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徳川御殿の時期区分試論 : 将軍の鷹狩りを中心に

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(1)

徳川御殿の時期区分試論 : 将軍の鷹狩りを中心に

著者 根崎 光男

出版者 法政大学人間環境学会

雑誌名 人間環境論集

巻 21

号 1

ページ 236(1)‑203(34)

発行年 2020‑10‑31

URL http://doi.org/10.15002/00023622

(2)

はじめに  近世日本において、将軍・大御所や大名が城郭内の殿舎(御殿とも称される)とは別に、城郭外に造営した殿舎は御殿と呼ばれる。本稿で使用する御殿は、将軍・大御所が城郭外への御成、すなわち旅行や外出の際に宿泊・休憩のために利用した施設を指すものとする。近世を通じて、将軍・大御所の城郭外への御成を支える施設として御殿・御茶屋が数多く存在したのである。

  この御殿・御茶屋に関する本格的な研究は、丸山雍成によってはじまったといってよい

)(

。そこでは、御殿・御 茶屋は戦国時代より江戸初期にいたる過渡期的存在で、本陣出現以前の先駆的形態であり、寛永期以降の本陣設立と相俟って廃絶の一途を辿ったとし、御殿・御茶屋の本陣への移行・転化説を唱えた。これに異を唱えたのが中島義一である

)(

。中島は、南関東、駿河・伊豆以西、日光街道などに存在した御殿・御茶屋を研究し、幕末の特例を除けば本陣を将軍が利用することはなく、一部の将軍が利用した御殿・御茶屋はその後も維持されていたことを明らかにし、丸山説に否定的見解を示した。この中島の論説に対して、丸山は五街道やその付属街道では将軍直営の御殿・御茶屋の設置年代が天正~慶長年中、廃止年代は寛永~元禄年中に集中する傾向があると指摘

徳川御殿の時期区分試論 ―

将軍の鷹狩りを中心に

根崎  光男

(3)

し、民間経営の本陣にその役割が移行・転化したとする自説を補強した

。その後も、各地の御殿・御茶屋の研究が進んでおり、文献史料だけでなく、その発掘成果によってもその実態が明らかにされてきている

  そうした研究の成果として、御殿・御茶屋は将軍(大御所を含む)の上洛、江戸・駿府間往復、日光社参のほか、鷹狩りや湯治などで利用されていたことが指摘されている。しかし、上洛は十四代将軍徳川家茂の事例を除けば寛永十一年(一六三四)の家光のものが最後であり、また江戸・駿府間往復は大御所の家康が慶長十二年(一六〇七)に居城を駿府城に定めたことから行われたものであり、その没後はみられず、この時代のみにみられるものであった。それ以降、御殿・御茶屋利用の目的として近世後期まで残ったのは鷹狩りと日光社参であった。そうした歴史的推移のなかで、御殿・御茶屋の存在意義も大きく変化し、癒やし空間としての比重をより強めていくことになった。

  これまで御殿・御茶屋の研究といえば、近世初期のものを対象とすることが圧倒的に多く、寛永期以降の御殿・御茶屋の研究はきわめて少ないといってよい。御殿・御茶屋は近世初期から幕末まで存在し、長い年月の なかでその役割は大きく変化しているため、それらを一律に論じることをためらわせる。ましてや、御殿を宿泊施設、御茶屋を休息施設とする指摘もあるが、寛永期以降の御殿利用は鷹狩り形態の変化によって宿泊を伴わなくなり、またそのなかには御茶屋御殿と称されるものもあって、両者の違いを明確にすることはできない。改めて、一つ一つの御殿・御茶屋の造営時期・廃絶時期・立地・規模・構造を検討し直し、時期ごとの役割を精査していく必要性を痛感している。  そこで本稿では、近世初期から幕末まで存在する江戸周辺の御殿・御茶屋について、鷹狩りの歴史的推移を踏まえて時期区分を試み、それぞれの時期での御殿・御茶屋の役割や特質を究明することにしたい。そのためにも、まず鷹狩りの歴史的推移の検討を通してその変化を見極めることから出発したい。

一  将軍の鷹狩り形態の変化と御殿の時期区分   御殿・御茶屋利用の用途のなかで、もっとも多かったのが鷹狩りによるものであった。御殿・御茶屋が将軍・大御所の鷹野御成の際の宿泊・休憩施設になっていたこ

(4)

とは、多くの史料によって確認できる。ところが、その鷹狩りの形態は歴史的推移のなかで大きく変化し、御殿・御茶屋のありようにも大きな影響を与えることになった。

  そこでまず、江戸幕府(大名徳川氏を含む)の鷹場の歩みについて確認しておきたい。徳川家康の関東領国時代の鷹場はまさに関東領国内に存在した。「家忠日記 」によれば、家康が江戸打ち入り後武蔵国埼玉郡忍付近への鷹狩りを幾度も予告し、それに合わせて鷹役人が派遣されていたことが知られている。また開幕後、幕府はそれまでの関東の鷹場のほか、豊臣政権の鷹場であった畿内近国の鷹場を奪取して幕府の鷹場に編入し、京都滞在時および江戸・京都往復時の鷹狩りの場として利用していた。それのみならず、一部の大名には御恩の一環としてそれらの地域に鷹場(恩賜鷹場)を下賜し、そのもっとも早い事例として伊達政宗が慶長六年(一六〇一)武蔵国久喜地域に下賜された恩賜鷹場があった

。また近世初期の幕府鷹場の具体的な例としては、武蔵国忍・鴻巣地域のものがあり、幕府の鷹場役人によって支配されていた

)(

  慶長十二年(一六〇七)、家康は駿府城を居城とした が、それ以降、頻繁に関東の鷹場を訪れ、鷹狩りを行っていた。それを物語るものとして、家康が自筆で書いた「道中宿付」と呼ばれるものがいくつも知られる。そのなかで、「金井文書」にみられる同十七年のものを掲げてみる

   十月大卅    清水    後十月一善徳寺三三島四小田原五中原七

八藤沢九かの河十江戸十八戸田廿一河越廿六おし

   十一月大九岩付十越谷十八かさい廿江戸廿二小杉廿五かの河廿六藤沢廿八中原    十二月

(5)

五小田原六三島八善徳寺十   これは、家康がこの年十月から十二月までの駿府・江戸間や関東での宿泊場所の予定を書いたメモであり、実際に挙行した日程や行程とは一致していない。同じ年でもいくつかの「道中宿付」が残っており、家康はそれだけ日程・行程に関心を寄せていたことがわかる。この年の関東下向は、「此間関東御放鷹也

」とあり、その目的は鷹狩りであった。鷹狩りが長期に及ぶということは、その行程に合わせて宿泊施設を確保する必要があった。譜代大名の居城があれば宿泊することも可能だが、そうした施設がない場合御殿を建設して宿泊するか、規模の大きな寺院に泊まらなければならなかった。こうして、御殿造営の必要性が生じたのである。御殿は単なる宿泊施設ではなく、鷹狩りの期間中、御殿およびその周辺では城郭での業務の延長線上に位置づく政治向きに関する密談や学問の講義、大名・家臣からの献上品の受領や将軍・大御所からの物品の下賜、それに出迎えなどの儀礼、直訴の裁定、家臣団の統制、地方支配、民情視察などが行われていた。また近世初期から将軍家(大名徳川 氏を含む)の遠方での鷹狩りに随行して奉仕し、代官頭や代官をつとめた伊奈氏は、「天明八申年御鷹野留 (1

」に次のような勤め向きの心得を記録していた。

一、都而御鷹野遠  御成先勤方心得之儀、関東御打入以来拙者方江被  仰付置、御要害之筋専一之御趣意共有之、御成者耕作豊の国之盛衰御鑑之ため、且鰥寡孤独飢寒凌方之様子等御尋之節者御受容仕、数代  御身近ニ相勤(略)

  これによれば、将軍の遠隔地への鷹野御成に際しての伊奈氏の勤め向きは、「御要害之筋」にかかわり、またその御成は領国内の庶民の暮らしぶりを把握する目的もあり、その様子などを伝えるために将軍の身近で仕えてきたという。なお、「御要害」とは敵を防禦し味方を守衛するのに重要な地のことであり、外敵からの領国防衛のためにその外縁部の状況を把握することはもっとも大切なことであった。すなわち、遠隔地への鷹野御成は領国防衛などの軍事と密接にかかわるものであった。勿論、多くの家臣を引き連れて出かける鷹狩り自体、軍事訓練を兼ねるものでもあった。

(6)

  家康から秀忠の時代を経て、家光時代の前半まで、遠隔地への鷹狩りは多かったが、寛永九年(一六三二)正月に大御所の秀忠が没し、将軍の家光が単独で政権を担うようになると、宿泊を伴う鷹狩りを止め、日帰りの鷹狩りに出かけるようになった。また家光は寛永十一年の上洛を最後に、東海道に造営された御殿に宿泊することはなくなり、幕末に十四代将軍家茂が上洛するまで、将軍の上洛も行われなかった。これにより、将軍が江戸から遠隔の地にある御殿に宿泊する必要がなくなり、一方で日帰りの江戸周辺地域への鷹狩りが増えるなかで休憩・食膳の施設が必要になってきたのである。この変化は、寛永中期になるとそれまでの強力な大名統制によって将軍を頂点とした幕藩体制が確立し、諸大名の動向に注視する必要性が薄らいだことや江戸城を中心とした江戸城城付地(「江戸十里四方」)の領域が形作られてきたことがあげられよう。

  寛永五年(一六二八)十月二十八日、幕府は代官を通じて江戸周辺の鷹場村々に鷹場支配に伴う厳守事項を触れた。その際触れられた「近郊放鷹の地の制 ((

」は、次のようなものである。 一、御鷹  御意にてつかひ候者は此御判御黒印木札にて可有之候之間、能々あらため  御判無相違者にはつかハせ可申事一、上下のとをり鷹ハ御鷹場之内はかり宿次に相送へき事一、御判なくしてつかひ候者鷹師ともにとめ置、早々可申上事一、御判なくして鷹つかひ候を見出し候者には御褒美可被下、もし見のかし候ハヽ、その者曲事に可被仰付事一、在々所々にあやしきもの一切をくへからさる事右此旨をあひ守へき者也     寛永五年十月二十八日此御法度書相触ル村々ノ事          (五十四ヵ村名略)右御黒印木札渡候輩        壱枚       加藤伊織

        壱枚       戸田久助         壱枚       小栗長右衛門         壱枚       阿部新右衛門

(7)

  これは、江戸城からおよそ五里四方の村々が鷹場に設定されていることを前提に、この地域の鷹場で将軍の命により鷹を遣うことができる者は黒印のある鑑札を所持しているのでよく改め、その黒印の所持を許された者は鷹匠頭四名であること、鷹場内での通り鷹は宿継ぎをして輸送すること、黒印のある鑑札を所持していない者はとどめ置き報告すること、黒印のある鑑札を所持していないにもかかわらず鷹を遣っている者を発見し届け出た場合には褒美を下賜し、また見逃したことが判明した場合には処罰を申し付けること、鷹場の村々に怪しい者を差し置かないことなどが触れられた。すなわち、江戸周辺五里四方の鷹場村々は、触れられた鷹場管理にかかわる法度の内容を厳守することが義務づけられたのである。この法令において特徴的なことは、鷹場はこれ以外の地域にも設定されていたのだが、江戸から五里四方の鷹場村々が一つのまとまりある地域として把握され、一斉に鷹場法令が触れられたことである。この江戸から五里四方の鷹場村々は、江戸城にもっとも近い鷹場領域で将軍が鷹狩りに出かける範囲となり、他の鷹場領域とは異なることが明確にされたのである。すなわち、それらの地域は将軍・幕府にとって重要かつ固有な領域として 位置づけられ、江戸城を支える領域、いわゆる江戸城城付地としての意味合いをもつものであったと理解される。このように、家光の鷹狩りの地先が江戸周辺の五里四方鷹場村々に限られるようになったことと、いわゆる江戸城城付地の編成とは連動していたとみられる。  こうした状況のなかで、家光は家康時代の御殿の維持に努めたが、江戸周辺五里四方での鷹狩りによって比較的小規模な御殿・御茶屋をいくつか造営し、休憩・食膳施設として利用した。この時期の御殿の特徴は、著名な寺院の境内に小規模に造営されることが多く、これに合わせて寺院の保護・修復に援助の手を差し伸べたことである。家光時代に江戸周辺地域に新たに造営された御殿の多くはその没後解体されたが、家康時代および家光時代に建設された御殿の一部はその後も残存していた。  ついで、館林藩主であった徳川綱吉が五代将軍に就任すると、生類保護の政策を打ち出し、これはのちに生類憐みの令へと昇華していった。藩主時代に鷹狩りに出かけていた綱吉は、将軍就任以降、殺生を伴う鷹狩りを一度たりとも挙行せず、鷹役人の削減、鷹儀礼の一部停止など放鷹制度を縮小し、元禄期になると鷹の放出、鷹遣いの停止など放鷹制度の根幹にかかわる部分まで廃止し

(8)

ていった。ついには鷹場支配を担当していた鳥見も廃止されることになり、その通達は次のようなものであった (1

御鳥見向後相止候得共、只今迄之御留場前々之通鳥類殺生不仕、勿論他所之ものニも殺生いたさせまじく候、病機有之節者於其所随分念入養育可仕候、度々其支配へ不及相達候、若人々さハり候て、痛所疵付候体之鳥類有之候ハヽ、其ハけ委細書付、其所之御代官幷地頭江可申出候、かくし置、脇よりあらわるゝに於いてハ可為曲事候

  生類憐み政策の進展によって放鷹制度が縮小され、そのなかで鷹場の支配を担当していた鳥見が廃止されることになった。これに伴い、鷹場としての機能は消滅し、従来の鷹場は鷹狩りが行われない鳥類殺生禁止区域としての「御留場」となり、その村々は引き続き鳥類の保護を命じられた。そして今後、人々が接触して傷ついた鳥がいた場合には、その理由を詳細に記入した書類を代官や地頭へ提出するように通達していた。このように、鷹場を支配した鳥見が廃止されたということは、事実上鷹場が廃止されたことを意味し、かつての鷹場地域の鳥類 保護は代官や地頭が担うことになったのである。  これにより、鷹狩りを目的とした御殿の利用は一切なくなったが、この時代にはそれまでの館林藩の下屋敷が幕府に収公されて小石川御殿となり、また大塚・麻布の御薬園の引っ越しの関係で麻布御殿が造営され、さらに甲府藩主徳川綱豊が将軍の後継者になったことで、甲府藩の浜屋敷は幕府の浜御殿として収公され、将軍やその家族などの癒やし空間として利用されるようになったのである。  ついで、紀伊藩主から八代将軍となった徳川吉宗は、放鷹制度の復活に着手して鷹狩りを再開させた。この時代まで御殿の命脈を保っていたのは浜御殿であった。しかし、吉宗は浜御殿を鷹狩りで利用することなく、幕府内の事情を考慮して、その敷地内にはかつての将軍の側室たちの住居やベトナムからやってきた象の飼育所を建てていた。それに加えて、広大な敷地内には薬園・織殿・砂糖製所などの施設がつくられ、幕府政策を推進するための実験や試作の場として活用していた。享保期に浜御殿の施設は焼失したが、以後その施設が再建されることはなかった。しかしその後、御殿地(御庭)内には御茶屋がいくつか建てられ、また御庭も整備されて将軍

(9)

やその家族、家臣らの癒やし空間となり、御殿奉行らによって管理されたのである。

  また吉宗は、療養を必要としていた嫡男家重のために、武蔵国葛飾郡小菅村にあった代官伊奈氏の屋敷内に御殿を造営し、その近くに鷹狩りに出かけさせ宿泊させることにしたのである。しかし、この御殿も、家重が九代将軍に就任すると利用しなくなり、その在任中に御殿の名称使用について中止が命じられ、御腰掛と呼ばれるようになった。

  このように、徳川家康の時代から幕末までに存在した幕府造営の御殿は、主として鷹狩りのありようの変化から、第一期(家康期―家光前期)、第二期(家光中期―家綱期)、第三期(綱吉期―家継期)、第四期(吉宗期以降)の四期に分けることが可能である。そこで、それぞれの時期の御殿利用の目的や役割を究明することによって、その歴史的意義を考えてみたい。

二 

第一期(家康期―家光前期)の御殿とその役割

  豊臣秀吉に臣従した徳川家康は、関東の戦国大名北条 氏滅亡後、関東移封を命じられ、江戸城を本拠地とした。家康は戦国時代以来の旧城を利用しながら、主として関東地方の外延部に支城を、また江戸周辺地域に蔵入地を集中的に配置するという戦略で領国経営をおこなった。家康はまた領国内に鷹場を設定して鷹狩りに出かけ、敵対勢力の動静探索や在地勢力の撫順のために領国内を巡廻した。このため、関東の要地に御殿・御茶屋を建設して宿泊・休憩の施設とした。  この時期の御殿をまとめたのが第

る次の手形は、よく知られている (1 いといってよい。そのなかにあって、鴻巣御殿にかかわ 時代における御殿の造営時期が明確なものはほとんどな

表であるが、家康

    覚   中畠壱町四反歩御殿御屋敷ニ成   右当取より反町可引者也、仍如件    文禄弐       伊奈備前      巳五月五日         忠次(花押)

       小池隼人之助殿

(10)

第 1 表 近世初期の将軍鷹狩りと関東の宿泊・休憩場所

施設形態 場所 国・郡 設置時期 廃止時期 面 積 管理者 街 道

小田原 相模・足柄

御殿 中原 相模・大住 慶長年間 明暦 ( 年

(((5()

(,((( 坪 中原街道

御殿 藤沢 相模・高座 慶長年間 (,(50 坪

御殿 神奈川 武蔵・橘樹 慶長 (5 年

((((0)

延宝年間 ((( 坪 御殿番 東海道

御殿 小杉 武蔵・橘樹 慶長 (5 年

((((0)

明暦元年

(((55)

(,000 坪 御殿番 中原街道

江戸 武蔵・豊島

御殿

(戸田)

武蔵・足立 慶長 (( 年

((((()

(,(00 坪 中山道

川越 武蔵・入間

御殿(※) 忍 武蔵・埼玉 慶長年間ヵ 中山道

御殿 鴻巣 武蔵・足立 慶長 (0 年

(((05)ヵ

元禄 ( 年

((((()

御殿番 中山道

岩槻 武蔵・埼玉 日光御成道

御殿 越谷 武蔵・埼玉 慶長 ( 年

(((0()

明暦 ( 年

(((5()

御殿番 日光街道

御殿 青戸

(葛西)

武蔵・葛飾 天正~慶長

明暦 ( 年

(((5()

御殿番 浜街道

御殿 船橋 下総・葛飾 慶長 (( 年

((((()

寛文年間 (,000 坪 東金御成道

御殿 千葉 下総・千葉 慶長年間ヵ 御茶屋御

殿

千葉・

金親村

下総・千葉 慶長 (( 年

((((()

東金御成道

御茶屋 土気 上総・山辺 慶長年間ヵ 御殿 東金 上総・山辺 慶長 (( 年

((((()

寛文 (( 年

((((()

((,(00 坪 東金御成道

(註) 『新編武蔵風土記稿』、『新編相模国風土記稿』、『相中留恩記略全』、中島義一「徳川将軍家御 殿の歴史地理的考察(第 ( 報)南関東の場合」(『駒沢地理』第 (( 号、(((( 年)、丸山 雍成「『初期本陣』再論」(豊田武博士古稀記念会編『日本近世の政治と社会』吉川弘文館、

(((0 年)より作成。(※)忍城本丸は忍御殿跡。

(11)

  この手形は、文禄二年(一五九三)五月、家康配下の代官頭伊奈忠次から鴻巣宿の在地土豪小池隼人之助に宛てたもので、小池が家康に寄進した御殿用地一町四反歩の土地の年貢を鴻巣宿の年貢から差し引くことを約束したものである。ところが、差出人の伊奈忠次が備前守を叙任されたのは慶長四年(一五九九)頃と推定されており、この文書の信憑性が疑問視されている (1

  そこで、鴻巣地域における家康周辺の動向を探ってみたい。『駿府記』の慶長十六年十一月六日条に「幕下為御鷹野出御鴻巣、是大御所依御意也、成瀬隼人正、安藤帯刀、永井右近、松平右衛門佐、後藤少三郎、長谷川左兵衛、自忍至鴻巣、将軍家為御目見也云々 (1

」とあり、大御所家康の命によって鷹狩りのため鴻巣にやってきた将軍秀忠に、大御所付家臣たちが忍から鴻巣に出かけてお目見えしていた。これは、鴻巣地域にお目見えのための儀礼空間が存在していたことを示しており、御殿が造営されていた可能性がある。また、同書の同十八年十一月二日条には「卯刻幕下為御鷹野渡御鴻巣云々 (1

」とあり、さらに元和元年(一六一五)十一月二日条にも「将軍家為御放鷹鴻巣着御云々 (1

」とあって、いずれも大御所家康が忍御殿滞在中、将軍秀忠は鷹狩りのために鴻巣にやっ てきていた。このように、鴻巣には将軍とのお目見え空間やそれ自体の宿泊・休憩施設が存在したと考えられ、御殿の存在を推測させる。家康の関東での鷹狩り行程と宿泊場所は第

うに思われる。 ると、鴻巣御殿の造営時期は慶長十年の可能性もあるよ 文書の花押が文禄期から慶長期のものということを考え らのことから、先の史料の干支が巳年であり、また先の 場であったのではないかということを推測させる。これ こと、さらに忍地域は家康の鷹場、鴻巣地域は秀忠の鷹 近隣の忍地域であり、鴻巣は秀忠の宿泊地となっていた ことはなかった。それは、この付近での家康の宿泊地が

表の通りであり、家康が鴻巣に宿泊する   関東入国に際して、忍には忍城があり、そこには家康の四男忠吉が配置され、同時に松平家忠を城預かりとして入城させた。ただし、忠吉(幼名福松)は幼少であったため家康のもとにあり、実際には福松に附属した家臣団(福松衆)と家忠およびその家臣団が忍城を守衛していた。忠吉には一〇万石、家忠には一万石の所領が与えられていた (1

。そして、その忍城内には家康在世中に「御本丸ハ  権現様御殿之御跡 (1

」とあって、家康の御殿が存在していたようである。忍城の本丸が家康滞在時の御殿

(12)

第 2 表 家康の関東での鷹狩り行程と宿泊場所 年代・宿泊場所 慶長 ((

(((0() 慶長 (( 慶長 (5 慶長 (( 慶長 (( 慶長 (( 慶長 (( 元和元

((((5)

◎駿府 (/(((出発) (0/(((出発)(0/(((出発)(0/((出発) 閏 (0/((出

発) (/(((出発) (/(((出発)

〇清水 (0/(( (0/( (/(( (/((

〇善徳寺(今泉) (0/((( 日 々

鷹狩) (0/(5 (0/( (/(( (0/(

〇三島 ((/5( 病 気

→駿府) (0/(( (0/( (/(0 (0/(

◎小田原 (0/( (/(( (0/(

〇中原 (0/(0 (/(( (0/5

〇藤沢 (0/(( (/(5 (0/(

〇神奈川 (0/(( (/(( (0/(

〇稲毛(小杉) (0/(5

◎江戸 (0/( (0/((~(0/(( 閏 (0/((~(0 (/((~(0/(0 (/(~(/( (0/(0

〇葛西(青戸) (0/( (/(

〇戸田(蕨) (0/(( (0/((

〇浦和 (0/(0

◎川越 (0/(( (0/(( (0/(5

〇忍 ((/5 (0/ 晦 (0/ 晦

◎川越 ((/((

◎岩槻 ((/(( ((/(

〇越谷 (関東方々鷹

野) (関東方々鷹

野) ((/(0、 ((/(5 ((/(0

〇葛西(青戸) ((/(( ((/(5

〇千葉 (/(

△千葉・金親村 ((/((

〇東金 (/( ((/((

〇千葉 (/((

〇船橋 ((/(5

〇葛西(青戸) (/(( ((/((

◎江戸 ((/((~((/( ((/((~((/(、

((/((~((/(5、

((/((~晦

(/(( ((/((

〇府中 ⦿ (0/(((?) ((/((

〇中原 ((/(

〇稲毛(小杉) ((/(5 ((/(( ((/(

〇神奈川 (関東方々鷹

野) ((/(( (/((

〇藤沢 ((/(( (/((

〇中原 ((/(( (/(( ((/(

◎小田原 ((/(0 (/(( ((/((

〇三島 ((/(( (/(( ((/((

〇善徳寺(今泉) ((/(( (/(( ((/(5

◎駿府 (0/( ((/(( ((/(5 (/(( ((/((

出典 当代記 当代記 当代記 駿府記・当代

当代記 駿 府 記・ 当 代

駿 府 記・ 当

代記 駿府記

(註) 『史籍雑纂 當代記 駿府記』(続群書類従完成会、(((5 年)より作成。日付は到着日を示す。

江戸は滞在期間。◎ = 城下町、〇 = 御殿、△ = 御茶屋、⦿ = 来訪可能性あり。

(13)

になっていたのか、あるいはのちの忍城の本丸が位置づくところに家康の御殿が造営されていたのかは不明である。

  天正十八年(一五九〇)の関東入国以来、忍・鴻巣地域での家康の鷹狩りは何度も計画され、忍城内には家康の鷹部屋も造作されていた。その忍地域には「江戸より鳥見九左衛門被越候」(天正十八年十二月十五日条)とあって鳥見の伊藤正知がやってきており、また「江戸御鷹飼衆百五十計にて被越候。小栗忠蔵、安藤彦四郎大将にて候」(天正十九年閏正月九日条)とあって多数の鷹飼衆も訪れていた 11

。大草忠成の履歴には「天正十八年御手鷹師をつとめ、武蔵国忍に住す 1(

」とあり、忍で家康の手鷹師を務めていた。また天野忠重の履歴にも「(慶長)十八年十一月十八日忍近郷の御代官となり、のち同郡のうちにをいて加恩あり、すべて六百石余を知行し、忍・鴻巣の御鷹場を支配し、同心十人をあづけらる」とあり、その子忠詣にも「慶長七年より東照宮につかへたてまつる、時に十五歳、のち忍・鴻巣の御鷹場を支配し、現米八十石をたまふ 11

」とあって、忍・鴻巣は幕府鷹場に指定され、その支配者も配置されていた。忍・鴻巣地域は関東入国後、徳川氏の鷹場に指定され、開幕後も幕府 鷹場役人がその支配にあたっていたのである。  一方で、御殿の造営・廃絶時期が記録されているものがある。貞享五年(一六八八)六月に書き上げられた「小杉御殿沿革書上」には、次のような記述がみられる 11

一、稲毛領小杉村御殿八拾年以前立始り、其以後四拾九年以前辰ノ年、御奉行安藤市郎兵衛殿・小俣平右衛門殿両人御奉行ニて、新規ニ御立被遊候御事一、三拾四年以前未ノ年御破り被遊、品川東海寺へ被遣候、其時之御奉行夏目彦助殿御出被成候事一、御主殿之間拾七年以前子ノ年上野弘文院へ被遣候、是ハ御奉行ハ御出不被成候事一、御殿地拾五年以前寅ノ年より作場ニ罷成、卯ノ年より御年貢上納仕、同未ノ年御検地被遊、高ニ入申候御事

  これによれば、小杉御殿は慶長十三年(一六〇八)に造営され、寛永十七年(一六四〇)に安藤忠次・小俣政貞の両人が奉行となって再建された。しかし、明暦元年(一六五五)にその一部が解体され、その部材は品川の

(14)

東海寺へ遣わされた。この時の奉行は夏目彦助であった。そして、寛文十二年(一六七二)にも残っていた御主殿の間が解体され、その部材は上野の弘文院へ遣わされた。延宝二年(一六七四)になると御殿跡地が耕地となり、翌三年から年貢が上納されたという 11

御殿蹟 11   『風あ編武蔵杉小蹟古る「に土項の新杉小の』稿記村

」には、次のように記述されている。

村(小杉村)の中程にあり、此御殿は昔将軍家此処へ御鷹狩の頃、又は相州中原の御殿へ渡らせたまふの時、御中やとりの為に慶長の頃此所にかりの御殿出来しなり、その後寛永十七年新に御造立有て、安藤市郎兵衛・小俣平右衛門といひしもの両人その事をうけたまはれり、その頃のさまは表御門・裏御門などいかめしくして、御門の外には下馬札を立られ、内には御馬屋敷・郷蔵・御賄屋敷・御殿番屋敷などさま〴〵たちつゝけり、しかるに明暦元年に至りその御殿の造営をわかちて、品川の東海寺に賜はりしかば、その頃よりはわたらせたまうこともまれ〳〵になりしや、寛文十二年にのこれる御殿をば江戸上野の弘文院へ賜はりしと云(略)   これによれば、慶長期に造営された小杉御殿は仮御殿であり、寛永十七年に新規に御殿が造営された。その頃の御殿には豪壮な表御門や裏御門があり、その内部には御馬屋敷・郷蔵・御賄屋敷・御殿番屋敷などが建っていたという。しかし、その後二度にわたって解体され、最初は品川の東海寺、二度目は上野の弘文院へ部材が遣わされた。このように、「小杉御殿沿革書上」とほぼ同様の内容となっていた。  次に、『新編武蔵風土記稿』の神奈川町の項にみられる「御殿跡」の記述をみてみよう 11

宿内にあり、除地段別二段二畝二十四歩、この御殿は慶長十五年御造立あり、元和八年・寛永三年両度御修造あり、寛永十一年上洛のとき御守殿をつくらしめらる、延宝三年に彼御守殿及び御休息所・御上御台所三ケ所をのこして其外はみな廃せられき、その後御殿をも足立郡鳩ケ谷宿島の金剛院へ賜はり、同七年検地ありて田地となり、御殿番森村太郎左衛門・武野平左衛門へ賜はれり(略)

  これによれば、神奈川宿内にあった神奈川御殿は慶長

(15)

十五年(一六一〇)に仮御殿が造営され、元和八年(一六二二)と寛永三年(一六二六)の二度にわたって修理された。そして、寛永十一年に徳川家光の上洛時に御主殿が造営された。しかし、延宝三年(一六七五)には御主殿・御休息所・御上御台所の三ヶ所を残して解体された。その後、残っていた建物も解体され、武蔵国足立郡鳩ケ谷宿島の金剛院へ部材が下賜された。同七年の検地により御殿跡地は田地となり、御殿番を務めた森村太郎左衛門・武野平左衛門の両人へ下賜されたという。

  丸山雍成 11

や中島義一 11

はこの記述から神奈川御殿の成立を慶長十五年とする立場をとっているが、井上攻は「徳川実紀」(以下、「実紀」と略す)や「駿府記」の記述から慶長十五年には神奈川御殿が造営されていないとする立場をとり 11

、その成立時期を慶長十六年十一月から慶長十八年九月の間とみている。その根拠として、「実紀」や「駿府記」の慶長十六年十一月十六日の記事では家康・秀忠の宿泊場所が金蔵寺(金蔵院)となっていること、また両書では同時期に御殿という文言が使用されていないことを挙げている。また「駿府記」には「御殿」という文言は見出せず、将軍上洛の宿泊で「御殿」という文言が見える「実紀」の最初の記述は、寛永十一年 (一六三四)六月であったという。確かに、「実紀」の慶長十六年十一月十六日の記事には「両御所(家康・秀忠)には金蔵寺にとまらせたまふ 11

」とあって、家康・秀忠の両人はともに金蔵寺(金蔵院)に宿泊したとある。しかし、「駿府記」の記事では「御放鷹、鶴鴈鴨之類有物数、今晩御着于神奈川、幕下為御暇請渡御于此所、有御対面、自幕府被進白兄鷹幷鷂、共以為逸物云々、良久御鷹之御雑談有之、則幕府御止宿於金蔵寺 1(

」とあり、秀忠の宿泊場所は金蔵寺(金蔵院)であったが、家康の宿泊場所の記述はなく、御殿が存在した可能性を否定しえないのである。「実紀」では大御所家康と将軍秀忠が金蔵寺(金蔵院)で一緒に宿泊していたとする「駿府政事録」の記載を採用しているが、この時期両者が同じ場所に宿泊するということは確認できず、その信憑性は低いといえよう。また井上は「駿府記」には「御殿」の文言は使用されていないとしているが、慶長十八年十一月四日条に「忍御殿」の事例が見出せる。なお、「駿府記」にみられる慶長十八年秋より元和元年正月までの、家康の江戸周辺地域での鷹野御成で「御殿」文言は忍以外には見当たらないが、「御旅館」文言は神奈川・川越・中原・戸田・船橋で確認できる。「御旅館」文言が見出せ

(16)

る地域のうち、川越だけは城郭内での宿泊と考えられるが、神奈川・中原・戸田・船橋ではいわゆる「御殿」が存在している。このようなわけで、神奈川御殿の慶長十五年成立説を否定しえないのではないかと考える。

  さて、この時期の御殿が宿泊・休憩のために利用されたことは明らかだが、そもそも御殿では何が行われていたのであろうか。毎日の動向が比較的詳細に記述されている「駿府記」を用いて、慶長十六年から元和元年(一六一五)までの駿府・江戸間往復における御殿やその周辺での家康をめぐる動向をまとめたのが第

断りしておきたい。 動のすべてが御殿で行われていたものではないことをお 狩りの記事をすべて省略していること、また大御所の行 目的は鷹狩りであったため、この表では大御所家康の鷹 る。この時期、家康は駿府城に居住し、関東への往復の

表であ

  それでは、江戸・駿府往復時に利用した御殿ではどのような行動がみられたのかをみてみよう。そのなかで、もっとも多かったのは儀礼にかかわるものであり、将軍や大名から大御所への諸品の献上、大御所から大名らへの鷹之鳥の下賜や茶の振舞い、大御所から大名・家臣への振舞い、将軍や大名による大御所の出迎え、大御所や 将軍へのお目見えなど多岐にわたり、全体の四五パーセントを占めている。次に多いのが学問・娯楽にかかわるものである。長期におよぶ鷹野御成であったため、その間に僧侶や検校らを呼んで文学作品を読み聞かせてもらったり、雑談をしたりしている。三番目に多いのは、幕府政治にかかわる業務の話し合いや命令を発していることである。そのほか、この時代を特徴づける直訴の受理やその裁定が行われており、また大名・家臣らの死去などの知らせが届いていた。このようにみてくると、城郭内で行われている業務と何ら変わらないことが城郭外の御殿およびその周辺で行われていたとみてよいだろう。

三 

第二期(家光中期―家綱期)の御殿とその役割   元和九年(一六二三)六月、徳川秀忠は将軍職を辞し、この年七月に子の徳川家光が将軍宣下を受けた。しかし、これは家康に倣ったもので、秀忠は政権移譲後も大御所として政治的実権を掌握しつづけ、幕府政治は大御所政治(西の丸)と将軍政治(本丸)との合議による

(17)

第 3 表 家康をめぐる御殿地での動向

期 日 場 所 内 容

慶長 (( 年 (0 月 (0 日 中原 幕府家臣が大御所に御膳のもてなし

(0 月 (0 日 中原 大御所に大久保加賀守死去を知らせる

(0 月 (( 日 神奈川 将軍が大御所を出迎え、対談する

(0 月 (( 日 戸田(蕨) 将軍家臣が大御所に諸事を沙汰する

(( 月  5 日 忍 将軍の使者が大御所のもとに参上して諸事を執行する

(( 月  ( 日 鴻巣 将軍が鷹狩りにやってくる

(( 月  ( 日 鴻巣 大御所付家臣が将軍にお目見えする

(( 月  ( 日 忍 呑龍上人が大御所に仏法の雑譚をなす

(( 月  ( 日 忍 大御所鷹狩り、鷹之鳥の料理を近侍に振舞う

(( 月  ( 日 忍 伊達政宗が大御所に馬 (0 疋と鷹 (0 聯を献上する

(( 月 (( 日 忍 南部利直が大御所に茶を振舞う

(( 月 (( 日 忍 大御所が南部利直や近侍に茶を振舞う

(( 月 (( 日 忍 大御所が紹一検校を召し出して平家物語を語らせる

(( 月 (( 日 忍 将軍が大御所に三種の嘉肴を献上する

(( 月 (( 日 神奈川 将軍が来訪して大御所と対面し、鷹を献上する

(( 月 (( 日 神奈川 良久が大御所と鷹の雑談をする

(( 月 (( 日 神奈川 将軍が大御所の元にやってきて雑談、本多正信同席する

(( 月 (( 日 中原 鎌倉荘厳院が保暦間記を持参し大御所に読み聞かせる 慶長 (( 年 ( 月 (0 日 三島 大久保忠隣が大御所を出迎える

( 月 (( 日 神奈川 将軍が大御所を出迎え、御旅館で対談する

(( 月  ( 日 鴻巣 将軍が鷹狩りにやってくる(~(( 月 (0 日)

(( 月  ( 日 忍 忍御殿で大御所と僧侶らが新しく決めた儀式を論議する

(( 月  ( 日 忍 佐野修理大夫が大御所にお目見えする

(( 月 (5 日 忍 大御所が病気のため鷹狩を中止する

(( 月 (( 日 忍 鷹狩りの途中で百姓らが目安を出す

(( 月 (( 日 忍 代官と百姓が大御所の御前で対決、代官を罷免する

(( 月 (0 日 越谷 本多正純が大御所の元にやってくる

(( 月 (( 日 越谷 将軍家臣が大御所と面会する

(( 月 (( 日 越谷 近辺百姓が鷹場で代官を訴える目安を出す

(( 月 (( 日 越谷 代官と百姓が大御所の御前で対決、百姓らを逮捕する

(( 月  5 日 稲毛(小杉) 大御所が本多正信に隼・万病円・八味円を下賜する

(( 月  5 日 小杉 大御所が本多正信に来春の大名手伝普請の指示を出す

(( 月  ( 日 中原 大御所に京都所司代板倉勝重よりの飛脚が到来する

(( 月  ( 日 中原 将軍使者が大御所の元にやってきて肴を献上する 慶長 (( 年 正月  ( 日 葛西(青戸) 将軍使者が大御所の元にやってきて肴を献上する 正月  ( 日 東金 将軍使者が大御所の元にやってきて諸物を献上する 正月 (( 日 東金 大御所が近辺に猪多数につき狩猟の指示を出す 正月 (( 日 東金 大御所に村越直吉死去を知らせる

正月 (5 日 東金 本多忠将が大御所に毎日肴などを献上する 正月 (( 日 三島 将軍使者が大御所の元にやってきて肴を献上する

(18)

二元政治のもとに置かれた。その秀忠が寛永九年(一六三二)正月に死去すると、二元政治は解消され、単独で政権を担うことになった家光はさまざまな施策を断行することになった。このなかに、家康・秀忠の時代に造営された御殿の修復も含まれていた。その一例として、「幕府日記」寛永十六年六月二十日条にみられる複数の御殿修復の記事を掲げることにする 11

一、葛西 

(  

本多清兵衛(大番)小倉忠右衛門(小姓組)

   稲毛 

(  

小俣平右衛門(大番)安藤一郎兵衛(小姓組)

   府中

  (  

本多左大夫(大番)長谷川半右衛門(小姓組)

   中原

  (  

山岡伝右衛門(大番)長谷川四郎兵衛(小姓組)

   舟橋

  (  

小笠原源四郎(大番)佐藤勘右衛門(書院番)

   越谷

  (  

山田彦左衛門(大番)平野清左衛門(書院番)右所々御殿破損ニ付而修復、御奉行如此被仰付之   これは、葛西(青戸)・稲毛(小杉)・府中・中原・船橋・越谷の六ヵ所の御殿が破損し、その修復に際して大番・小姓組番・書院番の番士のなかからそれを担当する奉行を命じたものである。いずれの御殿も、造営後ほぼ二、三〇年を経過していて修復の対象となったが、それは家光が崇拝した家康由縁の御殿であったからこその修復であったろう。  『

竹橋餘筆』所収の延宝六年(一六七八)五月に作成された「寛文拾弐年子之歳御城中其外方々新規破損修復共御入用御勘定目録之内 11

」によれば、「外曲輪廻り方々」のなかに「隅田川御殿  一所」、「南御薬園之内新御殿」、「品川東海寺御殿」の記述があり、寛文十二年(一六七二)に御殿の修復や新規御殿の造営で経費がかかったことが判明する。このうち、隅田川御殿と品川御殿は修復し、麻布御薬園内には「新御殿」が造営されたようである。また、同書所収の寛文十二年の「勘定帳 11

」には、葛西(青戸)御殿・越谷御殿・小杉御殿に御殿番が五人づつ、神奈川御殿には御殿番が二人いたことが記され、それらの給金支給の担当は代官伊奈半十郎忠常であったことが示されている。

  さて、単独で政権を担うことになった家光は、家康・

(19)

秀忠と二代にわたって続いてきた長期間に及ぶ鷹狩りを止め、日帰りの鷹狩りへと変更した。これによって、御殿のありようも大きく変化していった。すなわち、御殿への宿泊がなくなった一方で、休憩や食膳のための施設が江戸の周辺地域で必要になってきたのである。このため、家光は江戸周辺の各地に御殿・御茶屋を第

としり 11 畳内に畳二畳三じきの御腰掛、餘多あ あづいたことでのる。その様子は「寺 る置位に内境の院寺あ由つ持り取を緒 殿・多御茶は、その屋く家光と信仰が 期ていった。このさに造営れた御営し

造にうよの表

」とあり、家康時代の広大な御殿・御茶屋と異なり、御腰掛に用いられるような狭小な施設のものが多かったようである。

  そこで、この時期、江戸周辺地域に造営された御殿の史料を確認していきたい。まず、西ヶ原御殿であるが、こ

第 4 表 家光時代の御殿・御茶屋

施設名 設置時期 廃止時期 寺院との関係 備考 出典

高田御殿 豊島 寛永年間 延宝 ( 年 のち北御薬園、護 国寺建立

新編武蔵風土記稿 隅田川御殿 葛飾 寛永年間ヵ 木母寺境内 正 保 国 絵 図 に 記

載、公家招待

葛西志

大井御茶屋 荏原 正保 ( 年 常林寺境内 将軍の御祈祷所 新編武蔵風土記稿

永代島御茶屋 葛飾 寛永年間ヵ 永代寺辺 新編武蔵風土記稿

本所御茶屋 葛飾 寛永年間 最勝寺境内 御府内備考、葛西

谷中御茶屋 豊島 寛永 (5 年 感応寺境内 御府内備考

目黒御殿 荏原 寛永 (( 年 瀧泉寺境内 寺の伽藍復興時に

建設 新編武蔵風土記稿

牛込御殿 豊島 寛永年間 承応年間 仮御殿、鷹狩りの 休息所

御府内備考、南向 茶話

西ヶ原御殿 豊島 寛永年間ヵ 正保国絵図に記載 新編武蔵風土記稿 王子御殿 豊島 寛永 (( 年 金輪寺仏殿西 板橋御殿、王子御

茶屋とも

新編武蔵風土記稿 代々木御茶屋 豊島 寛永年間 大正院境内 家光の鷹狩りとの

関係

新編武蔵風土記稿 下高田御茶屋 豊島 寛永年間 元禄以前 南蔵院境内 家光の鷹狩りによ

る御休息所

新編武蔵風土記稿 高円寺御茶屋 多摩 寛永年間ヵ 高円寺境内 御殿は高 ( 尺、広

さ ( 間四方

新編武蔵風土記稿 井之頭御殿 多摩 寛永年間 井之頭池西 家光の鷹狩りとの

関係

武蔵名勝図会 千住御殿 足立 寛永年間 延宝8年 勝専寺境内 家綱の日光社参で

御殿建設

新編武蔵風土記稿

(20)

の御殿の造営・廃絶の時期は知られていない。「御場御用留」の「西ヶ原御殿山之事」には、「大猷院様御代御殿御座候由申伝候、惣坪壱万四千七坪、山守長右衛門と申竹木番いたし候ニ付、壱ヶ年米十俵被下候、森林ニ罷成、猪住申候 11

」とあり、この御殿は家光時代に造営され、御殿地の広さは一万四〇〇七坪に及ぶ広大なもので、寺院の境内に位置づくものでもなかった。ところが、その後解体された模様で、跡地には竹木が茂ったため長右衛門という人物が山守となって管理し、その者には一ヶ年に米一〇俵の扶持米が支給された。やがて御殿跡地は森林となり、また猪の住処になってしまったことで、享保期には将軍徳川吉宗による猪狩りが挙行されたところでもあった。

  次に、隅田川御殿についても、その造営・廃絶を物語る史料は今のところ確認できない。『新編武蔵風土記稿』の隅田村の項にある「御殿蹟」には、「五智堂の西北なり、寛永中の記に当所御殿のことを載せ、正保改の国図にも当寺の傍隅田川の辺に御殿と書たり、寺記に明暦三年五月二十五日厳有院殿御遊あるへしとて、同月十四日より御殿建かへ始まり、其実延宝二年二月又御殿の模様替へられしことなとを載す 11

」とあり、隅田川御殿は木母 寺の傍らで隅田川のほとりにあって、その後幾度か建て替えられたようである。  「御場御用留」の「隅田村木母寺之事」に、

「慶安元子年頃  大猷院様  御膳所ニ相成候由、  厳有院様ニも被為  入、御膳所ニ相成、本堂御建立御座候由 11

」とあり、慶安元年(一六四八)頃に木母寺が家光の鷹野御成時の御膳所となったことが記されている。しかし、御膳所という施設は享保期に指定されるものであり、この段階では存在するはずもなく、これが御殿だったのではないかともみられる。

る所の行殿営作の事を命ぜら 11 守「少老秋元摂津に、喬知に品川、墨田川、両は、条日   「憲院殿御実紀」の貞享常年(一六八五)五月十四二

」とあり、若年寄の秋元喬知が隅田川御殿と品川御殿の造営を命じられたが、この時に作成されたとみられる「隅田川御殿御指図」が発見されている。これによれば、隅田川御殿は木母寺と一体の施設で、単独で御殿としての機能を果たせる施設ではなかったとされる 11

。しかし、これは改めて造営されたものであり、最初に造営された御殿がどのような規模のものであったかは不明だが、この期の御殿は前述したように寺院の境内に位置づくものが多く、狭小な施設である

(21)

ことが特徴で、鷹野御成時の休息施設として利用されていたものであったとみられる。

  このように、この時期の御殿・御茶屋は家光の鷹狩り中の休息所として有力寺院の傍らに建設され利用されたが、廃絶時期は明確でないものの、家光没後一部を除いてそのほとんどは解体されたようである。

四 

第三期

(綱吉期―家継期)

の御殿とその役割   徳川綱吉は将軍就任以来一度も鷹狩りを挙行せず、御殿が鷹狩りの際の休息所として利用されることはなかった。しかし、御殿は将軍や親族の癒やしの場、あるいは公家・門跡の接待の場として利用されていたようである。将軍就任前、綱吉が上野館林藩の藩主であった関係で、小石川白山にあった下屋敷は将軍家の別邸として幕府に収公され、小石川(白山)御殿と呼ばれ、御成時の休息・娯楽施設として利用された。この御殿には御殿奉行や御殿番頭・御殿番などの役人が詰めていた 1(

野備後守成貞、幷に御側の輩は羽織袴着して陪行す、其 条に「小石川離弟にわたらせ給ふ、堀田筑前守正俊、牧   「常日十月六)二八六一年(二和天の」紀実御殿院憲 外は各放鷹の時のよそひのごとし 11

」とあり、小石川御殿(離弟)への御成に際して大老の堀田正俊、側用人の牧野成貞、それに御側の者に羽織・袴を着用させ、そのほかに供奉した家臣たちにも鷹狩り装束で同行させていた。この御成は、将軍の癒やしというだけでなく、重臣らを従えてその装束をも揃え、江戸住民にこれまでの将軍が見せてきた鷹狩り行列時の将軍の権威を示す行動であったとみられる。

  小石川御殿への御成はその後も続き、「常憲院殿御実紀」の貞享二年(一六八五)五月二十六日条には、「小石川離弟にならせ給ふ、大久保加賀守忠朝、少老秋元摂津守喬知、御側金田遠江守正勝等御先へまかり、むかへたてまつる、牧野備後守成貞、少老堀田対馬守正英、御側稲垣安芸守重定等供奉す、離弟にては、老臣はじめ近習、茶道頭まで饗膳給ひ、外様の輩には強飯を賜ふ 11

」とあって、幕府重臣らを伴い、御殿内にて供奉した者たちに食事の振舞いを行っていた。すなわち、この御成では江戸城内でも実施されている家臣らへの振舞いと同様のもてなしが行われており、将軍の示威と家臣らへの労いを兼ねた饗応儀礼を執行する意味合いをもっていたといえよう。

(22)

  また、「常憲院殿御実紀」の元禄元年(一六八八)十月十一日条には、「小石川離弟にならせ給ふ、牧野備後守成貞、少老稲垣安芸守重定、御側南部遠江守直政供奉し、諸老臣御先にまかりむかへ奉る、この日知足院権僧正隆光も召れ、鼓吹の御遊あり、また供奉の近臣等に命ぜられ、詩歌を献ぜしめらる 11

」とあり、重臣らを従えて小石川御殿に出かけたことはこれまでと同じだが、この時は知足院僧侶の隆光を招待して鼓を打ち笛を吹き、また供奉の近臣らに命じて詩歌を献じさせていた。さらに同書の同三年四月一日条には「桂昌院殿白山権現の祠に詣給ひ、社領五十石寄せ給ふ、御かへさに小石川離弟にやすらはせ給ふ、土屋相模守政直、牧野備後守成貞幷に留守居大久保玄蕃頭忠兼はじめ、目付、歩行頭、小十人頭等供奉つかふまつる、離弟に御側酒井甲斐守忠良もて、菓子、鮮魚を進らせ給ふ 11

」とあり、綱吉の母桂昌院が白山権現を詣でたついでに小石川御殿に立ち寄って休憩し、菓子や鮮魚を献上していた。そして、同書の同十年閏二月二十五日条には、「小石川離弟にならせ給ひ御乗馬あり、次に両番の士乗馬御覧ぜられ、厩方の者には駆を追はしめらる、日光門主公弁法親王もかしこにわたらせられ、見る事ゆるされ饗給ふ、陪従の凌雲院義道、 覚王院最純に時服四づゝ、仏頂院義天、円覚院常然、佳心院公淵に二づゝ給ふ 11

」とあり、綱吉は日光門主らと小石川御殿に出かけて大番・書院番の両番士の乗馬を観覧し、陪従した僧侶らには時服を下賜していた。その小石川御殿も破損により作事が行われ、元禄十一年五月には完成した模様で、これに携わった人々が褒美を下賜されていた。

  このように、小石川御殿には将軍徳川綱吉や陪従の家臣のほか、母の桂昌院や日光門主公弁法親王らも訪れ、そこでは楽器の演奏、乗馬の観覧、詩歌の献上などが行われ、物品の献上、時服の下賜などの儀礼も執行されていた。ここでは、将軍への献上品の受理、将軍から諸人への下賜、饗応の儀礼のほか、門跡らの接待も行われ、江戸城内と同様の空間として利用されていた。

  しかし、この時期の御殿は小石川御殿だけでなく、新たに麻布(白金)御殿が造営された。それを任されたのが豊後岡藩主の中川久通であった。「常憲院殿御実紀」の元禄十年十二月一日条には、「中川因幡守久通には麻布薬園の経営に人夫出すべしと命ぜらる 11

」とあり、岡藩主の中川久通が麻布御薬園内の造作に人夫の拠出を命じられていた。天和元年(一六八一)護国寺建立のため大

(23)

塚(北)御薬園が廃園となり、薬草の大部分は麻布(南)御薬園(寛永十五年設置)に移されたが、麻布御薬園は貞享元年(一六八四)に小石川御殿に移されて廃園となった(小石川御薬園成立)。しかし、北方の御花畑に元禄十一年麻布御殿が完成した。翌年四月五日条には「麻布薬園営築成功せしにより、細工頭酒井彦大夫忠久その奉行を命ぜらる 11

」とあり、細工頭の酒井忠久が麻布御殿造営の奉行となって完成させていた。これにより、十日後の十四日条には「中川因幡守久通麻布離弟の構造人夫出したりとて、時服十、小普請奉行組頭東條源右衛門正甫は時服三たまふ、所属もおなじく時服たまふ」とあり、その翌日条にも「中川因幡守久通家人構造にあづかりし者に、銀、時服、羽織を給ふ 11

」とあって、麻布御殿の造営に貢献したとして中川やその家臣、そして幕府役人が時服などを下賜されていた。その四日前には「麻布離弟に新に添番五人、坊主三人を置る 11

」とあり、麻布御殿に添番や坊主が配置された。麻布御殿には御殿番という役人も配置されており、周辺村々では麻布御殿番衆の借米を納入していた 1(

。このことから、麻布御殿の周辺村々は「御殿役」とでもいうべき、その維持にかかわる役負担の義務を負っていたことがわかる。   小石川御殿や麻布御殿に共通する用途として、「常憲院殿御実紀」の元禄十四年四月一日条には「諸隊の与力同心弓銃を、小石川、麻布の両離弟にて、目付監試すべしと仰出さる 11

」とあり、目付は番方の諸隊与力・同心に小石川・麻布両御殿で弓・銃の技の訓練を行わせ、それを点検するように命じられていた。その後、両御殿では頻繁に弓・銃の稽古が繰り広げられた。

  この時期には、家康~家光期に造営された御殿のなかに残存していた施設の修理も行われ、「常憲院殿御実紀」の貞享二年(一六八五)五月十四日条に「少老秋元摂津守喬知に、品川、墨田川、両所の行殿営作の事を命ぜらる 11

」とあって、品川御殿と墨田川御殿の造営が決定し、同年八月五日条に「墨田川、品川両所の離弟締搆終りければ、其奉行に金を褒賜あり 11

」とあって両御殿の造営が終わって、その建設を担当した奉行に褒美が下賜されていた。その結果、貞享三年十月二十二日条に「品川の離弟にならせ給ふ、御羽織袴なり、供奉の輩も同じ、玄関より御輿にてわたらせたまひ、札辻より御馬にめされ、東海寺にいらせられ、寺中の林泉御遊覧あり、諸老臣はかねてより方丈に待むかへ奉り、これより品川に供奉し、離弟にて宿老幷に牧野備後守成貞魚物を献ず、老臣

(24)

はじめこと〳〵く饗膳を賜ふ 11

」とあるように、品川御殿では老中や側用人らが魚物を献上する一方で、供奉の者たちが饗応されていた。

  綱吉の六十賀を目前にした宝永元年(一七〇四)十二月五日、甲府藩主徳川綱豊が将軍綱吉の養嗣子となることが決定し、同九日に名を綱豊から家宣と改めた。これにより、大納言となった家宣は小石川御殿に出かけるようになったが、一方で甲府藩の下屋敷であった甲府浜屋敷は幕府に収公され、浜御殿と称されるようになった。翌二年九月十日条には、「大納言殿、  簾中御方とゝもに浜弟にならせ給ふ 11

」とあり、家宣は夫人とともに浜御殿に出かけていた。また同三年三月十八日条には、「西の御旨によりて、陽明殿(近衛基熈)を浜の離弟にて饗し給ふ、よて本多伯耆守正永、少老加藤越中守明英に間部越前守詮房、高家、大目付、目付、中奥の輩まかりその事をとる、かしこの諸門は持筒先手の頭警衛す、御饗の半に  大納言殿より御側青山備前守秘成御使し、檜重、肴一種をくらせ給ひ、  簾中よりも執事もて檜重進らせ給ふ 11

」とあり、家宣の命により公家の近衛基熈を浜御殿に招いて饗応し、檜重などを贈っていた。そして同四年九月四日条には、「浜の離弟構造仰付らる、よて浅野土 佐守長澄人夫出すべしと命ぜられ、作事奉行曲淵越前守重羽、小普請奉行間宮播磨守信明其事奉る 11

」とあり、浅野長澄が浜御殿の造営に着手するよう命じられていたことがわかる。

  綱吉没後、六代将軍となった徳川家宣は、妻や家臣らを引き連れて浜御殿に出かけた。「文昭院殿御実紀」の宝永七年三月二十二日条には、「浜の御殿にならせ給ふ、少老永井伊豆守直敬、御側保田内膳正宗郷、松平大蔵少輔勝以供奉す、其他宿老、御側用人、少老、御側みな御先にまかる、  御台所にもやがてわたらせ給ふにより、留守居大久保淡路守教福先にまかりて迎へ奉り、松前伊豆守嘉広はじめ、留守居番、用人も皆まかる、御部屋の方もおはしたり、池中に船をうかめて例の囃子あり、けふよりはじめて新番もまかる 11

」とあり、家宣は夫人・老中・若年寄・側用人・御側衆らと浜御殿に訪れ、池の中に船を浮かべて囃子を奏でて楽しんでいた。また同書の同年九月二十六日条には「浜にならせたまふ、松平肥後守正容ならびに大坂城代土岐伊予守頼殷を浜に召て、園池を拝覧せしめらる、よて檜重、菓子を献ず、御庭にて御馬をめされ、また近習両番の士の乗馬をも御覧じたまふ 11

」とあり、家宣は保科正之の六男で陸奥会津藩主松平

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