『歴史科学』二四一号 二〇二〇年五月 〈第三五回
歴史学入門講座
〉
日本古代史研究の方法的模索 ― 生存の問題を中心に ―
今 津 勝 紀
はじめに皆さん、こんにちは。ただいま、過分なご紹介をいただきましたけれども、私自身は、とりとめのないことをあまり深く考えずに、やってきたのが正直なところでして、あのようにまとめていただくと、身がすくむ思いがいたします。今回、こうして、若い皆さんが準備をしてくださって、入門講座でお話しをする機会を与えていただいたことを、光栄にうれしく思っております。現在、日本の人文学は、大変深刻な事態にあり、歴史学もその大波に翻弄されているように思いますが、そのことを伝えたいわけではありません。深刻な危機的状况にあるからこそ、新しいチャンスもあるわけで、歴史学の可能性を皆さんと一緒に考えられたらと思います。なお自身に関わる参考文献は文末に一括して掲示しましたので、詳細はそちらをあたってください。
一
現代社会と
歴史学(1)人文学・歴史学を取り巻く状況レジュメに「痩せ細る大学」と書きましたが、まず、一九九一年に大学設置基準の大綱化が行われました。多くの国立大学では教養部を廃止して新学部を設置するなどの対応がとられるのですが、こ こから大学の姿はめまぐるしく変化してゆきます。その後、これも国立大学の場合ですが、大学院の重点化がスタートします。多くの大学で大学院に教員の籍を移し、同時に大学院生の拡充が行われました。しかし拡大した大学院生の受け皿となる就職先は当初から限られており、アカデミックなポストはむしろ減少しています。旧帝大を中心とする都市部の大学に学生が集中するようになり、地方の国立大学などは疲弊していくことになりました。そして国立大学は法人化され、年々運営費交付金が減額されるなど、その疲弊に拍車がかかっているのが現状です。大きな背景としては、日本の人口減少と財政赤字の拡大があるのですが、その結果、大学には選択と集中の嵐が吹き荒れています。教育学部の定員削減は既定路線ですし、法人の合併・併合、私立大学の淘汰も進むでしょう。おそらく日本の大学は、五十年もするとまったく違った様相を呈していることと思われます。そのような嵐の中で、稼ぐことのできない人文系の学問は肩身の狭い思いを余儀なくされています。「その学問分野は必要ですか」、「本学がその学問分野を維持していく理由は何ですか」、「その学問はどのような貢献をしてくれるのですか」と問われるわけです。私たちは、文学部があって、史学科や哲学科も全部が必要ではないかと思い込んでい
『歴史科学』二四一号 二〇二〇年五月 ますが、「学生は来ていますか」と問われると苦しいところもあります。学生とりわけ、大学院生について言えば、現在、地方国立大学の人文系の大学院定員が埋まっているところはほとんどないでしょう。人文学を都市部の大学に集中させてしまうのは、日本の地域社会の多様性を考えるならば、暴論と言うほかありません。そして今では都市部の大学でも、大学院に進もうという学生が減ってきています。これは深刻な日本の人文学全体の危機なのです。 人間についての学問が必要であることは、私たち人文学者共通の認識だと思うのですが、いかんせんそう考えない人が多くあるのも事実です。これは、なかなかシビアな問題です。「歴史学は何の役に立っているのですか」、「歴史学にはどういう意味があるのですか」、なかでも「古代史研究など本当に必要なのですか」と、そういうことを厳しく問われているのが現状です。これに対して、具体的にエビデンスを揃えて、応えなければならないのです。まったくもって馬鹿げているのですが、エビデンスは数値です。もちろん、こうした歴史学の意味についての問いなどは昔からあるのですが、経済効率最優先の新自由主義の激流に飲み込まれているのが現状です。また、学術全体の在り方も大きく、変化しつつあるのだろうと思います。日本の歴史学系の学会は同人組織からなるものが多いのですが、一番大きかった学会なども会員数がやはり減少しています。岡山に本拠がある考古学系の、これも全国的な学会がありますが、どんどん会員が減っています。それに反比例して、個別の研究会は、雨後の竹の子のように、増えているように思います。比較的小規模で関心を共にする人が集まって議論をする、そうした傾向が強くなっているのではないでしょうか。 科学研究費などをもらって公表した論文などは、全部オープン化するのが基本的な流れであり、オープンアクセスが求められています。人文学のうち日本史や日本語・日本文学などでは電子ジャーナルが発達していませんが、さすがに『史学雑誌』や『史林』も、エンバーゴ期間を置いてオープン化しはじめました。電子ジャーナルはデータ管理に恒常的な経費が発生するので、欧米の電子ジャーナルは年々値上げすることが宿命となっており、これらの雑誌が今後どのように維持されていくのか懸念があります。ジャーナルの電子化の進展と学会組織の弱体化にどう対応してゆくか、それらを担う若い研究者をどう再生産してゆくか、これからの学術の体制は変わっていかざるを得ないでしょう。(2)史料ネット運動と地域史研究ところで、歴史学が社会的にも大変に注目され、また役割を果たしていた時期は確かにありました。一九五〇年代の国民的歴史学運動がそれです。敗戦により大日本帝国が崩壊し、戦争災害によって日本が破壊され、新しい日本をつくらねばならない時に、人々の生活に密着した村の歴史や工場の歴史、さまざまな歴史をもう一度見つめ直そうという気運が高まります。なかには日本という国家の根源は何かということで、日本古代史を志した先生方もいらっしゃいました。戦後の歴史学において、古代史研究は明確な意義を有していました。残念ながら、国民的歴史学運動そのものは、国家としての日本を巡る政治的な争いのなかで、すぐに頓挫してしまいます。当時は中国革命が進行し、朝鮮戦争が勃発するなかで、日本の進むべき道はどちらだということで、党派的な争いに巻き込まれてしまい、国
『歴史科学』二四一号 二〇二〇年五月 民的歴史学運動と言いつつも国民的支持が得られなかった。また、それを担っていた人たちが、若い学生から大学院生ぐらいの方たちだったと思いますけれども、そういう皆さんの思いが具体的なかたちにならなかったということがあります。国民的歴史学運動そのものは挫折したのですが、一方で、人々は歴史を自らの手で取り戻してゆきます。例えば、岡山の場合、一九四五年六月二九日未明に空襲を受け、城下が焼け野原になり、岡山城天守閣・後楽園が焼け落ちます。しかし、戦後、すぐさま後楽園の復旧ははじまり、一九六〇年代には岡山城天守閣の再建が実現します。岡山に住んでいる人たちは、自分たちの町のシンボルとして岡山のお城を、天守閣がシンボルになるのか微妙なところがあるのですけれども、それでも岡山の皆さんは後楽園とその向こう側にある岡山城の天守閣が、やっぱり自分たちの町のシンボルであり、地域の歴史を象徴するものと考えていたので、これを再建するわけです。ほぼ同時期に、岡山市は『岡山市史』の編纂もはじめています。後楽園が県、岡山城が市というように、これらの事業主体は異なるのですが、岡山の歴史を見直しつつ町をつくっていく動きは相互に関連しており、それは敗戦直後からはじまっていました。これは、やはり大事なことであって、同じような意味を史料ネットの運動がもつのだろうと思います。史料ネット運動のほうは、一九九五年にスタートしてかれこれ二五年になります。この運動が、なぜこんなにも続いたのか本当に感慨深いものがあります。一九九五年の阪神淡路大震災をきっかけに、この運動はスタートしますが、ライフラインの復旧や破壊され た町の整理にともない、片っ端からいらないものは捨ててしまえ、地下にあるものなんかは放っておいてどんどん高層住宅を建てろ、というような勢いでした。なかなか言い出しにくかったのですが、このままでは、地域の歴史を支える資料がなくなってしまう、そうした危機感を若手の研究者たちが共有し、手弁当で取り組んだのが史料ネット運動です。歴史を捨て去ってしまっては、本当の意味での復興にならないのではないだろうか、復興とは何か、よりよい生活のための地域社会とはどのようなものか、が問われたわけです。私たちは、歴史を見つめることは新しい未来を創造することに他ならないと確信していますが、それが通底するポイントなのではないかと考えます。二 古代史研究の模索(1)歴史学と数理計算モデル阪神淡路大震災のすぐ後に、私は、たまたま兵庫県加西市の市史の編纂に携わることになりました。本当にたまたまの話なのですけれど、地域の歴史を編纂する事業に参加するにあたり、人々の地域の生活、人々に即した地域史を編んでみたいと思いました。なぜそんなことを思ったのかをたどってみると、もちろん阪神淡路大震災の体験もありますが、私が勉強を始めたのは一九八〇年代初頭です。一九八〇年代には日本の歴史学全体のなかで、社会史のムーブメントが大きくありました。それまでは、戦後の歴史学の構造主義的な理解が主流だったのですが、もう少し人々の生活に即したかたちで、いろいろ考えていこうという流れが一九七〇年代、一九八〇年代に盛んになっていきます。そういう社会史への関心が下地にあ
『歴史科学』二四一号 二〇二〇年五月 ったように思います。市史古代編の編纂にあたって仰ぎ見たのは、彌永貞三先生の「御野国加毛郡半布里戸籍の故地」という論文でのお仕事です(『日本古 代社会経済史研究』岩波書店、一九八〇年。初出、一九六二年)。半布里戸籍は、古代史では大変有名な史料で、正倉院に伝わる戸籍は断片的にしか残っていないのですけれども、この場合はほぼ完璧に残っています、半布里戸籍はまさに奇跡の戸籍なのですが、その舞台の地域史研究をなさいました。彌永先生は、文献による厳格な実証を得意とされる古代史研究者ですが、現地で考古学者と一緒に水がかりを調べ、近世の村の領域の在り方とかを絵図などで確認しながら、だいたいこの辺りにどういう集団が住んでいて、里の範囲がこういうふうになっているとか、いろいろな分析をされました。一番びっくりしましたのは、航空写真の田んぼの数を一枚ずつ数えられたことです。現状では、修正しないといけない点もありますが、これは大変素晴らしい研究です。まさに戦後の古代地域史研究の金字塔と言ってもいいのではないでしょうか。では、今の時代だったらどういうものができるか、ということでいろいろと模索をしてみました。そこで出会ったのが、地理情報システム(Geographic Information System,Geographic Information Science,GIS )です。日本の古代史研究は史料が少ないこと、それも偏りが大きいことなどから、理念的・観念的なものにならざるを得ないところがあるのですが、地域社会を可視化できれば大きな意味があると考えました。同僚の考古学者、新納泉先生からこうした研究手法について教えていただきました。二〇〇二年に発表した論文に図を一枚載せましたが、それが古代史研究でGIS分析を行った 最初の事例になるのではと思います。これは一〇メートル平方のメッシュ単位の標高の数値で構成される空間について、隣接するメッシュの標高差を利用して、各メッシュの傾斜を計算し、平坦な用益できそうなところを抽出して、そのまとまりを構造化したものです。もちろん仮想の地域空間なのですが、こういう計算モデルを利用して、当時の里がどのように編成されたかを考えました。また、二〇〇〇年に鳥取県西部地震が発生し、島根大学・鳥取大学・神戸大学の皆さんとともに史料ネット活動に取り組みますが、その一環で鳥取県の西部、伯耆国の世界をどう理解するかが課題になりました。そこで行ったのが、古道の復元です。伯耆国に隣接する出雲国には立派な『風土記』が残っています。そのなかに、道がたくさん出てくるわけです。伯耆国に通じる道もあり、関が置かれていたことがみえます。選んだのは、「阿志毘縁道」で、『風土記』には「伯耆国日野郡との堺なる阿志毘縁山に通くこと、卅五里云々」とあります(仁多郡条)。そこで、この地域の地形を計算機上に再現し、傾斜角度と傾斜方向などを計算して道を復元しました。起点になるところから、傾斜をコストとみなし、二点間のポイントで一番コストの低いルートを選んでやれば、それが人の通る道だろうと考えました。今も現地には阿毘縁山があり、その南側に鳥上山と呼ばれる山がありますが、鳥上山の北側を通る道こそが阿志毘縁の道だろうと推定しました。ご承知のように、鳥上山は日本の歴史のなかでは重要な山で、ヤマタノオロチ退治の舞台です。この道は、現在も鳥取県と島根県の県道として利用されています。さらに道を復元することの延長上で、郡という空間の意味も考えてみました。古代の行政組織は、国・郡・里という組織からなり
『歴史科学』二四一号 二〇二〇年五月
図 1 備前・美作の郡域の変遷
『歴史科学』二四一号 二〇二〇年五月 ますが、郡の前身の「評」が七世紀の中葉にできます。その下に五十戸(里)という組織が人為的につくられるのですが、江戸時代の「村切り」のような、ここからここまでこの里、ここからここまでこの里とはどうも決まっていないだろうと言われます。五十の戸を集めて里を編成するのが古代のやり方です。この「戸」がどういうものなのか、問題になるのですが、だいたいこの辺りで戸を編成しましょう、この辺りでこの里をつくりましょうというように、ある程度の地縁的まとまりはあるわけで、それが地名などに残ります。そこで、そういう地名を拾って、強引に現在の地図の上に、代替するポイントを決めてゆきます。図1は備前国の図です。和銅六年に美作国が分割されますが、備前はこういう構造になっていました。ドットで示したのが、里(郷)名として残っている地名を拾ったポイントです。この点の分布がどういう意味をもつか、郡ごとに分布の指向性を計算し、郡が編成された空間を楕円で表現しました。なお、点の分布について、相互の距離を累積して最も小さいものを選ぶことで、中心的な点を選ぶこともできます。言うならば、バーチャル郡衙です。このように、郡ごとに里の代替ポイントの分布を見てゆけば、郡という空間的広がりがどういう論理で出来上がっているかが分かります。実は、備前国の東部は、おそらく古代で最も郡域が変わったところで、詳細は省きますが、頻繁に郡の領域が変更されています。それで、どういう結論になったかというと、なんのことはない山陽道を通る駅家をどのように維持していくか、駅家の位置で決まっていたことがわかります。駅家を吉井川の西に置くか、東に置くか、では西で一つ郡をつくろうというように決まっていました。駅 家と道路を支えるための人々の徴発単位になるのが郡であり、それが頻繁に変わっていたわけです。おそらく、津(都宇)を摂する国(摂津国)・郡(都宇郡)・郷(都宇郷)なども同様の意味をもつでしょう。日本古代史研究では、郡とか評というものを弥生時代以来の共同体世界として見做す考え方は根強くあるのですが、少なくとも、八世紀の段階ではこういうふうに律令制支配の論理で考えていくべきだと思います。(2)融合研究の可能性
①地震学と歴史学そのほかの、いくつかの実験を紹介したいと思います。まず古代の地震の復元があります。実は、私自身は何もしていません。たまたま、学内の委員会で隣に座った先生が、理学部の地球物理の先生で地震の研究をしている隈元崇先生でした。隈元先生も関わって作られたGISの教科書を偶然私が持っていて、いろいろと話をするようになりました。過去に起きた地震は繰り返されるので、これから起きる地震の揺れを予測するのが隈元先生のご研究です。そこで強振動予測の技法は、過去の地震の復元に使えるのではと思い至りました。何か面白そうな地震を取りあげてみようということとなり、当時、天平六年(七三四)の大智度論を追いかけていたこともあって、天平六年四月に発生した地震を考えてみることになりました(『続日
本紀』天平六年四月戊戌条)。というのも、大智度論は大般若経の解説なのですが、日本では菅原道真をはじめとして、中世でも地震の解説として知られるものなのですね。天平六年には播磨国賀茂郡既多寺で多くの知識を集めて大智度論が書写されるのですが、これが地
『歴史科学』二四一号 二〇二〇年五月 震に関係するのではと思っていたところでした。実際に発生した天平六年の地震が何なのか、正確にはわかりません。阪神淡路大震災以来、日本国中の活断層の分析は進んでおり、活断層の再評価をしています。これから何年間で動く可能性はどうなのかを評価していったのですが、その一つの候補が生駒断層帯の地震です。上町台地にも断層があってそれも動くのですけれども、これには論争があり、一六世紀に動いているのか、八世紀に動いているのかということで議論が分かれています。『続日本紀』には天平六年の地震で、山陵が動いたかもしれないという記事があるのですが(『続紀』天平六年四月戊申条)、実際に誉田山古墳の墳丘の裾を生駒断層帯が走っており、前方部が断層で切られています。誉田山古墳は、五世紀にできた巨大古墳ですけれども、五世紀以降の地震で動いていることは間違いない。生駒断層帯について、四條畷でトレンチを入れてみると、断層の直上の土層で炭素年代により平安時代に遡る遺物が検出されています。ということで、五世紀以降、平安時代までの間に生駒断層帯が動いた可能性があるとして、この断層を焦点に考えることにしました。計算の仕方はある意味シンプルでして、断層の端から端を直線で引きます。その断層の周囲で一キロメッシュごとに揺れを計算してゆきます。表層の地面を考慮して、実際にどのように揺れたのかというのを復元してゆくものです。隈元先生が計算されたのですが、広い範囲で震度五強の揺れがあり、直上のところではもっと揺れていただろうということです。巨大地震というほどのものではないのかもしれませんが、畿内の大事なところに大きく影響を与えていることになります。 考えてみると地震の直前三月に、聖武天皇は難波宮に行幸しており(『続紀』天平六年三月壬申条)、帰路に河内国の竹原井頓宮(青谷遺跡)で一泊し(『続紀』天平六年三月戊寅条)、翌日平城宮に還御しています。現在のJR大和路線のルートです。ちなみに、光明子は安宿媛といいましたが、その養育氏族は河内国安宿郡の出身です。当地の智識寺で大仏造立を聖武天皇は思い立つように、日本の古代史にとって、この地域は仏教信仰上大切なところでした。聖武天皇は天平六年に一切経の書写を発願しますが、そうした地震体験が発願につながっているのではないかというふうに推定しました。写経の発願理由は、近しい人の供養が一般的ですが、聖武天皇の天平六年の一切経では、これが極めて漠然としていまして、「朕以万機之暇、披覧典籍、全身延命・安民存業者、経史之中、釈教最上」とあります(七知経、檀王法林寺)。目的は何かというと、人々が安寧でありますようにということに他なりません。残念ながら、聖武天皇が命じた一切経の跋文には「天平六年歳在甲戌」とあるのみで、月がみえません。地震は四月に起きているのですけれども、そのあとに聖武天皇がこういう一切経の発願をしてもおかしくないだろうと考えています。
②気象学と歴史学最近の仕事では、これもたまたま誘われてご一緒することになっただけなのですが、気候の復元に関しての研究があります。これまでも、古気候の復元というのは、年輪年代、氷床コア、琵琶湖など湖底の堆積物を利用するなど、さまざまな取り組みがなされてきたのですが、名古屋大学の中塚武先生が樹木の細胞の酸素同位体比を利用した高解像度の気候復原を実現しました。樹木は一年に一つ
『歴史科学』二四一号 二〇二〇年五月 ずつ年輪を重ねていくわけですけれども、それをスライスし、細胞のセルロースを分析器にかけてイオン化して、酸素同位体比を測ります。年輪年代法と組み合わせた新しい技術です。これまでの年輪年代法には難しいところがあって、アカマツとカラマツ、さらにスギの年輪幅は一致しません。従来の年輪年代法により年単位の気候変動を知るために、年輪の物差しを長く延ばそうとすると、同じ樹種で同じような条件で育ったものを探す必要がありました。これまでの年輪年代法には、そうした限界があったのですが、これをどのように突破したかというと、実は樹種が違っていても、それぞれの同位体比を測ると相関していることを中塚先生は発見したわけです。ですので、樹種が違っていても、酸素同位体比を測ってやることで、年輪の物差しがつくれるようになりました。もちろん測っている個体によって、個別の数値は全然違うのですが、そうしたものを平均化することで、長期にわたる年単位の気候変動が復元できたのです(中塚武「酸素同位体比年輪年代法がもたらす新しい 考古学研究の可能性」『考古学研究』六二―二号、二〇一五年)。一年ごとに植物が大きく呼吸する夏の時期に湿気が多かったのか、それとも乾燥していたのかが、はっきりわかるようになりました。『続日本紀』をはじめとする古代の史書の気象に関する記事は、本当に簡単な記事しか残されていません。例えば、「馬を芳野水分峯神に奉る。雨を祈ればなり」(『続紀』文武二年四月戊午条)、「使を京畿に遣わし、雨を名山大川に祈る」(『続紀』文武二年五月甲子条)といったもので、これだけしか分からない。一応、馬を奉った場所、祈った神は『延喜式』の中にもみえており、ほとんどが大和の神であることは間違いないのですが、その程度です。あとは、黒い馬を奉 るか、白い馬を奉るか、雨を祈るのか、止雨を祈るのかということぐらいしか分かりません。ちなみに、そうした記事が掛かっている月に着目してみると、雨を祈るとき、雨を止めるときに傾向がみえてきます。祈雨の記事はほぼ夏、止雨の記事は夏から秋にかけてとなります。これは、なんのことはない当時の農耕の基本的なやり方に従って、雨が必要なときに雨を祈っていて、雨の要らないときに止雨を祈っているのであって、当時の農作業と対応しているのだろうと思います。もっとも、それがどのように対応しているかというのは問題で、全国の作況指数などはありませんので、祈雨・止雨の対象となる神がほとんど大和で占められていることから、王権にとって最も大切な田、おそらく倭屯田の作柄が問題なのでしょう。ともあれ、そういうデータしかなかったのに対し、精度高く、雨の量などの全体をみることができるようになったのが、中塚先生の研究の成果でもあります。それにより古代を通じてみると八世紀は基本的には安定しています。八世紀の前半に大きく揺らいではいますが、全体として乾燥気味だけれども比較的振れ幅は小さいようです。ただし、揺らぎの大きい時には深刻な問題が発生しています。例えば、天平宝字六年から天平神護年間にかけて、『続日本紀』の記事を拾っても飢饉と疫病が頻発していますが、気象のデータも、ちょうど七六〇年代から、七七〇年代にかけての振幅は大きなものがあります。また全体を通してみると、九世紀の後半には一気に湿潤化し、一〇世紀に一転して乾燥化するようです。九世紀の後半には、不堪佃田とか損田と呼ばれるものが増加し問題化するのですが、これま
『歴史科学』二四一号 二〇二〇年五月 では、国司がいいかげんな報告をして、私利をむさぼるようになったと考えられてきました。こうした現象は、律令制の弛緩と共に説明されてきたところですが、実際に、仁寿元年などは、かなり雨が降っていたようで、仁寿年間に不堪佃田についての政策が出てくる背景には現実の気象現象が存在したようです。考えてみると、九世紀の後半というのは地震も頻発しました。皆さん、ご承知のように東北の東日本大震災と同じようなものは、貞観年間にも起きています。南海トラフも動きました。まさに一九九五年から現在に至るまでの日本の過程とほぼ同様で、こういったさまざまな災害に見舞われています。さらに言えば、貞観年間は飢饉と疫病も頻発します。気候が不安定化する、地殻災害も頻発する、地震や火山も噴火する。まさに古代国家の全般的危機とでもいいましょうか。九世紀の後半から一〇世紀の後半にかけて、律令制が変化することは、これまでの平安時代の国制史研究などでも言われていたことなのですけれども、これからは、こういう自然現象の実態も併せて見ていってもいいのではないかと思います。
③人口学と歴史学最後に、生存の問題に関わるところで、人口という論点を紹介しようと思います。人間の生活をどのように捉まえるか、定量的に考えていくかといったときに、やはり人口という論点は欠かせません。例えば、家族・村落・地域、国家の支配する人々の生存を総体として把握するのが人口でもあり、個体群としての人間の人口統計学的分析は有効です。八世紀の前半は、わりと精度の高い戸籍が史料として残っています。こういうものをベースに、いろいろと考えているところです。 大宝二年の御野国加毛郡半布里戸籍がもっとも良好な史料であり、分析の第一選択になります。半布里戸籍では男性のデータに比して、女性のデータに乱れがありますが、全体を見渡すとピラミッド型の人口構成です。これは死亡率に大きな変化がなく、推移していることを示します。女性のデータの乱れは、あとから追加したことによると推測されるのですが、これらを一緒にして、最小二乗法の当て嵌めにより人口曲線を作ります。実測値から予測値を求めることで、曲線に直すのですが、その乖離の程度により、どれだけ正確に表現できているかを示すことができます。この人口曲線を作ってしまえば、出来上がった曲線のX=0のY切片は、一年間に生まれる子どもの数と仮定できます。また母子の年齢差から出生曲線を作れますので、これらを組み合わせて女性の年齢別の出産率を求めることができます。その率を総計すると合計特殊出生率(TFR )になりますが、大体六・五人程度です。また、この人口曲線について、擬似的に人口一〇万人単位に変換すれば、生命表を作ることができます。すると、出生時の平均余命は二八・四八歳となりました。もちろん、誤差を含むので、おおよその見当でしかないのですが、古代の出生時の平均余命はだいたい三〇歳程度でしょう。ここにお集まりの若い皆さんの半分ぐらいが、すでに死んでいるという社会です。こうした人口統計学的分析は、一九八五年にファリスさんが最初に試みています(W.W.Farris
,Population,Disease,and Land in Early Japan,645-900,Cambridge,Harvard
University Press ,1985.)。以上は、ファリスさんの計算方法とは違うのですが、だいたい同じぐらいの数字になっています。それから曲線のX=0の際のY切片を全数で割ると粗出生率
『歴史科学』二四一号 二〇二〇年五月 (CBR)となり、千人あたり三五人程度(三五‰)の出生率が見込まれます。この粗出生率と粗死亡率(CDR)の差が古代の人口成長率となります。古代の人口については、鎌田元一さんの研究があり、八世紀の初頭の人口が四五〇万人、九世紀の頭の段階では、鹿の子C遺跡出土の漆紙文書の分析から全体としては五五〇万人程度になるのではと推定されています(鎌田元一『律令公民制の研究』塙書房、
二〇〇一年、初出一九八四年)。これによると、年平均人口増加率が〇・二%となります。すると、粗死亡率は、だいたい三三‰程度でしょうか。このくらいで古代の人口は推移しているということになります。人口の推移について、全体を見渡してみると、古代はどのように評価できるのでしょうか。日本史上において、ある程度信頼できる人口データは江戸時代にならないと得られません。吉宗の享保期に約三二〇〇万人が得られるのですが、それ以前がわかりません。古くは、吉田東伍が石高と人口は正比例の関係にあるとして、江戸時代の初頭の石高が一八〇〇万石であることから、当時の人口を一八〇〇万人と見積もりました。これに対して、日本の歴史人口学の開拓者、速水融さんは、江戸時代の前期の人口増加率が一%と高率が見込まれるとして、近世初頭の人口を一二〇〇万人としました。現在では、この時期が小氷期にあたることから、見直しも進められており、人口増加の基点をいつ頃に求めるか、増加率をどのように見積もるかが争われています。江戸時代の初めの人口は、一二〇〇万人から、一八〇〇万人の間ぐらいに見積もるのが最近の見方です。これを古代からトータルで見たときには、図2に示すように、 近世初頭を一二〇〇万人と見積もると、年平均人口増加率は〇・一%となり、一八〇〇万人で考えると〇・一五%となります。先ほどの八世紀を通じての年平均人口増加率〇・二%で推移したとすると、近世初頭で二七〇〇万人となり過大です。おそらく人口増加率は〇・一%から〇・一五%の間で、八世紀の頭から一七世紀の初頭まで推移したことは間違いないでしょう。実際には鋸の歯のように動いたはずですが、残念ながらそこまで微細な分析が可能な史料は残されていません。このように全体を見渡してみると、古代の人口増加率〇・二%というのは、緩慢な動きではあるけれども、それでも高いということになります。そうなると、やはり条里を開発し、口分田を班給する、品種まで管理して出挙を行うなど、再生産に積極的に介入する律令制システムを再評価する必要があるかもしれません。この点は今後の課題ですが、研究が進むことが期待されます。
『歴史科学』二四一号 二〇二〇年五月 三 古代社会を
振り返る律令制再生産システムが正の作用を果たしていたとして、当時の生産技術では克服し得ない気象の変化、さまざまな災害が負の作用を果たします。そういったものとのシーソーゲームにより古代社会は変化してゆくのですが、古代という世界なり社会を考える上で、そうした連関の核にあるものは何かというと、やはり即自的に重要なのは、気象や社会の安寧を図っていた王でした。王という存在そのものが、やはり重要です。例えば、雨乞いに関して言うと、よく知られるように皇極朝の事例が有名です。雨乞いを村々の祝(はふり)がつかさどり、牛馬を殺したり、市を動かす、河伯に祈るなどしますが、どうにもならない。そこで、蘇我入鹿が主導して百済大寺で「請雨経」をあげるのですが、雨はぱらぱらと降るだけで効果がない。最後は皇極(斉明)女帝が、自ら雨を祈ったらざあざあと降る(『書紀』皇極元年八月朔条)。村々の雨乞いから蘇我入鹿が主導する百済大寺での雨乞い、さらには天皇の親祭による雨乞いというように、雨乞いは重層的に構成されており、最終的に天皇により総括されました。皇極(斉明)女帝だけではなくて、桓武天皇も雨乞いをしました。桓武天皇のときも、同じように雨が降らないからといって、天皇がみずから沐浴をして雨乞いをしたら雨が降った。そして、みんなが万歳をしたというのが記事になっています(『続紀』延暦七年四月癸巳
条)。このように雨乞いをするのは、女帝も男帝も関係ありません。これは王の本質的な機能なんだろうと思います。古代王権について、ともすれば抽象的に理解しがちですが、古代 においては、自然との結節を図っていたのは王であり、王の存在そのもの、その身体がやはり大切でした。祭祀を行う首長は、日本列島に昔からいたのですが、仏教や儒教が六世紀に伝来することで、王をめぐるイデオロギーが荘厳されてゆき、さまざまな自然現象も、そういったものにより説明されるようになります。清浄な王を中心に古代国家が完成することで、王権の下に都市が生まれ、王権に奉仕する体制も整備されるのですが、こうした古代国家の統治システムそのものも、当時の人々の生存を脅かす重要なファクターになってゆきました。そもそも都市というものは汚いのが本質です。汚穢に満ちているのが都市であり、これは日本だけでなく、中国・中東・ヨーロッパでも同様です。都市をつくって、官僚システムを創出し、古代国家が出来上がるのですが、そこが、まさに人口の集中するところであり、感染症をもたらす病原体が宿主に寄生して生き延びていくところでもありました。そうした都市に人々が大量に動員されるシステムが、まさに律令制であって、その最たるものが調庸制といった貢納のシステムです。都城と調庸制は、いずれも律令国家の核心をなすのですが、それが人間の生存を脅かす根幹のシステムでもありました。大雑把な計算ですが、古代において、都城には数千人規模で二ヶ月に一度とかの頻度で脚夫が動員されました。都の人口は、現在、一〇万人を切るのではといわれていますので、都は駄馬と人足とで溢れていたわけです。都にやってくる人は、調庸の場合だと自弁ですので、帰郷できない人もいたりします。都で乞食化する人もありました。また病気に感染し、帰路で困窮する人もでます。そうした
『歴史科学』二四一号 二〇二〇年五月 帰還困難者を収容し救療する施設が寺院でした。古代になって七世紀の終わりから、八世紀にかけて、日本全国に寺が爆発的に増えることの背景には、このような調庸制システムの整備があったのだろうと思います。日本の古代社会の資産格差はとても大きいものでした。圧倒的大部分の普通の人々は、資産一貫を持たない貧戸です。ごく一部が奴婢をたくさん抱え込む、そういう社会です。そして出生時の平均余命が短く、極めて不安定な社会ですので、人々はつながりを再構成して、なんとか生き延びていくことになります。このつながりは、地縁でも、血縁でもなんでも構いません。古代にみられる頻発する再婚の現象もその一環です。時に性愛の交換も生存に直結していたのですが、男性と女性が同じ条件で世帯を再構成していくわけではなくて、一定の年齢になったら女性はそういう世帯再構成の対象から外れていく、極めて差別的な不安定性がありました。そうした地縁・血縁などの縁から疎外されている人々もいました。この不安定な社会では容易に奴婢に転落するというのはあり得ることで、債務奴隷化もあります。なかには、身体や芸を売ることで生命をつなぐ人々もいました。『万葉集』には乞食者による鹿と蟹の歌が収められています(三八八五・三八八六)。王様に角や耳など身体のパーツを差し出す、という歌ですが、乞食者は「ほかいびと」と呼ばれています。これは、おそらく平城京の東西に市がありますが、そういう場でおそらく芸によって生活する芸能者の歌でしょう。差しだす物などなにもない乞食者が読むことに滑稽さがある歌です。芸や性など売るもののある人たちは、それらを売ってでも生き延びていくのでした。 また、最底辺で孤絶するのが病者と孤児でした。京中の病者と孤児は平安京では悲田院・施薬院に収容されましたが、こうした孤絶した人々は平城京段階でもみえます。天平宝字六年には京中の乞索児がみえます(『続紀』天平宝字六年閏十二月丁亥条)。これを一〇〇人集めて陸奥国に送るというものです。天平宝字六年は、先ほど紹介したように飢饉と疫病に見舞われます。都には身寄りもない、物乞いをして生活する子どもたちがいたわけです。おそらく第二次世界大戦後の東京や大阪などの大都会と同じように、そうした孤児をかり集め陸奥国に送ってしまえというのがその政策だったのではないでしょうか。『日本霊異記』には聖徳太子と乞食の話がありますが、そこにみえる乞食は病者でした(上四)。病気で働くことができない人は、身体を売って働くことができません。これらの人たちは、古代ではまだ集団化されておらず、人としての扱いも受けない存在であり、西山良平さんによると身分以前の存在でした(西山良平『都市
平安京』京都大学学術出版会、二〇〇四年)。古代社会とは、そういう厳しい世界なのです。人の従属や隷属、たくましく生き延びていくさま、そういったものを具体的に把握することで、古代社会の構造と特質を明らかにしてゆければと考えています。ぜひ、皆さんにも挑戦してもらえたらと思います。
おわりに人文学が現在危機に直面していることは冒頭でお話ししましたけれども、それは、ある意味チャンスでもあり、新しい人文学をつくっていく、そういう時期なのだと前向きに捉えたいと思います。伝統芸能の世界に籠もりとどまるのではなく、みなが共有する普遍
『歴史科学』二四一号 二〇二〇年五月 的な問いに対して謙虚に向き合い、いろいろと挑戦してみてはいかがでしょう。「新人」である私たち人類は、アフリカを出て地球上に拡散し、現在の文化をつくっています。しかし、世界は等し並みに、平等に構造化されているわけではありません。極めて不公平・不平等な再分配の構造のもとにあり、今や人類の生存そのものが脅かされるに至っています。こういう問題意識は、広く共有されているところでもあり、さまざまな学問でも追求されています。欧米の研究をみると、よく「レジリエンス」というものが出てきます。これは直訳すると「復元力」という意味で、人間が困難にどう打ち勝ったかというニュアンスがありますが、これを人間が今までどのように生きてきたのか、生存の問題として捉え直すことで、共通の議論ができるのではと思います。生存は、日本古代の場合は文字どおり生命の再生産の問題であって、命をつなぐことそのものが、古代社会を明らかにすることに他なりません。なお大切なことは、人文学は人間の学問ですので、総合の学であるべきだということです。狭い歴史学の中には、さまざまな個別の課題があって、それを明らかにするのも大事なのですが、普遍性のある問いを考えるに際しては、やはり総合を真剣に模索しなければと思います。その際、個人がすべてを引き受けるのは無理です。現代の科学は分業でなりたっているのであり、そういう協業を恐れてはいけないでしょう。これからの人文学そのものもデジタル技術を使って、これまでの資料学を組み替えるデジタル・ヒューマニティーズ(digital humanities)が唱えられるようになり、処理データの規模も変わり、資料を通じての事象の認知・認識も変わってゆく でしょう。さらに、天文学、気象学、地震学、植物学など、さまざまな自然科学、生命科学との協働も不可欠です。もはや歴史学単独で全てが分かるという時代ではありません。むしろ文字資料だけで復元できることなど、大したことはないくらいに思った方がいいだろうと思います。これから歴史学がどのように変化してゆくのか楽しみにしています。 参考文献今津勝紀
「首長制論の再検討」(歴史科学協議会『歴史評論』六二六号、二〇〇二年)。
今津勝紀「『出雲国風土記』にみえる阿志毘縁道をめぐって」(二〇〇二年度~
二〇〇五年度科学研究費補助金(基盤研究(
B)研究成果報告書『中山間地
域における地域形成とその歴史的特性に関する総合研究―島根県石見地方の
地域調査と鳥取県日野地方の被災史料救出保全活動の成果をもとに―』研究
代表者 島根大学法文学部教授竹永三男 二〇〇六年)。
今津勝紀・隈元崇「天平六年の地震と聖武天皇」(条里制・古代都市研究会『条
里制・古代都市研究』二二号、二〇〇七年)。
今津勝紀「播磨国賀茂郡の郷里復原」(『岡山大学文学部紀要』四八号、二〇〇七年)。
今津勝紀「古代の災害と地域社会―飢饉と疫病―」(大阪歴史科学協議会『歴史
科学』一九六号、二〇〇九年)。
今津勝紀 「古代における災害と社会変容―九世紀後半の危機を中心に―」(考
古学研究会『考古学研究』五八―二号、二〇一一年)。
今津勝紀「仁和三年の南海地震と平安京社会」(条里制・古代都市研究会『条里
制・古代都市研究』二八号、二〇一三年)。
『歴史科学』二四一号 二〇二〇年五月 今津勝紀「税の貢進―貢調脚夫の往還と古代社会―」(舘野和己・出田和久編『日 本古代の交通・交流・情報1 制度と実態』、吉川弘文館、二〇一六年)。
今津勝紀「古代における国郡領域編成の一考察―備前・美作の事例―」(吉川真
司・倉本一宏編『日本的時空観の成立』思文閣出版、二〇一七年)。
今津勝紀「脚夫・乞食・死穢」(佐々木虔一・森田喜久男・武廣亮平編『日本
古代の輸送と道路』八木書店、二〇一九年)。
今津勝紀「日本古代における生存と救済の問題」(『岡山大学文学部紀要』七一号、
二〇一九年)。
今津勝紀『戸籍が語る古代の家族』(歴史文化ライブラリー、吉川弘文館、
二〇一九年)。
今津勝紀 「日本古代の気象と王権―九世紀後半の全般的危機―」(中塚武編『気
候変動から読み直す日本史』第三巻、臨川書店、近日刊)。