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宗教哲学 利用統計を見る

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(1)

宗教哲学

著者名(日)

井上 円了[講述], 哲学館編集員[筆記]

雑誌名

井上円了選集

8

ページ

321-573

発行年

1991-03-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002920/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)
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1.冊数

  1冊

2.サイズ(タテ×ヨコ)   213×145㎜ 3.ページ   総数:379   目次: 2   本文:377 4’刊

  の「高等学科講繊・6年度分」織1ξ蓼1翻

  によれば,明治35年11月より36   年10月までの間,従来の毎月刊   行を中止し,「近来発行中の講義   録中より……旧刊残本を合綴し   てこれに代用」した5類22種の   中に本書が挙げられていること   から,このころと推測される。 5.句読点   あり 6.その他   (1)筆記者は哲学館編集員。   ② 見出しは目次と本文とに相   違があったが,目次に従って統   一した。   (3)本書には,底本の他に,別   の版(本文カタカナ,水谷捨太   郎筆記)がある。そのため,誤   植等の訂正にあたりこれと校合   した。 ウ、零づ宗散 しa丑驚の 元摩密若の には自ら先 題上よ4言 oぜ云ふ茜 上の思部、 境亙6え, 日■■にて. ぎ‘ (巻頭)

灘f’

了鵡追 員箪肥

(4)

文学博士

井上 円了 講述

哲学館編集員筆記

宗教哲学 緒 ユ 面冊        宗教思想の発達  これより余が理論的宗教学を講述せんとするにあたり、まず宗教哲学の起源をのぶべし。そもそも宗教をもっ て一の哲学として研究するに至りしは最新のことにして、今を去るおよそ二〇〇年前に始まれり。しかれども宗 教と哲学とは元来密着の関係を有するものにして互いに分離すべからずといえども、その思想発達の順序にはお のずから先後あり。今、宗教をもって一の組織ある学問とせずして、単に宗教という思想上よりいうときは、哲 学思想よりさきに発達し、これより哲学思想生じきたれるものなりというべし。およそいずれの国にありてもみ な神代史なるものあり、これ最も古き歴史上の思想をもってその国の宗教を組み立つるものなり。例せばインド 国中最も古き開嗣説なるバラモン教が同国の宗教となれるごとき、ペルシアの拝火︹ゾロアスター︺教が同国中最 古の開閥説にして、同じくその国の宗教となれるごときこれなり。ギリシア国にありても太古の神代史をもって 宗教とせり。かのソクラテス氏が自害を命ぜられしは、実に氏が哲学思想をもってこれを改良せんと試みしによ る。これによりてこれをみるに、宗教思想の発達せしは最も古きことにして、これより哲学思想の発生するに至       21       3 りしものなり。これを要するに宗教と哲学とは、その思想発生の期限には前後の差ありといえども、その発生の

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原因に至りては更に異なることなし。今そのゆえんを尋ぬるに、人間のこの世にありて智識のいまだ開けざると きにあたりてや、風雨雷電の変、昼夜の交替、寒暑の来往、その他百般の天災地変、一として奇異なる思いをな さざるなし。この不思議の念すなわち宗教および哲学思想の胚胎するところなり。しかして人の最大有力者を立 て、これら不測の出来事をもってその仕事に帰するに至り、始めて宗教を形成せしものなり。しかりしこうして 人智ひとたび開け、その有力者は果たしていかなる者か、神なるものは真に実在するものなるかを疑うに至り、 これを研究してますます有神の説に安んずるあたわず、ついに宇宙万物およびその変化の原因を既知界中に定む るに至れり。これすなわちギリシアのタレス氏が始めて水をもってこれが原因としたるゆえんなり。爾後哲学者 相ついで起こり、みな宇宙以内にその原因を求め、あるいは空気、あるいは火、あるいは地風等、おのおの考定 するところによりてその説を異にするに至れり。これによりてこれをみれば、宗教思想といい、哲学思想といい、 ともに同原因より起こりたるを知り、またその先後の次第をも知るべきなり。しからばその哲学思想なるものは まずタレス氏をもって鼻祖となすべし。氏以前にありてもいくぶんかその思想のありしことはホメロスの詩をみ ても知ることを得といえども、これまた宗教思想より発生せしものなり。タレス氏以後、宗教と哲学とは反対の 勢いをもって進歩し、哲学はあたかも宗教の敵手となりたるありさまなりき。今その両者の関係をもって一首の 歌を作るにたとえんか、宗教の方にありてはあたかも古人の詠じおきし上の句を取りて、これに強いて下の句を 付会せんとするごとく、哲学の方にては上の句そのものまでを更作して、新たに今日に適する一首の名歌を作り 出ださんとするがごとし。語を換えてこれをいえば、宗教は保守なり、哲学は改進なり。  タレス氏以後、哲学者続々輩出して哲学思想を振起し、その天神に与うる解釈のごときは大いに一般人民の信 322

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宗教哲学 ずるところと異なりしをもって、自然の勢い世間の宗教と互いに抗排せざるを得ざるに至れり。これをもってソ クラテス氏は一身を犠牲にするに至りしも、その後哲学者前後相ついで起こり、哲学思想一層発達してついに宗 教思想を圧伏するに至れり。  しかるに形勢一変ローマに入るに及び、宗教の勢炎ようやく加わり、ついに哲学を凌駕するに至れり。今その 理由を探るに、当時ローマは哲学思想はなはだ浅くして、実際のことは大いに発達したるも、ギリシアのごとき 理論上の学問はまた見るべくもあらず。故をもって従来発達しきたりし哲学思想は全く地に落ちたるなり。この ときに際しヤソ生まれてローマおよびギリシアの宗教をあわせ大いに改良を加え、その徒弟の尽力により更に一 層の勢力を増せり。その初めローマはヤソ教を厳禁せしをもって久しく勢力を得ざりしも、内部を顧みればこれ を信奉するもの日一日より増加するに至れり。  国民の気風すでにヤソ教に帰向するのときにあたりコンスタンチヌス帝位につき、もっぱら国民の葵心︹きし ん︺をひかんと欲し、さきの禁令を解きたり。ここにおいてヤソ教大いに盛んにして、その勢い世界を支配するに 至れり。  しかるに中世の末葉に及び、煩墳学派なるもの起こりて、古来の宗教を妄信せず、種々の解釈を試み、これに 理屈を加え、やや学術的に論究するに至りしが、近世の始めこの学ますます発達せり。これすなわち宗教を学問 的に研究せし初めなりとす。       宗教研究法  宗教を研究するの法二派に分かる。その一は宗教を宗教とし、他の学問と全く異なるものとして研究すべしと 323

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いい、他の一は宗教も他の学問と同一の道理によりて研究すべしというものこれなり。なおこれを詳述せんに、 前者は元来宗教なるものは理学哲学等とその性質異なるものなれば、哲理中いかなることあるもこれによりて説 明することあたわず、全く神の感通に頼りて吾人のまさにその真理を悟入するものなりと主張す。この法近世の 初年に起こりたるものにして、神智教︵秘密教︶のごときこれなり。その人心の上に神の感通を待ちて万事を知る というより名付くるものにして、原語のセオソフィカル・ミスティシズム︵一﹁庁OOωOO庁一〇①一呂く切酋一⇔︷ω︼自︶これなり。 故にこれをもって学術上の研究というべからず、また宗教哲学と称するを得ず。なんとなれば、吾人の有する学 術思想によりて研究するものにあらざるをもってなり。まず直覚的宗教心とも名付くべき想像的の考えをもって 講究するものなればなり。後者にありては全くこれと異なり、万有自然の道理によりて真理を探究するものにし て論理的討究なり。この法の始めをなししものをスピノザ氏となす。スピノザ氏以前、哲学的に神のなんたるを 説きし人なきにあらずといえども、これらの人みな神の性質いかんを説きつくすことあたわざりしをもって、宗 教哲学首唱の名はスピノザ氏に帰せざるを得ざるなり。そもそもスピノザ氏等の論ずる神は想像上の神にあらず、 易の太極のごとく、仏の真如のごとき理想の意義にして、この神と物心の関係いかんを説くにあり。この点より みれば、宗教哲学の研究はあたかも純正哲学に異なることなきがごとしといえども、純正哲学はその範囲すこぶ る広くして物、心、神の三体を通じて説明し、宗教哲学はおもに神のいかんに関して説明するものなるをもって その範囲すこぶる狭し。換言すれば、宗教哲学は純正哲学の一部に過ぎざるなり。  およそ神につきての説、古来その変遷はなはだしく、太古にありては多神教説にして、遠くは日月星辰より、 近くは禽獣草木に至るまで、みなこれを神とせり。後世に至りその多神教説に満足せず、これら多神を包括して 324

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宗教哲学 一大神となし、かつこれを遠きに求めて宇宙以外に置き、これに帰するに世界の創造万物の主宰をもってせり。 しかれどもこの一神と万物との関係を説明するに至りてまた満足するを得ず、ついに一変して古説に復し、この 世界は神なり、万事万物みな神ならざるなしとするに至れり。これを皆神教︵パンセイズム︶と称す。しかれども その神説の起点なる多神と、終点なる皆神とはその説おのずから異なり、前者にありては日月山川、草木禽獣等、 その現実物をもって神となしたるをもって、ついに進んで一神説となりしものなれども、後者は万物の真本体を 意味するものなれば、この神は純然たる絶対、もしくは理想、もしくは真如、もしくは不可知的の名称を付して 可なるものなり。  上述のごとく太古野蛮のときすでに多神教あり、一転して一神教となり、再転して皆神教となれり。その多神 と皆神との似て非なるかくのごとしといえども、しかも一神とのごときはなはだしき差異あるにあらず。これに よりてこれをみるに、神につきての思想はあるいは進むがごとく、あるいは退くがごとく、その進むを退くとい うか、退くを進むというか、いずれなるかを疑うに至る。しかれどもその進むがごとく退くがごときは、直行せ ずして循環するをもってなり。故に余は進歩すということを解して循環の度数を重ぬるものなりとす。このこと たるひとり宗教上にとどまらず、たとえば政治の上においてもシナの昔、八元八榿を四方に徴して治をたすけし めしことあり。これあたかも今日代議士を諸国に招集すると同じく、ただ国家の状態、古今単複の差あるのみ。 これを要するに、宗教哲学の研究は古今同一というべからざるも、ややいにしえに似たるところあり。ただその 異なるは、古代は空想に基づきて起こり、今日は推理によりて知るの別あるのみというべし。  以上、宗教を研究するの二法、すなわち第一は宗教を宗教として研究する法と、第二は宗教を哲学として研究 325

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する法とあり。第一は第二よりさきに起こりし神智教にして、第二はスピノザ氏より始まりしことを説けり。以 下、神智教につきて少しく述ぶるところあらんとす。神智教は神知秘密を義とするをもって、左にこれを神秘教 と名付くべし。        神秘教  今日においても、ある宗教家はこの神秘教の研究の方法をとる者あり。その法、吾人の心中に別に宗教心を設 けて神と感通し、もって宗教の真理を観ずるものにして、すなわち神の啓示をもって宗教を立つるものなり。こ の神秘教中有名なる一人マイスター・エックハルト氏とす。氏はドイツの人にして、第一四世紀の初年に宗教学 者となりて世に現れたり。今その説によるに、天帝はこの世界を離れて別に遠く存在するものにあらず、常にこ の世界と関係を保ち、この世界の内部と相通じて存するものなり、また吾人の精神なるものは全く神の一部分な り、故にこの精神上にて神体を観察し、また神と交感するを得と。これ氏の説の大要なり。氏またヤソ教の三位 一体説を唱う。その考うるところをみるに、三位一体はひとり神とヤソとの上にあるのみならず、一切の人間と 神との間にも精霊の感通あるものなり。天にあるところの神、地にいるところの人、同じく神にして、その天に あるものは親なり、地にいるものは子なりとし、もって三位一体説を広く世間一般の人間に及ぼし、天帝の子は ひとりヤソのみに限るにあらず、全人類ことごとく天帝の子なりと説けり。氏はまた神は造物者なりというは、 神に造られたる人間のある故なり。造られたるものある故に造りたるものあるなり。すなわち造物あればこそ能 造の神あるなれ。吾人が神によりてここに存在し、神によりてここに独立せり。もし神なくんば吾人ここにあら ざると一般にして、もし吾人なかりせば神ありというを得ず。この二者相対立してその一なければ、同時に他の 326

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宗教哲学 一もなしといえり。これあたかも哲学に、いわゆる相対あればこそここに絶対あれとの説に符合せりというべし。 すなわち相対は絶対によりてあり、絶対は相対によりてあるものなれば、二者互いにその一を欠くべからずとい うものこれなり。神と人間とはすなわちこの相対絶対の関係と同一にして、神を絶対とし人間を相対とすれば、 この神と人間とは相待ちて存し、神の内に人間を含むと同時に人間の内にも神を含みて、二者同一の関係を有す るものとなる故に、氏がこの世界を造りたるものも、また造られたるものも、みなその体神にほかならず、しか るを神外に人間あり、人間外に神ありと思うは誤れりとなしたるは、全く哲理に背けるものにあらずというべし。 氏はまたこの神人帰一説より善悪論を推演せり。およそ悪なるものは吾人人類をもって神の外に存するものと思 うより生ずるゆえんにして、善なるものは吾人人類をもってその体すなわち神なりと考うるより生ずるゆえんな り。吾人の心は全く神の分子にして、ただちに神に帰するをもって、神は心にあらわれ、その心はすなわち善と なれども、もし神と吾人の心とは遠く分離したるものとすれば、その心はすでに神に背戻するものにして諸悪の 隠るるものとなるといえり。氏のこの説は哲学上すこぶる興味あるものにして、やや仏教所説に近きものなり。 今一歩を退き、世の通俗に称するところの神とはいかなるものかというは、そのいわゆる神は吾人の外に遠く離 れて外界に存在するものにして、その冥助を受くるは、あたかも人間がこの社会のある他人より恩恵を受くるが ごとし。すなわち一国主、あるいは富有なる人、あるいは高位高官の人は、世人しきりにこれを尊敬し、あるい はその金力に頼り、あるいはその権力を借り救助せらるると同じく、神はこれら高等人物よりもなお数層上位に いますものなれば、この神を崇敬すれば助けを受くるものと考え、もって礼拝謹仕す。これすなわち神に対する       脚 通俗の説にして、エックハルト氏の説を去る遠しというべし。

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 吾人を離れて神なく、神を離れて吾人なし、この世界は神より成るものなれば、神は吾人の全部分なり、吾人 は神の一部分なり、神が一切万物を包含するとともに、吾人一切万物を網羅包有するものなりというは、すなわ ちエックハルト氏の説にして、仏教にいわゆる真如は万物を含み、万物真如を含むというに同じ。吾人の心は神 の一部分にして、もし吾人がこの世界は神のみと考うるときは善なり、これに反して神の外に存するものと考う るときは悪なり、純然の善とは吾人が全く神に化せしをいう。しかして神化すとは神力の助けによりてこの世界 の念慮を脱去することにして、吾人がこれをなすには吾人の有する智、情、意をして一途にまとめ、その心を安 静にし、心中思念するところは唯一の神徳のみとなすにあり。換言すれば心中ただ神を念ずるものにして、万物 および自己に愛着するの念を除去するにあり。かくのごとくするときは吾人始めて神に帰し、神の性質に変化し、 また神を見ることを得るなりと説けるは、全く普通のヤソ教説に反し、仏教所説の一心に阿弥陀仏に帰向すべし というに近しというべきなり。  今、氏の説を見るに、吾人人類は心を神に一任すべしという。しからばすなわち吾人は自己の心を抹殺し、自 己の身体を死物となし、ただ神命これ従うということかというに、決してしからず。吾人人類はとかく外物に迷 い、自己に執着し、万物に愛恋するものなれども、これ悪念なるが故にかくのごとき不善の思想は一切これを除 却し、ただ真正に神を念ずるときは自然吾人の心に自由を得るものなり、吾人の心に自由を得ずしてただ神にの み支配せらるというにあらざるなり。要するに外物に懸念することを断滅して、一心神を信ずるときは、心中に 自由を得るものにして、決して初めより器機的に神の支配を受くというにはあらざるなり。なお換言すれば吾人 の心は神なる故に、心をもっぱらにして神なる一念を置くときは、ここに神の動作わが心の上に発現して自由を 328

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宗教哲学 得というにあり。しかるにもしも吾人人類にして前に反し神を信ずることなく、外物に心を奪わるるときは長く 罪人となりて、また神に帰することを得ざるものとせり。以上述ぶるところによりて、エックハルト氏所説の大 要を知るべし。その説当時の宗教家と異にして、宗教哲学の名称を付するも可なり。しかれども氏はいまだ宗教 をもって哲学と同一視して研究せしにあらず、宗教をもって理学哲学と異なるものとし、一種特別に研究せしを もって、これを神秘教と名付くるなり。  このエックハルト氏の説はゲルマン︹ドイツ︺において一般の学者のいるるところとなり、後ルター氏が宗教を 改革せしもの主としてこの説に基づきたるものなり。それよりドイツの宗教家この説をとりて曰く、吾人が神を 思想上に浮かぶることを得るは、すなわち吾人の心が神に達するを得るにより、あるいは神がわれわれの思想に 達するによる。果たしてわれわれの心が神を想像するを得とせば、すなわちわれわれの心は神の一部分なり。し からばすなわち一切の人類その体すなわち神体にして、吾人人類の究寛目的は神の本体に向かって進むにあり。 故にこの世界は不生不滅なる神の世界にして、いわゆる天国なりと。これを仏説に対照するに、わが身を離れて 仏なく、此土を離れて極楽なしというに等し。また曰く、吾人は神を離れて別に存すというごとき一の私見を抱 きやすきものなり、この私見はいわゆるわれにして神にあらずと。今、試みに人類の心を二種に分かち、その一 をわが心すなわち神と考うるものとし、他の一をわが心、神にあらずと考うるものとするに、もしその考え後者 にあれば地獄あるいは悪魔の世界にして、前者にあれば極楽世界なり。すなわち神に背くものは全くわれなる私 見にして、すべての罪悪はこの私見より生ずるものなり。もしこれを除き去れば、これすなわち天国なり、極楽        29        3 なり。しかるに吾人は私見をしりぞくることすこぶる難くして、常に罪悪多しとす。もし一心を神に託し、一心

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に神を信ずるときは、神おのずから心中にあらわれ、罪悪消滅して善良に化するものなるをもって、吾人は常に 神と通じ、これと同体ならんことをつとめざるべからずとせり。ドイツの神学者中に一心二眼の説あり。曰く、 およそ人には左右両眼あり、右眼は不生不滅の神体を見、左眼は神所造の事々物々を見るなり。この二眼同時に 働くことあたわずして、右を働かすときは左眼働くあたわず、左を働かすときは右眼働くことあたわずと。以上 の諸説みな神秘教家の一般に唱うるところにしてその軌を一にせり。しかしてこの論は後にルター氏の宗教改革 を呼び起こす原因となりしことは、後段説くところによりて知るべし。  畢寛エックハルト氏の宗教主義は、客観上すなわち外界に宗教を立てずして、主観上すなわち内界に宗教を立 つるものなり。故にもしその説に従うときは主観的のみに偏し、従来の客観上に成り立ちたる宗教は到底たおる る外なし。なんとなれば、神を外界に存するものとし、吾人を離れて遠く独立するものなりとするをもって、祈 薦礼拝をなすには霊像、霊壇、その他種々の儀式を要するものなりといえども、神を内界に求め、これを主観上 に存立するものとすれば、偶像儀式もって礼拝するの要なきのみならず、ヤソを神子として奉信するを要せず。 ここにおいてかの有名なる宗教改革者ルター氏は、その神学上の説エックハルト氏に基づきて立論せしといえど も、もし全く同氏のごとく主観的にのみ傾くときは宗教を成立することあたわざるをもって、これに従来行われ し客観的の説を加えて二者相調和せしめ、大いに宗教を改良せり。今その取捨折衷せしところを見るに、当時行 われたりし旧教にありてはパンとブドウ酒とを神前に供し、パンを取りて神の肉とし、ブドウ酒をもってその血 となし、食してもって真に神の精霊を受くと信ぜり。ルター氏はこれを改良してその解釈を変更せしといえども、 なおこの儀式を存したり。エックハルト氏の説にありてはヤソを神の子としてこれをあがむるを要せずといえど 330

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宗教哲学 も、ルター氏はこれを神の子として古説に従いもって三位一体説を唱えしごとき、その客観の一部分を存して主 観上の説と相合し、宗教と哲学とをして多少調和したるものというべし。しかりといえども、他の宗教者にあり てはみな哲学上の討究を去りて、ただ独断的にはしれり。新教を唱うる者も要するにみな従来の神説を存し、た だ儀式的改良にとどまれり。されば新教者中、哲学思想ありてその論見るに足るべきもの、ひとりルター氏を除 きて他にあることなし。当時の宗教家みなかかるありさまなるにもかかわらず、また一方においてはエックハル ト氏の説を主張して秘密主義をとるものありて、哲学的思想大いに進歩せり。その極端論者中有名なるものを挙 ぐれば、カスパル・シュヴェンクフェルト氏、セバスチャン・フランク氏、ヴァレンティン・ヴァイゲル氏、ヤ コブ・べーメ氏等なり。ヤコブ・べーメ氏は一五七五年に生まれ一六二四年に没す。その説のちに至りてスピノ ザ、ライプニッツ、ショーペンハウアー、ロッツェ等、ドイツ哲学者諸氏の基礎を成せり。  今、氏の宗教論を見るに、神はいかなるものかというに、神そのものは一定の性質なく、善といい悪というべ きものにあらず。一定の場所なく、ここにあり、かしこにありというべきものにあらず。一定の智力感情等を有 せず、物欲もなければ愛憎もなし。その体寂然として不動、唯一の意志なり、意力なり、絶対的意志なり。しか してその絶対的意志の内に全世界万物となるべきものを包含す。また無始の体にして、その体中無始の昔より万 物万有の理を備えたるものなり。かくのごとく寂然不動、無始無終、不生不滅、絶対的意志の体が自らの力をも って自ら開き、この万有世界発現せしものにして、意志そのものにおいては善悪の性質を有せざりしも、自らそ の体を開発せしより、ここに善の元素生じ、ついで悪も出でたり。その善悪を生じたる体、これを父とし、生出       劉 せられたるもの、これを子とし、父子の間に精霊伝わりて三位一体と成れり。この三段の作用により、生命およ

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び活動を起こし、ここにまた愛と智との二作用起これりという。べーメ氏の説を要するに、太初の一体自ら開い て善を生じ、善より愛と智とを出だし、これより万物万境を生ずという。あたかも易の太極陰陽を生じ、陰陽万 物を生ずというに同じく、また仏教起信の一心二門の開発の次第にひとし。  それしかり。しからばなんの故に一の体より二作用を起こせしや、また善のみにて可なるべきに何故悪を生ぜ しか、また精神のみにて可なるべきに何故肉体のごときものを生ぜしや。神果たして不善不悪にして無形のもの ならば、善悪および有形の物を生ずる理由なきにあらずや。精神と物質とは反対のものなり。しかしてもし精神 が肉体に執着するときは悪を起こすに至るとせば、なんの必要ありてかかる肉体を生ぜしや。  右等の問いにつきて、べーメ氏の考えにては、神はもと善悪なきものなるも、体の開発するに当たりては、善 悪併存を現示せざるべからず。しかしてその開発の目的とするものは善および精神にありといえども、精神をし て精神たらしめんには、精神に反対するものなかるべからず。故に有形的万物出でたり。たとえば精神を起こさ んとするときは、同時に愛せらるべきものを要するがごとし。故に畢寛物質あり外界あるは、精神善なり、愛な りを成り立たしめんがためなり。これなお上下、左右、前後等、両々相対するごとく、自然の勢いやむべからざ るに出でたるものなり。  以上の説、これを要するに、神は無始無終の唯一の意志にして、その内に万有を含有し、しかしてなにか一の 作用起こると同時にその体二分し、それより漸次分かれてついにこの世界を成せりというにあり。しかのみなら ず、べーメ氏は神がこの世界を作りしにあらず、また神の外にこれを作りしものあるにあらず、神が開けてこの 現象となりたるものなれば、この世界すなわち神なりと説くを見れば、いわゆる太極開発説、ならびに真如開発 332

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宗教哲学 説に近しというべし。この説、後世の哲学者ライプニッツ、シェリング、ショーペンハウアー、ロッツェ諸氏の 哲学の基礎となりしは疑いなし。しかりしこうして、この開発説たるやいまだべーメ氏の説明足らざるところあ るのみならず、東西洋ともに古今の哲学者ならびに宗教者のその解釈に困らしむところなり。すなわちかくのご とく開発によりて善悪の別あり。吾人は悪に追われ、ために善を修せざるべからざるに至り、ついに悪をすてて 善を取り、再びその元始に帰りてまた寂然不動の意志に復すというといえども、その開発するに当たりて、何故 に善を目的とするや、またなんのためにかく開発するや、一度開発したるものが何故に帰源せざるべからざるや、 疑問なおここにとどまらず。かの善をなさんがために悪ありといわば、悪をなさんために善ありというも可なる べきに、何故善のみを主とするや、また進んで悪に帰するものとするを許さずして、善にのみ進むものとすれば、 なんの必要ありて悪を置きしや、これらの難問はべーメ氏の説明いまだ十分ならざるところにして、また東洋に ありてもシナの性理論中善悪の起源を論定し、仏教の﹃起信論﹄中無明の起源を論定するに当たりて、学者同様 にその解釈に苦しむところたり。  当時イタリアにありて宗教上、哲学上、理学上ともに有名なるはブルーノ氏なり。この人の論、当時の宗教家 にいれられず、死罪の宣告を受け、火刑に処せられたり。べーメ氏は神学と哲学とを混同して区別をなさざりし が、ブルーノ氏は二者各別に説けり。べーメ氏は神秘教の原因に基づきて宗教哲学を説き、ブルーノ氏は全く神 秘教より独立して宗教哲学を論じたり。ブルーノ氏の考えにては、哲学は人智の範囲内において知得するを得べ き世界万有の道理を研究し、宗教は理外に立ち人智をもって探原すべからざる不可知物の真理を天啓神示等のこ とによりて知るものなりとせり。氏はかくのごとき論者なりしも、当時の宗教的独断論者にあらざるをもって世 333

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に損斥せらるるに至りしもまた是非なし。氏が神と万物との関係を説くを見るに、万有皆神教に傾けるもののご とし。氏の神につきての解釈は︵宗教哲学として哲理上説くところのもの︶、神は極めて単純なる絶対唯一の体に して、中には一切の智力、一切の情欲、一切の勢力、その他所有性質を完備し、しかもその区別を見ず。諸般の 道理、諸般の動作の最上位にありて、吾人の思想智力の及ばざるところに位する絶対唯一の体なりと定む。しか してこの世界といかなる関係を有するかを説くに至りては、プラトン氏の理想論を基として立論せり。すなわち 絶対の理想とこの世界とは直接に関係するものにあらずとして、世界的精霊なる媒介物をその間に立てたり。ま たプラトン氏のごとく理想に三種類を分かちて、一は天神的理想︵その体神︶、二は世界的理想︵世界的精霊︶、三 は個人的理想︵個人精神︶とす。この天神的理想は寂然不動静止して智、情、.意の作用をあらわさず、世界的理想 の媒介によりて個人的理想の上に関係を生ずるものなり。故に万有事々物々の変化するも世界の発達するも、み なこの世界的理想の作用なりとす。しかしてその三個の理想その体一にして、おのおの異なるにあらずとなす、 いわゆる三位一体説なり。その理想論プラトン氏の哲学に基づく以上は、この三位一体説もプラトン氏に始まる もののごとし。しかるに遠く古代においてインドの婆羅門︹バラモン︺教はこの説を立てたり。すなわちいう、ブ ラフマは最上絶対中性の神なり、このブラフマはブラフマーなる男性の神となり、始めて世界を作ると。しかし てこの世界とブラフマーおよびブラフマはその体一なり、すなわち三位一体なり。これをもってこれをみれば、 プラトン氏はインドの説を伝え、ブルーノ氏またこれを受けしにあらざるかの疑いなきあたわず。ブルーノ氏ま た世界的精霊を説きて曰く、この精神は世界の中より事々物々生出し、および変化せしむる勢力を有し、この世 界を形成する規模を包蔵せり。故にそのすでに開発するや事々物々の変化あるとともに、人獣、草木、山河等、 334

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宗教哲学 判然として乱れざるなりと。この説アリストテレス氏の形質論に似たり。その論に曰く、物を造るものは質なり、 物発達してその形をなすものは形なり、この形質結合して万化を現ずと。ブルーノ氏の世界的精神も要するにこ の形質的結合説に近し。この他ブルーノ氏が天神的精霊を論ずるは、仏教中唯識において真如凝然として諸法を 作らずというもののごとく、その世界的精神を説くは、第八阿頼耶識のごとく、これによりて世界の現出せるは 阿頼耶識より万法を開示するごとく、かれこれその説の近似するを見る。  なおまたブルーノ氏の説によるときは、この世界は神の反射ともいうべきものなり。ただその働きの上より見 るときは所働と能働との別ありて、さきに述ぶるがごとく三体おのおのその名を異にすといえども、その本体に 至っては別に差別あることなし、いわゆる三位一体なり。故に裏面より論ずるときは、氏の説は万有神教なりと いうべし。  善悪につきて氏はいかなる考えを有せしかというに、世界の事々物々はみな善かつ美なり、しかるに悪なるも ののあるは、この世界の全体と一部分とを差別するをもってなり。すなわちこの世界より一部分を限界して独立 するものとすれば、これすなわち悪なり。たとえばかれは自己のためなり、これは自己の利益なりと思惟するが ごときは、すなわち全体の世界の外に別に独立したる自己ありと想定するものなるをもって悪なりとす。もしこ れに反して自己は世界全体の一部分なり、これによりて現立するものなりと信ずるは善なり。これをもって利己 心の悪にして、愛利心の善なるを知るべし。しからばその悪なるもの、なんの必要ありて存在するやというに、 およそ善悪のこの世界に併存するはやむをえざるのことにして、もしこの世界善のみとなるに至らば、世界進歩 の終極にして、すなわち世界その目的を達したるものというべし。しかれども今や世界は進歩の途中にあるもの 335

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にして、その進歩するは悪ありてこれが刺激となるをもってなり。しからば悪はこの世界の発達進歩に必要あり というべし。故にもしこの世界の目的を達せんとせば、自利我欲のごとき感情の制裁を脱し、更にその上に向か って進まざるべからず。しかして下等の感情を去りて高尚の理想に向かいて進むには、教育の力を頼らざるべか らず。かつその目的は単に五官の感覚上より起こる下等の情欲をすつるにとどまらず、精神上天地万物の美を求 めて絶対的最上の善に向かうはもとより吾人の目的なり。しかしてこの精神上の善を養成するには教育の力のみ にては、到底及ぶところにあらざるをもって神力に依頼せざるべからず。吾人の感情を制裁するところの意力す なわち勇力は吾人の力にあらずして、天啓により神力に頼りて得らるるものなり。故に吾人は一に智識を進むる 教育と、一に意力を働かしむる神力と、この二者結合せざればその目的を達し難しとす。これを氏の善悪の解釈 となす。  以上ブルーノ氏の説、これを要するに万有皆神教にして、作用上三種の体を立てたれども、その実は一なるの み。その一、本体の内に含蔵する力をもってし、これより開発したるもの、これを世界とす。しかしてこの理を 道徳上に恰当せしめ、この世界万物の全体すなわち神なれば、その神より離るるときは悪となり、神と伴うとき は善となるとせり。畢寛べーメ氏の秘密説を今一段進歩せしめしものにして、ブルーノ氏は神秘教の主義を離れ て普通の智識道理上より宗教を説きたるなり。しかれども氏が神は万物に普遍するものにして万物ことごとく善 なりといい、また悪は万有の一部分に向かって迷執するによるといいしごときは、なお独断的に想定し去りて、 いまだ哲学上に一組織を構成したりというべからず。故に一種の宗教哲学として一家を開きたるは、後のスピノ ザ氏を待たざるべからざるなり。 336

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宗教哲学本編

 スピノザ氏の前に当たりてデカルト氏物心二元論を唱えしといえども、その関係に至りては十分の解釈を尽く さずしてついに神を想定せり。しかしてその神はいかなるものなりやの解釈に至りては、いまだ哲学上の説明を 与えざりしが、スピノザ氏は進んでこれを試みたり。これ学者が大抵スピノザ氏をもって宗教哲学の祖とするゆ えんなり。 スピノザ 宗教哲学          スピノザ氏小伝  スピノザ氏︹ロ曽9庁号○力宮ooN①︺はオランダに生まれ、アムステルダム府に住す。その父祖ユダヤ人種に属す るをもって、氏もユダヤ教の神学を講究せしが、その見解の異なるところあるがため、ついに破門せらるるに至 り、転じてヤソ教に入り、また神学を研究し、大いにデカルト氏およびブルーノ氏の説を愛せり。氏は一方にあ りては哲学者にして、また一方にありては神学者なり。しかしてときの政治ならびに宗教を改良せんことを希望 し、﹃政教論﹄を著せり。しかれどもその持論、当世にいれられずしてその志を得ず、晩年ついに肺病にかかりて ついに死しき。        翅  近世の宗教哲学は三大段に分かれたり。すなわち左のごとし。

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  第一段、批判的宗教哲学   第二段、直覚的宗教哲学   第三段、理想的宗教哲学          批判的宗教哲学  批判的宗教哲学はスピノザ氏に始まりカント氏に終わる。スピノザ氏の当時、世間、政治ならびに宗教の圧制 を受けたり。スピノザ氏思想の自由を唱導し、大いにこれを改良せんとせり。氏は政治の改良、宗教の拡張は思 想の自由に関するをもって、自由思想によりてその道理を論究せざるべからずとせり。故に一六七〇年において ﹃政教論﹄なる一書を著し世に公にせり。氏の考えにては、宗教と哲学とはその範囲の異なるものにして、宗教 は哲学の付属物にあらず、哲学は宗教の付属物にあらず、哲学の目的は真理にあり、真理は道徳上万有事物およ びその事物と事物との関係、神およびその神と万有事物の関係を説くにあり。宗教ならびに神学上の目的は信順 にあり、実際上神を遵奉し、道徳、善行、仁心を養成するにあり。換言すれば、宗教ならびに神学は経典のこと、 キリストのこと、モーセのこと、その他天啓に関することを信念するを目的とし、哲学はこれら諸般のこと、み な理論上に推究し、論理上に討尋するを目的とす。故に宗教と哲学とはその考定するところ往々反対するところ あるなり。しかれども道徳上の目的に至りては両者同一の点に帰着するものにして、宗教上よりするも哲学上よ りするも異なることなしと論じたり。  かくのごとくなるをもって、神学上においては経典中に神が世界を創造せり、あるいは神が万有を作りたり等 のことあるも、単にこのことを信ぜざるべからず。これを信ずるときはすなわち神を信仰遵奉したるものにして、 338

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宗教哲学 天恵を受くるを得るなり。もしこれを疑い、疑って研究すればこれ神学にあらずして哲学なり。かく宗教と哲学 とはその区域を異にするをもって、哲学上いかなることを研究するも、宗教上に少しも障害を与えざるなり。す なわち神はいずこにありや、天地万有は果たして神の働きなりや、もし神の働きとせば、その神はいかなるもの なりや、あるいは未来における賞罰は果たして神がつかさどるものなりや等は、みな哲学上の問題にして智力上 の作用に属するものなりとし、もって宗教と哲学とその範囲を分かち、かつ両者の研究互いに障害を及ぼさざる ものなりとせり。氏曰く、経典は無学無智を罰せずして不信不順を罰すと。また曰く、人の順不順はその説の真 偽によりて判定すべからずと。また曰く、確実なる議論を抱く人必ずしも確実なる信者にあらずと。その言みな 宗教と哲学と異なりというの意を含まざるなし。畢寛氏のかくのごとき説をなせしは、世間において哲学をもっ て宗教を講究せんとするも、これを非難し攻撃するものあるにより、あらかじめこれを防がんとし、哲学上の議 論は宗教上に関せず、宗教上の信仰は哲学上にこれを批難すべからずと論じ、もって世の批判をふせぎしものな らんか。  スピノザ氏は上陳のごとく、宗教の実際にありては神に信順して説の可否を正すに及ぼず、理論にありては真 理に適するや否やを正すものなれば、実際と理論とは一致せず、また神を信ずると信ぜざるとは実際上に関する 故に、理論に長ずると否とによりて判ずべきにあらず。故に哲学上宗教を論究するときにおいては信と不信とを 問わず、自由に研究して可なり。もし実際に当たるにおいては、道理の有無にかかわらずこれを遵奉すべし。い にしえのモーセが神より受けしという十戒のごとき、理論上到底これを信ずることあたわず。しかれども実際上 これを信ずるにおいてはただその命に従順すべきのみ。なんとなればモーセ、アブラハムのごとき預言者出でて 339

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神命を受けしというも、これその人の道理力智力によりてしかるにあらずして、ただその人の直覚作用により、        40 感情によりてしかるものなればなり。またその預言者なるものは智識の多少によりて預言者として尊ぶにあらず、 3 畢寛預言者と吾人との区別は、道徳上の性質とならびに感情とによりてなすのみ。決して智力上に区別ありとす べからず。預言者のごときは想像力に富むも道理力に富まず、学者哲学者は道理力に長ずれど想像力信仰力に乏 し。しかしてこの預言者は想像上神を現出し、これを人情風俗の上に持ちきたりて有形上に画出せるものなり。 故に学者としてこれを考うるときは、到底信を置くことあたわざるなり。換言すれば、預言者は宗教上の感情に 強きも智力に乏し。故に自己の智力をもって実際に当てはむるときは、学者の目より見て信ずるあたわざるもの 多く、はなはだしきに至りては抱腹絶倒せしむることもあり。これ学者と宗教者との異なるところなり。もし哲 学者として出でたるときは、片言寸事の預言者を信ずべき必用なし。なんとなれば、いやしくも哲学者なる者は 預言者よりさきに智力の進歩を加えたるものなればなり。しかれどもその品行厳正に道徳端粛等の実際に至りて は、哲学者の理論家も預言者の実行家もともに一致せざるべからずとす。かくのごとく理論と実際の各別を説き、 ただ道徳品行上の実際においてのみ、学者も預言者も一致せざるべからずと説きたるは、すなわちスピノザ氏が 宗教上の考えなり。  これよりなおスピノザ氏が宗教につきての解釈を述べんに、まず人が宗教を信じ、これが支配を受けて道徳品 行を正さんためには、神律に服従せざるべからずといえり。氏のいうところのこの神律とはいかなるものなるか、 これを理論上に論究せばいかなるものなりやというに、氏の著述にかかるところの﹃政教論﹄ともいうべき書の 第四編においてこのことを説けり。その考定するところによれば、神律は最上の善すなわち神の真智真愛をその

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宗教哲学 単一の目的とするものなりという。しかしてその律は一国一民に限るにあらずして、人間一般に適用するものな り。氏また曰く、最上の善は最上の智識中に成立すべきをもって、吾人の智も善もこの神の善と智とに属するも のなりと。氏がこの考えは善と智識とは離れたるものにあらずして、善は智識によりて成り立つものとしたるが ごとし。氏はかくのごとく神律を解釈して、人民一般の説と大いにその解釈を異にせり。一般の解釈にありては 古来の伝説、聖経等によりてこれを真としもって神を信ぜしも、氏は智識によりて神の徳を知るものとし、しか して智識は吾人の思想作用によりて成り立つものなれば、神の徳ならびに神の性質は天啓によらず智識上道理上 にて研究せざるべからずとなせるは、氏が哲学上宗教を論究する旨趣なり。従来一般に神をもって自然外の理す なわち理外の理としたりしが、スピノザ氏はこれを道理以内のものとし、人間がこの自然の上において智識を得、 その智識をもって神の性質を研究するを得るものとせしは、これ氏の宗教哲学を独立せしめたるゆえんなり。ま た神は智と意と相分かれたるものにあらず、合一して作用をなすものなれども、神とこの世界の関係上より相分 かれたるごとく現れたるものなり。神律はすなわちこの智も意もともに一体となれる神の本体の、恒久不変の真 理の外に別に存するものにあらざれば、世界の事物ならびに人間の間に現存するものなり。故に世界万有、人間 および神は決して相離れたるものにあらざるなり。今、神の体より現れたる神の規律は、世界と人間との間に普 及すという以上は、これ神の規律は天地万有の規律なりというべし。これに至りて神律の解釈は自然すなわち天 地万有の理と一致するものにして、世間一般に解釈するところの神律と異なるゆえんなり。  今それ一般の通俗説に神を理外と立てたるは、神はこの世界の外にありと認識するによれり。しかるにスピノ        測 ザ氏は神も世界も同一なり、天地万有の間の必然あるいは肝要と称するものは、すなわち神の規律なり、もし神

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にして自然律に反するあれば、これ全く神の性質に反したるものなり、またもし神が万有の間に現るるものなら        42 ば、これ自然の道理と同じくして、決して理外のものにあらず、しかるに世人が神は自然の規律を左右するを得 3 ると思うは、全く自然の規律のなにものたるを知らざるに座するのみといえり。上述のごとき解釈を施し、自然 の規律と神律とを一致せしめしは、これ従来の宗教家の説を一変せしめしところにして、またスピノザ氏の功績 顕著なるところなり。  それ神は万有事物の外部の原因にあらず、内部の原因なり。その作用は随意の取捨に出でずして、自然の間に 必然の理によりてあらわるるものなり。けだし事物に原因結果の必然の関係存在するは、その規則が神の規律に 基づきて成り立てるをもってなり。これすなわちスピノザ氏宗教哲学の原理にして、従来の神秘教あるいはヤソ 教等一般の解釈と異なるところなり。一般の説にありては神は事物の外部にありて外部より働きを与うるものと し、スピノザ氏は原因結果の規則に従って事物の変化するは、事物の内部よりその勢力の発するものとせり。こ のことはなお後に至りて詳述するところあるべし。  以上説くところはスピノザ氏が宗教哲学を説くに至れる順序、すなわち宗教哲学はかつて一個の哲学として解 釈するものなかりしに、スピノザ氏その道を開きし順序を説明せしものなり。今またここに宗教哲学上スピノザ 氏の前後における思想を比較するの必要あるをもって、まず氏の哲学上の所説とデカルト氏所説との差異点を指 示し、つぎにブルーノならびにエックハルト氏所説との差異点を挙示すべし。  そもそもデカルト氏が神を立てたるは物心二元論を唱えしによるものにして、物心両存し、しかも相反対した る性質を備えたりとせしに、その性質の反対したるものがいかにして結合し、いかにして相関係するか、これを

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宗教哲学 説くにいかにせば可ならんかというに至りて、その相結合し互いに契合して作用をなすは神の力によるとし、つ いに神を借りて物心相関の理由を付したり。しかしてこの神は一種格段の性質をそなうる神にして、物心二者の 外に成立し、もって二者の上に働くことを説きたり。しかるにいまだその神と物心との関係とにつき解釈の明瞭 ならざるより、その弟子ゲーリンクスおよびマールブランシュ諸氏これを説き明かさんとせり。ゲーリンクス氏 の考うるところを見るに、およそ吾人が外物をみるは神が物心を結合するによる、吾人が思考するにあたりてそ の思考するところの対当の物件のあらわるるは神の作用により、始めより神が物心二者の契合を計りたりしをも って、二者相関係し互いに契合するなりといい、その師説をして一層強く一層つまびらかにならしめたり。しか してマールブランシュ氏はなおこれに満足せず、神がその働きを物心の上に与うるはもちろん、世界ことごとく 神の内にありて現見し、吾人また神の内にありて動作し思考するなりといえり。ここに至りてデカルト氏の説は その極端に達せり。これに反対せしものはすなわちスピノザ氏なり。氏の考えは神が物心二者の外にありて一の 成立を有するものなることを疑い、論究の結果この世界の本体すなわち神なり、物心の本質すなわち神なりとい うに至る。これをスピノザ氏の本質一体論と称す。ここにおいてデカルト氏の神とスピノザ氏の神とは大いに異 なれり。スピノザ氏の神は物心の内にあり、デカルト氏の神は物心の外にあり、一は外より内に働きを与うるも の、一は内より外に発動するものとす。しかしてその物心の本体は絶対無限唯一の体なりとするもの、すなわち いわゆる本質なり。しからば物心二者は本質に対していかなる関係を有するかというに、これ本質に属したる付 属性なり。換言すれば神は絶対無限なり。しかして物と心との二種の属性をもって吾人の考えに現るるものなり 43        3 という。果たしてしからば、何故無限の神が二種の属性のみなりや。もしわずか二種の属性のみとすれば、神は

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無限にあらずして有限のものなるにあらずやというに対し、曰く、物と心とは属性中の二種のみ、物心のほか無       44 量無限の属性ありといえども、その吾人の智識思想の中にあらわるるものは物心二者のみ。故に吾人はただこの 3 二を知りて他を知らざるなりと。かくのごとく物心二属性の吾人の思想上にあらわれたるを説けり。しかしてそ の物心二者の性質はいかにというに至りては、全く相異なるものとして区別せり。しかも全く独立したるにあら ずして神に付属し、付属しながら二者その性質を異にせりといい、もってその区別を立てたり。しかるに何故そ の反対したる物心二者がよく契合するや、すでに反対したるものならば契合するはずなきにあらずやというに至 りて、ここに神を立てたるはすなわちデカルト氏なり。相反する二者互いに成立するを得るものにして、たとえ ば木葉の形と色と互いに異性質にてありながら一木葉上に成り立つと同じく、物心二者相異なりといえども、本 質一体上二者互いに契合両立するものとするはスピノザ氏なり。しかしてスピノザ氏はこの二属性中種々無量の 物を含むとし、これを解して﹁モード﹂といえり。これを訳すれば仏教中の万法の義なり。この万法と本質との 関係はあたかも波の海水におけるがごとく、水なる本質が種々の波なる万法となり、現れて物心二者の上に万有 万境の形象を示すものなりとす。この説明によりてみるときは、デカルト氏の二元論なるに反して、スピノザ氏 は一元論なりとす。これを要するに、スピノザ氏はその哲学を組織する規模ならびに論究法はデカルト氏に取れ り。その故は神、心、物の三段を立てその関係を説きたるも、また数学上の考えより思想の上に定めたる原理を 事々物々の上に適合せしめんとしたるいわゆる演繹論法も、二つながらデカルト氏と同一なればなり。しかれど もその哲学の規模をみたすところの実体材料はかえってデカルト氏によらずして、ブルーノ氏によれり。しかの みならず、ユダヤ教の宗教哲学および神秘教説をもいくぶんか取るところあるもののごとし。すなわちプルーノ

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宗教哲学 氏は万有神教を説き、スピノザ氏またしかり。しかれどもまた互いに異説あり。ブルーノ氏はプラトン氏を継承 して、神と世界との関係に三種の理想を立て、結極その三種の体すなわち一なりとし、この一体の上よりみれば 万有差別なくして一理平等なりとす。しかるにスピノザ氏は万有神教を立てながら物心二者平等にあらずとし、 あくまでその区別を保ちて神の属性なりとせり。これその二氏異なる一点なり。つぎになおその両氏の異なる要 点は、ブルーノ氏は一方においてはプラトン氏を取りしが、一方においてはアリストテレス氏の形質論を取れり。 この論さきにすでに略述せしごとく、物には形と質とありて、質の変化するはあらかじめ定まりたる形ありて、 これをみたさんがためなりというにあり。ブルーノ氏この論を取りて世界の上に考え、世界の万物には一定の目 的ありてこれに向かって進行するものなりとせり。これを目的論︵テレオロギー︶という。たとえば大工が家を建 つるにあらかじめその構造法を図に製して一定の規模を立て、これにのっとりて工を起こすがごとく、この世界 は神が目的を定め図取りをなせしものにして、万物の変化はその神の予期せし形を取るものなりという。近世の 始めにおける、かのコペルニクス、ガリレオ、ガッサンディ、ニュートン等の諸氏また多少かくのごとき考えを 抱けり。しかるにスピノザ氏は全くこれに反対し、世界は決して最初より一定の目的あるにあらず、物心には物 心そのものの規則ありてこれに従って進み、万物また因果の規律あり、これに従って変化を生ずるものなりとい う。この因果論は今日学術上の根底となれるものにして、これを近世哲学上に説きしは実にスピノザ氏なりとす。 その目的論を打破し因果論を立てたるは千古の卓見というべし。  スピノザ氏論じて曰く、世界は神の図取りによりてその形をとるというところの目的論は、すなわち宗教上に 謬誤を伝うる原因となれり。世人これを信ずるによりて因果の関係を知らず、因果の関係を知らざるによりて、 345

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ただ神に依葱し神に阿諌して幸福を得んとするの考えを生ずるに至る。しかのみならず、天災地変その他の不幸 をもって人間の悪なるによるとなし、ひたすら神に追従し神の寵愛を得れば、ここに神の良導を受けて、かかる 災害を免るるものなりとの妄信に陥るなり。はなはだしきに至りては人間がもし神の喜悦を買わざるにおいては、 神は人間の到底避くべからざる害毒を被らしむることありと思惟するものあり。しかるにもし因果の理法を知ら ば、かくのごとき迷夢をさまし、目的論よりきたるところの妄信はただちに消散するを得べしと。これスピノザ 氏が当時の宗教および学説の上に卓立せしゆえんなり。   ちなみにいう、今日わが国に行わるる迷信的占笠、観理開運術のごときは全くこの因果必然の理法を知らざ   るによりて行わるるなり。もしこの理法を知らば一般の妄信を破り、妄信によりて徒消するいくたの金銭を   もって有益の資に充つるを得べし。その一般人智のいまだここに至らざるこそ是非なけれ。  上来段を重ねてスピノザ氏が宗教哲学を説くに至りし順序、ならびに他説との比較を陳述せり。これより氏が 宗教哲学の本論に入らんとす。          スピノザ氏の宗教哲学本論  スピノザ氏まず神の義解を下して曰く、神は絶対無限の体なり、その絶対無限の体は万有事物の真性実体なり、 これを本質︵サブスタンス︶と称す。故に神はすなわち本質なり、その体また無限の属性を有す。しかしてその絶 対無限の神体は現に実在するなり。今これを証せんに、神体は絶対無限にして、また絶対無限の力を備えたり。 しかるにもし現実に存在するあたわずとせば、これ無限の力を備うというを得ざるなり。なんとなればここに有 限のもの、たとえば人身家屋のごときものあらんに、その物実に現存するにあらずや。有限物すらかくのごとし、 346

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宗教哲学 いわんや無限物にして現存せざるの理あらんや。もし絶対無限の物、実在せずといわば、相対有限の物また現存 せざるはもちろんなり。もしこの世界に現存するもの一もなしとせんか、なお可なり。もし現存するものありと せんか、必ずまず無限物を数えざるべからず。されば世界一切の事物一も現存せざるか、あるいは無限のもの現 存するか、いずれかその一におらざるべからず。しかるに世界のものみな現に存在せり、あに無限物の現存する なからんや。この現存は必然にして打破すべからざる理なりと。また曰く、神は無限の力を備うるものなるをも って、その現存するには現存するゆえんの力を有せざるべからず。すなわち神は無限絶対の力をもって現存する いわゆる無限絶対の体なりと。また曰く、物にして現存することあたわざれば完全というを得ず。完全なれば必 ず現存すべし。今、神は完全なり。故に必ず現存せざるを得ずと。この論法の推理は確実なるも、その前に憶定 せる論案は確実ならざるは、論を待たずして知るべきなり。スピノザ氏は数学上の考えより、デカルト氏に同じ く演繹論法を用いたり。数学的論法は実に確実なるものなれども、その運用のいかんによりて不完全となる。す なわちこの論法はわが思想中に憶定せる一真理を基礎とし、これを外界の事物に当てはめ、もってかくのごとし と断定するなり。例せば一部分は全体より少なしとは数学上の原理原則にして、我が輩決してその道理を疑うこ とあたわず。実に思想上明瞭なる真理なれば、これを原則として諸規則の真偽を判定することを得るも、一切の 事柄みなかくのごとく思想上に明瞭なるをもって、現存上確実なりと断言するを得ず。もしかくのごとく想定す るときは、これ独断的に傾くものなり。なんとなれば、その思想中に定めたるものは真理と断じて、何故にこの 真理なるやを疑わざればなり。けだしデカルト氏が己の思想に明瞭なるものは実際にもまた確実なりと独断的に 47       3 思考せし論理法を受けて、スピノザ氏も神は無限のものと始めに断定し、故に神は現存すという。しかして何故

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に神は無限のものなるかを疑わず、また更にその証明を与えざるなり。故にその考え、今日より見れば決して論       48 理上正しきものにあらざるなり。スピノザ氏また曰く、絶対無限の体は一つより多かるべからず、故にこの世界 3 に神体を離れて別に物ありというを得ず。一切万物ことごとく絶対の体中にあり。もしこの外にありとせば絶対 の体の外に別に一物ありとせざるを得ず、しかるときは絶対にあらず。この理よりスピノザ氏は推演して、神は 外部にあらずして内部にありという。神は外にありて世界に働くとせば、神と世界とは二物なり。しかれども神 の外に世界なく、絶対の外に物なきをもって、内部にありて外部にあるものにあらずと論定せり。スピノザ氏ま た自由意志論を説破して曰く、神は自由意志を有し、右せんと欲して右し、左せんと欲して左し、その意志自由 に発動して自由に動作すと信ずといえども、神は決してかくのごときものにあらず。神の作用は因果の原則によ り、必然の理法に従ってあらわるるるものなりと。もって従来の自由意志論を変じて必然論とせり。しかしなが ら氏必ずしも神の自由を説かざるにあらず。世人の一般に自由というは、神が勝手に規則を左右し理法を変易し、 その欲するままに外部より作用するというものなれども、スピノザ氏の称する自由はこれに異なり、神は決して 外より圧制を受けず、神外に万物なきをもって神が外部より圧制せらるることなし。すなわち神は自己の内部の 力にて活動せり、自体固有の性質規則に従い運動し作用せり。故に神は自由なりというなり。すなわち神はいか なる動作、いかなる変化を万物の上になすも、みな自体固有の因果の規則によりてしかるものにして、あたかも 三角形の内角の総和は二直角に等しという幾何学上の定義は、三角形固有の規則にして、その三角形がいかに変 化するも、いやしくも三角形たる以上はこの規則によらざることなきと一般なり。神は完全というは、どこまで も因果の軌道を外れず、無始より無終にただ一の必然の理法をもってその作用を一貫する故なり。しかるに一般

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宗教哲学 の人の考えのごときは、神は人間のごとく左右前後、是非善悪みな自己の意志に任せて発作するものとし、ただ 神は人間よりその意志の数層優等に位するのみと考え、人間より推して神の性質作用に論究するは大いなる誤り なり。もしかくのごとく人間に智あり意あり、神にも智あり意あり、人間も神もその性質異なるなしという、こ れあたかも星宿にドッグと名付くるものあるをもって、獣類のドッグとその実異なるなしと想像するに同じきも のなりといい、大いに世人の自由意志論を排斥せり。  およそ智といい意というもの神の本質にあらず。本質自体は智と意とを離れたるものにして、智と意とは神の 属性なり、また物質の動静も神の属性なり。本性よりいえば物質の動静は物質上においての属性なり、延長性の 上における神の属性なり、智なり意なりは思想上の神の属性なり。換言すれば、一は物質に属し、一は心性に属 する属性の顕現なり。もし智と意とは真に神が備うるものとせば、物質の動静も神は備えざるを得ず。ひとり意 志のみ神の性質にして、物質上の性質を神に備えずとするの理あらんや。しかるに物質上の性質は神の本性にあ らずとせば、智も意も神の本性にあらずというべし。スピノザ氏はかくのごとく論じきたりて、世人のあるいは 神に延長的性質を具するを説かざるも、ひとり思想的性質を有するを説き、この二者同一に神の本体にあらずし て、その属性なるを知らざるものをしてその理を了解せしめんとせり。  氏の所論中にて最も卓見と称すべき点は、古来より学者および宗教家等の盛んに主張せし自由意志説を論駁し て因果必然説を主張せしにあり。その説に曰く、内界も外界も畢寛その本体たる神の属性なれば、ひとしく唯一 の規律すなわち因果必然の理法によりて支配せられざるを得ず。しかるに外界のみ必然の理法に検束せられて、       49 内界ひとり自由不羅なるものとするは不正なる理論たるや明らかにして、この二者はひとしく必然の理法により 3

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て支配せらるるものなり。この内界の方を名付けて思想あるいは道理といい、外界の方を名付けて物質あるいは 運動という。しかしてこの二者を深く推究してその本源にさかのぼれば、ひとしく無限の本体に達し、無限の道 理、無限の運動となるものなり。しかしてその無限の本体に達するときは、すなわち神自体の作用を呈するもの にして、この神自体の作用に二種の性質を有す。一を思想といい、一を延長という︵この区別はかのデカルト氏 の二元論によりしものなり︶。この二種の性質は神自体に具有せる属性にしてひとしく無限なり。故にその無限な るものを総括して、無限性の思想あるいは無限性の延長と称す。神はこの二種の属性を有するをもって、無限の 道理、無限の運動の二種の作用を呈し、この二種の作用は因果必然の理法によりて支配せらるるものなれば、物 質上の運動、あるいは静止の作用のみ必然の理法に服従し、内界の意志ひとり自由不覇の性質を有し、必然の理 法に服従せずとするの理あらんや。これによりてこれをみれば、意志と物質とは同等同権にしてひとしく必然︹の︺ 理法の配下に属するものなれば、意志ひとり自由不覇の性質を有するものにあらざるや明らかなり。しかるに古 来の学者あるいは宗教家が盛んに自由意志説を主張してもって真理なりと是認せるは、不道理の理論たるや論を またずして明らかなりと。かくのごとく氏は古来の学者あるいは宗教家に反対して薪然頭角をあらわし、因果必 然説を主張し、哲学界宗教界に一大波瀾を起こしたるは、実に氏の氏たるゆえんにして、後世氏を推して必然説 の元祖と称するもまたこの点に存す。  しかして氏は宇宙万有を解するにも、前述の説を演繹推論せるに外ならず。曰く、宇宙万象はことごとく必然 の理法によりて支配せらるるものなれば、その無限の始よりこの理法を経過してきたり、また無窮の将来といえ ども今日まで進みきたれる方向によりて進み、決して他の方向を取りて進むことあたわざるものなり。しかるに 350

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宗教哲学 古来のヤソ教者流は、神は全智全能なるをもって自恣専檀にその轍を変じ、その方向をかうることを得るものな りといえり。神はたとえ全智全能、完全無欠のものなりとするも、決して自恣専檀に宇宙の方向を変ずることを 得るものにあらず。なんとなれば、神は無始無終、不変不易にして、唯一の規律すなわち必然の理法を具有する ものなれば、その意志すなわち必然の理法によりて所定せる宇宙万象も永久不変に唯一の方向を取り、必然の理 法によりて進まざるを得ず。しかるにもし神の所定にして従来の必然は将来の不必然となるがごとき変遷常なき ものとせんか、神は完全無欠とすることあたわず。しかるに神は完全無欠、不変不易なるものなるが故に、その 所定せる宇宙万象も永久不変に唯一の理法に支配せらるるものなることを知るべし。この論はかのデカルト氏の 形式によりて組織し、その材料は種々なる元素によりて成立せるものなり。  しかして氏は本体に関する属性を論じて曰く、神は宇宙万有の本体にして無限恒久のものなり。しかしてまた 思想性と延長性の属性を具有す。しかれども属性の数に至りては決して二者に限れるものにあらず。なんとなれ ば、神の体たるや無限性のものなれば、その体に属する性情もまた無限の数を具有せざるを得ず。しかれどもこ の無限の属性中にて吾人人類の不知界に属するものは単に思想性と延長性の二者に限り、余はみな不可知界に属 するものなり。しかしてこの二属性はその範囲広大にして、吾人の見聞覚知することを得る森羅万象は一として この範囲を脱することあたわずして、この思想性の大範囲中には個々の観念も成立し、延長性の大範囲中には個々 の物質も成立するものなり。その個々の延長性を総括して天神的の延長といい、個々の思想性を総括して天神的 の思想という。しかして氏はまた万有を総括して三種に区別せり。曰く本質︵Q力已ひoD吟①白∩m︶、曰く属性︵﹀口吟苦巨Φ︶、       皿 曰く万法︵ヨoO⑦︶︵万法とは仏教にて真如万法といえる万法の意なり︶これなり。

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