南アジア研究第 21 号(2009 年)
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日本南アジア学会第 21回全国大会
シンポジウム報告
南アジアにおける
《共生》の諸相と展望
宮本久義
2008
年
9
月
28
日、東洋大学白山キャンパスにおいて、日本南アジア学
会第
21
回全国大会の全体シンポジウムとして「南アジアにおける《共生》
の諸相と展望」が開催された。
古代より南アジアの人々はいかに生き、いかに死ぬべきかという問題を中
心にさまざまな価値観を生み出し、育んできた。しかし同時に、個人の尊
厳や平等といった問題が等閑視されてきた事実は否めない。本シンポジウ
ムでは、南アジアという多民族、多宗教、多言語、あるいは階層的差別、経済
格差のある社会において、共生を醸成する、あるいは阻むどのような要因が
あるのか、また自然・環境問題に関連してどのような問題があるのかを
5
名の報告者に発表していただき、それを踏まえて活発な議論が交わされた。
シンポジウムのテーマの中で共生という言葉を《 》で括った理由は、い
まだその定義や概念に統一的見解がないからである。しかし、この言葉は、
抑圧や差別、対立や不平等、一方的な支配や侵害を超えて、「自立と連帯
のなかで、誰もが十全に自己実現を果たすことが可能な社会」(竹村牧男
ほか編『共生のかたち』、誠信書房、
2006
、
7
頁)を目指すといった意味合
いで多く使用されているので、ここでも幅を持たせた意味で使用したい。
最初の報告者である渡辺章悟氏の「慈悲と共生−仏教的共生の理念と現
実−」は、日本における共生思想や運動の歴史を総括するとともに、仏教
的共生の基盤にある慈悲を取り上げたものである。共生はもともと仏教的
な背景を持った言葉で、大正から昭和にかけて、椎尾辨匡(
1876
∼
1971
)により展開された共生会という仏教社会運動の背景を持っている。
この運動は必ずしも現代の共生思想に直結するとは限らないが、「協調と
分担の社会の実現」を特色とする点で、共生の基本を見て取ることができ
るという。この共生思想は、対立から調和へ、個から全体へという思惟傾
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向を持つ日本的な背景を持った思想であり、個性や対立を明確にして分析
する二元対立的な欧米の思惟傾向とは異なる傾向があると同時に、そこに
インド仏教的な思惟方法の根源を見ることもできるという。さらに、その
ような自他を一体化して捉える共生思想の基盤にあるのは、仏教思想にお
ける慈悲であると指摘する。慈悲のサンスクリット原語は、慈(
maitr
ī)
が「他者に利益や安楽を与える」で、「悲」(カルナー
karu
ṇā)は「震え
ること」「呻き」である。これはラテン語に由来する英語
compassion
(憐
愍、原義は苦しみを共にする)にも共通する考えである。つまり、他人の
苦に同情してこれを抜済しようとすることに他ならない。この共苦の思想
が普遍的な共生の理念に結びついているという。
田中雅子氏の「国家政策としての
Social Inclusion
と地域社会での
Multiple Exclusion
−ネパールの当事者運動の到達点と課題−」は、急速
に進む国家(マクロ)政策としての
Social Inclusion
(社会的包摂)が、地
域(ミクロ)社会で暮らす人々にどのような影響を与えているのか、ミクロ
レベルでの
Social Inclusion
とは何を意味するのかを考察し、その上で、
マクロ、ミクロ双方と接点をもつ当事者団体の役割を考察したものである。
ネパールでは、
1990
年の民主化以降、
NGO
をはじめダリットや諸民族
の団体など社会排除されている人々の当事者団体が急増し、それまで否定
されてきた権利や自己のアイデンティティの回復という点で成果をあげた
が、互いに競合し、相互排他(
Multiple Exclusion
)的な側面が存在するこ
とも否定できない。しかし、そのような状況のなか、非当事者、非多数派
住民との対話を重視し、日常生活における
Social Inclusion
の実践を模索
している団体もあるという。「社会排除されがちな当事者団体が、置かれ
た環境によっては排除する側になりかねないことは自明だが、自覚されて
いることは珍しい」という現実はあるものの、国家レヴェルとは別次元で
の
Social Inclusion
を推進することの重要性に焦点をあてた本報告は、共
生社会の実現を考える際、たいへん示唆的であった。
A
・サガヤラージ氏の「インドにおけるキリスト教とカースト問題−タミ
ルナードゥの事例−」も、社会における人間の共生の問題を扱ったものであ
る。すべての人々の平等を教義として掲げるキリスト教のなかにも、ダリッ
ト(不可触民)・クリスチャンが「上層カースト」のワンニヤルによって差別
されているという複雑な実態がある。タミルナードゥ州のある村の小教区
における日常的なカースト差別、および
2008
年
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月に起きたダリットの抗
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議行動と、それに反発したワンニヤルによるダリットの村への襲撃という
事例が詳細に報告され、こうした差別に対する抗議行動はインド各地で起
こっているという。さらに、このようなインドのキリスト教におけるカース
ト問題の淵源を、ヨーロッパ人宣教師による布教活動の方法に求めている。
プロテスタントの宣教師が改宗者を増やすために支配層であるバラモン
を遠ざけようとしたのに対し、カトリックの宣教師、特に
Robert de Nobili
は多くのバラモンを改宗させ、さらにバラモンを含む改宗信徒を無理に西
欧化させることなく、現地の伝統や慣習を尊重した。その結果、キリスト
教にカースト制度が存続することになったと結論する。マイノリティのな
かでのマイノリティの差別という、苛酷な現実がここにもある。「すべて
のキリスト教徒の統一の妨げとなっている、カースト的なものを存続させ
たり、増強させる慣習や伝統を変えていかねばならない」、というローマ
教皇ヨハネパウロⅡ世の言葉は、対立を乗り越える共生へ道を示している
と考えられるが、現地のキリスト教徒がどう受け止めるかが問題となろう。
安野修氏の報告「インダス川と人の共生」は、パキスタンにおける灌漑
農業が直面する問題を取り上げたものである。パキスタンにおいて農業セ
クターは
GDP
の
21
%を占めるが、それを支えているのがインダス川流域
に張り巡らされた灌漑水路網である。灌漑率は実際の耕地のうち約
75
.
6
%
になるという。しかし現在、灌漑へのこの高い依存度が原因とも考えられ
る塩害
salinity/sodicity
と過湿害(湛水害)
water-logging
の問題に直
面し、灌漑農地の約
1
/
3
が被害を受けているという。生態学には「共利共
生」と「片利共生」という言葉があるが、安野氏はインダス川と人との共
生は、「片利共生」あるいは「寄生」であるとする。メソポタミア文明滅
亡の理由の一つとして、灌漑農業に由来する塩害説があるが、灌漑水路網
による灌漑農業の歴史が高々
100
年強というパキスタンでも同様のこと
が起こる可能性もある。「何千年も昔のメソポタミアと同じように滅びる
のか。それとも、ヒトは少しは賢くなったのか。パキスタンの灌漑農業は
人類にとって一大実験とも言えるのかも知れない。」という安野氏の言葉
は、自然と人間の共生の問題がいかに難しいかを考えさせられる。
自然と人間の共生の困難さと同様か、あるいはそれ以上に難しいといえ
るのが人間と人間の共生であろう。石坂晋哉氏の「
M
・
K
・ガーンディー
と『共生』−ガーンディー主義における『民衆への奉仕』について−」は、従
来のガーンディー像の見直しを促す報告であった。ガーンディーの意義は、
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先行研究で説かれているようなナショナリズム運動への大衆の動員に限定
されることはないとし、ガーンディーおよびガーンディー主義者たちが継続
的に民衆への奉仕を実践してきたという事実に注目する。『ヒンド・スワ
ラージ』において、ガーンディーはインド人のなかのエリートと民衆との区別
を自明のこととし、その上で、みずからはエリート層に属していると自覚
していた。また独立達成のためには、民衆より自分たちエリートの方が変
わる必要があると考えた。その点を裏付けるように、ガーンディーが実際に
民衆に接近していった具体的な過程も歴史的コンテクストを踏まえてわか
りやすく示された。このように、ガーンディー自身がエリートと民衆の区別
を意識していたにせよ、カリスマ指導者と彼に盲目的に従う群衆・大衆と
いう極端な対立の図式は相対化される必要があるとする。さらに石坂氏は、
「民衆を公的な場で自発的に発言・行動させるために草の根で働く仕掛け
人としてのガーンディー」という像を示したが、これはガーンディーのケー
スに限らず、エリートと民衆の「共生」、あるいは持てるものから持たざ
るものへの
NGO
活動等を考えるとき、極めて有効な概念となろう。
以上の
5
名の報告を受けて、柳沢悠氏がコメンテーターとして各自の報
告をまとめるとともに、経済学的な視点から環境との共生について若干の
補足を行った。環境の問題においては、何が正しいかは定式化できないが、
大事なことは当事者間のダイアローグで、排除されていた人々が発言力を
持つようになると、森林などの共有地の共同利用性が高まり、環境保全の
方向に向かう例があると指摘された。
「共に生きる」という人間や社会の在り方は、利潤追求とは対極の幸福を
第一に考える人生観・世界観を前提にしなければ成り立たない。しかしそ
の「幸福」も、誰にとっての幸福かを考えると、そこには多くの難題が表
出する。今回のシンポジウムは歴史的、地理的、文化的にも多様な分野に
またがる共生の諸相の考察や実態報告が主となり、展望がなかなか見えて
こなかったというのが実感であるが、共生について継続的に考える必要が
あることは、フロアからいただいた多くの質問や問題提起によって確信す
ることができた。最後に、多くのシンポジウムの常として、なかなか結論
が出ない問題を粘り強く整理し、統括していただいた、司会の大橋正明氏
と井上貴子氏にあらためて感謝申し上げたい。
みやもと ひさよし ●東洋大学文学部教授