長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第23巻 第2号 一‑二十(一九八三年一月)
古今著聞集の研究(3)
‑ 語 彙
・ 語 法 雑 考
‑
福
田
益
和
A
S t
u d
y
o f
"
K o
k o
n ‑
T y
o m
o n
z y
u "
(
3 )
Y o
s h
i k
a z
u
F U
K U
D A
(一)
古今著聞集はその形式のあまりにも整然としている故にかえって損をしているところがあるのではなかろうか︒全体二
〇巻三〇篇にわかたれ︑冒頭には漢文序・総目録を具備し︑巻尾には仮名文の蚊︑著者橘成季の署名とが附されてあって︑
一見謹厳で立ち寄りがたい貴人のおもむきがある︒その為に︑文学的魅力からいえば︑その形式の整然性ゆえに一歩他に
及ばぬと評されがちである︒しかし︑本集の世界に踏み込み︑編集者橘成季の言語表現に触れることによって︑醸し出さ
れる文学的感興は決して通り一ペんの皮相的なものではない︒
著聞集の魅力は︑今昔物語集・宇治拾遺物語などのそれとは一味ちがうと思う︒今昔や宇治拾遺には︑平安末から中世 初期にかけての当代の人間の生の姿﹁‑汗のにおい・欲望の種々・叫び・悲しみなど‑がストレートに伝わってくる︑
福
田
益
和
二 芥川のいわゆる﹃野蛮の美﹄を感じるが'著聞集では︑それがない(または︑す‑ない)代りに︑全体貴族的優雅さの中
にちらほらとはのみえる俗の魅力とでも言おうが︑和歌的世界の中にかいまみえる一種の俳味とでもいいたいものがあっ
J E J ( X J K
て︑それが我々の心の琴線にふれへ不思議な妙音を奏でて‑れるような気がする︒著聞集の魅力は屈折の美にある︒知的 に我等の心をわきたたせて‑れる︒著聞集の言語世界を手段としてその文学的世界にわけ入る時へ筆者は右のような感慨
をつよくするのである︒
しかし︑本稿の目的は︑著聞集の文学的魅力を論ずることにあるのではない︒筆者の方法としてはう著聞集の言語世界 を︑十三世紀中葉に生きた橘成季の言語表現を通してあたうる限り正確に把握し︑それを基礎として本集の文学世界をさ ぐろうという目的をもっているので︑文学世界へ入る為の言語表現の研究を重要視するのである︒そういうつもりで︑
著聞集の言語を対象としてへその成季的表現のありように執着してゆきたいのである︒
著聞集の言語はまざれもな‑中世初期の言語的性格を具備している︒成季がいかに中古の聖代にあこがれへ渇仰しても︑
中世という時代的うねりの中に生をうけ︑生きている以上へその時代的制約からまぬがれることは到底できないであろう︒
成季はそのような状況下におかれた言語環境の中で本集を書いたのである︒
著聞集の言語についてはへ音韻・語秦・語法・文体等の各分野にわたって︑さらには︑言語生活論の上からも問題に すべきことがらが多い︒本稿は︑その中で︑語嚢・語法に関する若干の事実について国語史的視座をもって眺めることに
し た
い ︒
口
記述の順序は︑はじめに︑語菜の面から二つ﹁とんぼうがへり﹂・﹁ひん‑うす﹂をとりあげへ次に文法面から一つ中世
語法として﹁侍とかや﹂の接続の問題を吟味して行‑︒
第一に﹁とんぼうがへり﹂について︒著聞集の事例を次に示す︒
( .
 ̄
‑ )
我一期に︑此とんぼうがへり一度なりとぞ自称せられける(S3)
けまり(蹴鞠)の名人侍従大納言成通卿の話しの中にあらわれる事例で︑自讃の一文である︒この﹁とんぼうがへり﹂
とは岩波大系本の注﹁とんぼがえり﹂とあり︑現代のわれわれにも疎遠を語ではない︒右の著聞集の文脈に用いられた
﹁とんぼうがへり﹂は︑すぐ前の部分の記述の中に︑その具体的な描写があって︑それによれば︑庭で鞠を蹴あげた成通
卿のまりが︑家の端の格子と簾の中に入ってしまったので'成通卿もそこへ飛び入って行かれたが︑折あし‑父君がそこ
に居られたので︑無礼になってはと思い板敷をふまないままに﹁山がらのもどりうつやうに飛かへられたりける﹂とある︒
山雀がもんどりうつような宙返り︑アクロバッ‑を披露に及んだというのである︒成通卿得意の﹁はやわざ﹂であって︑
それを彼自身が﹁とんぼうがへり﹂と自称しているのである︒
ところで︑﹁とんぼうがへり﹂という語について﹁とんぼうーかへり﹂と分析することに異論はないと思われるが︑成 00 通の﹁早わざ﹂は︑一たん︑山雀のもんどりうつようなすばしこさで喰えられ︑次に︑成通卿自身のことばの中であらた
0 0
0 0
めて﹁とんぼうがへり﹂と言いなおされて居り︑語形の上からは︑﹁山雀‑とんぼう﹂とが対応していることになる︒
﹁とんぼう﹂は今のトンボ(ふつう︑輯蛤を宛てる)であるが︑この語が文献にあらわれるのはそう新しいわけではな
い︒7般には康頼本草にみえる事例
﹁晴蛤和止ム波字﹂(本草虫部下品集)
(注2)
を初出例とするが︑これには疑問がある︒続群書類従所収の本書は︑石原明氏によれば︑丹波康頼に仮託した書であり︑
現存テキストの成立は︑康暦年間(朋〜lぉー)︹明徳初補訂︺と考えられ︑康頼在世のI Oc末のものと考えるわけにはいかな
いとのことである︒用例に特異のもの多‑︑和名についても医心方や本草和名とはことなり︑これ等の内部徴証をもとに︑
康頼に仮托した後性の書とされるのである︒そうすれば︑著聞集より後の成立ということになってしまう︒これを一応除
‑と︑﹁とんぼう﹂が文献にあらわれる早い事例としては︑
﹁ゐよゐよとうはうよかたしをまいらんさてゐたれ︑はたらかてすたれしののさきにむまのをよりあほせて‑‑﹂
(梁塵秘抄︒︒¥ ro)
﹁蛸蛤
古今著聞集の研究㈱
福 田 益 和
つれ‑eIの春ひにまよふかげろふのかげみLよりぞ人はこひしき
六 帖 に あ り へ か げ ろ ふ と は 黒 き と う ば う の 小 き や う な る も の
︑ 春 の 日 の う ら
‑ と あ る に
‑
‑
﹂
( 和 歌 童 蒙 抄
︑ 九
︑ 虫 部 )
﹁あきつはににはへる衣はあきつはの袖と読る︑同事也︑あきつはとは︑と ̄強引と云虫のうすき羽と云也﹂
(袖中抄へ十七へ君にまたせば)
などが注目される︒﹁とうはう﹂・﹁とうばう﹂・﹁とばう﹂の表記からこれ等を同一語形とみるか否かは問題であろうが︑い
ずれも‑ンボなる語が文献にあらわれていることは確実である︒これ等はいずれも十二世紀中葉以後のものであり︑これ 等をもって初出事例と言い切ることはできないが︑文献記載の早い事例として認めることはできるであろう︒
右の事実よりすれば'トンボ(とうばう・とばう・とうほう等の諸々の語形を含める)は︑平安中期以前においては用
いられなかったかとも推測されるが'文献にのらないからといってその語が存在しなかったと速断する.のはむろん危険で
あろう︒あるいは︑常民生活語とでもいうべきレベルでへこの時期よりずっと以前から脈々と用いつづけられて来たので はないかへそれ等が十二世紀になって貴紳の中にも浸透し文献にもみえはじめるようになったのでは︑とも考えられる︒
筆者はその蓋然性は高いと考える︒ただし︑その面の追究は閉ざされているように思われる︒
一方︑平安中期以前においては'トンボの語にあたるものとして︑
ア キ ヅ ー カ ゲ ロ ウ
‑ エ ン バ
などがあったことが知られる︒
﹁ 訓 蘭 蛤 去 両 岐 豆 也 ﹂
﹁ 摘 阿 支 豆 ﹂
﹁ 蛸
蛤 ‑
‑ 一
﹁ 胡 晶 雛 蛸 蛤 之 小 而 黄 也 ﹂
( 古
事 記
下 )
( 新
撰 字
鏡 八
)
( 和
名 抄
十 九
)
( ク 予 . )
(・3)
これ等の語と共存しながらへやがてこれ等にかわって勢力をもつようになり'文献にも登場しはじめたのが︑‑ンボで あったと考えることができる︒すなわちへトンボは'中世語(中世になって生まれたというのではな‑︑中世になって勢
力を得たという意味)の性格を有していると考えられる︒これ等に加えて日本国語大辞典所引の
﹁ 春 の 野 に 東
 ̄ ガ の 飛 ち り た る に 異 な ら ず
﹂ ( 延 慶 本 平 家 )
﹁ 蛸 蛤 と 云 は 大 小 の ト ウ ハ ウ の 惣 名 な り
﹂ ( 塵 袋 )
や︑既出の庫頼本草﹁止ム波字﹂などを中世語としてのトンボの事例に加えることができる︒中世語としてのトンボの文
献的定着とあいまってこれが諸々の辞書にも記載されることになる︒
右の事実よりすれば'著聞集記載の﹁とんぼうがへり﹂のような'‑ンボを前部成素とした複合語が'中性になっては
じめて文献にあらわれるのは至極当然のことであり︑平安以前においても︑たとえば常民生活語のレベルの中でも用いら
れたか疑問である︒この語はやはり'トンボが中世語として定着するプロセスの中で生じた筈で︑中世以降祈し‑生まれ
た語と認めるのが正しいであろう︒
文献初出事例と言い切る自信はないが︑平家物語の事例
﹁
‑ も で
・ か
‑ な は
・ 十 文 字
・ と ば う か え り
・ 水 車
︑ 八 方 す か さ ず き た り け り
﹂ ( 巻 四
︑ 橋 合 戦 ) は︑有名な一文である︒一人当千のつはもの三井寺の筒井の浄妙明秀の獅子奮迅のたたかいが活写されているがへその描
写の中に︑はしな‑も﹁とばうかへり﹂が用いられている︒
右の文脈よりすれば'彼のアクロバット的な行動そのものより'むしろ大刀の用いざまの描写のようにもとられるが︑
しかし語としてはまざれもな‑‑ンボガエリであり'語義の上からはあいまいさを含むが︑はやわざを示す点は認めてよ かろう︒平家物語の成立は問題点を含んでいるがへその流布本にしても著聞集の成立より数十年はさかのぼり得ると目さ れるので︑す‑な‑とも本集以前の事例として考えてさしつかえないであろう︒
これをうけて登場するのが著聞集の﹁とんぼうがへり﹂である︒この語例は'既述のごと‑へ.山雀のもんどりうつよう
な離れわざをやってのけた成通卿の自讃の話として用いられ︑先の平家物語の事例より︑さらに意味上から現代のわれわ
古
今
著
聞
集
の
研
究
価
五
福 田 益 和
六
れに近い‑ンボガエリとして用いられて居りへこの語の使われざまが注目される︒さらに︑この語は︑
と う ば う が へ
﹁田楽の風健‑‑入り替りては鼓をも﹃や︑てい‑﹄と打て'晴蛤返りなどにてちや‑!‑としてさと入也﹂
( 申
楽 談
義 ・
序 )
などを経て︑辞書にも'
﹁蛸艇還‑ンハウカヘリ﹂(運歩色菓集)
と記載され︑中世末葉ごろより一般にも広‑用いられるようになったのではないだろうか︒(なお︑蛇足を言えば︑近世ご
ろ︑動詞としての‑ンボガエルや︑‑ンボを切る︑などの表現もあらわれて来たようである︒)
古今著聞集の﹁とんぼうがへり﹂は'以上の語史的観察によって︑中世語としてのトンボガエリの成立を考える上で注
目すべき事例と認められる︒たゞ︑トンボガエリの前部成素﹁トンボ﹂についてはへなおい‑つかの問題点をもっている
よ う
で あ
る ︒
その一つは﹁とんぼ引﹂の仮名遣いの問題である︒著聞集は﹁とんぼ引﹂と﹁‑バウ﹂と表記され︑既述の梁塵秘抄
・和歌童蒙抄・袖中抄・康頼本草・塵袋などいずれも﹁‑バウ﹂(ハウ・バウの清濁不明︒バウは‑Tの鼻音添加による
濁音か︒)である︒l方︑享徳三年(9)︑飯尾永祥のあらわした分類体辞書﹁撮壊集﹂には﹁蛸挺トン利引﹂とある︒また
易林本の節用集によれば﹁輯艇‑バ刊﹂とある︒﹁トパフ﹂については︑トンボがよ‑飛ぶところから︑﹁飛ぶ﹂に接尾語フ
のついた﹁飛ばふ﹂を考え︑その転成した名詞形﹁トパフ﹂とみる疑問仮名遣いの説もあるが︑‑ンボの語源が確定しな
い以上︑﹁飛ばふ﹂語源説は俗解の気味がしないでもない︒
T方︑﹁‑バウ﹂の方は︑既述の文献をはじめ︑語の規範性を示すはずの辞書類では︑
温故知新書﹁晴蛤‑ウハウ﹂
運歩色菓集﹁蛸挺還‑ンT引力へ恒一
和玉篇﹁嫁‑ンバウ﹂﹁顧封D‑f>﹂﹁顧トンバウ﹂﹁顧‑ン川可﹂
日 葡
辞 書
﹁ T
o m
b o
‑ ン
川 可
( 晴
挺 )
‑ ‑
﹂ ﹁
T o
m b
o m
u s
u b
i ‑
ン ペ
刊 ム
ス ビ
( 晴
艇 結
び )
﹂
﹁ X
e i
t a
i セ
イ タ
イ (
せ い
た い
) へ
T o
m b
6 と
ん ぼ
う )
に 同
じ ‑
‑ ﹂
﹁ Y
a m
a t
o m
b o
ヤ マ
ト ム
相 可
( 山
蛸 艇
) ﹂
と︑いずれも﹁‑バウ﹂が定着して居り,節用集類でも'先の易林本が﹁‑パフ﹂とする他は︑伊京集﹁晴艇‑ン川
引﹂他へ明応本・天正十八年本・黒本本・韻頭屋本・文明本いずれも同様である︒
以上の事実からして﹁‑バウ﹂をもって正しい仮名遣いと認めてよいであろう︒とすれば︑易林本の﹁Iパフ﹂は' ハ行転呼音によるり・フの混同として解釈することができるし︑損壊集の﹁Iホウ﹂は︑あるいはオ列長音の開合にか
かわる音韻的問題を背景にはらんでいるかもしれないが'これは臆測にと.,,めることにする︒なお︑﹁‑バウ﹂の長音化
にともない︑やがてこれが短音化現象をおこし'今の‑ンボが生まれたのではないだろうか︒
もう一つはトンボにあてる漢字の問題である︒現在︑トンボに宛てるに漢字﹁蛸蛤﹂の二字をもってするが'これは古
くアキヅ・カゲロフにあてた文字であってこれを襲用した形になっている︒中世にあっても既述の康頼本草・温故知新書
のように﹁蛸蛤﹂二字であてる事例もある︒
l方︑延慶本平家物語の﹁東方﹂へ誓喰尽の﹁飛坊(反)﹂などは語源意識を背景にした用字法とみられ'さらに和玉篇
が﹁蝶・蛸・艇・虻﹂などの単字をもってあてたのは中国玉篇系統の用字にならった故であろう︒
次に︑中世の古辞書類にみられる中心的用字は﹁晴艇﹂の二字をもってあてる点にある︒
撮壊集ではカゲロウには﹁晴蛤﹂︑トンボには﹁晴艇﹂をあてて居り'用字の使いわけがあるのではと推測される︒同じ
事実が文明本節用集にもみられるごと‑である︒そうみれば'和玉篇が﹁晴﹂には︑トンバウ・カゲロウの二訓を併記し
ながらへ﹁艇﹂には︑‑ンバウのみの訓が記され'カゲロウが附訓されていないのも気になる︒節用集類では伊京集・易林
本・明応本・天正十八年本・黒本本・鰻頭屋本・文明本などすべて﹁晴艇﹂を宛て︑日葡辞書の用字も然りである︒﹁蛸
艇﹂用字の中世的定着をうかがわせるのである︒
和名抄・色菓芋類抄・名義抄など前代の辞書において﹁晴蛤‑カケロフ﹂(トンボの訓はみられない)の用字が定着し
ている状況の中で'カゲロフにとってかわった‑ンボに対しても﹁晴蛤﹂をそのま︑宛ててはみたがへこの中世語トンボ
古
今
著
聞
集
の
研
究
価
七
福
田
益
和
八
の勢力の拡大にともない︑新しい用字意識がおこって'﹁蛸蛤﹂とはことなる﹁晴挺﹂二字をあらたにあてるようになった
のではなかろうか︒そしてこれが中世人の一般的用字であったと推測するのである︒
ところが︑後世になって︑トンボを意味する古語﹁かげろふ﹂の意味がうすれ︑一方で中世語トンボはそれに形姿のよ
‑似た﹁蜂蝦カゲロフ﹂と混同されへこれがさらに語形相同の︑かっての﹁蝋蛤カゲロフ﹂にも及んで︑時間的に逆の類
推がはたらき︑﹁蛸蛤トンボ﹂の用字意識が再び勢力をもつようになって︑それが次第に定着して行ったと考えられる︒
以上のことは推測の域を出ないが︑ここに注目しておきたいのは'中世語としてのトンボには﹁晴艇﹂の二字をあてる
のがもっとも当を得ているということである︒そうすれば︑著聞集の﹁とんぼうがへり﹂について﹁晴挺返(逮)﹂をあて
るのが正しいと考えたい︒
成通卿の早わざ﹁とんぼうがへり﹂は中世語としての性格を考える上で示唆的である︒
亘
次に﹁ひん‑うす﹂について︒まず著聞集の本文を示す︒
ゐの子餅をよめりける
なによりも心にぞつ‑ゐの子餅ひん‑うすなる物とをもへば
これは︑ゐの子餅(亥の子‑陰暦十月の亥の日‑について食べた餅︑これを食べると万病がのぞかれるという)を
得た泰覚法師が感謝の思いを述べた歌ということになっているがへその歌の中の﹁ひん‑うす﹂については解釈上若干の
ゆれがあるように思われる︒すなわち︑古典大系本の注では︑
﹁貧窮失(ラ)﹂す意か︒うすは臼の意をかねへ﹁つ‑﹂とともに餅の縁語
とありへ角川文庫の注では'ここを
貧苦失す︒貧乏の苦しみが失せるという物︒﹁失す﹂に﹁臼﹂をかける︒
としている︒右は要するにへ﹁貧窮‑貧苦﹂の解釈上の対立に帰せられる︒この解釈上の対立はいずれが正しいとすべき
か︑その点を中心に考察してみたい︒
﹁ひん‑うす﹂(﹁ぴんぐうす﹂のような濁音の場合もここにふ‑める)について︑
a ヒ ン
‑ ク ウ
‑ ス b ヒ ン ク ー ウ ス C ヒ ン ク ウ ー ス d ヒ ン ー ク ウ ス 等と分析しても︑結局'語としてみる場合へbの﹁ヒンクーウス﹂の分析がもっともあり得べきものとして浮かびあが
っ て
く る
︒ Cの﹁ヒンクウース﹂をヒンクウ(という語を想定して)にサ変動詞の﹁ス﹂のついたものと考え︑これをもとにして 貧 窮 す
‑ 貧 苦 す
‑ 貧 宴 す なる語を考えても現実的にはサ変動詞としての確実な事例を見出し難い︒そこで結局︑先の﹁ビンクーウス﹂にしぼら れてしまうのである︒この語の後部成素﹁‑うす﹂は﹁失す﹂と考えざるを得ないので(臼の意はむろんかけられてい
る︒)︑前部成素﹁ひん‑﹂は︑歌の内容から考えて︑
貧 窮 貧 苦 貧 寒
などをあてて考えるのが穏当であろう︒ここで歌の技巧という面を考慮して︑﹁ヒンク引﹂という長音をも許容範囲として
へ注4)
認めれば'右に加えて︑既出の﹁貧窮﹂や﹁貧空﹂をこれに宛てることができる︒
右のうち︑貧輩・貧空については︑大漢和辞典が'
﹁歎其矧劃人英知之﹂(詩経︑舶風︑北門終章且貧︑集伝)
﹁ 謝
承 書
目 ︑
身 没
之 後
家 矧
到 ‑
・ ・
・ ﹂
( 後
漢 書
へ 虞
延 伝
︑ 注
)
等の事例をあげるが︑これ等は結局漢籍の範囲にとごまり︑国語の文脈の中で用いられた事例を知らない︒(日本国語大辞
典所引の﹁莫酋家太矧蘭﹂︹本朝文粋十三へ慶滋保胤︑勧学会所欲建立堂舎状︺のように叫月叫の項にあげられたものもあ
るが'これにしても漢文脈のもので︑さらにヒンクの事例ではない︒)
そこでへヒンク・ヒンクウ(ビング・ビングウをふ‑む)を単語と認定する時︑その語にあてるべき漢字としてはう
古
今
著
聞
集
の
研
究
㈲
九
福 田 益 昭 貧 窮 貧 苦
のいずれかになってしまう︒とすれば︑話しは振り出しにもどって︑右の二つの場合について改めて吟味するのが至当で
あると考えられる︒
まず﹁ヒンク﹂という語形を考えた場合へ右の﹁貧窮・貧苦﹂のいずれの場合を宛てて考えても可能である︒
色菓字類抄(前田本・下畳字)によれば'
﹁ 貧
窮 ヒ
ン ク
﹂
と訓が記され︑貧字には去声(清音)︑窮字には上声(清音)の声点がさされている︒貧・窮の両字は韻鏡に従えば︑
貧‑‑唇音・全濁(並母・真韻)
窮‑‑牙音・全濁(群母・東韻)
とあり︑呉音系の濁音字であるが︑色葉芋類抄の﹁ヒンク﹂は明らかに清音表示であるから︑漢音系のものであると考え
ら れ
る ︒
1方へ﹁ヒンク﹂に宛てられる﹁貧苦﹂は︑例えば︑文明本節用集に︑
ク
﹁ 貧 窮
‑ 報
‑ 乏
‑ 苦
﹂
と﹁貧窮﹂の系列下に配置され'﹁貧苦﹂という用字の側からみれば︑﹁ヒンク﹂以外に訓みの可能性はない︒(ピンク・ビ
(注5)
ングの訓みは認められない︒)これに対して﹁貧窮﹂は'ヒンク・ヒンキユウ・ビング・ビングウ等の訓みの可能性を有Lへ
白河本字鏡集などでは︑﹁窮﹂字にクウ・キウ・クの三訓を傍記しているが︑清濁表示が明らかでなく決定することはでき
な い
ビングの訓は'法華経の音読による伝承音とされるが︑現実にはビングウと長音に訓むのが大勢を占めた︒鰻頭屋本や ︒
黒本本の節用集がそうだし'運歩色菓集でも同様である︒日葡辞書をみても︑
B i
n g
u ビ
ン グ
ウ (
貧 窮
M a
z z
u x
i j
q i
u a
m a
r u
‑
B i
n g
か g
u e
x e
n 貧
窮 下
購 )
とあり落葉集も然りであるoよってビングウが当時1般であったことをうかがわせる︒た',,し︑これをもって︑著聞集の
﹁ひん‑うす﹂の仮名表記について﹁ひん‑ラ‑ビングウ﹂と考えるのは短絡にすぎるのではなかろうか︒なぜなら︑著聞
集の﹁ひん‑うす﹂は︑ 貧窮 ビングウス 失す
と分析することも可能であるが︑一方で︑
貧 窮
・ 貧 苦 失 す 貧 窮 失 す ヒ ン ク ウ ス ビ ン グ ウ ス
と考えられる余地も残しているからである︒これ等の可能性を逐一検証した結果︑結論を下すのが正しい方法と思われる︒
そこでこの問題の見通しをつける為に︑﹁ひん‑うす﹂の後部成素﹁うす=失す﹂(うすはうずなど他に考える余地はな
い)と前項の﹁ひん‑(う)﹂との関係を考えてみたい︒
貧窮は'それが︑ビンクービングービングウ等と訓みの対立があっても︑語義に関してさしてへだたりがあるとは
認められない︒
説文解字によれば︑
貧 ︑ 財 分 少 也
‑ 八 分 分 亦 晶 巾 ( 六 下 )
窮︑
とあり︑
貧︑
窮へ
極 也 笑 躯 聾 甥 ( 七
︑ 下 )
わが国の玉篇の流れを‑む纂隷万象名義に
皮 斌 反 一 尤 財 也 ( 六 )
渠 弓 反 極 也 終 也 ( 三 )
とあるのも同類である︒貧と窮は'基本義の上から相違はあるものの︑一方で通用して熟字としても用いられ'﹁お金がな
古今著聞集の研究㈲
福 田 益 和
‑ て き わ ま る こ と
﹂ と な り
︑ さ ら に
︑
﹁ 身 苦 貧 窮 一
︑ 競 為 甘 詐 .
﹂ ( 続 紀 へ 六 へ 和 銅 七 年 二 月 )
二一
﹁ 貧
窮 愁
 ̄ ﹂
( 日
本 霊
異 記
︑ 中
1
4 )
と用いられて︑﹁貧苦﹂の語義に通用されることになる︒この﹁貧窮﹂に接続する語としては'﹁愁﹂・﹁苦﹂の他にも'
﹁ ‑ 老 疾 ﹂ ( 令 義 解 ) へ ﹁ ‑ 孤 濁 ﹂ ( 太 平 記 ・ 撰 集 抄 ) ︑ ﹁ ‑ 下 購 ﹂ ( 今 昔 ・ 日 蓮 消 息 ・ 日 葡 )
があり︑中で﹁‑老疾﹂は﹁貧窮﹂を疾病のカテゴリーの中で位置づけ'万病をのぞ‑ために食べる亥の子餅について
﹁ひん‑うす﹂と表現している著聞集の本文に深‑かかわると言ってよかろう︒
貧・窮・貧窮の語義についてはこの他にも﹁お金がな‑て生活に苦しむ人=貧窮なる人﹂の場合がある︒漢籍の事例で
は'大漢和辞典所引の﹁腰骨矧﹂(呂覧︑李春)へ﹁三日振轡(周礼へ地官大司徒)や︑興福寺本大意恩寺三蔵法師伝の
﹁ 給 施 矧 矧 井 外 国 婆 羅 門 客 等 ﹂ ( 巻 l O )
I :
‑ 二 6 )
貧 窮 井 ( ヒ ニ ) 外 国 ノ 婆 羅 門 客 等 二 給 施 ス
﹁五年1請五印度沙門婆羅門及矧矧孤濁為七十五日無遠大施︑‑‑﹂(巻五)
五 年
( ニ
) 二
タ )
ヒ 五
印 度
ノ 沙
門 婆
羅 門
( ‑
) ︹
及 ︺
貧 窮
孤 濁
( ‑
) ヲ
請 (
シ )
テ 七
十 五
日 ノ
無 遮
ノ 大
施 ヲ
為 テ
‑ ‑
等事例は多い︒この﹁貧窮なる人﹂の語義はわが国においても継承され︑万葉集(五'8‑2番)︑
¶ 剣 矧 問 答 歌 一 首 井 短 歌 ﹂
と題にみえる﹁貧窮﹂は︑貧者と窮者との問答形式という戯曲的構成をもった長歌・反歌の題であること周知の通りであ
る︒この語義に支えられて︑令義解(巻二二戸令)が'
﹁ 凡
錬 寡
孤 濁
︑ 矧
矧 老
疾 ︑
不 知
育 存
. 老
・ ・
・ ‑
﹂
と述べ︑令集解(巻一〇︑戸令)が右の同文についてへ
﹁ 珂
矧 翻
貧 尤
資 財
者 ﹂
と注しているのである︒
以上のことから︑﹁貧窮﹂は﹁財無き生活状況﹂・﹁貧し‑て苦しいこと‑貧苦﹂・﹁貧(窮)老﹂等の意をもっていることにな
る︒
ところでへ第二の意味に通用する﹁貧窮愁﹂が'日本霊異記にみえるが︑それは'
﹁鹿賀窮愁﹂(中‑1)
﹁ 滅
賀 窮
愁 .
﹂ (
中 ・
* #
)
と用いられ︑﹁貧窮の‑るしみ﹂より何とかのがれようとする︑あるいは︑何とかしてな‑してしまおうとする人間のこころ
があらわされている︒さらにへこの﹁貧窮の‑るしみ﹂は︑第三の﹁貧者・窮老﹂の意味に影響を受けたのか︑貧そのも
の︑窮そのものを擬人的な対象物(いわゆる貧乏神)と化して'これを人間の手で積極的に追い出そうとする説話的世界
をつくり出すことになる︒
例えば︑沙石集(巻七・貧窮ヲ追タル事)にみえる一話がその一つ︒尾州の円浄房という僧が'年来貧窮であることを
悲しく思って︑これを﹁追はむ﹂と思いへ﹁今は貧窮殿出をわせ!\﹂といって追い出す話がある︒﹁貧窮﹂をここでは﹁貧
窮殿﹂と称し︑また﹁貧窮の冠者﹂とも称して擬人化Lへ何とか御退参願って﹁貧窮の苦﹂よりのがれたいとする中世人
﹁
・
‑ '
‑
>
の物の考え方が活写されているのである︒
右のような事実を考えるに及び︑著聞集の﹁ひん‑うす﹂は︑これ等の世界に自然とむすびつ‑ように感じられる︒す
なわち﹁うす(失)﹂という動詞は︑﹁貧窮﹂という語にむすびつ‑礎地を与えられていたと思五れる︒l方'﹁貧窮﹂の語
義に通う﹁貧苦﹂についても同様な事例があって然るべきであるが︑管見の範囲では︑
﹁我久矧割︑未見宝珠之在表中﹂へ懐風藻)
﹁心有人貧苦ハカリ心憂ク悲キ事ナカリケリ︒此人々ノ振舞皆貧苦ヨリ事ヲコレリトソ申ケル﹂
( 康
頼 宝
物 集
' 中
)
﹁愛ヲ以テ観性音菩薩ハ一切衆生ノ願ヒヲ満チテ貧苦ヲ慈ミ救バンタメ二‑‑﹂
﹁凌ヲ以テ雌沙門天王ハ死苦ニハ逢7‑モ貧苦二ハアハシトノ給ヘリ︒﹂
古今著聞集の研究価
(
*
;
福
田
益
和
十
四
﹁次に銭を蚊のごと‑してつかひ用ゐる物としらば︑なが‑貧苦をまぬかるべからず﹂(徒然草2 17段)
﹁貧苦﹂を対象化・擬人化した用法はな‑︑それ等は﹁死苦﹂等の系列下にある語で︑人為的にはとうていのがれるす
べもない︑神仏の加護によってのみその苦しみから脱出することができるとする文脈の中で用いられているようで︑﹁貧窮﹂
の語のもつ多義的・人間的な広範囲の用法はみられないようである︒
すなわちへ﹁貧苦﹂は﹁貧窮﹂と語義的に同類項を有しながら︑その語の働きからみれば︑固定的で︑その点﹁貧窮﹂の
の生き︿とした使われざまに比すべ‑もない︒よって︑﹁貧窮﹂は中値においてもさがんに用いられた語であると認めて
よ か
ろ う
︒
以上の吟味によって﹁ひん‑うす﹂の﹁うす(失)﹂と結びつ‑語としては︑﹁貧苦﹂よりも﹁貧窮﹂とみるのが一番自然
であろう︒ただし﹁貧窮﹂をヒンク・ビング・ビングウの中のいずれとするか決定的には言えない︒がしかし︑﹁貧窮﹂を
採録する辞書の規範的性格よりして︑﹁ビングウ﹂とするのが穏当であると考えられる︒よって︑著聞集の﹁ひん‑うす﹂
は︑ 貧窮ビングウ
﹁ ひ
ん ‑
D 甘
﹂
失 す
( 臼
)
と考えるべきである︒
佃
第三に︑中世の語法として﹁侍1とかや﹂の接続の問題を者える︒
説話の表現技法の一つに︑省略表現による暗示の効果を示すものがあるが'著聞集にそれが顕著にあらわれることは既
(; Wo o)
に述べた通りである︒これは︑﹁Iとぞ︒﹂﹁Iとなむ︒﹂﹁‑とこそ︒﹂﹁‑とかや︒﹂等の文末形式で︑引用を示
す助詞﹁と﹂に係助詞が下接し︑その結びを省略することによって終止し︑省略された部分は受け手の判断にゆだねられ
るという表現技法である︒
ここでは︑この表現技法の一つである﹁‑とかや︒﹂の中で'上に﹁侍り﹂が接続した場合を問題にしたい︒事例を
あ げ
る ︒
㈲これ故実たる由︑吏部王記し給て侍とかや︒
㈲夜ふ‑るほどには'時々その御肇のなり侍とかや︒
畑盃をとる人かならず三度のむ事にて侍とかや︒(4)
㈲1上︑外記に牛をたまはせたる事は先例も侍とかや︒(5)
㈲今は修明門院に侍とかや︒(3)
いずれも﹁‑とかや︒﹂に﹁侍﹂が上接した事例で'﹁と﹂助詞の本来的機能に従えば'ラ変活﹁侍り﹂は﹁ハベリ﹂
と終止形接続であるべきであるが'中世語法の観点よりすれば'﹁と﹂助詞の上接語には連体形相当の語形をとる場合が
多‑︑いちがいに﹁ハベリ﹂と決定する根拠はないことになる︒例えば'岩波古典大系の注では︑先の事例㈲〜㈱の﹁侍﹂
を﹁矧っ引とかや︒﹂と附訓Lへ㈲については﹁笥利とかや︒﹂と附訓し不統lになっている︒㈲〜㈲の﹁侍﹂を﹁はベ
り﹂としへ㈲の﹁侍﹂を﹁はべる﹂とする文脈上の理由は兄い出せない︒本文が﹁侍﹂の漢字表記で語尾 用いられていない以上そこに訓みのユレが生じやすいのは当然である︒かといってへ無造作に﹁はべり﹂
とか附訓するのも不統一になってしまう︒そこでこの点について以下吟味する︒
﹁ り ﹂ ・ ﹁ る ﹂ が
とか﹁はべる﹂
本集に用いられた省略表現﹁
㈱助動詞‑とかや︒(4 1例)
届ける(連体形)‑とかや︒
とかや︒﹂(5 5例)の上接語に着目し︑整理すると次のごと‑なる︒
けり
bたる C
な る
㈲動詞‑
(終止形)‑とかや︒
(連体形)‑とかや︒
(連体形)‑とかや︒
‑とかや︒(1 0例)
13136
例例例例
古今著聞集の研究価
福 田 益 和
㈲ 侍
‑ と か や
︒
㈲ 給
‑ と か や
︒
吊ある(連体形)‑とかや︒
値 引
と '
. ,
む る
( 連
体 形
) ‑
と か
や ︒
㈹名詞‑とかや︒(1例)
㈲ 事
‑ と か や
︒
㈲ 春
‑ と か や
︒ 吊馬允なにがし‑とかや︒
1225
例例例例
211
例例例
上接語のうち︑灯の名詞の場合︑今直接の関係がないからはずして考えると︑他の㈲・卸の活用語を上接語とする場合
においては︑一見してわかるごと‑︑助動詞・動詞いずれの場合も﹁連体形 とかや︒﹂の接続形式が大勢を占める︒
例外的な事例は︑㈲の﹁けり﹂の一例で'これは︑
勝方の拝などあり州引とかや︒
とあらわれるものである︒
漢字表記の﹁給﹂(四段)については終止・連体のいずれか決定できない︒(たとえ︑﹁たまふ﹂・﹁給ふ﹂と表記されても
同 様
で あ
る )
もう一つの漢字表記﹁侍‑とかや︒﹂が当面の問題点であるが︑これはラ変活用であるから表記上︑終止・連体両形相
当の形態上の相違は﹁給﹂に比べて区別しやすいのであるが︑﹁侍‑とかや︒﹂の形式では﹁侍り﹂なのか﹁侍る﹂なの
か︑にわかに決定できかねるのである︒しかし︑右のごと‑﹁連体形‑とかや︒﹂の接続形式が大勢を占める以上︑﹁侍
‑とかや︒﹂についてもその点大いに参考にすべきことは当然であろう0
ラ変活動詞﹁侍﹂が﹁とかや﹂に上接している点に注目すれば︑他のラ変活動詞﹁あり﹂の連体形﹁ある﹂が﹁とかや﹂
に上接している事例のあることを見落してはならない︒
家に例あるとかや︑院の御製を‑ださる'(C‑︒¥ (to)¥ro/
さらに︑助動詞﹁けり﹂・﹁なり﹂・﹁たり﹂についてもラ変型活用語である点を考慮すれば︑これ等の連体形相当の﹁け
る﹂・﹁なる﹂・﹁たる﹂が﹁とかや︒﹂に上接している点注目すべき事実である︒すなわち︑山田孝雄博士のいわゆる﹁存在
詞﹂なるものは︑中世においては連体形相当の語形で﹁とかや﹂に上接していたのではないかという見通しをつけること
ができる︒
sus 以上の点よりして'﹁侍‑とかや︒﹂は︑﹁侍‑とかや︒﹂と考えるのが穏当である︒この考えを補強する為に'なお
い‑つかの事実を述べる︒
古今著聞集における省略表現﹁
(注9)とぞ︒﹂︑﹁Iとなむ︒﹂︑﹁‑とこそ︒﹂等の実態については既述の通り別稿にて
詳細に触れた通りであるが︑
○ と
ぞ (
7
3 例
)
㈱ 助 動 詞
‑ と ぞ
︒ aける‑とぞ︒
その上接語に関していえば次のごと‑である︒
けnノ
e f
bなれノa i t
たり
㈲動詞‑
㈲侍る
㈲給
㈹名詞‑
‑とぞ︒
Iとぞ︒
‑とぞ︒
Iとぞ︒
と ぞ
︒
‑とぞ︒
‑とぞ︒
と ぞ
︒
124558
例例例例例
i^B^BI
例例例
○ と な む ( 4 9 例 )
古今著聞集の研究㈱
古今著聞集の研究㈱
㈲ 助 動 詞
‑ と な む
︒ の け る I と な む
︒ け り
‑ と な む
︒
㈲ な り
‑ と な む
︒ 吊 た る I と な む
︒
㈲ 動 詞
‑ と な む
︒
㈲ 有
‑ と な む
︒ あ り
‑ と な む
︒
㈲ 侍 る
‑ と な む
︒
○とこそ(2例)
㈲ 助 動 詞 I と こ そ
︒
31635 112
例例例例
例例例 a
け る
‑ と こ そ
︒
‑ 例 吊 た る
‑ と こ そ
︒
‑ 例
いわゆる存在詞を中心とした上接語のほとんどが連体形相当の語形であることが看取される︒終止形相当の語形をもつ
ものが若干あるようであるが︑例外的事例とみなしてよいであろう︒
当面の﹁侍﹂については︑
むかしの館の跡もかの社のほどにてなん周到とぞ(s)
榊のふりに末句をうたはざるは故実にて伺利となん
のごとく活用語尾を仮名表記した﹁侍引﹂の事例がみられる︒前者は係助詞﹁なん﹂の結びとして﹁侍る﹂が用いられて
いるので積極的意味をもたないが'後者の﹁侍る﹂は明らかに連体形相当の語形で﹁となむ﹂に上接した事例というべき
SH E
で︑先の﹁侍‑とかや︒﹂の接続形式を支持するものと考えられる︒なお︑﹁はべり(又は︑矧引)‑とかや︒﹂のよう
(注 川)
な終止形相当の語形が﹁とかや﹂に上接する確実な表記事例はないようである︒
なお︑本集とはゞ同時代の成立と目される撰集抄にも︑
﹁一天かき‑らされて日月の光を共へる姿に侍るとかや︒﹂
﹁みななびきけるは線依のすがたをあらはし矧引とかや︒﹂
のような事例あることもつけ加えてお‑︒
これ等の事実をふ‑めて考えれば'古今著聞集の﹁侍
はべるとかや︒﹂は﹁侍
( 巻 六 ︑ 後 冷 泉 院 之 事 ) ( 巻 七 ︑ 伯 州 大 智 明 神 事 )
とかや︒﹂とするのがもっとも当を得た
は '[ ;
ものと考えるのである︒﹁侍‑とかや︒﹂
はペる
表記形式であらわれたものについては﹁侍
劫 の接続が当時において認められないとは言い切れないが︑﹁侍1 ‑とかや︒﹂と訓むのが一番蓋然性があると言いたいのである︒ とかや︒﹂の
古今著聞集の文章表現にはへその言林に踏み込んで行‑にしたがい不可解をことがらの多いのに気づかされる︒小稿は その中から三つを選んで'特に中世語という視点から若干の考察を加えたものである︒いずれも臆断に過ぎないが'要聞
集の林を分けいく一つの自分なりの道しるべとしたい︒
岡 注 岨
心数字は'岩波古典大系本のページ数︒傍線は筆者へ以下おなじ︒
㈲群書解題・経口による︒
㈲物類称呼所引の東雅にも﹁晴蛤はいにLへあきつと云'後かげろふと云即今云とんぼう也へ東国の方言にえんばと云‑‑﹂と指摘する︒
㈱大漢和辞典には﹁貧味ヒンクワウ﹂もあげているが'ここまで広げる必要もないであろう︒
古今著聞集の研究価
5(9) (8) (7) (6)