比較文化論序説(2)
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(2) 77. 比較文化論序説㈱. という意味であり、共通性、類似性が暗示されているのである。「比較」. であり、一方、ドイツ語のverg)eichenのgleichも、「同等の、等しい」. という意味でつかわれている。フランス語のcomparerも、これと同じ. 量的に異なる、二つあるいは、それ以上のものの異同を明らかにする」. だす」という意味をもっていたのである。そして、現在では、「質的、. とみなす」. 項の一つを選ぶことから初めて比較操作は始まるのである。例えば「教. 多-の公分母を持っている。そして、認識主体がまず、それらの共通. 地があり、聖者がいる、といったように、ほとんど無数ともいえる数. 即ち'そのどちらにも、世界観があり、死生観がり、戒律があり、聖. キリス-教もイスラム教も、宗教として、さまざまな公分母を持つ。. 我々はまず、〓足の基準、両者に共通の公分母を選ぶ作業をおこなう0. 人間はいかに正しい存在でありえないか、そしていかに無意味な存在. えの基本は何か」という、宗教にとって最も根本的なテ-マを選んで、. 比較というのは、元々似たものを「比較」するのであって、文化の. であるかを自覚することを教える。だが救われるために善行を積み、. というのは要するに、共通性、類似性の探求なのであり、共通性、類. 比較も、「文化」という共通項を媒介として、その共通性'異質性、差. 模範的道徳的存在になることを志向してはならない。自己の存在のむ. なしさ、罪深さを神に告白しイエスの言葉にしたがって、赦しを乞いI. 正しくありたいと願うことが重要である。人間は決して正し-など生. は'比較操作を、無意識的にではな-、これを自覚的におこなうこと. 利益などをもとめてはならず、ただひたすらに神の栄光を実現するた. 切な逆説を自覚しなければならない。そして、キリスー者は、神に御. きられないという告白があって'はじめて正し-生きられるという痛. ではじめて成り立つ。例えば、事象Aと事象Bを比較せよと言われた. めに、生きるのである。. Aと事象Bをおもむろに比較するかもしれない。しかし、このような. ある。まず、アッラ-と予言者ムハンマドを信じることが重要視され. 仰)、イバ-ダ--(神への奉仕)'ムア-マラ-I(行動の規範)で. ない。イスラム教徒が守るべきもっとも重要なものは、イ-マ-ン(宿. 一方イスラム教のほうは、キリス-教のような深い精神性をもとめ. やりかたを我々は「比較」とは言わない。比較とはすでに見たように、. ラ-の他に神な-、ムハンマドはアッラ-の使徒である」と唱えるの. る。それから、信仰告白が大切である。信仰告白とは、礼拝時に'「アッ (公分母) を定め'その基準にそって認識するのであ. 一面では共通性、類似性の探求なのだ。したがって、次ぎのようなや. を、一定の基準. り方が、自覚的方法的な比較操作と言える。つまり、事象Aと事象B. Aとしてまず認識し、つぎに事象BをBとして認識'しかる後に事象. ら、どうすればよいか。無自覚的な認識主体は、おそら-、事象Aを. 人間の思惟は、不可避的に比較操作を含むと言ったが、比較文化論. ●比較の基本的方法. 異性、あるいは、偏差を探求するということに外ならない。. 両者を比較してみよう。キリス-教は、信者たるものは'まずもって. ものだ。たとえば、キリス-教とイスラム教を比較せよと言われたら、. る。この基準とは、我々がすでに、共通性、類似性と呼んだところの. 二). 天. 似性の探求は同時に、異質性、差異性の探求を含まざるをえない。. る。つまり、cOmpareは元々、「違ったものを一緒に集めて等しいもの 、「違ったものを集めて一束にまとめ、そこに類似性を見い. 「共に、一緒に」とpar「等しい」という二つの要素から成り立ってい. 平野.
(3) 76. である。礼拝は一日五回おこない、金曜日の正午の礼拝は、イマ-ム. これは、行諭の過程で徐々に明らかになってい-であろう。 (三) 『カルチャ-グラム』という本では、世界の何と一〇ニケ国の文化. 、「国家」という四つの基準に. が、「習慣と儀礼」. '「国民」 、「生活様式」. ょって比較されている。学的探求といった見地からは物足りない印象. の指導のもとにモスクに集まっておこなわれるのが望ましいとされる0 日没まで1切の食を断つ。行動規範として大切なのは、来世において. 喜捨を義務とし、毎年一回ラマダ-ンに断食をおこない、日の出から. を与えるが'実際には極めて有用な本である。このような著作も当然. 次に挙げるのは、ある一つの文化を範型として用い、他の文化を比. 比較文化論の範時に入れて考えられるべきであろう。. 天国にい-ために姦淫、賭け事は決しておこなわず、契約を厳守、ア (二). ルコ-ル、豚肉は禁忌の対象となる。このように'イスラム教におい. 「教えの基本」という基準にそって、キリスト教とイスラム教を比. ては、信仰は、具体的な行為として表されなければならないのである0. 範型として、日本仏教を比較する方法である。これは、二つの仏教を. 較するやり方である。この方法は、非常に便利であるため、自覚的そ して、勿論無覚的にもしばしば使われてきた。例えば、インド仏教を. 充全な比較とはいえない。さらにい-つものテ-マにそって比較作業. 同等に扱うのではな-'例えば、インド仏教を仏教の範型と考、え、こ. 較すると、以上のようになるだろう。しかし、これだけでは、両者の をおこなわなければならない。例えば、すでに、注(二)で挙げた『仏. の範型を基準として、日本仏教の異質性、差異性、偏差などを主に浮. き彫りにしようというものである。西洋近代を近代化の模範としてと. 教・キリス-教・イスラ-ム・神道、どこが違うか』においては、四. らえ、それに昭仙らしあわせて日本の近代化の歪みを摘出するという方. つの宗教が'全部で三一の基準にそって比較されている。ただし、こ の三一というテ-マの数は、編著者たちの判断によって決定されたも. 法もこれと同じである。 『タテ社会の人間関係』も、この方法を用いて大きな成 中根千枝の. のであって'テ-マの選定には何ら客観的な標準があるわけではな-I 著者、研究者の主観によって左右されるのである。こういった点で、. しかし、我々は、右の三一のテ-マにそって比較されたあと、四つ. かって-るのである。中根によれば、ヨコ社会の典型はインドである。. みてはじめて、日本は極端なタテ社会であるということがはじめて分. 果をあげた研究である。日本がタテ社会であるということは、日本文. の宗教について、相当明確な観念、イメ-ジを持つことができる。キ. いかなる社会においても個人は、資格と場による社会集団、あるいは. 比較文化論は、他の人文・社会諸科学と同じように厳密科学ではない. リス-教とは何か、イスラム教とはどのようなものか、三一という限. 社会層に属している。そして社会によっては資格と場のいずれかの機. 化だけをい-ら穿りまわしてみてもわからない。ヨコ社会を対置して. 定されたテ-マでは、両宗教の全体性をまるごと把握することができ. 能を優先したり、両者が互いに匹敵する機能をもっている場合がある0 「この機能のあり方は、その社会の社会的認識における価値観に密接な. し、厳密科学にはなりえないものなのである。. ないのではないかという疑問が生じて-るが、文化というものの全体 は、ある限定された資料の探求によって推定されるのみであって、そ. 相関関係をもっている。そして'そこにその社会の構造を端的に考察. 冒. のもの自体の全体性を完壁に把持することは不可能なものなのである。 比較文化論序説㈱. 平野.
(4) 75. 比較文化論序説似. な日本のリ-ダ-は'常に部下のことを案じている。そのため日本人. の集団は、うま-機能すると驚-ほどの動員力、エネルギ-の結集力. 「この論文の意図は'日本社会を記述的に説明することではな-、. を発揮する、等々。. 〓足の社会集団に関する理論的試作にあり、その材料を日本社会に求. めたということである。したがって、その出発となる概念設定は. 本以外の諸社会との比較にも役だちうるように)、きわめて抽象度の高 (五). ないが、社会人類学の構造分析のフィ-ルドとして、日本とインドほ. のだが、それにもかかわらず、日本人と日本社会のマイナス・イメ-. の日本人・日本社会に対する価値観というよりは、範型設定という方. (とちらかといえば、イ. いものである」と中根は注釈を加えている。つまり、この著作は、価. も、これほど極端なものではな-、その中間. このように、『タテ社会における人間関係』においては、インド社令. 法そのものに原因が潜んでいると思われる。どんな社食にも、良いと. ジが極めて強い読後感となって残るのである。しかし、これは'中根. への言及は断片的なもので、決して組織的になされているわけではな. ころと悪いところがある。現実の社会はユ--ピアではありえない。. に任するように思われる」. いのだが、我々がこの著作を読む場合念頭においておかなければなら. だから範型としてのインド社会のほうも同時に組織的に分析されれば、. ンドよりの). ないのは、中根の分析の背後には、常にインドのヨコ社会が、日本の. その欠陥が露わになって-ることはまちがいない。. を設定するわけであるから、どうしても、それに照らし出されるほう. で国をあげて戦った敵の中で、最も気心の知れない敵であった」とい. ク-の『菊と刀』についてもあてはまる。「日本人はアメリカがこれま. 同じような欠点は日本人論の名著とされている、ル-ス・ベネディ. の社会は惨めなほど非合理的で、滑稽な相貌を呈することになる。タ. う文章で始まるこの日本研究は当然のことながら、日本人と日本文化. (六). テ社会から招来される、日本人の田舎者性、非社交性、閥意識'ワン・. を照らし出す範型として欧米社会が適用され、その上、研究の直接的. 対象とされているのは'第二次世界大戦中の日本であった。「義理」 「人情」 、「恩」 、「家」 、といった概念を中心に析出される日本人像は、. どう見ても、格好のよいものではない。だから、当然のことながら、. (七). かない。勿論、タテ社会にも良い所は沢山ある。日本人の集団主義は. この著作には「学問的な価値だけはない」といった辛棟な批判も出て. 的なナショナリス一には、脳天を打ち砕-ような衝撃を与えずにはお. き出される。自虐趣味のある人には実に痛快であろうが、日本の伝統. セッー主義、序列意識、非論理性、感情的人間関係等々が容赦な-秦. しかし、このような方法には欠陥がないわけではない。ある「範型」. タテ社会を照らし出す鏡の役割をはたしている、ということである。. 0. 日本の近代化を促進させるのに大きな役割をはたした。大石内蔵助的. I. ど理論的アンチテ-ゼを示す社会の例は、ちょっと世界中にないよう. におかれている。インドの社会については本論で述べる余地が. ii扇. 値自由的で高度に抽象的な本質論・学的認識であると主張されている. ある). われているのはカ-スー一基本的には職業・身分による社会集団-で. に場におかれており、インドでは反対に資格(もっとも象徴的にあら. 続けて中根はこう書いている。「すなわち、日本人の集団意識は非常. 日本とインドの社会であろう」. (四). することができる。この点において最も極端な対照を示しているのは、. 平野. に思われる。この意味ではシナやヨ-ロッパの諸社会などは'いずれ. (日. 0.
(5) 74. くるのである。 和辻の主張は簡単に言ってしまえば次のようなものである。『菊と. ●価値自由と理念型 「価値自由」というのは、ドイツ語のヴエル-フライハイ-の訳語. などから'政治的、倫理的、実践的な価値判断を排除し、それらを客. であり、M・ヴェ-バ-が用いた。彼は、文化科学(哲学)、社会科学. 本軍人の型」ぁるいは、「国粋主義的軍人の型」とすべきである。この. 観的な経験科学として確立しょうとした。没価値、価値判断排除と訳. には、「日本文化の型」という副題がついているが、これは'「日. 本は、日本の、ある特種な時期の、特種な日本人を扱ったものにすぎ. す人もいるが、ここでは価値自由を用いる。. ヴエ-バ-をして、このような主張をなすに至らしめたのは、文化. 科学、社会科学も「科学」である以上、宗教的予言者とか政治的煽動. は、ベネディク-の中にある、日本人にたいする偏見である。それは、. つ、「知的廉直」. であった。また、およそ、学問に携る者に要求されることは、ただ一. 家とかの主観的判断を、そこから取り除かねばならない、という決意. 狂信的な日本の軍人を、自由で民主主義的な欧米社会を範型として観. とは、どのようなものであるかを、最も簡潔にかつ分かりやす-語っ. は実践上の価値判断を挿入すべきではな-、諸文化に対して愛憎好悪. 綿するとしても、それ自身は純平たる認識である。したがってそれに. 否定できない。「比較文化論は、たとひそれが種々なる実践的関心と纏. 頃の日本の企業人にたいする、根強い嫌悪感のようなものがあるのを. い政治的秩序をこれらと比較し、このようにして聴講者たちが、民主. がどのような影響を及ぼすかを確定し'ついで他の民主主義をとらな. きにおいてどう違うかを分析し、また社会生活にとってそのおのおの. て語る場合、まずその種々の形態をあげ、そのおのおのがそのはたら. て-れるのは'次のような文章である。「たとえば「民主主義」につい. (八). でな-てはならない」というのは確かに正論であろうが、. これは一亭っはやす-、行うのはなかなか難しいのである。というのは、 比較文化論は、方法そのものの根底に主観性が必然的に介入して-る. にはなりえないからである。. 学問であって、純粋客観的な認識(このようなものがあると仮定して の話だが). 比較文化論序説㈲. 平野. どころを聴講者(学生). 三一. が発見するのを助けるのが、学者の役割であ. ねばならない。そして、どの民主主義が理想的であるかを決める拠り. ことを投価値的に比較し、さらに他の政治的形態とも比較して、示さ. 客観的で公平な態度とはいえない。様々な国に様々な民主主義がある. めるうえの拠りどころを発見しうるようにするのである」 「民主主義」と言っても、ある特定の国の民主主義だけを語るのは. (九). 主義について'各自その究極の理想とするところから自分の立場をき. の差別を加えるべきではない。その意味で比校文化論は価値自由. る。ヴェ-バ-の思想は様々に解釈されているが、「価値自由」的態度. のみであるという彼の禁欲的な思想がかかわってい. 察することによって一層増幅された、と考えられる。同じように、中 『タテ社会』にも、凄まじい勢いで日本が経済成長をとげていた. 和辻の反論にもそれなりの根拠がある。彼が、鋭-喚ぎ付けたもの. え方であるかのごとく書かれるのは心外である。. ことができる。少数の乱暴者たちの偏狭な考え方が、日本人一般の考. ず、日本人はそのようなものではないという反証をい-らでも挙げる. 刀』. 根の (wertfrei).
(6) 73. 比較文化論序説㈲. が決して、「経験的にえられたものの平均ではない」ということであ. らのそれぞれの企業家としての実態が鮮列だ照らし出されることにな. る。つまり、一方では、没価値をとなえながら、理念型そのものは、. り、自分の意見を押しっけるべきではない。ヴエ-バ-の言いたいこ. 主義の異同を客観的に測定するには、何か「ものさし」がなければな. 認識者=ヴェ-バ-の価値意識に基づいて構成された観念であるとい. (だから、イデアルティブスを「理想型」と訳す人もいる)0. (一一). らない。その「ものさし」が理念型だと解すればよい。つまり、「民主. うことだ. ヴェ-バ-の社会学とは範型を設定して思惟する一種の比較学なの. である。いったん範型を決定してしまえば、事象の類型分類は客観的. に定まる。しかし範型の構成・決定に際しては何ら客観的な基準があ. るわけではな-、認識者の主観・価値意識にまかされているのである。. 範型の構成・決定の手続きが、どれほど客観的な外観を呈しょうとも、. こういった事実が変わるわけではない。だから、比較操作というもの. には、必ず主観性がしのびこむのであり、厳密な客観的認識にはなり. て外側の表貿をうけることをさ、主音ばずして避けるのである.別言す. 勢を利用することを嫌い、また現に自分のえている社会的名誉に対し. のではない。彼は、「見栄や不必要な支出を好まないのみか、故意に権. して認識作業をおこなうこと、つまり自己抑制、禁欲を行うことを要. 認識者に、気ままな主観や窓意的判断を押さえ、事象そのものにそ-. 昧をたどって導きだされ」たものでなければならない。ヴェ-バ-は、. てなされてもよいのかというと、そういうことにはならない。それは、 「内的整合性をもって、したがってまた自己欺晴なしに、その本来の意. えないのである。それでは、範型設定は、どんな気ままな手続きによっ. れば'その生活態度は多-、--二足の禁欲的特徴を具えている。--. 例えば、俳句と和歌を比較してみよう。誰にでもすぐに分かるのは、. ●比較操作と解釈. るかどうかを判定する客観的基準はないのである。. 〓二). こうした企業家は巨富を擁しながら自分のためには「1物も有たない」 (一〇). ているにすぎないのである」. この類型を、現実のA企業家、B企業家、c企業家に適用すれば、彼. し、このような条件をすべてそなえた企業家は現実には存在しない。. これが、ヴェ-バ-の理想とする企業家類型=理念型である。しか. 0. ただよき「使命としての職業の遂行」という非合理的な感情をもっ. 求しているのである。しかし、ある範型が、「内的整合性」をもって、 「自己欺摘」なしに'「本来の意味」をたどって導きだされたものであ. た人間である場合が多い。しかし、企業家の理念型とはこのようなも. ンティズムの倫理と資本主義の精神』 には次ぎのような叙述がある0 「資本主義的企業家」と言えば、現実には粗野で強欲な'成金根性をもっ. それでは、理念型とはどのようなものなのか。例えば、『プロテスタ. なってくるのである。. =公分母に照らし出されて、はじめてその異同が、客観的に明らかに. とによって、A国の民主主義、B国の民主主義は'理念型という基準. 化し、純粋に観念的な範型をつ-りだし、今度は逆にその範型、つま り理念型を現実に存在する民主主義に適用するのである。こうするこ. 「理念型」という概念はここから生まれる。A国とB国の民主. 主義」という現実の政治形態から、それがもつ様々な特徴を抽出、純. る。ただし、ここで注意しなければならないのは、こういった理念型. 一冒. とをやさし-解説すれば、そういうことになるであろう。. 平野. 彼の. -.
(7) 72. ているということだ。この結論には、全-主観の介在する余地がない。. さねていけば、最終的には認識者の主観は止揚され、対象の本質と合. ヘ-ゲルは、認識者が、弁証法論理にしたがって厳密な手続きをか. おける認識者の個性と窓意性がかかわってくるからである。. 同じように、日本語と英語を比較しょうとすれば、まず目につ-のは、. 致すると考えたが(だから彼は人間は神になれるのだと豪語した)そ. 俳句は五・七・五、和歌は五・七・五・七・七という定形、形式をもっ. 著しい構文上の違いであり、絵画と文学(これはどちらも芸術である). のような幸せな時代はたちまちのうちに消え去った。ニ-チェの嵐が. はな-、じつ七多岐にわたるものであって、その中のどれか一つが、. を比較すれば、一方はイメ-ジを用い'他方は言語を用いるという違. ところが、文化には、内容がある。この相違は客観的には定まらな. 他のものと較べてより合理的であるとか、よ-客観的であるといった. 吹きま-ることになり、いまだにその嵐は続いているのである。つま. い。たとえば、芭蕉と蕪村と一茶の俳句を比較せよという聞いにはど. ことはありえない。ヘ-ゲルは、悪を独立の存在をもたない否定的な. いが即座に分かる。つまり、文化の形式的、構文論的な相違は客観的. う答えればよいのだろうか.「俳句」というかぎり、形式的にはまった. ものの仮象にすぎないと考えたが、ニ-チェはそういった健全な幻想. り、価値相対主義だ。価値は一つであるといったような単純なもので. -同じであり、これを比較しても彼らの俳句の特徴は不明である。つ. を徹底的に打ち砕き、善悪の区別など実在しないと主張した。そして、. に、誰にでも分かるのである。. まり、ここで問題になるのは、それぞれ三人の俳句の内容上の違いで. 二〇世紀の人間は、誰もがみんな小ニ-チェになってしまったのであ. る。比較文化論は、価値の相対性を前提としなければ成り立たない。. ある。しかし、内容上の違いと言っても、彼らは膨大な量の俳句を作っ を決定しな. だから、我々も認識論レベルでは小ニ-チェとして振る舞う以外に方. (基準=公分母). ければならない。比較の主題は無数にある。例えば「花」という言葉. 法はない。. ている。ここでもまた我々は比較の主題. は彼らの俳句のなかで、どのように用いられているか。しかし、それ. ているのかを解釈しなければならない。しかし、解釈なるものには、. という言葉が、それぞれの俳句のなかで、どのような意味で用いられ. てみなければならない。しかしただもどしてみただけでは駄目だ。「花」. 学者、クリフォ-ド・ギアツは、文化の研究を'「法則性を求める実験. るをえないことを我々はすでに見たが、例えば、アメリカの文化人類. いうものであろう。文化現象はこの解釈なるものと密接にかかわらざ. 象の意味を、受け取る側から理解、説明、あるいは引き出すこと、と. ところで、解釈とは一体何か。もっとも単純な定義は、解釈とは対. 必ず認識者の個性と悪意性がかかわって-るのである。このように細. 科学ではな-意味を求める解釈科学」であると言っているが、ギアツ. を知るには、「花」という言葉を彼らのそれぞれの俳句の文脈にもどし. 分化された主題にそって次々と解釈を加え、それらの異同の比較を. の考え方はヴェ-バ-の「理解科学」の影響を受けたものである。. (一四). (一三). 行っていけば、最終的には「芭蕉'蕪村、1茶の自然観の違い如何」. ヴェ-バ-の方法は、「シ-ザ-を理解するためには、シ-ザ-である. (一五). という問いに答えを出すことができるであろう。しかし、その答えに. 必要はない」という彼が挙げた有名な言葉に示されているように、簡. ≡. ついて全ての認識者が一致するわけではない。その答えには、解釈に 比較文化論序説似. 平野.
(8) 71. 的な形而上学を否定し、意味の主観性を強調したのだが、当然のこと. 単に言ってしまえば、客観的意味は対象に内在するという'ヘ-ゲル. おいても、各要因相互間においてもおこっている。ここで扱うのは文. 文化を四つの要因に分解したが、影響関係は、それぞれの要因内部に. 囲が精神に影響を与える、といった具合にである。我々は、すでに'. 比較文化論序説似. ながら、理解科学も「科学」である以上、何らかの客観性の統制基準. 解的方法、解釈的方法の客観性如何という問題はいまだに最終的な解. 章で挙げた③宗教、芸術、道徳、理論的認識、感情表出など、精神的、. 類の文化事象相互間の影響、因果関係、即ち、具体的に言えば、第1. 影響関係、因果関係に基づ-比較研究は大き-分けると、仙同じ種. 決が見いだされていない難問である。「すなわち、一般的解釈学もなけ. 観念的要因内部における影響関係、因果関係と、④生産技術、生産様. 式'市場経済メカニズム、法律、社会制度など人間の集団生活におけ. ジャック・デリダは、解釈が正しいとか、間違っているとかいった. 即ち、第一章で挙げた④生活的・社会的要因と③の精神的、観念的要. 因果関係、及び、㈲異なった種類の文化事象相互間の影響、因果関係、. る実践的行為が作り出した、生活的・社会的要因内部における影響、. ことはありえない、ただ、力強い解釈か、力のない解釈があるだけで. ける影響(因果)関係とは、民族的国家的制度相互間、経済的要因相. 教と芸術、といったものの関係であり、生活的・社会的要因内部にお. 文学と文学、文学と映画、美術と美術、文学と美術、文学と音楽、宗. 川の精神的、観念的要因内部における影響(因果)関係は、例えば'. 因相互間の影響、因果関係、の二つになるだろう。 (一七). ヴェ-バ-の、解釈に「実用的統制」を加える解法のほうがはるかに. 互間、法律的要因相互間、技術相互間などの関係である。. はすべて「明確性」を求めるものであるという'. 説得力がある。彼は、学問は個人の実際的生活に三つの点で寄与する (l<). こと」を挙げている。比較文化論に期待できることもせいぜいこの程 度のことであろう。学問を万能だなどと決して思わないことだ。. ●影響関係の研究. (一九). 画、写真、テレビ」は、主に、フランスにおける小説と映画との関係. に焦点をあてた好論文である。映像産業によって大量に生産される、. 営利目的の大衆向け商品である映画や映像は、文化分析の対象として. 経験的事実である。例えば'文学作品は他の文学作品に影響を与え、. わけにはいかない。両者の共存状態を支えている「交換と転移のシス. 避的に相互作用のシステムを形成している現代の状況から目をそらす. 疎外されてきた傾向がある。しかし、比較文学は、文学と映像が不可. 美術作品は文学作品に影響を与、え、あるいは、自然的要因'経済的要. 文化というものがお互いに影響しあっているということは、我々の. 例えば、ジャンヌ=マリ・クレ-ルの「現代の映像と比較文学-吹. と言っているが、その最後のものに、「明確さということに諸君を導-. しろ、理解(解釈). 釈であるかを決定する基準は勿論ない。こんな暖味な言い方よりもむ. ある、と何処かで言っていたが、何が力強い解釈で、何が力のない解. である。. バラバラで対立する諸理論だけが存在する」だけというのが現状なの. (一六). れば、釈義にとって普遍的な公準もな-、ただ解釈の諸規則に関する. 自身は、この間題に根本的な解決を与えることができなかったが、理. 化相互間の影響関係、因果関係である。. 三四. が必要になって-るというディレンマが生じて-る。勿論'ヴェ-バ-. 平野.
(9) 70. テム」を、映画製作にたずさわった作家たち-コク--. 、マルロ-. サルール、ロブ-グ-エなどの仕事を分析しながら、映像と言語の関 係に光をあてる。そして、言葉を主要な道具としてきた、フランスの デカル-的文化がいまや、映像文化によって激し-揺さぶられている。 「言語活動の論理は、映像によって個々の人の内部に引き起こされた反 響からもれて-る多様性や'客観的な視線や概念を分離化する力とは 根本的に無線な体験とぶつかるのであり、言葉は、意味作用の観点と は別の仕方で、言語活動の論理を喚起することを余儀な-されてい る」という、.現代の文化状況の一端が指摘されている。これは、言語. (二〇). と映像という文化現象をめぐる比較文化論であり、我が国でも、マン ガなどの大衆映像文化が人間の思考方法にどのような影響をあたえる のかといった研究は今後ますます盛んになるだろうと予想される。 美術と美術の影響関係の研究として最も知られたものにジャポニス ム、即ち、一九世紀後半のフランスにおいて浮世絵などの日本美術に (ニー). よって引き起こされた日本趣味に関する研究がある。ジャポニスムが、 モネやゴッホ、ゴ-ギヤンなどの印象派の画家たちに深い影響を与え (二二). 『ジャポニスムからア-ル・ヌ-ヴォ-ヘ』は'やはり'. たことは夙に知られるところである。 由水常雄の. 日本美術が、一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて、フランスをはじ めとする欧米諸国において突然触発させた、ア-ル・ヌ-ヴォ-とい う日本的な装飾様式の研究である。ア-ル・ヌ-ボ-はフランス語で 「新しい芸術」という意味であるが、もともとは美術商のサミュエル・ ビングが一九世紀末にパリで開店した「ア-ル・ヌ-求-」に由来す るものである。. 、. (地下鉄). の入り口をはじめとするさまざまな場所に残っているが、優美な曲線、. 曲面が多用され、象徴的神秘的な反面、反機能的な特徴をもっている。. ヨ-ロッパの芸術伝統に突然はいりこんで来たこの、異質な装飾様式. は爆発的な流行を呼ぶと同時に、保守的な人々からは非難、中傷をあ. び、二〇世紀にはいると機械的な機能主義によって厳しく批判され、. やがて消えていった。ア-ル・ヌ-求-とは一種の国際様式であり、. いわば東洋と西洋がアマルガムされたものであるが、『ジャボニスムか. らア-ル・ヌ-求-ヘ』は'突然ヨ-ロッパの芸術世界に生じた、非. 伝続的、非連続的な装飾様式に、いかに日本美術が探-係わっていた. かを丹念にあとづけた、典型的な比較芸術論というべきものである。. 右に例示したのは、「異種の文化の比較・対照の問題はこのように同 (二三) 、つま じ時代に地理的に並存する諸文化相互間の、いわば横の関係」. り共時的な影響関係の研究であるが、同じような関係は歴史的に縦の. 関係つまり、適時的なものとしても成り立つのである。そして、「特定. の地域社会の代表している文化それ自体の歴史的性格の進化、発展段 (二四). 階説的な進化の系列における先のものと後のものとの対比・相克とし. て現われるもの」の比較研究は一般的に系譜学と呼ばれている。系譜. 学的な比較文化論の典型的なものとしてしばば挙げられるものに、. ニ-チェの『道徳の系譜』がある。ニ-チェの他の著作のすべてがそ. ぅであるように、この書も「系譜学」といった言葉から想像されるよ. ぅな中立的で静態的な調子を帯びたようなものではな-、それこそ「1. 行一旬悉-血をもって書かれた書物」であり、キリス-教的価値観の. 全き転倒をはかろうとした絶叫の書であるといってよいであろう。『道. 徳の系譜』は、これよりも先に書かれた『善悪の彼岸』を補足解説す. るために書かれた。だからこの二つの書物は、形式的にも内容的にも. 芸. ア-ル・ヌ-求-様式は、現在でもパリなどでは'メ-ロ 比較文化論序説㈱. 平野.
(10) 69. 比較文化論序説㈱. ".I. サンス期において、古典的理想、貴族的価値の「華麗にして不気味な. 復興」が起こった。ところが間もな-、「宗教改革と呼ばれる根本的に. 識と過誤意識の中にのみ存在する。それらの存在は意識状態であり、. ではなく、単にそれが意味するものである。罪悪と過誤自体は罪悪意. 民衆のルサンチマンを利用することによって、崩壊さしめたのである0. おける最後の貴族主義'フランス絶対王制のもとにおける貴族主義を、. る。そして、それは、さらに、フランス革命によって、ヨ-ロッパに. 頗民的な」ルサンチマン運動のおかげでユダヤ=キリスー教が勝利す. 従って存在理解であり、これは真実でもあり得るし、錯覚でもあり得. ところが、この喧しい熱狂の最中に、「最も巨怪な、最も意外な出来辛. らの苦悩を罪悪の方向に解釈する。即ちみずからの不幸の意味深い原. たいろいろの. 的理想自体が「生身の問題」となって現れた、歴史上最もユニ-クな. レオンを「理性の故知」の顕現であると考えたが、ニ-チェは、貴族. が起こった」のである。ナポレオンの出現である。ヘ-ゲルは、ナポ. (二五). 悪感のない世界から罪悪の世界を作り出した」。 か-してニ-チェは、道徳を、「主人道徳」と「奴隷道徳」の二つの 類型に分類する。奴隷道徳とは、ユダヤ=キリス-教が作り出した怨っ. はヨ-ロッパ史の全行程において'「ロ-マ対ユダヤ」「ユダヤ対ロ-. り、貴族的な価値判断に対する暴虐である。この二つの価値観の対立. 児みたいなもので、古代ギリシャ的な貴族人間に対する反抗運動であ. ば-て'しかも悪賢い. たぬ物とみる。そして奴隷は自己を自我とみず、主人がかれの自我で. 人格は普遍性である。奴隷の主人は奴隷を人格とみないで、自己を持. とを認めている。奴隷に欠けているものは、その人格の泉認であるが、. 由の宗教であり、キリス-教徒のみが人間そのものの無限性と普遍性. 理そのもののうちにのみ求むべきものである。キリスー教は絶対的自. ヨ-ロッパにもはや奴隷制が存在しない真の根拠は、キリスー教の原. 判したへ-ゲルは、その約七〇年前にこう言っていた。「キリスー教的. マ」という形をとって戦われてきた。そして、「ロ-マはユダヤ人のう. ある」。. このへ-ゲルの言葉を裏返せば、そのままニ-チェの思想となる。. の感情から生み出された奇形. ちに反自然そのものの如きあるものを、いわば自己の対鍍的怪物を感. に服せしめられたもの」と見なされた。人類の福祉と未来とを貴族的. ニ-チェは、自由を否定し、奴隷を肯定、人間の平等を認めなかった。. ヘ-ゲルはまだ、人間と社会の在り方の理想を語りえたが、後発資本. 主義国となっていた、ニ-チェの時代のドイツにはヨ-ロッパ文明の. 。ところが'ロ-マは、. であるかぎりにおいて'それは正当であった」 「三人のユダヤ男と一人のユダヤ女」 (イエス、ペテロ、パウロ、イエ. 精神的退廃があふれていた。そしてニ-チェは、そういう危機的状況. スの母マ-ア). によって庚潤されてしまったのである。しかし'ルネ. (二六). 価値、すなわちロ-マ的価値の無条件的支配に結びつけることが正当. (二七). じ取った。ロ-マにおいては、ユダヤ人は「全人類に対する憎悪の罪. 「ルサンチマン」. 人間であると見なした。 『道徳の系譜』は一八八七年に書かれた。ニ-チェが最も痛烈に批. 因を探し求める」「キリス-者は苦悩のかような理由づけに応じて、罪. 「苦悩の因果関係」が存在する。キリスー教者はみずか. る。人間が自分に取り入れ得る既習の意識状態に応じて、非常に違っ. 問題意識とは次のようなものだ。 「罪悪と過誤はニ-チェによれば、人間生活そのものに属する現象. 一対をなしていると考えたほうがよい。そして、ニ-チェの基本的な. 平野.
(11) 68. を招来せしめた元凶はキリスー教であると考えたのである。しかし、. すものである」ということを認めながらも、「民族精神の自然との関倭. ればならないかぎり、それは本質的に、また必然的に一つの基盤をな (二九). レ-ヴィッ-は痛烈にもこう書いている。「ニ-チェがどんなにキリス 『反キリスー』. 行動する個人に. [対する関係に]比べると、外面的なものである」と. 多かったにちがいない。けれども、この空だけがホメロスを生むとい. (三〇). -教から卒業していなかったかは、かれの の説が示している。この説. は、人倫の全体としての普遍性[国家]やそれの個々の現れとしての. それ以上に'それと対をなす「永遠回帰」. 言い、また、「自然の評価はあまり高すぎても、あまり低すぎてもいけ. のみならず、. は明白な宗教の代用物であり、キュルケゴ-ルのキリスー教的逆説が. ない。温和なイオニアの空はホメロスの詩の典雅に寄興するところが. (二八). 絶望からの逃げ道であるのに劣らず、「無」から出て「有」に入ろうと する一つの試みである」. である。ールコの支配下にはどんな詩人も出なかった」と言って、安. (三一). うわけのものではない。事実、その後必ずしもこれを生まなかったの ●異なる文化的要因間の影響関係. けてきたのである。しかし注意しなければならないのは、風土が一方. た生業形態は'国家体制、宗教、芸術などの在り方を決定的に方向づ. れ砂漠地帯、東南アジア季節風地帯で発達したものであるが、こういっ. 間の生業形態は風土に強い影響を受けてきた。放牧や農耕は、それぞ. 強い影響を与えていることは経験的に誰もが知っている。例えば'人. 風土とは、気候と地理的環境のことであるが、これが、人間の文化に. ではない。飢えに苦しむエチオピアの牧畜民が、やせたロバをひきつ. しかし、すべての牧畜民族が「人間中心主義」を生み出しているわけ. いるのだが'牧畜民族は地球上にヨ-ロッパ人とかぎらず沢山いる。. する態度が、ヨ-ロッパ人の「人間中心主義」を生んだと主張されて. 人は農耕民族である。肉食をしなければならない牧畜民族の家畜に対. それである。確かに、ヨ-ロッパ人は伝統的に牧畜民族であり、日本. 鯖田豊之の. 見事なほど完壁に「人間中心主義」が否定されている。「身近な家畜に (三二). 対する態度決定」がヨ-ロッパ人の「人間中心主義や断絶論理. 社会)」を生んだという鯖田の主張を覆す例は枚挙にいとまがないほど 沢山出て-るのである。. (階級. 和辻の風土決定論と同工異曲のものに、食物決定論というのがある0 『肉食の思想 ヨ-ロッパ思想の再発見』というのが、. ことだが'文明が高度化すると人間は風土の影響を被る度合いが少な. 的に文化を規定しているのではない、ということだ。すでに指摘した. 『風土』. 人は答えた。このロバを殺すぐらいなら、自分が死ぬ、と。ここでは、. に尋ねた。どうしてロバを食べて生きのびないのか、と。エチオピア. の昆にはまらないようにしなければならない。和辻哲郎の. 極めて単純な風土決定論であるが、さすがヘーゲルとなると、和辻の ような単純な決定論に足をす-われていない。. 平野. ヘ-ゲルは、「自然的な関係が精神の活動のための地盤と見られなけ 比較文化論序説仏. 芸. じた型の文化が生まれると考えるのは、風土決定論であり、我々はこ. くなるのである。したがって、ある型の風土があれば'必ずそれに応. れて今にも死にそうになっている。ある外国人が'そのエチオピア人. -. いは因果関係である。典型的なものは、風土と文化との関係である。. 易な風土決定論をのけている。. は. これは'自然的要因が精神的、観念的要因にあたえる影響関係、ある. 0.
(12) 67. 比較文化論序説㈲. (食物) を能動. しかし風土を文化の充分条件(積極的原因)と考へるのは誤りである。. 充分条件とは、或る型の風土があれば、必ず或る型の文化が出現する. はなりえない。たとえば、東南アジヤ季節風地帯がい-ら高温多湿で. といふことである。しかし風土は文化に対してこのように強い原因と. し人間の思想というものは、本来そのようなものではありえない。思. る」。. (三五). 社会制度や経済的条件が精神文化に与える影響についても同じこと. うに注意しなければならない。もっとも有名なのは、上部構造と下部. が言える。これも消極的原因であって'積極的原因と取り違えないよ. われるのである。だから'ヨ-ロッパ人の. 構造とのあいだに機械的な因果関係を見る、俗流マルクス主義の方法. (いわゆる「反映論」)も同じである。. である。旧ソヴィエッ-の社会主義体制の公認芸術理論であった社会 主義リアリズム. ものは、マルクスの『経済学批判』序言にある次のような文章である0. 上部構造と下部構造との関係についての命題としてもっとも有名な. 時に受動的でもあって、どの点まで能動的であり、あるいは受動的で. それは、原因の一つにすぎない。そして、「ここで「原因」というのは. 理的環境を文化の原因の一つと見なすことは可能であるが、あ-まで. あるいは次のように考えるのが妥当であろう。風土などの自然的地. の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活. て'そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、〓足. 総体は社会の経済的機構を形づ-つており、これが現実の土台となっ. の発展段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の. (三四). 実は必要条件のことであって、必ずしも充分条件のことではない。風. の生産様式は、社会的、政治的'精神的生活諸過程一般を制約する。. の意志から独立した諸関係を'つまりかれらの物質的生産諸力の〓足. 土は文化の必要条件なのである。つまり、或る型の風土がなければ或. 人間の意識がその存在を規定するのではな-、逆に、人間の社会的存. 政治、宗教'芸術、または哲学の諸形態'つづめていえばイデオロギ-. 一定の「社会的意識諸形態」というのは、具体的・に言えば「法律、. 。. (三六). る型の文化現象は出現しないであろうと推定されるのである。東南ア. 在がその意識を規定するのである」. は文化の必要条件であり'したがって消極的原因であると考へられる。. は出現しなかっただろう、と推定することはできる。このように風土. ジヤ季節風地帯の高温多湿の気象がなかったならば同地帯の稲作文化. がよい。. 「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれら. 「環境をなしているものとの関係においては、能動的であると同. のである。M・ハリスの. 単純明快な因果関係をもちこむことには余程注意しなければならない (三三) 「文化唯物論」も同じである。一般的に、人. 生み出したものではありえない。物的なものと精神的なものとの間に. 「人間中心主義」は食物が. るのである。「身近な家畜に対する態度決定」は人間の自由によって行. は解明できない。だからこそ、人間は自由な存在であると言われてい. 性をもったものなのである。大脳生理学で個々人の精神の内容や活動. あっても、稲の種がない限り、金輪際稲作文化は出現しないのであ. 的なもの、結果. 三八. 想とか文化というものは、物的なものに還元することのできない自立. (思想) を受動的なものと考えているのである。しか. 因果性の論理をもちこんだことである。つまり、原因. それよりも、この論者の決定的な錯誤は、精神文化の分析に単純な. 平野. あるかを決定することはたいていの場合容易ではない」と考えたほう. 間は.
(13) (三七). にブルジョワ・イデオロギ-として、十っばひとからげにして切り捨. てる「俗流マルクス主義者」がかってしょうけつをきわめ'芸術思想. の諸形態」 のことである。 この'マルクスの'序言のなかにある文章が、どれほどの悲喜劇を. 活動を著し-停滞させた。その根拠となったのは、「人間の意識がその. (三八). 旧ソヴィエッーの社会主義リアリズム理論は、この一文を根拠にし. 式」だというのである。我々がここで注意しなければいけないのは、 「公式」なるものは極めて抽象度の高いものであり、人間の歴史を五〇. 部構造の関係も、風土と文化との関係と同じで、単純な因果関係をも. て、個々の人間に直接あてはまるようなものではない。上部構造と下. 出されたo. ているのである。これを根拠にしてルカ-チなどの「反映論」は生み. 〇〇年とか一万年といった時間のスパンで考えれば、たしかにこの簡. たず、下部構造は上部構造の必要条件であって、十分条件ではないと. 考えるのが適当である。ただし、責任はマルクスにあるのではない。. 責任は、彼のテクスーの読み手の側にあるのである。 (三九) 『心的現象論序説』は、意識と現実の間になんらかの因 吉本隆明の. ができる」. 方で'<観念論か唯物論>という二元的な問題のたて方を超えてみた. 書いている。「わたしはここで現象学とも悪しき唯物論ともちがった仕. 果関係を想定する「反映論」を徹底的に打ち砕いたものだ。彼はこう. るイデオロギ-の形態は'たしかに、「大ざっば」に言えば存在する。. い。そのために必要な原則は、ただ<自然過程>に属するものを'こ. とごと-<自然過程>に還元し、なんらかの意味で<自然過程>がと. うてい結果的解釈としか考えられない心的現象のありうることをとり. れにもかかわらず存在しうる心的な余剰の絶対性を人間的本質として. 三九. もさまざまな差異が存在し、現実に生きている人間にとって、この差. りもはるかに徹底して動物性とかんがえるべきであろう。しかし、そ. (四〇). ろう。しかし、問題なのは、もっと時間のスパンを短-とって、例え. あげればよいようにおもわれる」 「人間が動物でありうる部分は、ふつう観念論がかんがえているよ. にふさわしい一様なものと考えるのは全-ばかげているし、現実に合. ば、近代ブルジョワ社会に対応するイデオロギ-諸形態が、その社会. 式に対応するいわゆるモダニズム芸術が存在しなかったことは確かだ. アジア的生産様式が支配的であった時代に、近代ブルジョワ的生産様. 的、古代的、封建的、および近代ブルジョワ的生産様式をあげること 。つまり、ここに挙げられた四つの経済的社会構成に対応す. ざっばにいって、経済的社会構成が進歩してゆ-段階として、アジア. マルクスはおなじ序言のなかでまた、次のように言っている。「大. ると、どんでもない狂いが生じて-るのである。. マルクスの'この1文も、「大ざっば」な見取り図であっ. とかいった時間の単位で歴史を考えて見るときにこの公式をあてはめ. 単な公式は当たっているだろう。しかしせいぜい10年とか、二〇年. であった。そして、彼の経済学研究の結果として出てきたのが右の「公. 生み出してきたかわからない。マルクスはもともと法律学が専門で. ヽ. 存在を規定するのではな-、逆に、人間の社会的存在がその意識を規. ヽ. あった。彼が経済学の必要性を痛感したのは、「ライン新聞」の主筆を. ヽ. 定するのである」というマルクスの一文である。. ヽ. していたとき、経済的な利害関係に口をださざるをえな-なったため. ヽ. みなすべきである。この部分では、心的な異常は身体的な異常とある. わない。微視的に考えれば、同じブルジョワ・イデオロギ-諸形態に. 。. 異こそが重大な意味をもつのである。しかし、近代の芸術などを一様 比較文化論序説似. 平野.
(14) 65. あって、経済学上の問題は純粋論理的に経済学の範囲内で解決されな. 比較文化論序説似. たどることのできる過程をつうじて対応しているということができな. 逢着する。例えば、マルクスは、資本主義社会は原理的に経済恐慌を. 避けることができず、必然的に崩壊すると主張したが、たび重なる恐. 象の自律性を証明しようとする。「上部構造と下部構造の相対的独立. とい-問いで始まっているのだが、著者は全菅力を傾注して、心的現. なる。『心的現象論序説』は、「心的現象は自体としてあつかいうるか」. れているのだが、当然のことながら、心と環界の間についても同じに. しかし貨幣というものは、おそら-文化の誕生とともに生み出され文. は貨幣を経済学的な範噂としか考えることができなかったのである。. 幣は商品」. 開しえなかったのか。「その理由は明らかである。マルクスにとって「貸. なぜマルクスの予言はあたらないのか。なぜマルクスは恐慌諭しか展. 慌がおこってきたにも拘わらず、いまだに資本主義社会は続いている。. 性」などという暖味な言い逃れは一切粉砕されるのである。そして著. 化的要素の一つであって、文明史の全般にわたって人間を支配してき. でしかなかったからである」と岩井克人は言う。マルクス. (四三). 者の行き着-結論は次ぎのようなものだ。ここでは、想像力という言. たものだ。貨幣は単なる経済範噂としての商品ではない。「貨幣が貨幣. 幣共同体が存在しているからであり、その貨幣共同体が存在している. であるのは、それをいつでもどこでも貨幣として受け入れて-れる貨. 世界が、有形あるいは有声として(心象)に関与することが、想像力. のは、それが未来永劫にわたって存続してい-と期待されているから. である。ここでは貨幣共同体なるものの自明性にはなんの疑問ももた. れていない。いや、ひとびとが流動性にたいして欲望をいだ-とき、. それは、貨幣を貨幣として受けいれて-れる貨幣共同体の無限の永続. 生活様式を扱う民族学もこれに含まれるであろう。しかし、これらは. は伝統的に、法律学、政治学、経済学などで扱われてきたものである0. 我々の比較文化論は、もっと範囲を広-取る。「生活的・社会的文化」. は解明できない。「たとえ生産がとまり、企業が倒産し、失業者が街に. してきたのである。この貨幣共同体なるものの本質は経済学的原理で. イパ-・インフレイションが起ころうが、やがて資本主義社会は復活. がっているのである」. 性を期待しているのである。いわばひとびとは永遠の共同体を欲し (四四) 。だから、なんど恐慌が起ころうが、なんどハ. いずれも文化概念の諸形態と考えてよい。「人為」が係わるものはすべ. の貨幣を貨幣として受けいれる貨幣共同体の未来にたいする信頼は失. あふれていても、ひとびとが貨幣を貨幣として欲しているかぎり、そ 経済学と文化一般とは切り離して考えられている。経済学は科学で. て文化であるというのが我々の立場である。. 一般的に、比較文化論は、精神文化内部の比較、影響関係を扱うが、. ●生活的・社会的文化と比較文化論. のである」。. (四二). の世界では禁止される。現実の世界はただ二次的な世界に退かされる. もない。「想像力は現実の世界を抹消することはできない。ただ現実の. 葉が使われているが、想像力も心的現象の一つであることは言うまで. また、心と身体との問には素朴な因果関係などないということが言わ. ここでは、心的現象というものが、独立して存在するということ、. 介されてはじめて合理的である」. (四こ. ければならない。しかし、こういう立場に立つと解決できない問題に. 四〇. い。(心)と(身体)とのあいだはもっとも非因果的な構造によって媒. 平野 0.
(15) 64. われていない。いや、恐慌のさなかに'「鹿が清水をもとめて鳴-よう 、ひとびとの魂が貨幣をもとめてあげる悲痛な叫び声こそ、まさに その貨幣共同体の基盤の上に成立している資本主義社会の未来にたい (四五). かぎり、貨幣の背後にモノやコ-を想定しないわけにはいかない。経. 済学というのは、ある抽象レベルでしか成り立たない学問なのであっ. て'人間や人間社会に係わるある事態を経済学的に解明できたからと. いって、それですべて事が済んだと考えてはいけないのである。経済. 学は現実を考察する補助的方法にすぎない。人間的現実を総合的に解. 明するには、人類学や文化人類学や比較文化論のほうがはるかに有効. するもっとも熱烈なる期待の表明にほかならないのである」。 「ひとびとの魂が貨幣をもとめてあげる悲痛な叫び声」は経済学で は解明できない。人間とは何か、文化・文明とは何かという問いを発. である。. カ-ル・ポラニ-の経済人類学は、近代西欧の市場経済における合. 理的経済人(ホモ・エコノミクス)を否定した。人間を動かす動機は. 素がそこには絡んで-る。こう考えることによって、ポラニ-は、近. 経済だけにあるわけではな-、宗教的、政治的、呪術的など様々な要. についてまともに論じたければ「貨幣とは何か?・」という開いにまと. 換の原型となるのは'物と物との交換ではな-、一方的贈与のように. した。ポラニ-の継承者を自認する栗本慎一郎はこう書いている。「交. 代の合理的市場経済と、原始的な非市場経済を同時に扱うことに成功. 駄である。貨幣商品説も貨幣法制説も「貨幣の背後に貨幣を貨幣たち しめている「何か」を想定している点ではまさに同罪」であり、「貨幣. するなら、その背後に「具体的なモノや具体的なコー」を求めても無. しなければならない。そして、貨幣とは何かという問いに答えようと. (四六). もに答えてはいけない。もしどうしてもそれに答える必要があるなら ば「貨幣とは貨幣として使われるものである」というよりほかにない」 とい、つことになる。. 思われる。ポーラッチにみるように、社会のある特定の機会をとらえ. て、人は他人に贈与を行なう。物であったり、人(奴隷). つまり、貨幣というのは、経済学や法律学によって定義することが 1応できたとしても、貨幣の本質はそれに尽きるものではない.マル. サ-ビスであったりする。なぜ、それが行なわれるのかという原因は、. であったり、. クス自身は、労働価値説によって貨幣=商品の「物神的性格とその秘. さらに深層にあるが、表層上は、自らの地位を安定させるために行な. われる。そこでの深層とは、生存に係わる人間の恐怖であろうし、人. 密」を解いたと豪語したが、それに付着した「形而上学的小理屈と神 、つまり人間共同体の文明史的過程で付着してしまった何. (四七). 学的偏屈」. 間存在の深部にある暗黙の知の力とも考えられる。贈与は、それを行 (四八). 物かを除去することはできなかった。その「何物か」とは、「貨幣共同. なう人間の社会的地位を安定させる。身分を保証するという目的のた (五〇). 体が未来永劫にわたって存在しっづけるという期待」. めに行なわれるのである」. 四一. るかを解いてみせたマルクスの価値形態論は、「一九世紀的誤りのまと. ら交換の歴史的、論理的過程のなかからいかにして貨幣が生まれて-. 『贈与論』的な考え方からは、当然のことなが. 。. である。このよ. うなものに何ら科学的、論理的根拠があるわけではない。だから貨幣. こういったモ-スの. (四九). とは「無限の未来からの贈与」という摩討不思議なものになり、マル クスの貨幣=商品説はとどめを刺されるのである。 経済学というのは、一つの考え方にすぎない。経済学の立場に立つ 比較文化論序説似. 平野. に」.
(16) 63. 比較文化論序説㈲. ヽ. ヽ. ヽ. 要i. の冒頭で言った「資本主義. は崩壊するどころか、経済学的な目的合理性など全. (五玉). だから、我々は、マルクスやボ-ドリヤ-ルや経済人類学者の学説、. 考えるべきであろう。. ばかならずそこには論理学者の生み出した成果がかかわっている、と. ではないだろう。泌尿器専門医の知識を深層レベルまでたどっていけ. とになる。しかし知識というものは、これほど単純に二分されるもの. 石の除去には、論理学者よりも泌尿器専門医を必要とする」というこ. 的・経済的成果を実現するための手段としての知識である」. る、新しい意味における知識とは、「効用としての知識、すなわち社会 (五四) 、「腎臓結. タ-・ドラッカ-であるが'彼によれば、ボス-資本主義社会におけ. なかでいかに生きてい-かを教える知識とである、と言ったのは、ピ-. 知識には二種類ある、パ-ティの会話を楽し-する知識と、砂漠の. 出した、と言えるかもしれない。. た、本来的にはひょっとすると豊かでも何でもない狂騒的文明を生み. く意味のもたない、あらゆる価値の転倒がおこなわれる、常軌を逸し. は用いなかった). 的生産様式の支配的である社会」(マルクスは資本主義社会という表現. 一つの段階である。マルクスが『資本論』. 乏化や搾取が生み出す不幸から自由になった豊かな社食がむかえた、. で不安定な領域として役立っているからである」. しているのであって、それらに対しては、モノは意味作用の無意識的 (五三) 。これが、貧困や窮. モノは社会的論理にせよ欲望の論理にせよ、まった-別のものに対応. た機能や欲求にはまった-結びついていない。というのはまさし-、. 論理と同様に記号の論理においても、モノはもはやはっきり規定され. ヽ. は消費の固有な領域である。ここでは、他のあらゆる種類のモノが、. ヽ. ヽ. め」として、ここでも葬り去られることになる。マルクスは勿論、貨. ヽ. ヽ. (五一). 世紀という時代は、「生存に係わる人間の恐怖」とか、「人間存在の深 部にある暗黙の知の力」といった非合理的のものを科学の噂外に追放 しょうとした。マルクスのような偉大な思想家も'そういった時代の 傾向から自由になることは出来なかった。7-コ-が設計・構成した 「知の考古学」のなかでは、マルクスは一九世紀という知の地層にぴっ たりと位置ずけられ'そして、マルクス主義という思想も'「一九世舵 (五二). の思考において水のなかの魚のようなものであって'それ以外のどこ ででも呼吸するわけにはいかなかったろう」として見事に始末されて しまった。マルクスは一九世紀の優等生だったのである。ただし、『資 本論』 が今でも読まれるとすれば、それはフィクションとしてであろ う。商品、貨幣、資本というキャラクタ-たちが実に生き生きと動き 回る大長編フィクションとして読めば'それは、ヴィク-ル・ユ-ゴの小説とさして変わりのないものだ。ただユ-ど-に較べれば造かに 知的であるというだけの話である。 『消費社会の神話と構造』 (原題『消費社会』). ヽ. ヽ. 意味表示的要素としての洗濯機に取ってかわることができる。象徴の ヽ. 幣のもつ呪物的、物神的性格には充分気がついていた。しかし、一九. に ヽ. ボ-ドリヤ-ルの. ょれば、商品はもはや単に人間の欲求を満足させる効用(使用価値). ヽ. であ ヽ. を持ったものとか、他の商品と交換するための手段(交換価値) るだけではない。それは'現代の消雪社会では、言語と同じ記号と化 してしまっているのである。モノ=商品は、「かわりのきかないその客 観的機能の領域外やその明示的意味の領域外では、つまりモノが記号 ヽ. 価値を受けとる暗示的意味の領域においては、多かれ少なかれ無制限 ヽ. に取りかえ可能なのである。こうして洗濯機は道具として用いられる ヽ. とともに、幸福や威信等の要素としての役割を演じている。後者こそ. ヽ. ヽ. 平野.
(17) 62. 主張を役立たないとして排除するのではな-. 考えるべきである。だから、事後的にかんがえれば、蒸気機関の発明. これに加わらなければ、蒸気ポンプの開発・発明はありえなかったと. 、それらに敬意をはらい. ながら'それらを充分考慮に入れたうえで「効用としての知識」を挙. には歴史的必然があったという見解が出て-るのであり、こういう見. '東大出版会、一九八二年、一二四真。 中田光雄『文化の協応』 『仏教・キリスー教・イスラ-ム・神道、どこがちがうか』. 、講談社、昭和四二年、三〇真。. 、G・B・スケ-ブランド他編、大修館書. 邦訳『世界文化情報事典』. 閣、平成三年、一九真-二二頁。 (三). 店、一九九二年。 中根千枚『タテ社会の人間関係』. 和辻哲郎「『菊と刀』について」. 和二六年、八二真。 末木剛博「比較文化論の基礎」 較文学合、1九八一年、1頁.. 、前掲書、六三頁。. 神』、岩波文庫、一九五五年、八〇頁。 同書、八1真. ヴエ-バ-. 綾部恒雄編『文化人類学l五の理論』. 七計o ヴエ-バ-『理解社会学のカテ.'nリ-』 四頁。. 、法輪. 、岩波文庫、一九八〇年、四八. 、岩波文庫、一九六八年、l. 、中公新書、l九八四年、二四. M・ヴエ-バ-『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精. M・ヴエ-バ-『職業としての学問』 -四九頁。. 、『比較文学研究』第四〇号、東大比. 同書'三一頁。 、社会思想社、昭和四二年、五頁。 『菊と刀』 、『埋もれた日本』所収、新潮社、昭. (四) (五) (六) (七). (八). (九). (岩). (T四). (1111). (≡). (ll). (二). (一). ないのである。. 解を「恐るべき単純化論者」の論として、そう簡単に無視してはなら. (五八). げるのでなければならない。たとえば、実際的な企業運営にかかわる 文化の問題を扱った本が沢山出版されているが、これらは、まさし「効用としての知識」である。しかし、こういうものにだけに価値をお いて、論理的、原理的な知識を排除するのは誤りである。ドラッカ自身'コンビユ-タ-の発明に係わった知識を5つ挙げているが、臭っ 先に彼が挙げているのは'一七世紀の数学者であり、哲学者であった ライプニッツによる二進法、つまり'「あらゆる数字は二つの数字oと (五六). -によって表されることの発見」である。それ自体現実には何の役に もたたない知識がなければ、コンビユ-タ-の発明はありえなかった (五七). のである。また、ドラッカ-は、コンビユタ-の開発がアメリカで行 なわれたのは偶然にすぎなかったと言っているがこれも再考を要する0 どんな開発・発明も現実に必要とされなければ行なわれるものではな い。コンビユ-タ-が現実に必要であることに真っ先に気がついたの が第二次大戦中のアメリカ人だったと解するべきだろう。蒸気機関の 原理はすでにキリシャ時代にわかっていた。しかし、実際に蒸気機関 が開発されたのは、一七世紀末のイギリスにおいてであった。この頃 のイギリスでは、金属の需要が著し-増え、鉱山開発が盛んになった。 鉱山には大量の湧水が出る。この排水に蒸気エネルギ-を使用すれば よいと気がついたのがイギリス人のセ-ベリ-であった。つまり、蒸 気ポンプの発明である。こういった経緯のなかで、どの要因も無視は できないが、もっとも大きな作用困は何かといえば、社会的必要性で あろう。蒸気エネルギ-についての知識があっても、セ-ベリ-とい. 四. う人がいても、鉱山の湧水を効率的に処理するという社会的必要性が 比較文化論序説㈲. 平野. 注.
(18) 61. 同所。. 比較文化論序説似. 0・ペゲラ-編『解釈学の根本問題』 (p・リク-ル. 「諸解釈間の葛. 藤」)、晃洋書房、一九七七年、三七二頁. ヴェ-バ-『社会学の根本概念』、岩波文庫、一九七二年、一〇頁。 、六1頁o ヴューバ-『職業としての学問』 p・ブリユネル他編『比較文学概論』、白水出版センタ-.1九九三. 三ロ). 例えば、大島清次『ジャポニスム』、美術公論社、1九八〇年.. 同書、四二五真。. 年、三七七頁-四二五頁。. (≡). 中公文庫、一九九四年。 『比較文化論』、評論社、昭和四五年、二四頁。 飯塚浩二. 二二. (四七). (吾). (四九). 同書、三一九真。. 同書、二1. 、筑摩葦屠、一九九三年、二一二束。 1頁-二1二頁o. 岩井克人『貨幣論』 同書'二一一頁。. 、青土社、昭和五五年、. 同書、二二二頁。 E・マルクス『資本論』第一巻、岩波書店、昭和四二年、九四頁。 岩井、前掲書、二〇二真。 同書、1八1真。. 栗本慎一郎『幻想としての経済』. 、ダイヤモンド社、一九九三. 二三頁-二四頁。 同書、二七頁。 (五こ 、新潮社、一九七六年、二八一貫。 M・フ-コ-『言葉と物』 、紀国屋書店、一九七 ー・ボ-ドリヤ-ル『消費社会の神話と構造』 (至). (空). 九年、九三頁。 p・ドラッカ-『ボス-資本主義社会』 10真. 同書、五八東。. 同書、1. 年、八七頁。. 同書、五九真。 同書、五八東。. ヽ_/. 同所。 K・レーヴィツ-『へ-ゲルからニーチェヘⅢ』'岩波現代叢書、一. 『歴史哲学』 (上)、岩波書店、昭和二九年、二一四頁. 、ヽ_./ ). 『小論理学』 (下)、岩波文庫'一二九頁。 ヘ-ゲル レ-ヴィッ-、前掲書、一九〇真。 ヘ-ゲル. 四. ヽヽ_/ ヽヽ_/ ). 同書、一二四真。 1八東o. 『人文地理学原理』上、岩波文庫、l九七〇年、二〇二. 『文化唯物論』上、下、早川書房'昭和六二年。. 同書、一二五頁。 『肉食の思想』、中公新書、l九六六年、1 鯖田豊之 M・ハリス ブラ-シュ. 『経済学批判』、岩波文庫、昭和三一年、一三頁。. 末木、前掲論文、1四頁o マルクス. G・ルカ-チ『美学』-、Ⅲ、勤草書房、一九六八年.. 同書、一四頁。. 四 三. 平野. 吉本隆明『心的現象論序説』、北洋社、昭和四六年。 同書、七頁。 同書、一六頁。. / ヽ ′ ヽ. ヽ■一′. 旺可 四 四 五. ヽー. ヽ_../. (. 四 六. ( ノへ. (宍). (畜). (三). ). (. 3ii画円. 、ヽ_ノ. (. 3iR田E. 、、_/ ヽー. ′ ■■ヽ. -一七二 三. ^. 声妻室 巨宣室 Fii!同 ^ 五 -七三 六. ヽー. ノヽ ヽー. 九 ) ) ヽー ヽ_/ ). ノへ. =. 九. ′-■ヽ. ′一ヽ. 3iRi岩 ニニ. 一七. =. ′ー. …. ー. 九五三年、一八三頁。 『道徳の系譜』'岩波文庫、一九六四年、五六真。 ニ-チェ. 頁。. 六. ニュ 二三. ヽ-/. 、--′. ^ 九 ヽ-一′. ヽ--/. ⊂⊃ ). ( .′-ヽ. 二二. ′ ←・ノ \. (. 三 …. ′ ヽ. 三 【Z可 、ヽ_/. ′■ヽ. ー・. _≡三 ニニ =. 、ー ヽ-′. /、 ( (. 四 ⊂⊃. 三. ′-ヽ. 四. ノー\. 三 五 六 七. (.
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