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続古今集の基礎的研究

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続古今集の基礎的研究

著者 谷山 悦子

雑誌名 同志社国文学

号 1

ページ 17‑42

発行年 1966‑03

権利 同志社大学国文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004811

(2)

続古今集 の基 礎的研究

谷  山 悦  子

    序   説

 続古今集は︑二条家為家の独撰でないという点で︑二条派からは

異端槻されてきた︒しかし︑いうまでもなく続古今は︑古今・新古

今の先縦にならって︑撰者も︑為家・基家・家良・行家・光俊の五

人であった︒和当に力最のある歌人が撰者になっても︑それが単独

撰である場合には︑少なくとも撰歌の厚みや︑多様性において︑お

のずから個人撰なるが故の個人的眼田介があろう︒文学吏的な視野か

ら︑四人共同撰の古今と貫之独撰の新撰和歌︑五人共同撰の新古今

と定家独撰の新勅撰︑それらを対比してみれぱ︑そういうことは︑

祓ちに看取できる︒俊頼や俊成ほどのすぐれた歌よみによって撰ば

れた金葉や干載が︑古今や新十口今ほどには︑高く評価されていない

のは何故か︒といっても︑複狐撰者の共同撰は︑個人の単独撰より

も︑常にすぐれているという風な︑平而的な結冷を期待して一パって

      ﹃続古今集﹄の基礎的研究 いるのではない︒ただ両者の間には︑吋かの桐違があろうと予想されるのである︒それは些細なことのようであるが︑文学吏的研究︑すくなくとも和歌史的研究において︑撰集の風格なり意義なりを決定する要因の一つとして︑必ず閉確にして置かねぱならない︒にもかかわらず︑従来の文学父家は︑たとえぱ︑古今は四人の撰者によ

って撰ばれたものであることを︑型のことく指摘しておきながら

も︑むしろ貫之の主導的役割などを強調することに終って︑四人撰

なるが故の実体と意義とを徹底的に追究したものは枢めて乏しい︒

その点に対する不満は︑私が本稿で続古今を研究の対象として取り

上げる一つの動機となった︒

 ところで︑続古介は︑ふるくは増鏡に﹁面白うめでたし﹂などと

評されていることもある︒しかし︑時代が下ると︑たとえば似雲の

﹁詞林拾葉﹂に次のような批評が見える︒﹁おもしろくいひつくした

る歌は秀逸なきものなリ︒それ故︑統古今に秀逸なしといふことあ

      一七

(3)

      ﹃続古今集﹄の基礎的研究

り︒続古今のうた︑大方﹃明けて見ぬ﹄の歌のやうなるおもしろき

歌わほし︒しかれども一首おもしろくいひつくして余惰なきなり︒

たとえぱ︑わかなの巻の歌﹃恋ひわぶる人のかたみとならせぱやな

れよ何とて鳴く音なるらむ﹄という歌を本歌として﹃時鳥なれよ何

とてなく声の五月待つまはつれなかるらむ﹄此本歌のとりやう︑︑さ

ても上手なるとりやうにていひつくしよきうたなれども︑秀逸休に

てはなし︒歌に余情なしLと︒もちろん︑作品の評価は時代や個人

の好尚によって左右されることが多い︒しかし似雲は一おう︑続古

今をもよく読んだうえで︑その一面の欠点を具体的に指摘している

ように思われる︒ところが︑現代における続古今観はどうであろう

か︒それは︑たとえぱ﹁全体として特色がなく︑高く評価すること

ができない﹂ ︵吉沢義則博士著﹁鎌倉文学史﹂東京堂刊︶とか﹁見

るべき価値を殆んど有していない﹂ ︵久松潜一博士編﹁日本文学史

・中世﹂至文堂刊︶とかと︑事もなげに片付けられているのが大部

分でなかろうか︒もしもそれらが二条派の人々から疎外され︑また

殊更に低く評価されていた続古今観を︑無批判に継丞する言説でな

ければ幸いである︒そういう安直な判定を下す前に︑現代の文学史

家としては当然︑現代人としての科学的検討を加えて行かねばなら

ないのではあるまいか︒最近︑そういう点の反小刊もあってか︑続古

今に対しても︑基礎的な面から見なおそうとするものが︑ぽつぽつ        一八あらわれている︒すなわち︑続古今に関する昭和三十年代の研究としては︑家郷隆文氏の﹁続古今集の外形をめぐって﹂ ︵国語国文研究第十号︑昭三二・四︶や井上宗雄氏の﹁真観をめぐって﹂ ︵和歌文学研究第四号︑昭三二・八︶等があげられる︒前者は︑続古く︑の形態と成立事情とが︑新古今に著しく類似している事を思実に桁摘し︑後者は︑真観・蓮性らが歌道師範家たる御子左家の歌壇制覇に挑戦する実態を︑史実と文献とに即して詳細に分析している︒続十口今の基礎的な研究という立場からいえば︑まずそのあたりから始めるのが当然とは言いながら︑いずれもまだ続古今の外面的な︑または部分的な検討に留っている︒続古今の世界に本格的な照明を与えるためには︑更に別途の視点と方法とが数多あろうし︑また︑それらによって多面的に問題を提示することが必要に匁ってくる︒そういう意味で︑本稿でも続古今の世界の基礎的研究の一端を試みるにすきない︒前述の如く︑私はまず続古今は五人の撰者の共同撰であ

ったというところに視野の焦点をおき︑そういう共同撰の実態はど

うであったか︑またそれは独撰の新勅撰や続後撰と比較してどうい

う相違をもたらす結果になっているか︑引いてはその文学史的意義

はどのように認定すべきかを考察してみたいと思うのである︒

注 本稿で使用する続古今および新勅撰・続後撰等の伝木は︑次の

  とおりである︒▲続古今集⁝⁝正保板本︵校註国歌大系本︶

(4)

但し︑本調査に必要な程度において︑少なくとも︑歌数の異同

等については︑﹁十三代集異同表﹂︵樋口芳麻呂等編︶によつて

校合した︒▲新勅撰集⁝⁝為家本︵岩波文庫︶▲続後撰集⁝⁝

正保板本︵校註園歌大系本︶︑ 工︑の他も︑大方流布本による︒

    第一章 続古今集の成立と撰者

     靖一節 成立に関する略説

 為家に続後撰矢を撲ばしめた後嵯峨院は︑再ひ正元元年︵一二∴

九一に続古今集の撲進を︑同じ為家︵時に六十二才︶に命ぜられ

た︒続後撰奏覧の建長三年︵二五一︶から八年後のことである︑︑

為家は︑父の定家が新吉今と新勅撰とにわたり︑生涯に二度まで勅

螢撰者になり得たのと同じ光栄に浴して大いに痕激している︒しか

し︑三年後の弘艮二什.︵一二六二︶︑為家の他に︑藤原基家・同家良

・同行家・同光俊の凹人が撰者に加えられた︒基家は後京枢摂政良

経の刀︑家良は人納﹂一一一︺藤原思良の勇︑行家は六条藤家の正三位知家

︵蓮仁︶の男で︑詞花集の撲者顕輔の五代の孫にあたる︒光俊︵真

に︶は二条家とは泣い親戚にあたる葉室家の出身であり︑汲承口仁

によれば︑かつては御子左家に歌を学んだが︑寛元四年︵二西

六︶同じく定家の弟子で流った知家と心を合せて伽子左家に叛旗を

翻した者である︒特にこの光俊は鎌倉将軍宗尊親王︵後嵯峨帝皇

      一︑続古今集﹄の基礎的研究 子︶にとりいって︑その歌道師範となリ︑関東の威勢を背景にして撰者に加ったのである︑これら﹁反伽子左派四人の撰者迫加﹂ ︵井上宗雄﹁真観をめぐって﹂和歌文学研究︑昭三二・八リという新事崖に対して︑為家は怒りもし失望もして︑﹁玉津島あはれと見いアや我が方は吹きたえぬべき和歌の浦風﹂ ︵玉葉雑五︶と詠じ︑為家の良きパトロン前太政大臣実氏も﹁代々撰者皆秀逸をよみてゆるさる今の撰者の秀歌いづれにか﹂︵源承口伝・井蛙抄︶と非難している︑ この撰者四人の迫加は︑前述のことく止元元年院宣が為家に下されてから三年後の弘長二年であリ︑続古今奏覧は︑この弘長二年からさらに三年後の文永二年︵一二六五︶十二月二十六日であった︒最初の院宣から奏覧までは実に六年も費したことになる︒定家独撰の新勅撰においては︑吏永元仔エハ月十三日︵=二一二一︶勅介︐が下り︑三年後の嘉禎元年︵二二二五︶三月十二日に実貫的完成日をむかえている︒ ︵新勅撰の奏覧日に関しては︑異説もあるが︑いずれも決定的ではない︒ここでは︑﹁新勅撰和歌集﹂久曽神昇︑樋口芳麻呂両氏校訂︵岩波文庫︑昭三六・四二一五︶の説による︑︶また為家独撰の続後撰においては︑宝治二年︵二西八︶七月二十五日に院宣が下り︑三年後の建長三年︵二一■一︶十月二十七日に奏覧の日を迎えている︒続十口今も︑もし独撲ならば︑弘長二年頃までにはすでに奏覧のはこぴにな二﹂いいは︑丁である︒火郷氏が指摘され

       一九

(5)

      ﹃続古今集﹄の基礎的研究

ているように︑ ︵﹁続古今集の外形をめぐって﹂国語国文研究第十

号︑昭三二・四︶続市今は︑その外形を整えるのにあたって︑類似

の状勢下にあった新古介の先縦に学んだと見られるが︑その新古今

も︑建仁元年︵二一〇一︶十一月に後鳥羽院の院宣が下り︑元久二

年︵一二〇五︶三月二十六日に一おう成立している︒そのあとも切

継が行われてはいるが︑とにかくひとまずの奏覧までは︑続古今の

ように六年問も費したわけでない︒そういうところからも︑続古介

の五人の撰者⁝には︑撰集事業の進歩をにぶらせるほどの激しい違

和があったのではないか︑また︑始め三年問の為家の努力の結果

は︑あまり利用されなかったのでないかなどと舌うことが想像され

る︒しかしながら︑従来言われているように︑為家以外の四人の撰

者は︑果してすべて反御子左派であったのだろうか︑また六年もの

歳月をかけて成丸した続市今は︑果して﹁見るべき価値を有しな

い﹂ものであつたのだろうか︒

      第二節 五人の撰者

      続古今集と各自の独撰々集との

       撰収関係を中心として

 為家による宗匠的歌壇支配と御子左派の歌風とに叛旗を翻した光

俊・知家は︑後嵯峨院をはじめ基家・家良らの権門にとりいった︒

そして︑彼等と御子左派との対立は︑為家・光俊が相次いで世を去       二〇るまで約三十年続いたといわれている︒たしかにそういう箏実は認められるのであるが︑続古八︑撰省の内︑為家以外はすべて︑人関係における派閥の上でも︑歌風の上でも反御子左派であったのだろうか︒福田秀一氏も︑ ﹁鎌倉中期歌壇史における反御子左派の活動と業績︵上︶﹂︵因語と旧文学︑昭三九・八︶にわいて︑反御子左派の成立とその構成メンバーとをこの派主催の三歌合︵御子左派を除外した歌合︶︵寛元四年十二月﹁春日若営社歌倉﹂.建長八年九月十−三夜後九条内大臣基家家﹁百首歌含﹂・文永二年七月二十四日﹁歌合当座﹂︶の出詠者から推測して︑為家以外の撰者四人を一応反伽子左派ときめておられる︒しかし︑これら三歌合のみから︑そういう判断を下すことには︑いささか疑問がある︒たとえぱ︑知家判の春日若宮杜歌合︵寛元四年十二月︶や光俊判の文永二年︵七月二十四日︶歌合には︑御子左派系の人々のみならず︑基家.家良らの貴顕は出詠していない︒建長八年基家家百首歌合には︑御子左家と関係の深い信実およぴその一族が出席している︒それらのことはどう考えるべきか︒かりに福田氏の言われる通りであるにしても︑そういう反御子左家の派閥的グループが︑直ちに歌風の上でも反御子左家的であったかどうかについては︑更に慎重に検討されねぱ匁らない︒たとえぱ︑そういう︑反御子左派の撰者が多数を占めたはずの続古今において︑これら三歌合から︑その歌を採っているのは︑建

(6)

長八年基家家百首歌合からの十首のみで︑他の二つの歌合からは一

首も採っていないのはどうしたことか︒少なくとも︑彼谷の政治

的︑社会的立場の対立︑また人問関係における派閥的対立を直ちに

歌風や理念の対立と混同してはならない︒そこで私は︑それぞれの

僕者の私撰集︵万代集・:家良撰 宝治二年︵二一四八︶夏成立?

秋風集⁝光俊撰 建長三年︵一二五一︶成立︵安井久善氏説︶︑雲葉

集⁝基家撰 悠長五年︵二一五三︶成立︶と続古今との︵また︑つ

いでに続後撰との︶兎出歌数を洲査することにより︑そういう伽か

ら彼等の親疎関係を今すこし川らかにしてみたい︒調査の結火は次

表の如くである︒

      一    一

続後撰︵為家撰︶

続古今︵五人撰︶   一 B A   万代集と一総歌数ゐ重出歌︵首︶一︵家良興︶一      ⁝;一六^ 洲一

     4一芸  27 ヒ.く一

B一A

一一  C秋風集との重出歌︵光俊撰︶  58

比率一%一CX一 ■■一

2 一

4・

︑..−..一一

7 一.

8・ 一  D雲葉集との湛出歌一︵基家撰︶一

−て.︑・.

D一A

8・

 右の表でまず注目に他するのは︑o続十︺今と万代との一致歌の比

率一四・二%であって︑それは続市今と秋凪との一致炊の比率八・

七%︑続古今と雲葉との丁玖歌八・三劣をはるかに上まわっている

という小実である︒次に注目すべきことは︑◎続後撲と万代との一

致歌の比率が実に二四・C%の高率を示し︑続後撲︑と秋風との一以

      ﹃続古今集﹂の基礎的研究 歌の比率は︑さすがにわすか四・二完という低率である点である︒これらの結火は︑万代所収歌の絶対数が他集のそれよりも圧倒的に多いということに原因しているとも考える︒そういう点を割引くとしても︑やはり何かの傾向がうかがえそうである︒すなわち︑まず前者oについていうならぱ︑続市今では︑万代風な︑すなわち家良好みの歌が︑むしろ某家好みや光俊好みの歌よりも︑かなり多く採られているのでは一︑はいか︑少なくとも杣当の比重で採られていると考えられる︑次に後者◎についていえぱ︑為家と光俊とは歌風の尚好の上でも碓かにきぴしく丸立しているが︑為家と宗良との尚好はそんなに隔絶したものでないぱかりか︑むしろ親近関係をさえ認めうるものではあるまいか︒すなわち︑家良は︑派閥的にはどうであったにせよ︑その尚好の上では決して火伽子左家風とは断定できない︒安良臼身の詠風は︑福山氏も述べられているように︑穏健であり︑仰子左次風と杣芥れないものではなく︑伽子左家派でもこれに好意を火川せていたようである︵国語と国文学︑昭三九・八︑前引︶︒ところが︑その家良は︑基家と再従兄弟の血縁関係にありながらも︑むしろ某家の歌の表現を難じたことが︑涼水の﹁利歌口仁﹂や二条為世の﹁利歌庭訓﹂にも見える︒ ﹁明方の天のとわたる月かげにうきひとさえや衣うつらん︵基家︶是は世にも秀逸と忠へるにや︒しかるに︑衣笠内府︵家良︶︑うき人さへや衣うつらんといへる︑無下の

      二一

(7)

      ﹃続古今集﹄の基礎的研究

傾城かなと侍ける由︑先人語り侍りきL ︵源承口伝︶︒ そういう衣

良と基家との違和感は︑次に秦一小するところ︵続後撰.万代.秋風

・雲葉の各集に入集した五人の撰着の谷歌敬︶によっても明らかに

裏付けられる︒

■1﹃1■■! ■i    一︐1ili1

一/ 続後撰 万代集

︵為家撰︶︵家良撰︶

!一1 ■■  コー■

u首一

 ﹄首一一為家一131201

  ﹂ 11  一■↓...一■−   ⁝       −   ;↓■1

.鴉首一

1=1−        ■    一

一家阜

4110首一5首

−.

8首一

一基家一首12首一

.−;−⁝−.;−.一■光俊︒01一行家一

・首一

首一﹂1−︐!1−■︐−1−■■一11ヨー■1

 すなわち︑基家撰の雲葉では︑家良の歌は五首しか採っておら

ず︑逆に家良撰の万代では︑基家の歌は一首も採っていないのであ

る︒そして︑ここでも家良は︑五人の撰者のうちでは為家を圧倒的

に高く評価し︑基家に対してはもちろんのこと︑光俊に対しても︑

あまり高くは︵少なくとも︑為家がかつて続後撰において︑基家・

光俊を評価したほどにも︶評価していないと言える︒逆に︑基家の

家良に対する評価も低い︒が︑その基家にしても︑為家に対して

は︑︵家良が為家を圧倒的に高く評価したほどにではないにしても︶

為家の方を︑光俊以上に評価している点に注目しなけれぱならな       二二い︒更に光俊になると︑彼は特に家良を優遇し︑わずかの差ではあるが︑家良を為家よりも上位に据えている︒ゑ︑して光俊の基家に対する評価も︑むしろ為家の基家に対する評価と大差がない︒なお︑光俊は行家をかなり高く評価している点が注目される︒ これらの撰者の具休的な歌風は︑第四章で詳しく検討することにするが︑以上の如き結果からも︑続古今撰者問の芥人の尚好面や︑感情而における親疎関係は︑単純に  たとえぱ︑為家以外はすべて反御子左的などとー割切れるものではない︒そういう意味で︑本節ではまず︑五人の撰者問の対立関係についての従来の旧説に修正を加える必要があることを指摘したのである︒

    第二章 続古今集の形態的考察

       特に続古今と新勅撰・続後撰の      両集との比較を通して     第一節 先行勅撰集との一致歌       編集の正確度の問題

先行勅撰集歌の重出ということは︑必ずしも撰者の粗漏とばかり

いえない︒しかし一応はその鍵集作業の正確度をはかる座標の一つ

になると思われる︒契沖の﹁河杜﹂富永春部の﹁撰集考異﹂等によ

り︑試みに新勅撰・続後撰・続古今の三集における先行勅撰集との

(8)

重出欲を調べて︑みると︑

する︒︶ 次の如一・である︒ へ調査結梨の詳細は省烙

新勅撰集における先行勅撰集との︑褒出歌

続後撰集    〃

続古今集    〃 ⁝8首

・5首

⁝1首

 この結果からも閉らかなように︑続十ぺ︑では先け勅撰災との重出

歌は︑ただ一首にすきない︒すなわち︑単独撲の新勅撰.続後撰に

比べて︑続古今の場合は複数撰者であるが故に目が行き届いて︑>︑

ういうミスは少なくすることができたとも︑□え・︑小う︒ ︵もっとも絞

古今の撰者のうち︑家良は奏覧の前年に没しているの1︑︑こういう

編集整理段階では参与していたし︒この問題の一首は︑すでに新勅

撰轟旅歌に読人知らずの歌として採られている﹁苫しくも降来る雨

か三輸の崎さのの渡に家もあら々くに﹂ ︵続古今集で・︑轟旅歌〃

に見える︒もとは万葉巻三所載の長忌寸奥麻呂の歌Jという有夕な

歌である︒為家はこれがすでに父定友撰の新勅撰尖に採られている

ことに気づかず︑また万葉に対する遣詣の深かったはすの光俊らも

これに気がつかなかったのは︑どういうことであろうか︒為家は︑

弘長二年︑撰者四人が追加されてから立腹し︑意欲をなくした事は

すでに述べたが︑﹁井蛙抄﹂︵雑談六︶に為友の孫為世の言として

      ﹃続古今集﹄の基礎的研究 ﹁民部卿入道︑我が撰進の歌の外は︑二事以上ス可有申子細とて︑口を閉ぢ侍りき︑︑和次評定2い.︑治定の箏も後申改む﹂とある・︑ぴうに︑為家はプー満をい一﹂き・︑〜がろも︑歌の奨進には携わ二−︑む︹︶︑編集︑評定の市︑一丁に関しても︑景唆的には改訂を申し入れだりしているのである︒しかし︑その不満からくる熱意のなさが︑こういう結果となって現われたのだろうか︒また︑光俊.りの万葉学も︑それほど浅薄なものであったのであろうか︒それはいすれであるにせよ︑続古今における先付勅撰集の重出歌が︑ただこの一首にすき々いということば︑確かに複汝撰者なるが故の見^︑芦ユ一収獲といえよう︒

     第二鮒歌合との撰収関係

       −撰孜食料の最的問題およぴ      撰者勢力の均衡− 新勅撰・   ・続古今は︑ン︑れぞれの撲歌の時代的上限については同じ方針を採っている︒すなわち︑三集とも上古万葉以来の歌を撰んでいる︒しかし︑十古以来という︑いわぱ時代的には無制以な撰歌範囲の中で︑続市八﹁の撰歌資料の多寡は︑他の二集と比較してどうであったか︒これは︑あらゆる先行文献資料にあたって調査されねば言bないが︑ここでは主として歌合を中心として調査する︒すなわち︑三集は歌合を撰歌次貝料とするにしても︑それぞれどれほど多くの歌合にあたり︑またどれほど多くの歌合歌を採ってい      二三

(9)

      ﹃続古今集﹄の基礎的研究

るかを調べてみた︵この調査にあたっては︑コ半安朝歌合大成﹂︵萩

谷朴博士著︶・﹁群書類従﹂・﹁国歌大観﹂・﹁中世歌合集﹂ ︵谷山・樋

口編︶等をテキストとして用いた︒︶結果は次表のとおりである︒

︵新勅撰・続後撰・続古今に採られた個々の歌合名およびその歌合

歌の一覧は省略する︒︶

A総歌数

   ■卒払

 C歌合篇数  ︶比率晩 C一A

新勅撰

=二七四 641601

9463・

続後撰

三六八 731O0183.

続古今

一九二五 40260.1

687●4

 右の表に見られるように︑三集に採られた歌合歌の数は︑その絶

対数においては︑続古今の二〇四首が一番多い︒しかし︑続古今は︑

すでにその総歌数レり一九二五首が他の二集より多いので︑その総歌

数に対する歌合歌回の比率を求めると︑他の二集ともあまり大きな

相違はない︒すなわち︑歌合歌は三集ともそれぞれの総歌数の約一

割程度ということになる︒しかし︑歌合篇数oにおいて︑続古介の

それは四・七%であり︑他の二集のそれを一.%ほど引き離してい

る︒これも複数撰者であるが故に︑単独撰者である場合よりも︑より       二四多くの歌合資料にあたり得た結果でないかと考えられる︒更に︑三集は特にいずれかの歌合に対して偏向を示していないかを探ってみると︑まず有名な六百番歌合︵建久四年︶があげられる︒この歌合から新勅撰は八首︑続古今は七首を採っているのに︑続後撰ではわずかに一首しか採っていない︒いうまでもなく︑六百番歌合は名門九条家の良経が主催した歌合であり︑新古今歌壇を形成する大きな足場となったものであるだけに︑この歌合から新古今に撰されたものだけでも三十五首もある︵峯岸義秋著﹁歌合の研究﹂三省堂︑昭二九・一〇︶︒更にいえぱ︑六百番歌合には︑いわゆる新古今風の歌が多いと考えてよかろう︒新古今的絢燗を嫌った為家が︑この歌合から一首しか採らなかったことは︑彼の平呪な歌風から考えると︑むしろ当然の結果といえよう︒また同様に︑新古今に九十首︵有吉保﹁千五百番歌合と新古今和歌集﹂国語と国文学︑昭三五・九︶も採られている干五百番歌合︵建仁元年秋︶からこれら三集への撰収歌数をみると︑新勅撰では二十一首︵い%︶︑続古今では三十八首

︵川%︶なのに︑続後撰は十二首︵%︶にすきず︑ここでも為家

撰の続後撰では新古今風の歌を嫌っていることの実態が具体的にう

かがえよう︒と同時に︑続古今では六百番歌合や千五百番歌合の

歌︑特に後者のそれがかなりの数にのぼっているが︑これは続古今

における為家以外の撰者の尚好がそうさせたのだと考えざるを得な

(10)

い︒また︑全く御子左派の人々を排除した基家家百首歌合︵建長八

年九月十三夜︶から︑続古今は十首撰収している︒しかし︑この数

字は︑続古今撰者Hにおける反御子左派の勢力を示す一つの拠所に

なりそうにも思えるが︑実はこの歌合はすでに続後撰成立以後のも

のだから︑続後撰に一首も採られないのは当然のことであり︑それ

との比較はできない︒むしろ︑同様に反御子左派のメンバーだけで

構成された他の二つの歌合﹁春日若宮社歌合﹂︵寛元四年十二月︶と

﹁歌合当座﹂︵文永二年七月二十四日︶とからは︑続古ム︑に全く一

首も撰収されていないという事実もある︒また続古今は将軍宗尊親

王家歌合︵弘長元年七月七日・基家判︶からもわずか三首しか採っ

ていない︒もしも︑光俊らが五人の撰者巾で圧倒的勢力をもち︑為

家を完全に除外して撰集していたならぱ︑これらの歌合からはもっ

と多くの歌が採られたのではないだろうか︒そういう意味では︑続

古今はやはり五人の撰者の然るべき均衡の上に成立していると早﹂□う

べきであろう︒とにかく︑為家は俊成・定家と続いた和歌師範家の

伝統と梅威とを温存している︒これに苅して︑光俊らが多少の異風

を唱えても︑その伝統と権威とは︑ 一柳一夕にして崩れ去ったもの

でないことを改めて確認する必要がある︒続古今といえども︑それ

は仏統的拘東性の強い勅撰集のうちの一つである︒そういう慨成勢

カを打破するためには︑反御子左派の人々の・︑︷り強力な結火と刷松

      ﹃続古今集﹄の基礎的研究 とが要請されたのでないか︒にも拘らず︑前節で述べたように︑続古今五人の撰者中︑為家以外の四人がすべて反御子左家的存れといえるかどうかは疑わしい︒しかも︑彼筈四人の杣互には︑必ずしも丁玖した協力が欠けていたのではないかと考えられる︒     第三節 部立をめぐって      五人の撰者の一人としての      光俊の墾言力の限界− 撲集がその形能一を整える必.要上︑まず部立の決定に慎重な考慮が払われているであろうことは想像できる︒続古今の部立については︑すでに家郷氏が新古今の部立に類似していることを指摘されたが︑︵﹁続古今集の外形をめぐって﹂国語国文研究第十号︑前引︒︶これを新勅撰・続後撰のそれと比較してみるとどうであろうか︒続古今の部立は︑千載・新古今の部立と比較すると︑四季・恋・雑の六部は勿論のこと︑残りの離別・衷傷・賀・釈教・神祇・轟旅の六部も企く共通である︒ただそれぞれの部立の順序に前後するところがあるだけである︒ところが︑新勅撰と続後撰は共に十部で︑続市今にある離別・衷傷の部を合まない︒従って︑部立の大綱については︑続後撰の撰者為家は父の撰んだ新勅撰に依拠し︑続古今の撰者述は︑同じ複数撰者であった新古今に依拠したと考えてよいのであろう︑これを為家の立場からいえぱ︑為家は部立については他の四人の撰

      二五

(11)

      ﹃続古今集﹄の基礎的研究

首の意見に押しきられた︑あるいは他の四人のなすままに任したと

いうことになろう︒それでは︑そういう部立などにおいて大きな発

言権をも持ったのは誰か︒井上氏等の主張されたように︑︵﹁真観を

めぐって﹂和歌文学研究第四号︑前引︶続古今の撰歌において主導

権を持ったのは光俊であるとすれぱ︑この部立にも光俊の意見が大

きく反映していると見なけれぱならない︒ところが︑そうも考えら

れないことが︑神祇・釈教の二巻にある︒ ︵神砥・釈教の二巻を最

後の第十九・二十におかず︑前半の巻九・十にもってぎたのは︑新

勅撰が最初で︑先行の勅撰集にはその例を見ない︒続後撰・続古今

もこの点では新勅撰の例にならったのか︑この二巻をいずれも巻九

・十︑または巻七・八に据えている︒︶すなわち︑新勅撰・続後撰

・続古今の三集で︑この両部を神低・釈教の順で並べているのは︑

古今のそれによったものだろう︒その新古今において︑千載におけ

る釈教・神祇の順序を逆に改めたのは︑小島吉雄博士の言われたよ

うに︑かなり重要な意義を持っている︒この変更理由に関しては古

来の文献に説明したものがないが︑小島博士の推察されたように︑

おそらく釈教より神祇を尊重する緒神に基づいたものであろう︵﹁新

古今和歌集の研究﹂昭二一︶︒ところが︑詳しく言えば︑父谷山茂が

言ったように︑︵﹁千載和歌集の研究﹂昭三六・三︶千載以前の撰集

では︑神低・釈教の部こそ設けてはいないが︑雑部に神低・釈教の       二六

一連の歌を収める場合︑むしろ神祇・釈教の順で収めていたのであ

り︑干載こそがその先例を破って釈教・神祇の順としたのである︒

従って︑新古今で再ぴ神祇・釈教の順としたことは︑復古精神につ

ながるものでもあったのである︒ところで光俊撰の秋風では︑実は

千載にならってか︑釈教・神祇という順序を採っている事に注意し

なけれぱならない︒続古今において︑もし五人の撰者のうち光俊の

罪言権が独裁的に強かったならぱ︑彼はおそらく神祇・釈教の順序

にしないで︑秋風の如く釈教・神祇の順序としたのではあるまい

か︒そういう点でも︑続古今撰進事業における光俊の強い菱言権を

力説される井上宗雄氏らの説は多少修正されねばなるまい︒光俊が

いかに宗尊親王のバック・アップを受け︑また五人の撰者中では

かなり強い発言力を持っていた亡しても︑所詮は五人の撰者の内の

一人である︒その光俊だけが続古今撰進の独裁的主導権を握ってい

たとは考えられない︒すなわち︑貴顕撰者基家の意見はもちろんの

こと︑続後撰以来の撰者為家の意見も相当に大きく聴き入れねばな

らなかったであろう︒

第四節 所収歌人の員数

 新勅撰・続後撰・続古今の各集では︑それぞれどれほど多くの歌

人を擁しているかを調べてみると︑次のような結果になる︒

(12)

 続後撰にわいて︑

ードしているのは︑

  ■

  ■

  ■  一

  一ろう︒ 新士亡与利続 勅後古 襲ハ

竪ハ

今 所収歌人の員改が︑二九・六完と他の二集をリ為家が群小歌人の歌をも夕く採りいれたか︐bだ

.総 A     B

歌数 歌人総数

     4三畠   8     3

     7

三六八0

     4

     7一九妻   6     4 らBA

7.nノ一

9.nZ

4・ 一人平均A一B首

3・

3・

4・

   従って︑そこでは一人あたリの平均歌数は三・四首となる︒

父定家の我執の独い性格とは異り︑温厚な人物であった為家が︑平

淡な歌風を理想とし︑無難な歌風を好んだ事は︑すでにしばしぱ指

摘されているところである︒その彼の尚好にあう歌とい︐元ぱ︑今ま

での著名歌人の天才的な作よりも︑むしろ無名の群小歌人の平凡な

作の申に多くあったのであるまいか︒﹁和歌を詠ずる事︑必すしも

才学によらす︑ただ心よりおこる事と申したれども︑稽市なくては

ーヒ手のおぼえとりがたし﹂︵詠歌一体︶という為家のことぱは︑彼

の凡人稽古主義の立場を示すのに十分である︒しかし︑続後撰にわ

いて︑為家がそういう群小作家の歌を少しずつ多人数にわたって採

つたということは︑必ずしも彼の理念的方向だけからは考えられな

      ﹃統古今集﹄の基礎的研究 い︒そこには作品の問題よりも︑惰実的な問題が考えられるからである︒すむわち︑政治的権力の座からの注文があるままに︑或いは入集を切望する人々の懇請があるままに︑作品の優劣はしぱらくおいても︑乞われるままに撲ぴ入れるというふうなおそれが︑独撰の場合︑よほどしっかりした撰者でないかきり︑あリやすかったかとも思われる︒臼我の強い定家でさえも︑新勅撲にわいて︑政治的圧力のために︑あるいは情実でいれた歌が相当にあることは︑︵定家は新勅撰において貴顕の干渉を排除しぎれなかったことを明月記にも告白している︶その一人あたり平均三・六首という︑続後撰とあまりかわらない数値によっても証削される︒しかし︑続古今では五人の撲者閉に違和悠があったため︑却ってそういう情実を認めあうことな/\互に牽制しあうことによって︑たまたまその弊を免れているのではあるまいか︒またかりにそういうふうに見るのはうがち過きであるとすれば︑続古今はやはり五人の撰者によって精撰されたが故にしぜん凡庸歌人の凡作は捨てられて才量のある歌よみの秀歌が多く採られることになったと考えられる︒それがまた所収歌人数の比率は他の二集よりも低く︑一人あたりの平均歌数は多いという現象となって現われているのである︒もしそうだとすれぱ︑続古今はやはり複狐撰者であったことの長所を︑こういう一面においても允揮していることになる︒       二七

(13)

﹃続古今集﹄の基礎的研究

    第三章 続古今集の質的考察

     第一節多数入撰者

 新勅撰・続後撰・続古今の三集において︑どういう歌人の歌が︑

どういう比重で入集しているかを調べて見ると次表の如くである︒

10 新 勅撰続後撰

家  隆

胤定

43 ︶首︵ 続 古今

      ︶宗尊親王 67首      ︵

良麦イ 経36実  氏35

35

公  経30

慈実 円

道家25 俊成29 実定 氏家

良  経28 後嵯峨院54

後鳥羽院土御門院

後鳥羽院

為家

後嵯峨院23 家  隆41

雅  経20慈鎮22 土御門院38

相模18

実  氏17 知  家19噴ハ徳院35.豹

隆.﹄

18知  家32

 右の表は三集の多数入撰者を第10位まであげたものであるが︑こ

こからも三集の偏向なり撰者の態度なりをある程度までうかがうこ 二八

とができるのではあるまいか︒      一

 まず三集におけるこれらベストーOの缶個人の入撰歌数をみると︑

続市今の各個人の入撰歌数は他の二集のそれに比べてはるかに多

い︒このことは︑前節で述べた個人あたりの平均入集歌数の場合と

符合する︒次に︑続古今においては前二集でベストーOに入っていた

九条家系の良経・慈円・道家の三者が後退していることに気付く︒

藤平春男氏が指摘しておられるように︑新勅撲には︑定家と直接︑

間接に関係のある人々の歌が多く︑特に新勅撲に始めて撰入された

歌人には︑定家と私交のある者が多い︵﹁新勅撰和歌集の歌風をめぐ

って﹂和歌文学研究第九号︶︒定家は特に九条家・西園寺家の人々と

親しく︑前掲の表でも明らかなように︑新勅撰では︑彼等すなわち

良経・慈円・道家︵九条家︶︑公経・実氏︵西園寺家︶の歌は御子

左家の鼻祖俊成と共にベストーOにはいっている︒そして︑それは続

後撰でも大体に継承されていたのに︑続古今では特に九条家の人々

が俊成と共に一挙にベストーOから脱落している︒ ︵続古今撰者中に

は︑九条家の碁家が加っているのに︑これは一寸不思議な現象とも

見られる︒︶しかし︑これも続古今は五人の撰であるが故に︑定家・

為家と継承された九条家偏重の風が︑是正されたとも考えられる︒

ところが︑その九条家出身の基家自身の入撰についてはまた逆に顕

著な偏向がある︒すなわち︑新勅撰が成立した時︑基家は32才︑すで

(14)

に歌人としての修練も貨格も十分にできていたはずの年令である︒

また︑その父良経・兄泣家・一族の慈口らはそれぞれベストー0に入

っているのにもかかわらず︑基家のみはどうしたことか新勅撰に一

首も採られていないのである︒とにかく︑九条家一般の人々に対し

ては好意的であった定家であるのに︑この基家に対してだけは︑随

分ときぴしくあたっている︒そういう所には︑やはり定家の激しい

気性の一面がうかがえる︒そして︑基家もこの頃を起点にして︑何

か合むところがあり︑反御子左派的能一度を示すようになったのかも

知れぬ︒またこの基家は再従兄弟の関係にありながら︑家良と仲が

悪かったことは第一市第二節で述べた通りであるが︑定家はその家

良︵当時43才︶の歌は新勅撰にも七首採っている︒ところで︑為家

は︑父定家と基家との不利を意識してか意識しなくてか︑続後撰に

その某家の歌をも八首採っている︒ ︵家良の続後撰入撰歌は一四

首︒︶ここにも為家の穏健な人柄がうかがえそうである︒さらに続

十口今になると︑基家二十一首︑家良二十六首と歌数の上では家良の方

がやや依然として多く入撲しているが︑前集︑前々集における入撰

歌と比較してみると︑穴良よりも某家の方が入撰増加率は高い︒こ

のような点でも︑むしろ続古今が五人の撲であるが故に︑定家以来

の偏見を是正しえているとも考えられよう︒また続古今では入撲歌

数第一位者が宗尊親工であることは︑すでに諸家の指摘されること

      ﹃続古今集﹄の基礎的研究 く大いに注目すべき所である︒続占介奏覧当時の親工は︑二十四・五才の青年にすきない︒その若い彼の歌が︑実氏・定家または三上皇の入撰率をおさえて第一位にわどりでたのは︑当人の実力の然らしめたことの他に︑やはり光俊・基家らの推挙するところが大であ

ったからであろう︒しかし︑そのことからまた直ちに続古今の風格

は宗尊親王風︑またはそれに近い風が中核をなしているなどと考え

ることは許されない︒それは︑新十口八﹁において西行の歌が最も多く

採られているからといって︑直ちに新古今は西行調であるなどと一一一︑︺

えないのと同様である︒続古今の性格や風格の具体的内容に関して

は︑更に第二節において個々の歌に即して吟味するが︑この節では

ます三集の多数入撰者を通覧して︑続古今は複数撰者であった為

か︑新勅撰・続後撰と続いた偏向の若干を是正しえている点を指摘

したのである︒

第二節 続古今の性格・歌風

 続古今における各時代別作者の歌の撲収状態を調べてみること

は︑また本集の性格なり歌風なりを︑客概的に把握する一つの手が

かりとなるであろう︒各時代別といっても︑これをあまりに細かに

時代分けをしたのでは︑また恵味がなくなりそうなのでひとまず和

歌史における主要な三大時代区分︑即ち︑万葉・古今・新古今の

      二九

(15)

      一︑続古今集﹄の基礎的研究

三時代に限定して︑それぞれの時代の歌と歌人が︑どういう比重で

もって続古今に採られているかを︑新勅撰・続後撰の二集と比較し

ながら検討して見よう︒

    −万葉歌人/一

 家  持

赤 麿

合計 新勅撰

n■一

12    続後撰一続古今   一

ピ 一 8

 1      6 1←       2

 4      9

 18   43

に︑何らかの傾向を探ることは多分に危険性をはらむが︑

意抽出法による統計としてこの計数もある程度の信頼性を持つであ

ろう︒まず続古今における人麿・赤人・家持三者の歌の合計は︑先

行二集のそれに比べると︑二倍から四倍の増加率を示している︒こ

れを個人別に見ると︑特に人麿歌の増加率が大きく︑続古今のそれ

は︑新勅撰のそれの約い倍である︒このような点から︑続古今は万

葉歌人及ぴ万葉的歌風に対して︑他の二集よりもすこぶる好意的で

あると言える︒これはひとまず宗尊親王及ぴその師光俊らの万葉尊

重を直接的に反映している所かとも考えられる︒ところが︑次表に

見られるように︑光俊は彼の私撰した秋風では︑特に万葉時代の歌  蜘 ます万葉時代の主要歌人の歌は︑これら三集においてどういう比重で採られているか︒ 上掲の三歌人のみの入撰歌数の多寡の問      一種の任 三〇

を重視したというべき傾向を示していない︒

7■ ︑ノB︵首︶%一C︵首︶

一■;−/ 総歌数赤人の歌B一A一家持の歌一

708一

一秋風集 三套 6  一0・一

1一8一

1 一〇・一

﹁  ⁝   ■  ■ ;− !一 1 ■一﹂

⁝ハ八 8 一続後撰集0・ 一

何の他律的拘束をも受けることのないはすの私撰集であるのに︑

その秋風において万葉を一つの旗じるしにしていたと言われる光俊

が︑万葉の歌を続後撰程度にしか撰入していないのはどうしたこと

か︒︵為家の万葉許容度はいうまでもなく低い︒そのことは続後撰

中の万葉歌の数にも端的にあらわれている︒︶こういう点から考える

と︑光俊が万葉を旗じるしにしたという旧説は︑むしろ誤りである

のかもしれない︒また︑もしそうだとすれぱ︑続古今で万葉歌を多

く採ろうとしたのは︑むしろ基家か行家あたりであるかもしれな

い︒それはともあれ︑光俊らが派閥的に反御子左家︑特に反為家的

立場を強く主張したほどには︑その実際の歌風に反御子左的要素を

認めがたいのではないかとも思う︒更にいえば︑光俊らは歌風の上

でも何らかの形で御子左派への反抗の旗じるしを掲げたかった︒或

いはそれを掲げることに焦慮したという形跡さえが見られる︒また

(16)

そのことからして︑続古A.撰逃にあたっても︑とにかく万葉に檸し

ては︑万葉の歌をやや多く採ったというだけのことに終っているの

でなかろうか︒光俊らも本貫的には︑沈滞しだ︑献壇に万葉による新

風を送りこむほどの独自∴ド︸と力量と斤︑持ち合わレ︑一︑一︑いなかっ払﹂ので

ぱないか︒

 しかし︑単に狐量的な旭のみからではだく︑新勅按・続後姶︑一.続

吉今に採られている万葉歌人の歌は賃的にどういうものであっ如﹂わ

を具休的に吟味して見なければならない︑︑

 一︑新勅幾に採られている万葉主要歌人の許

 0 白露と秋の花とをこきませてわくことかたきわが心かた一︒朴

   上・⁝二・人麿︶

 ◎ あしひきの山した風は吹かねども君が来ぬ夜はかね一︑寒し・む

    ︵恋・四八六二・人麿︶

 6 山もとに雪は降りつつしかすかにこの川柳も︑一んにけるかも

    ︵春上二三・赤人︶

 e秋萩のうつろふおしと鳴く鹿の声聞く山にも︑みぢしにけり

    ︵秋下・三C二.家持︶

 二︑続後撰に採られている万葉主要歌人の歌

 一い一天の川霧たちわたる七夕の雲の衣のかへろ袖かも︑︵.秋上.二三

    ・人麿︶

       一.続古今集﹄の基礎的研究 ろ あし引の山田のひたのひたぶるに忘るる人を驚かすかな︵恋   ・五九八八・人麿︶

G 一とせにただ今宵こそ七夕の天の一沢原にわたろとい︑一〃たれ

   ︵秋・下二四四・赤人︶

c 秋霧に妻まどはせる雁がねの雲がくれ行く声のきこゆろ︵秋

   中・三〇二・家持︶

三︑続古今に採られている万葉主婁歌人の歌

争 萩の花散らば惜しけむ秋の雨しばしな降いノ一〆︑色oっく←寸二︑︑

   ︵秋上二⁝二・人麿︶

 6 この山の嶺にちかしとわが見つ三山戸あ.空入﹂ろ恋もノ︑︑一ハ與かな

   ︵恋・二〇五七・人麿︶

 6山の端に月のいさよふ夕ぐれは檜原がうへも霞みわ・7これり

   ︵春上・四C・赤人︶

 ○ うば玉の夜はふけぬらし王くしげふたかみ山に£かたぶきぬ

   ︵秋上・四三丁家持︶

 ∴上の如くに列挙して見ると︑いぷ︑ラれも一応万葉調に近い歌を迂

んでいると言えそうである︒しかし︑たとえぱ同じく秋歌にしても

﹁白露と秋の花とをこきませて■﹂い︑ ﹁鳴く鹿の声聞く山はもみぢ

しにけり﹂H︑一雲の衣のかへる袖かも﹂い︑一.雲がくれゆく声の

きこゆる﹂に等は多分に古ム..的発想や姿詞に似ているのに六して︑

      三一

(17)

      ﹃続古今集﹄の基礎的研究

﹁萩の花散らぱ惜しけむ﹂何︑ ﹁玉くしげ二上山に月かたぶき﹂向

箏は︑いかにも万葉の五七調のものである︒また︑恋歌にしても︑

特に同りなど三旬切ではないが︑三句切に似た調べを持っているの

に︑旧はむしろ二句切に近い調べを温存している︒このようにして︑

概していえぱ︑三集のうちでは続古今のそれが︑いかにも万葉調ら

しい歌を採っていると言えそうである︒

 回 古今時代の主要歌人の歌はどういう比重をもって三集に採ら

れているか︒まず︑数量的には次表の通りである︒

■新勅撰続後撰続古今新勅撰続後撰続古今

61小  町

21友  則一業 平7一7  ■忠  苓

一実 方

∴・

︵各歌の吟味は省略する︒︶

 ○ 新古今時代の主要歌人の歌はどういう比重で︑三集に採られ

ているか︒

 まず︑次の表の範胴内でいえぱ︑新勅撰において後鳥羽院の歌を

一首も採っていないのは︑当時の政治的配慮によるものであって︑

決して撰者定家の理念的偏向によるものではない︒ ︵新勅撰におい 三二

︒﹂二集への一4鰍新勅撰

続後撰続古今新勅撰続後撰続古今

歌人/

1一■﹂      ■一 11   ■−  1     一−   ■■−﹂■ 1    ■ 1−16■■一   −−1  ﹂;   ■■■■;1■■■■

後鳥羽

9一4

定家

51

家隆 慈円

雅経 ・・丁

41 1

西行

411一 01

;■■−−  ■  ■     一一  −■−−

通具

有家

式子

−−i−一 ■

内親王

519一

良経

て︑後鳥羽上皇の歌が一首も採られていないのは︑周知のごとく時

の政治情勢によるものであって︑定家の意志によるものではない︒

承久の乱の責任者として後鳥羽・士御門・順徳の三上皇の歌は︑新

勅撰時代の為政者の強力な指図によって︑入集を拒否されたのであ

る︒︶また︑新勅撰で定家の歌が十五首に過きないのは︑撰者自身の

遠慮によるものと考えられる︒従ってこの両者を除いて言えぱ︑続

後撰において数量的に新古今歌人の歌を新勅撰以上に優遇している

のは︑ただ式子内親王一人にすきない︒そのことは︑続後撰撰者為

家が新古今風を敬遠したことの必然的な結果と見られる︒ところで

続古今においても︑新古八﹁歌人の歌に対しては︑数量的には大方続

後撰撰者の撰収率と大差がないようにも見える︒しかし︑家隆・雅

経.通具・有家らの歌に対する撰収率は︑続後撰のそれ︵時には新

(18)

勅撰のそれ︶を桐当に修正するところがある︒のみならず・後鳥羽

院と定実との歌に対しては︑続十口今の撰収率は続後撰のそれをはる

かに越︑凡ている︒一〆︑ういうところには︑確かに続古今が為家の独摂

でなかった市︑一︐の反映があり︑また︑続十口今における新古今の貫的復

活をも暗示するものがある︒ゑ︑ういう数量的な傾向を念頭におきな

がら︑更に三実に採られた新古今主要歌人の歌を具休的に例示し・

貫的に吟味してみよう︒

 一︑新醐撲に採られている新古今主要歌人の欲

 イ 名もしるし峯の嵐も雪と降る山桜戸のあけぼのの空︵春下.

   九四・定家︶

 口 来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれっつ

   ︵恋・三八至・定家︶

 ハ ふみわけむ物とも見︑ヲ札ず朝ぼらけ竹の端山の霧の下露︵秋上

   ・二七九・家降︶

 二 寂しきはいっもながめのものなれど雲間の峰の雪のあけぼの

   ︵冬・聖:・良経︶

ホ ぎえかへりくれまつ袖ぞしほれぬるおきつる人はつゆならね

  ども︵恋三・八一四・酉行︶

二︑続後撰に採られている新十口今主要歌人の歌

  心あてにわくともわかじ梅の花散りかふ里の春のあわ雪︵春

      ﹃続古今集﹂の基礎的研究   上・二六・定家︶

ろ わが袖にむなし山ざ浪はかけ阜︑めつ契りも知らぬレニ一の浦風

  ︵恋一・六完・定家︶

ま 少女子が袖ふる山のたまかづら乱れてなびく秋の白露︵秋上

  ・二六〇・家隆︶

こ 天の河氷をむすぶ岩波のくだけて散るはあられなりけり︵冬

  .四九五・良経︶

︑工 から衣たちはなれにしままならば重ねてものは思はざらまし

  ︵恋三・八竃・西行︶

三︑続古今に採られている新古今主要歌人の歌

a 名にたかぎ天のかぐ山けふしこそ雲居にかすめ春やぎぬらむ

  ︵春上・一・定家︶

b かぎりなくまだ見ぬ人の恋しぎは昔や深く契りおきけむ︵恋

  一・九蓋・定家︶

c 筑波嶺の山鳥の尾のます鏡かけて出でたる秋の夜の月︵秋上

  .三八八・家隆︶

d 池水をいかに嵐の吹ぎ分けて氷れるほどのこほらざるらむ

  ︵冬・六三・良経︶

e 袖の上の人目知られし折まではみさをなりけるわが涙かな

  ︵恋一・一〇二九・西行︶

       三三

(19)

      ﹃続古今集﹄の基礎的研究

ます・新勅撰における定家の歌は︑四季歌にせよ恋歌にせよ︑そ

の自撰歌であるだけに彼の晩年の庶幾する歌風を思わせると共に︑

表現も巧みで格調の高いものがある︒それに比べると︑続後撰に採ら

れた定家の歌は︑むしろ古今風の穏やかさがあり︑微温的で平凡で

さえある・しかし︑続古今に採られた定家の歌は︑格調が高いと←︑帆

ではいえないが・趣向の面白さがある︒三集に採られた家隆や良経

の歌についても︑ほぽ同様のことが言えみ︑うである︒更に西行の恋

歌について見ると︑新勅撰や続後撰のそれは︑これが西行の歌かと

思わせるほどに発想もむしろ常套的であり︑姿詞も無難に整ってい

る・ところが・続古今のそれは︑﹁人目知られし折までは﹂などと

いう詞足らずにつぶやくような散文的な表現と︑﹁みさをなりける

わが涙かな﹂という端的な詠嘆が︑いかにも西行らしいものを思わ

せる︒新古今でも︑これに類する西行の恋歌を採っていたのであ

る・更に・続古今で定家の歌を巻頭にすえていることも︑続古今撰

者たちの新古今尊重の一端と見られるであろう︒要するに︑続古今

には・新古今の世界に対して量的にも質的にも復帰しようとする傾

向が確認されるのであって︑そういうことは為家の独撰ではとうて

い考えられないところであった︒

 以上︑AからCまでは万葉・古今・新古今の三時代の主要歌人の

歌がどういう比重でもって続古今に採られているかを他の二集のそ       三四れと比較し・更に夫々の具体例について質的な吟味を試みたわけであるが︑次には続古今五人の撰者を始め︑新勅撲以後の歌人の歌が続十口今にどういう比重で採られているかを︑先に検討を加えた方法・つまり・新勅撲・続後撰と比較しながら考察して行なけれぱならない︒ ○ 新勅僕以後の歌人︵すなわち続古今当代歌人︶の歌は︑どういう比重で三集に採られているか︒/三集への/喉入歌  /1数歌人 ︒/家  良 新勅撰

基行

一.灯︐﹂

家家麦イ 続後撰続古今

4鱗紅 ザ/戊

ズ.︑.ぺ︑ 新勅撰続後撰 .1︑.一..一続古今

14 一26

21

44

宗尊親王

■︸一

平政村13

 これらの人ヵは・いうまでもなく遇去の歌人ではなく︑いわぱ続

古今現代の歌人である︒従って︑当代の撰集において前代よりも入

撰歌数がのびているのは当然である︒しかし︑それにしても特に続

古今の各撰者−家良・基家・行家・光俊・為家の入集歌数が著しく

のぴているのは注目に価する︒新勅撰における定家︵新勅撰入集歌

数一五集︶・ 続後撰における為家︵続後撰入集歌数二首︶の場合

(20)

のように︑もし独撰なら︑自己の歌の多数入撰は遠慮してさしひか

えるのが通例である︒この事は︑複数撰者なるが故に︑各撲者が互

に他の撰者の歌を多数撰したとも考えられるのではあるまいか︒単

独撰と複数撰との相違は︑この数字にもあらわれている︒

 さて︑これら各撰者の続古今入撰歌を︑それぞれの新勅撰・続後

劣︑一入撰歌と且ハ体的に比較してみよう︒

 ます為家の場合

 新勅撰 春∴〇一 たち残す楕も見えず山桜花のあたりにかかる白

        雲

  〃  秋.二九七片岡の杜の木の葉も色づきぬ早稲田のをしね今

        や刈らまし

 続後撰     あたになど咲きはじめけむいにしへの春さへつ

        らき山桜かな

  〃  秋.四三 山−田山よその紅葉の色にこそしぐれぬ松の程も

        見えけれ

 続吉今 春・三五 よしさらば散るまでは見じ山桜花のさかりを面

        影にして

  〃  秋.五二 くちなしの一しほ染のうす紅葉いはでの山はさ

        ぞしぐるらむ

前にも引用したところだが︑井蛙抄肉によれは︑為家は続古今の

      ︑続古今集﹄の基礎的研究 ときi我が撰進の歌の外は一事以上不レ可レ有レ申二子糾一とて口を閉ぢ侍りきLということである︒すなりち︑為家は続古介撲進にあた

って︑為家の独撰を許されなくなったことに大きな不満をいだきな

がらも︑一応︑その撰歌はしているのである︒従って︑その撲歌中

には︑おそらく︺詠中から︑︺撲した若干首も含まれていたではあろ

う︒しかし︑右にかかげた続古今巾の為家歌が果して為家自撲のも

のであったかどうかは知る由もない︒新勅撲・続後撲に撲ぱれた為

家歌の平明さに比較してみると︑続市今申の為家歌︑特に石に掲げ

た二首などは︑趣向も巧みで︑かなり派手な歌と受けとめざるを得

ない︒光俊は︑秋風抄序文において︑﹁前大納︑言為家卿は︑よく歌

のおもむきを立て︑その詞たくみなり︒しかも艶なるをもととして

やさしきをねがへるにや﹂と評しているが︑そういう為家評は︑前

引の為家の例歌のうちでは︑新勅撰や続後撲申の歌に丸してという

よりも︑むしろ続古今巾の歌に対して︑もっともよく当てはまるよ

うに思われる︒従って︑そういう為家評は為家目身の志向にとって

は心外なものであるかもしれないし︑同時に続古今中の為家歌に

は︑為家の自撰でない歌も含まれている可能性を曙示する︒しか

し︑その為家のn撲のみでないことが︑却って為家の個性を︑より

客概的に把握させる機縁となっているとも考えられる︒すなわち︑

続古今中の為家の歌は︑為家の臼撰か否かを問わず︑為家の歌であ

      三五

(21)

      ﹃続古今集﹄の基礎的研究

ることにかわりはない︒従って︑為家自身の内在的志向は明らかに

続後撰に白撰した歌どもの側にあったとしても︑続古今に撰ぱれた

歌は︑為家の詠風以外のものであるとは言えない︒もし︑続古今中

の為家歌中に︑為家以外の撰者達が撰んだ為家の歌も含まれている

とすれぱ︑むしろそこには客観的匁立場からする為家評価がうかが

えるのではあるまいか︒それはともあれ︑新勅撰.続後撰中の為家

歌と続古今中の為家歌とを対比してみると︑後者の方に︑より艶

で︑より技巧的な歌が多く含まれていると見られる︒

 光俊の場合

 新勅撰 秋・看三明石潟あまのたく縄くるるより雲こそなけれ秋

         の月影

  〃  雑二壷ハしのぶるもわが理竺言ひながらさても音をとふ

         人ぞなき

 続後撰 冬・豊O冬の来てしぐるる時ぞ神南備の杜の木の葉を降

         りはじめける

  〃  雑・二六二つらしとも憂しとも更に嘆かれず今はわが身の

         ありてなければ

 続古今 秋・四一八人をこそ待たずもあらめ曇れとはいかが思はむ

         秋の夜の月

  〃  冬ニハニ霜枯れの横野の堤かぜさえて入湖とほく千鳥な       三六        くなり  〃  雑・一乗八時しらぬ身とも思はじ秋くれば講が袖よりも露        けかりけり 新勅撰・続後撰・続古今の三集を通じて︑光俊の歌は事理もたしかで︑しらべの引きしまった歌が多いように思われる︒そのことは光俊自身が﹁簸河上﹂において︑﹁たけたかく遠白き︑第一とぞ覚え侍る﹂と言った詞とかなり密接に呼応するところである︒しかもそういう光俊の特色は︑新勅撰・続後撰申の光俊歌よりも︑続古今中の光俊歌の方に︑より多く発揮されているようである︒特に︑続古今中の﹁横野の堤かぜさえて入潮とほく﹂の歌などは︑写実的な構成のなかに︑遠白いものへの野心的なねらいが多分に織り込まれている︒ 家良の場合 新勅撰 春・三八 玉ぼこの道の行く手の春風に誰が里しらぬ梅の         香ぞする  〃  秋・一一三九 白砂の月の光におく霜を幾夜かさねて衣うつら         む 続後撰 春・三七 桜花おちても水のあはれなどあだなる色ににほ         ひそめけむ  〃  秋・三八九 山鳥の尾の上の里の秋風に長き夜さむの衣うつ

参照

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