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同志社大学歴史資料館所蔵の近衛家・二條家和歌資 料

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Academic year: 2021

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著者 小倉 嘉夫

雑誌名 同志社大学歴史資料館館報

号 14

ページ 1‑10

発行年 2011‑10‑30

権利 同志社大学歴史資料館

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012839

(2)

(一)

Ⅰ  はじめに

  同志社大学歴史資料館には、現在、近衛家の和歌資料三点、及び二條家の和歌資料七点が所蔵されている。それらは当主の短冊、詠草、懐紙類であり、いずれも、両家の邸宅跡が同志社関連施設の敷地の一部となっている由縁をもって、近年、所蔵品に加えられたものである。つまり、かつての近衛家別邸「桜御所」の跡地は同志社大学新町キャンパスの一部となり、また二條家の今出川屋敷の跡地は同志社女子大学今出川キャンパスの一部となっており、共に近年発掘調査が行われ、その成果が報告されている

  近衛家は藤原道長の流れを汲む藤原北家の嫡流で、平安末期の関白、藤原忠通の嫡男基実を始祖とする。基実の息、基通が近衛殿に住み、それを家名とした。この流れから後に鷹司家が分立する。基実の弟が興した九條家、そしてその流れから分立した二條家、一條家があり、以上、全五家がいわゆる「五摂家」である。摂政・関白になれる家柄として「摂関家」とも称した。近衛家はその筆頭として、摂政、関白、太政大臣を歴任した。江戸時代には、同志社大学今出川キャンパスから今出川通りを挟んだ南側(現在の京都御苑北西角)に本邸を構えた。

  二條家は、九條家の祖となった兼実から数えて四代目の良実が分立した家で、家名は二條京極の邸宅に由来する。同じく五摂家の一つとして摂政、関白を輩出。江戸時代には代々徳川将軍家と親交を持ち、

同志社大学歴史資料館所蔵の近衛家・二條家和歌資料

  小  倉  嘉 

将軍の諱一字をもらって名乗りとするのを慣例とした。

  両家ともに朝廷の要職を務めたのみならず、宮廷文化の担い手として諸芸に通じ、近衛家では「寛永の三筆」の一人である近衛信尹、二條家では和歌・連歌に非凡な才能を示した二條良基など、日本の文化史上見過ごすことのできない文化人を輩出している。特に宮廷貴族のたしなみである和歌は、両家ともに重視し、歴代を通じて多くの作品を残している。

  以下、同志社大学歴史資料館に蔵される計十点の近衛・二條両家の和歌資料について、それぞれの概略を述べる。まず〔翻刻〕として資料の翻刻を掲げ、次に〔概説〕として書誌及び簡単な解説を付した。翻刻にあたっては、文字は原則として現在通行の字体を使用し、改行は原本に従った。

(3)

(二)

Ⅱ  近衛家資料

一、近衛政家短冊  一葉  室町時代〔翻刻〕

  寒月   さえわたる霜夜の月の光こそ      水なき空の氷なりけれ  政家〔概説〕

  未装。縦三五・一センチ、横五・三センチ。上青、下紫の打曇。上方に綴穴あり。裏に「四十二」「未八」と墨書あり、過去の所有者の整理番号か。上部の題「寒月」は和歌本文と墨色が異なり、異筆と思われる。

  近衛政家は近衛家十三代。関白太政大臣房嗣の息。名は、足利義政の一字を与えられたもの。文明十一年(一四七九)関白となり、長享二年太政大臣に任ぜられた。号を「後法興院」と称し、自筆日記「後法興院記」が現存する。

二、近衛稙家短冊  一葉  室町時代〔翻刻〕

  朝雪   朝ほらけ思しよりもつもりけり      あらしにきゝし夜はのしら雪  稙家〔概説〕

  未装。縦三五・六センチ、横五・四センチ。上青、下紫の打曇。上方に綴穴あり。極札が二枚付され、一枚は縦一二・九センチ、横一・九センチ。表に「近衛殿朝ほらけ(印「琴山」)」、裏に「朝ほらけ稙家短(印)」。もう一枚は縦一〇・三センチ、横二・一センチ。表に「近衛殿  恵雲院様(印「琴山」)」。   近衛稙家は近衛家十五代。尚通の子で、政家の孫にあたる。大永五年関白となり、天文六年太政大臣に任ぜられる。名は足利義稙の一字を与えられたもので、祖父政家、父尚通に続く足利将軍の偏諱は、この頃の近衛家と足利将軍家との親密な関係を示すもの。号を「恵雲院」という。

三、近衛前久短冊  一幅  桃山~江戸時代〔翻刻〕

  寄糸恋   おもひあまり立ゐにつけて糸ならぬ       心のふしをうらみ出つゝ    龍山〔概説〕

  軸装。本紙縦三五・八センチ、横五・〇センチ。上青、下紫の打曇。上方に綴穴あり。桐箱入で、箱蓋表に「近衛前久和歌短冊」、箱蓋裏に「平成十一年大呂吉日  文学博士  久曽神昇謹識(印)」と墨書あり。

  近衛前久は近衛家十六代。稙家の息。初名は晴嗣、前嗣。天文二十三年(一五五四)関白となり、天正十年(一五八二)太政大臣に任ぜられた。号「東求院」。戦国期にあって地方に在国することが多く、そのため京都の文化を地方に普及させることに大いに貢献した。信長と親交あり、天正十年、本能寺の変で信長が討たれると殉じて入道し、「龍山」と号した。したがってこの短冊もそれ以降のものである。

(4)

(三)

て二條家を継いだ。慶長十八年元服に際して徳川家康より一字を与えられ、「康道」と名乗る。寛永十二年摂政となる。号は「後浄明珠院」。

  この短冊の和歌は、上部に「東照宮三十三回の御八講を」とあるので、東照宮(徳川家康)の三十三回忌の際のものであり、したがって慶安元年のものと知られる。この年の四月十三日より家康の命日である十七日に至るまでの五日間、日光において家康の三十三回忌法華八講が行われており、前摂政の康道も出席している(『

抄』。おそらくその際詠まれたもので、康道この時四十二歳。二條家は五摂家の中でも特に徳川将軍家と親交あり、康道が初例となり、以降の歴代は、徳川将軍より名乗りの一字をもらうことになる。

三、二條光平短冊  一葉  江戸時代〔翻刻〕

  行路藤   みて過る人もあらしな玉ほこの       道の行てにかゝる藤波   光平〔概説〕

  未装。縦三六・六センチ、横五・五センチ。上青、下紫の打曇。三つ折り跡あり。上方に綴穴あり。題の「行路藤」は飛鳥井雅章の筆跡と思われる。

  二條光平は摂政二條康道の息。正室は後水尾天皇と東福門院の娘で女五宮と呼ばれた賀子である。名は、三代将軍徳川家光の一字を与えられたもの。承応二年、関白となる。号は「後是心院」。

  この短冊は、寛文三年(一六六三)二月二十五日、霊元天皇主催の「聖 Ⅲ  二條家資料

一、二條昭実短冊  一葉  桃山~江戸時代〔翻刻〕

  尺 (釈)教   聞からに分るかたなくおもふこそ      御法にうとき身のほとはしれ  昭実〔概説〕

  未装。縦三六・二センチ、横五・六センチ。上下共に青の打曇。上方に綴穴あり。「二條殿」と墨書された紙片が付属。

  二條昭実は、関白二條晴良の息。天正十三年

二月に関白となったが、同年七月に豊臣秀吉に関白を譲った。後、徳川氏の世となり、幕府が定めた『禁中並公家諸法度』の制定にも関与し、その後再び関白となった。徳川家康とは昵懇で、嗣子に家康の偏諱を請い、「康道」と称させたことから、以降、二條家は歴代が徳川将軍より名の一字を与えられることになった。号は「後中院」。

二、二條康道短冊  一葉  江戸時代〔翻刻〕 いろくの花をさゝけて宮人のつかふる法そ今もかしこき  康道〔概説〕

  未装。縦三六・三センチ、横五・八センチ。朱色地に金泥で貝や海藻を描き、金砂子を散らす。

  二條康道(一六〇七~六六)は関白九條幸家の息で、昭実の養子となっ   東照宮   三十三回の     御八講を

(5)

(四)

廟法楽」の際のもので、題者は飛鳥井雅章 。御所の記録所で歌会が催され、和歌は「披講」(読み上げ)されている(『』)。光平四十歳の時のもの。ちなみに光平のこの和歌は、『部類現葉和歌集 』所収(一八四七番)

四、二條吉忠短冊  一葉  江戸時代 〔翻刻〕

  早苗   おそくとく植しさなへのほと

に      秋のたのみやかけて待らむ   吉忠〔概説〕

  未装。縦三六・七センチ、横五・六センチ。上青、下紫の打曇。裏書「二條十八代吉忠公/十一」。

  二條吉忠は、関白二條綱平の息。元文元年

に関白となる。名は五代将軍徳川綱吉の一字を与えられたもの。号は「安祥院」。

  この短冊に書かれる歌は、享保三年五月二十八日、霊元法皇主催の「仙洞月次多賀社法楽 」に吉忠が詠進したものである。

五、二條宗基二首詠草  一幅  江戸時代〔翻刻〕

         宗基    海辺松   那古の海ほとりの

        松の   みとりしていつも        常盤に

  千世を重ぬる   常 住のえの なる海辺の      まつの  生 浦なみを 松は幾千世

      ◦ しつえにかけて   猶そさかゆ 〔概説〕

  軸装。桐箱入。本紙縦三二・二センチ、横四四・九センチ。

  二条宗基は内大臣九條幸教の息で、右大臣二條宗凞の早世によって二條家を継ぐ。寛延二年、右大臣に昇ったが、二十八歳で没。名は、八代将軍徳川吉宗の一字を与えられたもの。号「後敬心院」。

  これは折紙(一紙を横に二つ折りにしたもの)に書かれた和歌の草稿、つまり詠草である。折紙詠草の場合、最初に名を書き、続いて歌題を、そしてその歌題に基づいて詠んだ和歌を一首あたり五七、五七、七文字と、三行に渡って書く。通常一つの題につき二首詠むが、三首以上詠んだり、もしくは続けて別の題と和歌を書く場合もあり、その際には折紙を折目を下にしたまま開かず翻し、裏面に続けて書く。後に掛幅に表装される場合は、紙が開かれるので、裏面に文字が書かれていない場合、この詠草のように下半分が空白となる。

  この詠草は、歌会に先立ち、出題された題「海辺松」に基づいて宗基が二首詠んで師匠(不詳)に提出して指導を仰いだものである。二

(6)

(五)

首目に、合点(良い歌であることを示す墨斜線)、及び添削が施されている。それにより、原作「常盤なる海辺のまつの生そひて幾千世かけて猶そさかゆる」が、「住のえの松は幾千世浦なみをしつえにかけて猶そさかへむ」と訂されている。歌会には、合点を受けた和歌を添削通りに短冊や懐紙に清書して提出する。

六、二條治孝二首懐紙  一幅  江戸時代〔翻刻〕

  冬日同詠二首和歌      権大納言藤原治孝    千鳥たちさはきあともさためぬはま千とりふけゆくつきのなみになくなり

   小篠かれのこる野へのさゝはらふくかせにはらへとむすふしものさむけさ〔概説〕

  軸装。桐箱入。本紙縦四三・四センチ、横五七・六センチ。

  二條治孝は右大臣二條宗基の息。寛政八年

、左大臣となる。名は、十代将軍徳川家治の一字を与えられたもの。

  この懐紙は、安永六年十一月十八日、後桜町上皇主催の「仙洞月次」の折のもので、題者は上冷泉為泰 。治孝はこの時二十四 歳で、位署にもあるように、当時権大納言に在任していた。七、二條基弘短冊  一葉  明治時代〔翻刻〕  埋火   われのみは春こゝろしてさむさよも

     しらてそすこすうつみ火のもと  基弘〔概説〕

  未装。縦三六・二センチ、横六・二センチ。銀霞引、金箔散らし。

  二條基弘は九條尚忠の息で二條斉敬の養子となった。明治四年に斉敬の隠居にともなって当主となり、同十七年、公爵となる。

【註】註1 調告()』(  歴史資料館)、『同志社大学歴史資料館調査研究報告書第8集  常磐井殿町遺跡発調

-近調

二〇一   )、『』(註2』(   学歴史資料館・同志社女子大学)  -』(

-九八)

、『近代和歌御会集』(宮内庁書陵部  B四

-三三)

(7)

(六)

註3 上野洋三編『近世和歌撰集集成』第二巻  堂上篇上  昭和六十二年  明治書院)註4 『仙洞和歌御会』(国立歴史民俗博物館  高松宮家伝来禁裏本)註5 』(題・ 

館)(国立公文書館)、『八槐御記』 -一』()、『

【参考文献】○『国史大系  公卿補任』(吉川弘文館)○『国史大系  続史愚抄』(吉川弘文館)○『国史大辞典』(吉川弘文館)○『平成新修旧華族家系大成  下巻』(吉川弘文館)

(8)

(七)

近衛家

近衛政家 近衛稙家

近衛前久

(9)

(八)

二條家⑴

二條昭実 二條康道

二條光平

(10)

(九)

二條家⑵

二條吉忠 二條基弘

(11)

(十)

二條家⑶

(上段:二條宗基、下段:二條治孝)

参照

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