任と見なくてよからう。﹃虚藍の名は、何

でも﹃是れ﹄と指して名のつけられるもの一切窒息昧するものと見る、諸との概念も観念も想念も皆これに含ま

れると見る。名は梵語あサムジュ言である。寒山はすべてこんなものを否定する。而Lて白雲の細石を聴く痍

に安身するのである。

最もよき例である。 ニレスヲ ﹃重演我トレ屏。 ノブル 匪際何所ゾ有。 スルコト■r リ ブ 任レ虫凡幾年。 スタノ 寧詰鐘鼎家. その一二を奉げると左の如きがある。 ル ノ ルタ 犀見三春冬易可

スヲ

鳥道柁二人跡可

クヲ

白雲抱ユ幽石可 ヌチシ 虚名定無レ益。﹄ 6Ⅰ2

(24)

﹃死時の道を忘却する﹄ところに、自然と相見せんとするのが東洋的宗教人の志向なのである。ソ這−なども雨 垂れの育にききとれて、猫居の寂しさを忘れたと云ふが、自然には何やら感性的以上なものがあるやうで、これ を認得するのは必ずしも東洋人に限らないとも云はる。 北方民族より南方民族の心理の方が自然を脅得するに適して居るか知らん、或は風土的環境に由るもの多いと 云ふペきであらうか。北方では自然はいつも我に封するもの、我に抗するものと考へられ易いが、南方では自燃 ヽヽ を親しきものと感ずるのである。老荘豪の方が孔子などよりも自然に融け込まうどする。孔子流の心理は、なだ ヽヽヽヽヽヽヽヽ らかな、なごやかな気分で自然に向はす、何かと曲折をつける、筋目を立てゝこれに封抗したがる。儀絶とか位 階とか再ふやうなもので生活を規制Lて行く。従って文化的施設がやかまLくなる。南方の民族心理ではf或 ヽヽヽヽヽ は南方の風土気候では、そんな現象は生起しても、侍その裏面にやはちかな、互に融通L得べき心持が脈脈とL て動いて居る。而Lて宗教人は此心持から物理的自然の具に進まうとする、即ち文化的苑設をかなぐり捨てて、 裸で取り組みをやらうとする。南方心理の方が宗教人的である。それかあらぬか、北方で出釆た宗教はないやう である。彿教は云ふに及ぼす、基数も回教も共に南方である。但ミ基数が北方民族の間に行はれるやうになつた スレバ ント ノ ヲ ﹃欲′得ユ安身虞”

クヲ

微風吹ュ幽枚可 ニサノ 下有こ班白人可 サズ 十年辟不レ得。 桑教の女化否定性 クツ 寒山可こ長保可 イテ ケバ シ 近叫聴馨愈好。

ムヲ

嗜癖讃一︼費老可 ノヲ ス 忘こ却釆時這可﹄

(25)

二掲 宗教の文化否定性 ので、寧ろ世間的宗教気分が旺んに一なつて、出世間的、貌自然的なものが、とに角、散り表面に出なくなつた。 ブルータル 希臓思想のせいもあるかも知らぬが、基数の自然観はどうしても物理的・物質的・器械力的・管理的である。 此に彼等の二元論的心理があるが、東洋思想特に併教にありてほ、自然は作焉的な計較的なものではない。彼等 は自然を物質的に見ないで、蛋的なものとして、それから出る彼妙な作用の中に腐りこまんとする。封抗的態度 はとらぬ。北方の自然は厳粛で冷酷である、国家の迭律的態度で人間に向ふ。その少しも仮借せぬ態旋には飴裕 がない、包癖性がない。仰いで退くより外ない。それ故、北方心理は自然を解して、わけのわからぬ力とする、 人間の零性に封して、非合理的に、本能的に、物理的に歴迫を加へるものとする。自然は支配され、征服される べきで、親近すべきでないとする。ましてその中に流れ込んで、それと一つにならんなどといふは、以ての外の 考だとする。一口に云へぼ、自然は悪魔据。南方心理は之に反して春に或は常時に百花の練乳たるを見る、鳥の 歌ふをきく、虫の鳴くをきく、秋の月の澄みわたるのに心を奪はれる、それに食物は豊富に供給せられる。烈日 の焼きつけるのがなけれぼ、即ち塞湿その時に宜しきところでは、南方の自然は親しむべきものでなくてはなら ぬ。モゼスの律法主審、エホバの必罰的態度に反して、基督が野の盲合花や明日死ぬ雀の話を持ち出したのは、 明かに北方心理を南方心理に換えたので一警′Q。南方では自然は愛の象徴である。律法は因果である、その必然性 から蓮れられない。愛は起因果である、恩寵である、此身を投げると救はれる途が開ける。而Lて宗教は此に在 る。北方の自然に物理カの必然性を見、南方の自然に無線の慈悲を感ずると云ふペきであらうか。 ヽヽヽ 彿教の措く極楽に按、それ故﹃自然に﹄と云ふ形容詞がやたらに使はれる。﹃自然に色モの妓寒がある。﹄﹃七 6Ⅰ4

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l・、 賛の荘厳が自然に此成する。﹄凍Lい水が﹃自然にその身に濯がれる。﹄食べよ丁?と息へぼ﹃自然に満つる﹄など ●■●● 云ふ文字が見られる︵無量裔歴︶。こちらの力を用ひすに、彼方より自らそれが加はつて釆る。世間の﹃輿へなけ れぼ貰へない﹄と云ふ法則は、宗教的出世簡約な生括の上には通ぜぬ。貰ふ一方である、それ故﹃あタがたい﹄、 ﹃冥加がつきる﹄のである。 文化は飴りに多くの施設をもつ、飴りに多くの努力を要求する。それも結構である。人間はそんな風に出来て 居るが、文一方では寝て起きて、田囲で働いて、くたぶれて休む、﹃帝力われにおいて何かあらん﹄と云ふとこ

ろ、無政府主義の太平楽の境地がほしい。文化工作を、その施設的・計餃方面で否定せんとする宗教生活は、人 間としてまた自然の要求でもあると云はねぼならぬ。

宗教の文化否定性は、〓カでは或る意味の自然主義にあこがれるが、ま空方では、これと正反討と息はれる 貧乏主義を穐讃する。その方向から見ると、両極端に走って居るやうであるが、その中心の動機から見ると一つ である。何れも外からつけ加へられたと考へられる散剤物の棄却である。人間的・世間的・文化的施設工作を排 ヽヽヽ 除して、その跡に何か凍るものがあるなら、それを把捉したいと云ふのである。赤裸裸の自分をまともに見たい と云ふのである。これには人為的なものを捨てて自然に還ることにしなけれぼならぬ。経済的には貧乏主義を要 求する。花より園子で、一封の箸と一個の破れ茶碗でよろLい。スープには此さじ、お茶には此茶碗、コヒ一に はあのカップ、シ・ヤンペンにはこのグラス、ボルドーにはあのグラス、ビールにはタンブラーと、飲みものの種 柴教の文化否定催

(27)

素数の文化否定性 二六 類が達ふと、その入れものが達ふ。叉食べものの方では、あの皿、この皿は云ふに及ぼず、サジも違へぼ、フォ ークもナイフも千種高校である。これが文化生清かは知らぬが、とに角、煩頸なものである。五合魔の良寛、三 ヽヽ 俵櫓下の桃水には、とんと無用の長物で按なからうか。墓場から拾ったかけ茶碗、これで患客へのお茶も立てら れるではないか。 これは食卓上の飴剰物の一例であるが、住居・衣服についてもまた大いに同様のことが云はれる。或る角度か ら見ると、廠剰も飴剰でないと云はれぬでもないが、一虞寛の世界に生きたいと息ふものには、一衣一鉢、樹下 石上の心持が此上なく慕はLい。 飴剰は外来の文化的施設だけでない。知的に見ると、右往今釆の哲峯・科峯・文峯・歴兜∼何れも何たる飴 剰物ぞと云ひたい。知的に貧乏であつたら、人間はどの位虞資に生き得るかとさへ思はれる。一文不知の尾入道 が癌Lいと云ふのには大に理宿がある。畢なる誇張ではない。大蔵経を何遍謹んでも虞箕の世界へははいれぬ。 地獄の入口の看板にある如く、﹃君が有つすべてのものを捨てよ﹄である。地獄は資際のところである、極柴で ヽヽ は人間はうそをつくかも知らぬが、地獄ではさうは行かぬ。悲劇の方が虞寛だと云ふ哲峯者の斬首は合理的だ。 ヽヽヽ 地獄では今恵で大事に仕舞ひこんでおいた文化の諸道具をかなぐり捨てて、生れたままのはだかで居なくてはな らぬ。閲歴さんの帝政璃の前では、外的装飾も知的装束も何の役に立たぬ。Ⅹ光線に惰らされると、骸骨のまま で立たなくてはならぬ。 宗教人が督しから貧乏主拳を標梼したのは必ずLも経済的方面の意味Lか持なかつたとは云へぬ。知的方面で 6Ⅰ6

(28)

も亦大に石不知百不禽主義を鼓吹した。基数でも併敦でも、その愴院は嘗ては文化の保存庫でもあつた。併Lそ れは人間歴史上の過程で、偶然性のものである。宗教の本質とは寧ろ没交渉と云へる。宗教はどこまでも貧乏主 義で押し通さうとするであらう。最後の一文を捨てることめ六歯数いと同様に、知性の動きをその兆すところ妃 早くぶり捨てることは決Lてく容易でない。知性の動きを、彿教では一念念起と云ふ。念が動かぬと思想も管 掌も何も′めつたものではないが、宗教はそんなことに頓著Lて居ることを許さぬ。、近時人の言ふ﹃紳ながら﹄で も﹃言あげせぬ﹄でもない、それはまだ湧い、宗教人の本営の要求はそんなところにも止まつては居れぬ。﹃今 年の貧は錐もまた無し﹄と云ふところまで行かなけれぽならぬ。百尺竿頭に一歩を進めて、十方世界にその身を 現するところまで行かなけれぼならぬ。宗教の此方面における文化否定は只一時的・外面的・皮膚的のものでは ない。箕に徹底Lて居る。 さきに﹃帝カわれにおいて何かあらん﹄と云ふ自然生活に逼るのが宗教だと云ったが、これは努力を耕Lたの ではない。貧乏主義の自然生活には並ミならぬ努力が要る。▼文化創造に要する努力と異性質と方向を異にLたも のが此にある。而してこの異なるところが宗教生括の箕髄である。文化は積み上げる、宗教は崩す。併し此は破 壊ではない、爆弾投下ではない。宗教の崩L方は積まれたものを其優にして、その基底に、共棲集に、其努力に 動きつつあるものを把挺するのである。積んだものを破毀するの按、却て所謂文此工作の産物である。宗教は積 曇れて行くものの申に、下に、流れて居るものを汲みとらんとするのである。﹃崩す﹄と云ふは﹃融ガる﹄の義 である。文化工作を動いて流れて行くものとLて、自分と自分に封するものとを、共に崩して、其流に投げ込き 宗教の文化否定性

(29)

宗教の文化否定性

二八

んとする∼これを宗教的貧乏主義の箕践・努力と云ふのである。此種の努力は、富を積む努力、知性を研き智

力を鋲くする努力と、大にその性質を異にする。宗教の文化否定と云ふのは、一面にこんな意味を遅戟して居る。

宗教の文化春定を今一歩進めたものに禁欲主義が■める。貧乏主義は生括條件を最低度まで引き下げたものであ

るが、程度は低くても生存保伸そのものを否定するのでないから、とに角、露の命だけは繋げる。ところが今云

ふのは宗教の性欲否定である。文化など云ふものも望見は性欲肯定からの葦である、箕である。単なる個鰹存在

の問題なら、知性問題・経済問題とLても大した面倒もなく、文集囲生活の必要もなく、濁り禿て濁り往く、風 のやうなものであらう。唯ミ個鰐存続即ち種族存緯の問題があるので、出来上る集囲生痛も内外把わ.たりて穂積

の葛藤が盛り上る。或は性欲がなかったら、個慣の問題もなく、個牒そのものもないであらう。香、或は此個鰹

の存繚の故に性欲が教生したとも見られよう。とに角、借鰹保存と性欲骨先の問題はからみ合って離れぬ。而し

て此性欲の政に、集囲の結成が可能になり、集囲生活の政に各方面に文化の蟄達が見られるようになつた。今宗

教は此文化蟄揚の叔本に向つて斧絨を加へんとする、而して此斧銭は個人そのものを生かLておいて寛行せんと

するのである。

グロサファイ 宗教とまでにならぬ各種の原始的行事に、性欲を光 化せんとLたこともある。神前における性行事は原始集

むくゆうぎよう 囲生活にぉける現象である。蟄達した宗教にありても、性行専そのことを﹃自然﹄の無功用行と見て、生理的興

奮及び心理的陶酔に宗教的意味を親はんとさへした。天地を陰陽と考へ、此両性の遅行を以て四時行按れ寓物育

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かた すと云ふことになれぼ、その間に居て、それに象どる人間の陰陽行事に神秘がなくてはならぬ。これが宗教人の 要求する最後の虞貿ではあるまいか。種子から芽が出て﹁芽から枝が、枝から菓が、花が嗅いて、茸がなつて、 而してその箕からまた次の一木の生長が可能になる葺これが﹃自然﹄の本能なら、性欲行は一切生物の本能、 或は神聖な本能でなくてはならぬ。これはどうしても宗教的神秘の最も深きものであらう。原始人の行動、或る 文化人の性的宗教は、こんな風に解繹し理解することも不可能でないかも知れぬ。 併し他の一方を見ると、性行篤にはいつも何やら一種の暗影が伴って居る。光此的現象と同時のこれを悪魔の ヽヽヽヽ 誘惑と見る考が消失せぬ、ひつこく喰ついてまわる。性行事に巌する過度・横溢・無軌道性・矯飾性などを見て、 これを魔物扱ひにするのかと息へぬでもないが、どうも衝動自照に封する宗教人の反逆である。此反逆には何か よほど深いもの、根本的なものがあるのではなからうか。宗教の文化否定性はその人間性の否定に重りて殆んど 頂鮎に達したものと云ってよい。 古死の宗教人が、如何にその心身を苦しめて、此本能的衝動を克服せんとつとめたかを見よ。中には直接行為 でその根本と信ずるものを断たんとさへLた例も俸へられる。悪魔の誘惑軍は千種高楼の手段で、表から裏から、 じりくと寄せて凍る。基数の聖者の生涯などには此魔軍に封して悪戦苦闘した事蹟が偲ぼれる。殊に痛愛しく 憶ひ出すのは、中世紀における聖者スープーの生涯であらう。別の裏をつけた綜絆を着て寝たなど云ふのは、地 ヽヽ 獄で針の山へ逐ひ上けられるやうな気がLてぞつとする。自営自責の本能を最低の條件で繋いでおくと云ふのも、 或る鮎でぼ、性的本能に封する側面的牽制と見られぬこともない。これはそもく何の故であらうか。 森教の文化否定性

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采敏文の化否定性 三〇 東洋では性的衝動を割合に生物峯的に見た。姶姻は子孫繁昌、組先の祭りを絶たぬためだと云って居る。異性 間の愛情と云ふものに封Lては、飴り考へなかつた。またその愛情なるものも、衝動の方面とのみの踊係を深く アガペ 見て、それが愛の本質にまで聾屈し向上L昇聾する可能性を包蔵Lて居ると云ふことには、飴り注意を梯はなか った。この蟄展・向上を嶽愛の上に見ないで、母子の師係の上に見ようとした。宴と云ふ異性よりも、母と云ふ 異性に封しての愛が、純粋なものと考へ定められた。それは何れにしても、性的衝動は衝動そのものに止まらな ヽヽ いで、その中に包蔵せられ居るより以上のものを抽出L完成すべきであると考へてもよい。毒筆が択泥の中から 出ると云ふ風に。基数者が聖母マワァを崇め、僻教徒が観音さんを女性化するのも、懸愛衝動の向上でなくては ならぬ。また宗教的聖者と云はれる人人の同遼に、女性の存在すること屡ミなるも、また此間の消息を俸へるの である。人間情愛の実はLさは、茸に宗教人のあこがれではないか。 それにも拘はらす、宗教は女人を以て魔の使ひと見撤し汽人間を生物峯的水準の下に引きずり込むものと見 倣した。世間底と出世間底との封抗は、この場合では、生物性又は動物性と人間性との封抗となつた。何れにL ても、宗教は性的衝動を否定することになつた。文化否定もここまで乗れぼ徹底して居ると云ってよい。それが やがて僻鰻の破滅に導くものであらうと、それは樟まぬ。只常面の問題とLて、どこから出るかわからぬが、是 亦一穫の不可抗力的衝動とLて、性的なるものに向つて、正面衝突をするので・ある。宗教には箕にこんな場面が あるのである。 い.:〇

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ノ 宗教の文化否定性を跡付けるべき、今一つの宗教思想がある。それは釆世親と極楽往生観である。此二つは一 つと見るべからざる如くであるが、その根底には∴つの斬新があ畠。此世では禁欲でも貧乏でも厭世でも何でも 得られぬものがある。併しそれは何とかして満足せられねぼならぬ。それには釆世がないといけない。而Lてそ の釆世は地獄ではいけない。地獄もなけれぼ考るまいが、そこへ行くぐらゐなら、今生の苦労は無駄蕃であらう。 やはり因果がついてまわる。釆世は極楽でなくてはならぬ。七十・八十だけの一生では足りない、百・二百でも いけない。併し生死は韓持して行く、乗らん世では、此土で完成しきれなかったものが完成せられねぼならぬ。 完成の境地は痢であらうと、そんなことを考へる限りは、それはなくてはならぬ。或はなされなくてはならぬ。 紳が考へられる故に、なくてはならぬと同じやうに、釆世の極発もあるに極まつて居る。文化否定性の積極面と も云ふべきものがあるべきだ。 極柴は主観的幻影か、但しは客観的箕在かートとの問題はとに角として、この要求の心理的基礎となるものは、 尊貴ずるに、宗教の文化否定性から出て居るのである。 文化人が古今を通じて享有Lつつあつた一切の文化施設を壷Lても、人間には満足しきれぬものがある。此不 安の衝動に駆られて、山河を政渉L、原始生活の中にまでも没入するが、現世の文化の重荷或は榊鎖憶中モにと りはづせない。生死の囚となつて居る限り、人間は生死そのもの及びlそれから出て葬る一切の作為・蒐設・計較 うゐ から離れられぬ。それが有為の人間の業である。それで人間は現世を否定する、どこかに自由の世界、自ち主人 公となり能ふ世界がないものかと考へ出す。而してこの考を助長させるものがまた人間の心に在る。それは永遠 宗教の文化否定性

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宗教の文化否定性 三二 の進歩と云ふか、蚕の完成可能性と云ふか、そんな希望或は所願である。是希求は人間の心に本釆具有底のもの と見るべきで、これあるが故に、生死の硯世に獲らぬものを、釆世に求めんとする。釆世と云ふ考そのものが箕 は此希求から出る。宗教の世間的文化否定は自ら極柴往生とならざるを得ぬ。天地創造の始めに極楽を失ったか ら、それを取り戻すと云ってもよし、又生死の連盟をたち切って後に、そこへ往くと云ってもよい。何れにLて もその現世否定なることはかはらぬ。 或る鮎からすると、極楽よりも地獄がよい。地獄で責められるから、極楽が考へられる。極発では到底地獄が 考へられぬ、考へられねぼ極柴もその本質を失ふことになる、即ち極柴はないことになると、かういふ風に人間 は考へたがる。尤もである、人間としてはさう考へるより外にないのだが、地獄で考へられる極楽はやはりどこ かになくてはならぬ。地獄から基間的に離れて居ても、居なくても、極繋があるので、地獄でも暮せるのである。 極発と地獄との関係論は又別虞で論及するが、とに角、人間文化の諸施設を否定する宗教は、その一面に極楽を 考へて居なくてはならぬのである。 九 宗教の文化否定は無宇宙主義まで進まぬと徹底せぬ。而Lて此魔へ乗ることによりて韓同の機が生するのであ る。即ち宗教が本営の宗教になる、その本釆の面目を費揮する。厭世観に止まつたり、逃避主義になつたゎ、乃 至貧乏論・禁欲論・極楽箕在詮を主張L、鰻験しても、それでは宗教人の牛身だけ、如何にも惨め目な牛身だけ を克てとつたに過ぎぬ。或は却て宗教そのものを見失ふであらう。極楽往生叡には積極的なものもあつて、宗教 622

参照

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の他当該行為 に関して消防活動上 必要な事項を消防署 長に届け出なければ な らない 。ただし 、第55条の3の 9第一項又は第55 条の3の10第一項

3 ⻑は、内部統 制の目的を達成 するにあたり、適 切な人事管理及 び教育研修を行 っているか。. 3−1

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