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― ― 現代絵画と侵犯行為

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現代絵画と侵犯行為

― G. バタイユの『マネ』と表象の扼殺 ―

江 澤 健 一 郎

ジョルジュ・バタイユ晩年の絵画論である『マネ』は,エドゥアール・

マネの「スキャンダル」に現代絵画誕生の焦点を定めている。バタイユが ここでスキャンダルに重点をおいているのは,この絵画史の問題が,「法」

の問題,つまりバタイユが『エロティスム』において展開したテーマであ る「禁止アンテルディ」と「違反」ト ラ ン ス ク ゙ レ ッ シ オ ン

の問題と密接な関係を持っているからに他ならない。

侵犯行為ト ラ ン ス ク ゙ レ ッ シ オ ン

の問題は,『マネ』において明確な形の下に提出されている訳で はないが,スキャンダルを問題とする以上,この問題は暗黙の前提として 提起されている。では,この問題提起は,バタイユの思想圏において如何 なる布置を占めているのか,そして侵犯行為は絵画主題の抹殺の問題と如 何なる形で連動しているのか,私達はそれを明らかにするべく努める。

一、現代絵画と侵犯行為

バタイユが『マネ』において設定した侵犯行為の問題は,絵画における

「主題ス ュ シ ゙ ェの破壊」の問題,つまり絵画の中心にして語る主体ス ュ シ ゙ ェである「

sujet

への問いにある。私達は,この問いを,まず「画題ス ュ シ ゙ ェ」の転換の問題である マネのレアリスムの問題として提出する事が出来る。なぜなら,『マネ』

が現代絵画の誕生として設定する分岐点は,絵画と制度的至高性との結合 関係が崩壊する時点にあるからである1)。つまり,伝統的絵画が制度的至 高性を主題とする表象ルプレザンタシオン

であるとするならば,現代絵画は,その主題をレア リスムによって抹消する事から始まる。しかし,『マネ』の問題設定は,

単に画題の置換に留まるものではない。つまり,『マネ』における主題破 壊の問題は,絵画の表象機能の破壊の問題なのである。そこでは,至高性

「表象」(M145)から「創造」(M145) への移行,絵画の構造転換がその課題

となっているのである。そして,この問題は,法に対する異議提起として 論じられるべき問題である。「絵画は至高な主題 を表象する」という主題

(2)

選択の法,「絵画は理想的に・ ・ ・ ・表象する」という表象作法としての法,「絵画 は表象する・ ・ ・ ・」という絵画構造を規定する法,それら絵画を律する法に対す る侵犯行為こそがここでは問われている。

まず,絵画史一般・ ・の問題として,十九世紀以前の公式の絵画は,富ある ところで制作され,大聖堂や王宮といった制度的至高性の空間に所属し,

世界の主体ス ュ シ ゙ ェたる制度的至高性を主題ス ュ シ ゙ ェとして表象していたという事実を私達 は確認する事ができる2)。この絵画による至高性表象は,制度的至高性の 空間と世俗空間との空間的分離に依拠しており,世俗空間とは分離しそれ を超越した至高な主題を絵画は表象する。この表象構造を検討するなら ば,私達は,そこに不可視の法が作用している事に気付かずにはいられな い。つまり,美術制度は,制度的至高性に帰属しない主題系,つまり世俗 世界の様な等身大の現実を絵画表象の舞台から排除していたのである。バ タイユは,マネの『テュイルリー公園の音楽会』のスキャンダルに触れな がら,その群衆の激憤が「私達の服装の再現は芸術に対する侵害である」

(M144)とする感情に基づくものだったとしているが,バタイユにとって,

マネのレアリスムとは,この絵画における禁止に対する違反,絵画主題の 価値下落を引き起こす絵画制度の侵害に他ならない。しかしこの禁止とは,

単なる主題選択についての法ではない。絵画における禁止は,現実をある がままに描く事を禁止していたが,この禁止は,絵画構成法上の禁止でも ある。つまりこの禁止は,理想主義的禁止なのであり,例えば十九世紀に 写真イメージが見ることを可能にしたような虚飾を剥ぎ取られた裸形のイ メージを禁止する。バタイユは,絵画におけるこのイメージの理想化とそ の規則を「約束事コ ン ウ ゙ ァ ン シ オ ン

」と呼んでいるが,この表象の主題と表象作法との合法 性こそが,絵画の禁止をなしている。つまり,神聖な主題と神聖な約束事 が法として伝統的絵画を律し,「主題」を「美しく」「表象せよ」と命じる のだ。「美術史は,美しい 作品の歴史,美−術の歴史でしかなかった」

(M127)のである。バタイユはマネによる現代絵画誕生にこの理想主義イ テ ゙ ア リ ス ム

の全 面的扼殺を設定している。「醜さ」が,絵画的理想美を汚す侵犯行為によ って,絵画に初めて現れ,「醜」によって汚される「美」が,「美」の凌辱 が露になる。この美学的転覆こそが,現代絵画誕生の必須要項である。

そして,この侵犯行為は,現代的主題を理想主義的に再構成する主題転 換の迂路と訣別するのみならず,狭義のレアリスムをも乗り越える。レア リスムとして論じられる主題置換の問題だけを扱うならば,マネ以前にも クールベという先駆者が周知のスキャンダルを引き起こしており,絵画に

(3)

おける主題転換は,マネを待つまでもない。しかし,『マネ』は,クール ベのレアリスムとマネのレアリスムとを截然と区別している3)。そして,

この差異は,仮にクールベが主題選択面での違反をもたらしたにしても,

その技法が,「約束事」を残存させている事に由来する。両者の絵画構成 法上の相違は,主題に対する態度によっていると考えずにはおれない。バ タイユは,クールベのレアリスムは「雄弁」(M149) であると形容している のに対して,マネの特異性を「主題の意味作用に対する無関心」(M131)に 見出し,そこに主題からの絵画の自律4),つまり主題表象の抹殺を設定し ている。例えば私達は,バタイユを離れても,クールベとマネとの差異を 確認する事ができる。クールベの傑作『画家のアトリエ』は,絵画制作の

主体ス ュ シ ゙ ェである画家が画布の中心を占め,その中心的主題ス ュ シ ゙ ェを分岐点として,左

右に人物群像が配されている。この画面構成法は,中心を巡って画布を秩 序立て,寓意的雄弁を主題表象として機能させている。それに対して,無 秩序な構図を持つマネの『テュイルリー公園の音楽会』においては,主題 の中心性が抹消されている。幾つかの明確に描かれた人物像,そして不定 形の群衆によって構成されたこの画布の中心に描かれているのは,主

題=主ス ュ シ ゙ ェ体である画家の姿ではなく,判読不能な絵の具という物質の固まり

に他ならない。しかもこのタブローの主題ス ュ シ ゙ ェは,タイトルとして画布の外に

『テュイルリー公園の音楽会』として記されてはいるが,画布には主題ス ュ シ ゙ ェで ある「音楽会」が,「楽団」が描き込まれていない。つまり主題表象は,

徹底的に抹消されているのだ。この段階においてこそ,最後の絵画におけ る禁止,主題表象の法が侵犯される。主題表象の法とは,主題を中心とし て画面を分節化する法であり,主題の意味作用シ ニ フ ィ カ シ オ ン

を保証する法なのである。

この法は理想主義的命令と不可分な形で結びあい,構図の調和性,イメー ジの透明性を保証する。視線は了解可能な対象を識別できなければならず,

認識される対象は,意味作用によって主題の下に統合されなければならな いのだ。つまり,表象的絵画は,絵画が絵画で「ある」という自明性を否 認し,絵画が主題から自律して存在する事を禁止する。例えば,ルネッサ ンス以後十九世紀まで揺るぎなき覇権を獲得した「透視図ペルスペクティヴ

」は,その絵画 における禁止を洗練の域に至らしめている。「透視図」とは,パノフスキ ーも指摘する様に,絵画の物質性を忘却させる事によってイメージの透明 性を齎す技法,つまり洗練された絵画観念化のための技法として考えられ る5)。しかし現代絵画は,絵画が絵画で「ある」事実を露にさせる。この 観念論から唯物論への絵画的移行,物質によるイメージの侵害,美しきイ

(4)

メージの調和性に亀裂を齎す侵犯行為は,主題表象抹殺の感知しやすい効 果に他ならない。表象の抹殺こそが,現代絵画一般・ ・の道を切り開くのだ。

私達は,『マネ』のバタイユが指摘する現代絵画の「自律性

オ ト ノ ミ

」の問題が,

その様な問題系へと広がって行くと考えている。

以上がバタイユによる現代絵画誕生の大まかなプログラムである。私達 は,これらの侵犯行為の問題を以下において随時検討する事になる。

二、芸術とは何か

ところで,現代絵画誕生には,何故この侵犯行為が要請されるのか。こ の問題を検討するために,私達はまず,バタイユによる芸術の定義につい て考察しなければならない。『マネ』が現代絵画以前として設定している 伝統的絵画が,法の下に制度化されているのに対して,『マネ』と同年に 出版された『ラスコーあるいは芸術の誕生』6)は,芸術の誕生を禁止に対 する違反と結び付けている。つまり芸術の本性とは侵犯行為ト ラ ン ス ク ゙ レ ッ シ オ ン

にあり,現代 絵画は絵画制度の侵害によって,絵画に違反の力を回復させる転換点にあ る。ならば,私達はここで芸術の法化の問題,芸術的本性の変質である絵 画における法の成立について考察しなければならないだろう。そのために も,私達はまず,侵犯行為の基本的問題設定について検討する。

『ラスコー』は,《労働=世俗性》に対する《遊戯=聖性》の次元に芸 術を位置付けている。そして「禁止」とは,《労働=世俗性》の属性であ る非連続性テ ゙ ィ ス コ ン テ ィ ニ ュ イ テ

の帰結である。では,非連続性とは何か。非連続性とは,労働 の基本シェーマである「主体と客体」の分離した関係によって形成される 事物の体制である。そして,バタイユによるならば,客体のみならず,主 体もまた一つの事物でもあるのである。つまり,主体は,同一性イ タ ゙ ン テ ィ テ

を持った 客体を定置する事によって,客体(非自己)と分離した自己として,非連 続性の効果として,事物化されているのである。そしてこの場合,主体は,

自律的な価値を有するものではなく,客体を媒介とした目的との有用性の サイクルに組み込まれており,主体自身は決して目的ではなく,一つの事 物として位置付けられているのである。非連続性とは,この事物と媒介作 用によって形成される体制であり,直接無媒介イ メ テ ゙ ィ ア ト ゥ テ

性の排除(禁止)によって 成立する。そして「禁止」とは,この非連続性によって形成されるシステ ムであると同時に非連続性を保存するシステムであると考えられる。

非連続性は,媒介的でないもの,つまり連続性、直接無媒介性=即イ メ テ ゙ ィ ア ト ゥ テ

時性,

異質性を排除(禁止)する事によって始めて成立し,前者は後者の喪失に

(5)

よってしか成立し得ない。ここでもう一度非連続性を定義するならば,そ れは,不変的な同一性

イ タ ゙ ン テ ィ テ

を持つ事物によって形成される同質性である7)。つ まり,非連続性は、事物の同一性が持続する事を前提とし,連続性や,即 時的変質作用を排除する事によってしか成立し得ない禁止の体制なのであ る。何故なら,死が持つ変質作用の様な異質性の運動性は同一性を無効化 するからであり,同一性の持続の体制である非連続性は即時性を禁じずに は成立し得ないからである8)。『エロティスム』のバタイユは,基本的禁 止として「死」と「性」に関する禁止を挙げているが,この禁止の代表例 は,非連続性の性質を語るにあたって大きな位置を占める。同一性の解体 である即時的「死」,そして同一性の持続に対して無関心な即時的な欲望 享受としての「性」は,事物の持続を無効にする直接性として,そして事 物としての表象を持ち得ない反理的な暴力として禁止される。つまり,同 一性の持続の体制を「生」の体制と呼ぶならば,禁じられるのは,非連続 的秩序に還元不可能な,連続性を齎す「死」の力なのである。禁止は死を 排除するが,それは非連続性によって生と死とがあらかじめ相互外在化さ れているからである。それに対して,禁止とは無縁の生,例えば動物性は,

連続性の内にあり,生と死が相互浸透し合っている状態にあると考える事 ができる。つまり「生」の体制である非連続性が「死」を禁止するのは,

分離された「死」が事物化し得ない直接性であると共に,「死」が根源的 分離である「死」と「生」との分離を連続化するものであるからであると 考えられる。例えば個人の死は,非連続性(個人)の現前に代えて不在を 現前させる事によって,非人称化し連続化する。故に禁止されているのは,

連続性であり,禁止はその連続性を非連続化する事によって,事物的秩序 を生産し,事物化し得ないものをその秩序から排除しているのだ。

以上の様に,非連続性においては,連続性は禁止され失われているが,

連続性は,なくなった訳ではない。禁止される死や性がその事によってな くなることは決してない様に,連続性は非連続性の体制からは遺棄された ものの,非連続性のサイクルの地下に潜在するマグマとして「呪われた部 分」として常にあり続けるのである。そして連続性は,違反として回帰す るのである。ただしその回帰する連続性は,動物性への回帰ではない。違 反とは障壁の逸脱,非連続性の連続化それ自体であり,過剰な解体の運動 性それ自体に他ならず,解体の完了した動物性の直接性ではない。つまり 違反とは,一種の「止揚」

ア ウ フ ヘ ー ヘ ゙ ン

である9)。そしてバタイユは,違反によって現 出する連続性を「聖なるも

の」「至高性

ス ウ ゙ レ ヌ テ

」と呼ばれるものの性質として設

(6)

定し,それを芸術の本性,芸術的体験の性質としている。ただし,ここで 私達が芸術と呼ぶのは,タブローの様な一個の事物ではない。ここでの芸 術とは,連続化を生きる体験,バタイユが「交感」コ ミ ュ ニ カ シ オ ン

と呼ぶものに他ならな い。言い換えるならば,非連続性が,相互に「他」として分離した相互外 在的関係を持つ存在様態,つまり「交流」コ ミ ュ ニ カ シ オ ン

を欠く存在様態であるのに対し て,連続性とは,分離的同一性の瓦解であり,その相互浸透は,分節的関 係なき交流に他ならない。つまり,聖性とは,内が外に流出しそして外が 内に流入する運動としての「内在性イ マ ナ ン ス」である。バタイユは,『宗教の理論』

などのテクストで,世俗性の性質を「超越性ト ラ ン サ ン タ ゙ ン ス

」として定義し,聖性を

「内在イ マ ナンス」として定義しているが,この定義を私達は重視したい。バタイ

ユは,『神的なものと悪の関係について』と題された書評ではそれを次の 様に定義している。

神的なものは,その知的な諸形態とは別個に考察された場合には,

超越的なものではなく,感性的なものであり,まさしく明白にも内在 的なものである。逆に,超越性(知的に把握できる領域)は,俗なる 世界の内に与えられるものである。(XI 203)10)

つまり,「超越性ト ラ ン サ ン タ ゙ ン ス

」とは非連続的な外在性であり,「内在性イ マ ナ ン ス」とは,交流 するものが相互の内にそして外に消失する脱自エクスターズ,交感なのである。ただし,

この聖性の内在性は,動物性の内在性とは異なる。つまり,交感の内在性 とは,非連続性が交流する動態性に他ならず,始めから内在性の内にある 差異なき動物性ではない。交感の内在性は,交流するものが,同一性を失 い,差異を晒し合いながら連続化する運動,反発力と牽引力との相剋であ り,交流が完了した動物性の内在性とは異なる。つまり,交感とは「一致イダンティテ」 ではない。「一致」する時,交感は終り,なくなってしまうのだ11)

そしてバタイユにとって,芸術とは,違反によって現出する交感である が故に,芸術はそれ自体で至高な・ ・ ・価値を有している。何故なら,非連続的 事物が媒介作用によって価値を持ち,即自的には価値を持たないのに対し て,連続性は,分離によって成立する媒介的関係,つまり自己ではなく他

(目的)に依存する価値体系と絶縁しているが故に,即自的ア ン ・ ソ ワに価値を持つ 自律性 に他ならず,事物としての分節化を受け得ない「至高性ス ウ ゙ レ ヌ テ

」なのであ る。侵犯行為によって現出するこの至高性,それこそが芸術の性質であ る。

(7)

三、道徳と美学の共犯関係

しかし,内在的聖性が芸術の性質であるとしても,それは,伝統的に絵 画が表してきた理想的美を意味するものではない。『マネ』のバタイユが レアリスムによる絵画美の侵害を問題にし,そのスキャンダルを問題にし ている様に,バタイユにとって芸術の問題は美の問題ではないのである。

例えばバタイユは,ある書評で聖性の性質を以下のように定義している。

宗教の第一の真実は,それがなんであれ,両義性の内に与えられる,

それは,善と悪,美と醜といった反対物の共存の中で与えられるのであ る。神的なものは,その毒性のある形態の下では,ある意味で区別なく 残酷かつ救いであり,良くもあり悪くもあり,醜悪であり魅惑である。

(『文学及び芸術における美しい醜さ,あるいは醜い美しさ』XI 421)

聖性においては,善悪,美醜といった美学道徳的反対物が共存する。で は,これらの二極性を持つ価値基準は,如何なる原理によって成立してい るのか。この問題は,聖性や至高性が一般的形態において帯びている

「超越性」

ト ラ ン サ ン タ ゙ ン ス

の問題と深く関係していると考えざるを得ない。私達は,神の 如き至高者を超越性として通常設定しているが,この聖性の超越化は,表 象を持たないはずの聖性が表象化され,同一性を持つものとして事物化さ れ命名されたが故に,非連続的分離の性質を帯び,空間化され超越化した のだと考える事ができる。バタイユは

『宗教の理論』でこの聖性の超越 化の問題を検討しているが12),先ほど引用したテクストではそれを以下の ように定義している。

この図式は粗雑に思われる。しかしそれでも以下の事に変わりはない,

つまり,聖なるもの

・ ・ ・ ・ ・

は,超越的で天上的で純粋な聖なるもの

・ ・ ・ ・ ・

と,悪魔的 で地上的で不純な聖なるもの

・ ・ ・ ・ ・

とに分割され,同じ動きのうちに,俗なる 世界は,観念

・ ・

(理性

・ ・

)と物質とに分割された。つまり,合理的な観念は 聖なるものの天上的な超越性に,悪魔的な不純性は物質に,強力に結び 付けられたのである。(『神的なものと悪との関係について』XI 204)

バタイユはここで聖性の空間的分割を指摘しているが,この事実は,聖 性という《連続性=内在性》の《非連続化=外在化》を指している。つま り,聖性自体が超越性と内在性とに分割され,世界外と世界内に空間的に

(8)

分離されるのである。バタイユは,ここでプラトニスムを意識しながら13), その分割を「観念(理性)」と「物質」への分割としているが,私達は,

これに,《善と美》と《悪と醜》の分割を付け加える事ができるだろう。

この聖性の二元論的分離をバタイユは道徳宗教の成立と結び付けており,

その洗練された典型がキリスト教である14)。この事実は,《分離=超越 性》の力である理性(禁止)の優位性の下に置かれた宗教的なもの一般が,

法化され,法の性質を帯びた事実を明かしている。そして,この聖性の分 離は,超越的聖性と内在的聖性を道徳律の下に分離し,前者を禁止する神 性とし,後者を神性なき世俗内低俗,例えばエロティスムとして禁止によ って排除する。両者は,この空間的分離によって,切断されるのである。

前者は世俗空間を超越する理想的表象として,そして後者は世俗空間とい う内在的空間の《内奥=外》として,例えば天国と地獄として,世俗空間 外の空間として表象される。

この聖性の空間的分割以前には,超越的神性というものは決して有り得 ないが,この分割によって初めて,世界外の理想的超越性という観念が成 立すると考えられる。そして至高性

ス ウ ゙ レ ヌ テ

の一般的形態であるとされる「至高者

ス ウ ゙ ラ ン

」 が超越性という属性を帯びているのは,それが内在的至高性の超越化,つ まり事物化され理性化された至高性であるからに他ならない。そして,至 高者と世俗世界との分離(境界)は,世俗世界の非人称的至高性が至高者 の超越性へと空間的に投影された帰結に他ならず,至高者の超越性は,世 俗世界の至高性を横奪し疎外するものであるのだ。つまり,非人称的な交 流に他ならぬ至高性が,自己ではなく他者(至高者)の至高性として 代表化

レ フ ゚ レ サ ゙ ン テ

され人称化され,至高性は「他性

ア ル テ リ テ

」と化し,世俗世界は,自己の至 高性を禁止される。至高者をその特権的形態とする制度的至高性とは,そ の様に至高性を他者化する至高性の代表様式

ル フ ゚ レ サ ゙ ン タ シ オ ン

,内在的交流としての至高性 を禁じる至高性表象に他ならない。そして,『マネ』で問われている伝統 的絵画一般

・ ・

とは,この制度的至高性に帰属する至高性表象機構に他ならな い。バタイユの理論に則りながら,私達は,西洋絵画を律する法である

《善・美》の規範が,こうして至高性の超越化と結合した形で形成される と考える事ができる。この至高性表象による絵画の規範化が,《悪・醜》

を絵画世界のネガとして排除し,絵画世界を超越化し,法化=禁止化する。

そして『マネ』が論じる侵犯行為は,この規範をこそ侵害し,《悪》によ って《善》を汚し,《醜》によって《美》を汚す。この侵犯行為とは,超 越性へと横奪されていた至高性の内在性への回帰に他ならない。

(9)

内在性への回帰は,神が位置していた地点へと人間を高めるのと同じ だけ人間を圧倒するかに見えた存在を人間の次元へと引き戻すのであ る。(『ニーチェについて』Ⅵ163)

侵犯行為は,この動態的な交流コミュニカシオンの運動性を開くのであり,「高さ」と

「低さ」が中性的に交流する内在的至高性を創造するのである。つまり,

「内在性の状態は,善悪の彼岸を意味する」。(『ニーチェについて』 Ⅵ170)

四、絵画の道徳化

しかし,既に論じた侵犯行為としての芸術は,この道徳的分離の下には ない。『ラスコー』が問題とする先史時代の芸術とは,道徳宗教以前の芸 術であり,その性質は内在的聖性に他ならない。先史時代の洞窟絵画にお いては,私達は動物達の図像,それも神聖な具象性を備えた動物達の図像 を見出すのであるが,それに対して,人間の図像は,極端に歪曲化され抽 象化されるか動物化された姿へと変形されている。この事実は,人間が世 俗性の内に,非連続的分離の内に生きていた事によっていると考えられる。

それに対して動物性とは,ラスコー人にとって,失われた内在性を意味す るものに他ならない。つまり,『ラスコー』に拠るならば,人間の姿は,

先史時代においては,聖性の性質を本性的に帯びる事ができず,それが芸 術的なものとなるには,人間性が否定されなければならなかった15)。そし て動物の図像が内在的聖性の性質を持つ以上,先史時代の絵画においては,

《美》と《醜》という規範的分離が機能し得ず,絵画はむしろ「美しい醜 さ醜い美しさ」という様な奇跡的な両義性を持っていたはずである。

そしておそらくバタイユは,洞窟絵画を《動物=神》という主題の表象 としては設定していない。では,洞窟絵画は主題表象でなくして何なのか。

この疑問に答えるべく私達は,『動物から人間への移行と芸術の誕生』に おけるバタイユの定義である「出現」ア ハ ゚ リ ッ シ オ ン

を援用したい16)。そこでバタイユは,

洞窟絵画においては,描かれた事後に結果として静態的に残存する画像イ マ ー シ ゙ ュ

よ りも,画像の「出現」それ自体,そして「描くという行為」それ自体の運 動性が重んじられていたと推論している。つまり,描かれた絵画が事後的 に主題を表象する事自体は全く顧慮されておらず,描かれ固体化した絵画 という事物が全く求められてはおらず,その絵自体が自動的に出現する即 時的運動性,そしてその非事物的出現との出会いと内的交感こそが求めら れているのである。つまり,この場合,主題という観念と絵画の分離が不

(10)

在なのである。その証拠としてバタイユは,洞窟絵画における図像の無秩 序な錯綜,描かれた図像の上に無頓着に重ね描きされた図像の重複を挙げ ている。つまり,結果としての図像の個別性は問題とされていないのであ る。そしてまた逆説的なことに,図像の錯綜と重複とが,洞窟絵画に非事 物的運動性を与えている。以上の様に,バタイユは,芸術の誕生において,

主題表象を問題としていない。

では,西洋の伝統的絵画の特徴である主題表象は,如何にして成立した のか。私達は,この問題をやはり道徳宗教の誕生と結び付けて考えずには いられない。主題表象が成立するには,表象の主題と絵画との分離が観念 されなければならない。至高者の至高性が世界外の超越的観念として機能 し,至高者がその観念的至高性の表象である様に,絵画における主題表象 が成立するには,主題が世界外在的な観念として成立しなければならない。

この観念論的分離が主題表象の基礎であると考えられる。そして,私達は,

この絵画における主題表象の成立を神的な人間の図像の誕生と結び付けて 考えたい。先ほど論じた先史時代における宗教的布置は,《動物性 =内在 性=聖性》と《人間性=超越性=世俗性》であった。しかし,道徳宗教の 成立以後この布置は一般的に変わる。本来内在性であった至高性は,空間 的超越性に変質し,世俗性は空間的内在性に変質する。そして,『先史時 代の宗教』17)のバタイユが指摘する様に,動物性は,事物性の性質を帯び,

至高性を剥奪された内在性に位置する。それに対して,人間性は,もちろ ん事物的なものとして内在性に留まるのであるが,超越性である至高性は,

超越性という人間性の性質を帯びているが故に,人間化する。つまり,こ こにおいて,「神的な人間性」という超越的観念が成立するのである。そ して超越化という世俗化を受けているが故に,この観念は,理性(禁止)

の性質を受け継ぐ。これが至高者の至高性を基礎付けている観念である。

そして,絵画における主題表象は,この神的な人間性という超越的主題の 誕生と結び合って成立すると考えられる。バタイユの遺作『エロスの涙』

は,西洋美術史の再構築を課題としていると考えられるが,この小著は,

二つの章に分かれており,第一章が「開始(エロスの誕生)」と題され,

芸術の誕生を扱っているのに対して,第二章は「終焉(古代から今日まで)」 と題されている。そして,この二つの章に彩られた図版を分かつのは,造 型芸術における人間の形象の変化に他ならない。先史時代を扱う一章の図 版が変形された人間像を扱っているのに対して,二章以後の図版,取分け 第二部「キリスト教時代」においては,人間の形象が造型芸術の中心とな

(11)

っている。そして,両者を分かつのは,道徳宗教以前と以後という差異で あり,道徳宗教の成立こそが,「神的な人間性」という観念,そして絵画 におけるその表象を成立させるのである。絵画におけるこの主題表象の成 立は,絵画を超越的主題の表象装置とする事によって,公的には超越的主 体に帰属しない主題を排する禁止に服するのであり,そしてまた,主題表 象として機能しない絵画もまた禁止によって排するのである。ここで侵犯 行為としての芸術が変質し,芸術は禁止の下に位置付けられるのであり,

この禁止こそが『マネ』においては問われているのである。

『マネ』は,主題表象の基礎であるその神的な人間像の破壊を問題にし ている。虚飾をはぎ取られたマネのむき出しの人物像,その無秩序なポー ズは,規範的な絵画主題の侵害に他ならない。そして,主題としての人物 像の意味作用が抹消されたマネのタブローにおいては,主題を中心とした 分節作用が不在であるがために,個々の図像が超越的関係を持たずに等価 的に共存している。つまり,この主題の意味作用の消去によって,マネの タブローにおける静物は,人物像に劣らぬ価値を持っているのである。

マネの見事な静物はそれとは異なっている。それはもはや過去の静物 の様な装飾的な付け足しではない。それは,他のタブロー同様タブロー なのだ。それはまず,マネが人間のイメージを薔薇やブリオッシュのイ メージの水準に置いたからである。『アトリエの昼食』の静物は,人物 像が事物の水準に貶められるのに劣らず人物像の水準にまで高められて いる。マルローの一文,「マネが何よりも静物の大画家であるのは偶然 ではない」は,この二方向の相互性において正当化されるが,それは ただこの相互性においてのみ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

正当化されるのだ。(M.157) この「相互性レ シ フ ゚ ロ シ テ

」とは,内在性の交流コミュニカシオンに他ならない。侵犯行為は

絵画 にこの中性的な交流の運動を齎す。道徳的分離は,侵犯行為によって,善 悪の彼岸へと至り,善悪の共犯性,善悪の交流の内に非超越的至高性が創 造される。

そして,この絵画における侵犯行為は,宗教的政治的侵犯行為と連動し ている。宗教的政治的侵犯行為が「神の死」「王の死」によって超越的至 高性を抹殺し,理想主義を排するのと同様に,現代絵画は,主題表象の破 壊という侵犯行為によって,絵画における理想主義イ テ ゙ ア リ ス ム

を抹殺するのである。

バタイユは,遺作『エロスの涙』において,現代絵画によるその理想主義

(12)

への訣別を告げている。

絵画は,理想主義的イ テ ゙ ア リ ス ト

停滞から逃れる。正確さ,現実世界を前にして獲 得したそれらの自由を通じて,まさしく絵画は,何よりもまず理想イ テ ゙ ア主義リ ス ム をこそ滅ぼそうとするのである。(『エロスの涙』X 621 )

こうして,『ドキュマン』以来バタイユが一貫して主張してきた理想主 義=観イ テ ゙ ア リ ス ム

念論批判は,『マネ』では主題表象批判へと結実して行く18)

五、絵画史と政治史の断層

ところで,この絵画における侵犯行為は,奇妙な時差を孕んでいる。そ れは,政治史と絵画史との間の時差である。旧制度の崩壊を刻印する至高 者という超越的主体の殺害が,歴史的にみてフランス革命の時期にあたる のに対して,絵画における王の殺害である主題の破壊が為されるには,一 九世紀半ばまで待たなければならない。つまり,政治史における制度的至 高性の崩壊期と制度的至高性に依存していた伝統的絵画の崩壊の時期には 断層がある。『マネ』が指摘するこの政治史と絵画史との間の断層は19)

『至高性』の視点から検討されるべき

19

世紀社会の問題である。

王の殺害と旧制度の崩壊は,彼岸と此岸との分離の抹消として,超越性 によって横奪されていた至高性が社会内に回帰するためのプロセスに他な らない。しかし,『至高性』のバタイユが指摘する様に,富の蓄積と交換 経済を基盤とするブルジョワ社会とは,即自的価値を持つ至高性よりも事 物を重視する社会,直接性よりも媒介性を重視する社会である。つまりブ ルジョワ社会の内在性とは,世俗的内在性であり,社会は事物的秩序の優 位性の下にある。ブルジョワ社会は,至高性を禁ずる世俗的「法」の強制 力の下に構成されているのである。

自分自身の主観的な真実を王のうちに見るのを止めた人間,それを自 らのうちに見出そうと望んだ人間は,本質的に王がしたのと同じ様に,

ク リ ム

のうちにしかそれを見出すことができなかった。彼がそれを見出した のは,王の殺害によってなのだが,もし彼が罪を放棄するとすれば,彼 は,もはや彼が殺害した王にではないとしても,少なくともその権力に,

予め服従してしまうことになる。その権力とはかつて王の名の下に,誰 であれ至高な特権を持たなかった者の自由を制限していた権力であり,

(13)

さらに王が死んだ後は,全ての人間の自由を制限している権力なのであ る。(『至高性』Ⅷ298)

「法=理性」の支配下にある社会は,至高性を否認せざるを得ない。何 故なら,至高性の自律性とは,法に対する非従属にあるからである。つま りブルジョワ社会における超越的至高性の抹消は,至高性それ自体の否認 であり,至高性を抹消した後には,超越性の属性である禁止が,至高性な き法として,至高性を禁止する法として君臨する。この社会にあっては,

至高性は社会内に回帰せず行き場を失う。では,至高性は何処へ行くのか。

バタイユに倣って,私達は,ブルジョワ社会が,自らが担う事ができぬ至 高性を,文化という形で保存すると考える事ができる。つまり,自己の至 高性を見出す事ができぬ社会は,現在的社会にとっては「非自己」に他 ならない過去の至高性を文化的に維持し,失われた至高性を再現ルプレザンテし再構成 するのである。『ドキュマン』時代のバタイユは,美術館の起源をギロチ ンの発達に結び付けているが20),ブルジョワ社会における美術館とは,断 頭台で斬首された王の頭部の代替物に他ならない。これは社会の頭部のす げ替えでしかなく,社会の無頭化では全くない。超越性の権力形態は,こ こで見えない形で維持されるのだ。そして私達は,この原理が,アカデミ ックな絵画,官展派の絵画を律していたロジックであると考える事ができ る。『マネ』がマネの師クチュールについて指摘する様に,一般的に言っ て,アカデミックな画家は,伝統的至高性に属する主題を保存し,その失 われた主題を表象する絵画を「約束事コ ン ウ ゙ ァ ン シ オ ン

」に則って描いていた。しかも絵画 は,アカデミーや官展サ ロ ンという検閲機構の下に,つまり法の支配下に置かれ たのだ。この失われた至高性の文化における維持は,社会が,超越性とし て至高性を維持する構造を持っている事を示している。故に,至高性に関 して言えば,社会構造は本性的に変わっていないのである。この場合,芸 術による至高性表象は,芸術の主題を理想的観念として,超越性として維 持し生産するシステムとして作動しているのであり,至高性は社会にとっ て外在性として想定されている21)。バタイユが現代絵画の誕生として設定 する変革は,以上の様な理想主義の廃絶,芸術を理想主義の最後の砦とす る表象システムの扼殺に他ならない。

六、作者の死

『マネ』の問いは,そうして主題の問題へと収斂して行く。それは,絵

(14)

画の表象機能の要である超越的主題の破壊の問題である。しかし,『マネ』

のバタイユは,「非人称的転覆」の章で,現代絵画誕生の道である主題破 壊を回避する奇妙な迂路を記述している。それは,主題破壊ではなく,主 題置換の方向であり,ロマン主義的と呼ばれる芸術傾向に他ならない。私 達は,この問題をボードレールの絵画批評に対するバタイユの批判的立場 と対照させて論じたい。

まずバタイユは,ボードレールの美学に,失われた至高性に対する「ノ スタルジー」(M121)22)を見て取っている。「偉大な伝統は失われ,新しい伝 統はまだ出来ていないというのは本当だ」23)と語るボードレールの『サロ ン』には確かに回顧的調子が濃厚だ。しかし同時に批評家ボードレールと は絵画の「現代性モ テ ゙ ル ニ テ

」を探求する『現代生活の画家』の作者である。『

1845

年のサロン』の最後の頁,そして『

1846

年のサロン』の最後を飾る「現 代生活の英雄性」の章で,ボードレールは,安易な過去の表象を断固とし て批判し,現代的美の探求を要請している24)。では,バタイユとボードレ ールを分かつ差異はどこにあるのか。それはおそらく「現代性モ テ ゙ ル ニ テ

」に対する 両者の定義上の差異にある。例えば,『現代生活の画家』は,「美」を永遠 性と現代性の二重性において構成されるものとして定義し,現代性をそれ ぞれの時代に同時代的に現れるものとして定義している25)。しかし,『マ ネ』が論じる絵画の現代性は,「昔の画家それぞれにとっても現代性があ ったのだ」(『現代生活の画家』)26)として論じられる現代性ではない。バタ イユの問題は,絵画史をそこで切断する全く新しいタイプの絵画の誕生で あり,現代絵画は過去の絵画とは別の構造を持つ絵画として論じられてい る。そしてそのバタイユ的現代性こそが主題表象の抹殺なのである。そし て私達は,過去の延長線上に現代性を論じるボードレールの絵画批評が,

絵画表象を無効化し得ていない事実に気付かずにはおれない。ボードレー ルの絵画批評は,確かに所与の主題ス ュ シ ゙ ェの優位を否認しているが,彼は,所与

の主題ス ュ シ ゙ ェに対して別の主題ス ュ シ ゙ ェ,つまり画家という絵画制作の主体ス ュ シ ゙ ェの内面の

想像力

イ マ シ ゙ ナ シ オ ン

を優位に置く27)。ボードレールの絵画批評は,何よりもまず作者の 内部の「想像力イ マ シ ゙ ナ シ オ ン

」,「気質タンペラマン」や「個性ペルソナリテ」に問いかける事によって,匿名的な

職人から芸術家へと昇格した近代的自我を絵画の主題=主ス ュ シ ゙ ェ体へと昇格させ るのだ。その様に作者に強度の権能を認めるボードレールは,『

1846

年の サロン』でドラクロワについて以下の様に述べている。

だからドラクロワはこの原理から出発する。つまり,一枚の絵は何よ

(15)

りも造物主が創造物を支配するようにモデルを支配する芸術家の内奥の 思考を再現しなければならない。(『1846 年のサロン』)28)

バタイユが「自我の肥大」(M121)と呼ぶこのロマン主義的個人による主 題置換は,主題表象を保存する。絵画は主題からの自律性を獲得するどこ ろか主題=主ス ュ シ ゙ ェ体としての作者に従属する。それに対して,バタイユは,マ ネという画家の「無個性ア ン ヘ ゚ ル ソ ナ リ テ

」にまず着目し,作者の非人称性を現代絵画誕生 の必要条件として設定している。つまり,絵画それ自体の主権ス ウ ゙ レ ヌ テ

が確立され るには,作者の主権ス ウ ゙ レ ヌ テ

が非権能化し,作者はタブローの背後へと不在化しな ければならない。バタイユは,絵画にとって超越的な主体=主ス ュ シ ゙ ェ題の優位性 に対して,絵画の自律,つまり,絵画という交感コミュニカシオンの場の自律性を要請して いるのだ。交感は,作者の超越性ではなく,交感する者達が共に非人称的ア ン ヘ ゚ ル ソ ネ ル

なものとして個人性ヘ ゚ ル ソ ナ リ テ

を放棄する脱自的な内在性を要請する。例えば,バタ イユは,文学的交感コミュニカシオンを以下のように定義する。

文学とは交感コミュニカシオンである。文学は,至高な作者から出発して,孤立した読 者の隷属性の彼方で,至高な人類へと向かう。もしそうなれば,作者は 自分自身を否定し,作品のために自己の個別性を否定し,同時に読者達 の個別性を読書のために否定する。文学的・ ・ ・創造は ―それはポエジーの 性格を帯びる限りにおいて文学的創造なのだが ―,その至高な・ ・ ・操作・ ・で ある。その至高な操作・ ・ ・ ・ ・は,この場合,作品としてと同時に読書として分 離した交感 を,凝固した瞬間として ―あるいは諸瞬間の連続として

― 存続させる。(『文学と悪』Ⅸ300-301)29)

この脱自的交感の要請こそが,バタイユ的芸術の要請に他ならない。そ のためにこそ主題=主

ス ュ シ ゙ ェ

体表象は破壊されなければならないのだ。そしてま た,この点にこそ『マネ』とマルローの『沈黙の声』との差異がある。

『マネ』は一見『沈黙の声』の影響下でマルローの芸術論に追従している かに見える。しかし,まさしくマルローは,芸術家という個人を現代絵画 の主体=主

ス ュ シ ゙ ェ

題として称揚しているのだ。

主題は消滅しなければならない,何故なら新たなる主題が現れ,他の あらゆる主題達を却下することになるからである。その新たなる主題と は,芸術家自身の圧倒的な現前である。(『沈黙の声』)30)

(16)

芸術家の非人称性ア ン ヘ ゚ ル ソ ナ リ テ

を主張し,マネによる無意志的転覆を論じるバタイユ の『マネ』は,マルローの『沈黙の声』に対する反駁に他ならない31)

七、表象の抹殺,絵画の沈黙

ここまでで私達は,『マネ』において問われている現代絵画誕生のプロ グラムについて考察した。では,主題表象の抹殺として構想される現代絵 画について、バタイユは如何なる絵画的問題提起,絵画それ自体の分析を しているのだろうか。この点を最後に考察したい。

『マネ』は,「語る主体」である画家の意図を絵画が表象する事を問題と していない。しかしだからといって絵画自身が「語る」訳ではないのだ。

つまり『マネ』は,「物語る絵画」から「絵画の沈黙」(M126) への移行を 問題としている。しかし,『マネ』が問題としているのは正確に言って

「主題の不在」ではない。バタイユが言うように,マネの絵画には主題は 欠けていないが,主題があるにも関わらず「主題の意味作用」が不在なの だ。バタイユは,この点にマネの絵画の特異性を発見し,画家の技法であ

る「手術オペラシオン」(M150) を,印象主義一般・ ・の「主題に関する無関心」とは一線を

画す操作,つまり主題を生贄とする供犠的操作として設定している。バタ イユが「秘密」と題された章で詳述する「手術」とは,主題を描きながら も主題に対して無関心に描く技法である。マネは,頻繁に過去の絵画から その構図と主題とを借用しているが,この引用は,「手術」の痕跡である32)。 マネは,この借用によって過去の絵画を分身化しそこに現代世界を置き換 えた,しかも絵画的「約束事コ ン ウ ゙ ァ ン シ オ ン

」を消去する形で。この操作から帰結するも のこそが「主題の意味作用の不在」に他ならない。つまり,マネのタブロ ーの現前とは,物質としてのタブローの現前であるとともに,借用の対象 となった過去の絵画の「不在」の現前なのである。「供犠サ ク リ フ ィ ス

」は,事物とし ての生贄を変質させ,その事物性の不在を現出させる操作に他ならないが,

「手術」もまた生贄の不在を現出させる。バタイユは,プレヴェールの

『パロール』についての書評『石器時代からジャック・プレヴェールへ』

で,「ポエジーは,ポエジーの抹殺をその条件している」(XI 105)33)と言っ ているが,この抹殺の操作こそが「手術」に他ならない。供犠とは,事物 化し法化した聖性の超越性を抹消する操作,「約束事コ ン ウ ゙ ァ ン シ オ ン

」と化した聖性を抹 殺する事によって,内在的聖性を創造する操作に他ならず,生贄となるの は,神聖な「事物」,つまり「神」「王」「詩的約束事」といった規範的聖 性なのである。供犠は,神聖な「事物」の否定によって,事物性(超越性)

(17)

の不在を現出させるのだ。故に,マネの絵画とは現代絵画による規範的絵 画の抹殺,絵画を生贄とする絵画なのである。つまり,マネの絵画には,

生贄となる主題が存在しているが,「手術」という供犠的操作が,伝統が 構築した詩的約束事つまり主題の意味作用を消去し,主題を犠牲にするの である。『オランピア』は,『ウルビノのヴィーナス』の不在の現前であり,

絵画的伝統,歴史性,約束事の抹消の現前に他ならない。ならば,マネの 同時代の群衆が目撃し爆笑したのは,描かれたものとして「見えている」

タブローよりもむしろ「見えるもの」であるタブローが現前化した「不在」

という「見えないもの」,対象化し得ない「対象の不在」,「ないリ ア ン」に他な らない。

そして,主題の意味作用の不在は,画布における主題の中心性の消去に 他ならない。つまり主題を中心として画布を分節化する意味作用が消去さ れているために,マネの絵画は非中心性を獲得している。この非中心化の 効果こそが,『アトリエの昼食』における様な等価性である。しかし,こ の場合の等価性は,印象主義一般・ ・に見られる色斑タ ッ シ ュの等価性,点描の同質性 とは別物である。マネの等価な個々の図像は,異質であるにも関わらず等 しい価値を持つ。それらは,それぞれ独立した即自的価値を持つものであ るにも関わらず,個々の関係性が欠けているために,関係なきものとして,

無根拠なものとして,等価なものとなるのである。つまりタブローの細部 を関係付ける価値基準となる主題の求心性が不在なのである。例えば,バ タイユはマネの『老楽師』についてその特徴を以下のように指摘する。

しかし,この『老楽師』ほど巧みに因襲的調和を断ち切ることは出来 ないだろう。『老楽師』は,彼の初期の大作の一つであり,この絵はと りわけ細部において価値あるものとなっているが,おそらく幾分か不器 用に,自然なぎこちなさ,私達が見るこの世界の無頓着さをクチュール の ―建築的な― 演劇的構成に対立させている。細部自体において,

大きな帽子を被った子供の『ジル』にも匹敵する単純さにおいて,古ぼ けたシルクハットを被った浮浪者の物腰において,それぞれの部分の独 立性が際立っている。(M127.下線筆者)

ヴァトーの『ジル』を思わせる棒立ちの白い服の子供,右端のシルクハ ットを被った『アプサントを飲む男』(この男は「アプサントを飲む」た めの「手」を持たない)の分身を含む複数の人物像に囲まれて,主題であ

(18)

る「老楽師」は,楽器を奏でずに中央少し右側に控え目に座っている。つ まり,主題は非中心化され,ここでは関係性(媒介性)を持たない独立し た部分が異質なものとして共存している。そこには意味作用が欠如してい るのだ。この図像の断片化は,絵画イメージの調和性を解体する「醜悪な」

力に他ならない。この整合性なき断片化は,中心の「不在」という「見え ないもの」の効果であるが,この「ない」という否定事は,それを否定的 なものとして絵画において棄却するものではない。断片化した図像は,非 関係的であるにも関わらず,タブローの内に共存する事によって,関係な きものとして共に在る。つまり「ない」が「ある」という形で,否定性が 肯定性へと逆転するのである。「関係性の不在」が「非関係的関係」とし て,「見えない」交流コミュニカシオンとして「ある」のである34)。つまり,マネのタブロ ーは,主題の意味作用を消去するが,その不在故に,マネのタブローには 分節作用を免れた「交流」コ ミ ュ ニ カ シ オ ン

が不在を通底して現出しているのだ。

例えばバタイユは,マネの『フォークストーン出港』について語る際に,

プルーストの『失われた時を求めて』のエルスティールを引き合いに出し,

そのタブローに認められる同一性を持つ《客体=言語》,例えば「海」

「陸」という《客体=言語》の非連続性(個別性)が不分明なものと化す 点に注目している。つまり,「我々が当然陸を期待するところに画家が導 入するのは海であり,海を期待するところでは陸」(M152)という様に,ま ず囮として「ある対象」が同定され,次にそれが否定され「その対象の不 在」となるという供犠的流動過程をバタイユはそこに見ている。その結果,

「海」「陸」という対象を巡り,そのどちらにも帰着しない「横滑りク ゙ リ ッ ス マ ン

」とい う不均衡なスリップが起こり,対象は,非客体的で非言語的な中間を介し て連続的に交流コ ミ ュ ニ ケする事になる。この交流コミュニカシオンは,対象の不在,つまり「海がな い」「陸がない」という《客体=言語》の不在を介して,その不在を通底 してのみ交され得るものである。そして,その事は,「見えるもの」の現 前の消滅と入れ代わりに現前の「消滅」が現前する事,つまり,《客体=

言語》の「不在」という「見えないもの」が現前する事実を示している。

バタイユが重視するのは,交流する《客体=言語》から自律したこの「交 流」という間の現前であり,「横滑りク ゙ リ ッ ス マ ン

」である。つまり,『マネ』が問題と しているのは,絵画の可視性の問題ではなく,不可視のコミュニカシオン,

イメージの調和性を解体する不可視性に他ならない。『マネ』は,タブロ ーにおいて「見えている」ものではなく,視覚から失われるもの,イメー ジ化し得ない「不在」を問題としている。つまり「何かが,(…)背を向

(19)

け隠れる」(M153)のである。例えば,バタイユはマネの『バルコニー』を 以下のように評している。

『バルコニー』は我々がそのために落ち着かなさを感じるほどの視線 の分岐に基づいた陰険な四つ裂きを差し出す。我々が一度に見る事がで きるのは無意味さの中への遁走でしかない,そしてしばらくたって初め て我々は目覚め,注意が度外れな視線の上に,ベルト・モリゾの大きな 目の上に集中する。そういう訳で,我々はこの幻覚に囚われた絵につい て,主題が我々に与えられると同時に我々から取り上げられている,と 言える程である。(M153)

ここで述べられている視線の運動性は,現前と不在とを巡る主題の難破,

不在となる「失われた主題」と自動的に出現する「見出された主題」の交 互運動であり,ここにおいて視線は,「主題を対象とする視線」と四つ裂 き状態の「対象を持たない視線」つまり「対象の不在を対象とする視線」

との反復運動を繰り返す。この運動性は,主題の「出現」と「消失」の交 互運動に他ならない。またバタイユは,『オペラ座の仮面舞踏会』を「主 題の難破」(M153) と評し,この「不定形の群衆」(M153) が描かれたタブ ローに「失われ,隠れるもの」(M154)を発見している。この非中心的構図 を持ったタブローにおいては,視線の対象の個別性は,迷走する視線の運 動性の内に不在化する。つまり,視線は,「対象の不在を対象とする視線」

という形で,視線それ自体として宙吊りにされる。しかも,立錐の余地を 殆ど残さずひしめく群衆が描かれた『オペラ座の仮面舞踏会』には,「舞 踏」する姿が描かれていない。つまり主題の意味作用が完全に消去されて いるのだ。

そして「見えない」不在の問題は単なる《視覚=知》の問題でない。こ の問題は,絵画における《言語=知》の問題と連結している。例えばバタ イユは,絵画において表象されようとするものの抹消を,ヴァレリーがマ ネに捧げたテクスト『マネの勝利』と『オランピア』との関係において説 明している。ボードレールとマネとの間に,モチーフの,主題の選択の親 近性を見るヴァレリーは,『オランピア』の主題を解読しようとするが,

ヴァレリーが主題に読もうとする画家の意図,そしてそのテキストこそが

『オランピア』においては抹消されているのだ。

(20)

どちらの場合も(注:『オランピア』の場合も『マクシミリアン皇帝の処刑』

の場合も),テクストはタブローによって消去される・ ・ ・ ・ ・。そしてタブローが・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

意味するのは,テキストではなく・ ・ ・ ・ ・ ・   ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

,この消去である・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

。この女がそこにい るのは,ヴァレリーが言っていることをマネが言うことを望まなかった 限りにおいて ―逆に,彼がその意味を抹消シ ュ フ ゚ リ メ

(粉々に)した限りにおい て― なのだ。つまりその挑発的な正確さにおいて,彼女はなにでもな・ ・ ・ ・ ・。彼女の裸性ヌ テ ゙ ィ テは(…)沈黙である。彼女の姿は彼女の現前プレザンスの《聖なる 恐怖》であり ―その現前の単純さは不在ア フ ゚ サ ン ス

の単純さである。(M142.下線 筆者)

バタイユはここで,マネの絵画が意味するのはテクストの「消去」エ フ ァ ッ ス マ ン

,読 解され注釈され得る先在的テクスト全般の消去,絵画における「言語的な もの」の抹消を指摘している。この消去行為こそが「手術」であり,その 効果が絵画の沈黙に他ならない。バタイユはその様に,画布を「言語の不 在」の現前として想定し,言語と画布との間に関係の不在を設定する。し かし,バタイユは何故この『オランピア』に「言語的なものの不在」の現 前を見ているのか。というのも,この具象的な画布を見ながら,私達は,

そこに描かれた図像を「裸婦」「黒人女」「黒猫」「ベッド」「リボン」とい う様に名付け,それらを《客体=言語》として指示し,ヴァレリーがした 様に,それらを関係化する事が出来なくはないからである35)。では,バタ イユが「消去」と呼んでいる主題の意味作用の不在は,一体何の効果なの か,一体何がマネのタブローに決定的な沈黙を与えるのか。

それは既知の約束事によって期待されるものの不在である。私達は,マ ネの絵画が手術によって,「過去の」絵画の不在の現前,つまり抹殺の現 前と化すことをすでに論じた。しかし,手術によって残された痕跡は,図 式的な構図のみではない。画布の外側に《題名=言語》という形で,生け 贄にされた「主題ス ュ シ ゙ ェ」が残されているのだ。画布は,その《題名=言語》と 非関係的関係を結ぶ。『オランピア』という《題名=言語》は,露骨に女 神のイメージの現前を期待させるが,そこに現前するのは,痩身の下卑た 裸女でしかなく,両者の間には関係性が不在である。また,バタイユは指 摘してはいないが『テュイルリー公園の音楽会』の画布には,「楽団ミ ュ シ ゙ ッ ク

」が 描かれておらず,《題名=言語》によって指示される「音楽会ミ ュ シ ゙ ッ ク

」が描かれ ていない。『草の上の昼食』では,食料らしき もの(昼食)は無造作に画 布左下に放置され,無根拠に裸体となった裸婦,着衣の二人の男,書き割

(21)

りのように平面的な背景の中の川に浸る女が即自的価値を持ちながら共存 している。『埋葬』においては,埋葬らしき ものは画面右下に追いやられ る。『サン・ラザール駅』では,駅らしき 背景といえば機関車の蒸気らし きもののみだ。『街頭の女歌手』は歌うかわりに果物を口にする。『鏡の前』

の鏡は絵の具の固まりと化し何も映さない。そして『オペラ座の仮面舞踏 会』では,誰も踊らない。つまり,《題名=言語》によって指示される 先験的ア ・ フ ゚ リ オ リ

に「あるはずのもの」が画布には不在なのであり,その《あるはず のもの=題名=言語》が「ない」が現前しているのである。ここでは,

《主題=言語》と画布が相殺関係にあり,両者が還元不可能なものとして,

相互に排し合う形で共存している。例えばバタイユは,『マクシミリアン 皇帝の処刑』について,その事を指摘している。

主題を抹殺する事,それを破壊する事は,まさに現代絵画の行為であ る,しかし,正確に言って問題は不在ではない。つまり多かれ少なかれ,

それぞれのタブローは,一つの主題,一つの題名を持ち続けている,し かし,この主題,この題名は無意味なのであり,絵画の口実・ ・に還元され る。ア・プリオリ・ ・ ・ ・ ・ ・

に言って,兵士達によって整然と,冷酷に与えられる 死は,無関心には不向きである。それは意味を担った主題であり,そこ からは激しい感情が引き出される,しかし,マネはその主題を無感覚な ものとして描いたようだ。そして,観賞者は,この深い無感動ア ハ ゚ テ ィの中を彼 について行く。(…)。真実であれ偽りであれ,どんな雄弁の要因も除去 される。残るのは様々な色彩の染みと,ある感情がこの主題から生まれ たはずなのだがという,当惑させる印象である。それは不在の奇妙な印 象だ。(M133.下線筆者)

ここでバタイユが指摘するように,『マクシミリアン皇帝の処刑』には,

死の表象が欠けている。題名によって指示されるものが画布には不在なの である。つまり,「不在の奇妙な印象」とは,「見えるもの」としてのイメ ージでも題名という言語でもなく,双方の不在という両者の不可視の「中 間」の印象なのである。この無際限な不在の現前こそがマネの絵画におい て現前しているのだ。非関係的なものを非関係的に結ぶ非関係的関係の現 前,つまり自律した「交流」コ ミ ュ ニ カ シ オ ン

それ自体が,不在として現前しているのだ。

この不可視の裂け目,そしてこの不在を貫通する自律した「交流」コ ミ ュ ニ カ シ オ ン

の運動 こそが,バタイユがマネに帰した主題の変貌に他ならない。この不在にこ

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