奈良教育大学学術リポジトリNEAR
日本語とベンガル語 −比較文化的視野での一考察
−
著者 頓宮 勝
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 41
号 1
ページ 237‑247
発行年 1992‑11‑25
その他のタイトル Japanese and Bengali −A Study of the Two Languages from the Viewpoint of Comparative Culture−
URL http://hdl.handle.net/10105/1761
日本語とベンガル語
一比較文化的視野での一考察‑
頓 宮 勝 (奈良教育大学言語・文化教室)
(平成4年4月30日受理)
I 前 提
人類の築き上げてきた文化・文明を考察する場合には色々な観点があるが、筆者なりの基礎的 な作業はすでに済ませている(1)。そこで述べた、ある環境における「食」と「思考法」に関して、
様々な面からさらに詳論を重ねなければならないが、ここでは後者の一側面を日本語とベンガル 語(2)の対照により考えてみる。牧野成一は、ことばと思考の型が切っても切れない関係にあると いうサピア・ウォルフ説に立ち、 「比較文化論の基礎としても、言語学の分析としても、語順が いかに伝達方法を規定するかの研究は必要である」(3)という。金田一春彦は、朝鮮語などの東洋 語やヒンディー語などのヨーロッパ語と同系統の例を挙げ、日本語の語順は世界の言語の中で、
ごく平凡な語順であるという(4)。筆者自身、語順の基本的な重要性について触れたことがある(5)。
従って、以下において、印欧語の一つをその先祖に持つベンガル語の、語順をはじめいくつかの 文法事項と、日本語のそれを対照し、今後の論考の一助にするつもりである。
S^E] 臼
(1)語 順
一般的にいってベンガル語と日本語の語順は、単文と重文ではほぼ同じである。いわゆる SOV型に属し、またその語順もあまり厳しいものではない(以下の引用文では、ベンガル語と
日本語の各単語は対応している)0 (a)平叙文
えmi skul一里 yえyI 私は 学校に 行きます。
eは(母音の後ではyまたはte)場所を示し、日本語の「に」、 「へ」 「で」に相当する。また は縦線はピリオドとして用いられる。
ベンガル語の動詞は人称変化するので、人称代名詞(6)を省略しても理解に支障をきたすことは あまりない。事実、会話では代名詞が落とされることは珍しくはない。
(b)否定文
ami aj skule yai na l 私は 今日 学校に 行き ません。
否定詞naは文の最後に置かれ、 aj等の副詞は普通主語の後ろに置かれるが、岳j amiの形も 良く使われる。
云pani 菖iksak nan あなたは 先生では ありません。
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頓 宮 勝「AはBではない。」の場合、否定辞と一体となった動詞na+JE丘oyaが使われる。
(c)疑問文
tumi (1) c丘(2) kh丘o (3) 君は お茶を 飲みますか。
「か」に相当するkiは通常(1)の位置に置かれるが、 (2)、 (3)の位置に置くことも可能 である。また、 kiは「何が、を」の意味でも使われ、さらに、特に強調する時や疑問詞疑問文 であることを明確にする時はkiとなり発音もkiより少し長くなる。従って、 "tumi ki (k王) khao"は会話ではその状況に応じて、 「食べる?」または「何(杏)食べる?」のどちらであるか
を判断しなければならない。
apani kothay. (kena) yacchen あなたは どこへ(なぜ)行きますか?
疑問詞は通常主語の後ろに置かれる. yは先程述べた位置格であるから、 kothayは「どこに、
どこへ、どこで」の意味で使われる。
(d)複 文
ベンガル語は印欧語に属す言語なので、関係代名詞や従属接続詞が使われる複文では、 OVの 原則を守りながら、主文、副文それぞれにおいて、関係代名詞等は文の先頭または主語の後ろに 挿入される。
yakhan ami bandhu十r b叫i (‑te) giyechilam, takhan (五mi) baita dekhechilam
時 友人の 家に 行った その時 その本を 見た。
yakhan ‑, takhan‑‑When‑, then 。人称代名詞は動詞語尾で分かるので、省略される ことがあると述べたが、複文の場合どちらかの文で省略されることが、特に会話では多い。また、
副文が英語などのように後ろにくることは、特別な場合を除いては稀である。
ekhane yelok ase, se (lok) amar bhai 1
ここに その人が 来る その人は 私の 弟(です)。
関係代名詞が用いられる文では、英語のwhoに相当するyeと先行詞に相当するse (lok)は 必ずこの順序で現れる。
amijani(ye)seasbe 私は 知っています(こと)彼が 来る。
英語の I knowthat‑ ‑相当する文では、上記の語順のようになるが、口語では、 seas‑
beseta (‑そのことを)如nij色niという形もしばしば耳にする。
(2)指示詞
ベンガル語の指示詞の基体は、 e,0,0 (se), kon である。
e‑ta o‑ta o‑ta (seta) kon‑ta
これは(杏)それは(を)あれは(杏) どれ(香)
seは人称代名詞として、 「彼、彼女」の主格で使われるのが普通で、指示詞として使われる時 は、 E]に見えない所にあるものを指す。
e‑i o‑i o‑i k on
この その あの どの
iはそれが付加される語を強調する時に用いられる接尾辞であるが、 konを除く指示詞の基体 について指示形容詞となる。
e‑taki これは 何ですか e‑ijinis‑taki この 物は 何ですか。
e‑tadeben これを 下さい e‑ibai‑tadeben この 本を 下さい。
場所を表す指示詞は次のように構成される。
e‑khan o‑khan kon‑khえn (kothえy)
」」 あそこ どこ
「ここ旦」などを表すときは、 ekhan‑e等のように場所を表す接尾辞Ieが付く khan >
sthana (Skt)で「場所」の意であるが、単独で用いられることはない。
e‑dik o‑dik kon‑dik
こちら[あ、そ]ちら どちら
dik>di岳(Skt) 「方向」の意. 「こちらに」の意で用いる場合は、 Ieを付加し、 e‑dikeとな る。
e‑khan ta‑khan ka‑khan
この時(今) その時 どの時(いっ)
khan >k亨ana (Skt) 「瞬間」の意 ta‑khan>taLk§ana、 tatは「その」を意味するサンク リット語。 ka‑khanはtakhanにあわせて作られたもので、 kon k亨aneで同義となるが、これ は古い形である。
その他、 e,Oが単独で用いられると「この人」、 「あの人」を表し、それぞれに接尾辞‑ke,‑r を付けて目的格、所有格が形成される。また、 keは「誰が」の意で、 ka‑ke, ka‑rという格を 持っ。
以上のことから、日本語の所有を表す助詞「の」、目的を表す「を」、 「に」、場所を表す「に」
等に相当するものとして、ベンガル語の接尾辞ィ,‑ke,‑eを対照させることができる。
(3)後置詞
sov型の言語が動詞と名詞の関係を示す場合、後置詞を取る(7)。すなわち、その必要に応じ てⅤ+0の場合には+の位置の品詞は前置詞となり、 0+Ⅴの場合には+の位置の品詞は後置詞 となるのが自然である。後者に属すベンガル語もこの例にもれず、多くの後置詞を持ち、一般的 には名詞の所有格+後置詞の形を取る。
ei desk‑er upar‑e ki ache
この 机 の 上 に 何が ありますか。
badiィ bhitar‑e ke ache(‑n)
家 の 中 に 誰が いますか。
ache は γ信ch >ノ云S 「存在する」で、 「ある」、 「いる」の意味で使われる動詞である。一 方、数は多くはないが名詞の所有格を取らない後置詞も存在する(8)。
ekhan theke apanar b叫i paryanta kata dur。 I
ここ から あなたの家 まで どれくらい 遠い(です)か。
theke 「から」やparyanta 「まで」の前では、名詞は所有格にはならない。
ベンガル語の、名詞の所有格+後置詞(‑名詞+‑e)の形は、日本語の、名詞(+の) +名詞 +助詞にはぼ対応するものと言える。さらに興味深いのは次のような対応点である。
岳pani ekhane 畠sa‑r age kothay cilen
あなたは ここに 来る 前 どこに いましたか。
ノ盲Sの動名詞形に所有を表す接尾辞を付加した形であるasa+r 「来ることの」に豆g 「前」の 位置格を付加し、 「来る前に」と表現される0)。同様に、 samay 「時」 +‑e、 par 「後」 +‑eを
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頓 宮 勝使って、 「来るとき」、 「来る前・後」のように使われる。日本語と異なるのは、云S岳はあくまで も名詞(10)として扱われる点である。従って時制はもたず、後置詞は「来ること」の前か後かを示 すだけであり、動名詞の時制は本動詞の時制で判断される(ll)。
この後置詞に関連して、ベンガル語には「持っ」に相当する動詞が存在しないことが注目され る。
tomえ‑r (kach‑e) ka jan chele ache
君 の(そばに)何 人 子供が ありますか。
kach‑e は「そば・に」のいみであるが、省略されることが多い。この場合、 tom畠r「君の」
は、 「君に(とって)は」というDative like Genitive (与格の意味で使われる所有格)の働き をするといってよい。この文章の場合日本語でも「私は子供を持っています。」とは言わないか ら、ベンガル語のこの所有格は日本語の「〜 (に)」に相当するとも言える。 (このような所有格 の用法は後にも若干述べる。)
従って、 「私はお金を持っています。」および「私にはお金があります」といった二つの文は、
amar (kache) takaacheというように同じ表現をとることになるo
(4)形容詞・副詞
両言語に共通している点は、比較級、最上級を持たないことである。
se amar ceye lamb豆 se (tinjanermadhye) savaceye lambえl
彼は 私 より(背が)高い。彼は(三人の中で) 一番 (背が)高い。
sava ceyeの原義は「全てより」である。ベンガル語の文語ではサンスクリット起源の比較 級・最上級を表す接尾辞‑tara,一tamaを形容詞に付加することもあるが、口語ではほとんど使
われることはない。
色を表す形容詞は、 1畠1‑赤い、 nil‑青い、 ka1a‑黒い、 sada‑白い等はそのままで名詞の前 に置かれるが、他の色はrah 「色」という名詞を伴い、 bad豆mi rarトer 「茶・色・の」、 haldi ra‑
n‑er 「黄・色・の」等のような形で使われる点で、両言語に共通性が伺われる。
副詞の性質で両言語に類似している点は、擬声(管)語が発達していることである。ベンガル 語のオノマトペは形態上次の三つに分類される。
I.一語で使われるもの cat 「がちゃん」、 tup 「ポトリ」、 dun 「どしん」、 dadam 「ぱたん」
など。このうちtupは母音交替によりtap 「ポタリ」、 tuptap 「ポタポタ」などのように使われ ることもある。
II.同じ音を繰り返すもので数が一番多い。 khatkhat 「トントン」、 gadgad 「ごろごろ(転が す)、わいわい(騒ぐ)」、 kalkal 「さらさら」など。
Ⅲ Ⅱと同様に繰り返しによるが、 Iで触れたtuptapのように二番目の母音または子音が変わ るもの kicirmicir 「鳥の鳴き声」、 jhakmak 「きらきら」、 tagvag 「ぶつぶつ」、 tapurtupur
「ばらばら」など。
ベンガル語では動詞kara 「する」の完了分詞(後述) kare 「〜して」を名詞、形容詞の後ろ に付けて、副詞を作ることがある。 bhala 「良い」 kare‑ 「良く、うまく」、 jor 「強さ」 kare‑
「強く」、 cup 「沈黙」 kare‑ 「黙って」などがそうである。従って、オノマトペは単独で用いら れるものもあるが、多くはこのkareを伴い「〜と」として使われる。
vr苧ti jhamjh丘m kareparche 雨が ざあざあ と 降っている.
またjhakmake sona 「明るく輝く金」のように、オノマトペが位置格を取り形容詞の働き杏 することもある。
このようにオノマトペ自体の母音、子音の比較による日本語とベンガル語の対照も興味深いも のであるが、この小論の直接の目的ではないので別稿で扱うことにする。
(5)動 詞
ベンガル語の助詞は五種類の人称変化(8)を持ち、時制も六種あるなどの点で一見日本語との類 似点は無いように思える。しかし動詞の用法の中には日本人が理解しやすいものがいくつかある ので、ここではそれについて述べることにする。
ベンガル語の動詞の形態の中に、完了分詞といわれるものがある。その形は、動詞語根+ e/i‑
ra (文語)で、 kar 「する」の場合、 kar+e/iyえ‑kare又はkariyaとなる。この分詞は現代ベ ンガル語の現在・過去完了形を形成するのに使われる一方、単独でも使われ、 「〜して(から)」
の意味で使われる。
現代ベンガル語(口語)三人称の現在および過去完了形はそれぞれkarechi, karechilaであり、
それに対応する文語形はkariyache, kariyachilaである。この形を歴史的に見れば、 kariya+
ache (ycic 「ある、いる」の三人称現在)および、 kariy畠+chila (ノ古Cの三人称過去)である。
すなわち、前者は「〜して(しまって)いる‑〜したところだ」、後者は「〜して(しまって) いた‑〜したところだった」という意味である。現代では両者とも「〜した」と訳せばよいが、
このような歴史的背景を理解すれば、ベンガル語の次のような表現が少なくとも理解しやすくな る。
se laljamaparechi (pariyache) 彼は 赤い 服を 着た。
se laljamapare (pariya) ache 彼は 赤い 服を 着て います.
動詞 ノ示ar 「着る」は、その完了分詞とV塙Cが結合した形で完了形となり、分離したままで は現在形となっている。後者は日本語で補助動詞「いる」を使って「状態の継続を」表す表現に 類似したものであると考えられる。
さらにこの完了分詞が文中で単独に用いられる場合には、日本語の完了を表す助動詞「つ」の 連用形である「て」と類似した意味をもつことが多い。
mdkh dhuye bhat kheye heriite skule giyechilaam
顔を 洗って ごはんを 食べて 歩いて 学校へ 行きました。
先に触れたように、ある種の動詞(kar,孟「する」やdeoy丘「与える」など)の完了分詞は、
名詞や形容詞とともに使われることで慣用化し、副詞として使われている。
man 「心」 dive 「与えて」 ‑心をこめて‑一生懸命に k王「何を」 kare 「して」 ‑どうして、などがその例である。
さらにこの完了分詞がある種の動詞と結びつき、複合動詞を形成することがある。この場合、
後の本動詞が意味を残している場合と、意味を失い前の完了分詞の意味を強調している場合の二 つに分けられるのであるが、そのいくつかは日本語の表矧こ似通っている。
+dekha 「見る」 : 「〜してみるo」
et豆 kheyedekho はれを 食べて みなさい。
eikajtakaredekhi ‖二の 仕事を して みます。
+phel岳(withvt.) 「投げる」、 +pa申(withvi.) 「落ちる」 :〜してしまう」
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l姐'r^V 梼sesabkheyepheleche 彼は 全部 食べて しまった.
t畠kebalephelechi 彼に(うっかり)言って しまった.
cheletighumiyepa中eche 子供は 眠って しまった。
+yaoy.a 「行く」、 +asa 「来る」 : 「〜て行く、来る」
ektudekheasi 】ちょっと 見て 来ます。
baitiniyeyao 本を 持って 行きなさい。
yaoyaには多くの意味があり、前に来る完了分詞によりその内容が多岐に渡るので注意が必 要である。 ex.mare 「死んで」 y岳be 「行くだろう」 ‑死んでしまうだろう。
haye 「生じて」 geche 「行った」 ‑生じてしまった‑出来た。
+rakha 「置く、保っ」 : 「〜しておく」の意味になるが、この場合、動詞の意味が生きている ので、 「準備運動をしておく」というような、実際にあるものを「置く」状態にできない抽象的 な意味とは対応しない。
kajtikarer岳khba 仕事を して おきます。
tumibaitikinerakhbe 君は その本を 買って おきなさい。
sejanala khule rekheche 彼は 窓を開けておいた。
+deoyえ「与える」 :この表現は前の動詞の意味を強めるものとされるが、一部日本語の「〜
てあげる・くれる」と訳した方がわかりやすい場合がある。
ami torn畠ke ei baiti diye deba
私は 君に この 本を 与え(て 与え)る。 (強調)‑与えてあげる。
diveはdeoyaの完了分詞で、 debaはこの動詞の一人称の未来形。
apam 五mえke ei baiti diye deben
あなたは 私に この 本を 与え(て 与え)る。 (強調)‑与えてくれる。
debenはdeoyaの尊敬の二人称の未来形。上の両文ともE]本語では、 ( )内の「与え」を訳 す必要はない。さらに、この動詞が他の動詞の完了分しとともに使われた場合、一人称で使われ ると、 「〜てあげる」、二・三人称で使われると、 「〜てくれる」という訳が可能であることが多 い。
ami (apanar janya) ei baiti pade deba 私は(あなたの ために)この 本を 読んで あげる。
apani (amar janya) kathえt云 bujhiye deben
あなたは(私の ために) その話を 説明して ください。
この動詞deoyaは本来の意味である「与える」の意味を残している。従って、行為は常に相 当の為になされれ、その相当は行為の結果を「与えられたものとして」直接享受することになる から、どのような動詞とも使えるわけではない。またある種の状況では使えない動詞もある。す なわち、 「(あなたの代わりに)彼に言ってあげます。」や「食べてあげましょうか。」や「走って くれませんか。」などの文章で使われる、 「あげる」、 「くれる」とは対応しない。また、本来の目 的をはずされた行為とともに使われる場合には、 「〜し(てくれ)たのか。」、 「〜し(てやっ)た よ。」のように強調の意味が加わると考えられる。
tumi kena baiti chede diyeccha
娘は どうして 本を 破っ(て) (くれ)たのか。
ami tar baii cherhde diyecchi
私は 彼の 本を 破っ(て) (やっ)たよ。
deoyaと対をなすneya 「受ける」複合動詞の本動詞として使われるが、この場合も原意は 残っているので、完了分詞の行為が主語のためになされるのを強め、 「〜して自分のものにする」
という意味になる。
khao 「食べなさい」 ‑kheyenao 「食べて(自分のものにして)しまいなさい」
このようにdeoy員は日本語の「あげる」、 「くれる」と一部対応するのであるが、常に"give の 意味範囲の中にとどまっているo このことはdeoyaが不定詞と結びつき、許可の意味を表す場 合にもあてはまる。
ベンガル語の不定詞は、古典期にroot+i‑ノ盲ar+iで動名詞(1功となり、それに位置格を表す 接尾辞teが付加されたものだと説明されている(14)。すなわち、 V仮ar‑kar‑i‑te(lsl (文語) ‑ karte (口語)となり、その意味は「〜することにおいて/関して」である。従って英語などの 不定詞とは異なり、名詞用法として主格になるとか、形容詞用法として使われることはなく、そ の場合は先に述べた動名詞karaが使われる.
この不定詞はいくつかの動詞と結びっき熟語を形成するのであるが、その場合には常に名詞
「〜すること」の位置格と考えれば、日本語の可能を表す表現「〜することが」にベンガル語の 不定詞karte 「〜することにおいて」が対応すると理解すればよい。
① kartepar色「〜することにおいて/〜することが可能である」 ‑ 「〜できる」
② kartelaga" 「〜することにおいて/〜することを始める」 ‑ 「〜し始める」
③ kartechaoya「〜することにおいて/することを欲する」 ‑ 「〜したい」
④ kartehaoya 「〜することにおいて/〜することが生じる」 ‑ 「〜しなければならない」
④の場合動詞の主体は与格で表される。
amake yete habe "
私に関しては行くことにおいて(ことが)生じるであろう‑私は行かなければなりません。
⑤kartedeoy畠「〜することにおいて/することを与える」 ‑ 「許可する」
ami oke balite deba
私は 彼に(関して)言うことにおいて(機会を)与える。
以上、語順を始めとする数項目において日本語とベンガル語を対照し検討してきた。ここに例 示した構文以外においても、両言語の語順はほぼ同じである。しかし、その思考法の現れの一つ である、文化面においては大いに異なっている。すなわち、印欧語族から派生したベンガル人の 文化は、個人の重視、自己主張の肯定を核として築かれたものであり、空間把握の例として牧野 が挙げた「家の構造」も、ベンガルのそれはアメリカ型に近いのである。この相違を生み出した 要因は、もちろん、一つではありえないであろうし、またその一つに「ことば」を数えても間違 いではないと恩う。ただ、日本語とベンガル語の場合はそれが少なくとも語順にはないのであ る(18)。
Ⅲ 仮 説
文化は、ある環境に暮らす人々が、その環境といかに関係してきたか、換言すれば、いかにそ の環境の下に生かされ(食資源)、いかにその環境を理解しようとしてきたか(素朴な信仰)杏 多分に反映している。牧野は空間構成と言葉の関連性に注目し、まず空間の使用法と語順という
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頓 宮 勝観点から日米の比較をし、前者を閉鎖的、後者を開放的と見た。筑波常治は、筆者と視線は異な るが、自然と宗教・食の問題を論じ、日欧の比較をしている(19)。さらに、木村尚三郎は「動の自 然(森)」との戦いの中にヨーロッパ中世から近世を考え、 「静の自然」と共存している日本との 違いを示す(20)。このように、自然(環境)と文化(思考法や食)を論じる人は多い(20。筆者もそ の一人で、 Iで触れたようにすでにその基礎的な作業については述べた。ここでは、それを前提 にして、ことばと思考法の一側面を、 Ⅱで例示した日本語を参考に少し考えてみる。
ことばを比較・対照するには色々な方法がある。この小論で扱った、語順による比較もその一 例であるが、その前に比べられることばの性格を知る必要があるのではないだろうか。ことばの 性格といっても漠然としたものであるが、筆者はここでは二つの点を指摘してみる。
まず、そのことばの人称を表す仕組み、すなわち対人関係をどのように表現しているかである。
ami‑, tumi‑のように人称代名詞をもつことばはそれを抽象的に、換言すれば、ある発話の場面 で発議者が対等の立場であることを前提にして、表示する。人称代名詞に対して意識の薄いこと ば、例えば日本語では、それを具体的な「語」である、 「私」、 「僕」などで表現するか、特別な 形である敬語「体」などで示す。従って、対人関係の明らかでない、すなわち初めて会う人との 会話には緊張感が伴いがちである。
次に、そのことばがそのまま書きことばにも、話しことばにも用いられるかどうかである。ベ ンガル語ではその点ほとんど差がないがa、外山滋比古が指摘しているように(刀)、日本語ではそ の差が著しい。例文で挙げた、 「私はあなたにこの本をあげます/あげる」などの表現は、口語 では発話場面の状況に応じて、 「(私は)(あなたに)この本(を)あげる.)よ/ね/から/の‑
2)」を基本形恥にして、下線部1)と2)の間に助動詞などが介在する。 i)の部分は事実の表 現であり、どの言語にも共通するものであるが、 2)の部分は発話者の情緒の表現であるととも に、その事実の所属者を示すという意味での人称表現(25)でもあり、どの言語にも共通するもので はない。
牧野の鋭く指摘した空間把握の相違は、 「語順」にもよるであろうが、人称意識の強弱にもよ るのではないだろうか。人称意識の強さは、ある空間(環境)における自分の立場や責任の所在 を、他者に対して明確にさせる。それ故、論理的であろうとし、また自分の手の内をある程度ま でみせなければならない。従って、別の空間に移動したり、初めての人に会っても、自己を見失 うことはそれほどない。つまり、自己を定点に固定し、自己主張の延長上に相手世界と対略し、
"I told you yesterday."や"ami kalke tomake bolechi"等の表現をする社会では、 I/amiが中 心に据えられ事実や状態などが述べられるO また自分が主格の位置にない場合でも、客観的にじ ぶんの立脚点が把握される。従って、討論や討議が活発に行われ、演説などの自己主張が重視さ れることになる。
一方、人称意識が希薄になればなるほど、自分の立場は相対的なものとなる。従って、強く意 識された自我が解放される空間は、丁寧語の必要のない、慣れ親しんだ「集団」内に限られるこ とが多くなるし、責任は「集団」の名において取られることにもなるO そのような視点を自由に 移動させ(20、自己を表面上消すことにより、相手世界と協力していく社会では、自己主張は好ま
れない。従って、上記の文の内容は、仲間うちでは気楽に、 「昨日(君に)言った」 (事実) +
「よ/ね/よね/けど‑」 (情緒)と表現されるが、その外では対人関係により表現に苦しむこと になる。
ある文化はその文化を育んだ民族の思考法を色々な形で反映する。また、その思考法はことば
によって表されることもある。さらに、思考法は環境に大きく影響されるし、他民族との直接・
間接的な接触にも影響を受ける。従って、日本文化を論じたり、それを他の文化と比較するには、
ことば、思考法(広義の宗教)、そしてそれを生み出した環境に関して、さらに多くの作業が必 要であり、筆者は今後も様々な面から考察を重ねていこうと思う。
注
(1) 「間合いのことばと生活」 『日本語・日本文化』 16号1990大阪外国語大学、 「ことばの構造と文化」 『奈 良教育大学紀要』第39巻第1号1990。
(2)ベンガル語は印欧語に属し、現在インドの西ベンガル州とバングラデーシュで、一億人以上の人に話さ れており、ロビンドロナ‑トゥ・タゴールがノーベル文学賞を受賞して以来注目を集めた。
(3)牧野成一『ことばと空間』東海大学出版会1980, 10‑11頁。
(4)金田一春彦『E]本語』 (下)岩波新書1988, 231‑233頁。
(5)前傾書「間合いのことばと生活」 32責。
(6)筆者は日本語には、欧米語では文法要素として分類される代名詞の中でも、人称代名詞は存在しないと 考えている。すなわち、日本語の人称代名詞として分類される語は、他の名詞同様に、格助詞を伴わな い場合には呼格(Vocative)、伴なう場合にはそれぞれの格助詞と動詞との関連から考えればいいと思
う。但し、古語の「あ」、 「な」、 「か」などは人称代名詞であろう。
(7)金田一前傾書 235頁.
(8)ベンガル語の後置詞には大きく分けて、動詞系と名詞形の二つがある.前者の場合にはその動詞との関 係上、名詞は格を取らないことがあり、後者の場合は名詞と名詞の関係を示す上で所有格を取ることに なるすなわち、 thekeは・/thakの完了分詞(後述)で、本来「とどまって」の意味を持ち、 b叫i theke は「家にとどまって」が原義であるが、現在では「家生を」というように"from"の意味で使われてい る。より詳しく言うなら、後置詞のほとんどは名詞の位置格を転用したものであり、その形はbhitar
「中」 +1 「に、へ」となっているのである。従って、この形がそのまま副詞にも使われる。
(9)ベンガル語の動詞の原形はそのままで、畠sa 「来ること」やkhえoya 「食べること」などのように名詞と して使われる。そしてその所有格を時を表す名詞の前に置くことが可能となるのである。
do) B本語では、動詞の連用形が動名詞として使われ、動詞の中には意味の関連する二つの連用形を重ね、
「する」を付加して「飲み食いする」、 「行き来する」のように使われるが、ベンガル語でも一部の動詞 でそのような形が認められる。 pa申‑ 「読むこと」 ‑sona 「聞くこと」 +kara 「する」 ‑ 「勉強する」
:aa
(ll)日本語では、 「行く前」、 「行った後」のように区別されるが、これは時制による区別ではない。日本人 の関心は時制にあるのではなく、ある動作・状態が、現在であっても過去であっても、完了しているの か否かに熟し、があるo
(12)動詞語尾は単複同形であり、二人称に三種類あるので、人称変化は五種類となる。
(13)この動名詞は現代語では使われていない。使われているのは前述したkar+豆である.
(14) cf. S. K. Chatterji, "Origin and Development of Bengali language", vo1 2 London 1975, 1012‑ 1016 頁
(15)ベンガル語の進行形は、 karitechi (一人称)であるが、これは完了分詞のところで述べたのと同様な歴 史的背景が推察される。すなわち、 karite+ノ言chi 「〜することにおいて、ある」から「〜している」
と使われるようになったと思われる。なお、 Chatterjiはkariteはkar+iteであり、 iteはサンスリッ トーantaから派生したitaの独立位置格(Absolute Locative)なので、不定詞とは異なるという (ibid., 1015頁)0
Iagaの本来の意味は「執着する」であり、この意味が転用されて多くの重要なベンガル語の熟語が形成 されている。
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頓 宮 勝(17)この例文のような主格のない構文で良く知られているのは、 (16)で触れた動詞Iagaを使った次のような 構文であり、ここではDative like Genitiveが使われている。
畠mえ oke bhalo lage
私にとっては 彼に関して 良く 執着する‑感じられる すなわち、 「わたしは彼が好きです」という意味になる。
この構文に見られる所有格の用法は、日本語の「象は鼻が長い」という構文に類似するものがある。
hatir lamba sund ache │ hatir sund lamba
象には 長い 鼻が ある。 象(にとって)は 鼻が 長い。
(18)このことはベンガル語だけでなく、同じようにサンスクリット語から派生したインド北部の諸言語にも 当てはまる。
(19)極端に禁欲的なヘブライ(遊牧民族)と極端に開放的なギリシア(商業民族)を両親とし、その両原理 を抱え込み発展したヨーロッパは、自然と対略し、豊富な自然に恵まれた日本は、人間を含め自然界す べてを一種の連帯感で捉えようとしたと言う。 『米食・肉食の文明』 NHKブックス1969
(20) 「生活の世界歴史」第六巻、掘米庸三編『中世の森の中で』河出書房新社1975, 14‑15頁
(21)鈴木秀夫は、 『森林の思考・砂漠の思考』 (NHKブックス1978)や『気候の変化が言語を変えた』
(NHKブックス1990)などで、宗教・言語・自然環境の三つには深いところでつながりがあるという。
また、李御寧は『「縮み」志向の日本人』で「四畳半の空間論」 (176‑189頁)を論じ、吉良竜夫は生態 学の立場から日本文化の自然環境を、オギュスタン・ベルクは、多面的な分析に基づき日本的な「空 間」を、それぞれ『生態学からみた自然』 (河出書房新社1971, 140‑148頁)、 『空間の日本文化』 (筑 摩書房1985)で興味深い資料を提供している。
(22)ベンガル語には論文などで使われる文語体があるが、これは口語の「書きことば」ではない。
¢3)外山滋比古『日本語の論理』中央公論社1973, 107‑109頁。
(24)下線部2)には、 〜が、 〜けれど、 〜のか、などの発話を打ち切る表現を含めてもいいであろうO (25) B本語の人称義幸削ま敬語体などのはか、 「あげる」などの一部の動詞が担ったり、 「行くね」 (二人称)、
「行くよ」 (一人称)などのように表される。
(26)一人の人物が、職場では「先生」、家庭では「お父さん」、路上では「おじさん」などと自称する。
Japanese and Bengali
‑ A Study of the Two Languages from the Viewpoint of Comparative Culture ‑
Masaru Tonguu
{Department of Language and Culture, Nara University of Education, Nara 630 , Japan) (Received April 30, 1992)
There must be a strong relation between our way of thinking and the environment under which we have been creating our culture. A way of thinking can be reflected in some cases on the language which we use. Professor Makino compares Japanese with English in his book entitled Language and Space and shows us a deep relation between the word order of both languages and how to understand the space around two peoples.
The same topic is discussed here and present paper makes it clear whether the same thing can be said of Bengali in comparison with Japanese or not.
This paper is composed of three sections. The first section deals with some opinions on word order. In the second section several characteristics of word order in both Japanese and Bengali. The third section shows the present writer s hypothetical opinion on a general relation between a way of thinking and an environment in which a language is spoken.