東南 ア ジア研究 33巻1号 1995年6月
バ ングラデシュ村落社会 と村落研究
-
農村開発 を指向
した研究史的展望-野
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Review ofStudieson VillageSocietyand Rural Developmentin Bangl adesh
HaruoNoMA*
Thisreview examinesthemeaningsandimplicationsofthe"village"inBangladeshinits historicalcontextandinrelationto"rural"development.
First,theevolutionoftheconceptof…village"andhigheradministrativeunitsistraced byreviewinghistoricaldocumentsofBritishcolonialofficers,varioussurveysrelatedto PermanentSettlement,RevenueSurveys,CadastralSurveysandcensuses.Second,Some importantvillagestudiesinthecolonialperiodarereviewedinrelationtotheconceptof ruraldevelopment.Themainfeaturesoftheepoch一makingV-AIDandComillaapproachto ruraldevelopmentundertakeninthepostwarperiodaresummarized,thencontemporary villageandruraldevelopmentstudiesarereviewed.Itisnotedthatthehugeaccumulation ofvillageandruraldevelopmentstudiesconductedinBengalandBangladeshstillleaves room forfreshstudiesthatmoreclearlyaddressthetruemeaningsandimplicationsof Bangladeshvillages,beyondtheconceptsofelusivenessandpowerstructureasdescribedby notionsofpatron-client,the matabborasa tout,waterllordism,etc.Deeperstudiesof rural-urbaninteractionandthebroaderreglOnalnetworksofvillagersthatarecommonly seeninHinduIndiaarejusttwoexamplesoftheexpectedareaofBangladeshvillagestudies.
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は じめ にバ ング ラ デ シュの 「村」 につ い て は,ベ ル トーチ (P.Bertocci)が 「とらえ ど ころの ない (elusive)」存在 としてその社会的 な組織 の脆弱 さを指摘 した[Bertocci 1970a;1970b]。 19世 紀前半 に始 まるメイ ン (H.S.Maine), メ トカーフ (C.T.Metcalfe), ボーデ ンポーエ)I,(B.H. Boden-Powell)とつづ くイ ン ド在職 を経験 した学者 ・植民地官僚 らによるイ ン ド村落共 同体論 において も,ベ ンガル はその定式化 した シェ-マ に適応で きない地域 で あ る と認識 されて いた。
この小稿 の 目的 は,バ ングラデシュの 「村」の地域概念 の変遷 をた ど り,「村」を対 象 とした
奈 良女子大学文学部 ;DepartmentofGeography,FacultyofLetters,NaraWomen'sUniversity, Kita-Uoya-Nishimachi,Nara630,Japan
東南 アジア研究 33巻1号 英領期か ら現在 にいた るエポ ック となる研究 や調査 に言及 しなが ら,歴史地理的 な らびに社会 学的 な文脈 における村落論 の双 方 を再検討す ることにある。われわれのプロジェク ト自体 はそ の 「村」 を自明の もの として始 まったが, とりわ け農村開発 に とって 「村」 とはいかなる存在 なのか,調査研究や開発 イ ンフラ投入 の過程 で,村 び との組織化や地方行政 との リンクを考 え てい く中で, その 自明性が揺 らいで きた。 その迷 いに現時点での交通整理 をす ることが この小 稿 の狙 いで もある。 あ と
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つの 目的 は,パ キスタ ン時代か ら国家的な規模 でなされて きた この国の農村 開発戦略 や,現在 われわれが地 方行政機関や村 び とをまきこんで実践 してい るささやかな活動 を, この 村落研究 の史的展望の文脈 か ら再考 してみることである。農村 開発 を実行機関 によるプログラ ム として とらえるので はな く,実行機関が 「村」 をどう取 りこんでいったか, そのプロセス と して把握 す る。 したが って この試み は,われわれがい ま,農村 開発 の実践 とい う現場 レベルの 対応 に悪戦苦闘す る中,ややそれ とは距離 を置 いて,上 に述べた視角か らわれわれのプロジェ ク トを僻撤す る中間作業である ともいえる。 そのため,バ ングラデ シュの中での地域性やイン ド亜大陸でのベ ンガルの特異性 や同質性 に も目配 りしてい くと同時 に,実験5村 [野間 1995: 116-118]が位置す るタ ンガイル(Tangail), コ ミラ(Comilla), チ ャン ドプール(Chandpur: 1982年 まではコ ミラ県 に属 した), ボグラ (Bogra)県の事例 を比較的多 く意図的 に集 めた。Ⅰ
Ⅰ
ベ ンガ ル 型 村 落 の 発 見 とその 掌 握 1.植民地官鎌 によるイン ド村 落載 ベ ンガル に独 自の村落 イメー ジを定着 させたの は, シェ-マ化 されたイン ド村落論 に合致 し ない とい う植民地行政官 らの消極的契機 か らである。 その定式化 は一言で言 えば,土地 の共有 と,農業 ・手工業 の直接的 な結合 とヒン ドゥーカース トに もとづ く固定的な分業 を基礎 として, 村落 自身が 「孤立的小宇宙」をつ くっている とい う村落共 同体観 であ る [応地 1972:33-58]。 つ ま りイ ン ド社会 を停滞 として とらえ, マル クスのアジア的生産様式論 の概念 を生 み出す素材 となった原始共同体論 は, ヨー ロバ では過去 の もの となった社会制度 の残存 をイ ン ドに「発見」 したのである [山崎 1976:1-10]。 この村落論 の是非 については南 アジア諸国の内外 で多 く の研究が蓄積 され[Dewey 1972],上 の概念 を否定 す ることか ら現代 イ ン ドの村落研究が開始 された といって も過言でない。本稿 はその仔細 を議論す ることが 目的ではないので, ここでは その原像 だ けを出発点 として検討す る。 南 アジアの村落類型論 として, ボーデ ンポーエル は次の2つを指摘 した。a)ライヤ ッ トワ 1)型村落(
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n'village)と,b)共同共有型村落 (jointvillage)が ある。前者 で はパ テル (Pa
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l)といわれ る世襲 の村長が存在 し,土地 の個別所有 を特色 とす 116野間 :バ ングラデシュ村落社会 と村落研究 る。荒蕪地(waste)は共有地 として使用権 は村 にあ るが,所有権 は国家 に帰属す る。後者 で は, パ ンチ ャエ ツ ト(Panchayat)と呼 ばれ る地 主の家長集団か らな る村貴族 (villagearistocracy) によって支配 されて,土地 は地主諸家族 の共 同所有で ある。荒蕪地 は村 の一部 と考 え られ,他 の耕地 と同 じように所有者 の独 占的な利用が行 われ る。 ボーデ ンポーエル は,前者が イ ン ドの 先住民 である ドラヴ イダ族 な どの地域 にみ られ る古来 の村落 で,後者 は外来種族 が上級所有権 を主張す る ことによって成立 した もので,前者 よ りは新 しい もの とす る。メイ ンは反対 に,アー リア人 の共同所有型村落 が私有制 の発達 に よって崩壊 したあ とにライヤ ッ トワ リ型村落 の成立 を措定 す る。ここで は これ らの起源論争 に立 ち入 る ことは しないが,ベ ンガルで は元来 ライヤ ッ トワ リ型村落 が多か った ことだ けを確認 してお きたい [Islam,M.M. 1977:2-5]。 2.モ ウザ ・パル ガナ ・シ ョル カル- ムガール期の村 落把握-ムガール期 には東ベ ンガル は19の シ ョル カル (saykar)に分 れ, その下 にチ ャクラ (chakla) あるい はパルガナ (pa7gana)が存在 した。 この うちシ ョルカル は一応 は面的 な領域 として把握 され る もので あるが,細部 にわた って明確 な線引 きので きる もので はなか った。一方パルガナ は地租 の徴収 のた めの単位 で, ザ ミンダールが 自 らの所領 (estate)の位置 を指 し示す名称 で, パルガナの創設者 の名前 な どがつ け られた。ザ ミンダールが新 た に土地 を開拓 した りあるい は 他所 に既存 の農地 を購入 した りす る と, それ らも同 じパ ルガナに含 まれ る ことになる。 そのた め, あ る程度 の面 的な領域 を持 ちなが らも1カ所 に集中す る ことはな く,場合 によって は きわ めて遠 方 に (旧県 を越 えるレベ ルで) 同 じ名称 のパルガナが存在 した。 この時期 のパル ガナの歴史地理的性格 について,以下
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つの事例 を検討 す る。 事例1:マイメ ンシン ・パ ブナ ・ダ ッカ旧県 に またが る広大 なパ ルガナ, アテ ィア (Atia) の18世紀前半 の史料 か ら, デ ィワニ- (diu)ant)制以前 の村 の様子 を窺 い知 る ことが可能 であ る。 当時 の モ ウザ は実 際 に耕 作 され て い る土 地 とされ て い な い土 地,荒 れ地 の ジャンマ (jumma)を合わせた合計 の地租高 のみが示 された もので,土地 の面積 は明記 されていない。そ して地租 の評価額 は,地租記録 に示 され る不変 の数字 と後 の土地 の増加 ・分割 を示 した数字 で 決 まる [Ghose 1926:58-62]。 事例2:コ ミラ県 は1960年 まで はテ ィツベ ラ(Tippera)と呼 ばれ,国の東部, メグナ川 の左 岸 の旧県で,東 はイ ン ドに接す る。1765年 ここにイギ リス東 イ ン ド会社 によってデ ィワニ-梶 の もとで県が設 け られた。1787年 にはブル ダカール (Buldakhal)パ ルガナ, ガ ンガマ ンダル(Gangamandal)パ ルガナの帰属 をめ ぐって西隣のマイメ ンシン(Mymensingh)県 との間 に係 争が発生 した。上 の 2つのパルガナ はメブナ川の西岸 (右岸)にあ り,コ ミラの役所(cutcherly) か らは旅 程 8日 もあ る に もか か わ らず,結 局 マ イ メ ン シ ン県 か ら コ ミラ県 に委 譲 され た
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1989:1-3]。かか る事例 は,本来ザ ミンダールの所領 の徴税単位であったパルガナが, その空間的分離 ゆ えに地方行政上 は不都合 な ものであった ことを示唆 してい る。 パルガナの下 にはモウザ(mouza), メハ-ル (mehal)とよばれ る徴税単位地域 が存在 した. いずれ も森林 やため池,荒蕪地 は含 まれず,耕地主体 の概念である。 どち らの名称 もペル シャ 語 を通 して入 ったアラビア語 の官用用語 であ り,ムス リム支配後 に使用 され は じめた ことを推 測 させ る。 一方,住民が帰属意識 を もって認識す る村落領域 はグラム (gram)と呼 ばれ, ヒン ドゥー起 源 の言葉 であるが,領域支配 に関連 して この地域単位 が使用 され る ことはなか った。 3.土地鯛圭事業 と村落 イギ リスが植民地支配 を固め る一歩 として, コー ンウオー リス卿
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は1793 年永代定額地租査定(
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t)を実施 して,ザ ミンダールの土地私有 を認 め, そ こか らあが る地租 を植民地政府 の収入源 として期待 した。 またザ ミンダールたちに,イギ リ スのジェン トリーが農業発展のために果た した ような役割 を期待 した。 しか しこの時点では, 土地 の評価 を決 める客観 的調査 は何 も行われなかった[
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1992:246-251]。 これ以後 に行 われ る一連 の土地調査事業 は,地租査定 の基準 となるさまざまな土地 の面積 と その評価 を政府 が把握す る過程 であった。パルガナ を単位 とした村 レベルの調査 としては地租 調査(
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1847-78)が重要である[
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1977:67]。永代地租査定時以降 の土地開発や耕作状況 の変化 を徴税 に反映 させつつ,末端 の徴税 単位 として空 間的 な範域 を 持 ったモ ウザに,ムガール期 とは違 う意味づ けが されたのであるO いわば画然 とした境界 を も つ支配領域がモウザ によって確定 されたわ けである。 しか し, ザ ミンダール制 の もとでは,政 府 に とって村 の組織 や支配構造, そ して住民への関心 は当面の 目的外であった。 まずその前段 階 として, タクバス ト調査(
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1845-77)が実施 され る。 タク バス トとは小 さな境界 の印 を意味す る。 目測 と簡単 な測量器具で村 の領域 を定 めた もので, タ クバ ス ト地図 (1マイル16イ ンチ縮尺)にその結果が示 された。外郭,すなわちモ ウザの境界 を 定 めるために,不等辺多角形 の集合 として村が描 かれてい るが,集落 の位置 は明示 されず,耕 地の地筆界 の記入 はご く大 まかで欠落 も多 く, モウザ によっては外郭 のみ とい う場合 もある。 この外郭線で囲 まれた範囲がモ ウザであ る。 この調査 を もとに, ロープ,錘心, コンパス等の測量器具 を用 いて平板測量 を し,モ ウザの 地図が完成 された。 これ によって定 め られた地図が地租地 図(
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で,彩色 され, 道路 や河川や池 な ども正確 に1マイル4イ ンチ (約16,000分 の1)の縮尺で記入 されている。 さ らに村 の状況 を把握 す るために必要 な地物 や統計が同時 に調査 された。定期市 (ハ ッ ト),寺や 118野間 :バ ングラデシュ村落社会 と村落研究 モス ク, アイ工場 ,郵便局,井戸 ,警察署,船着場 ,橋 な どは もち ろん, ココナ ツや オウギヤ シな どの有用樹木,竹薮, チ ョ-ル(char:河成 の新開地)な ども記 された。 また ヒン ドゥー, モス リム別人 口,耕作者数,面積,作物,土壌,池 やJHの面積,家畜数 な ど基本的 なデー タが 整備 された。 ここにおいて支酉己者 に とって は じめて村 の実体 が見 えて きた とい える。 しか し地 筆界 は示 されず, モウザの領域確定が主眼の調査 であった。 さらにモ ウザ ご とに地図 は通 し番号 を付 され,パ ルガナ別 に冊子体 に まとめ られている こと が多 い。 また多 くの地租地 図 を編集 した同縮 尺の1枚 ものの地 図が作成 され ることもあった。 ここで注 目すべ きは,居住者 のいないモ ウザが その中 にかな りの数含 まれ る ことで ある。 こ れ は明 らか に以前 に実施 された永代地租査定時のモ ウザ を もとにして村 を確定 してい ったため で あ る。た とえばマイメ ンシン県の6つのパルガナの4,078の村 の うち598,割合 にして17%が 居住者 のいないモ ウザ となってい る [ChakrabortyandAndo 1990:40-41]。
ビハ-ル州 で始 まった地租調査 で は,塊村 の周 りに1つの所領 が存在 す る形態が多 い ことか ら, その意味 あるブロ ックを徴税単位 としてモ ウザ を設 けた。 しか し地租調査がベ ンガル に下 りて くる と,複数所領構成 であって も1つのブロ ックを1モ ウザ とす る方が都合 が よい こ とが わか って きた。 そのた め, ひ と塊 りの集落 とその周囲 にあ る所領 を,便宜上調査 ブロ ック とし てモ ウザ に認 定 した [Thompson 1923:125]。 河川の巨大 な営力で新た な土地が形成 され, また侵食 されてい くデル タ環境 で は,地形変化 は非常 に激 し く,河川 の流路 も毎年 の ように変わ る。 また新開地 に新た な集落が生 まれた り消 滅 した りもす るし,荒蕪地 として放置 されていた場所が農地 になる ことも多 い。 その変更 を出 来得 る限 り追 うこ とは,植民地支配者 に とって不可決 の要件 で あった。 この 目的で, デ ィアラ 調査 (DiaraSurvey:1862-83)とカシュラ事業 (KhasraOperation:1841-54)が各地で断続 的 に行 われた [Islam,S.1977:77-80]。デ ィアラ調査 は永代定額地租査定以降 の河道や そ こ にで きたチ ョ-ル を測量 し,1マイル 4イ ンチあるいは 1マイル16イ ンチ地図 にその変化 を入 れ る ことを目的 とす る。 しか しモ ウザの枠組 みに変更 はな く,新 た にで きた土地 は どこかの既 存 のモ ウザ に編入 された。一方 カシュラ事業 は,一時的 にで きた集落 や係争 のあった地域 でな され,登記番号 (tauzi)が付 された。 地籍調査 (CadastralSurvey:1885-1940)は,1885年 に施行 された もので,地主のみな らず 中間保有民 (tenant)の島民 的土地保有権 を認 めたベ ンガル借地法 (BengalTenancyAct)に も とづ くものであ る。この法律 によって,1マイル16イ ンチ (約4,000分 の1)地籍図(cadastaral map)と, その地図 の地籍 に対応 させた地 主 ・小作民双 方の地券 (record-of-right)をま とめた
1)タナは元来 は警察署 の ことで あ り,それが所在す る町 もタナ と呼ぶ。タナ を警察管 区 としたの はその延 長 か らで ある。1872年のセ ンサスで はベ ンガル全体610タナの平均面積 は280平方マ イルである[Gover
東南アジア研究
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巻1
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コテ イア ン (khatian)をモ ウザ ごとに発行 した. さらに地租 の徴収 や行政管理 の視点か ら,1 マイル4インチ集成図 をタナ (Thana)1)ご とに発行 した。土地査定事業調査官 (SurveyandSettlementOfficer)に とって村落 の境界 は重要 な ものであったが, 「村」 自体 を敢 えて定義 し ようとはしなかった。 その調査 のマニ ュアルのなかで は次の ように述べ られている。 イン ドの他 の地方で は,村落 の領域 の実体 はよ く認識 されてい る。 しか しベ ンガルで はそ の ような村落 は決 して存在せず,地租調査が行 われ るまで領域 を もった もの として村落 と い う用語 は用 い られていなか った。 そのため,多かれ少なかれ,ベ ンガルでは村落 とは地 租調査 のために当局 によって 「調査 ブロ ック」 として便宜的 に線引 きされた ものである。
[GovernmentofBengal
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モ ウザ と領域 の関係,集落 の増加 ・拡大 による変化 を考慮 に入れなが ら,以上述べた ことを まとめて模式化 したのが図1である。
あ と1つ この事業 で銘記 したいのは,土地査定最終調査報告書(FinalReportontheSurvey andSettlementOperation)と題 した大部 の報告書が県別 に編纂 された ことである。中心 とな
る内容 はパルガナ・所領別 の土地制度史 であ るが,行政 区画の変遷,交通,人 口,農業,集落, 開発史,土地調査事業 な どについて詳 しい記載があ り,地誌 (gazetteer)以上 に優 れた20世紀 前半 にお ける地誌的資料 であ り, ここに記載 された事項 を分析 す る ことで,英領期 の村落 ・土 地制度研究 は格段 に具体性 をおびることになった。 しか し編纂の 目的か らして,村落 の内部構 造や社会組織 についての情報 には乏 しい といわ ざるをえない。 4.歴代 「セ ンサス」 レポー トにみ るベ ンガル村 落 英領 イ ン ドの最初 のセ ンサスはアジアで は最 も早 い
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2年である。セ ンサス とはいって も, イ ン ドのそれ は詳 しい地域 ・属性 ・民族 ・カース ト別記述 や特定地域 の地誌的報告 もあ り,単 なる統計資料 とい う範噂で は とらえきれない。 しか し主眼 は全国 レベル における同時点での諸 120野間 :バングラデシュ村落社会 と村落研究 情報 の正確 な把握 であ るか ら,そのために下位 の統計単位 を何 にす るかが最大 の問題 で あった。 徴税 とい う面 か らモ ウザが把握 され,地租調査 もすで に行 われていた。 その上位 の徴税単位 で あるチ ャクラ とパルガナは,前述 した ように,地理的 な一体性 を もっていなか った。このた め, セ ンサスの単位 として は,新 た に地図上 でお よそ20平方マイルを基準 に線 引 きされ,通 し番号 を付 されていた 「警察管 区」 タナが採 用 された。 タナは1813年の条例 で県長官 (magistrate) が定 めた もので, 県の下 に初 めて設 け られた地理的一体性 を もった領域 で あったが, 当時 は何 ら行政機能 を もつ もので はなか った。初期 のセ ンサ スで は人 口の総数 の把握 に重点がおかれ, 村 自体 へ の関心 は乏 しか ったた め,タナ単位 の統計 で十分 と考 え られていたので あろ う。なお, 初期 のセ ンサ スで は,ベ ンガルの多 くの県で地租調査が完了 していなか った こともあって,塞 本的 に居住単位 としての村 が最下位 の単位 として採用 されてい る。2) 1901年 の 「セ ンサス」以降 は,調査単位 としてのモ ウザ と,小村 (hamlet)が い くつか集 ま り独立 した名称 を もつ家 の集合 としての村 を区別 してい る。 後者 は住民が心理的 に1つの もの と意識 す る村 で ある。 これ は当然 の ことなが ら,領域 が はっ き りしない。 このセ ンサス以降, 村 の定性 的 な記述 や その地域性 への言及が詳 し くな る。飲料水が どこで も容易 に得 られ,村 が パ ンジャブ地方 な どに比 べ て清潔 な こと,村 内 に商業的施設 や手工業 が きわめて少 な く純農村 的な性格 を もつ ことな どが各 セ ンサ スの記述で共通 す る。例 えば以下 の よ うな記述 が あ る。 ベ ンガルで は村 はふつ う水 田や ジュー ト畑 の中 に点在 す る。定期市が開催 され るような大 きな塊村 は,河川 の 自然堤 防上 にのみ見 られ る。村 び とは程度 の差 はあれ 目立 たず,独立 した屋敷地 は果樹 や竹薮 で帯状 に囲 まれてい る。樹木や プ ッシュ(jungle)で遮 断 されてい るた め,家庭 生活 のプライバ シー を守 れ る。 そ して最 も古 い村 はほ とん ど間違 いな く河川 の堤 防上 か その付近 に見 られ,相対 的 に高 い土地 の高 ま りがかな りあ る。 その微高地 の間 の窪 みは湿地 になってお り不健康地 であ る。 しか し人 口の増加 で村落 が手狭 になる と人 々 は自然堤 防上 を離 れて,洪水水位 よ りも高 くな るように盛土 して家 を建 て る
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1913:Vol.5,43] ベ ンガルで は実際 に住居 目的で ある部分 を除 いて どこで も耕作 されて きた し,耕作者 も防 衛 のため集住 す る必要 もない. しか しパ ルダ (purdah)制度が厳格 なため,農村 の女性 は 公共 の面前 に出 る ことを許 され てお らず,近 い親戚以外 の人 の家 を訪 問す ることもない。 ベ ンガル人 は,人間本来 が持 つ群棲 す る本能 をほ とん ど殺 して しまってい る。[Thompson 1923:124] 2)1911年 「センサス」ではより詳しく,西ベンガルのプレジデンシー (Presidencydivision),プル ドワ ン管区 (Burdwandivsion)ではモウザをセンサスの村 として取 り扱うが,東ベンガルやアッサムの諸 県では10年以上人が住んでいる居住村落 (residentialvillage)を村 として扱 うと規定した。東南アジア研究 33巻1号 集落 としては自然堤防などに規制 されて帯状 に広が るが,その内部での屋敷地 はかな り自由 に広が り得 る可能性がある。家屋敷 はマクロにみれば集中 しているが,集落地理学で用いる集 村概念では とらえきれない。粗塊村の連続 といってよい存在である。 そのため, もし兄弟 な ど の間でいさかいがおきた り,家族が大 きくな りすぎると崖敷地連続体
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-homestead) のなかの空閑地 に移 り,そこに家 を建築する。 このように屋敷地 とは常 に可変な存在であると ともに,果樹や野菜の栽培,家畜飼養,収穫後の諸作業の場,資材 ・農具置場 な どの多 目的生 活空間である。隔離原理が厳 しいムス リム女性 にとって も,気兼ねな く行動で きる生活空間で あった。 地斉調査がほぼ完了 した1921年の 「センサス」か らは村の定義が変わ り,人が居住 している モウザを村 と扱 うようになった。そのため現バ ングラデシュの範囲で1911年 に91,221あった村 表1 1921年 「セ ンサス」による県別平均1村人 口 地域 1村 人 口規模別村数比率 (%) 県(District) 平均 5,000- 2,000- 500- -500 地方(Division) 人 口 5,000.2,000 全ベンガル 496 5.9 18.7 46.5 28.9 BURDWANDiv. 328 1.4 9.9 43.1 45.6 PRESJDENCYDiv. 577 4.7 15.5 52.7 27.1 Jessore 597 0.8 7.0 55.9 36.3 Khulna 471 ll.0 19.0 50.4 19.6 RAJSHAH一Div. 425 5.6 17.7 42.1 34.6 Rajshahi 327 4.6 43.6 51.8 DinaJpur 255 7.1 35.1 57.8 Rangpur 600 9.9 27.0 40.5 22.6 Bogra 372 1.1 12.9 44.6 41.4 Pabna 534 1.0 18.6 53.0 27.4 DACCADiv. 676 6.5 23.4 49.7 20.4 Dacca 628 5.6 23.7 49.6 21.1 Mymensingh 641 3.4 21.3 52.7 22.6 Faridpur 654 .8.1 20.9 49.6 21.4 Bakarganj 859 12.1 28.9 44.7 14.3 CHITTAGONGDiv. 845 13.1 27.8 43.7 15.4 Tippera 667 4.3 21.8 52.7 21.2 Noakhali 853 15ー1 24.8 45.8 14.3 Chittagong 1,810 27.8 43.2 24.7 4.3出所 :CensusofIndia1921Vol.5:Bengal,PartI
注 :Sylhetは当時ア ッサム州 に属 していたため除外 した。全ベ ンガ ルには,コーチビハ-ル(CoochBehar),シツキム(Sikkim), トリプラ(TripuraState)の山間地 を含 む。 122 I-1 「ヒ 「
野 間 :バ ングラデ シュ村落社会 と村落研究 の数が,1921年 には60,464と約3分の2に激減 した。 そ して この定義 は東パ キスタン,バ ング ラデシュになって も継承 され,既存 のモ ウザ内 に新 たな集落が形成 された場合 は,人 口はモウ ザの下位 の集落 として計上 され るが,面積 には含 めない。つ ま り,基本的 には,モ ウザの統合 は行 わない方針 を通 した。 1981年 「セ ンサ ス」か らは,都市地域 との連続 を図 って全国に一連番号 を付 した
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が 導入 され るな どの技術 的な変更 はあるが,や は りモウザ を村 として扱 うことは変わ りない。 初 めてモ ウザが村落 と定義 された1921年 当時 の村落 の地域性 を人 口の側面 か ら管見 しよう。 表1
は西ベ ンガル州 も含 めて全ベ ンガル を県別,地方(
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別 に1
村 当た り平均人 口,4
段 階 に分 けた人 口規模別分布 を示 した ものである。北ベ ンガルのラ ッシャヒ,デ ィナ ジプール, ボグラの3県が全ベ ンガル平均の496人 よ りもかな り少 ない し,5,000人以上 の村落 は皆無 に近 い。 これ は, この地域特有 のモウザの狭小性 に多分 に影響 されてい る。 一方,バ カルガ ンジ,テ ィツベ ラ,ノアカ リ,チ ッタゴンな ど南東部 の諸県 は 1村平均667人 か ら1,810人 と人 口規模が大 き く,しか もノアカ リ,バ カルガ ンジ,チ ッタゴン県 に典型的 なよ うに2,000人以上 の大規模村落が4割∼ 7割 と高比率 を占める。チ ョ-ルや丘陵地帯 の開発が進 み,公有地が多 い ことな どが人 口規模 を大 き くしてい る と推定 され る。 大部分がデル タ的環境 にあるバ ングラデ シュで は,水系パ ター ン (旧河道 を含 めて) とそれ が作 り出す微高地で ある自然堤防 に一義的 に集落立地が規定 され る。 そのため,帯状 に長 くの びた集落が多 い。 しか しバ リン ド台地 は現在顕著 な水系がみ られないため,集落パ ター ンはあ る一定 の間隔 を もって比較 的 コンパ ク トにまとまってい るO 最近接法 を用 いた18ウポジラをサ ンプル に した集落分布 の計測か らは,河川の氾濫や流路変遷が激 しい地域 で はランダムパ ター ンを示 し,規則 的なパ ター ンは平坦で自然条件が ほ とん ど均質 なバ リン ド台地のやチ ョ-ルの 新 しい開拓地 にみ られ ることを示唆 してい る[
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1988:77-85].Ⅰ
Ⅰ
Ⅰ
英 領 期 の 村 落 研 究 と農 村 開 発I.
農村開港の深化 と潅済的研究 ここで は,地誌や地籍調査 の最終報告書の ように,一定の形式 と客観性 を備 えた刊行物 で述 べ られた村落 で はな く,いわば戦後 の村落 開発研究-の橋渡 しをす るような一連 の村落研究や 農村開発活動 をレビュー してみ よう。 20世紀前半 のベ ンガル農村社会研究 は,農業問題 の深化,貨幣経済 の浸透,世界的 な経済不 況 な どを背景 として,農村経済 の実態調査が主流 となる。 その担 い手 は植民地行政官僚 と経済 学者 であった ことは注 目して よい。 また1920年代 はイ ン ドナシ ョナ リズムが高揚 した時期 で も あ り,社会科学者, とりわ け経済学者 による集団の流動性 や福祉(
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東南アジア研究 33巻 1号 welfare)の立場 か らの研究が進 む。 その初期 に位置す るのが,植民地行政官であった ジャック(∫.CJack)である。彼 はフォ リド プール,バ カルガ ンジ2県の出色 の地籍調査最終報告書 を出版 したのみな らず [Jack 1915; 1916b],『ベ ンガルの経済生活』[Jack 1916a]で はフォ リドプール県 を対象 に,農村 の家族 を 調査単位 として,その経済的社会的性格 を学者 の 目で描 き,経済構造 の問題点 を浮 び上が らせ, 階層分化 に ともな う貧富の要因 を考察 した。 これ は結果的 には, イギ リスの植民地支配 を正統 化す ることに もつなが った。時代 は後 になるが,ベ ンガルデルタの生態的環境 を重視 しその地 域差 を農業発展か らとらえたムカル ジーの『変貌 す るベ ンガル- 河川経済 の研究』[Mukerjee 1938]も経済的な研究 に数 え られ る。 あ と1つの この時期 の注 目すべ き村落研究 は,パナンデ ィカーの 『ベ ンガルデルタの富 と福 祉』[Panandikar 1926]である。彼 は,村落 コ ミュニティの発生,村落 の移動や離散 に関す る 実証研究 をマイメンシン, ダ ッカ, ボグラ, フォ リドプール, ノアカ リ, テ ィツベ ラ,バ カル ガ ンジ県 といった東部地域 で行 い,ベ ンガル村落 の起源 を人 間の他 と親 しくなろうとす る本能 と個人や コ ミュニテ ィを守 ろうとす る必要性か ら説 くことに成功 した。「デル タの家屋敷 はさほ ど狭苦 し くない し,多 くのイ ン ドの他 の地域 と同 じように村道 の両側 に家 が建 て られているわ けで はない。 (中略)村落 は美観 や衛生面,防御 や水 の便 の よい地点で成長 して きた。 しか しデ ルタで は住居 に利用す る土地 を除 いて国中 どこで も耕作 が可能で,農民 も群居 して自らを防御 す る必要 もない」 libid.:157]。
2
.農村復典運動 と村 落研 究農村が疲弊 す るなか,民衆 レベル に直接訴 えかける動 きが,農村復興(ruralreconstruction)
とか農村 向上 (ruraluplift)と呼 ばれ る一連 の農村 開発運動 で あ る.高等文 官 グ ッタ (G.S. Dutta)は現役 中に も農村復興行政 に身 を投 じるが,退官後 はプラタチ ャ リ(Bratachari)運動 を唱道す る。 この運動 はコ ミュニテ ィ開発 を中心 とした20世紀前半のベ ンガルの代表的 な農村 開発運動 となった。県の役人 が3- 4日村 に滞在 して,村 の青年層 と一緒 に農村開発 を考 え, 村 び とを鼓吹 す るのであ る。 ホテイアオイの除去, ジャングルの伐採,集落道路 の修理,養魚 池作 り,夜間学校 開設 な どの実践活動 とともに,16の誓約や17の 自制 の言葉 にみ られ るような 精 神 的 高 揚 を強 調 した 村 の リーダー シップ育 成 を も重 要 視 した 農 村 開 発 運 動 で あった [Hossain 1993:41;野間 1994:45
]
。
1930年代以降 には,世界経済恐慌後 の農村 の疲弊や,1940・1943年 と続 くベ ンガル大飢産 な どを背景 として農村復興 (再建 ) を目的 とした新 しいタイプの村落調査が全 イ ン ド的 に行 われ た。1933年 にベ ンガル政府 は新 た に農村復興局 (DepartmentofRuralReconstruction)を設 け,初代 の局長 にナランナ ビ・チ ョウ ドリー (T.Ⅰ.M.NarunnabiChowdhuri)が就任す る。 ま野間 :バ ングラデシュ村落社会 と村落研究
た1935年 にはベ ンガル経済調査局 (BengalBoardofEconomicEnquiry)が カルカ ッタに設 立 され,農村調査が政府 の予算で行われ るようになった。 ナラ ンナ ビ ・チ ョウ ドリー 自身 もボグラ県の収税官、(collector)時代 に村落 開発委員会 をユ ニオ ン委員会 (UnionBoard)の監督下 の もとに設立 させ,集落道路や集落間道路,集会所, 村 図書館 な どの建設や, また村落 開発基金 を導入 した。 さらには農村復興局 は1942年,輿,副 県, タナ, ユニオ ン,村落 の5段 階の農村復興組合 を結成 させ る。最 も末端 に位置す るパ リマ ンガル
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といわれ る村落組合 は,村 び とのなかか ら選挙で選 ばれた人々で運営 さ れ,25歳か ら50歳のボランテ ィアの青壮年 を組織す ることにある程度成功 した[Governmentof Bengal,Dept.ofRuralReconstruction 1942:2-5]. しか し,実体 はイ ンフォーマル組合 的な性格が濃厚で,上位地方行政 との関わ りは希薄であった [Chowdhuri1940:242-247] 。イシャー クは1940年代 にベ ンガルのタナレベル にお けるはじめての大部 の経済調査 を編纂 し た ことで著名だが [Ishaque 1947],次 に述べ るような農村開発運動 を唱導 した ことで もまた 広 く知 られてい る。彼 は,1935-1936年 にか けて高級役人 として駐在 したパ ブナ県の シラジガ ン ジ(Sirajganjsubdivision)を中心 に, ユニオ ンの役人 と村か ら選 出 されたボランテ ィアが タナ において一緒 にワークキャンプに参加 し訓練 を受 けることによって,村落 とその上位地方行政 機関の意識 のギ ャップを埋 め,指導者層 を訓練す ることによって 自助努力運動や組合活動 を組 織化で きる と考 えた。 また,夜間学校,成人教育,農民 クラブ,集落穀物倉庫,農村工業 の振 輿,道路建設, ジャングル伐採 な どを含 む実践活動 を奨励 した。 その思想 を吐露 したのが 『ベ ンガル農村』[Ishaque 1938]である。立案者 として,ユニオ ン委員会 の活性化 には意 を注 ぎ, 財源 を含 め極 めて具体的な提案 を行 なってい る。後 にはダ ッカ大学での講義 をもとにした 『農 村復興 入 門』[Ishaque 1944] を著 し, その中で農村 開発 の基本理念 として 自助努力 (self -relianceandself-effort)と農村 の組織化 を強調 してい る。 民間で はノーベル賞詩人 ・哲学者のタゴールの名前 を忘れ ることはで きない。彼が設立 した ヴィスヴァバ ラテ ィ(Visva-Bharati)大学が位置す る西ベ ンガル州 ボルプール (Borpur)にス リニケタン(Sriniketan)と呼 ばれ る農村 開発研究所 を設立 した。 その 目的 は,村 び ととの友好 関係 と相互理解 を前提 に,村 び とたちの差 し迫 った問題 を教室 に持 ち込 んで教育 と研究 の対象 とし, また実験農場 で試験 し,再 びそれ らを技術普及 や手 法 の伝授,感 化 とい う形 で農村 に フィー ドバ ックす る。 タゴールの関心 は,農村 における保健衛生の改善,農村金融 の普及,農 産物 の販路開拓 な どに も及 び, さらに農村 に美術工芸 を導入す るこ とも考 えてい る [Tagore 1962:52-53]. タゴールの農村開発 は,学習 と普及,都市 と農村の往復運動 であ り,農民 の精 神的な側面への援助 も含 むな ど,政府 の農村復興 の流れ とはやや異質である。 しか しその文学 的令名 と相 まって,英領期の東ベ ンガルの農村 開発 の蔭 の支柱 となった。大 きな流れ としては, タゴールの農村開発運動 はイ ン ドナシ ョナ リズム にもとづ く農村復興運動の中に位置づ けられ
東南 アジア研究 33巻1号 よう。 上 に述べた ように,現実の農村 の窮状 を打開す る目的で,官民 あげての農村復興 あるいは農 村 開発が行われた。 ザ ミンダール制 の影響 とヒン ドゥー上位 カース ト中心 の官僚機構 が厳然 と してあるために, ムス リムの優秀 な役人 が少 な く,政府 の農村掌握がせいぜい県 どまりであっ た現状 に [Tepper1976:42-43], ボ トムア ップ的 な戦略要素 を外か ら注入 しようとした試 み は,社会改良主義 として もっ と評価 され るべ きだろう。 しか しこれ らの農村復興運動 は提唱者 の個人的資質 に負 う側面が大 き く, また限 られた予算 に縛 られてほんの点的な展開 に とどまら ざるを得ず, また永続性 を欠 くとい う性格 は抹消す ることがで きなかった。 以上 をまとめる と,a)多 くの中央部局 で政策が併存 し,b)政府役人 が積極的 に農村 開発 運動 を展開 し,C)農村 はそれ を受 け身で受 け入れ る とい う消極的 な存在 で しかない (農村開 発 にお ける都市的バ イアス),d)村 レベルでの ワーカー を置 き,彼 らが村 との触媒,モテ ィベー ター となるべ きだ とす る考 え, な どが植民地期 の農村復興政策 に共通 す る性格 であった。 3.村落の社会構造解明への萌芽 この ような実践指向の研究 とは一線 を画 した英領期ベ ンガル農村研究のパ イオニアがムカル ジー (R.Mukherjee)である。ガ ンガマ ンダル (GangaMandal) といわれ る社会運動が行わ れてい るボグラ県ケ トラル(Khetlal)タナの6つの村 で,1942-1945年 に独 自に精微 な農村調査 を実施 した。 うち5つの村3)は互 いに隣接 し,1つ はタナ役所 に近 い都市 の影響 を受 けた農村 が選 ばれた。高度 に社会組織 の発達 した村落 ・民族 を対象 としたベ ンガルで最初 の社会人類学 者的研究 であ り[Akanda 1985:30-31],英領期 のアカデ ミックな社会科学的 な村落研究 では 最高傑作 といわれ,経済階層 と社会階層 で切 ったベ ンガル村落社 会 の特色 を描 ききって い る [Mukherjee 1948;1949;1971
]
。
村, カース トとコ ミュニテ ィ,世帯の職業 を階層 を分 ける指標 と考 える。単 に収入 の違 いで 階層 を分 けていない ところに社会人類学者 としての面 目があ る。第 Ⅰ階層 は知 的職業 ・サー ビ ス, ジ ョ トダール ・ザ ミンダール と富農,第ⅠⅠ階層が 自営農民 (ryot),職人 ・小商人,不在地 主,第III階層が農業労働者 とパルガダール(
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-分益小作農),乞食, その他 と分類 し てその階層 ごとの経済指標 を検討す る。 さらに社会階層で は通姫 の有無 を職業, カース ト,村 ごとに検討す る。6村全体 ではムス リムの数が ヒン ドゥー よ りも多 いが, ムス リムで も油絞 り 職人(
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は明 らかに差別 されたカース ト的階層である と強調す る。 さらにムカルジー は,戦後, 『農村社会 のダイナ ミックス』[Mukherjee 1957]で, これ ら 3)ムカル ジーが調査 したボグラ県の互 いに隣接 した5つの村 は,1920-29年の土地集落法 (Land Settle -mentAct)で2つのモウザに統合 されたが,村 び との意識 は以前の5村 を受 け継 いでいる[Mukherjee 1971:4]。 126野 間 :バ ング ラデ シュ村 落 社 会 と村 落 研 究 の経済階層 の創 出過程 を英領期 の経済史 と関連 づ け, カー ス トに よる社会秩 序形成 の重 要性 の 究 明 に向 う。ただ し,後 にカル カ ッタ大学 に迎 え られ るム カル ジー は,全 イ ン ド的 な ヒン ドゥー 社会 の構造 の解 明 に関心が傾 いた結果 か,東ベ ンガル にお けるムス リム とヒン ドゥー の共存社 会 の分析 を深 め よう とい う努力 は継続 しなか った。
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)の粥頁未 とコ ミュニテ ィ開発 1947年 に英領 イ ン ドか ら分離独立 したパ キスタ ンは,独立 当初, 国家 レベ ルで地 方行 政 の整 備 と農村 開発 を強力 に推進 した。Ⅴ-
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計 画(1953年∼1961年)は,フォー ド財 団,UNESCO
,ア ジア財 団,アメ リカ合衆 国の古参NGO
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な どの ドナーの資金援助 を受 けて実施 され た東西両パキス タ ンの国家 レベ ル の農村 開発 プ ログラムで, か な り革新 的 な内容 を持 つ もので あった。 経済省(
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が開発 の主体 となった。Ⅴ-
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の開発地域 の規模 は10万人,150村 が標準 とされ,その開発 担 当の役人 は農村 開発実施 の監督 ・調整,予算管理 を行 う。 それ を2
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(それ ぞれ75村 を担 当 し、 10人 のⅤ-
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スタ ッフを もつ)が補佐 す る。彼 らは農業 ・畜産 ・保健 衛生 な どの ような部署 か ら派遣 され る。 カバ ーす る地域 や人 口 は現在 のバ ングラデ シュ地 方行 政制 度 にお け るTRDO
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の約半分 であ るが, その役割 は きわ めて類似 してい る。 まだ農村 開発 の拠点 が県 レベル に留 まっていた この時期 に, よ り分権化 した施策 が とられた こ とは画期 的 な ことで あった。 ただ その原形 は英領期 の5段 階 の農村復興組織 に求 め られ る。村長老会議 とい う村 の有力者集 団 を開発 の担 い手 として取 り込 み, そ こを村 で の意志決定機 関 とす る こ と, さ らに将来 の担 い手 とな る男女別 青年 クラブ
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を,外部 の ヴ ィレッジワー カーの介在 に よって活性 化 させ よ う とした点 も特筆 で きる[
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1955:24-35]。Ⅴ-
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の 目的 とす る ところは,パ キスタ ンの「第 1次 5カ年計画」 で次 の よ うに表明 されてい る。「村 を 1つの ま とま りの あ る全体 として,そ こに住 む人 々 の 目を 通 し,過去 の英知 と知恵 の巨大 な蓄積 とい う観点 か ら見 よう と試 み る こ とで あ る。人 間の経験 に もとづ いた コ ミュニ テ ィ組織 や コ ミュニテ ィ開発 の原理 を用 い る もので あ り, これ によって 農村 開発 の従前 の過 ちを回避 す る ことがで きる。Ⅴ-
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には,村 の生活 を再建 す るた めに協議 され決定 され た努力 を,政府 や 国民 の資源全体 の観 点 か ら調整 す る目的が あ る」 libid.:6]。 具体 的 にはa
)農業生産性 を上 げ,村 の保健衛生,組合,農村工業 を推進 す る,b)
学校,東南 アジア研究 33巻1号 保健 セ ンター,飲料水供給 な ど村落 の生活環境 の整備, C)社会 サー ビスの充実,d)政府 の 異 なる部局 の仕事 を調整 して,普及活動 を通 じて村 まで届 ける,e)道路 の建設 ・改修, な ど で ある。グローバル にみれば
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はマー シャル プランに もとづ くアメ リカ主導の戦後復興 援助 で あって, イ ンフラス トラクチ ャー建 設 を中心 としたパ ッケー ジプ ログ ラムの受 け皿 で あった。 また国内的 には,1953年 にクーデター に よって政権 を取 った アユ-プ・カー ン (Ayub Khan)の不安定 な支持母体 を強化す るための,農村重点政策 とい う政治的な面が きわ めて強 い。Ⅴ-
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の手法 には,戦 中か ら戦後 にか けてアメ リカ合衆 国の援助機関(
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や国連 の各種 機 関 な どで奨励 された コ ミュニテ ィ開発 (communitydevelopment)の概念が色濃 く反映 して い る。村 び との 自助努力 を促 す点,現金収入増加 につなが る技術 ・保健衛生 ・組合 ・農村工業 な どを奨励活性化 す ること,異 な る部署 の専門的技術 を もった役人 を調整 しつつ村 レベ ル まで そのサー ビスを浸透 させ るためのたいへん組織 だ った計 画である。 とりわ けその末端 で は,村 レベ ルの ワーカーが,村 び とへの普及 ・組織化 ・教育 に大 きな役割 を果 たす ことが期待 された。 しか し彼 らは担 当村落 に関わ りのない地 方行政 の吏員 であるため,在来 の村 の有力者集 団へ有 効 に働 きか ける ことが きわめて困難 で あった。またⅤ-
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は,新 たな指導者層 を育成 す る こと もな く,末端 で の決定 的 な資 金不足 が足 かせ となって,1961年 には廃止 され る こ とになった lHossainSaqui 1994:34-39].
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コ ミラモデルの 「実験」 1.V-AJDか らコ ミラモデルへ- 成立 の背景-1954年 に1年間Ⅴ-
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担 当の部長 (director)として働 いた経験 を持 つハ ミツ ド・カー ン(
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HamidKhan)は, ミシガ ン州立大学 での研修 を経 て,1959年7月農業次官 にコ ミラ県 コ トワ リタナ (KotwaliThana)246村 でのパ イ ロ ッ ト計画 の実施 を願 い出 る [Khan 1983:Vol.Ⅰ,2
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]
。 これが開発途上 国の農村 開発 の1
つのモデル となった コ ミラモデルの発端 であ る [長峯 1985:114-115]
。
コ ミラでの 「実験」は, すで に ここで実施 されて きたⅤ-
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の弱点 を改良 しつつ,新 た な試 み を試行 す ることか ら始 まる。 その弱点 とは次 の2点 にあ る。a)地方行政 システムが うま く 機能 していない こと。 b)個人や グループに金 品の形 で支給 された補助金が,モ ラルの低下 を 招 き,計画 の教育的 ・組織的側面 をあい まいに した こと。 か くして初期 の コ ミラでの 「実験」 は,村 の開発 の担 い手 ・リーダー となるワーカー を見 出 して彼 らを訓練 す る ことに重点が置かれた。Ⅴ-
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や英領期 の農村復興計画で用 い られた,外 部 の者 を調整 ・普及 のための ワーカー として活用す るので はな く,在来 の村落 の人 的資源 に期 待 をか けたのであった。 かな り社会教育 的 な要素が濃厚 である。初期 のパ キスタ ン農村 開発 ア 128野間 :バングラデシュ村落社会 と村落研究
力デ ミ- (PakistanAcademyforRuralDevelopment-PARD,現在 のBARD-Bangladesh AcademyforRuralDevelopment)の職貞 は農業技術 の専 門家 な どは少 な く,実践 的 な組 合 の組織 作 りの専 門家 (Ⅰnstitutionbuilding)と,社会 学 ・農業経済学 な どの社会科学 を中心 と す る構成 で あ った。 コ ミラ県 は人 口密度 が東パキス タ ンの なかで は1平 方 マ イル当た り2,031人 (1961年)と極 め て稗 密 で (東パキス タ ン全体 で は1,000人 ),小 農が圧倒 的多数 を占め,大地主 が少 ない ところ で あ る。農家一戸 当た りの耕地面積 は1.7エー カー と,東パキスタ ン全体 での3.7エ ーカーの半 分以下 で あ る。 この コ ミラ県の中心, コ トワ リタナ にパ キス タ ン農村 開発 ア カデ ミーが フォー ド財 団 の援助 な どで建設 され,初代 の所 長 にハ ミッ ド ・カー ンが就任 した.彼 の カ リスマ的 な 指導力 で, このアカデ ミー を核 として タナ レベ ルで の野心 的 な 「実験」 が始 まった。 この内容
につ いて は,数多 くの解説 が あ るので [Anisuzzaman
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1986:Akanda 1986;Quddus 1993],ここで は4つの柱 とな った うちか ら主要 な2つ に絞 って考察 す る。その2つのモ デル と は相 互 に関連 す る もので,a)村 レベ ルでの農民協 同組 合 (KrishakSamabayaSamity-KSS)とその タナ レベ ルで の連 合体 で あ るタナ中央農民協 同組合連合会 (Thana CentralCooperative Associati on-TCCA)の2段 階 の協 同組 合 を設立 す る。
b)郡 レベ ルでKSSの リーダー,職 員 ,農民 の研 修 を行 う。 その機 関 として タナ研 修 ・開発 セ ンター (ThanaTrainingandDevelopmentCentre-TTDC)を設 ける。
ハ ミッ ド・カー ンのモデル は,管理組織 はイ ン ドの それ を,濯概や土地 開発,植林 な どの フィ ジカル イ ンフラス トラクチ ャー,農業 に基盤 を置 く方針 な どは新生 中国の農村 開発 をモ デル に, 協 同組 合組 織 はデ ンマー ク, 日本,台湾 か ら学 び,村 の リー ダーの訓練 方式 はデ ンマー クの農 民学校 (FolkSchool)な どを手本 として考 え出 した もの といわれ る[Saqui 1994:39]。 また,
アユ- ブ ・カー ンの提起 した基礎 民 主制 (BasicDemocracies)4)は,都 市 の有力者 か ら農村 の
有力者 を自 らの支持 基盤 につ けよ う とす る多分 に政 治 的 な地 方行 政 システムで あ るが[Sobhan 1968],コ ミラモ デル もこの流 れ に うま く乗 った もの ともい える。さ らに大 きな背景 には,新生 イ ン ドを ソ連 が後 方 か ら支援 す るの に対 して,パ キス タ ンはア メ リカ合衆 国が支援 す る とい う 冷戦構 造 が あ った こ とを見逃 すわ けにいか ないで あ ろ う。 東パ キス タ ンで は, 日本 の よ うに地 主層 を徹底排 除 して 自作農 を育成 す る農地改革 が断行 さ れたわ けで はない。 ザ ミンダール制度 に よる土地保有 の多重 階層制度 は1950年 に廃止 された も 4)1959年から1971年にかけて施行された地方行政制度で,ユニオン,タナ,ディス トリク ト(県),ディビ ジョンのそれぞれが委員会(Council)をもつ 4段階組織からなる。ユニオンだけが直接選挙で,そのメ ンバーの中から順次上位の委員会のメンバーが選出され,任命官吏 とともに職務に当たる。下からの積 み上げで民意を反映 しようとした,タナとユニオンを重視する地方分権政策の一環である。
東南アジア研究 33巻1号 表 2 コミラ・コトワリタナにおけるKSS組合と滞概面積の変遷 年度 組合数 組合員数 1組合 当 り DTW 港概面積 組合員数 利用数 (エーカー) 61/62 62/63 63/64 64/65 65/66 66/67 67/68 68/69 69/70 70/71 71/72 72/73 73/74 74/75 75/76 76/77 77/78 78/79 79/80 80/81 0 6 3 0 1 2 8 3 1 9 1 1 1 3 2 5 0 0 3 0 6 5 3 1 6 6 1 7 5 3 7 9 4 4 2 2 3 4 1 6 8 1 8 9 1 4 5 6 1 2 7 3 7 2 7 7 3 4 6 6 1 3 3 4 5 8 1 1 1 1 1 3 3 4 4 4 4 4 4 4 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 9 0 2 2 8 5 1 1 6 00 7 1 1 0 1 2 0 0 2 5 5 1 2 5 5 2 6 0 1 2 4 9 0 1 2 2 2 2 2 2 1 1 1 1 2 2 3 3 3 3 3 4 4 4 4 4 4 4 4 3 7 4 3 7 6 1 8 3 3 9 3 3 7 0 9 1 4 6 5 1 8 1 2 2 7 4 8 5 4 3 4 4 4 5 4 4 4 4 4 3 2 3 3 3 3 4 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 2 2 4 5 6 1 6 8 4 3 0 5 1 2 4 5 5 0 1 1 1 3 2 4 9 2 6 9 1 1 7 0 9 0 0 0 1 0 3 1 1 1 2 2 1 2 1 2 2 2 2 2 2 36 424 1,135 1,305 3,076 5,185 8,527 ll,260 15,181 12,438 15,728 16,201 15,329 ll,130 15,893 16,853 8,440 19,680 16,645 出所 :New RuralCooperativeSystem forComillaThana,
RecordsofTCCA andBADC,Comilla. [Anisuzzaman
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l.
1986:30,58] よ り編集 注 :DTW -DeepTubewell(深菅井)0'78/79年度 の濯概面積 は誤 りと思われ るが,資料 の とお りに掲 げた。 (エーカー) (%)40 20 所有農地 20 40 (%) 図2 コ トワリタナKSS組合員 ・非組合員の所有農地規模別比率 出所 :[Akhter 1964] 130野間 :バ ングラデ シュ村落社会 と村落研究 のの,村 内 にお ける地主 ・自作 ・小作 ・土地無 し農業労働者 とい う階層 は温存 された。 その既 存 階層や村 の リーダー を どう農村 開発 にむすびつ けるか を, コ ミラの 「実験」 は実 に巧 みかつ 斬新 な組織化 モデルで もって実践 した。 旧 ソ連 や 中国の コル ホー ズや人民公社 に代 表 され るよ うな, 国家 の強力 な指導 に よる集 団体制 の農場 で はない。 タナ とい う地 方行政 の核 を育 て る こ とに よって,小農 の経済 的向上 を促進 しよう とす る ものであった。 2.1960年代 コ トワ リタナでの成果 コ ミラ ・コ トワ リタナでの初期 の 「実験 」が どの ような普及 の過程 を示 し, いか な る農民 階 層 に受容 されたか を検討 す る。表 2は1961年度 か ら1980年度 までの20年間の普及過程 を年度 ご とに数字 に した もので あ る。当時 この地域 には246の村 が あ り,数 の上 で は1967年度 にすで に1 村 1つ以上 の属人 的 な協 同組合 が誕生 した。 なお, ここでの村 はモ ウザで はな くグラム を対 象 としてい る。 家族 を1メ ンバ ー とす る と,1968年度 で タナ全体31,000農家世帯 の37%をカバ ー してい る。興味 を引 くの は,20年 間の組合 当た りの平均世帯数 が34.2人 で年次 に よるば らつ き が比較 的少 ない こ とで あ る。 図2は1969年度 にお ける組合員,非組合員 の所有 農地規模別 の比 率 で ある。 コ ミラ近郊 はバ ングラデ シュで も農地 の零細性 の著 しい地域 で あ るが (農業人 口の46%が 1エーカー未満),組 合員 の430/.は1-2エー カーの小規模 層 に集 ま り,2エー カー以上 の組合員 は42%,5エー カー 以 上 の大 農 も8%を 占 め る。 そ の一 方 で,土 地 無 し農 民 の加 入 比 率 は きわ め て低 い [Hye 1993:14-15]。 あ る程度, 当初 の 目的で あった小規模 自営農民 の 自立化 を助 ける とい う目的 は 達成 され てい る ことを この数字 は語 ってい る。 しか しい くつかのサ ンプル調査 か らは,組合 を 牛耳 る リーダー は5エーカー以上 の大農 が多 い ことが示唆 され る。例 えば,1972年 にお ける32 のKSSのマネー ジ ャーの うち17人 が5エーカー以上,8人 が3-5エー カー層 で上 層農 に偏 っ てい る こ とは否 めない [Mannan 1972]。 さて, コ ミラでの「実験 」を農業生産性 とい う観 点 か らみ る と, これ は紛 れ もな く稲 のグ リー ンレボ リュー シ ョンの一側面 で あ る ことがわか る。表2が示 す ように, この間 に深菅井 (Deep Tubewell-DTW)が まず政府 の手厚 い保護 の もとで組合 に貸与 とい う形 で導入 され, さ らに 低揚程 ポ ンプ (Low LiftPump-LLP)や浅菅井 (ShallowTubewell-STW)も後追 いす る 形 で増 加 した。 この増加 は一部 この地域 で盛 ん な野菜栽培 に も向 け られたが,圧倒 的 に乾季 の ポロ稲 を栽培 す るた めの濯概 で あった。実験村 のパ ンチキ ッタ村 で も, ダ ッカ ・チ ッタゴ ン市 場 へ む けた野菜栽 培 を馬区逐 す る形 で ポロ (bwo)稲 が拡大 してい った。 その立役者 はバ ングラ デ シュ,IRRIな どで改良 され たHYV (高収 量 品種 )で あ り, その高収量性 を発揮 す るた めの 化学肥料 の増投 や濯概 に よる綿密 な水管理 が ワンセ ッ トになった 「種子一肥 料革命」で あった。 機械化が相対 的 に農地規模 の大 きな農民 に まず普及 す る工学的近代化 で あ るの に対 して, グ
東南 アジア研究 33巻1号 リー ンレボ リュー シ ョンは新 しい種子 をテ コ とす る農学 的近代化 とい える。 それ は規模 中立的 性格 を有 す る といわれ るが [金沢
1
9
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3:6]
,KSS
組合員 の所有農地別分布 の状況 はそれ をあ る程度裏 づ けてい る。 一方, 当時 は同 じ1
つの国であった西パ キスタ ンの半乾燥 のパ ンジャーブ地方で は,小麦 の グ リー ンレボ リュー シ ョンが濯淑設備 の完備 を絶対条件 として進展 した。 コ ミラでの 「実験」 はモ ンスー ンとい う風土 の乾季 のポロ稲 の作付 けを,豊富 な地下水溶概 によって可能 にす る も のであった.雨季 のアマ ン稲 (a
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深水稲 )はバ ングラデ シュの水文 的条件 か ら農民 的水管 理が ほ とん ど不可能 な もので,施肥 の効果 も少 な く,HYV
の普 及 は部分 的 な もの に とどまっ た。 コ ミラの 「実験 」が この湿潤 モ ンスー ンでの乾季 の稲作 とい う側面 での限定的革命 であっ た ことは, もっ と強調 され るべ きで あろう。1
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年代 にコ ミラを中心 に起 きた農業 の革新 を,経済 的,歴史的,社会 的 に考察 した編著 で ベ ル トーチ は次の ように総括 してい る。「農村 で は分権化 し結束 した社会組織 の相対 的 な不足が 強調 され, その ことは農村 開発 をす る ときに留意 すべ きもの とされ る。 しか しなが ら,逆説的 に,農村 の さほ ど複雑 で はないが 自立 的 な社会構造 の遺産 に もかかわ らず,ベ ンガルの農民 は 農業発展 にかな り早 い肯定的な反応 を示 した」[
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7
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a:4]
。 コ ミラでの成功 によって,政府 は このモデルの有効性 と近代農業発展 の可能性 を確信 す るに いた る。1
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7
1年 に東パ キスタ ンはバ ングラデ シュ として独立す るが,PARD
はバ ングラデシュ 農村 アカデ ミー(
BARD)
にその まま引 き継がれ,モ デル 自体 は国家事業 の総合農村 開発計画(
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RDP)
として,全 国 に展 開 され る ことになった。 その中で2段階農協 の システム も組合員 の資金 に よる自主的 な任意組合 か ら,1982年 には地方 行政 ・農村 開発 ・協 同組合省管轄 のバ ングラデ シュ農村 開発公社(
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d-BRDB)
に所属 す るこ とにな る。 しか し政府機 関か らLLP
,STW
,DTW
が組 合 を窓 口 として貸与 されていたのが,世界銀行 が主導す る民有化(
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の流れの中 で買取 り方式 にな り,化学肥料 も政府 買い上 げ特別価格 が な くなった現在, この2段 階農協 シ ステム は農業融資 の窓 口 としてのみ機能 す る場合が多 く,KSS
,TCCA
の形骸化が著 しい [藤 田1
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3
;海 田1
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;熊谷1
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]
。
ⅤⅠ
村 落の権 力構 造 と社 会組織 1.戦後 におけ る村 落研 究の新 たな潮流 戦後,村落研究 は植民地政府官僚 の手 を離れて,新 たな地域研究が模 索 され る ことになる。 上位 カース トを中心 とした ヒン ドゥーのイ ン ドへ の移 住 や, イ ン ドか らのム ス リムの来 住 に よって村 の社会構成 は大 き く変わ った。 そ こでの中心 テーマ は, コ ミュニテ ィの組織 と社会構 132野 間 :バ ング ラデ シュ村落社 会 と村落研 究 造 との相互 関係 で あ り,社会学 にお けるマル クス主義 の影響 もあ って,村落 を支配 す る権力, 階級 ・階層構造 に焦点が 当て られた。 イ ン ド村落研 究 での中心課題 で あ るカー ス ト秩 序 の村落 社会 での検討 や広域 ネ ッ トワー クの形成原理 はバ ングラデ シュで は埼 外 とな り, ます ます村落 内部 の権 力構造 に沈潜 してい くことになった。 ダ ッカ大学 の研 究者 を中心 に して,政 治学 が村 落研究 に深 く関与 す るようにな った状況 もバ ング ラデ シュ独 自の傾 向で あ る。
チ ョウ ド リー [Chowdhury,A. 1978;1982]の先 駆 的 研 究, ジャハ ン ギール [Jahangir 1979:1982]の村 内の権力 の各要素 を階級 関係 か ら究 明 した包括 的 な書, ダ ッカ県 の農村 を事 例 に した 「希 少 な資 源 の獲 得 競 争」 とい う概 念 か ら階 層構 造 を分 析 す るヤ ンセ ン [Jansen 1987]な どが その代表 的 な研 究 で あ る。 その傾 向 に拍車 をか けたのが,政権 の交替 のた び に変 わ る地 方行政制度 であ る。 軍政 か ら大 統領制 を指 向 した ジア ウル ・ラーマ ン (ZiaurRahman)は,1976年 と1980年 に地 方行 政制度 の 改革 を実施 した。1976年 の改革 で は県, タナ, ユニオ ンの各 レベ ル で評議会(pan'shad)を設 け た。とりわ けユニ オ ンは直接選挙 に よって メ ンバ ーが選 ばれ る ことになった。その分権 化 をい っ そ う進 めたのが1980年 の改革 で, 自立村落政府 (SwanirvarGram Sarkar)とい うユニオ ンの 下位 の レベ ル に直接選挙 に よる議貞 を誕 生 させ,農村 開発 の末端 組 織 に しよ う とした。全 国 68,000の村 (住民 に認識 された グラム)で は混乱 の中で選挙 が行 われた。農民,土地無 し農民, 青年,婦人,他 の職業従事者 の主要 な5つの利益集 団 を開発 の主体 として, それ ぞれが組合 を 結成 して 自 らの資源 を用 いて可能 な農村 開発 プ ログラム を実行 しよう とした。 しか しこのい さ さか早 急す ぎる試 み は,1982年 の大統領 暗殺 で頓挫 した。 フ ック[Huque 1988]や ホセイ ン・ サ キ[HossainSaqui 1994]の研究 は, かか る政争 の犠牲 とな った末端 の村落 に焦点 をあてた 評 価研 究 で あ る。Munzur-Ⅰ-Mowla[1980]は, コ ミラモ デル とグ ラム ・シ ョル カル の先駆 け と なった ジェ ソール県で1976年 に始 まる自発 的 な農村 開発運動UlashiJadunathpur(U-∫)の貴 重 な比較研 究 をの こした。 かか る政 治 の変化 に際 して も,村落 は意外 と変 わ らない もので あ る とい う認識 が調査者 の間 に芽生 えて きた の も事実 で あ り, これがバ ング ラデ シュ村落研 究 のスタ ンスに も目には見 えな い影響 を与 えて い る。 2.村 落研 究の制度 的整備 東パ キス タ ンにお いて独立 当時 に あった高 等研 究機 関 は,1921年設 立 の ダ ッカ大 学 だ けで あった。 そ こで は人文科学,古典 学,数学,理学,経済学,政治学 な どが主流 の総合大学 で あ り,村落研究 に関わ る社会学,人類 学,地理学,農業経済学 な どを欠 いていた。 これ らの研 究 部 門 はダ ッカ大学 の学科増設や,新設 の ラ ッシャ ヒ,チ ッタゴ ン,ジャハ ンギナガール ( Jahan-girnagar)大学 , マイメ ンシ ン農科大学 な どで順 次整備 されてい く。
東南アジア研究 33巻1号
ただ,大学 よ りはむ しろ政府系 の諸機関 によって村落研究が リー ドされていった ところにバ ングラデ シュの特色 が ある。経済研究局 (BureauofEconomicResearch),バ ングラデシュ 統計局 (BangladeshBureauofStatistics-BBS),バ ングラデ シュ開発研究所 (Bangladesh InstituteofDevelopmentStudies-BIDS),バ ングラデシュ研究所 (InstituteofBangladesh Studies-IBS),バ ングラデ シュ農村 開発公社,それ にパ キスタ ン農村 開発 アカデ ミーや ボグラ 農村 アカデ ミー な どが その機関で あ る。 それ らの中 には,ベ ンチマー ク調査 とい う形 で,村落 開発 をす る予備段 階 としての村落調査 が多 く,数 としてはかな りの報告が蓄積 されてい る。 た だ し, その多 くはフィール ドア シスタ ン トを使 って質 問票 に基づいた調査 を実施 し簡単 なタブ レー シ ョンの結果 を現状分析 のかた ちで報告す る とい うもので,質 は二の次 の もの も多 い。 しか しバ ングラデシュの県のなかでいちばん村落研究 の調査地域 として も多 く, い くつかの エポ ックをなす研究 を生 み出 した点 か らもパ キスタ ン農村 開発 アカデ ミー(PARD),後 のバ ン グラデ シュ農村 開発 アカデ ミー (BARD)が際だ ってい る[Adnan 1990:20-23].BARDは
40名 を超 える研究貞 や その倍以上 の フィール ド調査員 を擁 してい る。彼 らは, トレーニ ング講 習 の傍 らこの機関 を中心 に した諸 プロジェク トに関わ ってい る し,農村 開発 関係 の海外か らの 援助 資金 を用 いた国際協力研究 も常時い くつか組織 されてい る。研究 スタイル として は,圧倒 的 に経験 的 な実証研究が多 いが,官僚 的 な色彩 は比較 的希薄 である。2段 階 コ ミラ農協 モデル, 地下水港概 の普及過程 とその問題点,農村金融, グ リー ンレボ リュー シ ョンの総合評価,農村 開発行政, トレーニ ングの効果,農村 での婦人教育 や栄養問題 な どに関 して多 くのモ ノグラフ や論文が出版 されてい る.多 くはBARDか ら出てい る