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北大法学論集 第62巻 第5号 全1冊

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Citation

北大法学論集 = The Hokkaido Law Review, 62(5)

Issue Date

2012-01-31

Doc URL

http://hdl.handle.net/2115/48232

Type

bulletin (other)

(2)

北大法学論集

第 62 巻   第 5 号

フリードベルク城対フリードベルク市(1)   ── 中世後期ドイツの継続的紛争 ──    田 口 正 樹    1 損害賠償法における素因の位置(2)   永 下 泰 之   35 自白排除法則の研究(8)   関 口 和 徳   91 研 究 ノ ー ト 名誉毀損罪の再構成(1)   ── プライヴァシー保護の観点から ──    佐 藤 結 美  204[  1]

2012(平成24)年

第六二巻   第五号(二〇一二)   北 海 道 大 学 大 学 院 法 学 研 究 科

THE HOKKAIDO LAW REVIEW

CONTENTS

ISSN 0385-5953

Vol. 62  January 2012  No. 5

ARTICLES

Burg Friedberg versus Stadt Friedberg (1): Ein Dauerkonflikt im  deutschen Spätmittelalter ☆    Masaki Taguchi    1 Die Mitverantwortlichkeit des Geschädigten für eigene 

Schadensanlage (2)   Yasuyuki NagashiTa   35

A Study on the Exclusionary Rule of the Criminal Confessions (8)    Kazunori sekiguchi   91 NOTE La reconstitution du délit de la diffamation (1)  ── Les recherches du point du vue de la protection de la vie privée──    Yumi saTo  204[  1] [ ]…Indicates the pagination for articles typeset horizontally that begin at  the end of the journal  ☆…Includes an European language summary Published by Hokkaido University, School of Law Kita 9-jō, Nishi 7-chōme, Kita-ku, Sapporo, Japan

(3)

平成24年1月25日  印 刷 平成24年1月31日  発 行  編 集 人

松 浦 正 孝

 発 行 人 北海道大学大学院法学研究科長

松 久 三四彦

 印  刷   北海道大学生活協同組合 情報サービス部 札幌市北区北8条西8丁目 TEL 011(747)8886  発 行 所 北海道大学大学院法学研究科 札幌市北区北9条西7丁目 TEL 011(706)3074 FAX 011(706)4948 ronshu@juris.hokudai.ac.jp

北海道大学大学院法学研究科・附属高等法政教育研究センター教員名簿

雑誌編集委員   ○   印 *は大学院公共政策学連携研究部専任教員

執筆者紹介

(掲載順) 田   口   正   樹 北 海 道 大 学 大 学 院 法 学 研 究 科 教 授 永   下   泰   之 北 海 道 大 学 大 学 院 法 学 研 究 科 助 教 関   口   和   徳 愛 媛 大 学 法 文 学 部 総 合 政 策 学 科 専 任 講 師 佐   藤   結   美 北 海 道 大 学 大 学 院 法 学 研 究 科 博 士 後 期 課 程 厚 谷 襄 兒 (経 済 法) 五十嵐     清 (比 較 法) 石 川   武 (法 史 学) 伊 藤 大 一 (行 政 学) 今 井 弘 道 (法 哲 学) 臼 杵 知 史 (国 際 法) 大 塚 龍 児 (商 法) 小 川 晃 一 (政治思想史) 小 川 浩 三 (法 史 学) 奥 田 安 弘 (国 際 私 法) 神 原   勝 (行 政 学) 木 佐 茂 男 (行 政 法) 小   菅   芳太郎 (法 史 学) 小 山   昇 (民事訴訟法) 近 藤 弘 二 (商 法) 實 方 謙 二 (経 済 法) 東海林   邦   彦 (民 法) 杉 原 髙 嶺 (国 際 法) 瀨 川 信 久 (民 法) 曽 野 和 明 (比 較 法) 高 見 勝 利 (憲 法) 道 幸 哲 也 (労 働 法) 中 村 睦 男 (憲 法) 畠 山 武 道 (行 政 法) 林 竧 (商 法) 稗 貫 俊 文 (経 済 法) 深 瀬 忠 一 (憲 法) 福 永 有 利 (民事訴訟法) 藤 岡 康 宏 (民 法) 古 矢   旬 ( ア メ リ カ 政 治 史 ) 松 澤 弘 陽 (政治思想史) 松 村 良 之 (法 社 会 学) 山 畠 正 男 (民 法)     池 田 清 治 (民 法) 遠 藤   乾 (国 際 政 治) * 岡 田 信 弘 (憲 法) 尾 﨑 一 郎 (法 社 会 学) 小名木   明   宏 (刑 法) 加 藤 智 章 (社会保障法) 児矢野   マ   リ (国 際 法) * 権 左 武 志 (政治思想史) 佐々木   雅   寿 (憲 法) 笹 田 栄 司 (憲 法) 嶋   拓 哉 (国 際 私 法) 白 取 祐 司 (刑事訴訟法) 城 下 裕 二 (刑 法) 新 堂 明 子 (民 法) 鈴 木 一 人 ( 国 際 政 治 経 済 学 ) * 鈴 木   賢 (比 較 法) 曽 野 裕 夫 (民 法) 空 井   護 ( 現 代 政 治 分 析 ) * 髙 見   進 (民事訴訟法) 田 口 正 樹 (法 史 学) 田 村 善 之 (知的財産法) 辻   康 夫 (政 治 学) * 常 本 照 樹 (憲 法) 長 井 長 信 (刑 法) 中 村 研 一 (国 際 政 治) 長谷川     晃 (法 哲 学) 林 田 清 明 (法 社 会 学) ○ 藤 原 正 則 (民 法) 町 村 泰 貴 (民事訴訟法) ○ 松 浦 正 孝 (政 治 史) * 松   久   三四彦 (民 法) 宮 本 太 郎 ( 比 較 政 治 経 済 学 ) 宮 脇   淳 (行 政 学) * 山 口 二 郎 (行 政 学) 山 崎 幹 根 (行 政 学) * ○ 山 下 龍 一 (行 政 法) 山 本 哲 生 (商 法) 吉 田 克 己 (民 法) 吉 田 邦 彦 (民 法) 亘 理   格 (行 政 法) 太 田 賢 二 (法実務基礎) 大 野 雅 祥 (刑 事 実 務) 岸 田 洋 輔 (刑 事 実 務) 林 竧 (商 法) 舛 田 雅 彦 (法実務基礎) 松阿彌     隆 (民 事 実 務) 米 屋 佳 史 (民 事 実 務)     會 澤   恒 (比 較 法) 池 田   悠 (労 働 法) ○ 郭 舜 (法 制 度 論) 川 村   力 (商 法) 栗 原 伸 輔 (民事訴訟法) 桑 原 朝 子 (日本法制史) 小 濵 祥 子 ( ア メ リ カ 政 治 史 ) 齋 藤 哲 志 (比 較 法) 得 津   晶 (商 法) ○ 中 川 寛 子 (経 済 法) 中 島 岳 志 ( ア ジ ア 政 治 論 ) * 根 本 尚 徳 (民 法) 藤 谷 武 史 (行 政 法) 堀 口 健 夫 (国 際 法) 眞 壁   仁 ( 日 本 政 治 思 想 史 ) * 水 野 浩 二 (法 史 学) 緑   大 輔 (刑事訴訟法) 三 宅   新 (商 法) 山 本 周 平 (民 法) 吉 田   徹 ( ヨ ー ロ ッ パ 政 治 史 ) 吉 田 広 志 (知的財産法) 米 田 雅 宏 (行 政 法) *     稻   垣   美穂子 (民事訴訟法) 大 島 梨 沙 (民 法) 黒   澤   修一郎 (憲 法) 小 嶋 崇 弘 (知的財産法) 下 村 太 一 (政 治 史) 徐 行 (比 較 法) 宋   峻 杰 (憲 法) 鄭   明 政 (憲 法) 所   浩 代 (労 働 法) 永 下 泰 之 (民 法) 朴   鍾 碩 (国 際 政 治)

(4)

   

フリードベルク城対フリードベルク市(一)

      

──

  中世後期ドイツの継続的紛争

  ──

 

 

 

    はじめに 一.フリードベルク城とフリードベルク市 二.国王による決定(一三世紀後半から一四世紀初め) 三.仲裁による解決の試み(一三三〇年代から一三六〇年代)   (以上本号)

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四.仲裁における項目訴訟手続(一三七〇年代から一三九〇年代) 五.ローマ法源の利用(一五世紀初め) おわりに

はじめに

  「 古 来 よ り、 ド イ ツ 国 民 の 神 聖 ロ ー マ 帝 国 で は、 身 分 高 き 者 低 き 者 の 間 で、 隣 人 同 士 の 軽 蔑 や 不 仲 の た め に、 公 然 た る敵対関係、 フェーデ、 攻撃が、 もろもろの歴史が証言しているように、 何度も繰り返し起きてきた。そしてここでも、 皇 帝 の 城 塞 フ リ ー ド ベ ル ク が、 グ ラ ー フ シ ャ フ ト・ カ イ ヒ ェ ン Graffschaft  Kaichen の 裁 判 所 と と も に、 ブ ル ク マ ン と その共同相続団体に結集した貴族たちの手に帰して以来、同城のブルクマンたちと神聖帝国の都市フリードベルクの市 民団体との間では、その地に根を下ろした直近の隣人同士として、きわめて激しいフェーデが生じたので、一方も他方 もほとんど破滅しかねないほどであった…」   一七世紀初めにフリードベルク市の立場から城側の不法を指弾した一書の序文は、 フリードベルクの城と市の関係を、 このように描写して い ( 1 ) る 。実際、両者は、一三世紀後半以来たびたび衝突し、中世後期を通じて争い続け、この書物の 存在が示すように、近世に入ってまでも対立を続けていたのであった。   他のヨーロッパ諸国におけると同様、中世後期のドイツでも、このように特定の当事者が長期間にわたって争い続け るという現象が見ら れ ( 2 ) る 。そうした紛争をここでは、継続的紛争 Dauerkonflikt と呼ぶことにし よ ( 3 ) う 。   そうした継続的紛争においては、紛争状況はコンスタントであり、同じ当事者ないし同じ争点が登場する。しかし他

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方で、時代の経過や当事者を取り巻く全体的配置の変化とともに、紛争解決のために用いられる方法や、当事者の振る 舞い方などには変化が生じうる。当事者や争点がコンスタントであるだけに、継続的紛争を長期にわたって観察するこ とによって、そうした変化がよりはっきりと浮かび上がってくることを期待できよう。西洋の学界でも、我が国でも、 紛争解決の歴史的研究に対する関心が近年高まってい る ( 4 ) が 、本稿のようなアプローチをとることで、全体の議論に何ら かの寄与をなしうるかもしれない。   こ う し た 意 図 か ら、 本 稿 で は、 継 続 的 紛 争 の 一 例 と し て、 フ リ ー ド ベ ル ク 城、 つ ま り 城 の ブ ル ク マ ン 団 体 Burgmannschaft と、 フ リ ー ド ベ ル ク 市、 つ ま り 都 市 の 市 民 団 体 と の 間 の 紛 争 を 取 り 上 げ る。 両 者 の 間 の 一 連 の 紛 争 に ついては、一三世紀から一四一〇年までの状況を、フリードベルク市の証書集とフリードベルク城の史料要録を使って 追跡することがで き ( 5 ) る 。この期間について、紛争解決方法の時期的変遷をたどることにしたい。しかし、紛争の細部の 検討に入る前に、まず当事者である城のブルクマン団体と市の市民団体について、簡単に確認しておこう。

一.フリードベルク城とフリードベルク市

  フリードベルクは、ドイツ西部、フランクフルトの北約二〇キロに位置するが、そこの城のブルクマン団体と市の市 民 団 体 と の 対 立 は、 一 三 世 紀 以 来 の 継 続 的 紛 争 で あ ( 6 ) る 。 当 事 者 と な っ た 両 者 は、 と も に、 一 二 世 紀 後 半 か ら 一 三 世 紀 前 半 に シ ュ タ ウ フ ェ ン 家 が 展 開 し た 帝 国 領 国 政 策 の 遺 産 と 言 え る 存 在 で あ ( 7 ) る 。 フ リ ー ド ベ ル ク の 城 と 都 市 が 所 在 す る ヴ ェ ッ テ ラ ウ Wetterau 地 方 は、 帝 国 領 国 政 策 が 特 に 活 発 に 展 開 さ れ た 地 域 の 一 つ で あ っ た ( 8 ) が 、 フ リ ー ド ベ ル ク は、 フ ラ ン ク フ ル ト、 ゲ ル ン ハ ウ ゼ ン、 ヴ ェ ッ ツ ラ ー と 並 ん で、 ヴ ェ ッ テ ラ ウ に お け る シ ュ タ ウ フ ェ ン 家 の 拠 点 の ひ と つ で

(7)

あった。フリードベルクでは、それら他のヴェッテラウ諸都市と同 様 ( 9 ) に 、城とそれに隣接する都市とがともに建設され たものと思われる。フリードリヒ一世・バルバロッサの治世後半(一一七〇年代)には城が、それより少し遅れて都市 が建設されたと推測されて い )(( ( る 。明示的な言及が史料に現れるのは、上述の諸地点よりやや遅れて、城も都市もともに 一二一〇年代になってからで あ )(( ( る 。   ヴェッテラウの王権の拠点の中でも、フリードベルクの城は特に著しい発展を見 せ )(( ( た 。城には、ブルクグラーフを頂 点 と し た 王 権 直 属 の 強 力 な ブ ル ク マ ン 団 体 が 成 長 し )(( ( た 。 一 三 世 紀 に は ブ ル ク マ ン 団 体 は 二 〇 -三 〇 人 の 騎 士 た ち か ら なっていたが、一五世紀初めまでには五〇家族約一〇〇人の騎士たちへと増加した。ブルクマンたちは、一人のブルク グラーフ、 二人のバウマイスター、 一二人の執政ブルクマン Regimentsburgmannen などの役職者を 選 )(( ( び 、 ブルクグラー フを長としてブルクマンによって構成される裁判所を持つ団体として存続 し )(( ( た 。この団体への新規受け入れも、自分た ち で 決 定 し た。 こ う し た フ リ ー ド ベ ル ク の ブ ル ク マ ン 団 体 は、 こ の 地 方 に お け る 下 級 貴 族 Niederadel の 重 要 な 結 集 点 となり、特異なことに、近世にも小さな領邦を形成して、帝国直属の地位を保ったのであ っ )(( ( た 。   ブルクマン団体は、当初から隣接する都市よりも優位にあったと思わ れ )(( ( る 。城は都市に接する南側にも防壁を有して いたが、一方都市の北側は防御施設を持たないままであった。城のブルクグラーフは城だけでなく都市においても、最 高の国王官職であり、したがって城の裁判所だけでなく、都市の参審人裁判所をも主催する立場にあった。他の国王都 市におけるのと異なり、フリードベルクのシュルトハイスは、都市における最高の役職ではなく、ブルクグラーフに対 して従属的な役割しか果たしていなかった。   しかしその後、この優位に都市側が挑戦していくことに な )(( ( る 。背景には、他の都市でも全般に見られた市民団体によ る自治の発展がある。フリードベルク市では、他の多くの国王都市と同様、一三世紀後半から都市参事会が史料に登場

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す )(( ( る 。 こ れ と 平 行 し て、 一 三、 一 四 世 紀 の フ リ ー ド ベ ル ク 市 は か な り の 経 済 的 繁 栄 を 見 せ )(( ( た 。 繁 栄 の 頂 点 で あ っ た 一 四 世紀半ばの時点で、市は約三〇〇〇の人口を擁したと推定される。市の経済的繁栄を支えたのは毛織物手工業とその製 品の販売であった。フリードベルク産の毛織物はフランドル産のような高級品ではないが、広範囲に販売されたことが 知られて い )(( ( る 。加えて一四世紀前半には大市 (メッセ) の開催を王権から認められ、 そのための特権を獲得した。また、 フ リ ー ド ベ ル ク の 都 市 法 は、 シ ョ ッ テ ン Schotten な ど 近 隣 の い く つ か の 小 都 市 に 授 与 さ れ て い )(( ( る 。 こ う し た 都 市 法 授 与も、経済的発展に伴って増大したフリードベルク市の重要性をうかがわせる現象である。フリードベルクの毛織物工 業は一四世紀末には急速に衰退し、メッセもフランクフルトのメッセとの競争などによって開かれなくなってい く )(( ( が 、 それまでの経済的上昇を背景に、都市参事会と市民たちは城からの自立を追求し、城のブルクマンたちとの対立を深め ていった。こうした城のブルクマンと都市の市民の間の対立は、他の国王都市では例えばオッペンハイムなどで見られ た )(( ( が 、フリードベルクにおける対立はとりわけ激しく、また継続的であ っ )(( ( た 。   その際の争点を先取りして述べておけば、だいたい以下の諸点で あ )(( ( る 。まず、都市参事会の構成が争われた。これに ついては、後述のように、ブルクマンの中から都市側の人選によって六人が選ばれて都市参事会メンバーになることに なっていたが、この点が紛争の種になった。都市側は、できるだけこの六人を迂回して、参事会の会議を開き、決定を 下そうとしたのであった。別の争点は、フリードベルクにおける裁判権の問題であった。フリードベルクには、ブルク グラーフが主催してブルクマンによって構成される城の裁判所と、ブルクグラーフないしその代理としてのシュルトハ イスが主催して参審人によって構成される都市の裁判所が存在した。更にこれらに加えて、都市参事会も裁判権を行使 しはじめた。 これら裁判機関の管轄と権限もたびたび争いの材料となった。 都市側は、 参審人の補充を怠ることによって、 ブルクグラーフが主催する都市裁判所の活動を麻痺させ、代わりに都市参事会の裁判活動を拡大しようとしたのであっ

(9)

た。 更 に、 租 税 問 題 も 対 立 点 と な っ た。 城 は 後 述 の よ う に、 都 市 の 消 費 税 Ungeld の 半 分 を 取 得 す る 権 利 を 王 権 か ら 認 め ら れ て い た。 こ れ に 対 し て 都 市 側 は、 で き る だ け 税 収 を 城 に 吸 い 上 げ ら れ ま い と し た。 例 え ば、 穀 物 税 Mahlgeld が ここでの「税収」に含まれるかどうかが争われた。また、都市が定める税を城側も支払う必要があるか、という点もさ ま ざ ま に 争 わ れ た。 例 え ば、 都 市 が 導 入 し た 荷 車 税 Wegegeld を ブ ル ク マ ン や そ の 従 者 も 支 払 う 必 要 が あ る か ど う か が 問題となった。その他、 流通税等についても同様の問題があった。最後に、 城と都市の境界部分の建築物をめぐっても、 何度も争いが起きた。城の南、都市の北に建てられる教会などの建築物をめぐって、撤去・改築を求める城側とそれに 抵抗する都市側が争ったのであった。

二.国王による決定(一三世紀後半から一四世紀初め)

  城の優位をはねのけようという都市側の動きは、 一三世紀後半には、 史料に明確に登場しはじめる。一二七五年には、 都市側は城を破壊した。市民たちのこの行動は、国王ルードルフ一世が展開した帝国領回収 政 )(( ( 策 のもとでの帝国城塞の 再整備と 強 )(( ( 化 に対する反応であったかもしれないが、詳しい原因、経過、破壊の程度などは不明で あ )(( ( る 。同年一二月に 国王ルードルフがフリードベルクのブルクマンたちに、フリードベルクのユダヤ人が支払う税を与えているのは、城が 被った損害を回復するための措置であったと思わ れ )(( ( る 。   一二七六年四月、国王ルードルフは、前年に起きた城の破壊に関して市民たちを赦し、今後この件で何か請求するこ ともしないと約束して い )(( ( る 。また、国王は、フリードベルク市民がオッペンハイム市民とともに陰謀を企てたという嫌

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疑についても、不問に付すことを宣言している。オッペンハイムも国王都市で、前述のようにやはりかなり強力な城が 隣接していた。オッペンハイムもこのとき、フリードベルク同様に赦されて い )(( ( る 。   国 王 は 更 に 一 二 八 〇 年 代 に、 城 と 都 市 の 対 立 に つ い て 決 定 を 下 し た。 こ の と き の ル ー ド ル フ の 行 動 は、 一 二 八 四 年 か ら 一 二 八 五 年 に か け て、 エ ル ザ ス、 ヴ ェ ッ テ ラ ウ を は じ め 広 い 範 囲 に 広 が っ た 都 市 市 民 の 反 乱 の 事 後 処 理 の 一 環 で あ っ )(( ( た 。この反乱の際に、市民側はやはり城とブルクマンを攻撃したものと思われる。これに対して一二八五年七月に マインツで、国王ルードルフは、ブルクマン・市民双方の同意を得て両者の間に取り決めと和解を成立さ せ )(( ( た 。相手に 攻 撃 や 不 法 を 加 え る こ と は 両 者 と も に 禁 じ ら れ、 今 後 侵 害 を 加 え た 側 は ラ イ ヒ か ら 得 て い る 諸 特 権 な ど を 失 う と と も に、相手方から要求があった場合には、制裁として教皇による破門か国王のアハトかのどちらかをみずから選ぶことと さ れ )(( ( た 。両者の今後の対立は、フリードベルク市における古来よりの慣行にしたがって決せられるものとさ れ )(( ( た 。この 場合、フリードベルク市における慣行とは、もちろん市民側の慣行という意味ではなく、単に場所を特定しているにす ぎない。   内容的にはこの和解は、都市反乱の事後処理として、まずブルクマンと市民の間の休戦を実現し、そしてお互いに今 後の侵害を控えるというものであって、両者の関係についてオープンな部分を多く残していた。上述のように、今後の 両者の紛争は都市の古くからの慣行にしたがって解決する、とだけ述べられているのが象徴的である。   国 王 ル ー ド ル フ は 更 に 同 日 付 の 別 の 証 書 で、 ブ ル ク マ ン た ち に、 市 の 消 費 税 Ungeld の 半 分 を 与 え )(( ( た 。 理 由 は、 城 の 維持と修理のためとされている。しかしこの処分は、都市側には不満を残し、その後の紛争の原因となっていく。   ルードルフから次の国王アードルフ・フォン・ナッサウへの代替わりの時期にも、フリードベルクでは騒擾が起きた らしい。一二九三年八月に、アードルフは、この間の市民たちの行き過ぎを赦し、再び王の恩寵の中へ受け入れること

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を宣言して い )(( ( る 。   一 三 〇 一 年 三 月 に は、 ブ ル ク マ ン と 市 民 は、 当 時 ラ イ ン 地 方 の 選 挙 侯 た ち と の 対 立 に 入 っ て い た 国 王 ア ル ブ レ ヒ ト 一 )(( ( 世 を支援するために同盟するとともに、その間両者の間で紛争が生じる場合に備えて、仲裁機関を設けることで合意 し )(( ( た 。 仲 裁 機 関 は、 市 民 四 人、 ブ ル ク マ ン 四 人、 仲 裁 裁 判 長 Obmann と し て の フ リ ー ド ベ ル ク の フ ラ ン チ ェ ス コ 会 修 道 院 長 Guardian に よ っ て 構 成 さ れ、 一 四 日 以 内 に 決 定 を 下 す こ と と さ れ )(( ( た 。 こ の 協 定 に 先 立 っ て も、 や は り 両 者 の 間 で紛争が生じていたのかもしれ な )(( ( い 。   注目されるのは、両者の紛争において一四世紀を通じて活用される仲裁という方式が、ここで初めて明示的に登場し たことである。仲裁自体は教会に由来する紛争解決方式であり、一二世紀以後南と西からドイツ各地に広がった。当初 は、両当事者とも聖職者のケースについて使われ始めたが、そこから、一方当事者が俗人のケース、更にこの紛争のよ うに両当事者が俗人のケースにも利用が広がってい っ )(( ( た 。この一三〇一年の協定において仲裁裁判長が聖職者な の )(( ( は 、 上述のような仲裁の普及過程からすると理解できるところである。一二八五年の決定が紛争解決方法をオープンにして いたのに対して、ここではこうした仲裁機関を設けることで対処が図られたのであった。しかし両者の対立に対処する には、この仲裁機関では十分でなかったようである。   一三〇六年七月にはフランクフルトで、国王アルブレヒト一世が、両者の関係を定 め )(( ( た 。証書では、国王が取り決め を定め、両当事者がそれを遵守することを誓約したと言われて お )(( ( り 、一二八五年の決定のように両者の同意を前提とし たものである、とは書かれていない。国王アルブレヒト一世は、父ルードルフと比べると、強圧的な統治を行う傾向が あ )(( ( り 、フリードベルクの城と都市の間の紛争への対処にも、そうした傾向が反映されているのかもしれない。   取り決めにおいては、市民は、ブルクマンの中から六人を選んで都市参事会に受け入れることとさ れ )(( ( た 。この六人の

(12)

ブルクマンは、裁判等で不正があった場合には、それを国王に知らせるべきこととされ、それを受けて国王がみずから 決定を下すこととさ れ )(( ( た 。ブルクマンと市民の間の個別の紛争に際しては、ブルクマンが被告となる場合は城のブルク マン裁判所で、市民が被告となる場合は都市の参審人裁判所で裁判がなされるべきであり、かつどちらの裁判所もブル クグラーフの主催の下で開かれるべきこととさ れ )(( ( た 。ただしブルクマンが市内で、また市民が城内で故殺を犯した場合 は、それぞれ都市と城の裁判所でブルクグラーフ主催のもとに裁判さ れ )(( ( る 。ブルクマンと市民の間で実力による衝突が 起きた場合には、ブルクグラーフが停止を命じ、両者は命令に従うべきで あ )(( ( る 。ブルクグラーフが参審人と前述の選ば れ た 六 人 の ブ ル ク マ ン の 助 言 に よ っ て 市 の シ ュ ル ト ハ イ ス を 任 命 す る。 こ の よ う に、 フ リ ー ド ベ ル ク に お い て 国 王 の 代 理 と し て 最 高 の 地 位 に あ る の は、 ブ ル ク グ ラ ー フ で あ る と さ れ )(( ( た 。 城 の 下 の Garten と 呼 ば れ る 地 区 に 住 む い わ ゆ る Gärtner は、 従来どおり、 市ではなくブルクグラーフと城に仕えるべきこととさ れ )(( ( た 。城内でワインを酌む (売る) 者は、 古い升を使う場合は無税だが、新しい升を使う場合は消費税を納めねばならず、この税は市と城で折半されるべきこと と定めら れ )(( ( た 。城内に住む手工業者がその商品を市内で販売する場合には、彼らが市民権を有するならば市民と同様の 通常の税を市に支払い、そうでないならば市外の手工業者として扱われるべきこととさ れ )(( ( た 。   一二八五年の和解が暫定的・現状維持的なものであったのに対して、この一三〇六年の国王裁定は、その後の両者の 関係を律する基本文書として維持されることに な )(( ( る 。全体として城側に有利な裁定であったことは上述の内容から明ら かであるが、とりわけ都市参事会に六人のブルクマンがメンバーとして所属するという条項は、城側が都市側の行動を 監視することを保証するものであり、都市側の自立的政策の余地を大いに狭めるものであ っ )(( ( た 。これに対して、城側の 優位を覆そうとする都市側の試みは続き、両者の対立と紛争は、続く時代にも繰り返し発火したのである。

(13)

三.仲裁による解決の試み(一三三〇年代から一三六〇年代)

  さて、城と市の対立は、一三三〇年代にまたも顕在化することに な )(( ( る 。この時期の争いは、後に触れる文書の内容か らすると、市の参審人の補充方法とそこでのブルクグラーフの役割、市内の聖カタリナ礼拝堂の建設、墓地における建 築物などを争点とするものであった。   この問題について皇帝ルートヴィヒ 四 )(( ( 世 は、一三三一年七月二一日、ニュルンベルクから証書を発して、ミヒャエリ ス(九月二九日)まで休戦するよう指 令 )(( ( し 、その間は国王アルブレヒト一世の一三〇六年の決定が遵守されるべきこと を命じた。休戦中は、現在の参審人たちが引き続き権限を行使し、また都市からいったん外に逃れた者たちも再び都市 に 帰 還 す べ き こ と と さ れ た。 そ し て 休 戦 の 間 に 皇 帝 自 身 が minne ま た は recht に よ り 両 者 の 争 い を 解 決 し よ う と い う ので あ )(( ( る 。おそらくこのとき対立する両当事者の代表がニュルンベルクの皇帝のもとに出頭しており、彼らは対立を皇 帝による仲裁にゆだねることに同意したものと推測される。皇帝が他の事項に妨げられてその期間内に解決できない場 合、皇帝は休戦期間を延長することとされた。しかし、もし休戦期間中にブルクマンと市民が和解するのであれば、皇 帝とライヒの権利を害さない限りそれは有効と認めら れ )(( ( る 。仲裁においては一般に、当事者の合意を得た上での解決、 す な わ ち minne に よ る 解 決 が 優 先 さ れ て い た の で あ る が、 そ の 考 え 方 か ら し て、 両 当 事 者 が 仲 裁 の 外 で 和 解 に 合 意 で きれば仲裁判決を待たずにそれで解決と見なされるわけである。   更 に こ の 文 書 で 注 目 さ れ る の は 、ル ー ト ヴ ィ ヒ が 、ル タ ー ・ フ ォ ン ・ イ ー ゼ ン ブ ル ク Luther  von  Isenburg 、ゴ ッ ト フ リ ー ト ・ フォン ・ エプシュタイン Gottfried  (IV.)  von  Eppstein 、 ウルリヒ ・ フォン ・ ハーナウ Ulrich  (II.)   von  Hanau に対して、 彼ら全員または二人または一人が七月三〇日にフリードベルクへ行くよう命令し、またフランクフルト、ヴェツラー、

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ゲルンハウゼンの三市にも二人ないしそれ以上の市民をフリードベルクへ送るよう命令していることである。彼らは現 地でブルクマンと市民から休戦遵守の約束を得るよう指示されて い )(( ( る 。ヴェッテラウの四市は、一三世紀後半以来継続 的に、都市同盟で結合する関係であり、皇帝はここでこの結合関係を利用しようとした。またここで名をあげられた三 人のヴェッテラウの貴族のうち、ゴットフリート・フォン・エプシュタインは、一三二〇年代と一三三三年七月以降、 ヴェッテラウの国王領管理の最高責任者であるラントフォークトとして活動した人物で、ルートヴィヒとの関係は特に 緊密であ っ )(( ( た 。ウルリヒ・フォン・ハーナウもまたルートヴィヒの王権に近い貴族で、この時期、ルートヴィヒへの奉 仕を国王都市ゲルンハウゼンの質入れによって報いられて い )(( ( た 。彼らも皇帝がヴェッテラウで支柱としうる勢力であり、 ルートヴィヒは彼らにも任務をゆだねたのである。このように貴族と都市が並んで休戦約束を徴する仕事を任されてい ることは、ブルクマンと市民という両当事者の属性に対応するものと考えられる。   翌一三三二年二月一日には、当時フランクフルトに滞在中の皇帝が、ブルクマンと市民の対立につき決定を下 し )(( ( た 。 証書冒頭で、両者が一致して争いを皇帝にゆだねたことが述べられて お )(( ( り 、皇帝による仲裁への付託とそれを受けての 皇帝の仲裁判決がなされたという体裁になっている。皇帝はまず両者の間に和平を樹立し互いに要求を放棄することを 求 )(( ( め 、皇帝自身も一部の例外を除いてこの間皇帝とライヒに対してなされた非行ゆえの請求を放棄 し )(( ( た 。国王城塞と国 王都市における騒擾はしばしば王権が持つ諸権益を侵害し、それゆえ王権自身を当事者の位置に置くことになる。この 放棄はそうした関係をうかがわせるものである。現在の参審人は引き続き職にとどまることとされ、彼らの自己補充権 が認められたが、一人の参審人の死後一ヶ月以内に自己補充がなされない場合は、ブルクグラーフが新たな参審人を任 命することとさ れ )(( ( た 。都市側が参審人の補充をサボタージュして、参審人裁判所の活動を麻痺させ、都市参事会の裁判 活動を伸ばそうとするのに対して、こうした形で対処が図られたのであった。城と市の間で争いの的になっていた聖カ

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タリナ礼拝堂(城の南、市の北という両者の境界にあった)については、皇帝自身が自らの費用でとりこわすものとさ れ )(( ( た 。フリードベルクの建築物については、既に一三一四年一二月に、ルートヴィヒ四世が発した証書が緊張関係の存 在を示唆して い )(( ( た 。すなわち、そこでルートヴィヒは、市に対して、城の近くに築いた塔に屋根をつけることを認めた が、ただし塔を城の城壁以上の高さにしてはならないこととしている。市民側が建てる建築物は、この後もたびたび対 立点として登場する。   今後の両者の紛争についても基本的に今回と同様の解決手続が想定されている。すなわち、まず両者の間で和解がは かられるべきであるとされる。もっとも、皇帝とライヒの権利はやはり例外とされ、これについて生じた損害は皇帝か そのアムトマンの判断に従って賠償されるべきであるとさ れ )(( ( る 。しかし両者の間で合意による解決が見いだせない場合 は、両者は争いをルートヴィヒか彼の後継者のもとへ持ち込んで、その決定に服することとさ れ )(( ( る 。文言は不明確であ るが、ここでも一方による提訴と判決よりは、やはり皇帝への仲裁付託が想定されているのだと思われる。今回の解決 方法を今後についてもモデルにしようというのである。その他、和解違反に対する罰金、墓地の建築物についての現地 調査、一三〇六年の文書がなお妥当すべきこと、などが定めら れ )(( ( た 。   皇帝は二月一〇日に、 フリードベルク市と市民に改めて命令を発して、 先の決定に言及しつつ、 参審人が旧来の慣習、 名誉、権利を保持すべきこと、参審人の補充は彼らの自己補充により、それは場合によっては多数決でなされるべきこ と、参審人には彼らが持つべき印章、会計台帳、証書、市の法規などが引き渡されるべきこと、などを命じている。命 令に従わない場合、それは皇帝への反抗として扱われる。文書によれば、参審人の件で、参事会・市民の内部でも対立 が存したようである。印章などの引き渡しに関する部分は、市内での参事会と参審人の権限争いを示唆 す )(( ( る 。   しかしフリードベルクの城と市の間の争いは、この決定によってもなお完全には解決しなかった。そこで皇帝は争い

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を現地における仲裁に付すよう指示することになる。一三三二年一一月二四日に皇帝がニュルンベルクから参事会と市 民に発した命令によれば、 既にこの時点より前に皇帝は争いを仲裁に付すよう指示していたようで あ )(( ( る 。 都市から三人、 ブルクマンから三人、合計六人の仲裁人が指定されることとされていた。ここでいう都市は、すぐ後で触れる同日付け の皇帝の命令書によれば、フランクフルト、ヴェッツラー、ゲルンハウゼンの三市である。彼らが一致しない場合は七 人目が仲裁裁判長として受け入れられるべきこととされ、彼ら七人がナッサウ伯ゲアラッハの助言に従って決定するこ ととさ れ )(( ( た 。そして皇帝はこの時点で市民たちに対して、彼らの側の仲裁人を指定し、一ヶ月以内に決定が出されるよ うにと指示している。皇帝は同様の命令をナッサウ伯、諸都市、フリードベルクのブルクグラーフにも送ったと述べて いる。市民かブルクマンが仲裁の内容を実行しない場合、ナッサウ伯と諸都市が皇帝に知らせるとともに、彼らが皇帝 のために相手方を援助することとされた。   この文書では仲裁の裁判長とナッサウ伯ゲアラッハの関係は不明確である。しかし別に同日付けの皇帝からナッサウ 伯ゲアラッハへの命令が伝存しており、それによると皇帝は伯に前述の文書と同様の内容を知らせた上で、争いについ て聴取し決定するよう委任して い )(( ( る 。ここからすると、皇帝側はナッサウ伯が仲裁裁判長になることを想定していると 思われる。あわせて、伯らが下す決定に当事者が従わない場合、やはり相手方を助け、どちらの側が不服従であったの か皇帝に知らせるようにという指示が出されている。   ここで登場したナッサウ伯ゲアラッハは、故国王アードルフ・フォン・ナッサウの息子で、もともと聖界入りするは ず で あ っ た が、 父 王 の 死 後、 ナ ッ サ ウ 伯 家 の 支 配 を 引 き 継 ぎ、 中 ラ イ ン の グ ラ ー フ・ ヘ ル た ち の 間 で は 重 要 な 役 割 を 果 た し て い た 人 物 で あ っ )(( ( た 。 一 三 一 四 年 の 二 重 選 挙 後 の 王 位 争 い に お い て は、 当 初 は ラ イ ン 宮 中 伯 ら と と も に ハ ー プ ス ブ ル ク 家 の フ リ ー ド リ ヒ の 陣 営 に 属 し た が、 一 三 二 〇 年 三 月 に は 国 王 ル ー ト ヴ ィ ヒ と 和 解 し て 陣 営 を 変 え た。 既 に

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一三二〇年代からいくつかの紛争解決で仲裁裁判長や仲裁人として登場しており、この時期にはヴェッテラウのラント フォークトの職にあ っ )(( ( た 。フリードベルクとの関係でも、一三三一年七月に、皇帝はブルクマンたちに命令して、ゲア ラッハの指示に従ってフリードベルクに新たに城を一つ建設するよう指示して い )(( ( る 。皇帝は、ラントフォークトという 直轄支配の統治組織を紛争解決に活用しようとしたわけである。また他方で、市民側の仲裁人がヴェッテラウの他の三 国王都市から選ばれるべきこととされているのも興味深い。ヴェッテラウの国王都市間の結合がこうした形で利用され ているのである。   しかし、この仲裁機関がそもそも成立したのかどうか、またそこでどのような決定が下されたのか、については何も 伝わらない。ヴェッテラウのラントフォークト職にも、 その後ナッサウ伯ゲアラッハに代わって、 ゴットフリート ・ フォ ン・エプシュタインが、一三三三年七月に、皇帝により新たに任命さ れ )(( ( る 。   結 局、 市 民 と ブ ル ク マ ン は 一 三 三 四 年 六 月 に、 彼 ら の 関 係 に つ い て 協 定 を 成 立 さ せ )(( ( た 。 両 者 は 互 い に 今 回 の 不 和 か ら 生 じ た 請 求 を 放 棄 し、 裁 判 籍 に 関 し て は 国 王 ア ル ブ レ ヒ ト の 裁 定 が 今 後 も 妥 当 す る こ と を 確 認 し )(( ( た 。 将 来 の 紛 争 解 決 の た め に は、 ブ ル ク マ ン は 市 側 の 参 審 人 か ら 二 人 を、 市 民 は ブ ル ク マ ン か ら 二 人 を 選 び、 彼 ら 四 人 が 仲 裁 人 と し て 一 ヶ 月 以 内 に 決 定 を 下 す こ と と さ )(( ( れ 、 一 ヶ 月 以 内 に 決 め ら れ な い 場 合 は フ ラ ン ク フ ル ト に 入 っ て 決 定 す べ き こ と と さ れ )(( ( た 。この四人は一年任期で、一年経過後は同様に別の四人が選出される。協定全体の有効期間は四年とさ れ )(( ( た 。前述 の一三三二年の皇帝による仲裁判決以後もなお残っていた対立点がどう解決されたかは不明で、ここではもっぱら将来 の紛争のための枠組みが合意されたのであった。注目されるのは、ゴットフリート・フォン・エプシュタインがこの協 定の成立に立ち会い、協定証書に印章を付していることで あ )(( ( る 。おそらく協定は彼の仲介により成立したのであろう。 上述の一三三二年の指令から考えると、当時ラントフォークトであったゴットフリートがここで登場するのには、背後

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に皇帝の意向が働いていたのかもしれない。   以上、一三三〇年代においても、皇帝がフリードベルクにおける紛争の解決にかかわっているが、その際には仲裁と いう形式が明示的に採用された。また同時に、ラントフォークト、ヴェッテラウの他の貴族たち、ヴェッテラウの他の 国王都市といった、いずれも皇帝と結びつく現地の勢力が、紛争解決のために活用されたことも注目される。   この後ルートヴィヒ治世中は、両者の大きな対立は知られていない。ただ、一三四一年一〇月に、五人のブルクマン た ち が、 ブ ル ク マ ン の 一 人 フ リ ー ド リ ヒ・ フ ォ ン・ カ ル ベ ン Friedrich  von  Karben お よ び 彼 の 持 ち 分 共 有 者 た ち と 二 人のフリードベルク市民との間の、フリードベルクの新しい肉売り台をめぐる対立について、決定を下して い )(( ( る 。これ は国王の命令によって設けられた仲裁人による仲裁判決であったようで あ )(( ( る 。個々のブルクマンと市民の間の紛争であ るが、仲裁判決が実際に下されている事例である。   その後、一三四〇年代末から、更に城と市の対立を知らせる史料が伝わる。このときの対立は、ルートヴィヒ四世か らカール 四 )(( ( 世 への王位移行に伴う混乱を背景としていた。教皇庁と対立し続けたルートヴィヒ四世に対して、教皇庁の 意を受けた選挙侯たちは一三四六年七月にルクセンブルク家のカールを対立国王として選出した。ウルリヒ三世・フォ ン・ハーナウ、ゴットフリート・フォン・エプシュタイン、ナッサウ伯たちといった、ヴェッテラウ・中ラインの貴族 たちは、 早くも一三四七年にはカール四世側に付いたが、 それに対して、 フランクフルト、 フリードベルクなどのヴェッ テラウの国王都市は、一三四七年一〇月のルートヴィヒ四世の急死後も、反カール四世の陣営にとどま っ )(( ( た 。候補者探 しに手間取った反ルクセンブルク陣営は、ようやく一三四九年一月にシュヴァルツブルク伯ギュンターを対立国王に選 挙するが、フリードベルク市は同年二月に国王ギュンターから特権確認を受けて い )(( ( る 。このような中、城との対立で城 側に圧迫された市側は、国王ギュンターを市内に招 い )(( ( た 。国王の登場に際して、城のブルクマンたちも一時ギュンター

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の王位を承認したようで あ )(( ( る 。しかし、王位を争う両陣営の対立はカール四世側に圧倒的に有利に展開し、ギュンター は一三四九年五月末にはカール四世と和解して王位を断念する。この和解には、フランクフルトとフリードベルクも含 ま )(( ( れ 、フリードベルク市は、一三四九年六月初めに、カール四世から特権確認などを 得 )(( ( る 。   こうした中、フリードベルクのブルクマンと市民は、一三四九年五月初め、翌年三月までの休戦に合 意 )((( ( し 、この間互 いに相手に損害を与えないことを約束した。市側の証書には市の他にフランクフルト市が印章を付し、また城側の証書 にはウルリヒ・フォン・ハーナウが印章を付しており、両者が休戦約束の保証人となった。休戦合意自体も、フランク フルトとウルリヒの仲介によって成立したものと思われる。当時国王ギュンターの陣営にとどまっていたフランクフル トとカール四世に付いていたウルリヒ・フォン・ハーナウが並んで登場することは、このときの市と城の対立が、王位 争いと連動していたことを推測させる。おそらく城側は、国王ギュンターがフリードベルクを去った後、カール四世陣 営に転じたのであろう。   更に両者は同日付で、両者の間で成立した和解を宣言し、その遵守を約束 し )((( ( た 。市側が発行した証書によれば、国王 アルブレヒト一世の証書の各条項は遵守される。市は、城側による放火や損害に対する請求を放棄する。市側が行った 建築は取り壊し、市は今後城に害となる建築をせず、建築にはブルクグラーフと城のバウマイスターの同意を得る。そ れに対して市側は、門と家を従来通りに再建してよい。この和解についても、市側の証書には、フランクフルト市が、 城側の証書にはウルリヒ・フォン・ハーナウがともに印章を付している。   上述のフリードベルク市のための特権確認等が行われたのと同じ時期、一三四九年六月初めには、カール四世がマイ ンツで、フリードベルクにおける建物の取り壊しに関して証書を発行して い )((( ( る 。内容は、両者が国王の前で協議し合意 したものとさ れ )((( ( る 。中身としては、先の和解の文言が繰り返されている。市側は、建物を取り壊すことと、今後ブルク

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グラーフおよび城のバウマイスターの同意なく城に有害な建物を建てないことを、 国王の前で改めて約束し、 それによっ て先の当事者間の和解は、国王の権威によって効力を補強されたのであった。   そ の 後 一 三 五 〇 年 代 か ら は、 フ リ ー ド ベ ル ク 市 に お け る 穀 物 税 Mahlgeld の 徴 収 に 関 し て、 城 側 と 都 市 側 の 見 方 の 対 立 が あ っ た こ と が 間 接 的 に 知 ら れ る。 一 三 五 三 年 五 月、 カ ー ル 四 世 は プ ラ ハ か ら、 Mahlgeld に 関 し て 城 に 対 す る 命 令 を発して い )((( ( る 。フリードベルクにおける穀物税については、既に一三一八年一一月に、国王ルートヴィヒが市にその徴 収を許可して い )((( ( た 。更に一三四六年三月の皇帝ルートヴィヒ四世の市のための特 権 )((( ( 状 は、市に 穀物税 徴収を認めたうえ で、徴収をブルクマンの関与なしに行ってよいこととしていた。 穀物税 には市以外何人も関係を持たないことも言明さ れた。税の用途としては、市の囲壁などがあげられている。これに対して上述のカール四世の命令では、カールはいっ たん城側に 穀物税の 半分を支払うよう市に命じたが、その後当時市の質入れを受けていたシュヴァルツブル ク )((( ( 伯 が苦情 を申し立てたため、城が 穀物税 を得るのをやめるように、城に対して命令している。伯側の主張によれば、 穀物税 につ いては何ら新しい法の定めはなく、むしろそれはカール即位のずっと前から市に属してきたのである。そのことは証書 によっても確認されているとして、伯側は先の一三四六年のルートヴィヒ四世の証書を証拠として持ち出して い )((( ( る 。更 に、カール自身が質受人である伯の利益を損なわないよう質入れの際に約束したということも指摘されている。このよ うに前面に出ているのは質入れを受けていたシュヴァルツブルク伯であるが、 文書はフリードベルク市に伝わっており、 その背後には市民たちがいたものと考えられる。   一三六六年一月、カール四世は再びプラハから、城に対して命令を下して い )((( ( る 。ブルクマンは市内に、市民は城内に 土地や家を取得してはならないことになっているはずだが、城側がこれに反して市内に土地や家を獲得していると聞い たので、皇帝は、これをやめ、市を圧迫することがないよう、城に対して命令した。また市が建設した門や門の前の土

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地である、 いわゆる Bifang についてもまた、 市を妨げることのないよう命じている。 市側は、 皇帝のもとに苦情を訴えて、 この命令を得たのであ ろ )((( ( う 。 ( 1) Heinrich  von  R o se n t h a l l , Johannes  G o e d d a e u s , Gründlicher  Bericht  der  heyligen  Reichs  Statt  Friedberg  Standt,   Regalien,  Privilegien,  Rechten  und  Gerechtigkeiten  und  der  Röm.  Keys.  Mayest.  unsers  Allergnedigsten  Herrn   ohnmittelbare  Superioritet.  und  des  heyligen  Roemischen  Reichs  Interesse  wider  der  Burg  daselbsten  angemaste   Newerungen  und  erwagte  Strittigkeiten,  1610,  Vorwort. ( 2) 本 稿 で 取 り あ げ た ケ ー ス 以 外 に、 中 世 後 期 ド イ ツ で 見 ら れ た 具 体 例 と し て は、 例 え ば、 中 ラ イ ン 地 方 の 覇 権 を め ぐ る マ イ ン ツ 大 司 教 と ラ イ ン 宮 中 伯 の 争 い、 多 く の 司 教 都 市 に お け る 都 市 領 主 た る 司 教 と 市 民 団 体 の 争 い( 著 し い ケ ー ス と し て ケルン大司教とケルン市の争いなど) 、あるいはニュルンベルクのブルクグラーフとニュルンベルク市との争いなどをあげ ることができよう。 ( 3) そ の よ う な 継 続 的 紛 争 に つ い て は、 紛 争 主 体 お よ び 争 点 に お い て、 そ れ ぞ れ 広 狭 の 区 別 を 観 念 す る こ と が で き る。 紛 争 主 体 に 関 し て は、 同 じ 人 間 同 士 が 争 う 場 合 を 狭 義 の 継 続 的 紛 争、 具 体 的 な 人 間 は 変 わ っ て も 対 立 の 当 事 者 と し て は 同 じ 主 体 と 見 な し う る 場 合 を 広 義 の 継 続 的 紛 争 と 考 え る こ と が で き る。 後 者 は、 例 え ば 二 つ の 貴 族 家 門 が 何 代 に も わ た っ て 争 い 続 け る よ う な 場 合 で あ る。 争 点 に 関 し て は、 一 つ の 同 じ 争 点 を め ぐ っ て 争 い 続 け る 場 合 を 狭 義 の 継 続 的 紛 争、 同 一 主 体 が 時 期 に よ っ て 異 な る さ ま ざ ま な 争 点 を め ぐ っ て 争 い 続 け る 場 合 を 広 義 の 継 続 的 紛 争 と 見 な せ よ う。 同 じ 人 間 が 同 じ 争 点 を め ぐ っ て 争 う 場 合 は、 い わ ば 最 狭 義 の 継 続 的 紛 争 と い う こ と に な る。 本 稿 で 扱 う フ リ ー ド ベ ル ク の 事 例 は、 逆 に、 紛 争 主 体についても、争点についても、広義の継続的紛争である。 ( 4) 我 が 国 で は、 と り わ け 服 部 良 久 氏 が、 中 世・ 近 世 ド イ ツ に お け る 紛 争 解 決 に つ い て、 多 く の 研 究 を 発 表 し て い る。 服 部 良久「中世盛期ドイツにおける紛争解決と国制」 『京都大学文学部紀要』四三号(二〇〇四年)九一 - 二一一頁、同「中世 ヨーロッパにおける紛争と秩序──紛争解決と国家・社会──」 『史林』八八巻一号(二〇〇五年)五六 - 八九頁、同「一

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三世紀のドイツ北西部における紛争解決と政治秩序」 『京都大学文学部紀要』 四五号 (二〇〇六年) 六一 - 一九〇頁、 同 「中 世ドイツにおける紛争解決と秩序   フリードリヒ・バルバロッサの治世」 『歴史と地理』六〇九号(二〇〇七年)一 - 一六 頁、同『アルプスの農民紛争   中 ・ 近世の地域公共性と国家』 (二〇〇九年   京都大学学術出版会) 、同「初期シュタウフェ ン朝時代の紛争解決と政治秩序   国王と「ヴェルフェン家」の対立をめぐって」 『京都大学文学部紀要』四九号(二〇一〇 年)一八七 - 二九〇頁、同「フリードリヒ一世・バルバロッサの宮廷とコミュニケーション──儀礼・争い・秩序」 『京都 大 学 文 学 部 紀 要 』 五 〇 号( 二 〇 一 一 年 ) 二 〇 一 - 二 四 九 頁。 他 に、 日 本 の 学 界 で の 議 論 の 一 端 を 伝 え る も の と し て、 二 〇 〇七年度西洋史研究会の共通論題報告と討論をまとめた、 「中世王権と聖俗貴族層──紛争の解決とアイデンティティー─ ─」 『西洋史研究』新輯三七号(二〇〇八年)一八二 - 二六六頁も参照。西洋学界における研究状況については、さしあた り、服部良久「中世ヨーロッパにおける紛争と紛争解決──儀礼・コミュニケーション・国制──」 『史学雑誌』一一三巻 三号(二〇〇四年)六〇 - 八二頁を参照。いくつかの論文は、服部良久編訳『紛争のなかのヨーロッパ中世』 (二〇〇六年   京 都 大 学 学 術 出 版 会 ) で 日 本 語 訳 さ れ て い る。 そ こ で 紹 介 さ れ て い る、 近 年 盛 ん な 文 化 史 的 な 史 料 解 釈 に 対 し て、 法 史 研究の立場からの解釈を提示するのは、 Karl  K R oeschell , G ewalt  o de R  R echt  ?  Rechtsverständnis  und  Konfliktlösung  im deutschen  Hochmittelalter   『日本学士院紀要』 六三巻三号 (二〇〇九年) 二六七 - 二七七頁 (日本語訳二五六 - 二六六頁) 。 また、 西川洋一 「フリードリヒ一世 ・ バルバロッサ期の国王裁判権」 渡辺節夫編 『ヨーロッパ中世社会における統合と調整』 (二〇一一年   創文社)九 - 三五頁も参照。その他、ドイツ学界におけるこのテーマへの取組として、文化史的アプローチ と法史的アプローチにともに目配りした  S te fa n e sd e R s  (h g.),  R ec hts ve rs tä nd nis  u nd  K on flik tb ew ält igu ng . G er ich tlic he  u nd aussergerichtliche  Strategien  im  Mittelalter,  Köln  u.a.  2007   のみをあげておく。 ( 5) M ax  F o lt z  (b ea rb .), U rk un de nb uc h d er  S ta dt  F rie db er g,  B d.1 : 1 21 6-1 41 0,  M ar bu rg  1 90 4  ( 以 下 、U B  F rie db er g,  1  と 略 す ),  Thomas  s chilp  (bearb.),  Die  Reichsburg  Friedberg  im  Mittelalter.  Regesten  der  Urkunden  1216-1410,  (Urkundenbuch  der Stadt  Friedberg,  Bd.2),  Marburg  1987 (以下、 Regesten   と略す) . ( 6) フ リ ー ド ベ ル ク の 市 と 城 の 歴 史 を 扱 っ た 一 九 世 紀 の モ ノ グ ラ フ と し て、 Philipp  d ie FF enbach , Geschichte  der  Stadt  und Burg  Friedberg  in  der  Wetterau,  Darmstadt  1857.   フリードベルク市の証書集によりつつ、城と市の関係を、項目ごとに 論じた文献として、 Hartmann  M enz , Burg  und  Stadt  Friedberg  -1410,  (Diss.  phil.,  Marburg),  Marburg  1909.   一二世紀以

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後 の フ リ ー ド ベ ル ク 全 般 に つ い て、 Reimer  s tobbe , Die  Geschichte  Friedbergs  von  der  Gründung  bis  zur  Reformation,   in:  Michael  K elle R  (hg.),  Friedberg  in  Hessen.  Die  Geschichte  der  Stadt,  Bd.1:  Von  den  Anfängen  bis  zur  Reformation,   Friedberg  1997,  S.129-245.   ま た、 中 世 後 期 と 近 世 の フ リ ー ド ベ ル ク に つ い て、 一 般 的 に は、 Volker  p R ess , Friedberg  –   Reichs burg  und  Reichs stadt  im  Spätmit telalter  und  in  der  früh en  Neuzei t,  in:  Wetterau er  Geschi chtsblät ter  35  (1986),   S.1-2 7.  リ ー ド ベ ル ク の 城 と 市 の 関 係 を 、 中 世 中 期 か ら 近 代 ま で 概 観 す る の は 、 Raimer  z u c h , Burg  und  Stadt  Friedberg   : Von  der  Reichsstadt  zur  Kreisstadt,  von  der  Reichsburg  zum  Stadteil.  Stationen  eines  schwierigen  Verhältnisses,   in  :  Christine  M ü l l e R  u.a.  (red.),  Burg  und  Stadt  (Forschungen  zu  Burgen  und  Schlössern,  Bd.11),  Münchem-Berlin   2008,  S.75-90,   フ リ ー ド ベ ル ク の 城 に 関 す る 基 本 的 な 研 究 文 献 と し て、 Thomas  s chilp , Die  Reichsburg  Friedberg   im  Mittelalter.  Untersuchungen  zu  ihrer  Verfassung,  Verwaltung  und  Politik  (=Wetterauer  Geschichtsblätter  31),   Friedberg  1982,   城 に 関 し て は、 他 に、 Albrecht  e c K ha R dt , Burggraf,  Gericht  und  Burgregiment  im  mittelalterlichen   Friedberg,  in:  Wetterauer  Geschichtsblätter  20  (1970),  S.17-82,  Fred  s c h w in d , Zur  Verfassung  und  Bedeutung  der   Reichsburgen,vornehmlich  im  12.  und  13.  Jahrhundert,  in  : Hans  p atze  (hg.),  Die  Burgen  im  deutschen  Sprachraum.  Ihre   re ch ts-un d  ve rfa ss un gs ge sc hic ht lic he  B ed eu tu ng , B d.  1,  (V or trä ge  u nd  F or sc hu ng en , B d,  19 ),  Sig m ar in ge n  19 76 , S .85 -122,  S.101-106.   中 世 後 期 の フ リ ー ド ベ ル ク 市 に つ い て、 一 般 的 に は、 Wilhelm-Hans  b R aun , Friedberg  im  Spätmittelalter   (1250-1500),  in:  Wetterauer  Geschichtsblätter  15  (1966),  S.59-72,  Reimer  STOBBE,  Die  Städte  Schotten  und  Friedberg  im   Einfluss  hegemonialer  Vormachtansprüche  im  späten  Mittelalter,  in:  Mitteilungen  des  Oberhessischen  Geschichtsvereins   77  (1992),  S.605-631,  S.615ff.,   城 と 市 の Verfassung に つ い て は、 Hartmann  M enz , Burg  und  Stadt  Friedberg  -1410  (Diss. phil.Marburg,  1909),  Marburg  1909 も 参 照。 中 世 後 期、 特 に 一 四 世 紀 後 半 以 後 の フ リ ー ド ベ ル ク 市 の 経 済 と 社 会 構 成 に つ いては、 Reimer  s tobbe , Die  Stadt  Friedberg  im  Spätmittelalter.  Sozialstruktur,  Wirtschaftsleben  und  politisches  Umfeld   einer  kleinen  Reichsstadt,  Darmstadt  u.  Marburg  1992   を参照。 ( 7) シ ュ タ ウ フ ァ ー の 帝 国 領 国 政 策 全 般 に つ い て は、 Karl  b osl , Die  Reichsministerialität  der  Salier  und  Staufer.  Ein   Beitrag  zur  Geschichte  des  hochmittelalterlichen  deutschen  Volkes,  Staates  und  Reiches  (Schriften  der  MGH  10),  2  Teile,   Stuttgart  1950,  S.140ff.,   西川洋一「一二世紀ドイツ帝国国制に関する一試論──フリードリヒ一世・バルバロッサの政策を

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中心として──(一) 」『国家学会雑誌』九四巻五・六号(一九八一年)一 - 六三頁、三八頁以下を参照。 (8)ヴェッテラウにおける帝国領国政策の展開については、 Karl  E.  d e M andt , Geschichte  des  Landes  Hessen,  2.Aufl.,  Kassel und  Basel  1972,  S.458ff.,  Fred  s chwind , Die  Landvogtei  in  der  Wetterau.  Studien  zu  Herrschaft  und  Politik  der  staufischen und  spätmittelalterlichen  Könige,  Marburg  1972,  S.1-86,  Walter  h e in e M e y e R , Das  Hochmittelalter,  in:  d e R s . (hg.),  Das Werden  Hessens,  Marburg  1986,  S.159-193,  S.176-178. ( 9) シ ュ タ ウ フ ァ ー が 城 と 都 市 を セ ッ ト に し て 設 置 し て い っ た こ と に つ い て は、 W. h eine M eye R , a.a.O.,  S.178.   シ ュ タ ウ ファーの帝国領国政策一般における城と都市の隣接事例については、 Hans  n iese , Die  Verwaltung  des  Reichsgutes  im  13. Jahrhundert.  Ein  Beitrag  zur  deutschen  Verfassungsgeschichte,  Innsbruck  1905,  S.243-261. ( 10) フ リ ー ド ベ ル ク の 城 と 都 市 の 初 期 の 歴 史 に つ い て は、 H. n iese , a.a.O. ( 注 9) , S.248ff.,  F. s chwind , a.a.O. ( 注 8) , S.29ff., Th. s chilp , a.a.O. (注6) , S.12ff.,  R. s tobbe , Geschichte (注6) , S.134ff. ( 11) 城 は 一 二 一 六 年、 都 市( 市 民 ) は 一 二 一 九 年 に 最 初 の 言 及 が 現 れ る。 Johann  Friedrich  b öh M e R  und  Julius  F ic K e (hg.),  Regesta  imperii,  V,  Die  Regesten  des  Kaiserreichs  unter  Philipp,  Otto  IV.,  Friedrich  II.,  Heinrich  (VII.),  Conrad IV.,  Heinrich  Raspe,  Wilhelm  und  Richard  1198-1272,  Bd.1,  Innsbruck  1881-1882  (ND  Hildesheim  1971),  Nr.883,  Johann Friedrich  b ö h M e R  und  Johannes  l a u  (hg.),  Urkundenbuch  der  Reichsstadt  Frankfurt,  Bd.1,  Frankfurt  1901,  Nr.44, J.F. b öh M e R  u.  J. F ic K e R , a.a.O.,  Nr.1035,  J.F.  b öh M e R  u.  J. l au , a.a.O.,  Nr.46. ( 12) Th. s chilp , a.a.O. (注6) , R. s tobbe , Geschichte (注6) , S.192ff. ( 13) 皇 帝 ル ー ト ヴ ィ ヒ 四 世 は、 一 三 三 七 年 七 月 に フ リ ー ド ベ ル ク の 城 に つ い て ブ ル ク フ リ ー デ を 定 め て い る。 ブ ル ク マ ン 団 体の王権直属の地位を示すものである。 Regesten,  Nr.253,  Johann  Friedrich  b öh M e R  und  Julius  F ic K e R  (hg.),  Acta  imperii selecta.  Urkunden  deutscher  Könige  und  Kaiser  928-1398  mit  einem  Anhang  von  Reichssachen,  Innsbruck  1870  (ND Aalen  1967),  Nr.776,  UB  Friedberg,  1,  Nr.312.   ま た、 一 三 四 九 年 に は 国 王 カ ー ル 四 世 が ブ ル ク フ リ ー デ を 定 め て い る。 Regesten,  Nr.280.   ( 14) ブ ル ク グ ラ ー フ 職 が 世 襲 さ れ な い こ と を 定 め た 一 二 七 六 年 の 国 王 ル ー ド ル フ の 証 書( Regesten,  Nr.100 )、 お よ び ブ ル ク マ ン た ち の 同 意 な し に、 グ ラ ー フ や フ ラ イ ヘ ル を ブ ル ク マ ン と し て 任 命 し な い こ と を 定 め た、 一 二 八 五 年 の 国 王 ル ー ド ル

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フの特権状( Regesten,  Nr.112 )を参照。また、 一二八七年には、 ブルクマンはブルクグラーフの主催する城の裁判所での み裁 判さ れる、 という 特権が 与え られた 。R eg es te n,  N r.1 16 .  一四 九一 年以後 は、 一 二名の 執政 ブルク マン だけが ブルク グラー フの選挙権を有することとなった。 W.-H. b R aun , a.a.O. (注6) , S.67. ( 15)フ リ ー ド ベ ル ク 城 の 裁 判 所 に つ い て は、 Friedrich  b attenbe RG  und  August  e c K ha R dt , Der  Richter  in  eigener   Sache,  dargestellt  anhand  spätmittelalterlicher  Quellen,  insbesondere  des  Burggerichts  Friedberg/Hessen  und  des   Reichshofgerichts,  in:  Zeitschrift  der  Savigny-Stiftung  für  Rechtsgeschichte,  Germanistische  Abteilung  95  (1978),  S.79-114,   S.86-100,  Th. s chilp , Reichsburg (注6) , S.114-126. ( 16)近世のブルクマン団体を、中世における諸前提とともに扱った文献として、 Klaus-Dieter  R ac K , Die  Burg  Friedberg  im   Alten  Reich.  Studien  zu  ihrer  Verfassungs- und  Sozialgeschichte  zwischen  dem  15.  und  19.  Jahrhundert,  Darmstadt  und   Marburg  1988.    世 の フ リ ー ド ベ ル ク に つ い て は、 ま た、 Klaus-Dieter  R ac K , Friedberg  –  Reichsstadt  und  kaiserliche   Burg,  in:  Mitteilungen  des  oberhessischen  Geschichtsvereins  Giessen  83  (1998),  S.87-110   も参照。 ( 17)以下については、 R. s tobbe , Geschichte (注6) , S.139,  R. s tobbe , Städte (注6) , S.616. ( 18)以下の叙述については、 Th. s chilp , a.a.O. (注6) , S.174ff.   毛織物業やメッセによるフリードベルク市の経済的発展につい ては、 Hektor  a MM ann , Die  Friedberger  Messen,  in:  Rheinische  Vierteljahrsblätter  15/16  (1950/51),  S.192-225,  Th. s chilp ,   a.a.O. ( 注 6) , S.190ff.   を 見 よ。 中 ラ イ ン 地 方 に お け る フ リ ー ド ベ ル ク 市 の 位 置 に つ い て は、 R. s tobbe , Geschichte ( 注 6) ,  S.162ff. ( 19)史料初出は一二六六年である。 UB  Friedberg,  1,  Nr.50. ( 20)一四世紀フリードベルクの経済的発展については、 R. s tobbe , Geschichte (注6) , S.148-163. ( 21) そ の 販 路 は、 東 方 は ブ レ ス ラ ウ、 西 南 方 は ベ ル ン、 東 南 方 は プ レ ス ブ ル ク や グ ラ ー ツ に ま で 及 ん で い た。 H. a MM ann ,  a.a.O. (注 18) , S.205f. ( 22) W.-H. b R aun , a.a.O. ( 注 6) , S.63.  Merenberg  (1290),  Salmünster  (1320),  Ulrichstein  (1347),  Schotten  (1354),  Bingenheim   (1357),  Engers  a.  Rh.  (1357),  Wehrheim  (1372),   などの諸都市がフリードベルク法を授与されている。 ( 23) 一 四 世 紀 末 以 後 の フ リ ー ド ベ ル ク 市 の 衰 退 に つ い て は、 R. s tobbe , Geschichte ( 注 6) , S.197-206,   そ れ を 背 景 と し た 市 内

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紛争については、 Ebenda,  S.206-209. ( 24) オ ッ ペ ン ハ イ ム の 状 況 に 関 し て は 、 F. s c h w in d , Zur  Verfassung ( 注 6 ),  S.106-112,  Volker  R ö d e l , Die  Oppenheimer R eic hs bu rg m an ns ch aft , in : A rc hiv  fü r h es sis ch e  Geschichte  und  Altertumskunde,  NF  35  (1977),  S.9-48,  d e R s ., Oppenheim als  Burg  und  Stadt  des  Reichs,  in:  Geschichtliche  Landeskunde  21  (1980),  S.60-81. ( 25) 中 世 後 期 の フ リ ー ド ベ ル ク に お け る 城 と 都 市 の 対 立 に つ い て、 全 般 的 に は、 Th.  s chilp , Reichsburg ( 注 6) , S.174-212, R. s tobbe , Geschichte (注6) , S.142-148. ( 26) Th. s chilp , Reichsburg (注6) , S.200ff.   また、 K.-D. R ac K , Friedberg (注 16) , S.94f. も参照。 ( 27) 拙 稿「 一 三 世 紀 後 半 ド イ ツ の 帝 国 国 制 ─ ─ ル ー ド ル フ 一 世 の 帝 国 領 回 収 政 策 を 中 心 に ─ ─( 一 )」 『 国 家 学 会 雑 誌 』 一 〇 七 巻 七・ 八 号( 一 九 九 四 年 ) 一 二 八 - 一 八 七 頁 を 参 照。 ル ー ド ル フ・ フ ォ ン・ ハ ー プ ス ブ ル ク に つ い て 一 般 的 に は、 さ し あ た り、 Thomas  z otz , Rudolf  von  Habsburg  (1273-1291),  in:  Bernd  s chneid M ülle R  und  Stefan  w ein F u R te R (hg.), Die  deutschen  Herrscher  des  Mittelalters.  Historische  Portraits  von  Heinrich  I.  bis  Maximilian  I.  (919-1519),  München 2003,  S.340-359,  Peter  M o R aw , Von  offener  Verfassung  zu  gestalteter  Verdichtung,  Berlin  1985,  S.211-222,  Heinz  t ho M as Deutsche  Geschichte  des  Spätmittelalters  1250-1500,  Stuttgart  1983,  S.29-85,  Karl-Friedrich  K R ie G e R , Die  Habsburger  im Mittelalter.  Von  Rudolf  I.  bis  Friedrich  III.,  Stuttgart  1994,  S.11-74,  d e R s ., Rudolf  von  Habsburg,  Darmstadt  2003.   ルード ル フ の 国 王 支 配 に つ い て は、 ま た、 Egon  b osho F  und  Franz-Reiner  e RK ens  (hg.),  Rudolf  von  Habsburg  1273-1291.  Eine Königsherrschaft  zwischen  Tradition  und  Wandel,  Köln  u.a.  1993   に 収 め ら れ た 諸 論 文 を 参 照。 彼 の 宮 廷 と 宮 廷 集 会 に つ いては、 Egon  b osho F , Hof  und  Hoftag  König  Rudolfs  von  Habsburg,  in:  Peter  M o R aw  (hg.),  Deutscher  Königshof,  Hoftag und  Reichstag  im  späteren  Mittelalter  (Vorträge  und  Forschungen,  Bd.48),  Stuttgart  2002,  S.387-415 を参照。 ( 28)全般的には、 Oswald  R edlich , Rudolf  von  Habsburg.  Das  deutsche  Reich  nach  dem  Untergange  des  alten  Kaisertums, Innsbruck  1903  (ND  Aalen  1965),  S.467ff.,   ヴ ェ ッ テ ラ ウ と 中 ラ イ ン 地 方 に お け る 試 み に つ い て は、 Thomas-Michael M a R tin , Die  Städtepolitik  Rudolfs  von  Habsburg,  Göttingen  1976,  S.110ff. ( 29)一二七五年の城破壊とその前後の動きについては、 Th. s chilp , a.a.O. (注6) , S.185f.,  R. s tobbe , Geschichte (注6) , S.142f. ( 30) UB  Friedberg,  1,  Nr.60. こ の 証 書 に つ い て は 、 Fritz  H.  h e R R M a n n , Aus  der  Geschichte  der  Friedberger  Judengemeinde,  in

参照

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