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比較文化論序説(1)

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Academic year: 2021

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(1)第一章. 比較文化論序説仙. An(ntroductiontoComparativeCu)ture(i). 文化とは何か. ●文化の定義. 仁. HIRANO. 幸. 「時代遅れの」といったような言葉が浮か. ことは極めて重要であり、かつ難しいことである。しかし我々のよう. 「フランス文化」「文化圏」「文化様式」「異文化理解」「文化伝播」「文. はいささかニュアンスを異にするものである。たとえば、「日本文化」. 「文化」は、これと. に、比較文化論の全般的な概要を試みようとする者にとっては、「文化」 ころであろうO 我々は日常、新聞、雑誌、書籍等を読むと、「文化」という言葉にか なりの頻度でもって出-わす。文化人、文化勲章、文化事業、文化運 文化住宅、そして、文化包丁などというのもあった。これらの表現に. 端的に始めよう。 まず、いささか遠回りに思えるかもしれないが、「文化」という語の. 発想を受けつけないからである。しかし蹟蕗していても仕方がない。. 気に定義することは専門家でもないかぎりかなり難しい。というのも それは重層的かつ多面的な意味を持っていて、素朴'単純、不用意な. 使われている「文化」は、あきらかに、「洗練された」とか「しゃれた」 とか「現代的な」とか「便利な」とか'あるいは「教養のある」「知的. I. 反意語は何かということを考えてみよう。ちょっと大きな国語辞典を. 動'文化会館、文化国家。少し古めかしい言葉になるが、文化映画、. 「文化」なのである。しかしこれらの表現に使われている「文化」を一. という語の定義から始めるのが自然であり、かつ誰でも納得のい-と. んでくるであろう。 しかし、我々がこれから定義しょうとしている. か、あるいは「田舎-さい」. 語をさがすとすれば、「粗野な」とか「野暮ったい」とか「野蛮な」と. Yukihito. 野. 化受容」「文化人類学」「茶の文化」といった言葉にもかなりの頻度で 日常出-わすが、これらの 「文化」が、我々が定義しょうとしている. 物を論じょうとする場合、何から最初に始めたらよいかを決定する. 平 な」「精神にかかわる」といったような意味で使われていて、その対立 比較文化論序説川. 平野.

(2) これで、文化というものは、人間が行う、反自然的な、目的意識の. 比較文化論序説川. 引いてみると必ず「自然」という語がそれにあてられていることに気. れだけでは、まだ、文化の定義として十分ではない。例えば、「日本文. 「フランス文化」という言い方はするが、「本居宣長の文化」 とか'「フロベ-ルの文化」といったような言い方はしない。文化とい. うのは、集団概念であって'個々人に関する概念ではない。それは、. 化」とか. るためには、もっと手のこんだ操作が必要である。. いかないのである。人がおならをしたり'くしやみをしたりうっかり. しかし、人為的なものがすべて文化であるかというと、そう単純には. は石でできている。石は自然に存在するものだが、人間がこれに加工. 文化から排除されるべきものであると考えてはならない。例えば石器. 文化というものは、反自然的なもの、即ち自然とは対立するものだ と言ったが、自然あるいは、自然的なものがすべて文化とは無関係で、. (生存)形. 転んだりした場合、我々はそれを、人為的なことだからといって、「文. を加えて道具として使用すれば、当然ながら文化概念のなかに含めて. 人間の為す、合目的的な、集団的行為あるいは集団的生活 態であるということができる。. 化」と呼ぶだろうか。おならをしたり、-しやみをしたりするのは生. は自然にしか存在しない。しかし 考えなければならない。金. (きん). 理現象と呼ぶが、「文化」とは言わない。うっかり転んだりするのは坐. 人間がこれを掘り出し精錬して貨幣や装飾品として使用すれば、文化. のなかに包括してかんがえなければならない。また、人間の死は、そ. れ自体では自然現象であるが、雨や雪が降るのと同じような自然現象. 的をもって行われるものである。その目的は、精神の修養であり、人. な文化装置が動員されて儀式が取りおこなわれる。だから、我々は「石. 可能だ。人間の死は他の人間の生と精神に甚大な影響を及ぼし、様々. であると考えることは、どのような文化集団に属する人にとっても不. 間関係の理想的な在り方の探求であると言ってよいだろう。不注意で. 器文化」とか. 「金の文化的意義」とか「死の文化史」といったような. 転んでしまうのも人間の行為だが、そこには、茶道のような明確な目. 言葉にしばしばお目にかかることになるのである。. することができるだろう。「文化とは. 以上の議論を最も簡潔に綜合すると文化とはおよそ次のように定義. な行為を我々は「文化」とは言わない。そういった行為は、むしろ、. 的生活形態である」。これは、思弁的、哲学的な発想による定義である. (狭義の)人為的・自然的な集団. 「自然への榎落」だ、と呼ばれたりする。. な選択によるも孤であることがわかるo例えば、目的のない、破壊的. 的が欠けている。つまり文化というのは、合目的的な、しかも意識的. 場合茶道のことであろう。茶道というのは、複数の人間が集まり、い -つかの定められた約束事、つまり作法に従いながら'ある明確な目. ここで「茶の文化」という表現を考えてみよう。茶というのはこの. 理現象とは言わないが、「文化」とも言わない。. る。つま-文化とは人工のもの、人為的なものであることがわかる。. 我々は、しかし、文化というものが、自然とは反対のもの、という ことは、人間が係わっているものである、ということを知ったのであ. てみても、「文化」というものの本質はわからない。「比較が理」にな. 「比較は理ならず」(単に比較しただけではものの本質はわからない) という諺がフランスにはあるが、たしかに「文化」と「自然」を並べ. はっきりした、意識的な行為であるということが分かってきたが、こ. 二. がつ-。我々はこれでかなり確実な端緒をつかんだといえる。しかし. 平野. (こ.

(3) かし、文化の定義はもちろんこれに尽きるわけではな-、特に文化人. が'極めて簡潔で、わかりやすい'かつ優れた定義であると思う。し. 体として把握するというか、一つの全体的な見通しを人類の文化に与. 書いている。「文化人類学は、人類文化の科学. 範さ」、「綜合性」をあげなければなるまい。石田英一郎は次のように. 表現を捕捉して、次のように説明している。文化人類学の考えている. 用いられている「全体」という語あるいは、「全体的な見通し」という. ・芸ことを究極の目標とする1個の科学芦。そして、石田. それも人類文化を全. 類学者たちがこれまで積み重ねてきた定義に触れなければ、片手落ち になるであろう。. ●文化人類学による定義. 言ってしまえば、「人間ならびに人間の集団に関する綜合的研究」を行 う学問と言うことができるだろう。人間や人間の集団に関する学問な. ある。人類学というのは、アメリカで発達したものであるが、簡単に. 般的に知られるようになった学問であるが、これは人類学の一部門で. いうことになる。同様に、言語とか宗教とか芸術とかいった特定の内. 例えば、郷土文化とか、日本文化とかいったような「自民族の文化の (四) みを唯一の対象とするような研究は、文化人類学とは称しがたい」と. システムとなった一つの全体としての文化なのである。したがって'. する内容的諸要素の単純な総和ではな-'有機的'総合的な、つまり. 文化は、時間的空間的に一つの連続した全体性であって、文化を構成. らば、哲学や心理学、社会学や経済学などもそうであり、なにも人類. た名称がすでについており、文化人類学とはなりえないのである。. ヤップ島にシア-ズの支店を作るとして'原住民の石貨が、販売行動. バンドの社会組織について説明するようにもとめられたら'彼はふる えあがってしまうだろう。また、もし'マ-ケッティングの専門家に、. にある。例えば、「社会学が五〇万円前のヨ-ロッパのマンモス狩猟民. 人類学は、比較文化論と相通じるところがあり、我々は常に文化人類. は人類文化全体との関連を意識してなされるならば、その研究は、文. 的な見通しを背景として行われる。だから、特殊な文化内容'例えば 日本文化といったものが研究対象になっていても、他の文化'あるい. 文化人類学はあ-まで巨視的な視点にたつ学問であり、常に全人類. 化人類学と呼んでさしつかえないのである。こういった点では、文化. にどんな影響を及ぼすのだろうかと聞いたとしたら'困惑して頭をか きむしるだろう」ということになるのだが、人類学者とは、このよう. 学の研究動向に注目していなければならない。. 文化人類学の三つの部門からなりたっている。前二者については、省. 連したパ-ソナリティの問題、文化の伝播・交流・変容、現代文明の. 族の問題、宗教、民族性、民族心理、経済技術、生活技術、文化と関. 文化人類学がカヴァ-する範囲は、言語分析にはじまり、婚姻・家. 略するとして、ここでは、文化人類学とはどのような学問であるのか. 三. 将来的な予測、等にいたるまで、実に広い。そして、その目的、役割. 1般的に人類学は'自然人類学(あるいは形質人類学)'先史考古学、. (二). な質問に積極的に取り組んでいこうとする学者連なのである。. 容を、それ自体として研究する学問は、言語学、宗教学、美学といっ. 学だけの専売特許ではないのだが、「綜合的研究」というところがこれ らの学問と違うところなのである。人類学の特徴はまずその「広範さ」. 文化人類学というのは日本では、一九五〇年代の半ばあたりから一. -. 簡単に考察してみよう。文化人類学の特徴のひとつもやはり、その「広 比較文化論序説川. 平野.

(4) 比較文化論序説川. は、およそ三つに分類できる。即ち、(a)伝統文化の記録、(b) 族・種族の移動の歴史、文化伝播の歴史を知ること、(c). 定義の冒頭を「文化あるいは文明」という言葉で始めたのであろう。. 博の審査委員をつとめていたのである。だからこそタイラ-は、その. (九). 「一ノ文化とは、習得された行動と行動の諸結果との綜合体であり、そ. にとって有用であると思われる定義を、もう二つばかり挙げてみようO. この経緯については詳しい考察はさけるが、比較文化論を試みる者. に彼の定義が掲載されるのは、五〇年以上も経過してからだった。. が現れなかった。彼の定義を発展させ、応用しょうという動きが現れ るのは、それから三〇年以上も後のことであり、英米の一般的な辞書. しかし、タイラ-の定義は意外にも長い間、それを受け継ぐ後継者. 「文明」という用語に関しては、後述するが、そのほかに、彼の定義に は'M・ア-ノルドの文化観の影響もあることが指摘されている。. 人間および (五). その文化のもつ本質について理解を深めること'などであり、文化人 類学者たちの研究が比較文化論に禅益するところは極めて大きい。さ て、文化人類学者たちは文化というものをどのように定義してきたで あろうか。まず最も有名なものは、現在までもその影響が及んでいる、 エドワ-ド・バ-ネッ-・タイラ-の定義である。 タイラ-は、1九世紀イギリスの人類学者で、一八七一年、その著 書の『原始文化』において、次のような定義をかかげた。即ち、「文化 あるいは文明とは、その広い民族誌的な意味において解釈された場合、 ′その他のあらゆる能力や集成を包括する、あ. 知識、信仰、芸術、道循、法、習慣、および'社会の成員としての人. の構成要素が或る一つの社会のメンバ-によって分有され伝達されて (〟○). 間によって習得された、. いるものである」。これは明らかにタイラ-の影響下になされた定義で. ある。ただしタイラ-の定義に比べると、このリン-ンの定義では、. 文化というものが'よりダイナミックに、そして厳密にとらえられて. いるように思える。リン-ンは、この定義にたいしてかなり詳しい捕. 捉的な説明を加えているので、ここでは、かいつまんで紹介しておこう.. 射的な行動以外のすべての行動を含むものである。例えば、食べると. 習することによって獲得した行動であり、生理的過程と結びついた反. 「習得された行動」というのは、人間がある文化のなかで繰り返し学. 「一}. の複合的な全体のことである」。この定義は一般的には、ヘルダ-の『人 (一八四三-五二)の影響があると言われているが、同. (七). 類史の哲学への理念』 (一七八四-九こや、グスタ-フ・クレムの『人 類文化史総説』. (八). 時に時代的な要因も深-かかわっていたと見るべきであろう。一八五 一年に、ロンドンで'葛一回の万国博覧会が開かれているが、これが 当時のヨ-ロッパ人の精神に大きなインバク-を与えたと言われてい る。万博というのは、各参加国が、それぞれの生産物を展示、売買を 行うのであるが、民族独自の特徴が如実に現れる。ここでヨ-ロッパ. いう行動は'食物にたいする個人の生理的欲求から起こる反応である. が、食べるという形式は、彼がある文化のなかで繰り返し学習するこ とによって獲得したものである。したがって、「ここでいう行動という. わず、人間のあらゆる活動を含む最も広い意味にとるべきである. 言葉は'外面的、内面的、あるいは、生理的、心理的という区別を問. P. 人たちは、二つのことに気がついたのである。世界には実にさまざま. な民族、文化が存在するということ、しかもそれぞれが普遍的なもの に還元不可能な独自性をもっていること、また、各民族、文化には発. 展段階があるということであった。タイラ-も当然のことながらこの ようなことに気がついたはずだ。しかも彼の兄弟の一人は、この万国. (傍. P. (六). 四. 民. 平野.

(5) 点著者)」ということになる。. ミ、教育などによって個人から個人へと伝えられるという意味でありI. 素の殆ど全てが代々伝えられ、その社会の個々のメンバ-の生涯より も造かに永-存続する」 ことになる。. 「この過程が継続的に行われることによって、文化綜合体を構成する要. 価値体系、知識'道徳などのことであるが、それでは'物質そのものI. ておこう。それは、エドワ-ド・T・ホ-ルおよぴミルドレッド・R・. 「行動の諸結果」は'人間の行動の結果招来される、心理的、物質的 なあらゆる現象を含む。心理的現象というのは具体的に言えば、態度、. 例えば、斧は文化であるかという疑問が当然もちあがる。リンーンは、 もちろん斧は「物質文化」として文化そのものに含めて考えるという. ホトルの定義である。彼らはこう書いている。文化とは、「人々が異な った意味を持たせている相互の行動を制御する共有プログラム」であ. り、「文化は情報を生み、送り、記憶し、かつ処理するシステム」であ. (山二). つぎに、情報理論的な観点からの、比較的新しい定義を1つ紹介し. 立場を取っている。ただし、斧そのものは、単なる物質的なものであ るにすぎず'「斧の外見や性質について社会のメンバ-が分有している 観念だけを含める」. る。この定義には、文化は、人間の行動制御および情報処理にもっと も力点が置かれて作られているものだという観点がつらぬかれている0. べきだ、という考えかたもかなり強-あるが、一. 旦このような定義を文化の定義のなかにもちこむと、文化というもの の実在性が問題となるから、古-からあっていまだに未解決になって 文化人類学や比較文化論といった文化学そのものが成立しな-なって しまうおそれがあるのである。すでにあげたタイラ-の定義は、文字. され、物的なものは言及されていない。この『か-れた差異』という. この定義も、文化は「共有プログラム」であり「システム」であると. 勿論、文化というものが、「相互に関連しあっている出来事と発想とか ら構成される巨大な複合体である」という断り書きが加えられている0. どうりに読めば斧は文化のなかに入らないから、これが欠点と言えば. 本は、「ドイツ人を理解するために」という副題がついていて、主に日. いる、あの哲学的な認識論上の問題が釜首をもたげて来て、ついには、. 欠点であるが、その先駆的な意義と深い洞察を否定することは勿論で. 本とドイツのビジネスマンのために書かれている。そして、ビジネス. 活動における文化摩揮をどのようにすれば小さくすることができるか というのがこの本の主要な論点であり、こういった目的のために右の. きない。. 動とその諸結果とが組織化されて、全体としてひとつの型をもったシ. 定義がなされたと考えてよいだろう。このように、文化の定義は、研. 「綜合体」という言葉は、ある文化を成り立たせているさまざまな行 ステムをなしているという意味である。「分有」は、ある「一つの行動. 文化の定義といったものはないのである。 ●文化の要因. 究目的によってさまざまなものでありうる。いわゆる「公認ずみの」. 型や態度や知識を一社合の二人以上のメンバ-が共通してもっている という意味」であり'例えば、「龍を編むための新しい技術が一人の人 間だけに知られている限り、それを文化の一部分とすることはできな. いが、その新技術が他の個人によって分有されるようになると、それ. 我々はすでに文化の定義で見たとうり、文化は「複合体」あるいは. 五. はその文化の1部分となる」のである。「伝達」は、訓育、模倣、ロコ 比較文化論序説川. 平野.

(6) 比較文化論序説川. た。そしてそれは'漠然とした暖味なものではな-、抽象力を働かせ. 「外的・自然的要因」は、ニュアンスを異にするものであり、リンーン. 同等の概念と考えられ'斧はこのなかに分類されるだろうが、末木の. リン-ンの「物質的なもの」と、タロ-バ-の「実在文化」はほぼ. てみると、幾つかの主要な要因に分解してみることができることに、. 然的要因」とは、風土や地形などの自然的環境や資源のように、人間. やタロ-バ-が、おそら-考慮に入れていなかったものだ。「外的・自. 我々は気がつ-。文化というものを、論理的、分析的かつ実証的に論 じていこうとする場合には、どうしても、それを、便宜的に幾つかの. は、文化の素材となるものである。. は操作を加えることによって'初めて文化の要因となるもの、あるい. されていたが、リン-ンはつぎの三つに分類していJo①物質的なも. 『風土』など 風土が'文化に深い影響を与えることは、和辻哲郎の によって'我々は夙に知っているところであるが、この本が発表当時. 末木剛博は文化を成り立たせているものを、①外的・自然的要因'. かいったものが、社会的、歴史的に生み出される存在であるという自. かなり評判になり、いまでも読みつがれているのは、人類とか文化と. ②人為的要因(精神文化)、③実践的要因(生活文化)の三つに分類し (1四). ている。. アルフレ--・タロ-バ-は'文化を'「人間社会における歴史的に. 異なった習慣的な機能の集合体である」と定義したあと、①実在文化、 二五). ②価値文化、③社会的文化、の三つに区分けしている。. 砂漠のような過酷な自然環境において、はじめて、(回教'キリスー教. のような)峻厳な一神教が発生し、全面的に発達すると主張している. が、いずれにしても、文化を幾つかの要因に分解し観察してい-こと. 普及するという現実の事態を説明することができない。国土の大半が. が、そういった1神教が温和な風土をもつ地帯に浸透していき、かつ. が、合理的であり'かつ便利であることに、気がつ-であろう。 かぎりにおいては'それを成り立たせている要素はそれぞれ孤立的に. 働いている。そして、彼らは、厚い布のテン一に住んでいるわけでも. は'人間の力でほとんど変えることのできない自然のワクではあるがI. 和辻の頭からすっぽ-抜けていたのは、たとえば、「風土とい-もの. ないし、ラクダに乗って移動しているわけでもない。. である。. 互連環をたもちながら、混然一体となって、存在しているということ. 存在しているわけではな-、文化という複合的な全体性のなかに、相. しかし注意しなければならないのは、文化というものが現実に在る. 砂漠地帯である国に、今日では、近代的なビルが林立し、そこでは、 エアコンの利いた部屋で背広にネクタイをつけたサラリ-マンたちが、. 三人の分類は、それぞれに異なった微妙なニュアンスを持っている. というのは、現実には、妥当しない考え方である。例えば、和辻は、. 明の前提に、異議を申し立てたからであろう。 しかし、風土が、文化のアルファからオメガまですべてを決定する. など。. の、即ち産業の生産物o②動的なもの、即ち外面的行動。③心理的な もの、即ち社会のメンバ-によって分有されている知識'態度、価値. (l三). タイラ-の定義では、文化を成り立たせている要素が、細か-列挙. に外から与えられたものを指し、人間が人為的に反応したり、あるい. 六. 要因あるいは要素に区分して観察する必要がある。. 「システム」であり、また「集団的生存形態」であるということを知っ. 平野.

(7) しかし'それをどう利用するかは、人間の側の主体的な条件(端的に. 証明されるだろ-。文明の原勤力となったものが、実は文明を破壊さ. していたが、その予言が正しかったかどうかは'そう遠-ない将来に (1六). リンーンの「物質的なもの」とタロバ-の「実在文化」は'人間が. がついたのである。. せる要因になるかもしれないという、恐るべき弁証法に今我々は、気. いうならば、資本と労働の在り方) のちがいによって変わって-る」 という考え方であった。このような思考が、和辻の頭から抜けてしま っていたとすれば、それは、彼が、マルクス的な思考方法に、抜き難 い偏見を抱いていたからだと思われる。真理を探求しょうと志す者は、 いかなる思想にも偏見をもってはならない。. っ-りだす道具や商品のように、可視的なものを包含する概念である。 しかし、文化というものは、直接的には知覚あるいは触知しえない「請. 理的構成物」であるとか'「人間の行動パタ-ンあるいは類型」である とか、あるいは、地図のような「概念的な模型」であるといった、文. 風土をはじめとする、人間を取り囲む自然的環境と人間との関係は、 的にとらえて、それを、人間の文化を決定する唯1の静態的な因子で. 化の実在性を否定する考え方に足をす-われてはならない。文化の研. 歴史的な発展の位相において眺められるべきものであり、風土を固定 あると考えるのは、社会的なものだけが、人間の意識を決定する、と. 知識や技術も、労働や育児や娯楽や紛争における慣行も'芸術や信仰. 考えるのと同じ-誤っている。 「外的・自然的要因」 のなかで'もう一つ、文化に重要な影響を与え るのは、資源である。それは、今日、石油資源が、われわれの文化を. や道徳や各種のタブ-に現れた情緒も、また1定の規範にしたがって. 究には'煩墳な認識論上のスコラ学をもちこまないようにしなければ ならないのである。「道具や家屋や服飾や飲食物も、これらを作り出す. いかに変容させてしまったかを見れば、明らかだろう。人類は石油の. いったもののように、直接的に客観的な事物として認識できないもの. (一七). 構成された親族構造や社会組織も、特定のル-ルをもった言語も、す. タミア人は建築資材 (モルタル) や船の填隙材として用いていたが、 それは、自然に湧出していた石油であって、掘削することによって、. でも、人間の心理過程として'人間の意識のなかに実在するものとし. では、ノアの箱. 存在を早-から知っており、すでに聖書の. 人間が石油を取り出し始めたのは'近々1九世紀の半ばになってから. て認識していかねばならない。. 「創世記」. 舟はタ-ルで覆われなければならない、と書かれている。古代メソポ. べて直接に把握しうる客観的な実在」として認めないと、文化学とい ぅものは成立しな-なってしまうのである。価値とか意味とか信仰と. であった 現在我々は石油なしでは一日も生活できない。最初は「黒い金」と. 彼の研究が、「パ-スナリティ-の文化的背景」であったことから'必. 七. 然的に出てきた分類であろう。リン-ンは、「パ-スナリティ-は、身. (一八). 呼ばれていた石油も'今日では地球環境を破壊する元凶の1つとみな されるようになっているが、人類はその使用をやめることができない0. 体的現象の中にはそれに類似したものを見出せないような、一種独特. 末木の②③と、タロ-バ-の②③は、完全に重なり合うものだが、 リンーンの②はこれとは'やや視点を異にする分類である。これは、. 地中から掘り出された物質はいずれ人類にとりかえしのつかない災禍 をもたらすだろうと、かってレオナルド・ダヴインチはどこかで予言 比較文化論序説川. 平野.

(8) 比較文化論序説川. 平野. 面的行動から推測しうるにすぎない」という立場をとっているから、. すなわち産業の生産物は、末木の③とタロ-バ-の①③に関わるもの. ったのである。. 慮に入れられていなかったと見るべきである。彼の研究目的の性格か. 実質的には、末木とタロ-バ-の③は、独立したカテゴリ-として考. 経験と、穀そうにも致すものもな-怪我をするようなものもない場所. い道具の中や、殴れやすいもののいっばいある家の中で育った子供の. ナリティ-の発展に及ぼす影響はかなり大きなものと思われる」「小さ. 様な人エの事物を含んでいる。そしてこれらの事物との接触がパ-ス. ら言えば、それは特に必要がなかったのであり、別に非難すべきこと. で育った子供の経験とは、全-異っている筈である。丈の高い家具の. 上に座ったり寝たりする我々の社会の習慣には、すでに、床の上にそ. のまま起居するような社会では起こりえない、幼児に対する危険が含 (二こ まれているのである」と書いており、「産業の生産物」が'パ-スナリ. 認識行為、感情表出などは、背ここに分類さるべきものである。これ らはいずれも、人間の表現活動により生み出されたものである、と言. て育った子供と、動物や昆虫を追いながら育った子供では'自ずから. の要因として、独立した項目に分類したのである。テレビゲ-ムをし. ティ-の形成に重大な影響を与えると考えているから、これを、文化. うことができる。文化の核心は表現活動である。われわれが、常識的. 産され、巨大な市場が形成されていると同時に、強固な経済秩序が社. が発達した先進諸国では、高度の生産技術により膨大な量の商品が生. 及び実践活動そのものを含むものである。人間は自然の素材に、労働 をもって働きかけ、財を生み出して、これを消費する。資本主義経済. 人間の生活に関わる実践的活動によって生み出されたすべてのもの、. とは言うまでもないが、石でできた斧から、ハイテク商品にいたる、. しかし'末木の③とタロ-バ-の①③は、「産業の生産物」を含むこ. その性格に相違が出て-るのは、容易に理解できることである。. 作品など」である。この定義で分かるのは、人間の活動は、いかなる ものであれ、なんらかの形で、「表現」とかかわっているということだ。. (二〇). 的・感性的形象そのもの、すなわち表情・身振り・動作三豊叩・手跡・. 体的なものを、外面的・感性的形象として表すこと。また、この客観. それでは、表現とは何かo辞書の定義をひとつ挙げておこう。表現 とは、「心的状態・過程または性格・志向・意味など総じて精神的・主. 化」と言われているものである。. に文化と呼んでいるものは、この表現活動であり、いわゆる「精神文. 心的な主題となるものである。宗教、芸術、道徳、法律、(科学を含む). に包含されるものであろう。 .末木とタロ-バ-の②(及びリン-ンの②③)、は、比較文化論の中. ではない。逆に、末木とタロ-バ-の③は、リントンの分類では②③. しかし、広い観点から見た時、リンーンの②③は、末木やタロ-バ -の②に入れることができるものである。したがって、彼の分類には、. これは、やはり、彼の研究上の必要から行われた分類であろう。即ち、 リン-ンは、「すべての個人が成長し、活動する環境は、常に極めて多. であろうが、リン-ンはわざわざ、「産業の生産物」とことわっている。. ほぼ同じものをさしていると考えてよい。リンーンの①物質的なもの、. 末木の③実践的要因(生活文化)と、タロ-バ-の③生活文化は、. 八. 外面的行動を文化の重要な因子として、考察の対象にせざるをえなか. (1;i(). なりえないものである。我々はただその性質を'それの表現である外. の綜合体である。その上、パ-スナリティ-は、直接観察の対象とは. 199.

(9) ④生産技術、生産様式、市場経済メカニズム、法律、社会制度など、 人間の集団生活における実践的行為が作り出した、生活的・社会的 要因。. 合を支配し、我々の物質的、精神的生活に重大な影響を与えている。 しかし、経済的な土台が'人間の実生活や表現活動のすべてを決定す ると考えてはならない。人間は、機械的存在ではないし、人間の本質. 勿論'こういった分類は'文化という混沌とした複雑怪奇な対象に. 的なものではない。また、そのようなものを求めることは、不毛で退. アブロ-チするための便宜的なものであって、厳密性をそなえた絶対. は「自jE」なのであるから。. 現在、高度資本主義国を中心として、世界経済システムができあが -'世界的な規模での商品交換を前提とする世界市場が成立している。 (国民経済). 屈なスコラ学を生み出すだけである。比較文化論というのは、人が(あ るいは、人の集団が)'国際交流的な状況に投げ入れられた時、いかに. したら合理的、かつ理性的に、それに対処できるかを示すのが、その. 念頭においておかなければならない。. 目的の一つであって'厳密な認識論ではないということを、いつでも. 国境といったものが、無意味に思えることがあるが、そういったもの. 人間には制御できない。これらは、いずれも、人間の文化に甚大な影. 地は'海になってし㌢つかもしれない。地震などは、現在の段階で. パンで考えれば、地形はかならず変化する。我々が現在住んでいる平. あるいは変動してしまうものがある。たとえば、千年単位の時間のス. ①外的・自然的要因。これは、人間が手を加えたり、働きかけたり したために変化してしまうものと、そのようなものとは無関係に変化. 因別に考察してみることにする。. らの四つの要因が、歴史的にどのように変化するのか、それぞれの要. ら、歴史的に変化してい-ものである。したがって、ここでは'それ. 文化は、先にあげた四つの要因が'共時的'通時的に絡み合いなが. ●文化の歴史的変遷. ネ、モノ、人が'現在では国境を越えて自由に移動して'国家とか'. 初めて成立するものであることを忘れてはならない。一見すると、カ. 国家という形で統括され'国境という枠組みが内部にふ-まれていて、. しかし'世界市場というのは、あ-まで、個別経済. が、. が自由に移動しているのは、国家どうしの経済協定があるからなので ある。現に'ボ-ダ-レスと言われているこの時代にも、おたがいに 経済交流がほとんどない国々が沢山ある。それは、その国家間に、何 らかの原因で'経済交流協定が成立していないからである。ボ-ダレスの時代だから、国家は必要ないなどと考えてはならない。逆に、 国家という枠組みがあるからこそ'ボ-ダ-レスという観念が生まれ て-るのである。比較文化論にとって、国家の観念や、国家組織、経 済組織、そしてその在り方の問題は極めて重要なテ-マとなる。 我々は、文化の要因を次の四つに分けることにする。 ①気候・地形・資源などの外的、自然的要因。 ②原始的な石器から、ハイテクによる産業生産物にいたる、人間が人. 響を与える。ヨ-ロッパなどから見ると日本人の家屋はいかにも貧し. いが、地震は、日本人に堅固で永久的な建築物を残すという思想を育. 九. 為的に作り出した、可視的な実在物。物的要因。. 比較文化論序説川. 平野. ③宗教'芸術'道徳、理論的認識、感情表出など、精神的、観念的要 因。.

(10) 比較文化論序説川. (二二). 類は今、その思想を根本的に変えないかぎり、滅亡は必至であると主. 『エン-ロピ-の法則』などを見ると、人. 満足しているという、一部のヨーロッパ人からなされている批判は' あろ、つ。. の変化である。現在の高度資本主義経済を支えて. しかしやはり、現在一番問題になっているのは、資源の枯渇と、生 態形(エコロジ-). 処理方法に問題があるのと'すでに大事故を起こし、将来もその危険. 発見されていない.一時は、もてはやされた原子力発電も、廃棄物の. ている石油資源にとって替わるような'決定的なエネルギ-源はまだ. 発見してい-であろうが、現在の資本主義文明を動かす原動力になっ. ということである。. 総和は〓疋で、新たに造られたり消滅したりすることはけっしてない、 また物質が変化するのは、その形態だけで本質が変わることはない'. と思うが、その意味するところは、宇宙における物質とエネルギ-の. 熱力学の第一法則とは、いわゆる「エネルギ-保存の法則」である。 これは、物理学の入門書には必ず出ているから、知っている人も多い. 第二法則だけは'永遠に変わることのない'「永久真理」なのである。. 性が極めて高いことから、いたるところで反対運動にあい、建設への. 使用可能なものから使用不可能なものへ、秩序化されたものから、無. 意欲はさめつつある。石油は現在の試算では、あと五〇年足らずで枯 渇するが、新しい油田が発見開発されても、地球上の石油資源が有限 なものであることは確かである。したがって、新しいエネルギ-が発. であるとすれば、「宇宙のすべては体系と価値から始まり、絶えず混沌 と荒廃に向かう、と説明することができる。エン一口ピ-とは1種の. 「永久真理」. 秩序化されたものへと変化する、ということだ。 これが、絶対変わったり修成されたりすることのない. んしては極めて暗い未来図が描かれていて、例えば、一九八〇年にア. 測定法で、それによって利用可能なエネルギ-が利用不可能な形態に. ラブが、『成長の限界』と題する報告書を発表、化石エネルギ-をあた. 変換していく度合いを測ることができるものである。また、「エン一口 ピ-の法則」によると、地球もし-は宇宙のどこかで、秩序らしきも とされている」。. (二三). のが創成される場合、周辺環境には、いっそう大きな無秩序が生じる. 時の人々に深刻な反省を迫った。. かも、無限であるかのごと-消費し、経済成長に浮かれ騒いでいた当. に大きな衝撃をあたえた。それ以前の、一九七二年には、ロ-マ・ク. メリカ政府が発表した特別報告『西暦二〇〇〇年の地球』は'世界的. もっと深刻なのはおそら-、地球環境の問題であろう。この点にか. 見開発されなければ、資本主義文明はいずれ滅亡の道を歩むことにな るだろう。. そして、熱力学の第二法則によれば(これが「エンーロピ-の法則」 と言われているものであるが)、物質とエネルギ-は一つの方向のみに、. いる資源の多-は、いつかは、枯渇してしまう。人間は知恵があるか ら、資源の多-を、何か他の代替物によって替えるか、新しい資源を. 「相対性理論」ですらも、それを超える理論の存在が予測されている0 しかし'これには、ただ一つの例外があって、熱力学の第一法則と、. 張されているo現在、いわゆる「科学的真理」とされているもののほ とんどは、「暫定真理」にすぎないものであって、アインシュタインの. ジュレミ-・リフキンの. 衰. やはり、日本の文化に対する理解を欠いたところから出てきたもので. てるのを阻止した要因の一つであろう。日本人はウサギ小屋に住んで. 平野.

(11) うすればよいのか、リフキンは、ここで東洋思想、つまり仏教や老子. うからである。それも、そう遠い未来のことではない。それでは、ど. かはかならず、地球は無秩序化し、生命の存在が不可能になってしま. である。いまのままで、物質やエネルギ-を使用しっづければ、いつ. 然物であったであろうが、現在の我々の日常生活は、おびただしい数. の時代には、人間を取り巻いていたものの大部分は、自然あるいは自. 的産物である。そして、人間が穴居生活をしていた'はるか有史以前. 巨大な建築物(例えば、ピラミッド)から、某社のファミコンに至る まで実に様々であるが、それらは、それぞれ、その時代に特有の文化. これが永久真理であるとすれば、現代の産業文明に対する死の宣告. の哲学をもちだす。しかし、これは、あまりにも安易すぎないだろう. の人工物によって取り囲まれている。それが、人間の精神や性格、あ るいは、人間社会の在り方に重大な影響を与えていることは'容易に. か。彼の主張によれば'仏教や老子の思想には、すでに 「エン-ロピ -の法則」が組みこまれていて、「たとえば、現在、最も進んだ工業国. ことはあっても、減少することはないであろう0. 見てとれることである。これからも、人間を取り囲む人工物は増える. ③精神的・観念的要因。これは、精神的営為をすべて包括する、広 い意味での表現活動であり、我々が'通常「文化」一と呼んでいるもの. の一つに日本があるが、この国の行動原理の大きな指針の一つは、依 にあると言っても過言では 然として「釈迦の教え」や「老子の思想」 ない」といった件(-だり)を読むと、彼の日本理解の程度はそう深. である。人間は、有史以前から、さまざまな表現活動に従事してきた0. (二四). いものではないな、と気づかされるのである。 なによりも、いわゆる東洋思想なるものには'一般的に言って、人 思想は、ややもすると、人間への残忍性を肯定する。「エン一口ピ-の. 盛」の時代もあれば、それが、いちじるし-衰退する時代もある。 フランス啓蒙時代の思想家ヴォルテ-ルは、「芸術の完成を見、人智. 線に「進歩発展」するという性格をもっていない。いわゆる「文運隆. 総じて'単純素朴なものから、複雑多彩なものへと変化してきている0 しかし'人間の表現活動は、たとえば近代の科学技術のように、一直. の支配をまぬがれようとするならば、やはり科学にたよる以外 に方法がないだろうと思われる。安易に東洋思想などを持ち出しても. 権思想とか自由の尊重が欠けている。さらに、自然を過度に重視する 法則」. の大を遺憾な-表した」、「後世の亀鑑とするに足る」ような時代は、. 家のペリクレスや彫刻家のフィジアス、そして'アリス-テレスやプ ラーンが活躍した紀元前五世紀、四世紀のギリシャ時代、シ-ザ-と. 過去に四つを数えるにすぎない、と言っている。その四つとは'政治. (二五). 何ら解決の方向など見つからないということを、我々は'銘記するべ きである。. ②人為的に作り出された可視的な実在物。人類は、はるか何百年も 前から様々なものを作りだしてきた、そういう文化の産物がさらに文. アウグスッスのロ-マ時代(キケロ、ヴェルギリウス、ホラチウスな どが活躍)、メヂチ家が'-ルコ人に国を追われたギリシャ入学者たち. 化や人間精神に影響をあた、え、影響を受けた精神がまた新たな文化の 産物を作るという過程を繰り返してきた。人工物が、人間の文化や精. をフィレンツェに招噂したイタリア・ルネッサンスの時代、そして、. 一一. ヴォルテ-ルの言う「ルイ一四世の世紀」(一七世紀フランス)である。. 神にあたえる影響は、自然のそれとは、自ずから異なったものである0 これまで人間を日常取り巻いてきたものはなにか。石器や、弓矢、 比較文化論序説川. 平野.

(12) 比較文化論序説川. には全-あてはまらない.日本でも'このマルクス.の図式を鵜呑みに. して、明治期の変革がはたして、ヨ-ロッパのブルジョワ革命に相当. しかも、その中で'最も完壁に近いのは、ルイ一四世の時代であった と彼は言っている。. しかし、人間の知識は時代によって限られているし、時代の趨勢と. するかどうかといった議論が、かって、延々となされていたが、これ. 西欧世界に限って言えば、ヴォルテ-ルの、この見解に異論を唱え る人は殆どいないだろう。このような時代は、東洋世界の偉大な時代. などは、真っ先に比較文化論が扱うべきテ-マであろうと思われる。. をこれに加えても、一〇指を数えることはないであろう。そして'そ. いうものが、どうしても歴史家に影響を与えてしまうことは、避けが. たい面があるから、ヘ-ゲルやランケやマルクスの西欧中心史観も、. (しかも長-). 続-のである。はたして、「ルイ一四世の世紀」以来現在まで'右の四. それなりの必然性があって出てきたものであることを、理解してやる. 必要があるだろう。. たとえば、各国で作られている世界地図を見てみよう。どこの国で. かも自国だけが目立った色彩で描かれているものすらあるのだ′・)。人. 作られた地図を見ても、その国が地図の中心に描きこまれている. てきた。現在、地球上の、かな-多-の国では産業社会が展開してい るが'人類は、いきなり、このような、生業形態に到達したわけでは. つの段階のそれぞれの終わりのところに、農業革命'産業革命といっ. 力に着目した、極めて分かりやすい段階論である。そして、最初の二. 業社会、を経て、現在の③産業社会に到達した。これは、人類の生産. わざ、へり-だって、視覚的にいちばん目立たない場所に描き込む地. である。そうかといって、四角い一枚の世界地図の中に、自国をわざ. たものが、考えられている。 これと、やや似たものに、伊東俊太郎の五段階革命説がある.即ち (二七). 人類はこれまで人類革命、農業革命、都市革命'哲学革命、科学革命 の五つの大変革を経てきた、というものだ。このような主張は、いわ. 我々は、いままでのところ、もっぱら文化という言葉で問題を論じ てきたが、ここでは'文化と同じぐらいの頻度で使われる文明という 言葉について考えてみる。. ラーア. ン. においてであったと言われている。. (二八). 我が国で文明というものが最初に本格的に論じられたのは、福沢諭 『文明論之概略』 (一八七五). 彼は「文明とは英語にて「シウヰリゼイション」と云ふ。即ち羅旬語の. 吉の. ゆる'「ヨ-ロッパ中心史観」に対する、アンチテ-ゼとして出された ものである。たとえば、①アジア的生産様式、②古代奴隷制、③中世 封建制、④近代資本主義という、あまりにも有名になりすぎたマルク スの図式も、人類史の一部分にだけ焦点を合わせた、いわゆる西欧中 心の一面的歴史観にもとづ-ものであって'インドや中国の歴史など. ●文明と文化. 図製作者がいるだろうか。人間というのは、どうしようにもない問題 をかかえこんでしまった存在なのである。. (二六). 間が、自己中心的な発想から自由になるのは、容易なことではないの. ④生活的・社会的要因。人間は、これまで様々な生活様式を生み出し. 一考に値する問題である。. つの時代に相当するような'偉大な時代があったであろうか。これは、. のような時代のあとには、大抵、亜流、俗流の時代が. 三. ない。上山春平によれば、人類は文明史的に見て、①自然社会、②農. (し. 平野.

(13) 『人類. れて用いられるようになったのは'ドイツの哲学者ヘルダ-の. (三〇). 「シウヰタス」より来りしものにて、国という義なり。故に文明とは人. 史の哲学への理念』 (一七八四-一七九一)に於いてであった。この本. (二九). 間交際の次第に改まりて良き方に赴-有様を形容したる語にて、野蛮 無法の独立に反七一国の体裁を成すと云ふ義なり」と書いている。. た、キケロが、cu-turaを'「心の世話をすること」、という意味で使っ. 話をすること」'「動植物の世話をすること」といった意味で使われる ようになり、次第に「耕作」「栽培」「養育」という意味になった.ま. する」というのが'その原義であって、名詞形のcu)turaは「土地の世. はcu-turaなのである。このco-ereという動詞は'「世話をする」、「養育. を異にし、ラテン語の動詞co-ereから釆たものであり、その名詞形が実. の、「文化あるいは文明とは--」という定義は、このクレムの著書の. 究し確認する」 のだと宣言した。先に掲げた'エドワ-ド・タイラ-. 発展を'すべての点において、すなわち、習俗・知識・技能・平和も し-は戦争における公私の生活・宗教・科学・芸術について、--研. 史総説』 (一八四三) に於いて、「人類がそのもっとも粗野な--動物 に近い第一歩から、彼らが'有機的な民族体を組織するまでの漸次の. 一九世紀になってから、ドイツ人の人類学者G・クレムは、『人類文化. の中でヘルダ-は、文化ku-turという語を用いながら'人間の生活やい となみの全体を総括した文化史の体系づけを試みたのである。その後、. ているように'「教養」という意味でも、用いられたのである。要する. 影響下に生まれたと言われている。しかし、タイラ-の定義では、「文. しかし'我々の用いてきた文化という語は、これとはいささか語源. に、文化というのは、もともと人間がなにか対象にたいして'人工的. 化あるいは文明とは」と表現されているように'「文明」と「文化」を、. ドイツの新カン一学派の文化哲学者たちによってであった。彼らは、. るようになったのは、そっ古いことではな-、一九世紀後半に現れた. 実は'「文明」と「文化」とが、明確に異なった規定を受けて使われ. 意識的に区別するコメン-は加えられていない。. (三こ. に手を加えるという意味を原義としてもっているのである。 (福沢は「国」と. 一方、文明のほうは、福沢の言うように、ラテン語のcivitasから来 たものであって、これは「都市」という意味である. 訳しているが'これは勿論「都市国家」という意味である)。都市に住. 次のように主張した。「文化」とは、人間の価値規範、内在的な精神的. む市民はcivisと呼ばれ'その派生形の抽象名詞civi)isatioは、「市民の 身分をもつこと」という意味であり、この語は、当然、ロ-マ時代の. 価値にかかわるもの、つまり、哲学、倫理'芸術、宗教といったもの. が文化であって'科学技術などによって生み出された'物質的なもの は、「文明」の範噂にいれて区別する、と。そして、勿論、人間にとっ. 都市民の政治的権利を内包し、また'そうした、政治的諸権利を保証 された都市民たるにふさわしい品位とか洗練、教養といったものを意 味するようになったのである。つまり、このcivi)isatioに対立する語は'. ば、一段価値の劣るものであるとされた。たとえば、「機械文明」「物. て、価値のあるものは、「文化」であって'「文明」はそれにくらべれ. 福沢も言っているように、「野蛮無法」barbarusである。「文明」とい う語は'このように、もともと、都市とかかわっているのであって、 語源的には、「文化」とは異なった意味をもつ。. 質文明」などという表現は、密かに「文化」と対置され、それに比較 すると、価値の低いものであるという含意をもたせられているのであ. 三. その後、近代ヨ-ロッパで、文化という語が、本格的な定義を下さ 比較文化論序説川. 平野.

(14) 比較文化論序説川. であり、ドイツ哲学などを学んだ当時の日本の知識人の. 本文明civi)isationjaponaise、フランス文明civi)isationfrancaiseとい う表現を使うのが普通である。だから、原始文明civilisationprimitive. 人が、日本文化、フランス文化と言う場合にも、.フランス語では、日. は「耕作」「栽培」といった意味で用いる。したがって、われわれ日本. (3)フランス語では、専ら「文明」civilisationの方を用い、cu)ture. のというように、区別して用いるのが普通である。. 文化を精神的価値にかかわるもの、文明を物質的なものにかかわるも. (2)ドイツ語では、新カン-学派の影響がいまでに持続していて、. ていると思われる。. とは言わない。タイラ-の定義でも、こういった使い方が踏まえられ. (-)英語においては、文化が熟成し、ある高度な段階に達した状態 を文明と呼ぶ。だから、英語では「原始文化」とは言うが「原始文明」. は、次のような一般的知見をもっていることが、必要であろう。. る。しかし、結論的に言うと'「文明」と「文化」という言葉について. びそれにかかわるl切の自然的及び人為的なものを文化であると定義 したが、この用法に従えば、「文明」は文化に包含される下位概念であ. 我々はすでに、末木の定義を借用して、「人間の集団的生存形態」及. なったのである。. 治二〇年代になるとほとんど使われな-なっていたが)、完全な死語と. ロ-ガンであった、「文明開化」という表現は(この表現は、すでに明. あいだに、瞬-間にひろがった。この影響で、明治政府の近代化のス. 九一〇年代). この新カン一学派の文化概念が'日本に紹介されたのは、大正期(1. 平野. という表現もフランス語では可能である。しかし、フランスにおいて. れている。. (二). (四〇号)所収、. 東大比較文学合、一九八一年、二頁。 シャスキ-他『文化入門-総合人類学の手引き』、八千代出版、一. 末木剛博「比較文化論の基礎」、.『比較文学研究』. とか、東洋文化cu)tureorienta)eといったような用法が辞書には記載さ. も、新カン-学派の影響がおよび'例えば、西欧文化cp)tureoccidenta)e. 一四. "Race,cu)ture,andEvo)ution".TheUniv10f. ChicagoPress,1九八二年'七三頁.. E・Tホ-ル、M・R・ホ-ル. 〇頁。 同書'五〇-五六頁参照。. (九). (一〇). (一一). 出版会、1九八六年、十五頁. リン-ン、前掲書'五六真。. (三). (一三). (一五). (一六) (一七) (一入). 飯沼二郎『風土と歴史』、岩波新書、一九七〇年'八東。 石田、前掲書、二七頁。 リン-ン前掲書の原題。. (一四) 末木、前掲論文'二-三頁。 山崎正1'市川浩編、『現代哲学事典』'講談社、一九七〇年、五 三八東。. 『か-れた差異』、メディアハウス. (七) 石田'前掲書、二三頁。この点に関しては後述する。 (八).Stocking、前掲書、七一束。 同書、七二-七三頁 リン-ン『文化人類学入門』、東京創元社、一九五二年、四九-五. (i(). (五) 祖父江孝男『文化人類学入門』、中公新書'一九七九年、二二三-二 二四頁参照。. (四). (三). 九八二年、一一頁。 石田英1郎『文化人類学序説』、時潮社'1九六六年、三頁. 同書'七-八東。. G.W.Stocking,)r.. (こ. る。.

(15) 一. ヽー ヽ_■・′. ⊂:⊃ 九 ヽ一一′. ヽ■■・′ ヽ■′′. 同書'一一〇真。 広辞苑、第四版。 リンーン'前掲書、五二頁。 ー・リフキン 『エン-ロピ-の法則』、祥伝社、昭和五七年、二三 -二四頁。 同書、二四真。 同書、三〇真。 ヴォルテ-ル『ルイ一四世の世紀』、岩波文庫、一九五八年、七頁。. 巨≡l. 梅樟忠夫『狩猟と遊牧の世界』、講談社、昭和五1年'三四頁o 伊東俊太郎『比較文明』、東大出版会、一九九一年、五二束。 同書、二頁。 福沢諭吉『文明論之概略』'岩波文庫、一九七八年、五一束。 石田前掲書、二二束。 同書'二三頁。. 比較文化論序説川. 平野. ) ). ′一ヽ ノ■ヽ. ヽー. ヽー ヽー. ー. ニ ヽー. ′■■ヽ. 三. ′■■ヽ. +一 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・▲. (. 四 五 六. ( ( (. ノ し 七 ヽ_■・′ ヽ_■′ ⊂=)九. ノー■■■\ ( (. --I-. ′ ■\ ノ ヽ.

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