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不 干 渉 政 策 の 決 定 過 程 ロ ・ 完

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(1)

はじめに 政策決定の機関

H

首相と外相

口 内 閣 国軍部︵以上前号︶

政策決定の過程

H

0

日ーニ四日

おわりに︵以上本号︶

不 干 渉 政 策 の 決 定 過 程 ロ

・ 完

ブルム内閣とスペイン内戦

9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9

9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 .  

説 [

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•9999.

9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 ,

 

4 1

 

3‑2‑195 (香法'83)

(2)

( l )  

(1 ) 

四八月九日以降不干渉政策を積極的に承認し擁護する時期︒

八月一日ー八日

(二) (一)

政策決定の過程

七月二

0

日から八月にかけて︑ブルムとその政府は次の四段階を踏んで不干渉政策を決議し実施するにいたった︒

七月二

0

日ーニ四日

七月二五日ー三一日 心情的にも実際的にも援助を考えていた時期︒心情的には援助︑実際的には中立と一歩後退し不干渉を消極的に承認する時期︒

不干渉政策が国際的に提起され閣内の援助派が押し切られる時期︒ブルムは逸巡しつつもこ

の過程を容認︒実際に武器が引渡された時期でもある︒

それではこれらの時期をクロノロジックに追い︑内閣の意思がいかなるメカニズムで決定されていったのかを検討

(2 ) 

しよ

う︒

一九三七年五月からの﹁緩和された不干渉

l a n on   , i n t e r v e n t i o n  

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J

の時期を加えれば︑五段階となる︒しかしこの第五期

の武器供給は秘密裏に行なわれ︑公的な態度たる絶対中立に変更はなかった︒なおゴンバンは①七月二

0

1八月八日︑②八月九

I︱二月︑③三六年︱二月1三八年六月の三期に区分している︒

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d G om bi n, e   L s   s o c i a l

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( P   a r i s ,   1 97 0) , 

pp . 

21 3 21 4.  

( 2 ) 不干渉政策のクロノロジーについて研究書やメモワール類にも細部に関しては︑多くの誤りが見うけられる︒従って以下におい

て︑できる限り一次資料に基づき日時や発言の内容を確定してゆきたい︒

3‑2 ‑196 (香法'83)

(3)

不干渉政策の決定過程(二)(渡辺)

七月二

0

日1二四日

フランコ将軍の軍事反乱

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o に直面したスペイン共和国首相ホセ・ヒラール

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G i r a

l は︑七月二〇

日︑プルム首相に武器の援助を要請した︒この要請は外交手段によってなされず︑直接ブルムに普通電報でなされた︒

内容の重大さとそれが普通電報で送られてきたことへの照きを︑当時の内閣官房長官

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e t であった

アンドレ・プリュメル

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と内閣事務総長

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であったジュール・モ

(2 ) 

ック

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h日朝︑事態をブリュメルから電話で知らされたブルムも同様では戦後表明している︒この驚きは二

0

( 3 )  

あった︒しかしブルムは敏速に行動した︒二

0

日から二二日にかけて首相はデルボス外相︑ダラディエ国防相兼陸相︑

スペイン共和政府のアピールに好意的に答えることで同意を

ピエール・コット

P i e r

C r e

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空相ら関係閣僚と協議し︑

(4 ) 

とりつけていた︒それは次の理由に基づいていた︒スペイン共和政府は合法かつ正統政府でありその政府の要請に応 ずることは正当であるという国際法上の理由︑スペイン共和政府はフランスの友好国でありともに人民戦線を標榜す る政府であるというイデオロギー的理由︑ピレネー国境にファシズムに好意的政権が樹立されるのを阻止するという

( 5 )  

一九三五年︱二月に締結された仏西通商条約の適用という合法的理由であった︒もっともこれら

( 6 )  

コット空相は全面支持︑ダラディエ陸相とデルボス外相にはややためらいが見られた︒

しかしスペインに送る武器を検討するために︑空軍についてはコットが陸軍についてはダラデイエが責任者となって

(7 ) 

作業を進めることとされた︒

(8 ) 

一時からエリゼ宮で閣僚会議

C o n s

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が開かれていた︒会議は︱二時三

0

分ま

で続けられ、その大部分はデルボス外相が説明した外交問題の検討にあてられた。外相はきたるロンドンでの英•仏・

ところでニ︱日午前

安全保障上の理由︑

閣僚の反応は同一ではなく︑

日 第 一 期

3‑2 ‑197 (香法'83)

(4)

このロンドン三国会談は本来︑ 一日の独澳協定︑ダンツィヒ問題︑スペイン問題︑

スペイン問題について何が審議されたのかつまびらかにしえないが︑援助問題はこの場では論じられなかったよ うである︒なぜブルムは援助の要請があったことを伏せたのであろうか︒

ろ単なる技術上の問題のためであったと思われる︒つまりスペイン共和政府から必要とされる武器とその数について︑

正式の要請がまだ届けられていなかったからであろう︒それにブルムと関係閣僚との意思統一がまだ図られていなか ったことも考えられる︒従って援助問題が争点でなかった以上︑

おそらく意図的に伏せたというより︑

スペインの状況に関する情報不足に加え︑問題の重要度からしてロンドン会談に臨むフランス政府の立場の確 認と︑成功裏に終わったモンルー会議の詳細の報告の方に時間が多くさかれたことは想像にかたくないからである︒

ともあれ少なくとも二二日までには︑関係閣僚の意思統一がなされたようである︒それは次の四つの事実によって

(9 ) 

裏付けられる︒第一にデルボス外相が二二日午後三時にロンドンヘ出発したこと︑第二に同日パリ駐在スペイン大使 フアン・デ・カルデナス

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がブルムを訪問し︑外交ルートを通じて正式に武器の援助を要請したが︑

( 1 0 )  

ブルムはこの要求に同意を与えていたこと︑第三に二三日コット空相が外務省に電話をし︑

スペイン共和政府から注

( 1 1 )  

この行動については首相と外相の賛成を得ていると語ったこと︑

第四にパリ駐在ドイツ大使のヴィルヘルムシュトラーセ

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B   e

への二三日付け通信であり︑その中で大使は

( 1 2 )  

フランス政府がスペイン共和政府に軍需品を供給する決定をしたと報告していることである︒

( 1 3 )  

以上のようにブルムはスペイン共和国の要請に答える意思をもって︑二三日ロンドンヘ発ちデルボスらと合流した︒

目的としていた︒﹃ル・タン﹄ ラインランド事件後のヨーロッパの状況を再検討し新たなロカルノ体制を再建することを

はもっとはっきりとこの会談を﹁平和を救ううえでこれまでになく不可欠となった仏英

文のあった武器の引渡しを開始する意図を表明し︑ っ

た ︒

した

︒ ベルギー三国会談︑七月

この閣議でのスペイン問題の取り扱いは二次的であ

むし モンルー

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会議について説明

3 ‑ 2 ‑198 (香法'83)

(5)

不干渉政策の決定過程(_こ)(渡辺)

面してからのことであって︑

イーデンの忠告が直接の理由ではないからである︒

( 1 4 )  

協調の目的と方法を明確にしうる﹂会談と位置づけていた︒従ってスペイン問題は正式の協議事項ではなく︑会議で

( 1 5 )  

このことはフランスの外交文書に明らかである︒しかしイギリス政府の考えは非公式にし

ボス

に︑

共和スペインを援助することは﹁当地ではただちに共産主義に同調的と判断される﹂と語り︑イギリス政府

( 1 6 )  

の否定的空気を伝えていた︒また戦後の議会調査委員会でプルムは︑ベルティナックス

P e r t i n a x とイーデン外相の行 動 に つ い て 言 及 し て い る

︒ ロ ン ド ン に 逗 留 中 のブルムに﹁スペインに武器を供給すること﹂は﹁当地では良く思われていない﹂

ルムが帰国する直前に︑

ブルムの投宿先のホテルを訪ねていた︒

してイーデンは述べた︒﹁それはあなた方の問題だ︒

従来このロンドン三国会談は︑

ロンドン駐在フランス大使シャルル・コルバンはブルムとデル

と告げていた︒

しかし私はあなたにひとつだけお題いする︒

イーデン外相もブ スペイン共和派に武器を与えるブルムの意思を確認

( 1 8 )  

どう

か慎

重に

︒﹂

イギリス政府からフランス政府に圧力が行使された第一のケースであったとされて いた︒今日のこの会談について言いうることは︑議事録からも明らかなように公式の場ではそのような事実はないと いうことである︒しかしこのことは午餐会など非公式の場で︑

い︒詳細は不明であるが非公式の接触を通じて︑フランス代表はスペイン問題についてイギリス政府の冷淡な態度を

( 1 9 )

2 0 )

確認したようである︒しかしイギリス保守党政府のこのような態度は︑イギリスとスペインの経済関係からして当然

の忠

告も

いがたい︒ブルムが唯一言及したイーデン外相 イギリス政府の最後通牒と断言しえない︒従って不干渉政策の決定にイギリス政府の圧力が行使されたと

主張することはできないのである︒ブルムの援助の意思に変化が生ずるのは︑後述するように帰国後国内の反対に直 予測しえたことであって︑

ことさらフランス政府を落胆させたとは

スベイン問題が議論されたことを否定するものではな

﹃レコー・ド・パリ

l ' E c h o de   Pa r i s

の外交記者ペルティナックスは︑ かも個人的に︑フランス側に伝えられたようである︒ は取りあげられなかった︒

3‑2 ‑199 (香法'83)

(6)

フランス政府首脳の訪英はスペイン問題に関しては成果をあげなかったが︑良好な仏英関係を築くうえでは成功し た︒両国はヨーロッパの平和を確保するという原理で一致したのみならず︑両国首脳の個人的関係においても成功し

たのである︒このロンドン会談は︑ブルム内閣にとって初の仏英サミットであった︒社会主義者ブルムはその洗練さ であったからである︒ 自縄自縛に陥り︑ ただしこの会談の結果︑止目すべき二つの事柄が生じた︒

スペイン共和国への援助問題が争点となったとき

三国は﹁ある普遍的規則

u n

ひとつは訪英がデルボス外相に与えた影響である︒ニ︱

( 2 1 )  

日にブルムとデルボスはスペイン共和国の要請に答えることを確認しあっていた︒帰国間際のプルムとイーデンとの 対話からも窺えるように︑ブルムの援助の意思に変化はなかった︒しかるにデルボスはイギリス政府の冷淡な態度に 影響され慎重さを示し始めていた︒タブイによれば︑デルボスは﹁われわれはイギリスとの協力とスペイン共和国へ

の支持との間で選択せねばならない﹂とか︑﹁共和スペインヘの同情的態度によってわれわれを危険に晒すこと﹂への

( 2 2 )  

不安を語っていたという︒これまで看過されがちであったが︑訪英が大きな印象を与えたのはブルムにではなくてデ ルボスにであった︒デルボスにとってロンドンでのイギリス政府との接触は︑転換点を画したと言いうるのである︒

他のひとつは会議のコミュニケに表明された精神である︒最終コミュニケによれば︑

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によってヨーロッパの平和を強固にすること﹂で一致をみていたが︑同時に﹁対立ブロックヘのヨ

( 2 3 )  

ーロッパの分割ほどこのような普遍的規則への希望に有害なものはない﹂ことでも一致を表明していた︒

つまりロン

ドン三国会談は何よりも﹁ヨーロッパの平和﹂を確保するためのものであった︒ブルムも会議の席上︑﹁フランス政府

は平和の普遍的規則の起草に全力を傾ける﹂と決意表明をしていた︒フランスは自己をこの宣言の一員とすることで

スペイン問題に関する政策の選択肢をますます狭めてゆくこととなったのである︒なぜならこの時

期﹁ヨーロッパの対立ブロックヘの分裂﹂が最も喧伝されたのは︑

'  

3 ‑2 ‑200 (香法'83)

(7)

不干渉政策の決定過程(二)(渡辺)

こ ︒ 対するイギリス政府の不安を解消するのに貢献していたのである︒英仏海峡に架けられた橋を︑ れた知性と穏健な思想ゆえに︑

ニ四日夕刻︑

( 2 5 )  

イーデン外相︑ボールドウィン首相ら保守党の領袖にも好印象を与え︑社会党政権に

ブルムら一行は帰国の途につき︑

れていた︒﹃レコー・ド・パリ﹄や﹃ラクシオン・フランセーズ

I ' A c t i o n F r a r n ; ; a i s e

﹄などは︑援助問題を暴露しセン

( 2 6 )  

セーショナルを惹き起こしていたのである︒

ル・ブルジェ

l e B o u r g e t 空港に着いたブルムを出迎えたのは︑急進党のカミーュ・ショータン国務大臣であった︒

二三日ーニ四日にかけてショータンは両院の議長や大統領と個別に会談し︑武器供給問題に対するかれらの不安を知

( 2 7 )  

らされていた︒空港で首相を待ち受けていたのも大統領の要望があったためという︒ショータンの口からブルムは︑

( 2 8 )  

不在中にパリで生じた﹁騒動

e m o t i o

n ﹂の次第を知らされた︒ショータンの考えはモックヘのかれの電話に明らかな

( 2 9 )  

ように︑﹁われわれは抜き差しならぬ状況に係わるべきでない﹂というものであった︒ショータンは閣内で不干渉の闘

士として積極的に行動するであろう︒

帰国してすぐにブルムは両院の議長と会い︑ スペインヘの援助は内密に運ぶこととされていたが︑ 壊しうるであろうか︒

パリの政界が援助問題をめぐって騒然としているのを知った︒共和 スペイン大使館の陸軍武官によってフランスの右翼紙に漏洩さ

( 3 0 )  

かれらに意見を求めた︒上院議長ジュール・ジャンヌネー

J u l e s J e a n   ,  n e n e

は﹁スペイン問題のために戦争に導かれる﹂ことに反対し︑﹁フランスの直接即時の安全に係わる﹂﹁三月七日にy

( 3 1 )  

われわれはためらい譲歩したのに﹂どうしてスペインのために行動するのか﹁誰も理解しえない﹂と激しく非難した︒

そして﹁介入することでヨーロッパ紛争が惹起してもイギリスは︑われわれに従わないと確信している﹂と付け加え エドアール・エリオ下院議長の考えも同様であった︒プルムはエリオを説得することで︑急進党内の意見を変え

フランスは敢えて破

3‑2 ‑201 (香法'83)

(8)

マドリッド政府を援助することに反対はなく︑

ダラディエ陸相も二四日︑上院の廊下で共和連合

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  R e p u b i c a i n e

の総裁から軍需品の引渡し問題を紅されて

( 3 2 )  

いた︒陸相は﹁それはわたしの管轄ではない﹂とかわすのが精一杯であった︒

( 3 3 )  

この間デルボスは武器供給に反対する急進党のリーダーと話し合いをもち︑介入政策の困難さを痛感していた︒既

にデルボスはロンドン滞在中の二三日︑

囲気を知らされていた︒委員長のアンリ・ベランジェは軍需品引渡しのニュースに驚き︑そのニュースが公式に否認

( 3 4 )  

されることを外務省に要求してきていたのである︒デルボスがロンドンで吸ってきた空気は︑パリに帰ってかれの体 内で膨張し始めた︒この空気は二四日深夜にブルムの私邸で開かれた関係閣僚会議の場で︑吐露されるであろう︒

( 3 5 )  

この会議は漏洩という新たな状況のもとで︑援助問題を協議すべく召集されたものであった︒参集した大臣はコッ

ト空相︑デルボス外相︑ダラディエ陸相︑

スペインからの使者フェルナンド・デ・ロス・リオス

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d o

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  L o

s   R

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s も出席していた︒

カルデナスや陸軍武官の辞任によって支障をきたした外交活動を立て直し︑武器購入問題を円滑に運ぶためにスペイ

( 3 6 )  

ン政府から派遣されてきたのであった︒デ・ロス・リオスはスペインの状況と共和スペインがフランスに対してもつ 意味を説明した︒会議ではスペインに武器を供給する可能性や︑

じら

れた

しかし四人の大臣の中でデルボスのみためらいを示した︒外相は飛行機がフランス人パイロットの手によって引渡さ ムに重くのしかかったはずである︒ させようと試みた︒しかし逆にエリオから﹁お願いだ︒きみ︑

それに首を突っ込まないでくれたまえ﹂と諭される始 末であった︒プルムがエリオに外相を要請したことからも窺知しうるように︑信頼していたエリオのこの言葉はブル

ケー・ドルセーから送られてきた至急極秘電報によって上院外交委員会の雰

それに蔵相のヴァンサン・オリオール

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会党

であ

った

︒ かれはスペイン大使 スペイン共和国が存続することの戦略的重要性が論

マドリッド政府への軍需品の売却は技術的問題とされた︒

3‑2 ‑202 (香法'83)

(9)

不干渉政策の決定過程(二)(渡辺)

ともあれ二四日の時点ではフランソワ

1

1ポンセも指摘するように︑首相とケー・ドルセーの間には見解の相違が存

( 3 9 )  

在するという印象を外部に与えていた︒もっともブルムらの行動は非公式なものであり︑一応外務省のコミュニケが 政府の公式声明の資格を有していた︒このような政府内の見解の相違は早急に修正されねばならないであろう︒

( 1

)

﹁軍部クーデタの危険な企てに驚いている︒兵器と飛行機とをもって即刻わが方を助けられるよう懇請する︒兄弟のよしみをもっ

であ

る︒

れることに反対し︑国際世論を刺激しないように配慮し慎重に行動することを繰り返した︒このためブルムはメキシ コといった共和スペインに好意的な第三国を経由して︑軍需品を送る方法を提案した︒この問題を協議するために明 日︑臨時閣僚会議を召集することも決定された︒深更の会議はスペインを援助する意思を確認して散会したのである︒

さてスペイン共和政府からの援助要請が正式の外交ルートを通じてなされたのは︑前述したように二二日であった︒

この日スペイン大使がブルムを訪れ︑武器の要求品目を手渡していた︒パリのスペイン大使館からデルボス外相宛て

( 3 7 )  

にそれが提出されたのは︑二四日のお昼であった︒ケー・ドルセーに提出されたのは︑ケー・ドルセーが武器輸出の

認可権を持っていたからである︒

ところがケー:ドルセーは二四日︑次のコミュニケを発表しスペイン共和政府の要 求を黙止したのである︒﹁外国からいかなる武器の引渡し要求も外務省に提出されていない︒ケー・ドルセーと協議す

( 3 8 )  

ることなく外国に武器が引渡されることはありえない︒﹂このコミュニケには二つの意味があったと思われる︒第一に

あっ

た︒

コミュニケは︑右翼紙の煽動によって騒然となった政界を鎮静化する目的をもって発せられた︒第二にコミュニケは 武器輸出問題はあくまでケー・ドルセーの管轄事項であり︑他の政府機関による侵害を黙許しないとの意志表示でも

いわば首相主導のもとに進められてきた武器供給問題に対し︑外務省が巻き返しを図った声明と言いうるの

3‑2 ‑203 (香法'83)

(10)

( 5 )  

( 4 )  

( 3 )  

に基づいて行動をおこしている︒ 約論議をするなら︑ イン政策についての覚え書﹂竹内良知編﹃人民戦線﹄ て ︒

ヒラール﹂以上が全文である︒

築忠七訳︵みすず書房︑

Mo ch ,  o p .   c i t . , p .   1 9 1 .  

一八七頁を利用させていただいた︒

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Q

2.

ニ八六ー七頁︒

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, ︑ed

e   L eo n  B lu m,

 t .  

IV   , 2

p .

3 7 4 .   なお翻訳は

H・トーマス

( 2

)  

An dr e  B l u m

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,   L a  n on   , i

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n   e n  E

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,   i n   G .   L e f r a n c ,

i s   H t o i r e   d u  fr o n t   p o p u l a i r e ,   o p .   c i t . ,   p .   4 9 4 .   平田襄治訳﹁スペ

e c •••

Le on   Bl um   ( P a r i s ,   1 9 7 0 ) ,   p . 1 9 1 .  

あるブルムの私邸に電話で電文を知らせたとき︑

L '

( E

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  de   Le on   B l um ,  t .   IV   , 2 ,  

p .   3

7 5

 

B l

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e l

,   o p .   c i t . , p . 4 9 4 .  

平田訳ではこの箇所は省略されている︒ 一九七三年︶所収︑

d ' O r s a y ,   0 p . a . t

. p .

3 5

﹃スペイン市民戦争

Mo ch , 

R e

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︵あるいはルフランの著書自体が初版と第二版とでこの箇所に変更

があるのかもしれない︒平田氏は初版から訳出され︑筆者は第二版を参照しているからである︒︶プリュメルがケー・プルボンに

﹁レオン・プルムはわたしの話を信ずることができなかった﹂という︒なおモッ

クは︑プルムは二0日登庁して事態を知らされたと記しているが︑電報に関しては当事者であるプリュメルの証言を採用した︒

Cf .,

ドライフォートは出所を明示せずこの関係閣僚との協議がニ︱日に開かれたとしているが︑プルムは二

0

日から二二日の間に開

かれたと述べている︒現段階ではブルムの説に従うことにする︒

D r e i f o r t , Y0   o n D  

e l

b o

s  

この条約により︑スペイン政府は総額二000

万フランの武器弾薬をフランスで購入することが認められていた

( P .

R e

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,   L a  p o l i t i q u e e  

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  go uv em em en t  L eo n  Bl um ,  i n   L eo n  B lu m  ch e f e   d   g o u v

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,  

0  p.  

c i t

︑ p. .

3 3

0 .

) ︒さらに冬{

モロッコでの蜂起はこの地域を軍事目的に利用しないという一九︱二年の仏西両国間の条約にも違反するも

のであり︑フランス政府は反徒の撤退を要求しえたという︒実際に三七年一月のモロッコ事件のときにはフランス政府はこの条約

( C

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a  L   dr o i t e   J r a n c a i s e

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9 3

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]   9 3 7 ,   Ge ne ve   1 9 7 3 ,   p .   2 7 ,  

1 0

 

I﹄都

3‑2‑204 (香法'83)

(11)

p. 115.) 

(t.e) Pierre Cot, Temoignage: ce que fut la <non‑intervention relachee>, in Le Monde, 21 novembre 1975, p. 7., Moch, op. cit., pp. 

191‑192. ~ 沿n0.L.Q1

rru

P.Cot, Trente ans apres, in Nouvel Observateur, 3 aoOt 1966 . ..;>‑IQ岐遠嘩

s

心゜

(r‑) Pierre Cot, Le procdela Rublique,tome II (New York, 1944,), p. 307. J‑t‑‑Le proces刈涵゜

(00)S翌癒辺0~ゃ竺LeTemps, 22 juillet 1936, p. 8. ~ 沿胆匹S些ミ圭釈艦'"><.. j,¥‑1¥>‑S如全'8ITJQ翌癒旦!]TIO:

⇒ ゃ.::

~8

P.A.M.van der Esch, Prelude to War, the International Repercussions of the Spanish Civil War 1936‑1939 (Hague, 1951), 

p. 51. J. Bowyer Bell, French Reaction to the Spanish Civil War July‑September 1936, in L.P. Wallace and W.C. Askew eds., 

Power, Public Opinion and Diplomacy (Durham, 1959), 275. Q ,t‑や硲心゜

~l'QJJ岱:."<'晒盆眠鰐苓‑IQ0ゃ全心忌全やS翌癒や‑IQl'Q咲や惚南'l'<~:. ..;, ,..lJ..i)~J QDJQ翌藍竺躙脳憾S坦祁やSS翌鞘ば

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︵図賭︶

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巾゜LeTemps, 22 juillet 1936, p. 8., 23 juillet, p. 8., 24 juillet, p. 2. ロ入ユ入4暉態S-l<~0:;. tiDocuments Diplomatiques 

Franc;ais 1932‑1939, 2erie1936‑1939,, tome III, 19 juillet‑19 novembre 1936, Nos. 18‑19., pp. 38‑45. (~}L--D.D.F . ...\J~ 醤゜

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(;:::) D.D.F., No.17 p. 37., Cot, Temoignage, in Le Monde 21 novembre 1975, p. 7., Moch, op. cit., pp.192‑193. 

(~) !L.~0+<~~J Qt£ 癖如I'¥If\;r<~S~lK!I全心感な刈癖甘□⇒~t-QDocumentson German Foreign Policy 1918‑1945, 

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(12)

1 11 

Series D 1937‑1945, Vol. III Germany and the Spasish Civil War 1936‑1939, No. 3 p. 4. (益)LD.G.F.P. 凶皆基)

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ゃ̲;l-0全心や~l-0DavidCarlton,'、EdenBlum and the Origins of Non‑Intervention" journal of Contemporary History, 

op. cit., 45‑46., Cot, Le proc蕊,p.308., Foreign Relations of the United States, Diplomatic Papers 1936, Vol. II Europe, No. 

668 ,p. 448. (芸}L‑F.R.U.S . ..1J聟国0)

ば)Le Temps, 23 juillet 1936, Bulletin du Jour, p. 1 

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11/ r¥ Iばヽ~0~い竺'D.D.F., Nos. 1820,pp. 38‑47., Dreifort, op. cit., pp. 85‑88. 

ぼ)Genevieve Tabouis, Vingt ans de≪suspense≫diplomatique (Paris, 1958), p. 296. ぷ·\'--~~製竺『ミー{'~l'CEuvreS苫神や母

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L'(Euvre de Leon Blum, t.IV‑2, p. 374. 

ヤーt卜,\竺~1-\-'t:'---~Q-B-やりご心QrJ心旦lllm\--.I;~; AnthonyEden, The Eden Memoirs : Facing the Dictators, op. 

cit., 活焉'i忌翠帽1110

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⇒ 

+..!.8~l-0LeTemps, 28 juillet 1936, 

p. 8., J. Edwards, The BfishGovernment and the Spanish Civil War, op. cit., p. 18. 

(13)

不干渉政策の決定過程(二)(渡辺)

( 2 8 )

  ( 2 6 )   ( 2 2 )   ( 2 0 )  

L

6 g

u e d e   Le on   B l u m ,   t . I V   , 

2 ,   p .   3 7 4 .  

A f f a i r s , X  XX VI II   No .   2 .   2 0 5  

(24)D•

D .

F   . .  

N o .   1 9 ,   p .  

4 3  

六五ー六頁︶︒ボール

この問題については

I b i d .

c h .

E

c o n o m i c   A s p e c t   o f   B r i t i s h   P o l i c y

C f . , S u r v e y   o f n t   I e r n a t i o n a l   A l f im

9]

37 , 

V o l .   I I   Th e  I n t e r n a t i o n a l   R e p e r c u s s i o n s   o t h f   e   W ar   i n   S p

a i n   1 9 3 6 ‑ 7   (

L o n d o n ,   1 9 3 8 ) ,   p p 1 5 .  

1   , 

1 7 7 .  

( 2 3 )

D .  

D . F .

N ,   o .   2 0 . ,  

p p .  

4 6   , 4

7 .   最終コミュニケは次の五点を骨

fとしていた︒

m

ョーロッパ諸国が努力すべき主要目標は普遍的規則に よる平和の強化である︒②かかる規則は関係各国の自由な協力によってのみ得られ︑かかる規則にとって対立プロックヘのヨーロ ッパの分裂ほど有害なものはない︒③ロカルノ五大国会議を開催するために︑働きかけ︑新たな協定を交渉する︒④三国政府は独 伊を会議に参加させるために交渉にはいる︒⑤この会議で進展があれば欧州の平和について他の問題も審議される︒

( 2 5 ) プルムとイーデンとの友情は三六年五月から始まる︒イーデンは﹁わたしたちの友情は︑重大な意見の相違によってもまた誤解に よってさえも︑傷つけられるようなことなど滅多になかった﹂と述べている

( E d e n , o p c i t . . ,  

p .   3 8 1 .

  邦訳

I V

ドウィンはプルムを﹁言葉の真の意味で紳士だ﹂と評した

( T a b o u i s , o p .   c i t . ,   p .   2 9 8 .

)

二三日﹃レコー・ド・パリ﹄は﹁フランス人民戦線はスペイン人民戦線を敢えて武装させるのか﹂と反対キャンペーンを展開し︑

﹃ラクシオン・フランセーズ﹄は﹁レオン・プルムとピエール・コットの裏切り﹂を糾弾した︒

C i t e d i n   C o l t o n L ,   eo n  B l u m ,   o p .   c i t . ,   p . 2 3 7 .  

( 2 7 )

L e   t t e r   t o   G .   W ar ne r  f ro m  C h a u t e m p s ,   i n   G .   W a r n e r , r   F a n c e   an d   N on

  , I

n t e r v e n t i o n   i n   S p a i n   J u l

y   , A

u g u s t   1 9 3 6 , n t   I e r n a t i o n a l  

T a b o u i s ,   0 p . c i t .

p .

2 9 6 ,   p .   2 9 9 .  

( 2 1 )   M o c h ,   o p .   c i t . ,   p .   1 9 2 .  

3‑2 ‑207 (香法'83)

(14)

(39)D•

D .

F .

. N

o .

  2 8 ,   p .  

5 6

 

( 3 8 )

  ( 3 6 )  

( 3 3 )

  ( 3 2 )  

( 3 1 ) L  

e  T

e m

p s

,   2 5   j u i l l e t   1 9 3 6 ,   p .   8 .  

(37)D•

D. F  . .   No .  2 5 .  

n o

t e

  3 

̀ 

p

. 5

2  

この時期スペイン大使館において︑

( 3 5 )

この会議についてはCot,

Le   pr o c e s ,   p p 3 .  

0 8

  , 3

0 9 . ,   C o t ,   T em oi gn ag e, n     i Le   Mo nd e, 1     2 n o v .

9   1

7 5

̀ 

 

p .   7 . ,   Mo ch ,  o p .   c i t . ,   p .   1 9 4 . ,  

J. 

Bo we r  B e l l ,

 

p .   c i t . ,   2 7 7 . D r ,   e i f o r t ,   o

p  

c i t . ,   p p .  

3 9

  , 4 0 .  

d

S t

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n .

e  N w  Y or k,   19 3 8 ,  

p .   4 1 . )

上院議長である︒

H .   T ho ma s, h  T e  S p a

n i

s h

i v   C i l  

W a

r ,

h i   t r d   e d . ,   o p c i t .   . ,   p .   3 5 0 .   Le   Te

m p

s ,

6   2   j u i l l e t   1 9 3 6 ,   p .   2 ,

2  

7   j u i l l e t   1 9 3 6 ,   p .   2 .   (34)D•

D . F . ,   N

o .

1 7

,   p .  

3 7 .   なおベランジェはリセ時代からブルムと面識があった︒

やジードが主宰した同人誌﹃法螺貝Conque﹄の定期投稿者であったからである

( G .

F r

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n ,

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on   Bl um : 

M ,  

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L '

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e   d   Le on   Bl um , 

t . I

V   , 

p .   3 7 5 .  

H・トーマスは同じ資料に依拠して︑

Wa rn er .

p .  

c i t   ••

2 2

0  

反徒側に好意を寄せる高官の辞任があいついだのである︒

( 2 9 )   M oc h,

 

p .   c i t . ,   p .   1 9 4 .   前掲の手紙の中でショータンは︑

( 3 0 )

以下の両院議長との会見については︑

ベランジェはポール・ヴァレリィとともに︑

外相という主要ポストにはデルボスのような独身者を任命するのではな くて︑わたしのような父親を任命すべきだ︒というのはどんな状況下でもわたしは決して戦争に行かないからと介入政策を批判し

LU

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de   Le on   B l um , 

t . I

V  

, 2

p .

3 7 5 .   かく語ったのはショータンであると記している︒しかしそれは誤りであり︑

プルム かく語ったのは

一 四

3‑2‑208 (香法'83)

(15)

不干渉政策の決定過程(二)(渡辺)

七月二五日1三一日第二期

二五日の右翼紙は武器を運ぶスペインの貨物船がマルセイユ沖に停泊した︵﹃レコー・ド・パリ﹄︶とか︑モンデジ

(l ) 

ール

M o n d e s i r

飛行場では二

0

機の爆撃機が離陸体勢にある︵﹃ラクシオン・フランセーズ﹄︶と世論を煽っていた︒

ブルムはルプラン大統領を訪問し︑午後四時に臨時閣僚会議を召集することを求めた︒議題を知った大統領は他国

の問題に介入することに抗議し︑閣僚会議を開くまでは最終的決定を行なわないように要求した︒

閣議後︑内務大臣が発表した公式コミュニケの中には︑

一 五

スペイン問題についての言及はなかったが︑フールニエ通

信社 l ' A g e n c e F o u r n i e r

が次の覚書を報じていた︒﹁フランス政府はスペインの内肛に決して介入しないことを満場一

( 3 )  

致で決議した︒このテーゼはデルボス外相によって主張され︑満場一致で承認された︒﹂このような閣議の決定は︑翌

日から二七日にかけて発せられた外相から蔵相あての電報や︑外相から在外フランス外交団への通達となって実施に

移された︒その中で︑以下の二つのことが述べられていた︒正当で友好的政府に対してであれ︑秩序を維持する戦い

の正統性が何であれ︑フランス政府は他国の内政に干渉しない︒私企業によって供給される非軍用機を除き︑

( 4 )  

ンヘの軍需品の輸出は禁止される︒ スペイ

閣議で何が起きたのであろうか︒閣議の直前ブルムはデ・ロス・リオスと会見していた︒このときブルムはデ・ロ

ス・リオスに﹁わたしの心は引き裂かれている﹂と苦悩を漏らしはしたが︑﹁友好的スペインを援助すべきだ﹂という

立場を﹁あらゆる危険を覚悟して維持する﹂と断言していたのであった︒ところがいざ閣議が始まるや︑ブルムは強 力なリーダーシップを発揮せず調停者の役に甘んじた︒閣議では公式の議事録をとらないために閣議の様子を再現し

えないが︑コット空相によれば︑真の意見の対立はなくて︑介入政策に反対したのは留保や慎重さを表明した少数で

あったという︒しかしこの少数の中に外相が含まれていたのである︒デルボスはイギリス政府の見解を説明し︑ショ

3‑2 ‑209 (香法'83)

(16)

を知ったはずである︒キャメロンによれば︑ 会談には外務省からアレクシス・レジェ事務総長︑ ータン国務大臣は援助に批判的な上院について語った︒ジャン・ゼー

J e a n Z a

y 文相︵急進党︶によれば︑

は閣議の直前︑若手閣僚に援助政策の危険を説き︑フランコ派が数週間で勝利し共和派が敗れると保証していたと いう︒空相ら援助派はピレネー国境沿いにファシズムに好意的政権が樹立されることの危険という安全保障上の理由 から︑介入政策を主張したが会議を制するにいたらなかった︒結局︑所管大臣であるデルボス外相の主張が受け入れ

(8 ) 

られたのである︒

デルボスは二四日から援助政策に留保を示し始めていたが︑

あったのであろうか︒閣議がスペイン問題をめぐって鋭く分裂したのではないだけに︑この問いは重要である︒デル

ボスの態度を決したのは︑ケー・ドルセーの意向であったと筆者は考えている︒それは以下の理由による︒

英家であり︑仏英協調を第一と考える外交官であった︒従ってスペイン内戦が勃発したとき︑

したのはイギリスの世論の状態であった︒

ねば

なら

ず︑

ルネ・マシグリ政治通商局次長らが出席していた︒この両名は親

かれらはロンドン三国会談で︑

スペイン内戦に対するイギリス政府の反応

ショータン

かれらがまっ先に考慮 レジェは白缶スペインと独伊英三国が提携することは何としても回避せ

イギリスの中立を確保するためにはフランスがその先鞭をつけねばならないと考えていたという︒そこ でかれらは帰国後︑﹁武器引渡しの政治的法的範囲政府支持の不測の諸結果﹂についての覚書の作成にとりかかり︑

( 1 0 )  

二五日にまとめあげていた︒かれらは武器の引渡しを次の三段階に区分した︒第一に武器の製造メーカーによって私 的に外国政府に直接供給された場合︑第二に武器製造国の政府の許可を得て私的に供給された場合︑第三に武器製造 国の政府によってもしくはその政府の教唆によって供給された場合である︒第三の場合の引渡しは他国の内政干渉と なり︑反乱軍が外国政府︑特にドイツ・イタリアから事実上の政府として承認されるや状況は即座に菫大性を帯びる

二五日の閣議においてかれの態度を決したものは何で

一 六

ロンドン

3 ‑2 ‑210 (香法'83)

参照

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