本貫地と土断︑秀孝及び中正について
矢
野
主
税
目 次
序 説
第一二 巴二回 目三節
結 語
序 説 土塁について本貫地と秀才・孝廉について本貫地と中正について
筆者は ﹁郡望と土断﹂ ︵未発表︶という小論で︑晋書︵60︶李含
伝の内容について︑次の如き点が指摘できると述べたことがある︒
即ち︑ 第一には︑上書李含伝の伝書に駅留狭道人とあるが︑これは李含の現本貫地ではなく︑李含の当時の本貫地は︑伝申に僑居地として
あげてある警世郡であること︑従って︑晋書に僑居地があげられて
いる場合は︑それは新しい本貫地であろうと考えて︑まず間違いあ
るまいということ︑
第二には︑単身の本貫が雍上野平郡に属するとすれば︑誘殺が始
平郡の孝廉にあげられ︑雍州の秀才にあげられていることからみ
て︑秀才や孝廉にあげられるのは︑本貫地においてであると考えて
よいということ︑
第三には︑黒焦が下平郡の中正となり︑北地︵雍州︶の傅祇が本
州︵雍州︶大申正であったのをみれば︑申正も本貫地において任用
されたといえること︑ という三点であった︒ さて︑晋書︵66︶陶侃伝によるに︑ ﹁本都陽人也︒呉平︒徒家盧江之尋陽︒⁝⁝⁝︵盧江太守張︶嚢子侃為孝廉︒﹂とみえている︒即ち︑もと都陽郡にいて︑呉に仕えていたこの一家は︑呉の滅んだ後︑盧江郡尋陽に移住した︒若し李含伝に従って︑僑居地は新しい本貫地となったと考えれば︑三三にとって盧江郡は新しい本貫地であった筈である︒そうすると︑侃が張肇に孝廉にあげられているのは︑李含と同じく︑本貫地においてあげられたと考えてよいわけである︒ ところがこれに対して︑太平御覧︵562︶申正の条にひく記事に︑ ﹁晋書日︒楊陣︑陶侃共載詣顧栄︒州大中正温雅責璋與小人共載︒⁝⁝楊陣代雅為大中正︒挙侃為重陽小中正︒﹂とみえ︑同じことについて︑世説新語︵組重第十九︶には︑ ﹁王隠晋掛日︒⁝⁝後︵羊︶陣身近郡愛野︒挙侃為鄙陽小中正︒始得上晶也︒﹂という記事がある︒この楊︑羊何れが是かは明かにし難いがi晋書陶侃伝は楊陣という一︑この人が揚州大中正となった時︑陶侃を鄙陽小申正にあげたという︒ただ︑現行洋書の陶侃伝には︑単に︑ ﹁棄官帰為郡小中正︒﹂としかみえず︑どこの小中正になったかを明記しない︒けれども︑侃が官を棄てて帰るという以上︑それは現に居住している盧江郡尋陽の地と考えられるから︑文字通りに解するならば︑盧江郡に帰って︑その本貫地たる盧江の小中正となったということになろう︒
若し︑李含伝にみた如く︑中正は本貫地の人を以てあてるi例え
一
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ば︑通典︵14︶選挙典の割注にも︑ ﹁魏氏革命︒州郡縣倶置大小申
正︒各善本処人任︒﹂という如く︑一ということであれば︑陶侃の小
中正は野江郡小中正であるべきであろうに︑雪隠卜書等にいうとこ
ろは夕陽郡小隊正である︒すると陶侃の本貫はなお都陽にあったと
いうことなのであろうか︒
或は又︑陶侃の本貫地は盧江であったとしても︑それにもかかわ
らず侃が都陽小申正となったのであれば︑少くとも西晋末ごろから
は︑中正はいつでも本貫の人を以てあてるということではなくなっ
た︑即ち︑旧本貫地においてあげることもあったということなので
あろうか︒
さてこの場合︑四書︵66︶陶要語の青頭の︑﹁本曇陽人也﹂とい
う表現は注意せねばならぬ︒この表現はあとで詳論する如く︑ ﹁も
との本貫地は鄙陽であるが︑今はそうではなく別に本貫地をもって
いる︒﹂の意に解すべきである︒とすると︑吾平の本貫地は確かに盧
江郡尋陽の地にうつっていたとすべきであろう︒このように︑侃の
本貫地を里馬とすれば︑郡小中正にあげられたのは旧藩窪地鄙陽に
おいてであったと考えるか︑それとも︑中正は本貫地の人を以てあ
てるという原則によってみれば︑弓隠卜書等の﹁都陽郡小申正﹂と
いうのは︑ ﹁盧江郡小中正﹂の誤であろうと考えるか︑何れかであ
ろう︒ 次に祖 の場合について考えてみよう︒その伝︵晋書62︶によれ
ば︑ ﹁苑陽遁人也︒世智二千石︒為北州旧姓︒⁝⁝僑居陽平︒年二十
四︒陽平辟︒察孝廉︒司隷再辟︒挙秀才︒皆不行︒冷点空劉現倶為
芸州主簿︒﹂とみえる︒これによれば︑祖 は幽州萢陽の人である
が︑司州の陽平郡に僑居し︑二十四才で陽平郡の辟召をうけ︑つい
で陽平郡の孝廉にあげられ︑司隷の愛寵もうけ︑更に本州の秀才に
二
もあげられたが︑皆就かなかった︑ということになろうか︒このよ
うに︑僑居地である陽平及び筆才で︑辟召をうけ︑孝廉や秀才にあげられている︒この場合︑李含同様に︑既に本貫は司州の陽平にう
つっており︑その故に秀才︑孝廉にあげられたと見るべきであろ
う︒とすれば︑その列伝の伝頭には︑現本貫地ではなく︑もとの本
貫地の地名一書望としての苑陽の地名が掲げられていたと見るべき
であろうか︒
以上︑一︑二の具体例をみただけでも︑従来あいまいに見すごさ
れてきた点が指摘できるので︑これらの点をたしかめておく必要が
あろう︒ 以下︑次の三点に要約して検討を加えてみたい︒
第一には︑僑居地は常にそのまま本貫地となったといえるであろ
うか︒ 第二には︑孝廉や秀才は︑いつでも本貫地においてあげられたの
であろうか︒
第三には︑申正はいつの時代にも本貫地の人をもってあてたので
あろうか︒
第一節 土日について
先ず第一点︑僑居地は常にそのまま本貫地となったのであろう
か︑即ち︑土野はどのように行われたか︑ということについて考え
てみよう︒この点については︑既に別論でかなりこまかく論じてい
るのではあるが ︵拙著﹁東晋における南北人対立問題一その社会的考察﹂
︵史学雑誌77の10︶︑﹁土断と白籍﹂ ︵史学雑誌79の8︶︑ ﹁郡望と土断﹂
︵未発表︶参照︒︶︑ここでは二︑三の実例を引用しながら︑僑居地が
本貫地となったことについての︑概括的な論証を試み度い︒
はじめに前述李含についてみるに︑李異業︵選書60︶によれば・
傅成の上奏に︑ ﹁臣州秦国郎申終始平李含﹂とみえている︒ところ
で二成は︑晋書︵47︶傅玄伝によるに︑﹁吉言泥陽入﹂とみえるか
ら︑雍州に属するわけである︒その故に傅成は︑同じく雍州に属す
る始平郡の李含に対して︑﹁臣の州の下平の李含﹂といっているわ
けで︑含の本貫は始動にうつっていたこと明かであろう︒
更に李含伝には︑﹁又含自以朧西人︒錐戸属始平︒真正綜悉︒﹂
ともみえている︒その意味は︑﹁李含は︑自らは朧西の人と考えて
いるので︑戸籍は始動についてはいるが︑そこの人物をよく知って
いるわけではない︒﹂というものであろう︒ ﹁戸籍が田平につく﹂と
いうことは︑﹁本貫を落前につけている﹂の意味であることは︑別
に詳論したところである︵拙稿︵土断と白籍﹂︵前出︶︶︒即ち︑李含は
本貫は始平にうつしているとはいえ︑なおやはり朧西の人間だと考えている︑という意味になろう︒これによるも︑当時の李含の本貫
は始動に属していたこと明かであろう︒
次に論人陶侃についてみるに︑前述の如く彼は夏陽から盧江に移
住した︒そのことについて︑世説新語︵言語第二︶劉早引陶氏叙に
よれば︑ ﹁侃字士衡︒其先鄙陽人︒後徒尋陽︒﹂とみえる︒この﹁其
先都陽人﹂という表現は︑陶侃伝︵晋書60︶の︑ ﹁本鄙陽人﹂とい
う表現と同様に︑ ﹁昔は斜陽の人であったが︑今はそうではない︒﹂
の意と考えられることは︑別面︵﹁郡望と授爵﹂ ︵未発表︶︶に指摘し
ているところである︒即ち陶氏叙の内容は︑侃の祖先は鄙陽に本貫をもっていたが︑今は盧江の尋陽に本貫をうつしているの意とみる
べきであろう︒
更に陶侃が盧江の人であることを示すものは︑晋書︵66︶劉弘伝
によるに︑﹁︵陶︶侃與︵陳︶敏同郡︒又同歳挙吏︒﹂とあり︑陶侃伝
︵縦書66︶には︑﹁︵属壊︶日︒喪亡︵陳︶希有郷里之旧︒﹂とみえるものであろう︒即ち︑この陶侃と同報であり︑郷里の旧ありといわ
本貫地と土断︑秀孝及び中正について︵矢野︶ れる陳敏はどこの人かというに︑晋書︵⁝⁝︶陳岩伝によれば︑鷹野の人という︒ということは︑陶侃は陳敏と同じ盧江の人であったということになろう︒従って︑これ以来この一門は盧江尋陽の人となったわけで︑それは宋書︵93︶陶潜伝に︑ ﹁陶潜⁝⁝尋陽柴桑人也︒曽祖侃晋大司馬︒﹂とみえるところで明かあろう︒ 最後に晋書︵%︶檀葱之伝をみるに︑ ﹁高平南扇︒⁝⁝與劉裕豆州闘之旧︒﹂とある︒ここにいう州閥とは︑例えば太平御覧︵562︶中正の条にひく新論に︑ ﹁百郡未申正︒九州置都士︒州閣万古縣︒希疎如馬歯︒何縁別義理︒﹂とあるのによれば︑郡縣に対する州の意味にとれ︑更に南古書
︵39︶画商伝に︑
﹁宋大明四年挙秀才︒兄燧亦有名︒先応州挙︒至是裏漉東海王元
曽與鰍父恵書案︒此歳賢子充秀︒州闊画廊蔵入︒﹂とあるのも︑州の
意味にとってよいと思われる︒しかし︑州聞を単に﹁むらぎと﹂の
意味にとるべき場合もあるようである︒例えば︑史記︵621︶淳干髭
伝に︑﹁若乃州闘重要︒男女雑坐︒行酒稽留︒﹂というものはそうで
あろうか︒
従って︑この檀愚之と劉裕との関係を︑同量と考えるのか︑同じ
地方︑或は場所と考えるのか︑二通りの解釈が可能なわけである︒
では︑両者の実際の関係はどうであったかというに︑忌引のように
檀愚之について︑晋書は高平人︵温州︶とし︑劉裕については彰城
縣綾里人︵宋書i武帝紀上︶とあるから︑寄州彰城郡に属すること
となる︒すると︑史書にみる彼等の北方における出身地についてみ
る限り︑両者は三州でもなければ同郡でもない︒では何故に︑両者
は同州︑或は同じ地方のよしみありとされているのであろうか︒
以上の如く︑北方の出身地において同州或は二面などではないと
すれば︑必ずや江南の僑居地において︑同州或は同じ地方としての
三
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よしみをもっていたといわねばなるまい︒そこで両者の江南におけ
る居住地についてみるに︑要素之一門は︑少くとも東塔末ごろに
は︑晋陵早算徒縣京口里に居住していたと思われる︒というのは︑
曝書︵85︶檀慧之伝によれば︑﹁従兄子紹兄弟五人︒皆稚弱而孤︒
愚之撫養︒若己所生︒﹂とあって︑懸之は紹兄弟を養っていたという
が︑その檀紹について︑副書︵45︶落胆伝には︑ ﹁高平金郷人也︒
世居京口︒﹂と記している︒従って︑この檀氏一門は東晋時代から京
口の地に生活の本拠をおいていたと考えてよいであろう︒
一方享和一門についてみるに︑﹁︵劉︶混始重砲︒居埋土憂心徒縣
之京口里︒﹂︵宋書1武帝紀上︶と記されている混は裕の曽祖父であ
る︒従って︑ この一門にとって︑丹徒は故郷と考えられていた筈
で︑そのことは宋書︵5︶文帝紀に︑
﹁︵元嘉︶四年⁝二月乙卯︒行幸丹徒︒謁京陵︒三月半子詔日︒丹
徒桑梓︑綱謬大業︒仮始足踏︑永懐触感岡極︒⁝⁝其鎧此縣今年租
布︒﹂とあるところによってたしかめられる︒ 以上によれば︑檀愚之と劉裕とは僑居地たる江南の思妻郡丹徒縣
において州闘のよしみありとされたこと明かであろう︒ ただこの場合考えておかねばならぬのは︑生活した場所が京口里
であったということは︑直ちに丹徒縣京口里に本貫をつけた︑即
ち︑丹徒縣京口里の人となったということではない︑ということで
ある︒というのは︑劉氏一門はたしかに丹徒縣京口里におりながら
も︑実際には︑ ﹁南彰城人﹂ ︵全量文60︑宋散際常観護軍将軍籍澄侯劉
使君墓誌︶と称しており︑或は︑又︑恐らくは東晋の初号過即して
晋陵郡武進縣東城里に僑居した︑斉の太祖の祖先が︑﹁南蘭陵蘭住
人也︒﹂︵南借書1高帝紀上︶と称しているのをみれば︑これらの人々
の本貫は︑望薄郡の丹塗縣︑盲進縣につけられたわけではなく︑そ
の地に僑置された僑郡縣につけられたものと考えねばなるまい︒と
四
すれば︑独習の場合も現実の生活は丹徒縣京口里で行われたとして
も︑それは︑そこがそのまま本貫地となったということではなく︑
本貫は恐らくは︑﹁南高平郡﹂ ︵宋書35州郡志︶につけられていた
と考えるべきではなかろうか︵前掲﹁土蜂と白籍﹂参照︶︒即ち︑皇
図︑劉氏は共に現実には︑丹徒県京口里に居住し︑同じ地方に住む
よしみはあるものの︑形式的な本貫地は別であったということであ
ろう︒ 以上のように考えてくると︑西夏半ば頃以降︑東晋末にかけて︑
僑居した土地はやがてその本貫地となったこと間違いないようであ
る︒しかし︑東晋における北人の場合は︑土倉によって︑現に居住している土地にそのまま籍がつけられたことがあったとしても︵陳
書1高祖紀上︑参照︶それよりも寧ろ︑初めは︑現住の地に設けられ
た僑郡縣に本貫がつけられることのほうが一般的ではなかったであ
ろうか︵拙稿﹁土断と画聖﹂参照︒︶︒従って︑東急時代の北人に関す
る限り︑南方の僑居地がその本貫地となったのではないかと考えら
れるとしても︑その内容においては簡単に断定し難い面があったよ
うである︒
第二節 本貫地と秀才︑孝廉について
次に︑秀才や孝廉はいつでも本貫地においてあげられたものか︑どうかについて考えてみたい︒前述のように︑李含は朧西及び豊平
で孝廉にあげられ︑更に肥州の秀才にあげられた︒陶侃は藤江で孝
廉にあげられ︑祖堂は陽平で孝廉にあげられ︑更に司州の秀才にあげられた︒この場合︑李含は朧西にいた時に朧西の孝廉にあげら
れ︑後に始平郡に移ってからそこの孝廉にあげられ︑祖遂は萢陽か
ら陽平郡にうつり︑そこで孝廉に︑且つ陽平の属する泉州の秀才に
あげられたと考えるとすると︑僑居地が直ちに本貫地となり︑そこ
で秀才︑孝廉にあげられたということなら︑秀才︑孝廉はすべて本
貫地においてあげられる︑といい切れそうである︒
いま別の例として︑晋書︵52︶華謳伝の次の記事をみよう︒即ち︑
﹁及早書厘江︒⁝⁝又挙世族周訪為孝廉︒﹂とある︒ところで︑そ
の周訪について︑晋書︵58︶のその伝には︑
﹁本震南安城人也︒漢末測地江南︒至訪四世︒呉平︒因家朧江尋
陽焉︒﹂とみえる︒この場合も︑前述陶侃の﹁本長陽人﹂という表現と同じ
く︑ ﹁本汝南安城人也﹂とあるが︑これも︑ ﹁旧本貫地は汝南であったが今はそうではない﹂の意味を示すものであるから︵後述参照︶
三蔵の現本貫地は盧江郡であり︑従って︑彼はその本貫地におい
て︑太守華諌によって孝廉にあげられたとみるべきであろう︒ こう考えてくると︑秀才や孝廉は本貫地においてあげられるとい
うルールは動かなかったといえそうである︒ところが︑前述陶侃に
関する記述の場合︑若し王尊閣書等の記述が正しいとすれば︑陶侃
は鄙陽郡小中正であったことになるから︑従って彼は旧本貫地の中
正となったといわねばならぬ︒すると︑申正はいつでも現本貫地であげられるとは限らず︑一方秀才︑孝廉はいつでも本貫地であげら
れる︑ということになる︒では果して︑秀才︑孝廉は︑いつでも本
貫地であげられたといい切れるのかどうか︑以下且ハ体的に検討して
みよう︒ さて︑申正制施行以前は︑秀才や孝廉は刺史や太守の推挙のみに
よってあげられたのであるけれども︑申正制施行後は︑あらゆる就
官希望者が中正の郷品をうけ︑その郷品によって任官したわけであ
る︒従って︑如何なる任官希望者と錐も︑中正の品題をうけたわけ
で︑秀才︑孝廉と錐も例外ではあり得なかった︒従って︑李含︑陶
侃︑祖遂の場合も︑それぞれ際西︑始平︑盧江︑陽平の中正によっ
本貫地と土断︑秀孝及び中正について︵矢野︶ て二品をうけ︑その上で孝廉にあげられたと見るべきであろう
︵拙稿﹁魏晋申正制の性格についての一考察﹂ ︵史学雑誌72の2︶拙稿﹁魏
晋社会と入流﹂︵長大史学第+一輯︶参照︶︒ということは︑申正も︑秀
才孝廉にあげられる者も︑元来はその本貫を同じうしたと見るべき
ものであろう︒
その故にこそ︑これら秀才や孝廉は故郷を代表する人物として察
挙されたのであって︑それは例えば︑北堂書妙︵79︶設官部秀才の
条に︑﹁晋令云︒挙秀才獣行儀典︒為一州之俊︒﹂とみえ︑晋書︵78︶
孔歯群坦の条に︑
﹁薄手策照日︒呉興徐酸葉皆殺郡将︒郡今鷹挙孝廉不︒坦対日︒
四罪不相及︒里馬而興萬︒徐酸為逆︒何妨一語懸緒︒﹂とみえるとこ
ろで明かである︒
そこで秀才︑孝廉が︑その本貫地で察挙された実例についてみる
に︑晋書︵51︶三哲伝に︑
﹁陽平元城人︒⁝⁝哲博学多聞︒與兄子倶知名︒少游国学︒⁝⁝
還郷里︒察孝廉︒挙茂才︒皆不就︒﹂とある︒これは束暫が郷里陽平
郡で孝廉にあげられ︑陽平郡の属する司州で秀才にあげられたこと
を示している︒
或は又︑晋書︵68︶賀循伝によるに︑
﹁会稽山陰人也︒⁝⁝呉呉︒乃還本郡︒⁝⁝刺史奮喜挙秀才︒﹂と
あるが︑これは賀循が会稽郡に帰ってから︑奮康の兄で揚州刺史で
あった岱喜︵魏志21王粂伝斐注引奮氏譜︶ によって︑揚州の秀才にあ
げられたことを示している︒更に晋書︵43︶山桜伝によるも︒
﹁河内芸人也︒⁝⁝濤年四十︒身為郡主簿功曹︑上計橡︒挙孝
廉︒⁝⁝景品命司宰挙秀才︒﹂とある︒濤が秀才にあげられたのは
河内郡の属する司州であるから︑孝廉にあげられたといっているの
は河内郡によるものというべきであろう︒
五
長崎大学教育学部社会科学論叢 第二〇号
次に貴書︵25︶華諦伝をみるに︑﹁太康申︑刺史寒暑挙課秀才︒﹂
とみえる︒華諺は廣陵の人︵卜書52︶であるが︑毬果伝︵晋書89︶
によるに︑
﹁︵紹︶拝尊詠刺史︒時石崇為都督︒⁝⁝元康初︑為給事黄門侍
郎︒﹂とみえているから︑華調は里馬中に︑広陵の属する徐州の刺史
であった毬紹に秀才にあげられたのであろう︒
以上の諸例は︑魏或は西晋時代の人々で︑郷里にあった点々が︑
その地で秀才や孝廉にあげられた例である︒これに対して︑同じ時
代の他郷に僑居した場合はどうであったろうか︒例えば晋書︵43︶
富麗伝によるに︑
﹁南陽清陽人也︒⁝⁝廣孤貧︒僑居山陽︒寒素為業︒⁝⁝王多可
荊州刺史︒聞広為夏侯玄所賞︒乃挙秀才︒﹂とある︒即ち︑男能は甲
州刺史王戎によって秀才にあげられたというが︑南陽郡はこの荊州
に属していた︵晋書15地理早起州の条︶︒これは︑廣の本貫は依然として南陽にあり︑それによって荊州の秀才にあげられたということ
であろうか︒
或は又︑晋書︵45︶盛運伝によれば︑
﹁東黒鼠人︒僑居懇望︒太守特訓請為功曹︒⁝魏末本郡下孝廉︒
辟司思者官従事︒﹂とみえる︒この場合の本郡は︑晋書︵68︶賀言伝
に︑ ﹁雪嶺書家難︒流放海隅︒呉平︒乃還本郡︒﹂という場合の本郡
と同様に︑本貫地︑故郷の郡の意としてよいであろう︒即ち︑劉毅
は平陽に僑居していても本郡東莱郡にて孝廉にあげられたとみてよ
いのではあるまいか︒
さて先述李含や陶侃の場合においては︑僑居地がやがて本貫地と
なり︑そこで孝廉や秀才にあげられたのであったが︑この場合は︑
僑居地においてではなく︑本郡においてあげられたとなっている︒
すると︑楽廣︑劉毅においては︑僑居地が︑なお本貫地とはなって
六
いないと考うべきであろう︒実は別に指摘した如く︵拙稿﹁東晋にお
ける南北人対立問題︑1その社会的考察﹂ ︵史学雑誌77の10︶︑僑居地がや
がて本貫とされた土断政策は西晋半ば以降のことで︑楽廣︑国手の
場合は︑そのような土断の以前のことであったと考えられる︒従っ
て︑魏から西嶺にかけてのすべての秀才や孝廉は︑本貫地においてあげられるというルールによってあげられていたと考えてよいので
はなかろうか︒
では︑東面時代においてはどうであったろうか︒東出には︑江北
から流寓した多くの北人がいたのであるから︑西晋時代の如く単純
ではあり得なかったのではなかろうか︒ところが︑この為に利用で
きる東晋時代の資料は極めて乏しく︑従って︑南朝の史料をも併せ
用いて考えてみるより外はないようである︒
いま東晋の例についてみるに︑晋書︵88︶何碕伝に︑
﹁司空充之従兄也︒碕好古博学︒潮招城陽穀縣︒⁝⁝乃為郡主
簿︒察孝廉︒除六籍︒尊霊補宣城浬縣令︒﹂とみえる︒三論は何充と
共に盧江何氏に属するが︑南渡して宣城郡におり︑のちに宣城三層
縣令になったというのであるから︑郡主簿というのは宣城郡主簿であり︑孝廉は宣城郡の孝廉であったとみるのが妥当であろう︒とい
うことは︑碕はその僑居地たる宣城郡において孝廉にあげられたと
いうことのようである︒これは︑宣城郡が何碕の本貫地であったが
故であったであろう︒
では︑南朝にみえる秀才︑孝廉はどうであったろうか︒いま︑宋
書︑南斉書︑梁書によって︑秀才︑孝廉にあげられた人々の中︑何
処の州郡であげられたか明かな人々を示してみよう︒
表工 南朝秀才︑孝廉表︵︵ ︶内は推定︶
出 典人名︑出自秀︑孝 の 別
時代
宋書︵52︶二三伝副書︵78︶劉延孫伝宋書︵84︶孔観伝南斉書︵28︶劉善明伝南斉一︵34︶二三之伝南斉書︵52︶丘巨源伝梁書︵26︶薫 珠 伝揚 州 秀才︵三州︶秀才揚州 秀才︵青州︶秀才三州 秀才丹陽郡孝廉南徐州秀才三三三州丁丁斉 梁書︵14︶江渣伝梁書︵14︶二巴伝梁書︵19︶宗央伝梁書︵21︶王平温梁書︵36︶江革伝梁書︵47︶二兎伝梁書︵49︶呉島伝 南徐州秀才三州秀才三州 秀才南徐州秀才南徐州秀才︵揚州︶秀才︵丹陽郡︶孝廉斉斉一梁斉一斉
さて︑この表において︑会稽の孔號が揚州秀才にあげられている
のは︑孔號にとって会稽郡は現住地であり︑本貫地であったのであ
ろうから︑当然であったであろう︒盧江の何燗が揚州秀才にあげら
れたのも︑富江が元来揚州に属していることからみて︑同様と考え
られないことはないが︑しかし何氏は旧本貫地盧江を離れて︑江南
の何処かに移住していたと考えられるから ︵拙稿﹁東晋における南北
人対立聞題﹂一その社会的考察一L中の︑ ﹁江北人の江南移住略表﹂参照︒
︵史学雑誌77の10︶︶︒現本貫は江南の揚州に属する何処かの郡につけ
られていたのであろうか︒即ち︑会稽の孔號と盧江の何燗は一見し
て伺れもその本貫地において秀才にあげられたようにみえながら︑
実は︑一は現住所︑現本貫地たる会稽で︑他は︑旧本貫地霊江をは
なれた︑江南の現住所であり︑現本貫地たる︑揚州に属する或る場
所で秀才にあげられたと解される︒
本貫地と土断︑秀孝及び申正について︵矢野︶ 丁度︑この意馬と同様な例としてあげうるのが︑衰濯の例であろう︒衰濯は池州言霊の衰氏に属する︒ところが彼が揚州秀才にあげられているのは︑彼が江南の揚州内の何処かに現住し︑且つ本貫地を設けているが故と考える外はあるまい︒尊翁の場合は︑同じく揚州内の旧本貫地から新本福地に移住したのであり︑蓑濯の場合は︑豫州陳謝から揚州内の新本貫地に移住したものであろう︒ 或は華麗善明についてみるに︑彼は平原郡の出身であるから︑江北においては播州に属するわけである︒ところが彼があげられたのは翼州秀才ではなく︑青州秀才である︒では何故青煮秀才にあげられたのかということについて考えるに︑ ﹁元嘉末︒石州鱗荒︒人相食︒善明書影積翠︒洋食饅粥︒開豆以救︒郷里多忙全済︒時︵青︶州治東陽城︒善明家在郭内︒﹂︵南岸書
28ォ善明伝︶とあるところで明かな如く︑彼が青葱に根をおろして
七
長崎大学教育学部社会科学論叢 第二〇号
いたこと︑恐らくは彼がそこに新しい本貫をつけていたが故ではあ
るまいかと思われる︒
以上のように考えるのは︑秀才や孝廉は本貫地においてあげられる︑という前代以来の原則が︑南朝においても行われていたと推定
するからであるが︑この推定が正しいと思われることは次のような
例によってたしかめることができるであろう︒即ち︑丘巨源の例を
みるに︑彼は豊野郡孝廉にあげられているが︑図面郡の人とされて
いる︒その間の事情についてみるに︑その南斉書︵25︶の本伝には
﹁蘭陵蘭黒人也︒宋初鴬断属丹陽︒後葉蘭陵︒巨源少挙艶陽郡孝
廉︒﹂とみえている︒即ち︑南艶書の伝頭に彼を蘭陵の人と記しているのは︑その現本貫地を示しているので︑蓑濯や劉善明の場合のよ
うに︑江北における旧本貫地i二六1を伝頭に記しているわけでは
ない︒而も彼は宋初等陽郡に土断されており︑少くして丹慰籍孝廉
にあげられたというが︑そうとすれば受認に本貫をもっている時に
陰陽郡孝廉にあげられたと考えるのが一番妥当であろう︒即ち︑巨
岩が孝廉にあげられたのは土断された土地であり︑その時の現本貫
地である丹陽郡においてであったといえる︒これは︑前代以来の原
則が南朝においても行われていたことを示すものであり︑以上の︑
蓑濯︑何燗劉善明についての推定が誤っていないことを証するもの
であろう︒
このように考ええうるならば︑新野郡の奮然之︑南陽郡の宗央の
如く︑江北においてならば︑荊州に属した旧本貫地をもつ人々が︑
共に総州秀才にあげられたことについても︑次のような説明ができ
ようか︒即ち︑この二人が共に郵州秀才にあげられたということは二
人の現本貫が同じく郵州に属したという事情があったに違いない︒
そこで両者の現住所についてみるに︑梁書︵19︶宗言伝によるに︑
﹁南陽浬陽人也︒世写実陵︒﹂とみえ︑江陵縣におちついていたら
八
しい︒一方︑庚呆之についてはその伝︵南斉書34︶には何とも記し
ていないが︑彼も亦江陵縣に住していたらしい︒というのは︑彼の
叔父庚華の伝︵梁書53︶によるに︑
﹁新野新野繋駕︒⁝⁝郷人楽器有幹用︒﹂とみえる︒ところで以下
︵19︶の楽藷伝によれば︑
﹁南陽浬陽人︒⁝⁝世三江陵︒﹂とみえている︒さて︑郷人という
のは︑同前或は同縣の人について用いられる言葉であるが ︵拙稿
︵東晋における南北人対立問題一その社会的考察一L ︵史学雑誌77の10︶参
照︶︑庚華と楽弓は︑江北の新野郡と南陽郡とでは︑同州ではあっ
ても同郡ではない︒従って︑両者が郷人といわれる為には︑江南に
おいて翠巌であるの外はない︒ところが学業が﹁世相江陵﹂と記さ
れ︑それはそこを現本貫地としていたことを示すと思われるから
︵拙稿﹁渇望と土断﹂︵未発表︶︶︑恐らく︑庚華も江陵縣にいたもの
ではないかと思われ︑従って︑墓の書写果之も亦江津を本貫として
いたと推定できるのではなかろうか︒即ち︑宗・天も三蔵之も共に甲
羅を現本貫地としてそこに住みついていたと推定して無理はないの
ではなかろうか︒たとえ︑庚華︑果之等が江陵縣に本貫をつけてい
なかったとしても︑楽藷と同郡である以上︑同じ南郡内にいたこと
は否定できない︒すると︑宗央と庚果之が共に粘粘秀才に挙げられ
たということは︑両者のいた南郡一恐らくは江陵県一が郵州に属し
たことがあり︑その時前後して秀才にあげられたものと推定できる
であろう︒
更に端麗の高爽が丹陽郡孝廉にあげられたのも︑爽が丹陽郡に僑
居し︑そこに本貫をつけたが故とみるべきであろう︒
以上のように考えて︑南朝においても秀才や孝廉はその本貫地に
おいてあげられたとするならば︑魏晋南朝を通じて︑秀才や孝廉は
その本貫地においてあげられたと考えてよいようである︒従って︑
李含伝の︑ ﹁中郡並挙孝廉﹂という記述は︑前に考えたように︑両
郡が同時にあげたのではなく︑朧西に本貫をもっていた時に朧西孝
廉︑始平に本貫をうつしてから始平孝廉にあげられたということに
なるであろう︒
第三節 本貫地と中正について
一︑晋代申正について
では次に︑中正はいつでも本貫地の人をもってあてたのであろう
か︑或は旧本貫地であげられることもありえたのであろうか︒とい
うことについて考えてみよう︒先にも引用したが︑通年︵14︶選挙
典の原注によれば︑ ﹁魏氏革命︒州郡縣倒置大小中正︒各平沙処人
任︒﹂とみえている︒これは州郡中正なるものは︑本処の人︑本貫を
そこにもつている人を以てあてる︑と杜佑が理解していたことを示すとしてよいであろう︒然るに︑盧江郡孝廉にあげられ︑盧江の人
陳敏と同郡といわれ︑どう考えても盧星図に本貫をもっているとし
か考えられない陶侃が︑前述したように︑旧本貫たる重陽の小中正になったといわれている︒この場合︑王隠晋書等の主張が誤である
という確たる証拠があるならば別としても︑そうでないならば︑中
正は旧本貫においてもあげられることがあったとせねばなるまい︒
では︑果して実際はどうであったろうか︒
先ず︑郡申正が始めて設けられた魏代についてみるに︑例えば魏
志︵23︶常林伝斐注引三略に︑
﹁無調国家行事九品︒各回諸寺撰置申正︒⁝⁝吉茂同臭王厨子
嘉︒時還為散騎郎︒延怠郡移心為中正︒﹂とみえる如く︑中正は諸郡によって撰ばれたのであるが︑圧出郡の申正には漏颯出身の王難が
なっている︒又︑同じく造林伝斐注引魏略に︑
﹁時苗字徳冑︑鍾鹿人也︒⁝⁝還為位官令︒領其郡中正︒定九
本貫地と土断︑秀孝及び申正について︵矢野︶ 品︒﹂とあるが︑これも箆鹿郡出身の時苗が鍾鹿郷里正となったことを示している︒ 或は又︑西廻時代に李含が始平郡中正を領したのも︑司徒府が彼を始平郡の人と認めた上で領せしめたといえるし︑彼を批判した傅祇も︑雍州北地の人︵回書47傅玄伝︶であるから︑雍州︵本州︶大中正となったし︑その支配下にある始平郡申正たる李含に批判を加えたのであろう︒即ち︑魏から西晋にかけて︑州中正であれ︑郡中正であれ︑共に本貫地において任命されるという任命のルールがあったと考えてよいようである︒ では申正の任命はいつでも本貫地主義で貫かれていたであろうか︒もう少し西晋代の例について考えてみよう︒ いま劉翫具︵晋書45︶によるに︑ ﹁劉毅字仲介︑東莱怪人︒⁝⁝司徒挙毅為青州大申正︒﹂とある︒この場合東莱郡が青州に属していることからみて︑本貫地任用といえる︒或は又︑魏平政︵晋書41︶をみるに︑ ﹁魏紆字陽元︑平城奨人也︒⁝⁝運脚署発州申正︒﹂とある︒任城は渋難に属しているので︑これも亦本貫地任用と考えられる︒ このような例は西晋時代他にも見られるが︑ところがこれらと違った例もないわけではない︒即ち︑晋書︵45︶何奨伝によるに︑ ﹁何焚⁝蜀郡邸人也︒⁝為身震二州申正︒引致遺漏︒巴西陳寿︑閻X︑健為費立︑皆西州名士︒蛇身郷閾所知︒清議十余年︒禁申明曲直︒成免冤濫︒﹂とみえる︒この場合︑何肇は二州中正とあるから︑当時の一般的任用形式としての︑菓州中正という表現を破った特殊の場合であったのであろうか︒ところで︑融融の出身地蜀郡は益州に属するから︑彼が益州中正となったのは︑他の場合同様本貫地任用であるとしても︑更に梁州中正でもあったのであるから︑この場合は本貫地任用とはいえない︒大体︑二州中正という任命形式
九
長崎大学教育学部社会科学論叢 第二〇号
は他に例をみないものであり︑本貫地任用というルールとは︑絶対に相容れない任命形式である︑と一応はいえるであろう︒それなら
ば︑この中の一申正一例えば蜀郡の属する益州申正一は実質的なも
のであり︑他の中正は単なる形式的任命にすぎないということでで
もあるのだろうか︒
しかし︑何奨がひき立ててやった人物の中︑陳寿︑閻Xは巴西郡
即ち梁州に属するのであるから︑早事申正が単なる名目的兼任にすぎなかったとするわけにはいかぬので︑実質的な働きをしていたと
いえる︒即ち︑何遍は益州申正と梁州申正との仕事を一人で行った
といえるようである︒
このようにみれば︑西晋の州中正任命は必ずしも本貫地任用主義
が貫かれたとはいい難いであろう︒ただ︑西晋時代には他にこのよ
うな例をみないところから考えて︑何奨は元来は墨型申正であった
のだが︑何かの事情で一時的に梁州中正を兼任したということでは
なかったろうか︒若しそう考えうれば︑西柳においてはやはり本貫
地における中正任命のルールがあったといえぬこともなかろう︒ では次に︑東晋時代についてみよう︒一般的にみて︑州中正が一
州申正であることは西晋同様であった︒ところが︑この時代にも例外的かと思われる︑四州大中正なるものがみえる︒即ち︑本書︵37
︶謙剛王遜伝敬王指の条には︑
﹁憎忠正有幹局︒在朝澤之︒遷右衛将軍︑司︑雍︑秦︑梁四州大
武烈︒⁝⁝⁝惜既宗室勲望︒逸才用︒孝武帝深重之︒﹂とみえ︑更
に︑晋書︵75︶王湛伝述の条には︑
﹁︵述︶尋加申書監︒固譲︒終年不拝︒復加征虜将軍︒進都督
揚︑徐州之狼邪諸軍事︑衛将軍︑井︑翼︑幽︑平四州大中正︒刺史
如故︒﹂とみえる︒この二例は︑四州毒素という点と︑二例みえると
いう点とで︑西晋時代何位の場合と異るかに思われる︒勿論︑敬王 一〇
悟は河内郡出身であるから︑西晋時代︑即ちなお本貫が北方にあっ
た時代をもととして考えれば︑河内郡の属する司州の大申事と︑他の三州の大中正の兼任︑王宮においては︑太原の王氏であるから太
原郡の属する予州の大申正と他の三州大中正の兼任と考えられない
ことはない︒しかし︑何焚の場合と同様な兼任であろうと考えるわ
けにはいきそうもないのは︑第一には︑これらは北人達が江南に渡っで︑一応は江南におちついたと思われる東晋も漁期の例であるこ
と︑第二には︑何焚のように二州申正ならばとも角︑四州中正とも
なれば︑どのような意味の兼任もでき難かったであろうと疑われる
こと︑この二点が考えられるからである︒
先ず第一の点から考えてみよう︒さて︑敬王悟及び豊年の時代
は︑東晋のほぼ半ばごろの時代である︒ということは︑上にみた駿
州は東晋では所謂僑州としてしか存在し得なかったということである︒例えば︑敬聡悟が大中正となったという司州︑雍州︑秦州︑梁
州についてみるに︑司州については︑
﹁元帝渡洋︒亦僑置司州早算︒非本所也︒﹂︵晋書14地理志上司州の
条︶とみえ︑雍州については︑
﹁然自元帝渡江︒所三州︒亦皆管領︒初嵐魏該寸意州刺史鎮粗
鉱︒僑立始平郡︒寄居武亀城︒⁝⁝孝武始於裏陽僑立雍州︒﹂︵晋書
41地理志上︑雍州の条︶とみえている︒更に秦州については︑晋書
︵14︶地理志上秦州の条に︑単に︑
﹁江身分自重秦︒寄居梁州︒﹂とみえるのみであるが︑畜生︵37︶
州郡志︑秦州の条には︑
﹁晋孝武復立︒寄治裏陽︒安帝郷在難中︒﹂とみえる︒次に梁州に
ついては︑楽書︵14︶には︑
﹁恵帝⁝尋而梁州郡縣没中出特︒﹂ハ地理志上梁州の条︶とあるのみ
であるが︑心意︵37︶州郡志梁州の条には︑
﹁李氏拠梁︑益︒江左於喪陽︒僑立梁州︒李氏滅復旧︒謙縦時又
治漢中︒﹂とある︒そこで︑磁界と関係のある壱州についてみるに︑
﹁是時益州郡縣︒錐没李氏︒江左拉皇霊之︒恒温滅蜀︒霊地復為
晋有︒﹂︵下書14地理志上生州の条︶とみえる︒これらによれば︑北方
民族の侵入をうけて江南に平調された州︑或は蜀の李氏の梁益占拠
で裏書に思置された州などであるが︑それらは形式的に僑置される
か或は名目的に遙領︑遙置されるに過ぎぬ州であったとしてよかろ
﹀つ︒ さてこの僑置ということは︑前夜調書 ︵14︶司州の条にみた如
く︑或は又︑晋書︵15︶地理志下︑揚州の条に︑ ﹁自中原乱離︒遺黎南渡︒並僑置牧司︒在野陵︑丹徒︑南城︒非
旧土野︒﹂という如く︑江南の地におかれた州郡には違いないが︑そ
れらは北方の尊書とは全く異るもので︑実土ありとは考えられない
形式的なものである︵拙稿︵土断と白籍参照︶︶︒けれども︑そのよう
な場合︑前引書書司州の条のつづきに︑
﹁後以弘農人流寓尋尋者︒僑立為弘農郡︒又以河東人定漁者︒⁝
僑立河東郡︒﹂とみえる如く︑或は又︑訳書︵6︶孝武帝紀︑孝建元
年の条に︑
﹁是歳始発南徐州舌耕租︒﹂とて︑僑民なる表現がみえる如く︑僑
立された州郡には︑それぞれの受答が属していたと考えられる
︵拙稿﹁土断と白籍し参照︶︒
以上のような実状を考えて敬王悟の四州大中正について考えてみ
るに︑司州︑雍州のように並置されたものについては︑そこに属す
る僑民に対して郷品を与える仕事があった︑と一応いえるかも知れ
ない︒しかし︑秦州︑梁州の如く︑時に僑置されたにしても︑恐ら
く一般には遙領されたにすぎぬ州においては︑中正の存在は︑如何
なる意味においても︑名目的なものにすぎなかったのではあるまい
本貫地と土断︑秀孝及び申正について︵矢野︶ か︒ では次に︑太原の王述の︑井︑翼︑幽︑平四州大中正の場合はどうであろうか︒いま宋書︵35︶州郡志の前文をみるに︑ ﹁自存歎乱華︒司︑翼︑畿︑涼︑青︑井︑亮︑豫︑幽︑平首州︒
一時論没︒遺民南渡︒並僑置牧司︒非旧土物︒江左毎分荊為湘︒或
離重合︒凡有揚︑荊︑湘︑江︑梁︑益︑交︑廣︒其徐緊急有過半︒
生州唯々誰二面巳︒﹂とみえている︒即ち︑永嘉の乱により︑井︑
翼︑幽︑平四州は勿論北狭に倫没したのであるが︑ ﹁並僑置牧司﹂とあるから︑これらの僑州は兎にも角にも皆江南におかれたと解し
てよさそうである︒けれども宋書︵35︶州郡志南町州の条には︑
﹁晋永嘉大乱︒幽︑翼︑青︑井︑薩州講書州論罪北流民︒相率過
准︒亦有過江津節織郡若者︒晋成帝成和四年︑司空郡竪又徒流民之
斎言南愚書晋六指縣︒其徒過江南者︑及留在江北者︒並僑立郡縣以
司牧之︒徐亮二州或治江北︒江北又僑興趣︑翼︑青︑井四州︒安帝
義熈七年云々︒﹂とある︒前者によれば︑浜路の四州大中正について︑
四州ともに江南に心置されたかの如くであるが︑後者によれば︑
幽︑翼︑井三州の名はみえても︑平州はみえない︒或は南徐州のこ
とが記してあるのであるから︑平州の僑置は他の州において行われ
たかの如くでもあるが︑しかし︑宋書誤郡志のどこにも︑平州の僑
置をいう記録はない︒井州については︑例えば宋書︵35︶南亮州の
条に︑ ﹁晋成帝立南亡霊︒寄治京口︒時又立南帯州及紀州︒﹂とみえ︑翼
州については︑宋書︵36︶翼州の条に︑
﹁言忌立偏翼州︒後省︒﹂
とみえる如く︑簡単でもそれらについての記述があるが︑平州につ
いては全く記すところがない︒このようにみれば︑翼︑幽︑井三州
は心立されたこと問違いないとしても︑平州は僑置されたとは考え
二
長崎大学教育学部社会科学論叢 第二〇号
難い︒すると︑前三州の大中正ということは或は一応あり得るとし
ても︑平州大中正なるものは存在し得ないといえそうである︒即
ち︑これら四州中正の場合︑それらの州を江南に転置された州とみ
ることは不可能であるといえよう︒このように考えてくると︑この
ような四州中正の州名は︑単に江北時代の渾名をそのままつかって
いるものにすぎぬ︑とみるべきだということになろうか︒ これらのことに関連して考えられることは︑東男では既に中正制
度存在の意義がうすれつつあったであろうということである︒例え
ば宮崎博士によれば︑邑智時代においては︑ ﹁かくの如く資料が尚
書に保留され︑確実な証拠によって門閥の上下が判定されると︑も
はや中正の仕事は大半が失われる︒中正は貴族制度の成立には重大
な役割を果したが︑いぎ貴族制度が確立してみると同時に不要な存
在と化してしまったのである︒﹂︵宮崎博士﹁九品官人法の研究﹂第二編
隊三章︒南朝における流品の発達︶とされている︒ということは︑中正
の存在は今や大した意味がないことになり︑中正制そのものが形式
的なものになりつつあったと考えられる︒即ち︑恐らくは敬王悟と
王述の四州大中正は︑実質的には何等の仕事をもしなかったのでは
ないかという意味と︑たとえ多少の仕事があったとしても︑その仕
事の意味が殆どなかったであろうということと︑この二重の意味に
おいて︑四州大中正などというものは︑形式的な名目的な中正にす
ぎなかったのではなかろうか︒
勿論︑中正制が漸次名目的になりつつあったとはいえ︑すべての
中正が全く活動しなかったということではないようである ︵宮川博
士﹁六朝史研究−政治社会篇﹂第四章申正制度の研究︶︒従って︑単に一州
中正であった時は︑形としては従来通りの任務をもっていたものであろう︒ただ筆者もさきに指摘した如く︑中正制度そのものが有力
門閥の勢力下におかれ︑独自の存在意義を失いつつあったのである 一二
から︵﹁魏晋南朝の中正制と門閥社会﹂︵長大史学第八輯︶︶︑東晋時代の
四州大中正は︑何簗が二州中正を兼ね︑実際的な活動をしていた如
きとは大きく異るようである︒
次に第二点の︑四州大中正という場合︑たとえ実務があったとしても果してそれに従い得たであろうかとの怪聞がわく︒恐らく四州
の大中正という如きは︑実際には一人の手におえるものではなかっ
たであろう︒その事情について考えるに︑東晋の初︑江北の人々が
江南に逃れた場合︑北方で同一地方に住んだ人々が集団的に僑郡縣
におちついたこともあったと考えられること︑別に指摘した如くで
あろうと思うが︵拙稿﹁南面と白馬﹂︶︑しかし︑ 同じ一族であるか
らといって必ずしも江南の同じ地方に住みついたわけでもなかった
こと︑或は反って別々に分れて生活の地をかまえたであろうことに
ついても既に指摘した ︵拙稿﹁東晋における南北人対立問題一その社会
的考察一﹂︵史学雑誌77の10︶︶︒とすれば︑西晋時代の中正は或は
二州の中正の兼任が困難ではなかったとしても︑江南における中正にとっては︑四州はおろか︑一州の人物をつかみ︑それに郷品を与
えるという仕事でも至難のことではなかったろうか︒ということは
このような四州中正の任命は︑はじめから不可能を承知の上での任
命︑即ち単なる形式的な任命にすぎなかったといえるのではなかろ
うか︒換言すれば︑そのような形式的なものであったからこそ︑四
州の中正を兼ねしめるという任命も可能であったといえるであろ
︾つ︒ さて︑以上の鴬声思及び王述の四州大中正についての考察は︑ ︵
これらの人々の出身地である江北の各州等が︑江南にうつされ僑置
された場合でも︶︑西仲そのままの耳垂名による中正任命があった
即ち︑西里中正制は形の上では何等の変化なく東晋にうけつがれた
という前提の上でのものである︒では︑そのような前提が認められ
るかということになるが︑筆者は次のような事情によって︑一霞は
この前提を認めてよいと思っている︒
さて︑晋書︵75︶萢注伝密の条をみるに︑太元十四年の密の上奏
文の中に︑
﹁今宜下正二其封彊一︒以レ土断二人戸一︑明二考課之科一︑修中耳伍
之法上︒﹂というものがある︒これは萢賓が︑北人に輿えられていた
白籍を廃止し︑土断を断行すべしと上奏した意見の一節であるが︑
劉裕の手によって︑義熈九年に行われた土断は︑この萢蜜の意見が
実行されたものであ.るとされている︵増村宏氏﹁黄白籍の新研究﹂ ︵東
洋史研究2の4︶参照︶︒この中の︑ ﹁明考課冷罵﹂ということにつ
いて︑越智氏の見解をみるに︑
﹁賢人士人がいままでのように白籍に挾注してある本野望︵及び
それに基く州名︶を基準として︑その郡︵︑州︶の中正から郷品︑
状︑輩を與えられる制度を改めて︑﹁新住地﹂たる胸管の郡︵︑州
︶の中正から︑郷品︑状︑輩を與えられる制度をつくるべきこと﹂
︵﹁魏晋南朝の政治と社会﹂第二篇第二章参照︶ とされている︒ 即ち︑
所謂北国に関する限り︑東嶺の後半期においても︑白重に発注して
ある本郡︵かっての本籍地と解されている1筆者註︶の郡中正 ︵︑州中
正︶が任命されており︑それらによって郷品等が与えられているが
それを新住地︵現在の本籍地とされている︒一筆者註︶の中正から受け
るようにすべきである︑の意とされている︒この説のうち︑細部に
ついては別として︑ ﹁望事時代には︑西晋時代の中正制が基本的に
受けつがれて変化がなかった﹂と解する考え方については筆者も異
存はない︒従って︑この見地に立って敬王悟︑王述の四州大中正に
ついて考えてみたわけである︒
さて︑萢密の上奏を以上のように解すれば︑所謂北人に関する限
りにおいては︑東晋時代の中正は︑西晋以前のように本貫地による
本貫地と三白︑秀孝及び申正について︵矢野︶ 任用ではなく︑北方におけるかっての本籍地による任用であったろうということになる︒そして︑萢密の意見が劉裕によって全面的に採用されたとしたら︑宋朝においては再び中正の本貫地任用のルールが復活したということになろう︒では︑東晋時代の中正は︑果して完全に︑勘案時代の旧本貫地による任用というルールで任用されたものであろうか︒ さて︑晋書︵75︶韓伯伝によるに︑ ﹁陳郡周魏為下之主簿︒居喪答礼︒尚強襲︒脱落名教︒盤領中正︒不通︒﹂とあるが︑陳郡は豫州に属する︒論告の出身地頴川︵事書75韓伯伝︶も亦信州に属する︒従って︑この中正は豫州中正であ
って︑豫州中正たる韓伯によって陳郡出身の周壁が礼教の上で監督
されていたことを示すものであろう︒即ち韓伯は現に江南に居住し
ているにもかかわらず︑西晋時代の︑江北の本貫によって任用され︑西晋時代に予州に属した人々に郷品等を与えていたと推定され
よう︒ 或は又︑徐紀伝︵晋書82︶によるに︑
﹁東莞落幕人︒⁝義熈⁝遷號騎将軍︑領徐州大晦正︒﹂とみえ︑更に︑
宋書︵43︶山道済伝によれば︑﹁高平金郷人︒左将軍詔少弟也︒⁝里
国侍中︑領世子申庶子︑亮州大宰正︒﹂とみえる︒何れも東晋末の
中正である︒ところが︑徐廣については︑宋書︵55︶のその伝に︑
﹁廣上表日︒臣墳墓在皇陵︒臣又生長京口︒﹂とあるところによ
れば︑恐らくそこに新本貫をつけていたと考えて誤らないであろ
う︒ ︵前述参照︶民具墨黒については︑前述した如く檀詔が代々京
口にいたのであるから︑檀氏一門も京口に本貫を設けていたと考えられるとしてよかろう︒しかし︑それは丹垂耳京口に本貫がつけら
れたということではなく︑京口に心置された南東下郡︑南高平郡に
つけられたものであろうか︵前述参照︶︒
一三
長崎大学教育学部社会科学論叢 第二〇号
しかし︑それにもかかわらず︑彼等が徐州大身正︑或は堅強大節正などに任用されているのは︑萢密の議についての前記解釈を前提
とする限り︑東晋の申正は江南の新本貫地であげられることなく︑
江北時代の︑旧本貫地によっての任用を示すというべきであろう
か︒若しそうならば︑東晋時代には︑西晋時代の本貫地︑即ち旧本
貫地における任用方法が用いられたといえるようである︒
勿論︑所謂下人については︑華足時代においても西堺時代と同様
に︑本貫地任用のルールが用いられている︒例えば︑晋書︵78︶孔
愉伝厳の条には︑ ﹁以為揚州大申正︒厳不就︒有司楽園︒﹂とある
如く︑会稽郡山陰の人孔厳を揚州申正となそうとしたのはその証拠
であろう︒
以上のように︑東晋時代の州中正が︑北人に関する限り︑現本貫
による任用ではないとすると︑これは︑実質的には西晋時代の申正
制を尊重したかにみえはするが︑形の上から言えば︑西晋以前にお
ける︑本貫地任用のルールとは異ることになろう︒
この場合︑魏晋以来︑本貫地任用という基本的ルールがあったの
であるから︑若し︑東晋になっても実質的に西晋時代のルールに従ったということなら︑江南移住を単に一時的現象にすぎず︑何れは
北帰するとした北人の立場が︑そこに表われていると解することは
できないであろうか︒即ち︑白籍によって自らを南方の人々と区別
した北人達は︑萢密が︑ ﹁毛無本邦之名︒而有安土之実︒﹂と指摘
したように︑江南の地に安住するころになっても︑まだまだ本貫を
江南にうつさない状態をつづけた人々も多かったであろう︒そのよ
うな︑江南を一時的な僑居地にすぎぬとする考え方が︑東晋の申正
任用法は西晋の中正任用法をそのままうけつぐという形となったの
ではなかろうか︒
若しそう考えうるとすれば︑任用方法からみた東晋中正制は︑次 一四
の南朝成立までの︑過渡的な制度であったようである︒即ち︑僑居
地はやがて本貫地となるというのなら︑本貫を南方にうつした落人も多かったであろうに︑その士人たることの表徴としての中正制に
おいては︑反って依然として北人たるの誇りの下に運営してゆくと
いう矛盾した態度が︑この現本貫地においての任用方法をとらぬと
いう制となってでてきたものと考えられるのではなかろうか︒ さて︑今までは州中正について考えてきたが︑以上のことは郡中
正の場合にも同様であったかと推察される︒では事実はどうであっ
たか︑少しく考えてみよう︒
先ず西晋時代の郡中正についてみるに︑任旭伝に
﹁尋察孝廉除郎中︒州郡価挙為郡中正︒固辞帰家︒永康初︒恵帝
博求清節篤異之士︒﹂とみえる︒この例は︑郡がその郡出身者の中
から︑中正をあげるという魏以来の伝統が︑西行恵帝の頃にも生き
ていたことを示すものであろう︵前述王国︑時苗の例参照︶︒ では東晋時代はどうであったか︒江南出身の所謂南人については
例えば晋書︵76︶顧衆伝にみる如く︑ ﹁呉郡楽人︒⁝更里馬陽サ︒本国大中正︒⁝成康末︑遷領軍将
軍︑揚州大中正︒﹂とあり︑彼が呉郡の人であり︑呉々の属する揚
州大申正である以上︑本国大申正というのは︑呉国大申正のことで
なければなるまい︒即ち︑南人においては西晋時代同様に︑本貫地
で任用するというルールがあったとしてよい︒
次に所謂北人ではどうであったか︒例えば調書︵91︶面心伝によ
るに︑ ﹁徐墨東莞馳駆人也︒ 祖澄之為治中︒永嘉之乱︒遂與郷人賊心
等︒率子弟井包里士庶千直家︒南南江︒家干京口︒以豊能前衛率︒
領本郡大中正︒﹂とある︒遡は前述広の兄である︵宋書55徐広伝︶︒
従って︑前述のように︑渡江以来京口に居住し︑墳墓もつくり︑そ
こを本貫地と定めていたことであろう︒それにもかかわらず︑廣が
旧本貫地毛州の名をもつ大造正であったのであるから︑ここにみる
本二大申正も正式に属する東莞郡の大面正をさすとせねばなるま
い︒即ち︑為人の郡申出は︑州中正同様に北方の旧本籍地によって
の任用であったと考えることができる︒
しかしこの場合︑ ﹁本郡﹂大申立の本郡をどう解すべきかの疑問
がおころう︒ ﹁本郡﹂とは別論で明かにしたように︑本貫の属する
郡とすべきである︵拙稿﹁土断と白帯﹂参照︶︒とすれば︑論理的に
いえば徐遡が本郡大中正となったのは︑宛も堂衆が本国大底正となったのと同様に︑そこに本貫をもつが故に本郡大毒正となったとい
うことになろう︒このことは︑徐氏が代々京口に住んでいたとしても︑本貫は依然として北方東莞郡にあり︑南方には移っていなかっ
たということになりそうである︒けれども︑前述のように実際め本
貫は京口に僑置された東莞郡におかれたであろうと思われる︒しか
しそれにもかかわらず︑ ﹁本郡﹂大愚正とされているのは︑州申正
のところで述べた如く︑東晋申正制が北人士人の誇りを維持しながら運営されるべきだという態度によって︑江北の旧本貫地によって
申正を任用するという制度があったとするならば︑その旧本貫地名
こそが︑半人士人にとっては誇り高き本貫地︑本郡として考えられ
たのであろう︒即ち︑所謂皆人にとっては︑西晋中正制の申正任用
の精神に従って東晋申正を任用する以上︑北方の旧本貫地一階望一
が︑その場合の本郡と考えられたとしてよいのではなかろうか︒ ただし︑実際問題としては︑依然として北方に本貫をもち︑その
為に本郡︑本州が名実共に北にあるという場合もあったであろう︒即ち︑江南に移住しても︑なお本貫は僑居地にうつしていない場合
例えば乗車における場合は正にそれであろう ︵拙稿﹁勢望と白籍﹂︶
白籍は依然として北方に本貫をつけながら︑一時的居住地として江
本貫地と土断︑秀孝及び中正について︵矢野︶ 南に僑居した北人達に與えられたものだからである︒或は又︑江南に僑置された所謂僑郡縣に本貫をつけた場合もあった筈である︵同上︶︒そのような場合︑本郡は現実的には僑郡であったに違いない︒従って︑本郡という表現の内容としては︑何れも本貫をつけた郡ということは間違いないが︑東工事正任用における︑北人に関する限りにおいては︑西晋時代における本郡が考えられていたのではあるまいか︒ 以上の如く︑東晋時代の主人郡中正も︑西晋時代の本郡において任用するということのようであるが︑ところがそのような考え方では解決できそうもない例がみえるのは注目せねばならぬ︒それは三郡申正なるものの存在である︒いま︑太平御覧︵562︶申正の条をみるに ﹁又︵奇書︶日︒諸葛定斎丹陽︑宣城︑新安三郡大中正︒時壱州人士︒多寓焉︒﹂とみえ︑同じく太平御覧︵477︶白鷹の条には︑ ﹁二面興通日︒紀掛字士遠寺三助長史︑丹青︑宣城︑新安三郡中正︒上常幸謄家︒同乗輿還府︒謄広見遇︒郷里栄之︒﹂とみえる︒これらは共にその表現︑内容からみて︑東晋初頃の郡中正とみえるが︑ただ諸葛.謄というのは解せない︒というのは︑謄は諸葛亮の子で蜀に仕えて戦死している︵蜀志5諸葛言伝Y︒従って︑東諸における諸葛氏の有力者ということになれば恢のことかも知れない︒但し︑諸葛恢伝︵訳書77︶によれば︑本州大中正となったことは見えるが︑郡中正となったことは見えぬ︒一方紀謄伝︵晋書68︶にも︑郡下正となったことは述べていない︒ さて︑この二人についてみるに︑諸葛氏は狼邪の出身︵寸書77諸葛恢伝︶で︑所謂北人の一人であるが︑丹陽︑宣城︑新安の三郡はいうまでもなく揚州に属する︒ところで︑黒人の場合︑東晋中正の任用が︑北方本貫地によってであったとすると︑ ︵雲州︶狼邪に本
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郡をもっていた諸葛氏が︑揚州に属する郡︑而も三郡の勲労となっ
たというのは︑どうにも解釈がつきかねるといえよう︒
一方紀謄についてみるに︑言忌秣二人とみえるから︑彼が丹陽郡申正となり︑更に新安︑宣城二心中正を兼ねたとすれば︑島人にみ
る本貫地任用のルールと矛盾するところはないと思われる︒ところ
がその伝︵著書68︶によれば︑
﹁呉平︒下家歴陽︒魚倉孝廉︒﹂とあるから︑前述のように︑孝
廉は本貫地においてあげられたとすれば︑呉の滅びた後は彼にとっ
て歴陽こそ新しい本貫地であった筈であり︑そこで孝廉にあげられ
たと考えられる︒従って菊陽は前の本貫地にすぎず︑何故彼が本貫
地任用のルールによらず︑いわば造本量地丹陽等の追申正となった
かは不明である︒紀謄の場合は︑前にみた陶侃の場合と全く同様の
場合であったと考えられる︒以上の二例から︑次の二つの疑問にぶ
つかることになろう︒
一つは︑二人の場合︑申正の任用に西晋時代の本貫地による任用のルールがあったとすれば︑何故北人の諸葛恢が揚州に属する三郡
の皇尊になったのか︒
二つには︑孝廉が本貫地であげられるとすれば︑紀謄にとって歴
陽こそが本貫地であった筈で︑従って彼は旧本貫身空陽郡の申正と
なったことになる︒それは岳人が本貫地であげられるというルール
と矛盾するのではないか︑の二点である︒
では第一の疑問を検討する為に︑も一度諸葛氏についての前引記
事をみるに︑
﹁領丹陽︑宣城︑新安三郡大中正︒時甲州人士︒多罪焉︒﹂とみ
える︒この意味は︑ ﹁諸葛氏は三郡大申正を領した︒当時江北から
南方に流寓した人々が︑多くこれら三郡に僑居していた︒﹂という
ものであろう︒この場合注目されるのは︑この記事の筆者が︑諸葛 一六
氏が三郡申正を領したことを記し︑それにつづいて︑これらの地に
江北の人々が多く僑居していたと書き添えたことの意味である︒そ
れは恐らくは︑諸葛氏も亦︑それら僑居者の一人であるとの意を含
めて書き添えているのではなかろうか︒若しそう解しうるとすれば
諸葛氏がその地に僑居しているということを縁として︑三音大中正
となる条件が整ったに違いない︒さて︑寺詣における北人中正の場
合は︑江北の旧本貫地によってあげられるというルールの外に︑或は僑州郡においてあげられることもあり得るとは︑一般的には考え
られないでもなかろうが︑諸葛氏が三郡大営正となった条件には︑
それら三郡の申に旧本郡がない以上︑どうしても︑三郡の中に︑単
なる旧本郡でもなく︑僑居地でもないところのもの︑即ち︑現在の
本貫地が含まれているということではなかったろうか︒即ち︑北方
の所謂旧本郡ではなくて︑現に本貫をつけている実際の本郡が江南
に設けられた場合︑それによって郡中正に任用されることもあり得
たと考える外に︑考えようがないのではなかろうか︒例えば︑階書
︵76︶諸葛頴伝に︑ ﹁丹陽建康人也︒祖鈴梁零陵太守︒父規義陽太守︒﹂とあるが如
きは︑丹陽郡にその本貫をつけていた諸葛氏の一門があったことを
示すものであろう︒
一方紀謄の場合についてみるに︑丹陽は旧本貫地と考ええられる
が︑その郡申正と他の翁忌申正を兼任しているわけである︒ところ
が陶侃の場合も事情は全く同じであった︒而も両者は共に稼人であ
る︒すると南人中正の場合にも︑旧本貫地においてあげられるとい
うことがあり得たのであろうか︒両者の場合︑孝廉にあげられのが
現本貫地においてであることを認める以上︑旧本貫地において郡申
正になったと見る外に考えようはあるまい︒
さて︑陶侃の場合︑都陽が旧本貫地であることは間違いないと考