秋田大学教育文化学部研究紀要 人文科学 ・社会科学部門
5 4 pp. 3 7 ‑4 3 . 1 9 9 9
『モダン・ タイムス』と『メトロポリス』に関する比較文化論的考察
‑文明批判映画 に現われる個人主義的社会 と権威主義的社会‑
服 部 裕
I ndi vi dual i s musundAut or i t ar i s mus
i nde rZi vi l i sat i ons kr i t i kγon' ' Mode r nTi me s' 'und' ' Me t ropol i s"
Hi roshiHATTORI
Zus amme nf as s ung
Di ebe i de nFi l me," Mode r nTi me s "und" Me t r opol i s ",t e i l e ndas s e l beThe ma,dasi nde rKr i t i kan de rkapi t al i s t i s c he nmode r ne nZi vi l i s at i onbe s t e h
t. I m kr i t i s c he nLi c hts t e l l e ns i edi eme c hani s i e r t e Lagede rMe ns c he ni nde rhoc hi ndus t r i al i s i e r t e nGe s e l l s c haf tdar ,di eEnt f r e mdungundMani pul i e r ung de sl ndi vi duumsve r ur s ac h
t.We l c heWe l t ans c hauungundwe l c he sWe r t ur t e i ldi ebe i de nFi l mei ni hr e n Zi vi l i s at i ons kr i t i ke nz e l ge n,i s tj e doc hande r s ,J as ogarge ge ns a ■ t z l i c h. Ei ne r s e i t swur z e l tdi eZi vi l i ‑ s at i ons kr i t i ki n" Mode r nTi me s' 'i m Gl aube nande nl ndi vi dual i s mus ,ande r e r s e i t sbe r uht di e j e nl gei n
" Me t r opol i s "aufde m Aut or i t ar i s mus .Chapl i ns uc hti n" Mode r nTi me s "s t andi gal sI ndi vi duum s e i ne Fr e i he i tz ue r r l nge n,
Wahr e nddi eMe ns c he ni n" Me t r opol i s "nure r war t e n,ausi hr e runt e r dr i i c kt e nLage ge r e t t e tz uwe r de n,i nde m s i es i ° h" e i ne ngut e nHe r r s c he r ' 'wt i ns c he n,de rs i ez ui hr e rBe f r e i ungf t i hr e n s ol l t e .Di e s ege ge ns &t z l i c he nEi ns t e l l unge nz um Le be n,di et r ot z de r s e l be nZe i t l agepar al l e lbe s t e he n
,We r de nni c htaufve r s c hi e de nepe r s 6nl i c heWe l t ans c hauunge nde rbe i de nFi l maut or e n,C.Chapl i nundF.
Lang,z ur i i c kge f i i hr t , ,s onde r ns pl e ge l ndi ege ge ns 左t z l i c he nWe l t ans c hauunge nde rGe s e l l s c haf t e nwi de r
,i nde ne ndi ebe i de nRe gi s s e ur el e bt e n.
は じ め に
近代文明が育 むみ,同時 にその発展 の原動力 ともなっ た機械技術 と大衆社会が生み落 とした最 も物質文明的な 芸術である映画 は,すでにその草創期 において生 みの親 である機械文明社会の本質 を射抜 く表現力を身 につけて いた。特 に
2 0
年代の ドイツ表現主義映画 は,一貫 して近 代社会の諸相 をその批判的表現の射程 に納 めている。 そ れ は近代精神の発現である資本主義社会 と,その発展 に よってよ り複雑化す るとともに透視 Lがた くな ってい く 支配構造 を浮 き上が らせ ようとす る光 の照射 で あ った。ヴィ‑ネの 『カ リガ リ博士』, ムルナ ウの 『ノス フェラ トゥ』, そ して ラングの 『ドク トル ・マ プゼ』 が権力 を 具象化 しよ うとす る映像であるとすれば, スタンパーグ の 『嘆 きの天使』 は新時代 の自由主義的 ‑資本主義的な 支配構造 のなかで翻弄 され, 自らの社会的な存在基盤 と 精神的安定 を喪失 してい く旧時代 の未熟 な市民を描 きだ す とい う意味 において,十分 に文明批判的な性格を有 し ている。
そ うした文明批判的な映画のなかで,機械化 された資 本主義社会 における人間性の疎外をより直接的に映 しだ しているのが フ リッツ・ラングの 『メ トロポ リス』
( 1 926)
である。 そ こで は,文明は単 に人間な らびに人間性 と敵 対す る無機質 な機械装置 として映 しだされるのではな く, 徹底 した人間支配 を目指す権力の従順かつ合理的な僕で あ り,強固な社会的支配構造 を構築す る装置 として措か れている。つまり近代的な機械装置の冷酷 さは,人間の 感情 にはまった く頓着せず人間その ものを自 らの歯車 と して機械化 して しまう事実 のなかだけではな く, その機 械装置を自分の目や手足 として徹底的かつ直接的な人間 支配 を実現 しようとす る権力の合理性のなかにこそ認 め られ るのである。 その意味で,近代文明 は合理化 された 支配構造 と同義であると考えて もさ しつかえない。 この 認識 を出発点 として,如何 に して人間が機械化 された権 力 と闘 うことが可能 で あ るか とい うことを問 うたのが『メ トロポ リス』である。
『メ トロポ リス』 と同様 に,近代文 明の本質 とそれ と 闘 う人間を措 いているのがチ ャップ リンの 『モダン ・夕
イムス』
( 1 93 6)
で あ る。 その タイ トルが示 す とお り, それ は近代 とい う時代 その もの,つ ま り近代社会 という 牢獄 のなかで生 きなければな らない人間の抑圧 された状 況 と, そ こか ら脱出す る可能性 を映 しだそうとしている。このよ うに 『モ ダン ・タイムス』 はその主題設定 におい て
,
『メ トロポ リス』 と極 めて近 い位 置 関係 にあ る こと がわか る。 に も拘 わ らず, この二つの文明批判映画 のな かで展開す る世界 はま った く異 な る,敢 えて言 えば互 い に対立 しあ う価値観 に貫 かれてい る。結論 を先取 りして 言 えば,前者 が近代文 明批判的な視座 を貫 きなが らも, あ くまで も近代精神の根幹を成す個人主義への信念によっ てそれを乗 り超 えよ うとしているのに比べ,後者 は個人 (‑近代精神) を抑圧す る (近代文明化 した) 専 制 的 な 権力 を打破 しよ うとい う試 みが,個 の力 によるので ほな く,専制 を支 え る悪 しき権威主義 の代替物 としての 「善 さ権威」 によ って実現 され ると信 じているとい うことで ある。この両者 の相違 はどこか らきて, どんな意味を もって いるのか。 この問いに答 え ることが本稿 の 目指す ところ であ る。 同 じ時代状況 のなか, 同 じ敵 に向か って, まっ た く相反す る価値観 を もって闘 いを挑 んでい るこの二つ の映画 の相違 は,単 に異 な る価値観 を もつ二人 の映画作 家個人 にで はな く,二人が生 きた地域,つ ま りアメ リカ 合衆国 と ドイツそれぞれ に固有 の価値観 の相違 に起因 し ていると考 え るのが妥 当であ る。何故 な ら, この二つの 映画 に現 われ るそれぞれの価値観 は, それぞれの地域 の 他 の多 くの映画 に も共通 して認 め られ るか らである。以 下本稿で は 『メ トロポ リス』 と 『モダ ン ・タイムス』 を 手掛 か りに して,同 じ時代状況 のなかに現われた二つの 相反す る価値観 につ いて比較文化論 的に考察 してみたい。
1.
支配者権力 としての資本主義的搾取者 に反抗す る抑圧 された 労働者。 これが
,
『メ トロポ リス』 と 『モ ダ ン ・タイ ム ス』 に共通す る主題 であ る。両映画 の主題 のあいだに見 られ る強 い額縁性 は,労働者 の一団が隊列 をな して工場 に飲 み込 まれてい く冒頭 の シー ンの類似 にすで に象徴的 に現 われている。 モ ダン ・タイムスの労働者 は工場 に吸 い込 まれてい く家畜 の群れ になぞ らえ られ, メ トロポ リ スの労働者 たちは個性 を喪失 した人間の一群 と して, こ れ も怪物 の口のよ うに装飾 された工場 の入 り口のなか に 行進 してい く。 さ らに,労働者を搾取す る企業家がオフィ スにいなが らに して 自動 カメラを駆使 して,すべての労 働者 と生産 ライ ンを徹底管理 している支配形態 の同一性 ち, この二つの映画 の共通 した原点 を明 らかにしている。チ ャップ リンもラングも,機械化 された生産形態 による
人間 その ものの機械化 と機械化 ‑合理化 された人間支配 に対す る人間の反抗 を映 しだそ うとして い る。 つ ま り, 彼 らは資本主義的合理主義 とい う同一 の怪物 を敵 にまわ
して闘 っているのである。
このよ うにその主題 は, チ ャップ リンにとって もラン グに とって も実 に明快 であ り,共通 の ものである。 とこ ろが,彼 らが如何 に闘 い,何 を 目指 して闘 っているのか とい うことを考 えた とき, この二つの映画 のあいだに極 めて大 きな価値観 の相違 が存在す る ことが見 えて くる。
2 0
世紀前半 の高度 に発展 した産業資本主義 を基盤 に した 共通 の社会状況 に対す る闘争 であ りなが ら, その間 いぶ りはまった く背反す る価値観 に支 え られた ものであ ると さえ言 え るのであ る。 この価値観 の相違 は偶然 の産物で はない。 それ は, その時代 のアメ リカと ドイツの社会 を 貫 く価値観 の相違 その ものの反映 なので ある。労働者 ‑人間を抑圧す る支配者 は,上述 の とお りいず れの映画 において も資本主義 的経営者 で あ る。 しか し,
この共通項 に も拘 わ らず,二人 の支配者 のあいだには決 定 的な違 いが存在す る。 モ ダ ン ・タイムスの場合,労働 者 を支配す る資本家 はあ くまで も経営者 であ り, そ こに は社会的抑圧者 を超 え る意味 は付与 されていない。労働 者 チ ャップ リンと抑圧的な経営者 とを区別す るものは社 会的地位 のみであ り,人 間 としての上下 の差異 は具象化 されていない。一方, メ トロポ リスの支配者 には社会的 抑圧者 の相貌 に加 えて,息子 を抑圧す る強 い父親 の顔 が 与 え られている。 メ トロポ リスにお け る社 会 的権 力 は, 自由競争 の勝利 の結果 と して獲得 された ものであるとい う意味以上 に,人間の社会的関係 を固定化す る権威 に裏 付 け られた もの と して立 ち現 われ る。 メ トロポ リスの支 配者 は父が息子 を抑圧す るよ うに,社会 のすべての人 間 をその権力 ‑権威 の下 に支配す る。 モ ダン ・タイムスの 経営者 の支配が純粋 に資本主義 的な経済学 的概念 の枠 内 にとどまってい るのに反 し, メ トロポ リスの支配 はよ り 形而上学 的な権威主義 のメカニズムの うえに構築 されて い るのであ る。 これ は,資本主義 による人間支配が,精 神的 レベルまで拡張 され徹底 されてい ることを意味 して いる。政治的 にはよ うや く共和制 を達成 した ドイ ツ (ワ イマール共和国)であ るが,市民 は社会的 にはいまだ に 帝政期 の権威主義的支配 の意識 を払拭す るには至 って い なか ったのである。 このよ うに, アメ リカ合衆国 と ドイ ツにお ける資本主義的な支配構造 は, その根本 で本質的 な違 いを もっていた と言 うことがで きる。前者 が機械化 された 自由競争 による純粋 に資本主義的な支配構造 に立 脚 した社会 ‑ もちろん白人社会 とい う意味 で あ るが ‑ で ある一方,後者 は長 い伝統 を もつ権威主義 の意識構造 に立脚 した資本主義的独裁社会 の可能性 を内包 してい る と見倣す ことがで きる。『メ トロポ リス』 の制 作 か らわ
‑ 3 8‑
ずか
7
年で ドイ ツの独裁体制が現実 になることを考 え る と, この映画が予見 してい るもの は単 に鋭敏 な‑映像芸 術家 の直観 によるもので はな く, ドイツ社会 の権威主義 的傾向の必然的な表 出であ った と考 えざるをえない。2
,反抗者チ ャップ リンといえば,放浪者 と相場 は決 まっている。
ところがモ ダ ン ・タイムスのチ ャップ リンは真面 目な労 働者 であ る。 ベル トコンベア一にの って流 れて くる部品 のネジを,流 れに遅 れないないよ うに必死 にな って猛 ス ピー ドで締 め る。 これがチャップ リンの仕事である。まっ た く単調 な同 じ作業 の繰 り返 し。 これが分業化 された近 代的な機械作業 の本質である。そこに生産性 というスピー ドが加 わ る。機械 による資本主義的生産 は, 自 らが もの 全体 を作 るとい う自律 した労働形態 を人間か ら奪 って し ま った。機械 は人間が ものを作 るための道具 というより, 人間をその一部 として働 かせ るもの とな る。機械 の人間 支配で あ り,人間の機械化 であ る。生産性 を さ らに上 げ るには, ベル トコンベアーの ス ピー ドをア ップす るだ け でよい。スピー ド‑生産性 についていけない人間は,チャッ プ リンのよ うにまさに機械 に飲 み込 まれて しま うのであ る。
ところで,放浪者 チ ャップ リンには労働 はあま り似合 わない。資本主義的生産 につ いていけないチ ャップ リン は,結局神経が まい って しま う。 まるい円盤状 の ものな ら女性 の服 のボタ ンで も何 で もネジに見 えて,条件反射 的 にスパ ナで締 めて しま う。 チ ャップ リンにはや は り労 働者 は無理で, またいつ もの放浪者 に戻 る。無一文 の放 浪者 チ ャップ リンは一見資本主義社会 の落伍者 のよ うで あ るが,実 はそ うで はない。 チ ャップ リンは自 らの意志 で労働 を放棄 し,資本主義 的な成功 に背 を向 けているの である。 日々の糧以外 に彼 が必要 と して い るもの はただ 一つ, それ は完全 な る自由であ る。 なるべ く自由を失 わ な くて もすむように,彼 は最低限の糧 しか求 めよ うと し ない。 いざ となれば,刑務所 のなかで得 る糧で も事足 り る。 チ ャ ップ リンが仕事 もせず貧 しいのは, その代償 に 自由を保持 したいか らなのだ。愛す る娘 との生活 のため に働 くことを決心す るときの言葉 は, む しろ必要以上 の 労働 な ど しない とい うチ ャップ リンの意志 を逆説的 に表 現 している。彼 は言 う :
" Ⅰ ' 1 1doi t!We ' l lge tahome
,e ve ni flhavet owor kf ori
t."(下線 は引用者 によ る) つ ま り, この労働 しない とい う意志 は,人間を抑圧す る 資本主義的生産 システムか ら自由であろ うとす る,非常 に ラデ ィカルな闘争への意志 を意味 しているので ある。それ とは対照的なのが メ トロポ リスの主人公 フ レダー であ る。 フ レダーは資本主義的独裁者 である父 に反抗す
る手段 と して,裕福 な環境 を捨 てて労働 者 の側 に立 ち, 彼 らと同 じ仕事 を果 たそ うとす る。 しか しフ レダー一人 が労働者 の重労働 を補 った ところで,労働者 たちが置か れた状況 は少 しも変 わ らない。労働者 に彼が提供 で きる もの は, いわば心 の連帯 だけであ る。 さ らに, フ レダー は労働者 にチ ャップ リンのよ うな労働 の拒否 (ス トライ キ) を呼 びか ける代 わ りに,労働者 と独裁者 の心 に訴 え ることで両者 の調停 を果 たそ うとす る。
独裁者 の抑圧 を受 けている当の労働者 たち も, 自分 た ちが置かれた状況 を 自 らの意志で変 え よ うとは しな い。
彼 らはチ ャップ リンが したよ うに, 自 ら労働 を放棄す る ことで独裁的な支配 に反抗 しよ うとす らしない。彼 らが 求 めるの は,純潔 なマ リアが与 えて くれ る心 の安 らぎだ けである。 そ して, そのマ リア も労働者 たちの自由への 意志 を喚起す る代 わ りに,辛 (労働者) と計画者 (支配 者) を心で調停す る調停者が現 われ る日まで辛抱強 く待 つ ことを説 く。つ ま りマ リアは救世主 の出現 を予言す る 聖者 の役割 を果 た しているのであ り,人間の 自由 とそれ を可能 にす る社会変革 を訴 え ることは しない。 メ トロポ リスの労働者 たちは, 自発的 に自由への意志 を表現す る ことは決 してないのであ る。彼 らがっねに一群 の集団 と して ほとん ど 「装飾 的
」
(l
'に映 しだ され て い る とい う事 実 は,労働者 は単 な る概念 と しての存在で しかないこと, つ ま り一人 ひ とりの生 きた人間 としての意志 と実在 はまっ た く欠落 して しま ってい ることを物語 ってい る。独裁的 支配か ら労働者 を解放 したいという独裁者の息子 フレダー の意志 に も拘 わ らず, 当の労働者 は自 ら状況 を打破 しよ うとい う主体性 とはい っさい無縁 の存在で しかない。 こ の意味で彼 らは,つ ねに 自らの主体的な意志 に したが っ て生 きよ うと している放浪者 チ ャップ リンに対 して,明らか に対極的な位置 にい るのであ る。
3.
闘い自由を愛す るチ ャップ リンの社会的立場 が労働者 のそ れ に最 も近 い ことは
,
『モダ ン ・タイ ムス』 の い くつ か の シー ンが十分 に物語 ってい る。 チ ャップ リンが夜警 を しているデパ ー トに空腹 を満 たすための最低限の食べ物 を求 めて押 し入 った泥棒 は,前 に勤 めていた工場 の同僚 たちで, チ ャップ リンにはそれを取 り締 まる気持ちはまっ た くない。 あ るいは, それ と知 らず偶然赤旗 を もって労 働者 のデモ隊 の先頭 に立 って行進 して しま う姿 は,労働 者 に対す る親近感 に満 ちてい る。 しか し,労働者 に対す る親近感 に も拘 わ らず, チ ャップ リンは決 して彼 らの集 団 のなかに自 らの居場所 を求 めよ うとは しない。 チ ャッ プ リンの人間 に対す る関係 は,純粋 に個人主義的である。彼 の日差 しはつね に個人 としての人間 にむ け られ,決 し
て集団や組織‑ とはむかわない。 チ ャップ リンに とって は, それがいかなる もので も組織 は個人 の 自由を何 らか の形 で制限す るものだか らだ。 チ ャップ リンは冒頭 の字 幕で,この映画 は「人間性 による個人 の幸福 の追求」の物 語であると明瞭 に述べている (傍点 は引用者 に よ る ;原 文 で は次 の とお り :
As t or yofi ndus t r y,ofi ndi vi dual e nt e r pr l S e‑ humanl t y C r uS adi ng i n t hepur s ui tof happi ne s s )
。 ここに, メ トロポ リスの フ レダーの人間 に 対す る関係 との本質的な相違 が見えて くる。 チ ャ ップ リ ンが まず 自分 とい う個人 の 自由 と幸福 のために闘 う一方 で, フ レダーは一群 の労働者 (人間), 強 いて言 え ば概 念 と しての労働者 (人間) に自由を与 えよ うと して闘 う のであ る。逆 に言 えば, メ トロポ リスの労働者 はひたす ら自由 と幸福 を与 えて くれ る善 き権力 ‑権威 を待望す る だ けで, そ こにはチ ャップ リンのよ うに自分個人 の幸福 を追求す る姿 は認 め られない。労働 を拒否 す るラデ ィカルな 自由人 チ ャップ リンの闘 いは, その個人主義的性格 が故 に本質 的 に孤 独 で あ る。
徹底 した個人主義者 チ ャップ リンは幸福であるために自 由を求 め るが, 自由には孤独 がつ きま と うか らで あ る。
しか し, 自分 ひ とりだけの幸福,孤独 な幸福 は完全 な も のではない。幸福を他者 と共有 してはじめて,自由人チャッ プ リンは真 に幸福であ ると感 じることができる。つまり, チ ャップ リンの幸福 はひ とを愛す ることであ る。放浪者 チ ャップ リンの完全 な 自由, だがそれ故 に孤独 であ る自 由はあ らゆる制限を拒絶 しよ うとす るが, ただ愛 による 制限だけは受 け入れ ることがで きる。すでに上 で引用 し た 「た とえ働かな くて ほな らな くて も‑‑」 とい う言葉 が示 しているよ うに,身寄 りのない貧 しい労働者 の娘へ の愛 だけが, チ ャップ リンに もう一度働 くこと, つ ま り 自由を制限す ることを決心 させ るのである。
メ トロポ リスの フ レダー も愛故 に闘 うことを決心する。
しか し, フ レダーのマ リア‑ の愛 はチ ャップ リンのそれ とは異 な る。彼 の愛 は生 きたひ とりの対等 な人間への愛 で はな く,支配者 の息子であ ることの心 の苦悩 と罪 を癒 し救済 して くれ る神的な存在への信仰的な愛 であ る。 マ リアは,神が啓示 をたれ るときに送 る天使 のよ うに突然 フ レダーのまえ に現 われ,彼 を地下 の労働者 の世界へ と 導 く。つ ま りフ レダーは,抑圧 されている労働者 たちを 救済す る調停者 と して神 によって選 ばれたのであ る。 マ リアは労働者 に心 の安 らぎを与えるのと同様 に,フレダー には罪 と苦悩 か ら救 われ るた めの試練 を課 した ので あ る。
このよ うに, フ レダーのマ リアに対す る愛 と, マ リア の フ レダー並 びに労働者 に対す る愛 の在 り方 は, チ ャッ プ リンと労働者 の娘 の愛 とは本質的 に異質なものである。
チ ャップ リンと娘 の愛 が 自由で対等 な個人 のあいだに芽
‑4 0
生 えた人間的な愛 であ る一方, マ リアの愛 は神が人間 に 対 して与 え るよ うな施 しの愛 であ り, フ レダー と労働者 のマ リアへの愛 は救済 を求 め る信仰的な愛で ある。愛 の 解釈 に見 られ るこの相違 は, アメ リカ的思考 と戦前 の ド イツ的思考 が如何 に対極 的な関係 にあ ったか とい うこと を象徴的 に物語 っている。前者 が人間の社会 的関係 はあ くまで も対等 な個人 のあいだの信頼 を前提 と した 自由主 義的なっなが りであると解釈す る一方 で,後者 は人間の 社会 的関係 も人間 の神への隷属的関係 と同質 の もの と見 る権威主義 的な世界観 に貫かれていたと言えるのである。
群 れ と して しか映 しだ され ることのないメ トロポ リスの 労働者 たちは,思 い もか けず帝政か ら解放 されて しま っ た ワイマール共和国期 の ドイツ市民 の心 的状況 を代弁 し てい る。彼 らは自 らのアイデ ンテ ィテ ィをそ こに兄 いだ
していた ドイツ帝国の没落 を 目の当た りに して,埋 めが たい喪失感 に囚われて いた。彼 らは, チ ャップ リンとそ のパ ー トナーが ‑ た とえ社会的 に は弱者 で あ るに して もー もっている自立 した個人 と してのアイデ ンティティ を獲得す るには,社会学 的意味 において まだ余 りに も未 熟であ った と言え るのであ る。
4.
善 さ支配者個人 と してのアイデ ンテ ィテ ィを もっ ことの意味など, メ トロポ リスの住人 たちは独裁者 を除 いて は誰 ひ とり知 らない。労働者 たちは抑圧 と支配か ら解放 され るに は, 自分 たちにまず何 が必要 なのか見 当 もつかない。彼 らは 支配 が誰か上 に立 っ ものによ って執行 され るものである の と同 じよ うに,解放 と自由 も誰か上 に立っ ものが施 し て くれ るもの と信 じてい る。彼 らは自 ら支配者 と対決す る代 わ りに, マ リアに心 の慰 問を求 め, マ リアは彼 らの 自立 を 目覚 め させ る代 わ りに,彼 らと支配者 のあいだを 和解 させ る調停者 が現 われ るまでの忍耐 を説 くだけであ る。彼 らには,社会 は自 らの意志 と手 によ って築 くもの であるとい う認識 は少 しもない。 いまの社会 が悪 いのは 支配者 が悪 いか らで,善 さ支配者が現 われれば社会 も善 くな ると考 え る。彼 らのマ リアに対す る精神的な依存 は, 独裁者への社会的隷属 とまった く同質 の意識構造 を もっ ているのである。
個人 と して 自立 した意識 を もたない大衆 をまえに した とき,彼 らは力だ けで抑圧す るよ り,心 を操作す ること によ ってよ り効果的かっ完全 に支配 で きると独裁者 が考 え るのは当然 の帰結であ る。 メ トロポ リスの独裁者 は大 衆 の心 の支配 を実現するために,マ リアの姿を したロボ ッ
トを作 らせ る。 しか しマ リア ・ロボ ッ トは暴走 し, メ ト ロポ リスの動力源であ り労働者 を酷使す る工場 の機械 を 破壊 す るよ うに彼 らを扇動する。労働者の破壊活動 によっ
服部.『モダン・タイムス』と 『メトロポリス』に関する比較文化論的考察 て彼 ら自身 の子供 たちが住 む地下 の町 は洪水 に襲 われ る
が,本物 のマ リアとフ レダーの努力 によ って子供 たちは 救 われ る。 しか し労働者 たちは自分 たちの間違 った判断 を省 み る代 わ りに,扇動 したマ リア ・ロボ ッ トにすべて の責任 と罪 を押 しつ ける。 これが まさに, 自由の前提で あ る自己責任 を放棄 し,他者 に隷属す ること しか知 らな い非 自立的な人間 の姿であ る。 それ は,つ ねに自分 の責 任 の もとに孤軍奮闘す る自由人 チ ャップ リンとは正反対 の価値観 に支配 された,権威主義的人間の姿であるとも 言 え る。
で は抑圧 され る大衆 を助 けよ うとす るフ レダーとマ リ アは,大衆 の権威主義的性格 とは無縁 であろ うか。 もち ろん無縁 であ るはず はない。 フ レダー とマ リアが労働者 たちを独裁者 か ら解放 しよ うとす る試 み は,彼 らに自立 的な 自由への道 を示すに足 る反権威主義的な性格を,まっ た くと言 っていいはどもっていない。 すで に述べたよ う に,労働者 たちが信頼 を寄せ ることがで きた唯一 の人間 であるマ リアは,彼 らの自立‑ の意識 を喚起 し共 に闘 う 可能性 を完全 に放棄 して しま っている。 マ リアが彼 らに 示 し,求 めているのは,賢者であ る自分 の言葉 に耳 を傾 け, ひたす らその言葉 に従 うことであ る。 マ リアの地下 の集会所 は政治的集会 の場 で はな く,神 ‑絶対者への隷 属 を確認す る教会 とまった く同質 の機能を果た している。
マ リアの集会 の場面 が この映画 の本質 との関わ りで特 に 重要 な意味 を もっているのは,大衆が従 うべ き権力 ‑檀 威 が慈悲深 い神で あるのか, あ るいは邪悪 な力であるの か とい う伝導者 の倫理 を問題 に して い るか らで はな く, 大衆 を 自 らの足元 に脆 かせ ることによ って よ り強 い力へ の隷属 を揺 るぎない ものに しよ うとす る権威主義 の本質 を明 らか に してい るか らである。大衆 が隷属す る力が悪 しき力であ るのか,善 き力であ るのか とい う問題 は本質 的に問 う意味がない。重要 なのは大衆が 自 らの意志 と判 断を放棄 して, ひ とつの権威 (マ リア) に盲 目的 に隷属 して いるとい う事実である。だか らこそ独裁者 はマ リア ・ ロボ ッ トを作 らせ,大衆 の支配 を完全 な ものに しよ うと したのであ る。本物 のマ リアによる大 衆 の心 の支配 も, マ リア ・ロボ ッ トによるそれ も,人間個人 の意識 の 自由 を奪 うとい う意味 において は本質的 にま った く同義であ る。 しか るにメ トロポ リスの大衆 は最終的 にマ リア ・ロ ボ ッ トによる支配 に 「悪」 を,本物 のマ リアによる支配 には 「善」 を見 て しま うのであ る。彼 らの近代的個人 と
しての未熟性 は,善 さ力への隷属 は悪 しき力へのそれ と は本質 的 に異質 な ものであ ると見徹 し, 自己以外 の力 に 隷属す ることそれ 自体 の問題性 を見落 と して いるところ にあ る。 マ リアとマ リア ・ロボ ッ トは一枚 の コイ ンの表 と裏であ り,実体 はただ一つなのであ る。
善 さ力 に大衆 を導 いていると確信 してい るマ リア もフ
レダー も, そ して終始他者 に隷属す ること しか知 らない 労働者 たち も,誰 ひ とり自己の 自由を喪失 していること に気づ こうと しない。 だか らこそ彼 らは独裁者 の突然 の 改心 を何 の疑 い もな くナイーフに受 けとめ,和解す るこ とがで きて しま うのであ る。 マ リアの言葉 に促 された調 停者 フ レダーの手 を介 し,独裁者 と労働者 の代表がが っ ち りと手 を振 り合 うラス トの和解 の シー ンは, メ トロポ リスとい う権威主義的社会がいよいよ大 き く完成 に近づ いた ことを不気味 に暗示 している。「表面的には, フレー ダーが彼 の父親 を改心 させたよ うに見 え るので あ るが, 実際 には,実業家がそ の息 子 をだ しぬ いた ので あ る
」 ( 2 )
とクラカウアtが言 うよ うに,権力者 は力 だけによ らな い, まさに心 の操作 を介 しての大衆支配 を完成 させ る可 能性 を手 にいれたのであ る。 ラス トシー ンにお いて も, 労働者 たちはいまだに一群 の集団 と して装飾 的 に映 しだ
されている。 その隊列 は映画 の冒頭 の シー ンの打 ちひ し がれた無力な隊列 とは異 な り,見事 に均整 の とれた秩序 の力強 さが瀧 ってい る。 まさに,強固な権威主義 に支 え られた全体主義 の秩序 であ る。 そ して, この映画 の数年 級, ドイ ツが現実 にメ トロポ リスの全体主義 を完成 させ た事実 を考 え ると, ここに展開 して いる権威主義 のメカ ニズムが如何 に ドイツ社会 の深層 に根づ いていたか とい うことが察せ られ る。
おわ りに
以上
,
『メ トロポ リス』が第二帝 政期 か らワイマ ール 共和国期 の現実 の近代 ドイツ社会 および ドイツ人 の権威 主義的意識 の具象的映像であ り, その一方 で 『モダ ン ・タイムス』 は自由主義 に基盤 をおいた機械文明社会 の人 間疎外 と, それに対 す る個人 の抵抗 の物語 であ るとい う ことを示 した。 いずれ も近代文明が もた らした人間支配 に対す る人間の反抗 と可能性 を映 しだそ うと しているも のの,両者 の向か う方 向 はほとん ど逆方 向であ るとさえ 言 え ることもわか った。 メ トロポ リスの人間たちが, 自 由を求 めて権力 と闘 っているに も拘 わ らず 自由の喪失 を 決定づ ける権威主義 の呪縛 か ら一歩 も抜 け出せ ないでい るのに反 して,「人間の機械化」 に対 して抵 抗 し自由 を 守 ろ うとす るチ ャップ リンの闘 いは, あ くまで も 「自由 な個人」 であ り続 けることだけに収赦 して いる。 そのた めチ ャップ リンの闘 いは,資本主義体制 にあ って は極端 に ラデ ィカルな戦法 を とって いる。 それ は,最低限の糧 を得 る以上 には労働 しない とい うことであ り,社会的成 功 や エスタブ リッシュメ ン トを求 めた り, ま してや メ ト
ロポ リスの人間たちのよ うに権力 との和解 など決 して求 めない とい うことである。権力 とのみせか けの和解 は も とよ り, どのよ うな ものであれ組織 の構成員 となること
で さえ, 自由人 チ ャップ リンにとっては個人の自由の制 限を意味 している。 この意味で, チ ャップ リンはラデ ィ カルな個人主義者であ り, 自由主義者 で あ ると言 え る。
とはいえ, チ ャップ リンが 自由な他者 との協調性を欠 き, 破壊性を身 にまとったニ ヒリス トでないことは明白であ
る。 なぜな ら,愛だけは彼の自由を制 限 しうるか らだ。
さらに言えば,愛 によぅて自由はよ り完全なものになる。
つま り, チ ャップ リンは他者を愛す ることによっては じ めて, 自由を他者 と共有す ることがで きると信 じている のである。権威主義か ら自 らを解放 し, 自由を勝 ち取 っ た近代的個人が陥 った孤独 と無力感を, チ ャップ リンは 愛 によって克服 しようとしているとも言える。愛す る娘
との生活を保障するかにみえた レス トランでの仕事をチャッ プ リンも娘 も共 に失 って しまうが,二人 には愛 と自由が 残 されている。丘 の向 こうまでまっす ぐ続 いている一本 の道を,手 と手を取 り合 って歩 いてい く二人 を映 しだす ラス トシー ン。「負 けるもんか !」 とい う毅然 と した娘 の表情 を, チ ャップ リンは優 しく微笑みに変え る。 それ は彼 らの闘 いがただ暗 く厳 しい ものではな く, 自由 とい う明 るい希望 にまっす ぐ向か ってい くことを確信 してい る微笑みである。
チ ャップ リンの確信 は,確かに現実 には容易 く実現で きるものではない。 しか しそ こには,権威主義 のまえに 屈服 して しまったメ トロポ リスの人間たちにはない個人 としての人間の自由への意志 と希望がある。 チ ャップ リ ンが求める自由 とは, フロムの言葉を借 りれば 「積極的 な自由」(31とい うことになる。 フロムによれば 「積極 的 な自由」 とは
,
「自由であ りなが ら孤独 で はな く, 批判 的であ りなが ら懐疑 にみたされず,独立 していなが ら人 類の全体を構成す る部分 として存在で きる」 ような人間 の内的状態であ り,それは 「全的統一的なパースナ リティ の自発的な行為の うちに存す る」のである。 (47しか し,近代 における自由主義 と権威主義 は単純 な対 立概念 として存在す るのではない。 自由 と権威の内的関 係 はよ り複雑 な様相を示 している。 フロムの理論 による と以下のようになる。宗教改革 によって伝統的権威 (つ ま りカ トリック教会の権威を背景 に した諸 々の中世的支 配構造) の外的束縛か ら解放 された近代的個人 は,信仰 において見せかけの自由を獲得す るが,一方では教会の 権威 と支えを失 った結果,孤独 と無力感そ して救済への 不安 に襲われ る。 さ らに科学 と資本主義の発展 は,個人 によ り強い独立 の感情,つま り自律的かつ批判的な態度 を芽生えさせ るが,その一方では生産機構への依存を強 化す ることになる。個人 は自由な競争 にさらされ ること でますます孤立 し,失敗への不安 は増大す る。 このよう に,労働 において も人間 は自らの営みの主人ではな くな り
,
「資本が人間の主人 とな った」(5)。 社会 にお け る行動の自由を拡大 した人間 は, その代償 として共同体への連 帯感 と労働 の自律性を失 い, 自 らを孤独で無力な存在 と 見倣 さざるを得 な くなって しまった。 こうした人間の内 的状況 は,資本主義が発展すればす るほど危機感が増大 し,機械化が飛躍的に進む
1 9
世紀後半か ら2 0
世紀初頭 に かけて最初の危機的 ピークを迎え るのである。 チ ャップ リンやメ トロポ リスの人間たちは, まさにこの危機的な 内的状況 に置かれていると言え る。孤独 と無力感 をまえに したとき,人間がその原因であ る外的な自由に対 して示す反応 にはい くつかの類型があ るとフロムは考 え る。一つ は,孤独 と孤立の感情 に襲わ れた個人 は疑 い と不安 に耐え きれな くな り
,
「新 しい服 従 と強制的な非合理な活動」(6)へか りたて られ ることで ある。 これが権威主義であ り,
「権威主義 的思考 に共通 の特質 は,人生が, 自分 自身やかれの関心や,かれの希 望を こえた力 によって決定 されているという確信である。残 されたただ一つの幸福 は, この力に服従す ることにあ る」。〔7)メ トロポ リスの人間たちは労働者 もマ リア も, そ して フレダー もみなこの権威主義的思考 の枠のなかで 自 由 と幸福 の夢をみているのである。 あるいは別の個人 は, 自分であることをやめることで孤独 と不安か ら逃れよう とす る。彼 は 「他のすべてのひとびととまった く同 じよ うな, また他のひとびとがかれに期待す るような状態 に な りきって しま う」。(8)こうして彼 は 「個人的 な 自己をす てて自動人形 とな り,周囲の何百万 とい うはかの自動人 形 と同一 とな った人間 は, もはや孤独や不安 を感ず る必 要 はない。 しか し,かれの払 う代価 は高価である。すな わち自己の喪失 である」。(9)これは,資本主義 が極度 に発 展 したまさに 「モダン ・タイムス」 に生 きる多 くの正常
●
なひとびとの内的状況 で あ る と言 え る。 「自動人形化」
とはいわば自己が 「匿名の権威」dO,たとえば社会的成功 や富の形成 とい った 「常識」 に内的に呪縛 されているこ とに気づかず, あたか も自由な個人 として生 きていると 錯覚 している状況を意味 している。 チ ャップ リンの反抗
はこうした自己の 「自動人形化」 を意識化 し,真 に自由 な個人へ と近づ こうとす る営 みで あ る。 これが上記 の
「積極的な自由」 の意味す るところで もある。
以上見て きたように,宗教改革以来 の ドイツの権威主 義的思考が近代 ドイツ社会 と人間を も呪縛 し続 け, それ が最 も完成 された権威主義的社会であるナチス体制 を準 備す る内的要因であ った ことを
,
『メ トロポ リス』 が映 しだ していることが明 らかにな った。一方で は, 自由競 争を基盤 とす る自由主義的な資本主義社会が,実 は人間 の内的な自由を うば う危険性 の うえに成 り立 っていると いうことを 『モ ダン ・タイムス』が明 らかに しているこ ともわか った。 いずれの状況 も,個人の自由が高度 に発 達 した資本主義的文明社会 において危機 にさ らされてい‑ 4 2‑
服部 .『モダン・タイムス』と 『メトロポリス』に関する比較文化論的考察 ることを示 している。個人 は近代社会 における孤独 と不
安か ら目を背 けるため,片 や新 たな強 い権威 に積極 的に 服従 し,片 や 「匿名 の権威」 に誘導 されて 自己を喪失す る。 これが, フロムの言葉 を借 りれば 「自由か らの逃走」
とい うことにな る。外 的な束縛 か ら解放 された近代的個 人 はつね に, このよ うに内在 的 に自由を喪失 して しま う 危機 にさ らされている。 しか し, これ は個人 に与え られ た変 えよ うのない運命 なのであろ うか。 チ ャップ リンの 反抗 は, まさに この問 いに対す る回答 を観客 に与 え よ う と している。 チ ャップ リンはあ くまで も
,
「空虚 な殻 に な って しま った個人主 義」n山を も う一 度 あ るべ き姿 に取 り戻 し, 自己を確立 しよ うと闘 って いるのであ る。 この よ うに,『モ ダ ン ・タイムス』 にお け るチ ャ ップ リンが 徹底 した個人主義 を基盤 に して 自由を求 め る個人 を表現 す る一方 で,『メ トロポ リス』 は全体 主義 社 会 の内的 メ カニズムを人間の権威主義 への屈服 と自由の放棄 の物語 りとして描 いているとい う意味で, この二つの映画 は20
世紀前半 にお けるデモ クラシーとファシズムの本質 を明らか に しているといえ る。最後 に もう一度 フロムの言葉 を借 りれば
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「デモ クラシーは個人 の完全 な発展 に資 す る経済的政治的諸条件 を創 りだす組織 であ る。 フ ァシズ ムはどのよ うな名 の もとに しろ,個人 を外的な 目的 に従 属 させ,純粋 な個性 の発展 を弱 め る組織」qaなのであ る。ナチや軍国主義 日本 のよ うな強力 な フ ァシズムは消滅 し た ものの,個人 の自由を抑圧 す るフ ァシズム的 な力 はい まで も世界 のいた るところに存在す る。見せか けだけの 自由主義社会で はない真 のデモクラシーを打 ち立 て るこ との重要性 と難 しさを訴 えている 『モ ダ ン ・タイ ム ス』
と 『メ トロポ リス』 は,今 日で もそのアクチ ャ リテ ィー を失 って いない。
注
(1) ジークフリー ト・クラカウアー :『カリガ リか らヒトラー へ