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へ ン リ ー ・ ジ ェ イ ム ズ の 演 劇 性

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即興演技としての仮面

へ ン リ ー ・ ジ ェ イ ム ズ の 演 劇 性

中 村 英 男

[ i レネッサンスの自己成型 1 においてスティーブン・グリ}ンプラットが提 唱した即興演技という概念を利用してヘンリー・ジェイムズの作品を論じたい

と願う者にとって、ロス ポズノックの『へンリー ジェイムズとロパート ブラウニングの問題(以下『プラウニング』と記す) J 及び『好奇心の試練

(以下『好奇心 j と記す) J は残念ながら、ふれないですますことが出来ない 著作である。残念というのは、グリーンプラットによって英国ルネッサンスの 諸作品に見いだされた近代における自己成型の萌芽とも見なしうる即興演技と いう概念と 20 世紀初頭の英文学作品との関連に期待する者にとっては、ポズ ノックが不した演劇性についての考えは、その序文において自己成型に関連づ けてグリーンプラットの考えが触れられている事を思えば、当惑を覚えさせら れるものだからである。

まずポズノックにあっては演劇性という概念が全体に非常に肯定的に理解さ れていて、グリーンプラットの即興演技に含まれる(他者の内面を材料として 利用し操作するという)暗い側面 それは同時に近代的な意味における自己 の生成の重要な部分を成していると私は考えるのだがーーにはほとんど焦点が 当たっていない。私の理解するポズノックが提示する構図は次のようなもので ある。近代性は殴味さを嫌う合理性であり、それはピューリタン的な心性とつ ながっており、官僚制システムに具現され、安定したモナド的な充足した自己 を基礎として成り立っている。それに対してジェイムズが信じたような、他者 とのつながりにおいて新たに「作られまた作り直され得る暫定的な構築物

(  r 好奇心 J 224)  J としての自己は、より自由なものであり、それは一見

近代的合理性が否認し軽視する幼児的退行とも見えるが、その実、近代的合理

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性を乗り越えそれに支配される社会のあり方をも変容しうる柔軟性を持ったも のであり、モナド的自己の持つ閉塞性に対置している。二つの著作のうち、特 に様々な思想家の考えを取り込んで書かれた『好奇心』の方の複雑さを的確に 単純化することは、私には非常に困難なものだということを認めねばならない が、基本的な考え方は概ね以上のようなものであると考えて良いだろうと思

つ o

ポズノックの考える演劇性はヘンリー・ジェイムズが示した好奇心の抑えが たい力と結びつけて考えられている。演劇性は幼児が成熟する以前に有してい るように見える汲めどもつきない創造性、大人になっていく過程で規律を押し つけられることである程度必然的に失っていく豊かな源泉なのである。こう考 えると演劇性をピューリ亨ン的なもの、あるいはピューリタン的なものから発 生して近代社会を根底から形作っているように見える官僚主義的なビジネスの あり方全体に対置するものとして捉えている論理が少し理解できるかも知れな い。深刻で規律に縛られた固定された自己のあり方から自由に逸脱して行くこ とのできる隆路的可能性として演劇性というものが理解され、それゆえ自由な 創造性を苧んだものとして理解されているように見える。だが、来たして演劇 性はピューリタン的なものに対置するものなのだろうか。たとえば、 『鳩の 翼』においてミリーが帯ぴたような鳩という仮面による演技は、彼女の自身へ の苦痛への態度として普通に考えてピユ}リタンに近いものですらあるように 見える。ミリーにおいて具現化される演劇性は子供の純粋な喜ひ、というよりも むしろ苦痛に耐える形式として存在しているのではないか。

演劇性へのこの批評家の全面的とも見える肯定的判断の起源となっているの ではないかと思われるのは、演劇性が「遊んでいる子供の快楽に起 i 原を持つ

(  r プラウニング J9 0 ) J というポズノック自身の見方である。この言葉が示す ようにポズノックの考える演劇性は、いわゆる子供の遊び、本気ではない行 為 、 円可々ごっこ」というような行為から生じたものと捉えられており、演劇 性はそれ故の自由さをもったものと考えられているように見える。

この見方は特に I 好奇心 J において、ジェイムズが生涯にわたって示した、

時に無駄とも見えるような逸脱としての好奇心の追究を肯定的に理解するため

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にも利用されており、それぞれ無駄と陵味さを嫌うプラグマテイズムとピュー リタニズムというポズノックの理解によれば、近代性の根幹をなすものが作り 上げたいわば行き止まりとも感じられる何かを打破しうる可能性と考えられる ように見える。ポズノックはジェイムズの見せる時に小児的とも見える逸脱的 好奇 ' L 、をそのように捉え、その好奇心と演劇性を、私に言わせるならば現実の

イギリス文学の伝統を盤視して結びつけてしまっているのである。

果たして演劇性は英文学の歴史という文脈に照らし出すとき、そのような肯 定的側面からのみ理解されるべきものなのだろうか。少なくともグリーンプ ラットの示唆する所によれば、演技するということは、英国ルネッサンスにお いて演劇の繁栄をもたらし、その後の英文学だけでなくイギリス社会全体に浸 透して、最終的には近代社会と伝統的社会を裁然と分断するに至った能力なの ではなかったか。それはその能力を持った者がいわば必然的にその能力を持た ぬ者を自分の利益に繋がるように利用するようなそういう能力なのではなかっ たか。それは決して無邪気な子供の遊び、元気で健康な、それ故に社会の決ま りや規律を意識しない無垢さの持つ力と繋がるものとのみ見なすべきではない のではないか。何よりも、 『鳩の翼 j における死にゆく女性ミリーに対しての 彼女の心に秘めた思いを利用したケイトの、そして『大使達』においてのチャ ドによるストレザーに対しての行為は、グリーンプラットが即興演技の歴史的 事例としてあげたルケイアの人々に対しスベイン人植民者たちが行った行為と 限りなく似たものだという感覚を多くの読者が覚えるのではないか。そこに他 者を徹底的に操作するある種の F 知告さがあると感じる批評家は一人ではない。

死後の楽園を信じる人たちに、その楽園という他者の内部のイデオロギ}を材 料として騎し銀山に連れ去った行為と一脈通じるものをケイトのミリ}に対 L ての、そしてチャドのストレザーに対しての振る舞いの中に見いだして良いの だとすれば、演劇性を「遊んでいる子供の喜ぴに起源を持つ J 無垢なものとの み見ることの不適切さが理解されるのではないか。 i 作られ作り直される」自 己の柔軟性の根本にはあるH 音い要素が存在するという認識を出発点として考え ていかねl まならない。

演劇 l 性は他者を操作する技法と繋がる、根本的に無垢とは対極にある能力と

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のつながりにおいて理解されるべき行為だと考える者にとっては、ポズノック が他者の操作の問題という演劇性の核心とも思える点を指摘するサリー・シ アーズの指摘を取り上げながら、それを「現実を創作的パターンに変容させる 審美的操作( r プラウニング J 1 2 8 )   J の問題に媛小化してしまう事にもいら だちを禁じ得ない。そこにあるのは演劇性の持つ根本的な暗さへの理解の拒絶 とすら呼びたい事態である。その見方は、即興演技を論じる際、他者の内面を 推し量りそれと同一視出来る能力の持つ本質的暗さを理解せず、それを「他者 への共感」という呼び名で肯定的にすぎる側面から描いているとして、グリー ンプラットが批判的に名前を挙げた社会学者ラーナ}教授の見方に非常に近い もののように見える。他者の内面に入りこむ即興演技的能力はグリーンプラッ トの言うように「全面的に盤私で親切であることはまずない ( 2 2 8 ) J という 認識から出発する必要があるのではないか。

J レネッサンスにおいて再発見された雄弁術の技法を通して移入され共有され

ていった意識的な自己操作の技法は、やがて社会の中に固定された自己から離

れ自由に自身を塑形する能力(その能力を他者に向けて他者の内部を操作する

能力と共に)として社会全体における安定した自己のあり方を根本から揺るが

せかねない恐布を与えると同時に、その悪魔的な力によって Ak を魅了しもし

た。その力は科学と探検によって社会にもたらされる発見と発明が真理として

の反復である伝統を疑問視するに至った時、与えられた繰り返しを乗り越えて

行くこと可能にする新しい能力でもあった。自己をある意味で意志によって変

容させていくこの能力は、このような意識的に導入された技術である即興演技

とグリーンプラットが呼ぶものと切り離して考えることは困難である。単に演

劇性が好奇心という小児性を抑圧することで成立しているだけのものであれ

ば、伝統社会にも存在したはずである。しかしヘンリー・ジェイムズ及び彼に

影響を与えそして与えられた文学者の作品における演劇性は、そのような単純

なものとして考えられるべきものではない。近代性は単純な逸脱や遊戯の快楽

を抑圧することによってのみ成立しているのではなく、自己をも他者をも操作

し成型し得る能力と共に生じてきたと考えることがより適切であるように思わ

れる。

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伝統的な社会において与えられてきた唯一絶対の真理(及び神から与えられ た固定された自己)から距離を取ることが出来る能力を身につけた代償はその 論理的帰結、唯一 4 色対の真理の相対化であった。シェイクスピアをその代表者 とする英国ルネッサンス期においてイギリス社会に浸透していったこの能力こ そが、ヒ。ューリタン達が忌まわしく感じ自分たちの真理が脅威にさらされてい ると感じさせたものであった事は容易に想像される。彼らが許せないと感じた のは演劇性の中にある小児性がもたらしかねない陵味さなどではなかった。そ れは演劇性が必然的にもたらす真理の相対化の方だったはずである。英国ル ネッサンスにおける演劇の隆盛(それは言うまでもなく雄弁術によって学習さ れた即興演技の技法への反応として引き起こされたものだった)に引き続い て、その演劇を抑圧するように清教徒革命が起こっている歴史的事実は偶然、と 見なすべきではない。自らの信じる真理にかかわらず、どのような立場にも 立って選び取った証明対象を同じような熱意を持って論じられる能力は、それ までの安定した真理と人との関係を揺るがせ、なによりも自分という存在の根 幹が揺るがされる感覚を人に覚えさせたと想像される。ピューリテン達が強く 信じるという行為によって自らの信仰を過激な形で確認する必要に迫られたの は、まさに彼らの信仰がこの社会に浸透してゆく演劇性によって根本的に不安 定にされたからだと考えられる。歴史的には演劇性はその創造力でなく破壊力

によってピューリタニズムに対し脅威的だったと言えるのではないか。

証明することが困難な現実の歴史への想像はここまでにして、確認しておき

たいのは現実に小説に残された意識の記録をたどる限り、自己を「作られ直さ

れうる暫定的な構築物」と見なす見方が 19 世紀の初頭においても、そして

ジェイムズの活動していた 20 世紀初頭においても、自己成型の問題の重要な

技術と考えられているという事実である。それは依然として自己及び社会に対

して危機をもたらしかねない力を字んだものと受けとめれているように見え

る。拙著「即興演技と感受性」において指摘したようにジェイン・オーステイ

ンの描く「マンス 7イ}ルドパーク』の中で即興演技的能力を発揮するへン

リー・クロフォードは、安定したモナド的な(従って即興演技を容認し得な

い)自己を持つ主人公 7ァニーから不信の目で眺め続けられ、 「自負と偏見 j

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のダーシーをも連想させる恋愛心を契機とした自己変容の可能性を感じさせな がら、最後には 7ァニーが彼に対して深く抱いていた不信を裏書きするよう に、破滅的な振る舞いに及んでしまう。また、同じく「即興演技としての暗 間 J において論じたように、その力はジェイムズの同時代人であるコンラツド にとっても伝統的な社会での自己のあり方を越えさせるものであり、同時に安 定した自己の存在に対 L破壊的な可能性を持ったものでもあった。伝統的な人 格には想像もできないような仕方でいったんは自己を都合良く変容させたはず の f 西欧人の臼 jの主人公ラズーモ 7 は、結局はその自己の都合の良い変容の 否認と崩壊を経験することになる。自由に自己を書き換える能力は、 17 世紀 においてだけでなく、 19 世紀、 20 世紀に至るまで、一方で誘惑的と言って 良いほどに強く魅力的でありながら、同時に究極的な問題を苧んだものとして 複数の重要な小説家たちに捉えられてきた。ジェイムズにおいての演技性も自 己の変容の問題を含め、これらの作家に連なるものとして理解すべきものであ ると思われる。これは非常に深いそして決定的な文学的水脈の一つでありこれ を降視して個別の作家を理解しようとする試みは徒労に終わる可能性がある。

重要な事は、一方で新しい変容するものとしての自己が不信の目で見られて いるのと同時に、安定して充足した自己のあり方は、既に 19 世紀初頭の段階 で新しい社会のあり方と甑断をきたしているかもしれないものとして有る程度 不安を抱かせるものと受け止められでもいるという点である。近代社会はその 本質においてむしろモナド的な自己を許さないような構造を持ち、自己を変容 させ新しい状況に柔軟に対応するために、むしろ安定した自己を失わせるよう なものとして個人に働きかけるものなのである。

オースティンが描く世界において見られるように、既に 19 世紀の段階で安 定した「最善の」自己はむしろ変容しうる自己のあり方の持つ力に対して防衛 的とも見える立場に立たされていた。流動化する社会に適応するため、自己は 可動性をもつべきではないのか。固定されたままの自己ではそのような世界に 対応できなくなるのではないのか。そのような不安がオースティンの世界に感 じられるという批評家は一人ではない。そのような文脈において考えるとき、

演技性をモナド的な自己を乗り越えていく機縁としてのみ理解するのは不適切

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だと思われる。つまり自己はそもそも英国ルネッサンスの時期に即興演技性が 導入された段階で既にモナド的な固定から自己を変容させるものとし τ 機能し 始めていたと考えるべきで、コンラッドの描くラズーモフの運命が示すように 自己は近代社会において根本的に不安定な状態に置かれていると考えるべきな のである。

従って、ポズノックが考えているように思われる見方、安定した自己が問題 を字んだもので自由な自己がその解決法であるというような見方は、英文学の 文脈に照らせば不適切な見方であるということになる。近代性の本質はシェイ クスピァの時代から、まさに安定から離脱することを自己が強いられていると いう点にあるのであり、少なくともそれ以後の文学が関心を持って描いてきた のはそのような不安定さに晒された自己のあり方の方だったのである。自己が 繰り返し作り変えられるものであり、その責任と義務が個々人にあるのだとい う重圧と不安こそが、少なくとも 19 世紀以降に強く意識されるようになった 自己の成型に関しての事態なのでは辛いか。

従ってストレザーが考えるような「型に流し込まれるゼリー j としての自己 のあり方の認識は彼が如何に受動的な形で自己成型を果たしてきたかというこ との証左と見るべきである。彼は基本的には何か自己以外の影響によって形成 される自己しか思い描くことができない。パリでの経験は彼にとって、それま ではそれすら持ち得なかった「自由の幻影( r 大使達J 1 3 2 ) J であるに過ぎな い。ことほどきように徹底的にウレットの反即興演技的なプロテスタント文化 の中で形成された彼は、自律的に自己成型を願うイザベル的段階には到達 L 得 ていないのである。

1  8  8  1 年の段階で「私 J を意識的に構築しようと努力する女性を描いてい

た作家にとって、自己のあり方がモナド的であるか否かは、すでにそれほど決

定的な問題ではなくなっていたのではないか。確かに『大使達 j においてはウ

レットの人々、特にニューサム夫人の「青い海に浮かぶ巨大な氷山 ( 2 9 8 ) J の

ような姿がそのようなあり方の代表として描かれているように見えるが、その

姿に脅威を感じているのはモナド的なあり方を十分には抜け出せていないスト

レザーであって、現実のニュー吋ム夫人の姿をもし直接的に目にすることが読

(8)

み手に許されたならば、そのモナド的な硬直化したあり方というは、ウェイ 7 ーシュのあり方に特徴的に反映されているように結局は幾分か滑稽なものと して読み手の自に映じたのではないか。ある種の脅威としての姿はあくまで、

その硬直的原理から比較的自由となった地点から罪悪感を以てストレザーによ り回顧的に眺められる事により生じているのに過ぎないように思われる。

いずれにせよジェイムズがより真剣に問題としていたように見えるのは、ア ンソニー・ギデンズの言葉を借りれば再帰的課題としての自己であって、その ことが近代社会に生きる個人にもたらしかねないある種の息苦しさの方だった ように見える。ジェイムズは抽象的な形での自己の構築という課題が 19 世紀 末にはかなり明確な形で人々の心を捉える問題となっている事を意識的に描い た最初の作家の一人であると思われる。 r ある夫人の肖像画』において主人公 の女性、イザベルがある意味で誤った結婚の選択をする背景には、明らかにか なり意識的抽象的な彼女自身の自己の構築という問題が関わっている。その事 をふまえて考えれば、ポズノックが『プラウニングj において、しきたりもま た演技性の一部としているように見える点 ( 6 ) について別の解釈を施すこと が可能となる。

仮面という非個人性との関連からか、 I ある夫人の肖像画 j で自分の事を

「私はしきたりそのものなのです ( 3 6 2 ) J と言い放つたオズモンドという存在 について、ポズノックはその慣膏的儀礼性への没入を演劇性の一部として取り 上げているように見える ( 7 )

0

仮面という事は確かに演技との連想を持ち、

さらに言えばその非個人性からしきたりとのつながりを思わせるかもしれな

い。しかし、イザベルがウオーパートンでなくオズモンドを夫として選んだ理

由は、むしろ演劇性の問題とは切り離して考えるべきだというのが私の見方で

ある。オズモンドという存在はイザベルが求めた自己の問題からの逃避として

の自己の喪失の可能性を表現していると考えることができる。その意味でグ

リーンプラット的演劇性とはむしろ背馳的な関係にある。彼は教皇や貴族とい

う歴史の連続性に憧れ、イザベルにも歴史を持つようにと勧めるが、それは個

人性が再帰的課題として求められている近代世界において、非個人性としての

歴史と伝統の中に自己を埋没させることによって逃避しようとしているのであ

(9)

り、その意味でこの男の言う伝統は、再帰的な諜題としての自己の裏面に拡 がっていく無意味な反復としての噌癖の問題として理解することが可能であ る。彼の「しきたり J が示す非個人性は自由に自己を構築することを求められ る世界の否認として存在しているのである。

もしオズモンドのそのようなあり方を、再帰的課題としての個人性からの逃 避として考えて良いのであれば、 『ある婦人の肖像画』と『鳩の翼 J で描かれ たものの距離を以下の場面で測定することが可能かもしれない。ケイトから鳩 という称号を与えられながら、まだその仮面のもたらす演劇性の可能性をはっ きりと意識できていない段階でミリーがナショナルギャラリーを訪れた際、歴 史的な名画を模写をする人々の姿に彼女が抱いた憧れにも似た思いがこう記録 されている。

これこそ彼女が欲した雰囲気であり、彼女が何よりも選ぴ取りたかった世界 だった。静かな鑑賞室は彼女の周りに拡がっており、彼女にこう言わせた。

「ここで何もかも忘れてしまえたら良いのに」と。ここには人が、大勢の人が いた。しかし、見事なまでに個人的問題は存在していなかった。それはこの場 所の外では強烈なものだったが、彼女はそれを外に置いてきていたのだった

o

( 第 5 部 7 節 1 7 4 )

この場面においてミリーも模倣という形で歴史の中に個人的問題としての

「私を失う J =  I 何もかも忘れる J ことを一瞬の問願う。この瞬間はイザベル が抱いていた不安としての私、そして『大使達jのヴィオネ夫人がもらした

「常にあらたな不安をもたらす惨めな自分がいる」という言葉、さらに言えば オズモンドの言う自己規定「私は L きたりそれ自体なのです J が、恐らく三方

から同時に照らし出すジェイムズという作家の自己という問題に関しての非常 に重要な瞬間である。私という存在はこれら 4 人の重要な登場人物達におい て、そこから人が逃げ去り忘れ去りたいと願う「個人的な問題jの欝血する場 とLて存在しているように見える。

引用した場面におけるミリーの姿が示すのは、再帰的な課題としての自分、

(10)

作り上げねばならないものとしての自己の存在に悩む者にとって、オズモンド 的止しきたりカま如何に魅力的かという事である。オズモンドがイザベ J レを誘惑 することが出来たのは、イザベJ レが抱えている私という課題、形を与えられる ことで慰撫されるべき不安としての私という存在への一つの(逃避的ではある が)実際的な解答を用意していたためであったと考えられる。イザベルに対し てオズモンドが持つように勧めた伝統とは、しかし現実の近代社会においては 克服されその古の真理としての豊富対的な本物さを失っていたものであった。ミ リーの場合はイザベルの場合に比して自己構築は、より一層困難な謀題として 立ち現れる。不治の病故に、未来とのつながりにおいて自己を構築することが 事実上不可能となってしまっている彼女の生を実質的な形で意味づけることは ほとんど不可能であるとすら見える。ケイトが与えようとする一種の慰めとし てのデンシャーとの偽の恋愛関係が魅力的な解決であるかのように読み手に感 じられる瞬間があるかもしれない。そのような絶望と向き合うことを求められ た存在にとって美術館に納められた巨匠の作品の模倣という形に具現化された 反復はいかなる形であれ、ある一つの安定した自己の形をあたえ、たとえそれ が「個人的問題 j からの逃避であったとしても、死がやがて訪れるまでの生の 形として強烈な魅力を持っただろうことは容易に想像される。

イザベルが、実際には母を失ったという以外ほとんど特筆すべき「個人的問 題 J を伯父から遺産を譲り受ける以前には持っていなかった(彼女は健康で美 しく、 m みさえしなければ幸せな結婚を選ぴ取ることも出来た)のと対照的 に、後期作品の重要な受場人物達の、わけてもミリーやヴィオネ夫人の置かれ た状況にはそれが充満していると言える。不治の病、問題を抱えた結婚と不 倫、そして老いゆく自分。二人の女性はそれぞれうめき声をもらしかねない程 の「個人的問題」を抱えた存在として措かれている。ヴィオネ夫人が若いチャ ドとの関係にほとんど依存的にすがることで自らの不安を慰撫しようとして最 終的には失敗し、最後にストレザーの前であきましいとすら言いうる姿をさら すのに対し、ミリーは鳩という仮面をかぶることで「個人的問題 J に対Lオズ モンドとは異なる解決を見いだしていく。

ミリーが「非常に私的な悩み、全く内々のややこしい問題( r 鳩の翼J2 7 3 ) J  

(11)

を人の自に触れないように努めていること、そして最終的に「薬の匂いもきせ ず、薬品の存在も感じさせない( r 鳩の翼J3 6 2 ) J まま死んでいったことから、

ミリー自身による鳩としての I 寅技に強い決意か存在したことは明らかである。

その意味でもポズノックが自然な自己表現と演劇性を結びつけているのはジェ イムズの作品の現実における演劇性を合理的に説明していないように見える。

演技性は自己の思いをむしろ隠すものなのである。

ポズノツデはジェイムズが子供時代に見聞きし深い印象を受けた make a  s c e n e という言い方を利用して、ジェイムズと演劇性との結びつきを補強しよ

うと試みているが( r プラウニング J 8) 、この言い回し自体が示唆する現実の 行動は、ある程度自己統御を失って感情を吐露して愁嘆場を演じること、感情 のおもむくまま振る舞う事を意味していることを意識すれば、現実のジェイム ズの作品で提示される演劇性とは結びつきにくいものであることを理解するの は容易である。 r 場面」という演劇を示唆する言葉にも関わらず、この言い回 しが指し示しすのは、ジェイムズがその作品において描く冷静な自己統御を求 められる演技性とは真逆のあり方なのである。あふれでる感情としての自己を 抑えられないあり方を注意深く避けようとする人物達が悶歩する空間、それが ジェイムズ作品であることは確認を待たないであろう。珍しい例外は、 「大使 達j においてヴィオネ夫人がストレザーとの最後の会見において見せたような 姿、あきましくも取り乱しその根底に隠されていた欲望をさらけ出すような姿 である。しかしヴィオネ夫人のこの姿は演技の破綻の瞬間が記録されたものだ

と考えるのが筋であろう。

演技とはどこまでも実際とは異なる様を示し続ける規律を要する。演劇性の 要求する極度の自己抑制に成功している典型的な例は、 『鳩の翼』においての ミリーとデンシャーの最後の出会いで それを演劇的と呼ばないという選択 肢は実際上無いと思われるが ミリ一時見せたものである。自分を愛してい るようなふりをしていたデンケャー。そしてデンシャーにそのように振る舞わ せ、彼との関係について嘘をついていたケイト。孤独な境涯の中でなにがしか の親しみを感じていた二人の人物から徹底的に裏切られていた事を知ったミ

リーは、その苦しみを押し隠しあたかも何事もなかったかのように裏切ってい

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た男と最後の会見を行う。この場面こそがこの作品の演技性の究極の瞬間であ ることは言を待たない。

ミリーの最後の瞬間の姿をそう見なして良いでのあれば、それがヴィオネ夫 人がストレザーとの最後の会見でさらけ出した姿とその抱えている「個人的な 問題」への態度として対極に位置するものであることは明らかであろう。内な る苦痛を堪え忍ぶこと、感情を露わにせず冷静さを失わないこと。その点で ジェイムズがミリーにおいて描く演劇性は幾分かプロテスタント的なものと類 縁性すら持っているもののように見える。確かなのはそれが子供らしい無垢な 喜びよりは、ヴイオネ夫人が最終的に失敗したある種の階級意識を伴った他者 への自己呈示という側面を含んでいるということである。どういう自己を他者 に呈示したいか。他者の目にどう映じる存在でありたいのか。自己をどう構築 すべきかという自己成型の問題と演劇性の問題が不可分であることをこの場面 は明示しているのである。

自由に思うままに感情を発露させることは、大西洋の両岸に位置するアング ロサクソンが中心的影響を持つ二つの現実の社会においてと同様(ジェイムズ が子供時代に見聞きしたとポズノックの指摘した例においてもそのような行為 をした作家の従兄弟はそのために叱責されているのである)、ジェイムズの作 品においても通常は許されてはいない。むしろ感情の爆発を抑えること、思う ままに振る舞うことの対極にあるものカさ行為の理想として追究される。その意 味でジェイムズの作品における演技性は、その破綻においても成功において も、好奇心の力とつながる子供らしい無邪気さ無垢さとは、かなり遠い所に位 置しているように見える。もしジェイムズにおける演劇性という場合に上記の ミリーの見せた姿を指すのだとすれば、そこにあるのは年齢は若くはあっても 鋭く死を意識し諦念を抱くに至った高度に成熟する事を強いられた人物の意識 であり、ポズノックが自由で縛られることのないものとして描く幼児の自由な 好奇心の常道からの逸脱を喜ぶ姿とは非常に遠い地点に位置するもののように 見える。

演劇性は真理を相対化するという意味で嘘に近いものなのだろうか。その間

いに対してヴィクトリア朝の小説を題材としてある答えを出している批評家が

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いる。 J . クーキッチは『嘘の力j において演劇性の問題をポズノック的な

「遊んでいる子供の喜びに端を発しているようなもの」とは明らかに異なった ものとして描いている。クーキッチは正直を尊ぶピューリタニズム的なあり方 に染まっていたと信じられているヴイクトリア朝中産階級において実は「嘘」

というものが重要な意味を持っていたのだとする。小説に記録された 19 世紀 中産階級の人々の意識においては、嘘はむしろ 7ーコー的な社会装置によって 強制的告白を通して生産されるものとしての自己のあり方に対抗する手段とし て、暗黙のうちに評価され尊ばれさえしていたのだと言うのである。彼によれ ば「ヴイクトリア朝の小説の一つの固有の特徴は、真理を巧妙だが不正直な仕 方で取り扱うことが集合的社会的技術や権威の徴として見なされるような条件 を探ること( r 嘘の力 J 3 4 )   J だとされる 1 1 。

もし既に見たように、ヘンリー・ジェイムズにおける自己が隠し通したいと 願う「個人的問題」によって成り立っているのだとすれば、ミリーの場合のそ れが何かは明らかである。ケイトやマーク卿から繰り返し無神経に告白するこ とを迫られるもの。彼女の本当の病状である。ミ 1 ) ーが7ーコー的な意味での 告白を通して不治の病という個人的問題としての自己に収数されることを拒む 仕草、それこそが鳩となること、鳩として振る舞うことだったのだとすれば、

クーキッチの言う嘘と私が考えている演劇性とは深〈通底していることにな る。不治の病という自らの存在の根本にあるものをミリーは繰り返し「告白」

することを求められながらそれを拒み、そのような強制的な告白による自己の 生産に代わるものとして鳩の姿を演ずるのである。

オースティンやコンラッドにおいて自己の構築の問題として描かれている即 興演技の問題は第一義的にはその伝統の始まりにあった他者の内面の操作とい うイアーゴウに遡る悪の問題として描かれている。チャドの場合もケイトの場 合も結局は他者の内面の操作によってなにがしかの利益を得ょうとしており、

彼らの姿に描かれる演技性の問題はその意味で典型的でもあり原型的でもあ

る。オーステインにおいても即興演技性は典型的には『自負と偏見jのウイカ

ムの姿として描かれており、塑型可能なものとしての自己とのつながりにおい

て描かれるのは『マンスフィールドパーク』におけるへンリー・クロフォード

(14)

などの姿であるに過ぎず、それも後にコンラッドが描く『西欧人 j のラズーモ 7の場合同様破綻する例として描かれるに過ぎない。即興演技のもたらす自由 に塑型可能な存在としての自己は肯定的な取り扱いを受けることは稀であるよ うに見える。

それに対して『鳩の翼』におけるミリーの場合には即興演技の問題がクー キッチの言う嘘の問題と重なる形でより肯定的な自己生成の問題と明確に結び つけられているように見える。それは小説がミリーの姿を遠くから描き始めた 場合には読み取ることが難しいものになっていく。しかし読み手はパーティの 姿において、普段の人とのつきあいにおいてミリーが演技として自己呈示をし ていることを推察することを求められているのである。彼女は最初ケイトから 与えられた仮面としての鳩を使って自らの人々への呈示を組織立てていく。大 事な点はそれが、単なる模倣というオズモンド的な態度から離れてより創造的 な方向への変化を示しているという点である。ジェイムズにおいては演劇性と しての仮面は、歴史や伝統やしきたりでという反復ではなくてある程度創造的 な自己呈示の問題とむすびつけて考えるべきものである。ポズノックはその点 で正しい見識を示している。演劇性は創造的なものである。問題はそれが同時 に破壊的なものでもあるという点なのだ。オズモンド的な歴史や反復への没入 が自己の生成という点から見て個人的問題からの逃避であるのに対して、鳩と いう仮面をかぶることは、後にミリーが最終的にデンシヤ)に見せつけた姿に 昇華されうる可能性を持った自己の呈示の形式として積極的な意味を持ったも のとして作品の中で描かれているように見える。

即興演技は、しかしミリーによる自己呈示の問題、死すべき運命にある人聞

がその現実とどのように接触していくべきかという問題以上の大きさをもって

この作品においては描かれている。 r 鳩の翼 j の興味深い点は即興演技がケイ

トからミリーへの一方的なもので終わっていないという点である。欲望に引き

ずられて望まぬ役割を押しつけられていたデンシャーの心の中にあった不安と

悔悟を材料としてミリーが最後の会見で見せた姿は、ヴィオネ夫人のストレ

ザーとの最後の会見での姿とは真逆の、演技性を強く発揮したものだった。愁

嘆場を見せる代わりにミリーは「薬の匂いもさせぬ j 姿で裏切った男を迎え、

(15)

ただヴェニスを去るようにとだけ告げる。ジェイムズがミリーの側から物語を 描くことをやめてしまったために結局は解釈の問題となってしまうが、この小 説の興味深い点は、鳩の役割を意識的に演じてきたミリーの最後の仕上げとな るその演技が、最後の裏切りを知った後の苦痛を伴いながら貫かれ、その結果 即興演技を不本意ながら仕掛けたデンシャーの心に、 「口にするには美しすぎ そして気高すぎる何かが自分に起こったj のであり、自分は「許され捧げられ 祝福された ( 3 7 0 ) J のだというこの男がまさに願ったものが見せられていると いう点にあると考えるべきだと思われる。

ケイトからミリーへの即興演技はほとんど露わな形で読み手に提示されてい るのに対して、ミリーによる即興演技は、その演技の鑑賞者の視点から提示さ れているために客観視することは非常に困難である。しかし鑑賞者が通常眺め ている絵柄からほんのわずか視線をずらせば、デンシャー自身が描くのとは異 なった絵柄が巨大な作品の画面を横切るように浮かび上がってくる。それはケ イトからの示唆を受けてミリーが「鳩」として生きょうと心に決めていた事実 である。ミリー自身がある時点からその演技を開始する。それはケイトのそれ のように利益を目指しはっきりとした目的を持ったものというよりも、ある時 点までは不安に苛まれて叫び出したい思いを押さえ込むような、ヴイオネ夫人 が示したような自己耽溺を人の自にさらけ出すことを避けるための自己の振る 舞いの一つの形、提示可能な外観を与えようとする努力以上のものではなかっ たろうと推測される。

それが即興演技というものにはっきり変わったのは、ミリーが自分カす即興演

技の対象であったことを知った時点、即ち自分のデンシャーへの思いがケイト

によって材料として利用されてきたこと、まさにシアーズの言う「同胞を人と

してでなく使用の対象として J 扱う行為が存在したことを思い知った時点にお

いてであろう。デンシャーを呼び寄せたミリーは最後の演技を行い、今や彼女

自身が隠し通したいと願ってきた不治の病と一体化した彼女の様々な感育の紛

糾を「告白 J することを回避する。 r 個人的問題」を鳩の翼が覆いつくす。二

人に対して遺産を残すという行為まですることによって、デンシャーの内部に

あったと恐らくミリーが認めた罪悪感を材料としてデンシャーが望んでいるも

(16)

のが実際に存在したと信じさせることにミリーは成功する。デンシャ}がそう であれかしと思っていたことが起こったかのようにミリーは演技し、デン シャーはその演技に説得され恐らく現実にあった以上のものを信じ込む。ミ リーの見せた鳩としての仮面を信じるのである。ケイトは同じ技巧を有する者 として、ミリーの最後の姿が演劇性の産物であることを知り抜いているが、現 実と演技との聞の距離についてデンシャーに語る権威を既に失っていることも 同時に鋭く知っているのである。

ミリーの行為はある意味では現実の意図的な蛙視であり、幼稚とも見えかね ないものだが、意志の力によって自己を規律して「鳩 j という役割を演じきる ことにより最終的にデンシャーに、現実にそうである以上の姿(恐らくデン シャーが見たと信じたものと現実の姿との聞には、ストレザーがヴィオネ夫ノ、

とチャド聞に存在したと信じたものと後に暴露された現実との間にあったのと 同程度の差異が存在したのではないかと強く疑われる)を見せつけることに成 功し、デンシャーという人物の行動を変化させた。ぞの点でスペイン人入植者 逮がその昔ルケイアの島の人々に対して行ったのと同様な行為が成立している

ように見える。

(17)

1  )  クーキッチはグリーンプラットには言及していないが、演劇性(山田町 c a l i l y ) とい う言葉を使ってはいる。ただしそれは中産階級からみて上位または下位の階級がし めす大げさな芝居のかかった身振りという意味で使われているように見える

c

英語の引用文献

Gr

n b l a t t , S t e p h e n .   R e n a i s s a n c e  S e l f ‑ F a s h i o n i n g :  From More 1 0  S h a k e s p e a r e .  . C h i c a g o : U n i ‑ v e

i t yo f  C h i c a g o  P

回 目

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J a m e s .  Hen

K u c i c

治.

J o h n   P o s n o c k ,  R o s s  

日本語の引用文献

T h e  A m b a s s a d o r s .  New Y o r k .  W.  W  . N o r t o n  &Compnay ,  I n c . 1 9 7 8   Th e  P o r t r a i t  of a  L a d y .  L o n d o n .  P e n g u i n  B o o k s  L i m i t e d .  2

3 T h e  W i n g s  o f   r h e  D o v e .  New Y o r k :   W.  W. Norton&Company , l n c . 1 9 7 8  

T h e  Power o f   U e s :  T r a n s g r .

s i o ni n   V i c t o r i a n  F i c t i o n .   I t h a c a :  C o r n e l l   U n i v e r s i t y   P r e

s . 1 9 9 4

H e n r y  J a m e s  and r h e   P r o b J e m  o f   R o b e r t  B r o w n i n g .  A l h e n s ,  G e o r g i a :  The  U n i v e r s i t y  o f  G e o r g i n a  P

s . 1 9 8 5

T h e   T r i a I  o f   C u r i o s i t y :  H e n r y  J a l

羽 田,

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jlJ

j a m  J a m e s

, 

a n d  I h e   C l J a l l e n g c  o f   M o d e r n i l y .  O x f o r d :  O x f o r d  U n i v e r s i t y  P I

民 団

. 1 9 9 1

中村英男 「反復と自己 J r 人文学報』第 3 8 9 号(首都大学東京都市教養学部) 3 9 頁‑ 6 3 頁 平 成 1 9 年 3 月

中村英男 r R p 興演技としての暗闇 J r 人文学報』第 4 1 8 号(首都大学東京都市教養学 部)¥3頁 ‑ 3 8 頁 平 成 2 1 年 3 月

中村英男 「即興演技と感受性 J r 人文学報』第 4 4 9 号(首都大学東京都市教養学部) 1 

頁 ー 1 8 頁 平 成 2 3 年 3 月

参照

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