• 検索結果がありません。

明治期 田中光顕の周辺

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "明治期 田中光顕の周辺"

Copied!
10
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

著者 安岡 昭男

出版者 法政大学史学会

雑誌名 法政史学

巻 37

ページ 9‑17

発行年 1985‑03‑24

URL http://doi.org/10.15002/00010992

(2)

柔つあき明治期の宮廷政治家と1」て知られる田中光顕は、天保十四年(一八四三)土佐国高岡郡佐川村に生まれ、幕末に土佐藩士浜田辰弥として武市半乎太の勤王党に属して活躍し、慶応三年、中岡慎太郎の死後は陸援隊を率いて行動した。維新後、新政府の兵庫県権判事を振り出しに大蔵省監督司などを経て、岩倉特命全権大使欧米派避に際しては剛辮向戸籍頭で随行し、帰国後は陸軍会計の慌督に任じ、西南役には征討軍会計部長を務め、明治十四年陸軍少将兼参事院議向となり、内閣制度発足前から内閣禅記、長、ついで元老院議官、会計検査院長、警視総慌などを脈任。明治一一十四年三月宮中顧問向兼帝室会計審査局長になってから宮中関係の要職が永く、翌年学習院長、二十八年宮内次官となり、三十一年図書頭を経て宮内大臣に就任して、四十二年六月まで、九年四ヶ月余の長期にわたり在任した。この間、子爵のち伯爵を授けられている(官歴については後

明治期川中光剛の周辺(安岡)

LC

明治期田中光顕の周辺

褐参照)。退隠後の大正・昭和期には維新の志士の顕彰に努め、多摩聖蹟記念館・水戸の常陽記念館・佐川の青山文庫の設立などに当たり、昭和十四年(一九一一一九)三月、九一十七歳の長寿を全うした。川治後半期には宮中関係という職掌tあまり政治の表面には川ないが、陰では重要な役を演じていた。しかし没後四十数年を経過した現在、田中光(1)顕は願られることも少ない存在となっている。東京都多摩巾述光寺の丘上に述つ多摩聖蹟記念館(昭和五年開館)には、明治天皇像・遺皿はじめ維新志士・明治(2)一兀勲の過坐などを収蔵展一不しているが、岐近そのうち伊藤博文と山映有朋の田中光顕宛書翰の調査に当たる機会を与えられた。その結果に基き、従来ほとんど研究上に利用されなかった文書の一部を紹介しながら、明治期に田中光顕(背山)が果たした政治的役割の一端を窺ってふたい。伊藤・川県の書翰は巻子仕立で伊藤書翰がⅢ巻(春敏公手簡u、春敏公述口書草稿1)、山県書翰が町巻(含雪公手簡価、含

安岡昭男

(3)

1岩倉使節と川中戸籍蚊

特命全権大使治倉具視一行の欧米派遣に際し、戸籍頭田中光顕はⅢ鴇面として会計辮務の業務を命ぜられ、明治四年十一月十一Ⅱ川発、六年九月十三日帰着した。大使一行(3)との別行動としては六年六月十六Ⅱ、安藤太郎と二人でスイスに向け先発している。(一行は六・一八ウィーン発)。田中理事官は一行の旅費五○万ドルという大金を預っていた。一行がニューヨークに着くと英国に居た旧長州藩士南(4)貞助が当地まで来て、ナショナル・バンクへの有利な預金を勧めたが川小は断わったという。ところが一行巾に所持金を個人的に同銀行に預金した者があり、英国に到着すると、ナショナル・ベンクの破産という事態に遭った。明治五年十月二十二Ⅱ、在英中の副使大久保利通大蔵卿(5)は、田中への聿日輪で、一行および留学生中の預金者が同銀行の「破滅」で困窮しており、「東洋銀行」(オリェンタン・バンク)より一万五千膀(ポンド)を借用し融通する 雪公手蹟1)で、一巻に数通から十通内外を収め合計伊藤関係約五○点、山県関係約三八○点にのぼり、田中宛以外の文書若干も含んでいる。全体の解明は今後の整理検討に俟つ所であるが、本稿では主として一応の調査を遂げた伊藤関係書翰を通して、田中光顕周辺の諸問題の幾つかを取り上げてふた。 法政史学第三十七号

ことを伝えた。また伊藤副使は西暦(一八七二年)十二月(6)二十六Ⅱ、田中宛に、器械買入代金七○○ポンドを「バンク破壊」につぎ右の一万五千ポンド中より支払うよう依頼している。在仏のW費冊学生もこの災厄に会い借金を申出て、戸皿(7)一一一郎(尾崎一二良)願書の手続と同様に許可されていており、塩田一一一郎一等書記世イタリア伝信会議出席後用一五○ポンド下賜(鮫嶋尚信中弁務使より申出、壬申七月廿九日)し(8)あり、川巾一P麟蚊は大久保・伊滕両副使から右一万五千ポ(9)ソド糀算並口のロンドン指廻しを求められる(明治六年二月几日の禽翰)など、会計担当者として思いがけい蘓故のため多躯であった。

2陛車会計臘暦

バンク一件を含め岩倉使節団の会計職務を果たして六年九月州脚した川中光顕は、陸軍卿山県有朋から陸躯財政の蜷川を懇望され、翌七年一月陸軍会計監督に就任し、佐賀の乱、台湾出兵時の財政を掌り、さらに西南役では十年二H征討軍団会計部長の任を帯び四月戦地に出張、十月東京に凱旋した。明治十一年八月近衛砲兵隊の反乱(竹橋事件)が発化したが、田中は後年「大に緊縮の方針を採ったので、部下は大恐慌を起したものだ。彼の竹橋騒動の加

(4)

き、外に重なる原旧はあったが、内分の縮少方針も多少の(、)

動機をなしたものだ」と韮叩っている。十一年十一月陸軍会

計監督長、翌十二年十月、陸軍省会計局長に就任し、十四

年十月、陸軍少将に任命されると共に軍務を去り、参事院

(法制局の前身)の議官に転じた。陸軍経理担当期は伊藤の書翰が乏しく、山県からは田中(、)

監督長に宛てた若干通がある。伊藤に田中陸軍少将宛の一 通(二月四川付)があるが明治十五年と推定され、国宗 の刀剣貸借(川巾は刀剣鑑定眼を有した)と「林大江二囚

(旧)

云々近H閣議二訓上可中」との二件で短いもの。林有造・ 大江卓は立志社陰謀事件で逮捕ざれ岩手の監獄に在獄中で

あった。田中は参事院が明胎十八年十一一月一一十二日廃されると、

同日元老院議官に任ぜられろ。これより先、十七年六月恩 給局長官を兼任し、翌十八年十二月二十四日の同局廃止に

及ぶ。そもそも恩給制度は明治八年の旧軍人対象に始まる

が、恩給の語は陸軍恩給今(明九・一○・一一三公布)が蚊 初とされ、明治十一年一月太政向の害記局本局に陸軍恩給 掛を置いたのが魁給事務専任の始まりという(総川府恩給 局『恩給制度史』。これは田中の陸軍会計監督当時であ

(B)り、恩給今に一一一口及した山県からの書翰もある。

明治期田中光顕の周辺(安岡) 3内閣詳記向長・会計検査院長明治十八年七月二十九日、田中光顕は土方久元欧州出張

不在中の内閣書記官長兼任を命ぜられた。明治十二年三月 太政官に書記官長を置き中村弘毅(高知)が、最初で、十 五年一月井上毅(参事院議官、熊本)が兼任、ついで、十

七年十二月土方久元(同、高知)が内閣書記官長となったが、貞愛親王の欧州巡遊に輔佐のため差遣されるので、田中が馴守に征ずることになった(土方は帰国して明治十九年九Hには宮中願川而に転じる)。明治十八年十二月内閣制度の発足で田中は引続き伊藤内閣の謂記向長となり、さ

らに二十年五月から会計検査院長を兼ねる。翌二十一年五

月一一十三日田中宛の伊藤書翰によると、田中の「宿祠之故ヲu、内閣壽記官長・検査院長共に辞職」の意向に対して、在職を「総剛大臣に於ても頻に希望有之」と慰留し、せめて会計検査院だけは渡辺院長の帰朝までは「御心棒御(M)勘忍」をと要望している。同年山Ⅱ一二十日内閣が交代しており、総川大臣とは幾m清隆のことである。まさなり(厄)紡局、内閣級Ⅱ記而長は五几二十八uに小牧日日業(鹿児咄)が後征となった。会計検査院長は約半年後の十二月三H兼

Wを免ぜられろ。渡辺丼院長は明治十七年五月から同三十

一年十二月まで長期側在任したが、田中光顕と同日すなわち明治二十年五月九日、ともに子爵を授けられている。

(5)

4陸軍部内の紛糾 まだ田中が内閣書記官長であった明治十九年七月十七

日、伊藤首相は「富岡へ外務大臣〔井上馨〕同伴、両三日

(胆)

海水浴に出懸け」ることを田中に生口げた書翰の後段で、

「此度陸軍大臣より上奏之検閲条例士有進級条例改正一一付

而〈参謀本部之上向辺頗異論有之、三浦堀江等外援之風聞

も有之、又一方一三桂其外大威張二而隻方特角之勢ヲ張、

蕊ヲ詮度ト気張侯模様二相聞候へ共、探索可有候」と、陸 軍部内の問題を取上げ「近来多少党派之形情有之候〈頗憂

慮二不堪事」とし他言を蝉っている。(Ⅳ)山中は内偵の結果、七月一一十一二Ⅲ伊藤へ返簡を送ったが、到着前の二十四日伊藤首相は大山陸相と賜謁、陸軍検閲条例の改正と、監軍部の廃止は裁可された。さきに陸車

大学校一厘教師メッヶルは日本陸軍高等司令官司建制論を草

し、日本陸軍に編制上から監軍部は不要と説いた。ついで

陸軍省総務局長桂太郎はこれを参酌して軍事行政の改革を 述議し、仙監軍部の廃止、②検閣は別途方法による、③軍 隊の教育を総監する機関の新設、などの必要を論じ、これ が陸軍大臣の提議となった。この一件について伊藤書翰では 単に「参謀本部之上官辺」とぼかしているが、参謀本部長 熾仁親王・同次長曽我祐準らは意見を異にし、この改正は 帝室の兵権を削り、陸軍大臣の手に帰せしむるものと論難

法政史学第三十七号

して反対した。内閣に本巣が提出されると、七月十二日伊藤首相は上奏して陸軍中に異論あるため閣僚一同の御前会議を請い、熾仁親王も異議を直奏した。伊藤書翰の翌々Ⅱに当たる七月十九Ⅱ、親王と大山陸相が召されたが協議成らず二十四日の条例裁可となった。陸机はなお洲査を命ぜられ、翌二十年、鵬軍部は再置される。陸軍武有進級条例の改正でも陸軍大臣の提案に参謀本部長・次長が反対して、停年順序に重きを置くのは人材を逸し学術の進歩を阻害するの弊ありとした。これに対し大山陸机は超級の昇進は軍の秩序維持上に好ましくないとして(旧)固く主推し、これも同じく二十四Ⅱ裁可になった。この結果、同年(朋治十九年)七月一一十六旦二浦梧楼陸軍中将は東京鎮台司令官から熊本鎮台司令官に、堀江芳介陸車少将は一足先の七月十Ⅲ近衛歩兵第一旅団長から歩兵第六旅山長に蛎補されており、伊藤壽簡に見える「外援之風聞」のあった三浦・堀江両人ともに左遷の憂き目にあった。三浦は熊本に赴任せず、八月十六日免職となる。三油梧楼の回顧録(『観樹将軍回顧録』)の「陸軍改革衝突珈情」によれば、薩艮の情実を去って人材本位・実力本位の陸軍に改めたいと言ったが、山県が一畏面で妨害するので、三浦は伊藤と井上(馨)に立会いを求め山県と義諭し 一一一

(6)

5警視総監

明治二十二年十一一河一一十川Ⅱ、巾光顕は警視総監に就任した。第一次山県内閣成立と同日である。それまで川路利良大警視以来、薩派が占めていた要職で、在任期間は山県内閣の寿命とほぼ近い一年四ヶ月弱であったが、時あたかも立憲政治への過渡期に際し、威椎がましい庁風を緩和した面をnら語っている。また園田安賢(鹿児島)は田中総監について特記すべきは、①警視庁と一敵国の観をなしていた陸耶との折合いが、陸軍川身の田中により緩和された、②時勢に適応して警察界を立憲的に刷新した、の二点(皿)としている。(犯)伊藤は小田原から明治二十一一一年一月一一日、田中への圭同輪で「国会も開設一一際シ同氏之感触も前日トハ大一一異ナリ侯一一付、警官ニ在テハ其職務施設之際、万事随意場ヶ足ヲ取ラレサル様心掛ヶ侯事尤必要」とし、賞罰も当を得るよう ようとした。山県は三浦と一一人だけの話し合いを望んだが、三浦の提案で田中光顕を立会人として議論を剛わした(四)のが明治十八年大晦日の晩という。なお明治二十年五月杯置された監軍部は先に廃された艦(別)軍部と性格を異にして教育機関であり、明治一二十一年一月教育総監部と改まる。

明治期田中光砿の周辺(安岡) 6両内次向・宮内大臣田中光顕は明治一一十四年三月宮中顧問官兼帝室会計審査局長となり翌囚月貴族院議員を辞任するが、これ以後、学羽院長、官内次而(明治二八・七)、図書頭、宮内大臣と、永く宮中関係の職務に従事し、とくに宮相在任は明治三十一年二月から四十二年六月まで十一年四ヶ月にわたり、宮中政治家として隠然たる勢力を張るに至った。この間、田中の関与した事柄は多いが、ここでは増税案をめぐる問題と授爵の例を取り上げるにとどめておく。〔増税問題と勅語案〕明治三十一一一年十月に成立した第四次 注意を促した。翌一一十四年三月五日の田中宛伊藤書翰では、田中総監病気辞職説を伝え聞き、「何トカ良策〈無之モノカ」と、第一議会の閉院も迫った時期に案じている。田中は国会開設とともに子爵議員に当選し貴族院に議席を持った。しかし第一議会の要求を容れて、他の政費と共に警視庁費を削減するのに、警視総監に諮らずに断行してしまったので憤激(鋼)(型)したのである。田中は即日伊藤への返翰で「私儀病気に而不堪劇臓候Ⅲ、議会閉院を待つに逗なく昨日警視総監の辞表差出候」と書き送っている。後任は園田安賢で四月二日に任命された。

一一一

(7)

伊藤内閣は陸海阿相を除く閣僚は政友会所属で、十二月第十五議会を迎えた。ところが三十四年一月政府が提出し、衆議院を通過した増税諸法案を慨族院委、会で全て呑決した(二川二十五日)。それは山県系議員の策動によるもので、二月二十七Ⅱ議会は十日間停会となり、天皇は山県・松方・西郷・井上の四元老に政府と貴族院の川の調停を命じたが、三月十一Ⅱそれも不調に川した。翌十二日貴族院に増税案成立を命ずる詔勅が降る。議会は一一一月九日から十三nまで再び停会されていた。十二n伊藤は焦慮の余り、密かに案を具し、意を田中宮内大臣に授け貴族院への降勅を奏請した。同夕貴族院議長近衛篤謄は召命により参内し、勅語一紙を授けられたのであり、この勅語は『明締天皇紀』第十(一一九’一一一○.ヘージ)、『伊藤 法政史学第三十七号

。。訳

1111

安族院は態度を一変し、’’一月十六口の本会議で増税案全部を可決した。他の側僚にも知らせず田中官相と秘かに降勅への郡を運んだ伊藤肯相は進退伺いを奉呈し、各大臣と西園寺祁密院議長(内閣班列)もこれに倣っていたが、十五Ⅱすべて却下されていた。

〔叙爵斡旋〕明治一一一十三年一一一月八日、帝大総長・文部大臣を務めた外山正一が亡くなった。伊藤は田中宛に死去を報(加)c、同人の功績を称し叙爵と位階などについて一一一己及し、奥 博文伝』下巻(囚九六’七ページ)などにも載せている「朕中外ノ形勢一一祝テ・・……・」の文であるが、勅語を授けるに当たって近衛議長を諭す沙汰は文章に示されていなか(配)った。今回調査した田中文奎昌に含まれる勅語案(写真)はその口頭の沙汰の伊藤の筆になる草案であり、従来印刷されたことがないと思われるので全文を掲げる。

増税案ノ事二付貴族院一一於テ異議アル趣ヲ間キ心配ノ余疏通道トセリ山県松方其他ノー兀老ヲ呼寄セ周旋ノ労ヲ執ラシメタル十分一一目的達モ其功ヲ奏セサルコトヲ剛キタレトモ今Ⅱ形勢(憂慮一一勝へサルヲuテ朕力趣旨ノ在ル所ヲ此評付ヲ以テ示スニ依り識叩只一同一一示シ速二議了スルコトニ尽力スヘシ

■■■■■■■■■

(8)

(〃)田・穂積両人より委細聴取を希望しているが、川巾の返翰(三月九日)によれば祭祀料恩賜の運びの承知らせており叙爵はなかった。明治三十四年一月一一十一一H、植物学者伊藤圭介が没し(配)た。一一十[口夜の田中宛伊藤書翰は、九十九歳で瀕死の際に叙爵の栄譽に浴すれば、後進奨励にもなるとの、学者社会の内願もあると見え、文部大臣より内話があったとしている。二十二Ⅱ伊藤圭介に男爵を授けられた。従来少なかった学者・実業家らに対し、田中官机時代に(”)は授爵の沙汰を几るようなったというが、このように各力面からの動きがあり、また在任期間が長かったことにもよる,とい』え」よアワ。〔付記〕ほかに山中が韓国皇太子成婚に特使として派遣された時の朝鮮而塔一件に関する文書なども含まれるが本稲では割愛した。

/~、

明治期田中光顕の周辺(安岡) (7)春敏公手簡子之巻所収⑤(二月九日付)回顧録』昭和三年、は明治以前の活動を述べている。 少筥9mのシ目】賭。z巴闇名・館章入り洋紙容で、本稿では仙凹を参照した。田中光顕著『維新風雲 山』昭和四年、があり、側はⅢを、㈲は②を増補した内(6)春敏公手簡子之巻所収側(西暦十二月二十六日付) 伝』大正十三年、③田中伯伝記刊行会編『伯爵川中背(5)春敏公手簡子之巻所収仙(十月二十二日付) 伯』大疋六年、②熊沢一衛著『青山餘影田中光顕伯小を勧誘したという(「米人ブールスの詐偽」の項)。 、l/注田中光顕の伝記としては、富田幸次郎著、Ⅲ『川中青山ールス兄弟会社の取締役となり一行の者や留学生に菰金 巻(中央公論社、昭五つによれば、南は米人経営のブ 五六’四六六ページ)がある。『尾崎三艮自叙略伝』上 吾妻書房、一九七五)に「南貞助と妻ライザ」の項(四 九)参照。なお手塚竜麿箸『日本近代化の先駆者たち』 自伝『宏徳院御略歴と新旧時代第三年第九冊(昭二・ た。のち香港領事。洋行については、森谷秀亮「南貞助 滞英して、ロンドンで商社を営承、英婦人を妻としてい 学業半ばで同三年帰国、明治四年から六年にかけて何度 (4)南貞助二八四七’一九一五)は慶応元年に渡英したが と安藤は述べている(『青山餘影』五八一一一ページ)。 も、また旅宿にあっては起臥の室をも同じにしてゐた」 三年の間、伯と私とは、旅程にあっては船中でも車中で 酒運動家としても知られる。岩倉大使に随行中の「足掛 を経て、外務省通商局長・農商務省商工局長を歴任。禁 し、岩倉大使に従い米欧を巡り、香港領事・布畦総領事 榎本軍に投じて敗れ、禁銅一年。赦されて外務省に出仕 (3)安藤太郎(’八四六’一九一一四)鳥羽藩出身、戊辰役で (2)現在財団法人多摩聖蹟記念会が管理運営している。

(9)

(咄) /■、/■、/■、

151413

、_ノミーノ~ノ

/~、

12

、_ノ

/■、/■、/戸、

11109

、-ノ、‐ノ、=ノ

/-,

N./

法政史学第三十七号

春敏公手簡子之巻所収⑥、(七月三十日付)大久保大蔵卿・伊藤工部大輔書翰、田中戸籍頭宛(花押は伊藤の糸)。鮫島中弁務使の伊藤副使宛書翰も同上所収(欄外右に「洋暦九月二日大使及び寺嶋一同評議済」と記し、欄外上に利通・博文各花押)。塩田三郎(篤信)は岩倉大使随行、明治四年特例弁務使として伊国フローレンスの万国電信会議出席予定が同会議延期。翌五年ローマで開催され、オブザーヴァーとして塩田外務権大記が出席した。『大日本外交文書』第四巻〔五五九〕註(九五三ページ)参照。前掲(7)の書翰。前掲『青山餘影』一一一○七ページ。含雪公手簡巻之一は「陸軍会計監督時代」と派記されていて十一通を収めるが、内一通では「仏蘭西法律書」の写本一部の当分借覧を山県は田中宛に希望している。春畝公手簡未之巻所収Ⅲ(「田中陸軍少将殿刀一、相添」)含雪公手簡巻之一所収佃春畝公手簡戊之巻所収側小牧昌業(一八四一一一’一九二二)は漢学者。のち奈良・愛媛県知事、帝室博物館長、宮内省御用掛(大正四)。小牧昌実「小牧家所蔵黒田清隆書簡」日。(亜細亜大学教養部紀要六、七号、’九七一・七二)参照。春畝公手簡酉之巻所収⑥(七月十七日付)

/白、/■、/■、/~、

29282726

~ノ、=ノ、_ノ、-ノ

/■、/■、/■、/■、

25242322

、_ノ、_ノ、=ノミー/

(Ⅲ) (帥) /■、

19

、_ノ

/■、/■、

1817、_ノ、-ノ

『伊藤博文伝』中巻五○二’五○四ページに全文引用。『明治天皇紀』第六、六一八’六二一ページ。なお監軍本部条例、陸軍検閲条例の改正について同書四一○’四二ページ参照。政教社編『観樹将軍回顧録』二○四’二一四ページ。なお同書によれば熊本鎮台司令官は免官でなく、予備役に編入(明治十九年八月十四日)となったようにしている(二一一ページ)。松下芳男『明治耶制史論』下巻(昭和三十一年、有斐閣)六二’六六、九四’九七ページ。前掲『青山餘影』一一一二二’一一一二七、五九○’五九二ページ。

春畝公手簡戌之巻所収⑤(一月二日付)春畝公手簡戌之巻所収③(三月五日付)『伊藤博文関係文書』㈹一○九ページ。「この貴族院に賜わった勅語は、伊藤首相と田中宮相のほか一人として知る人なく、極秘裏に万事運ばれたため、御名もなく御璽もなく国務大臣の副署しないという異例の描置であった」『議会制度七十年史』憲政史概観一五一ページ)春畝公手簡寅之巻所収②(三月八日付)『伊藤博文関係文書』㈹二一一一.ヘーシ。春畝公手簡寅之巻所収仙□月二十日付)前掲『青山餘影』三七一一一ページ、田中在職中の授爵者と ’一ハ

(10)

明一・七兵庫県権判事二・五・二九会計而臘督司知事二・八・一七大蔵省鵬督司監督正四・一・二七大蔵少丞四・七・二八戸徳正四・八・一○戸繍頭四・一○・二三理事向として欧米差遣・特命全権大使会計事務(’六・九・二一帰朝)七・一・二○陸軍会計監督八・五・四陸単省第五局副長一○・二・二三征討耶川会計部長二・二・一八除車会計監督長一二・一○・一四陸軍行会計局長一四・一○・一一一一除胴少将(’二一・一一・二五予備役)・参事院議官(’一八・一二・一一二廃)一七・六・五・恩給局長官(’一八・一二・二四廃) 田中光顕略歴(’八四三生’一九一一一九没)。印兼任

明治期田中光剛の周辺(安岡) して伊藤圭介のほか加藤弘之・浜尾新・実吉安純(海叩軍医総職)や沿崎・三井・渋沢らを挙げているが岩崎・三井らの叙爵は宮内次官当時になる。〔追記〕田中光顕文書(伊藤・山県書簡など)は財団

一八・七・二九・内閣書記官長(’二一・五・二八)一八・一二・二二元老院議官二○・五・九子爵一一○・五・’四・会計検在院長(’二一・一一一・一一一)二二・一二・二四轡祝総監(’一一四・一一一・一一)一一一一一・七・一一出族院議員(’二四・四・二五)二四・一一一・一一何中脳問恂・帝室会計審査川長二五・一○・一一○学習院長(’二八・一一一・一九)二八・七・一六宮内次官(’一一一○・一二・二)三一・|・一○図書頭一一二・二・九宮内大臣(’四二・六・一六)四○・一・七稗国哩太子烹礼に特使として差遣(’四○・二・六復命)四○・九・一一三伯爵四四・五・九維新史料細纂会顧問大七・一一・二五臨時帝室編修川総裁(l大八・五・九.)昭一四・一一一・二八死去 法人多摩聖践記念会より法政大学に近く移管される運びになっている。なお今皿の洲査では何会の植原光一氏および東京都教育庁馬場憲一氏のお世話になった。(昭和六十年三月)

参照

関連したドキュメント

[r]

・西浦英之「幕末 について」昌霊・小林雅宏「明〉集8』(昭散) (参考文献)|西浦英之「幕末・明治初期(について」『皇学館大学紀要

運用企画部長 明治安田アセットマネジメント株式会社 代表取締役社長 大崎 能正 債券投資部長 運用企画部 運用企画G グループマネジャー 北村 乾一郎. 株式投資部長

渡辺 俊哉 企画ラインの主要職務や支社長等の多様な経験を有し、企画部長とし

2.シニア層に対する活躍支援 (3) 目標と課題認識 ○ 戦力として期待する一方で、さまざまな課題も・・・

[r]

三七七明治法典論争期における延期派の軌跡(中川)    セサル所以ナリ   

東京都公文書館所蔵「地方官会議々決書並筆記