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フィリピンにおける企業的農業成立のメカニズム : 中部ルソン蔬菜作農村での実態調査より [The Development of Commercial Agriculture in the Philippines: A Case Study of a Horticulture in a Central Luzon Village]

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東南アジア研究 11巻3号 1973年12月

フ ィ リピンにお け る企 業 的農 業成 立 の メカニズ ム

-

中郡 ル ソン疏 菜作農村 での実態調査 よ り

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KADA は じ め に フ ィ リピ ン農 業 は,1960年代 後 半 に は い って ひ とつ の転 機 を む か えて い る.節 - の点 は,米 の高収 量 品種 の導 入 に よ って米生 産 量 が年 々増 大 し, 慢性 的輸入 傾 向 に終 止符 が打 たれ よ うと して い る こ とで あ る。1) 第 二 は, 政府 の手 に よ って 土地 改革 が い っそ う推 進 され, 土地 所有 や 地 主 -小 作 関係 に少 なか らぬ変化 が もた らされ つつ あ る点 で あ る。2) な が ら く停滞 状 況 に あ っ た フ ィ リピ ン農 業 が, これ らの外 的 イ ンパ ク トに よ って, 農 家経 済 の 面 で も村 落 社会 構 造 の面 に お いて も徐 々に変貌 を とげ る こ とは疑 いが な い。 と ころで, この過程 が フ ィ リピ ンの農 業発 展 の中 で ど う位 置づ け られ るか を考 え る場合 , 国 民経 済 的視 点 か らのマ ク ロ分 析 に加 えて, イ ンテ ン シブ な村 落 調査 に基 づ く農 業 経 済学 あ るい は農村 社 会 学 的研 究 が 重要 な役 割 を果 たす と思 わ れ る。3)

京都大学農学部農林経済学科 1) 新品種導入前の1961-65年には年平均388万 トンであった米生産量が1968-70年には年平均475万 トンに 達 し,1ha当り収罷にしてそれぞれ1.23トンか ら1.49トンへ と増加 した (政府統計 より算出)。 ところ が,1968年には初めて国内自給を達成 したかに見えたが,1971年の病虫害,1972年には中部ルソンでの 風水害で再び年数十万 トンの輸入が行なわれた。 2) 1963年に土地改革法が制定され, 現マルコス政権はこれをひきついで実施 しようとしたが実効はあが らなかった。 1972年10月,戒厳令下においてマルコス大統領は新たに全国を対象とする新土地改革法を 公布 し,現在そのなりゆきが注 目されている。 3) 日本人の手によるフィリピン農村の実態報誓・については, 高橋 彰 『中部ルソンの米作農村』アジア 経済研究所,1965が先駆的業績 としてあげられる。 また梅原弘光 「フィリピン農村 の社会経済構造」 滝川 勉 ・斉藤 仁編 『アジアの土地制度 と農村社会構造』アジア経済研究所,1968にも詳 しい調査報 告が記 されている。

(2)

蓑 田 :フ ィ リピ ンにおけ る企業 的農 業成 立の メカニ ズム 筆 者 は

1

9

7

2

8

月 か ら約

3

カ月 間, 中部ル ソ ン地域 の一一度村 において農 業経営 の実態 とその 発展過程 を探 るた めの実態調査 を行 な う機会 を得 た。4)調査対象 と して, 雨期 に稲作,乾期 に は商品作物 と しての疏菜作 を行 な って い る中部ル ソ ン地域 の-農村 が選 ばれた。本稿 で は,調 査 で得 た資料を もとに, (1) 農業経 営 の実態 とその特色, (2)疏発作 の展開過程 とその メカ ニズ ムにつ いて報告 したい。 特 に (2)で は, 発 展 の担 い手 た る経済主体 に 着 冒 して分析 を試 み た。 Ⅰ 調査村落 ベガ村 の概要 調査村 落ベガ村 は, 中部ル ソ ン平 原北東部 に 位 置 し, 行政 上 は ヌエバ ・エ シハ

(Nueva

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)

ボガ ボ ン町

(

Bongabon)

に 属 す る。 調査地域 か ら首都 圏マニ ラ- は 車 で 約

4

時間, 145km の行程 で あ る (図 1参

照)

ボガボ ン町 の東側 には シエ ラ ・マ ドレ山地 が 走 り, ベガ 村 はその山系か ら発 したデ ィグマ ラ川 (

I

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)

がつ くりだす扇状地 に位 置す る。 気候 図 1 調 査 村 落 の 位 置 4) この調査は,筆者および水野正己氏 (京都大学農学部)の2人で行なわれた0本稿で用いるデータは, すべて現地で得た資料 ・情報をもとにしている。 なお,この調査をもとにすでに次の2編の報告がなさ れているO水野正己 rフィリピンの農地改革とその実態

『農業と経済』第39巻 7号,1973, および拙 稿 「中部ルソン農村における疏菜作の新展開」 『農林業問題研究』第9巻第 2号,1973である。

(3)

東南 アジア研 究 11巻3号 は6月か ら11月 までの雨期 と,12月か ら翌年 の5月 までの乾期 とに 比較的明瞭に分かれて い る。土壌 は砂壌土 を主体 としてお り,肥沃 で疏菜作 に適 している。 歴史 的には, ベガ村 は約150年前 に最初 の移 住開拓者 によ って開かれた と言 われ る。スペイ ン占領期末 期 の19世紀 までは,周 囲一帯 は原野 と野生林で囲まれて いたが,本格 的に入植 が始 まるのは20世紀 に入 ってか らの ことである。調 査時点での総戸数386戸 についてその起原 をた どると次の4類型が得 られた。 (i) 19世紀末か ら第 二次大戦前 までに,すで に このベガ村 に住 みつ いていた家族 ,およびそ の直系家族

--

- 83戸 (21.5%) (ii) 第二次大戦後 (i)の家系か ら分家 して独立 した家族

-

-207戸 (53.6

%)

(iii) 第二次大戦中お よび1950年 頃までにベガ村 に移住 して きた家族 - -- 47戸 (12.2%) (iv) 1950年以 降現在 までに移住 して きた家族

--

- 49戸 (12.7

%)

以上か ら,ベガ村 の総戸数 は第二次大戦後急激 に増加 してお り,また他 町村 か らの移住者家 族 (iii)および(iv)が総戸数 の25% に達 してい ることがわか る。 これは戦後 の疏菜作の発 展 と パ ラレル に進行 して い る。 1960年セ ンサスによれば,ベガ村 の人 口は2,041人 (男1,052人,女989人) で あ った。 調査 時点では,総 戸数386戸 に対 し人 口は約2,800人 と推定 され る。全 体 の2割 にあた る87家族 の サ ンプ ル調査か ら,性別 ・年齢別人 口ピラミッ ドを図2に示 した。平均家族規模 は約8人であ る。 とりわ け20才未満 の人 口が多 く,全体 の66.4%を 占めてい る。25才か ら35才の年齢層 はや や少 な く,人 口構成が 「ひ ょうたん型」状 にな っている点 も興味深 い。 70人 60 50 40 30 20 LO O 10 20 30 40 50 60 70人 図 2 ベガ村年齢別性別人口数 (1972年10月,20%サンプル調査)

(4)

嘉 田 :フィリピンにおける企業的農業成 立のメカニズム 表 1 ベ ガ 村 世 帯 主 別 職 業 構 成 (1972年10月現在) 世 帯 主 の 職 業 . 戸 数 』 割 合 % 農 業 農 業 賃 労 働 者 公 務 員 運 転 手 医 者 店 員 理 髪 業 無 職 (未亡人)

3 2 2 2 1 1 1 4 0 7 3 4 7 5 5 3 3 3 0 8 8 0 0 ハU ハU nU 1 7 1 次 に表1に世帯主 の主 た る職業 内容 を示 した。 農業 (303戸--これには 自作農,小 作農, お よび在村地 主 の全階層 を含 む) お よび 農業賃 労働者5)(72戸) の占め る割合 が 圧倒的 に高 く, 両者 で全 体 の

9

7

%

以 上 を 占め る。他 は公 務員,運転手 な ど (計

1

1戸) ご くわずかで あ る。 とこ ろで,全 体 の約

2

割 の農 家 は兼業 を行 な ってお り,雑貨店 の経 営 が

1

7

戸, トライ シクル (客運 搬用バ イグ) 運 転手 が14戸,漁 師が約40戸 とな って い る。 なお他 の中部ル ソ ン農村 で よ くみ ら れ る内職 や村外 - の 出稼 ぎはほ とん どみ られない。 ベガ村 落で はボガボ ン町 の中心街 に通ず る中央通 りお よび支線 の小路沿 いに家屋が密集 して お り,集村形態 を と って い る。 住 居 は, ヤ シの葉 と竹 で造 ったニ ッパ- ウスが大半 を 占め る (282戸,73% )が,近隣 の他 の農村 と比 べ ると木造(96戸,25%)やセ メ ン ト造 り(8戸,2%)の堅 固 な建物が比較 的多 いのが特徴 で あ る。 ラジオ は半数以 上 の家庭 にすで に普及 し

,1

9

6

7

年 に電 気 が入 って以 来 テ レビは村 内で20台 を数 えて い る。 これ らの生 活水 準 の高 さは, ベガ村 が疏菜 作生 産 を中心 に発 展 して きた ことと密 接 に関連 して い る。住民 はカ トリック教 を信奉 し,言語 は タガ ログ

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語 を使用 して い る。 また,全 世帯 主 の うち

9

割が

4

年 または

6

年 の初等 教 育 を受 けて お り, この うち高等学校 卒業者 は28人,大学卒業者 は9人 を数 え る。 しか し,村 内で十分 な英語 を話せ る者 は ご く限 られて い る。6) 最後 に, ベガ村 の土地 所有状 況 を表 2に よ って観 察 してみた い。 これを土地 所有規 模別 にみ る と

,5ha

未 満 が

6

1

人 にのぼ り全土地 所有者 の約

7

割 を 占めて い る。 この うち在村 自作農 は 43人で あ る。在郷地 主 (ボガ ボ ン町 の中心街 に住 み, ベガ村 の土地 を所有 す る地主) お よび不 在地 主 (町外 お よびマニ ラ近辺 の他州 に住 み,ベガ村 の土地 を所有す る地 主) の場合 は,在村 5) ここでの農業賃労働者とは, 特定の農作業, 例えば田植えや収穫あるいはタマネギ作の除草などに雇 用され,日当賃金を受けとる農業労働者をさす。 6) タガログ語は英語とともにフィリピンの公用語となっている。 調査に際 しては,部分的に通訳を利用 したが,農民への面接の際はしばしばタガログ語を用いて行なった。

(5)

東南 ア ジア研 究 11巻3号 表 2 ベ ガ 村 規 模 別 土 地 所 有 者 数 在村 (村内)地主 在 郷 地 主 面軽規模_(垣 ) ∼ 5 5 /- 10 10- 30 30.-.100 100以 上 不 明 計 手作り地主 人 7 10 3 1 冒 作 農 43人 i 躍 ら(諾 覧 完)i 人 7 3 2 1 i 13 注 :ボガボン町農地改革事務所資料より筆者 らが分類作成 した。 人 4 一 1 1 1 L 計 人 1 3 6 3 1 1 6 1 地 主 よ りも平 均土地 所有規 模 は大 とな って い る。 また,在村農民303人 中土地 を所有 して い る 者 は65人 にす ぎず, 残 る 238人 は全 く土地 を所有せず, 雨期 また は乾 期に (あ るいは雨期 と も)小作農 と して農 業 に従事 して い る。 なお地 主小作 関係 につ いて は次項 で述べ る。

ベ ガ村 の農業 経 営 と読莱作 の特色 (1) 土地 利用 と農事暦 農 業経営 の性格 は土地 利用 や農事暦 に 大 き く反映 され る。 そ こで まず, ベガ村 の土地 利用 を, 図3に よ って説明 して み る。 これは,総研地面積 に対 して乾雨期別 に作付 され る割合 を作 物別 に示 した もので あ る。雨期 には水稲 が全面積 の70% を 占め,乾期で はタマ ネギ およびキ ャ ベ ツ (以下 本稿 では この両作物 を 単 に疏菜 とよぶ) がそれぞれ約25%作付 されて い る。 雨 期 で はそれ以 外 に トウモ ロコシが10%,乾期 には稲 の二期作 が5-10%とな って い る。 いず れに して も,疏 菜作 の存在 によ ってベガ村 の土地 利用度 はか な り高 く, 多 くの フ ィ リピン農村 が雨 期稲作 の一 毛作 にす ぎないの と対照 的で あ る といえ よ う。 (A)而 嗣 (B)

斯 図 3 ベガ村における土地利用の概況

(6)

日 タ イ プ'Ⅰ タ イプ'Ⅰ タ イ プ Ⅱ タ イ プ Ⅳ タ イ プⅤ 東 田 :フィリピンにおける企業 的農業成立のメカニズム 5月 6 7 8 9 10 日 12 1月 2 5 4 5 両 朗 乾 期 S T 7K 稲 H S T トウモロコシ H S トマト又は休

閑T

タマネで又は キャへ、ッ 白色タマネギ キやで ツ H フJく栢 (在来品種)

H

H S T 水 桶 図 4 ベガ村における農事暦の諸類型 注 :1) S,T,H,はそれぞれ播種,田植えまたは移植,収穫を示す。 2) 面接 した20サ ンプルを筆者が類型化 した。 この ことは農事暦 に も明確 にあ らわ れて い る。図 4はベガ村 で代表的 にみ られ る農 事暦 の 具 体例 を示 した もので あ る。 図中, タイプ Ⅰは雨期 の水稲 の あ と乾期 に疏菜 を作付す る最 も一般 的 な もので, Ⅱ および Ⅲは乾期 の疏発 作 を中心 に して作付 され る形態で あ る。 タイプ Ⅳは, 疏莞 作が導入 され る以 前 にみ られた水稲 の一毛作 を示 し (現在 で も一 部で み うけ られ る), 棉 は在 来 品種が作付 されて い る。 タイプVは水稲 の二期作 の例 で, 乾雨期 と もに成熟期問 の短 い 高収 量品種 が用 い られ る。 次に, タイプ Ⅰを例 に と って稲作 と疏発作 の耕 作法 につ いて述べ てみ よ う。 疏菜 の収穫 後, 水牛 または トラクター賃耕 に よ って耕 起 ・砕 土がな され る。 粗 を

6

月に播 種 し,7月 に は田植 えが乱構法 で行 なわれ る。 肥 培管理 と しては施肥 と水利調節 が 中心で,除草 や殺虫剤投与 はほ とん ど行 なわれていない

。1

0

月か ら

1

1

月 にか けて刈取 りが行 なわれ る。 脱穀 は大型脱穀 機 を質 借 りして な され るが,一 郎 の農民 の間で は手作業 に よ る脱穀 が行 なわれて い るo 田植 え と刈 取 りは慣 習的 に雇用労 働力 に依存 し, カ ビシ リアkabisilyaとよばれ る請 負 い親方 にひ きい られ た賃 労働者 が これ らの作業 を行 な う0-万,圃場 ・苗代 準備過程 は農 家間 の労働 力交換 でな さ れ ることが多いo 水稲 の収穫 後す ぐ,

1

1月 には疏菜作 のた めの圃場整備 が行 なわれ (トラク タ一貫耕 または水 牛利用),12月に入 る と播 種 され る。 タマ ネギ の場合 は播 種機 が使用 されて い る。 やがて一 カ 月後 には移植 され,4月 かち 5月 にか けて収穫 され る。疏菜作 において は, ことに施肥 および 薬剤散布 が必要不可欠 で, キ ャベ ツの肥 培管理 には ことに注 意が払 われ る。 タマネギ耕 作法 の 中で除草 は特 に重要 で, 大鼠の賃労働者 が雇用 され, 数 回にわた って行 なわれ る。 この よ う に,両統発作 ともに労働力需要 は水稲作 よ りもは るか に大 きな もの とな って い る。 (2) 稲作 お よび疏菜作 にお ける生 産 関係 地 主小作制度 が村落社会構造 の基軸 とな って い る中部ル ソ ン農村 において は,一般 に,生 産

(7)

東南 アジア研究 11巻3号 をめ ぐる地主小作間の一定 のルールが確立 されてい る。7) この点 につ いてベガ村で の事例 を と りあげてみ よう。 まず雨期 の稲作 では, 従来分益小作 関係 が一般的で あ った。 これは粗収益 か ら特定の経費を控除 した残余 を地 主 と小作問で折半す る方式 で ある。 この場合,地主 は種子 代 ・田植労賃費 ・肥料代等 をたてか え,小作農 は 自己および家族労働 を提供す る。経営の決定 権 は地主側 にあ り, 日常生活面で も地主 が絶対権力を握 っていた といわれ る。 ところがボガボ ン町が土地 改革実施 区域 に指定 されて以後,稲作では新たに定額小作 関係が増加 しつつ ある。 これは, 小作農 が地主 に対 して定額小作料 を 支払 い, 諸経費はすべて小作負担 とな るシステ ムで ある。 調査時点で はベガ村 の分益小作農 は40人,定額小作農 は 92人,そ して手作 り地主 を含む 自作農 は65人 であ った。 稲作 の 場 合, -農民 当 り平均耕作面積 は 約 3haとな って いる。 疏菜作 の場合 には, ベガ村独特 の生産関係がみ られ る。 それは地主 と小作農 の間に中間地主 的性格 を もつ 「企業的経営者」8) とで も呼べ る経済主体が存在す るためで ある。 これを図5に ょ って説 明 したい。企業的経営者 は地主か ら土地 を定額借地 し, これを小作農 に耕作 させ る。 この場合,地主が 自 ら企業的経営者 と して機能 す る事が しば しばある。在村地主 の場合 はほ と ん どそ うで ある。 この企業的経営者 は疏菜作 に必要 な肥料,殺虫剤,種子等 を含むすべての経 費を負担す る。他方,小作農 は彼 の指揮 の もとに 日常的肥培管理 に従事す る。両者 は先 に述べ (経 済 主 体J

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〔除草,移値,llヌ稽〕 図 5 ベガ村疏実作における生産関係概念図 (筆者作成) 7) この地主小作関係については,高橋 彰 『前掲書』1965などに詳 しい。 8) 中部ルソンの米作地域では, ナムムイサン Namumuisanと呼ばれる中間地主が存在 し, 階層上の地 位はこの 「企業的経営者」と類似する。 しかしながら筆者は,ベガ村疏菜作のもっ企業的性格からあえ て区別 して使用 した。

(8)

嘉 田 :フ ィ リピンにおけ る企業 的農業成立 の メカニ ズム た分 益小 作 関係 で結 ば れ, 経 費 を さ し

い た純 収 益 が折 半 され る。 疏 菜 作 で は除 草 や収 穫 時 に は大 量 の労 働 力 が必 要 とな り, 企 業 的経 営 者 は この農 業 賃 労 働者 に対 して も請 負 い親 方 を通 し て賃 金 を支 払 う。 以 上 , 疏 発 作 経 営 に み られ る 生 産 関係 は, 地 主 ・企 業 的経 営 者 ・分 益 小 作 農 ・農 業 賃 労 働 者 とい う主 要 な四 つ の階 層 か らな り, そ れ ぞ れ が土地 ・資 本 ・日常肥 培 管 理 ・ 労 働 力 とい う要 素 (ま た は機能 ) を提 供 す るので あ る。 (3) 収 益 性 の比較 次 に,主 要 作 物 別 の収 益 性 につ いて検 討 す る。 表

3

は,水 稲 , タマ ネギ , キ ャベ ツに つ いて そ れ ぞ れ の

ha

当 りの収 益 を

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9

71

-

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7

2(

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は作 物 年度 ) の 十数 例 のデ ー タを も とに試算 した もので あ る。 水 稲 で は, 粗 生 産 高か ら種 子 代 , 肥 料代 等 を さ しひ い た純 収 益 は

3

6

カバ ン9), 約 900ペ ソ (調 査 時 点 で 1ペ ソは

4

7

円)とな る。 同 様 に して タ マ ネギ の場 合 は 5,300ペ ソ, キ ャベ ツで は 5,100ペ ソ とな って い る。 つ ま り, 疏 菜 経 営 は稲 作 に 比 べ る と約 5倍 の純 収 益 を もた ら して い る。 しか しな が ら, 疏 菜 作 で は投 下 流 動 資 本 額 が 大 きい こ と, ま た収 量 や 価 格 の変 動 幅 が 大 きい た め, この不 安 定 性 に 対 す る危 険負 担 が経 営者 に 要求 され る こ と も事 実 で あ る。 (4) ベ ガ村 で の疏 発 作 経 営 の特 色 以 上 , ベ ガ村 の農 業経 営 は疏 菜 作 を軸 と して行 な わ れて い るので あ るが, こ こで そ の特 色 を 表 3 主 要 作 物 別 収 益 性 比 較 (試算) (ha当り) l 水 稲 . タ - ネ ギ 2 キ ャ ベ ツ ・ 粗 収 益 1 種 子 代 肥 料 代 Ⅱ _ _ 一一 費 用 項 冒 殺 虫 剤 費 雇 用 労賃 支 払 額 田植えまたは移植 除 草 収 穫 150 「 420 ; 160 100 ' 500 】 600 200 100 トラクタ 賃耕費,その他 _L 100 ・ 170 計 純 収 益 (Ⅰ- Ⅱ) 7,500ペソ 30 1,000 注 :1) 筆者面接の20サンプルより平均的なものをとりあげ作製。 2) 水稲は 1カバ ン-25ペソで換算 した。 3) 固定費 (地代,資本利子,機具減価償却費など)は除かれている。 4) 1971年および1972年度の価格を基準 とした。 9) 1カバ ン (Cavan)は籾米

4

4k

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に相 当する。

(9)

東 南 ア ジ ア研 究 11巻 3rrす い くつか指摘 してみた い と思 う。 まず,従来稲 作で支配 的で あ った分 益小作形態が,企業的経 営者 とい う独得 の経済 主体 を包含 した形 で疏発 作経営 に と り入 れ られて い る事 に注 目 したい。 他方,疏実 作 は次 にあげ る近代 的経営 と しての特色 を持 って い る。 第- は

,

播種機や トラクター な どの機械力がすでに導 入 され,濯瓶 用 ポ ンプや運搬用 ジー プ の利用度 は大 きい。 また,化学肥料 や殺虫剤 の投入が稲作 よ りは るか に大 き く,疏菜作が資本 集約 的で あ る ことを示 して い る0第二 は

,雇用

労働 に対す る依存 度が比 較的高 く,村 内の労働 力需要 を大 き くして い る。第 三 は,疏菜作経営 の主 目標 が利潤追求 におかれ,生 産物 は完全 に 商 品化 されて い ることで あ る(、 これは稲作経営 がほ とん ど 自給用で あ るの と対雌的で ある。 最 後 に,疏莞 作経営 において はよ り高度 の経営者能 力が要請 されてい る と言 え るだ ろ うo作物 お よび晶種 の選択,生 産か ら販売 に至 る経営行動 の対象額域 の広 さ,肥 培管理 にお け る計画性 な どは,稲作 に比べ る とよ り大 きな企業 的努 力 を必要 とす るので あるO 以 上 の諸点 は, ベガ村疏菜作 が 「企業的」性格 を多分 に備 えて い る ことを示 して い る。筆者 が先 の中間地 主 と して の 主体 を企業 的経営者 と名づ けた理 由 もそ こに あ る。 なお,参考 までに現地 で面接調査を行 な った約20人の ベガ農 民 の

か ら,す でに述べ た とこ ろの企業 的経営者 お よび分益小作農 の二人 の事例 を とりあげ, それぞれの疏菜作経営 の実例 と その歩 みに関 して次 に紹介 したい と思 う。

企業 的経 営者 の事例

Mr.Valen Santiago (1934年 ベガ村生 まれ,38才,以 下バ レンと称す る) は38才 の妻 と子 供6人 の8人家族 の 主人で あるO 家屋 は堅 固 な 木造2階 建で,1967年 に15,000ペ ソを投入 して新築 した ものであ る。 家系 は村 内で も古 く, 祖父 の代 か らベガ村 に 住 みつ いていた とい う 。 バ レンは, カバ ナ トゥア ン市 の高校 を卒業後,1953年 にベガ村 に もど り,19才か ら農業 に従 事 し始 めた。 は じめは在村地 主 の もとで分益小作農 と して,雨期 に稲作,乾期 に疏菜作 を行 な った。 この小作農時代 は約5年間続 き,年平 均1,000ペ ソか ら1,500ペ ソの所得 (分益) を得 て少 しずつ資力を貯 えて い った。 24才 の時,貯 えた資金の中 か ら農地 0.5haを600ペ ソで購 入 し, 自力で タマ ネギ経営 に着手 した。3年後 には 3ha,1965年 には隣村 の農地 を 4ha, そ して1968年以 降 は毎年 のよ うに数 haずつ農地 を購 入 し,経営 面積 を拡大 して きた。 調査時点 での総 所有地 面積 は 20haに達 して い る。 彼 が莫大 な資金 を 必要 とす る この上地購入 をな し えたのは, 自立後 の疏菜作経営 で着 々 と成功 した ことを示 して いるo現在 の彼 は,図 5中の地 主兼企業 的経営者 と して位 置づ けされ る。 彼 の よ うな疏菜 作 での成功例 は, ベガ農 民 の中で も 決 して少 な くない。10) 10) 分益小作農から出発し, その後自立 して企業的経営者となった者は, ベガ村で現在約20人にのぼる。 これはベガ村での総企業的経営者数約45人の半数に達する。

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窪田 :フィリピンにおける企業的農業成立のメカニズム 表 4 バ レ ン の 農 地 購 入 一 覧 表 農業を開始 してか らの 延べ 年数 0年 1958 5 【 0.5 ; 0.5 1 1965 12 4.0 1968 15 3.∩ 1971 18 3.0 〟 〃 2.0 1972 19 Macapulo (ベガ村) Macapulo ( 〃 ) Tingga (リサール町) Macapulo (ベガ村) Pasig (ボガボン町) 600 (1,200) 3,600 (1,300) 5,000 (1,300) 15,000 (5,000) 20,000 (4,000) 22,000 (7,500) 10,000 (5,000) 備 考 在村地主のカサマとして5年間 タマネギ,キャベツ作に従事。 タマネギ経営を開始。 rポンプ2台設置。以後, 毎年 1 1 台ずつ設置 し現在 6台を有す。 バ レンの農 地 購 入 の歩 み を表4に示 した。 わず か20年 間 に いか に 土地 所 有 を拡大 して きたか を知 る ことが で き る。 ま た, この表 か ら次 の特徴 を指摘 す る こ とが可能 で あ る。 (1) 農地 購 入 の拡大 は, 彼 の場合 疏 菜作経 営規 模 拡大 の方 向で 進 んで きて い る。 特 に1965 年 以 降 の増 加 が著 しいが, この時 期 は ベガ村 の 疏 菜 生 産 が急 速 に 進 展 した時期 と一 致 して い る。 (2) 彼 の 土地 購 入 は, 初 期 は まず ベ ガ村 内が 多 く, や が て 隣接 町 村 へ と外 延 的 に拡大 して い る。 表 中ベ ガ村 内 6ha- リサ ール 町11)4ha- ボガ ボ ン 町 の 他 村 10haと 変 化 して い る。 (3) 農 地 購 入 年度 が近 年 に近 づ くにつ れて そ の農地 価格 が上 昇 して お り, これ は ボガ ボ ン 町 周 辺 の農 地 需 要 が高 ま って い る こ とを背 景 と して い る。 ま た, ブ イス buwisと呼 ば れ る定 額 借 地 料 も近 年 上昇 傾 向 に あ る。 バ レンは6台 の揚 水 ポ ンプ を所有 し, 自己経 営地 で使 用 して い る。 最 初 の購 入 は1965年 で 2台設 置 した。 近 年 で は毎 年 の よ うに1台ず つ購 入 し経 営地 - と投入 して い る。 1968年 に は 6,500ペ ソで ジー プ を購 入 し, 疏 菜 生 産 物 や農 業 資 材 の運搬 に供 して い る。 自宅 に は テ レビ, ス テ レオ, 応 接 セ ッ ト等 が な らべ られ, 新築 した家 も立 派 で あ る。 す べ て ここ5年 間 に購 入 し た もの ばか りで あ る. 疏 菜 作 経 営 で儲 けた金 は,土 地 購 入 や農 業 投 資 に大 半 をむ け るが ,一 部 は これ ら耐 久 消 費財 の購 入 に も使 うとい う。 ll) ボガボン町の北西に隣接するヌエバ ・エシ-州のひとつの町 Municipalityである。

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東南 アジア研 究 11巻3号 表 5 バ レ ン の 農 業 経 営 一 覧 表 .敵 い… 1哲 港鶴の 区 :(行政区域) l 1 10hit ;(ボガボン町) 6ha l ; (ベガ村) 1 41la 状 況 ! 自然 と 水 り入れ ! 港翫 水 ポンプ 涯翫 ポンプ 搾巨概 CY 1971-72 . t ‥ - II :I_ 水 稲 3 ha トウモロコミ/ 3ha トウモロコシ;4ha:2人 400ペソ/hll タマネギ(良) 3ha:5人 :800袋/ha 次 に, バ レ ンの 197ト 72作 物 年 度 の農 業 経 営 状 況 を みて み た い。 表 5は, 彼 の経 営地 に お け る雨 期 乾期 別 の経 営 内容 と粗 収 益 を示 した もので あ る。 まず 雨 期 (Tag-ulan)に は, 水 稲 を計 13ha.作 付 し, この うち 7ha は 自己耕 作 に よ り, 他 の 6Ilaは 3人 の カサ マ 12)(分 益 小 作 良 ) に耕 作 させ た。 な お稲 はす べ て 高 収 量 品 種 の IR-20を作 付 し,平 均 収 量 は約 70カバ ンで あ った 。残 る 7haは同

3人 の カ サ マ に トウ モ ロ コ シを植 え させ て い る。

乾 期 (Tag-araw)は疏 実 作 が 中 心 で あ る。 まず タマ ネギ は計 9.5haを14人 の カ サ マ に, キ ャベ ツは 3ha を 7人 の カサ マ に耕 作 させ た。 ま た

A

地 区 で は二 期 作 目の稲 (dayatan)13)を

3人 の カサ マ が作 付 した。 バ レ ンは これ らす べ て の カサ マ の マ ネ ジ ャー と して経 営 管 理 を行 な った わ けで あ る。 粗 生 産高 は, そ れ ぞ れ表 中 に示 され て い るが, 収 穫 した赤 色 系 タマ ネギ の う ち全 量 の約 三分 の一 が ボガ ボ ン町 の冷 蔵 施 設 に貯 蔵 され, 1972年 の 9月 頃 に高 値 で 販 売 した と い う。14) バ レ ンの農 業 経 営 か らの年 間所得 を, 改 良 普及 員 の意 見 を参 考 に して 筆 者 が 推計 した と ころ 約 35,000ペ ソ とな った 。 この数 値 は村 内で も最 高 所得 に ラ ンク され る。 この うち大 半 は次 年 皮 - の投資 , ポ ンプ や農 地 の購 入 にむ け られ て い る。 な お彼 の場合 銀 行 預 金 は な い が, 一 郎 を 町 内 の 中 国人 商 人 に預 けて お り, 疏 菜 作 に必 要 な種 子 や肥 料 な どの先払 い に使 って い る。 中

人 商 人 との結 び つ きは深 い。 最 後 に, バ レ ン と彼 の カ サ マ達 との 関係 につ いて触 れ て お こ う。 表 5 A地 区 の3人 の み が 12) カサマ Kasamaとはタガログ語でい う仲間の意味. 地主 と小作人はお互い同志を カサマ と呼びあう ところか らきている。本論文では分益小作農に限 って使用 した。 13) フィ リピンでは, 凍鶴条件 さえ整えば, 一般にはこのダヤタ ン作 (乾期の稲作)のほうが収量が高い といわれている。バ レンの例で数値が低いのは,強風に倒されたためであるという。 14) 1972年の赤色系タマネギの卸売価格は, 収穫期の 3月には約24ペソであったが, 8月か ら9月にかけ ては52ペソか ら64ペソ (それぞれ 1袋,22kg 当りの価格) となっている。

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厳 刑 :フィ リピンにおけ る企業 的農業成立 の メカニ ズム ボガ ボ ン町 中 L、街か ら来 て い るが,他 のカサマ はすべてベガ農 民で あ る。 また彼 は, カサマ1 人 当 り300ペ ソか ら800ペ ソの現金 を貸 し与 えて お り, これは収穫 時 の分益か ら利子 な しで控 除 され る。米 の必要 なカサ マには彼 のス トックか ら貸 し与 え,玄米 1カバ ンにつ き籾3カバ ン で返済 させて い る。 大半 の カサマ は何 らか の借金 (utang)を持 ち, 彼 の カサマで 自立経営 に 乗 り出 した者 はいないo この よ うに,バ レン (企業 的経営者) とカサマ達 (分益小作農) の関 係 は, 日常 的 に接す る度合 いが大 き く,豊作時 な どは酒宴 を設 けた りして非常 に緊密 で あ ると 語 って くれた。

分益小作農 の事例 次に分 益小作農 の-事例 と して,Mr.CarlosMarcelo(以下 カル ロス と称す る) の ケース を紹介 して み よ う。ベガ村 にお ける分益小作農 には, 雨期 の稲作 と乾期 の疏 発作 の両方 に小 作 農 と して耕作 に従事す る場合 と, 乾期 の疏発作 だ けに従事 し雨期 には農業賃労働者 と して賃金 を得 る農 民 の, 二つの タイプが含 まれ る。 前者 のほ うが後者 に比べ ると小 作農 と しての地 位 は 固定的 ・安定 的で あ り, また一般 に農 業収入 も多い。 ここで紹 介す るカル ロスは前者 の タイプ に属す る。 カル ロスは1932年 ベガ村 で生 まれ,妻 と7人 の子供 の計9人 家族 で あ るO家屋 は約10年前 に 1,500ペ ソを投 じて作 った とい う木造 の二階建 で あ るが, 一階 は物 置 きに使 って い る。彼 はベ ガ村小学校 を出たの ち,12才 ごろか ら父 の農 作業 を手伝 うよ うにな った。 キ ャベ ツ栽培 が この 村 で開始 され るよ うにな った頃に, 農 業賃労働者 と して 収穫 時 な どに働 いた 記憶 が あ るとい う。 だが本格 的 に農業 に従事 したのは彼 が19才の時 で, あ る在村地 主 の もとで 2.5haの水 田 耕 作 を開始 し,以 来21年 間 この関係 が続 いて い る。 さ らに1965年 には,他 の在村地 主 の分 益小 作人 と して lha足 らずの タマ ネギ作 に着手 した。 また1971年 か らは, さ らに別 の在村地 主 の もとで キ ャベ ツ耕 作 を開始 した。 さて, カル ロスの これ らの農業経営 の実態 を,1971-72作物年度 の例 を とって示 したのが表 6で あ る。彼 はベガ村 内の3地 点 にお いて, それぞ れ異 な る3人 の地 主 の もとで分益小 作 して い る。 表 中,A地 区 では雨期 に稲作 を行 ない,2.5haか ら100カバ ンの籾 を収穫 し, その う ち40カバ ンの分益 を得 た。 乾期 は水 が得 られないた め休 閑 と した。

B

地 区 で は 0.75ha・に対 して雨期 には トウモ ロコ シを作付 し,租生産

高は

300ペ ソ,分 益 と して100ペ ソを得 た。15)乾 期 には タマ ネギ を作付 し, 分 益 と して700ペ ソを受 け とった。C地 区 にお いて は雨期 には トウ モ ロコ シ, 乾期 にはキ ャベ ツをそれぞれ 0.5ha作付 し, 約1,600ペ ソの分益 を得 て い る。16) 15) ベガ村では, トウモロコシは畑か ら農民が収穫 して出荷するのではな く, pakyawとよばれる青田売 り方式で仲買人に販売される。 16) カルロスは, このキャベツおよびタマネギ作において, どのように費用および分益が算出されたのか 全 く知 らないというO ただ企業的経営者の言う分益を受けとるだけであり,-般的にも小作農はこれに 関与 しないようである0

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東南 アジア研 究 11巻 3号 表 6 カル ロスの農 業経 営一覧表

≡l

違鶴。有蓋 CabaSan (ベガ村) 2.5ha. 非港翫 T3arit (ベガ村) 0.75ha ポ ンプ有 Barit (ベガ村) 0.5ha ポ ンプ有 (地主の居住地

)

Mr.Ruperto Vilar (ベガ村) Mr.Stevan Lucas (ベガ村) Mr.Marcclo Cudia (ベガ村) 作物 ・粗生産高 ・分益 水 稲 (在来種) 100カバ ン/2.5ha 分益-40カ バ ン ト ウ モ ロ コ シ 300ペ ソ/0.75ha CY 1971-72 乾 期 (左 に同 じ) 休 閑 白色 系 タ マ ネ ギ 240袋/0.75ha. 分益-100ペ ソ 分益-700ペ ソ ト ウ モ ロ コ シ キ ャ ベ ツ 200ペ ソ/0.5ha 25,000kg/0.5ha 分益-70ペ ソ 分益-1,600ペ ソ 以 上か ら,彼 の この年度 の純収入合計 は,籾 米40カバ ン以外 に現 金 で約2,500ペ ソを得 た こ とにな る。 すで に述 べ たよ うに, カル ロス は3人 の地 主 の もとで以 上 の よ うな分益小作 を行 な って い る が, これはベガ村 において は決 して珍 しい ことではない。 1人 の小作人 は, しば しば数人 の地 主 あ るいは企業的経 営者 との問 に 分益小作 関係 を持つ ので あ る。 ひ とつの理 由 と して, 雨期 (稲作) の地 主 と乾期 (疏菜作) の企業 的経営者 が同一で ない場合 が考 え られ る。 また, 1人 の小作農 の平 均耕 作規 模 が稲作 で は 2ha前後 で あ るのに対 し,疏菜 作で は 0.5haか ら 1ha にす ぎず, それゆえに,疏菜作 の ほ うが多 くの分益小作農 によ って耕 作 されて い る とい う点 が あげ られ る。 さ らには,米作 の場合 には地 主 が 固定的で あ るのに対 して,疏菜作 にお ける地小 作 関係 は比較 的流動的で あ る ことに も起 因す る。 例 えばカル ロスの場令,稲作 の地 主 Mr.R.

Vi

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とは

2

0

年余 り地 小作 関係 を保 って い るの に対 し, キ ャベ ツ作 の地 主

Mr

.M.Cudi

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と は この作物年度 だ けの関係 で,次年度 には他 の地 主 の分 益小作農 と してキ ャベ ツ作 を行 な うこ とにな って い るとい う。 つ ま り疏 菜作 の場合, 長期 にわた る連作 は収 量の低下 を招 いた り,経 営 に失敗 した地 主 は しば しば経営地 を変更 した り経営 その ものを中断す るので あ る。 それゆえ に,小作農 は他 の地 主 を求 め る結果 とな って い る。 最後 に, カル ロスの労働力投入 につ いて簡単 に触 れてお きたい。彼 は毎 日の よ うに田畑 に出 か けるが, これはカ ラバ オ (kalabaw)とよばれ る水牛 に餌 を与 え るた めで あ る。 主要 な作業 と して は,施肥,殺虫 剤投与,水 の見まわ り, 除草 が あ る。雨期 よ りも乾期 のほ うが忙 しく, とりわ けキ ャベ ツ作の ほ うが手 間がかか る。 そ して水稲 の収穫後 に行 なわれ る圃場 整備段階 に は,水牛 と農具 を もちよ り他 の小 作農 の農地 で旗債 の労働力 を提供す る。 これは一種 の労働力

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嘉 田 :フ ィ リピンにおける企業 的農業成 立 のメ カニ ズム 交換 で,彼 の場合 も苗代準備や キ ャベ ツ収穫 の際 な どにほ他 の数人 の小作農 に手伝 って もらっ て い る。 なお彼 は この年,地 主達 か ら合計500ペ ソの借金 を した とい う。 これ らは疏菜 の収穫 後, 彼 の分益 か らさ し引か れたが,利子 は要求 され なか った よ うで あ る。 ところで, フ ィ リピンにおいて は, ベガ村 の疏莞 作 にみ られ るよ うな企業 的農 業経営 は,甘 鳶 やバ ナナな どの輪 と侶酎斑晶作物 部門を除 けば限 られた範 鮒に しか成立 して いない。従来 の フ ィ リピン農 業研究 において も, こう した分野 の研 究が十分 に蓄積 されて きたわ けで はない。17) そ こで筆者 は, このベガ

疏 菜作が いか な る過程 とメカニズ ムで成立 したか につ いて, いわば 低 開発 国にお け る企業経営成 立史 の- 事例 と して次 に報 告 した い と思 う。 なお,以下 の記述 は ベガ村 での事例 を中心 に と りあげたが, ボガボ ン町全 体 の展開過程 につ いて もしば しば触 れて い る。 なぜ な ら,歴史 的 な発展過程 にお いて両者 は密接 に関連 しあ ってお り, きわ めて類似 し た経過 をた ど って い るか らで あ る。

ベ ガ村読菜作 の展開過程 ボガボ ン町 は,19世紀未 には ヌエバ ・エ シ-州 の州都 と して,林業 を主要 産業 と して栄 えて いた といわれ る。18)マ ニ ラ開港 と都市化 の進行 に対 応 して林業 はい っそ う進展 した。 さ らに副 産物 加工 と して炭焼 きが導 入 され,町 内に住 む有 力在郷地 主 は初期 の産業資本家 に成長 して い った と考 え られ る。 なお疏莞 作導入以前 のベガ村農 業 と して は,雨期 に米 を一 回作付す る一毛 作 が 中心で,乾期 の農地 は ほ とん ど遊休 状 態で あ った といわれ る。 1933年, ボガ ボ ン町 に住 む在郷地主 の一人 によ って フ ィ リピン最初 の タマ ネギ栽培 が導入 さ れた。彼 は農務 省 の農業技 師で あ ったので カナ リー諸 島か ら種子 を と りよせ,試験 的に栽培 を 始 めた といわれ る。 ご くわずか の面積 で の栽培 は成 功 し, やがて徐 々に大規 模 に作付す るに至 る。 数年後,彼 は他 の在郷地 主層 の友人達 に これを広 め, その収益性 の高 さが町 内で評判 をよ んだ とい う。 ただ し, この1930年代 か ら40年代 は ご く一部 の在郷有力地 主が採用 したにす ぎな い。1938年 には アメ リカか らタマ ネギ用 の播種機 が導入 され, 直播 によ る栽 培が開始 され る。 こう して徐 々に町 内の各村 - とタマネギ栽培が伝播 し, ベガ村 へ は1942年 に在郷地主 の一人 が 伝 えた。 キ ャベ ツ栽培 は,1945年 にベガ村 にや って きた宣教師 に よ って伝 え られた。彼 はキ ャベ ツ作 の先 進地 で あ るバ ギオ19)(ル ソ ン島山岳州 の中心地) か らや って きて, この地域 の 気 候 ・土 17) 甘庶農園の経営分析として次の書物が参考となるo Caintic,C・V・etaZ・,ManagementPraclz'cc∫,Co∫t∫

andRetu,nt∫ofSugarCaneFarm∫ inthe Vicloria∫Milling Di∫zric/. UniversltyOfthePhilippines,

CollegeofAgriculture,1962.

18) 「LumberlndustryinIjongabonJ1950,ボガボン町 の祭りの時につ くられたパ ンフレットの一部にこ の小論が記されている。著者は高校教師 Mr.E.a Angulsである0

19) マニラの避暑地として名高いバギオは山岳州に位置 し, 他方, キャベツを中心とした疏菓生産で有名 である。 ここでのキャベツ栽培はアメ 1)カ人によって試みられ,妻戟争中は日本人その後は中国人が受け

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東南 アジア研究 11巻3号 壊条件 がキ ャベ ツ作 に適 して い る と考 えた といわれ る。 数年後, この宣教師はベガ村 を去 りブ リカ ン州 - と移 住 したが, キ ャベ ツ作 は在郷 ・在村地主層 を中心 に受 けつがれた。 そ してベガ 村か ら各村 へ と伝播 して い った。

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年代 に入 る と次 の様 な転機 が訪れ る。第- は従来 の在郷地主層 に加 えて, 中 国人 が タマ ネギ作経営 に登場 して くるので あ る。町 内に住 む十数人 の中国人商人達 は, 商業 お よび農 産物 流通部門で実権 を握 って いたが,

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年代以 降何人か はタマ ネギ作経 営 を行 な うに至 る。 ベガ 村 に も二人 の 中国人が それぞれ

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前後 の タマ ネギ経 営 を 行 な うよ うにな った。 さ らに

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年 にはボガ ボ ン町 の有 力者達 の手 によ って,全 国 タマ ネギ生産者協 同組合20)が設立 され, フ ィリピン初 の タマ ネギ専用冷蔵施設 がマニ ラ郊外 に設 置 された点 は注 目され る(, もうひ とつ の転機 は, この時期 に港翫用 のポ ンプが導 入 された ことで あ る。 ポ ンプの普及 は

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年代 に入 ってか らで あ るが, ベガ村 に も

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年 に在郷地主 が初 めて これを使用 し疏菜生 産 を拡大 させ て ゆ く。

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年代 特 にその後半以 降, ベ ガ村 で の疏菜作活動 はい っそ う活発 とな って ゆ く。 それは一 連 の技術革 新が疏菜作 に もた らされた ことと,在村農 民 の中か ら企業 的経営者 と して数多 くの 在村地主 や 自作農層が疏菜作経営 に乗 り出 した ことを契機 と して い る。 まず揚水 ポ ンプが さ ら に普及 し,トラクターが圃場準備 に畜 力に代 替 して使用 され るに至 る。ジープが生 産物 の長距離 大量輸送 に利用 され,他 方

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年 にはボガボ ン町 に冷蔵施 設が在郷地 主 の手 で設立 され る。21) 経 営主体 に も変化 が あ らわれ る。 在郷地主 や 中国人商 人 が ベガ村 での経営か ら離 れて い く が,在村農 民 (と くに在村地 主 お よび在村 自作農層) が これ らにかわ って疏菜作経 営 を続 々 と

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年代 に開始す る。 この背景 につ いて は次節 で述べ るが,特 に

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年以 降,在村 の これ らの 経済主体 はい っせ いに疏菜作経営活動 に着手 したので あ る。前 出の二人 の農民 の事 例 で も示 さ れた よ うに, この よ うな疏菜作 の導入 か ら現在 に至 る過程 は,直接 ベガ農 民 の個人 の経営史 の 中に も反映 されて い る。 最後 に次 の二点 に触 れて お きた い。 まず

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年 にボガ ボ ン町が土地改革区 に指定 され, ベ ガ農 民 に も農業 改良普及 や農業資金 の融資 の道 が開か れた点が あげ られ る。22)もうひ とつ は,

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年 に米 の高収量品種が導入 され, ことに

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年以 降の普及 によ って稲作 と疏 菜作 の二毛作 化 が い っそ う進展 され,読菜作付面積 が大 いに拡大 された点で あ る。

読菜作発 展の担 い手 とその変遷 さて, こう した経過 の中で疏莞 作発 展がいか な る経済主体 によ って担 われたか について ここ 20) NOGROCOMA と呼ばれ, ボガボン町出身の前国会議員 Mr.J.Ilaganらが 中心 となって冷蔵施設 を設立 した。 しか しながら協同組合としての活動は低調である。 21) これはヌエバ ・エシハ州内では唯一のもので,注20)と同じMr.J.Ilaganの手で創設された。 22) フィリピンでの土地改革においては, 単に土地所有権の変更のみならず, 農業改良普及や農業信用の 面なども同時に推進する方向がとられている。

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養 田 :フ ィ リピ ンにおける企業 的農業成立 のメカニズム で整理 してお きたい。つま り

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雨作物別 に担 い手 と して登場 した 「経済主体」 に着 目 して若干 の分析 を試 みよ うと思 う。, この 「発展 の担 い手

と して位置づ け られ るのは,疏菜作 とい う新機軸 を 自己経営 内に導入 し,危 険負担 を覚悟 の上で企業的経営 を推進 して きた主体で あ る。図 5中で言えば,企業的経 営者層がそれに相 当す るで あろ う。地 主層 (特 に疏菜作経営を行 なわない不在地主 の場合) は 農地 を提供す る機能 は もつが,経営には直接関与 しない。 また分益小作農層 の場合, あ くまで 企業 的経営者層 の指導下 にあ り,受動 的で しかなか った。 それ ゆえに,ベガ村 の疏菜作 を成立 させて きたのは企業的経営者層 にはか な らない。発 展史 の上で は,疏葉作 を初 めて この地域 に 導入 した農業技師 〔先駆者〕 と, その革新 を 巧みに 採用 し疏菜生産を拡大 して きた 企業家達 〔採択者群〕 の両者 が これに あた る。 とりわ け後者 の採択者群 は, 革新採用 の量的 ・機能的側 面か ら判断す ると, この発 展過程 の主要 な担 い手 とな った。 こうした考 えを前提 と して, ボガ ボ ン町 およびベガ村 の疏菜作発 展の担 い手 とその変遷 を模 式化 したのが図6で ある。 まず図申 (A)のタマネギ作 の場合 か ら, 各主体別 にその主要活動 時期 および場所 (ベガ村 内あるいは村外), そ してその機能 につ いて次に類型化 してみ よ う。 A-1 (技 術 者) 村 外

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1930年代 中頃 A-2 (在 郷 地 主 層) 村 外

-

1940- 現在 村 内 - ・1945- 196523) A-3 (中 国 人 商 人) 村 外

-

1950- 現在 村 内

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1960- 196524) A-4 (在 村 地 主 層)

内 - 1950′- 現在 村 外 - 、1965/- 現在 A-5 (在村企業的経営者層) 村 内

-

1960- 現 在 村 外

-

1965- 現在 革 新 初 期 採 用 採 用 普 及 以 上 のよ うに, ベガ村外 で始 ま ったタマネギ作 は,やがて A-2および A-3を中心 にベガ 村 内へ と伝播 され,A-4が これを受 け継 いだ形 とな ってい る01965年以 降は, A-4および A一一5とい うベガ在村農民 の手 に担 い手 の中心が移 行 して きたので ある。 そ して これ らの 主体 23) ある在郷地主の場合, 家屋の新築のための費用, および孫のアメリカ留学の資金のために土地を売却 し,経営から遠ざかったといわれる。 その他 不作による損害のためベガ村の経営を放棄 したなどの理 由があげられる。 24) 中国人商人は数年ごとにタマネギの経営地を変更 してゆくことが多 く, 二人の中国人は1960年代半ば にして他町に経営の中心を移動している。 中国人によれは タマネギの連作は地力の低下を招 くので, 経営地を次々と変えるのであるという。

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東南 アジア研 究 11巻3号 A-

5

経営

在村企業的 (A)タマ ネギ 作 の場 合

A-

2

在郷 地主屈 A一

・匹

- - -(時 間 の経 過) E930 1940

正二

(B)キ ャベ ツ 作 の 場 合 1950 】960 1970 初 期 採 用 B-4 在村地 壬磨 在村企 業的 経 営 者 磨 採 用 普 73 過 程 こ ; - て (時 間 の経 過) L950 L940 1950 1960 1970 〔至:瓦〕 ⊂ = 亘:≡:≡工⊃ ⊂ 二 二三= 図 6 ベガ村疏菜作発展の 「担い手」の変逮 (模式図) 注 1) この図は,各経済主体の活動の推移を示す模式図である。図申,実線は ベガ村内で経営活動がなされた場合,そして破線はベガ村以外で活動がな された場合を示 している。 2) 実線および破線に関して,一本が一定量の主体をあらわすわけではな く, 活動の有無を示すのみである。ただ し,ひとつの主体がその線の本数を増 す場合は (例えばA-5,B-4など),その活動が増加 したことを相対的に 示 している。 3) 矢印の先端は,その時点まで経営活動が行なわれたことを示 している。 なお横軸は時間の経過 (T)を示 し,西暦を単位としている。 は今 や ベガ村 内に とどま らず, 隣接農村 へ と進 出 して経 営 を行 な うに至 って い る。 なお A-1 か ら

A-5

- の各主 体 の移 行 は, 革 新 - 採用 - 普及 とい う過程 の中で進 んだ ので あ る。 同様 に して, 図 中 (B)の キ ャベ ツ作 にお け る担 い手 の変遷 を次 に類 型化 して み よ う。 B-1 (技

者) 村 内 - 1940年代 後半 B-2 (在 郷 地 主 層) 村 内 - 1950- 1960 村 外 - 1950- 1965 B-3 (在 村 地 主 層) 村 内 - 1950- 現 在 村 外 - 1965- 現在 B-4 (在村企 業 的経営者 層) 村 内 - 1960- 現 在 村 外 - 1965.- 現在 -・・・・「革 新 弓 -- 初TllJ巨 7-':=! 採 用 普 及

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嘉 田 :フ ィ[)ピンにおける企業 的農業成 立のメカニズム すでに示 したよ うに, キ ャベ ツ作 はベガ村 内で開始 された。 そのためB-2 と B-3はほぼ 同時期か らキ ャベ ツ作 に着手 してい る。 本格的 な普及 は1960年代 に入 ってか らで, とりわ け 1965年以 降の B-3および B-4の台頭 によ って急速 に拡大 されて いる。 B-3 と B-4は在 村農民であ り,現在 のベガ村でのキ ャベツ作経営 の中心 とな ってい る点 は, タマネギ作 の場合 と同様の傾 向を示 して いる。 ここで,図6の類型化か らい くつか の特徴点 を拾 い出 してみ よ う。 まず第- に,両 作物間で の担 い手 の出現順序 がかな り類似 して いる点 に気 づ く。差異 といえば,キ ャベ ツ作 において中 国人商人が登場 していない とい う事で ある。 つま り両作物 ともに,技術者 のあ と在郷地主が採 用 し,続 いて在村農民が追随す るとい う形 を とってい る。 この ことか ら,社会経済的 に高 い階 層 にある者 ほど資本力 を有 し早 い時期 に疏菜作 を採用で きたのではないか と考 え られ る。 第二 は, 中国人商人がキ ャベツ作 に関与 しなか った点で ある。キ ャベ ツ作 は肥培管理 に手 間 がかか り,企業 的経営者 は分益小作農 と密 接に協力す ることが要求 され る。 また流通上 での利 益 はタマネギ作 のほ うが よ り大で あることが, 中国人商人 をタマネギ作 に特化 させ た理 由で あ る といわれてい る。 第三は,1965年以 降ベガ村 内の在村地主 および企業的経営者 が,両作物 ともほぼ同時期 に急 激 に活動を増加 してい る点 である. この背景 とな った諸条件 については次節 で述べ るが,一般 に一人 の企業的経営者 (例 えばバ レンの事例 な ど) は両作物 を同時に組み合 わせて経 営を行 な う傾 向があ り, この ことが一因 とな っていると思われ るO Ⅶ ベガ村蘇葉作成立 の諸条件 これまでベガ村 における疏菜作の発 展過程 とそのメカニズムを,担 い手 としての経済主体 の 視点か ら述べて きた。 それでは この 発 展 がいかな る諸条件 の もとで 可能 とな ったので あろう か。 ここでは, ベガ村での企業的就業作経営成立 の基盤 を探 ってみたい。 自然条件 : まず第- に この地域 にお ける種 々の 自然条件 が疏菜栽培 に適 してい る ことが指 摘 され る。 中部ル ソ ン平原 にあ って乾期 に比較的冷涼 な気候 を もつ ことが, キ ャベ ツ栽培 には 特 に有利で あ った。 また肥沃 で砂壌土 を主体 とす る土壌条件 も疏発作 に適 してい る。疏菜作 は 乾期 に行 なわれ るため,水利条件 は重要 な要素 であ る。政府 による大液概事業 はなか った もの の,揚水 ポ ンプの導入 によ って水 の安定的供給が確保 された。 市 場立地条件 : 疏菜作発展 に関 して,生産地 ボガボ ン町が消費地 マニ ラに近 い とい う市場 的立地条件 を忘 れ ることはで きない。完全 に商品化 されているところのベガ村疏菜作 は, その 生産物 をすべてマニ ラ地域- 出荷 して い る。車 を使 えば 日帰 りが十分可能 であ り, このルー ト が中部ル ソン平原 での主要二大幹線 のひ とつで あるため, ベガ村 の ジープ所有者 は収穫期 にな

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東南 ア ジア研究 11巻 3号 ると村 とマニ ラを毎 日のよ うに往復す る。肥料 や農薬 などは町 の中心街 で, また農機具な どは カバ ナ トゥア ン市で購入で きるとい う点 も有利 であるo さ らに, これ らと関連 して疏菜 の需要サイ ドの動 向を考 慮 しなければな らないが,デー タ不 足 のため別 の機会に論 じたい と思 う。 ただマニ ラ周辺 の 都市化 の進展 と一人 当 り所得水準上 昇 による食糧需要構造 の 変化が, 疏菜生産 に プ ラスに働 いた ことは十分推測 され るところで ある。 歴史 的条件 : ボガ ボ ン町 は歴史 的にみて早 くか ら開拓 され,林業 (製材 および炭焼 き) で 栄 えていた。 この事実 は,疏菜作が技術者 によ って導入 された以後 もスムーズに受 け入れ られ た とい う事 と大 いに関係 があると思 われ る。つ ま りそれは, ベガ村 を含むボガボ ン町 にはすで に林業 による 「原始的蓄積」がなされていたので,疏菜作 を伸展 させ る ことが可能 にな った と い う推察で ある。 もうひ とつの歴史的要因 として, ボガボ ン町-の疏菜作 の導入が,他 町村 に先が けて行 なわ れた点が あげ られ る。 そのために, ベガ村 が先駆地域 の利潤 を享受で きたわ けで あろ う。 例 え ば, ベガ村 の企業的経営者層が隣接町村 で出作 りを行 な う際,彼 のカサマの半数近 くはその地 元農民 とな っている。 これは, ベガ農民 (の一 部) が地元農民 に対 して先駆者利潤 を保持 して いると考 え ることがで きる。ただ し, この先駆者利潤 は永遠 に長 く保持 され るわけではな く, やがて消滅す る性質 の もので ある。 この点 は今後 の問題 とな るか もしれない。 技術的条件 : ベガ村 における疏葉作発 展 は, その導入以 後の,生産 および流通面での技術 革新がなければ成立 しえなか ったで あろ う。 その主要 な ものを以下 に列挙 してみ る。

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ポ ンプ港鶴 の普及

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年代)

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ジープ利用 による輸送手段 の革新

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年代後半以 降)

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年代後半以 降) ポ ンプの導入 は疏菓作地 を大幅 に増大 させ た。畜 力に代替す る トラクターの導入 は,農作業 を短縮化 し,稲作 のあ とす ぐに疏菜 を作付す る ことを可能 に した。米 の新品種導入 とともに, この トラクター利用 の 伸展 は二毛作化 をい っそ う推進 させ た。 ジープによる大量長距離 の 輸 逮, および町 内に作 られた冷蔵施設 の設立 によ って,ベガ農民の流通活動の領域 は大 いに拡大 されたので あるOそ して以上の新技術は, いずれ も

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年代後半 に急速 にベガ村 内に普及 して お り, これが在村農民 による本格的採用時期 とはぼ一致 している点 は興味深い. なお, これ以外 の技術革新 として影響 を与 えた ものに, タマネギの改良品樺 の導 入 (赤色系

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義 田 :フィリピンにおける企業的農業成 立のメカニズム では

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年 にア メ リカか ら輸入 され,従来 の移植方式 か ら直播方式 が採用 された点 も忘 れ る ことはで きない。 そ して

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年代 に入 って,施肥 ・防除 の面で も多 くの新技術が採用 されて いる。 経営者 の主体条件 : 以 上のよ うな諸条件 に加 えて,経営者 の主体条件 とい う人的側面を忘 れては片手落 ちとい うべ きで あろ う。 先駆者 の存在 (これは一面では偶然的要素 を多 く含んで いたにせ よ), そ して続 いて連続的に現 われた採択者群 の存在 が, この村 の疏菜作発展 を支 え て きた もので あ った。 そ して各 々の主体 は, 経営 における技 術進歩 や 他 の外生的要因に対 し て,巧 みに適応 させて きたのである。 これは一種 の 経営者能力 と評価で きるで あろ う. 例 え ば,初期採択者達 の中には施肥 や防除 に対す る改善や温室利用 に対す る工夫 などを行 な った者 も多い。 また, これは非常 に重要 であ ると思われ るが,疏 菜佳 産方式 と して従来稲作 で成立 し て いた分益小作制度がそのまま就業作 の生産関係 の一部 に くみ こまれてい る点が あげ られ る。 これによ ってカサマ相互 の 労働力交換

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を利用す ることが可能 にな り,企業的経営者 に とっては経営規模 の拡大が はかれたわ けで ある。 政府資金 による信用 の供与 : 最後 に,農民の信用源 または負債 問題 に関す る点 に触 れてお きたいo まず第- は,政府 による港翫 サー ビス事業 が行 なわれ, ポ ンプ購 入 の際に農 民に対 し て低利 の融資が与え られた ことであ る。先のポ ンプ普及 の一因 は ここにあ ると言 われてい る。 第二点 は

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年 にボガボ ン町が土地 改革区に指定 されて以来,分益小作農 が定額小作農 に変 わ ることを条件 に,一定額 までの低利 の融資が与 え られ ることにな った ことで ある.25)ベガ農 民 の うち, とりわ け企業的経営者層 の多 くは この制度を通 じて融資 を うげ, それを疏菜作経営 につ ぎ こんでい る。 信用供与やその実施方法 に難点 は残 されて い るが, これ らの政府資金 の農 民への供与が疏菓作経営に与 えた影響 は大 きい。 む す び 以 上を もって,ベガ村農 業経常の実態を報告 し,不十分 なが ら読菜作展開過程 とその メカニ ズ ムを経済主体 の視点か ら素描 しえた ことになる。端的に表現 す るな らば, ベガ村農業 は就業 作 とい う集約度 の高 い経営 の導入 によ って発 展 して きた と言 え るだ ろ う。 その結果,労働力需 要 は増大 し,婦女子 に至 るまで就業作 での雇用機会 が与え られ,貧 しい小作農家の貴重 な収入 源 とな って きた。 25) この融資は, 本来稲作振興のために出されるものであるが, ベガ農民の多 くはこれを疏菜作営農資金 に転用 しているといわれる。

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東 南 ア ジア研 究 11巻3号 ところで, こうしたベガ村 の経験 は,農村が ひ とつの 「革新」 とい う外的イ ンパ ク トを受 け た場合 に,適応過程 を経て発展への変貌 を とげ ることは可能 であるとい う事 を教 えている。 も ちろん, ベガ村 のよ うな疏菜作農村 はフィ リピン農村 の中で もきわめて例外 的であ る。 それゆ えに,単純 に こうしたプ ロセスが フ ィ リピン疏菜作農村 の発 展モデル とな るとは決 して断言で きない。 しか しなが ら,農業 における革新 は, しば しば農村経済を刺激 し, その経済を動態過 程 に乗せ る役 目を果 たすで あろ う。 もし,外的 イ ンパ ク トが農業労働力 の効率 を高 め,土地 利 用 を多角化 の方向にむかわせ る性格 を強 くもつ な らばなお さ らそ うであ る。 冒頭で述べた緑 の 革命や土地改革 などの政策 は, この意味において,農業発 展の引き金 と して機能す る可能性 を 十分 に持つ もので ある。ただ し,そ こでは外 か らの政策的配慮 に加 えて, ベガ村 の事例で示 さ れたよ うな農民の内発 的対応が不可欠 な もの とな るで あろ う。

参照

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