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﹁ 広 島 計 画 ﹂ と 原 爆 ド ー ム

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(1)

丹 下 健 三

﹁ 広 島 計 画 ﹂ と 原 爆 ド ー ム

│ 旧 産業 奨 励 館が

﹁ 焼 け野 原

﹂ から

﹁ 平和 の 象 徴﹂ へ 至 った 経 緯 につ い て

││

越 前 俊 也

は じ め に 丹下

健三

﹁広 島計 画﹂ とは

︑一

.

丹 下健 三︵ 一九 一三

│二

〇〇 五︶ らが 一九 四六 年に 作成 した

﹁広 島市 土地 利用 計 画

﹂に 始ま る広 島復 興計 画︒ 二

.

一九 四九 年 の公 募 に 一等 当 選 した

﹁広 島 平 和 記念 公 園 及び 記 念 館 案﹂

︒三

.

一 九 五 一 年第 八回 近代 建築 国際 会議

︵C IA M︶ の前 に策 定さ れた

﹁平 和都 市建 設計 画の 中心 課題

﹂と して 構想 され た平 和 公 園計 画︒ 四

.

イサ ム・ ノグ チ︵ 一九

〇四

│一 九八 八︶ の関 与に より 変更

︑一 九五 二年 に実 現し た丹 下に よる 慰霊 碑 及 びノ グチ のデ ザイ ンに より 一九 五三 年に 竣工 した 平和 記念 公園 に架 かる 二つ の橋 の勾 欄︒ 以上 四つ のプ ロジ ェク ト の 総称 であ る︒ これ らの 計画 は一 九五 四年 一月 に刊 行さ れた 雑誌

﹃新 建 築﹄ に﹁ 広島 計 画

1946 − 1953

と くに そ の 平 和 会館 の建 設経 過﹂ と題 され て一 七頁 にわ たる 記事 によ って 紹介 され た!

︒ 平和 記 念 公 園の 平 面 プラ ン を 中心 と す る こ れら の計 画と 原爆 ドー ムの 関係 は︑ 丹 下が

﹁平 和 大 通り か ら 中央 の

﹃陳 列 館﹄ の ピロ テ ィ の柱 間 を 通 して

︑広 場

― 109 ―

(2)

慰 霊碑

︑原 爆ド ーム を一 直線 上に 望む 祈念 の景 観軸 を提 案︒ 廃墟 を原 爆の 悲惨 さを 後世 に伝 える 象徴 とし て位 置づ け た

! もの と し て紹 介 さ れる こ と を常 と し て いる

︒し か し なが ら

︑丹 下 自身 が

﹁一

〇 メー ト ル 道路 と 垂 直の 軸 を 基 本 に し て展 開 し よう と

⁝⁝ 最初 か ら 気 がつ い た わけ で は な い﹂"

と 回想 し て いる よ う に︑ 今日

﹁原 爆 ド ー ム﹂ と 言 い 習 わさ れて いる 旧産 業奨 励館 は︑

﹁ 原爆 の悲 惨さ を後 世に 伝 え る象 徴

﹂と し ての 役 割 を いき な り 担わ さ れ た訳 で は な い

︒そ れは むし ろ︑ 上に 述べ た﹁ 広島 計画

﹂が 進行 する 過程 で徐 々に 醸成 され て行 った もの と考 える こと はで きな い で あろ うか

︒こ うし た仮 説を 検証 する こと が本 稿の 目的 であ る︒ その ため に以 下の よう に論 を進 めて 行く

︒ 第一 章で は︑ 一九 四六 年に 調査 作成 され た復 興計 画を 見て

︑少 なく とも 一九 四八 年前 半ま では 原爆 ドー ムが 丹下 ら の 関心 の外 にあ った こと を確 認す る︒ 第二 章で は一 九四 九年 の﹁ 競技 設計 当選 案﹂ を検 討す るこ とに より

︑こ のと き 旧 産業 奨励 館は

﹁原 爆の 遺骸

﹂と 称さ れて いる こと を踏 まえ

︑丹 下が 提案 した 陳列 館と とも に原 爆被 害の 過去 を思 う 基 点 の うち の ひ とつ に 位 置 づけ ら れ たと 判 断 する

︒第 三 章 で は丹 下 が 一九 五 一 年 の CI AM に 提 出 し た﹁ 広 島 の コ ア

﹂と いう 小論 と図 面を もと に︑ この 時点 でド ーム は平 和都 市の 中核

︵コ ア︶ とし て特 別な 地位 に位 置づ けら れた と 考 える

︒そ して 第四 章で は︑ イサ ム・ ノグ チの 関与 を検 証す るこ とに より

︑旧 産業 奨励 館は 基点 やコ アか ら︑ 祈り を 捧 げる 対象 へと 神聖 視化 され って いっ た可 能性 を探 って いく

︒た しか に一 九四 九年 の競 技設 計当 選案 は︑ 旧産 業奨 励 館 を百 メー トル 道路 と垂 直に 交わ る軸 線上 に据 えた とい うこ とで

︑こ の建 造物 に決 定的 に重 要な 役割 を担 わせ た︒ し か し︑ この 時点 で丹 下が

︑﹁ 原 爆の 地と 結び つく こ と によ っ て︑ 平 和を 記 念 す る﹃ 精神 的 な 象徴

﹄の 意 味 を帯 び て く る

# と主 張 し てい る の は︑ 公園 プ ラ ン 全体 と 記 念館 の 方 であ る

︒と こ ろ が︑ 今日

﹁原 爆 の 悲惨 さ を 後世 に 伝 え る 象 徴

﹂と 受け とめ られ てい るの は︑ 先に も引 用し たよ うに

﹁廃 墟﹂ の方 であ る︒ この よう に受 けと めら れる きっ かけ と し てノ グチ の果 たし た役 割は 極め て大 きく

︑む しろ ノグ チの 導き によ って

︑丹 下は

﹁垂 直の 軸﹂ の原 案に はな かっ た

丹下健三「広島計画」と原爆ドーム ― 110 ―

(3)

原 爆ド ーム に対 する 神聖 視︑ なら びに それ に祈 りを 捧げ る方 向性 を持 たせ るに 至っ たの では ない かと いう こと を検 証 し てい く︒

第一 章 広島 復 興 都市 計 画 一 九 四 六│ 一 九 四八

︿ 焼 け野 原 と して の 原 爆ド ー ム

﹀ 第

一節

道 路計 画

﹁ 大東 亜建 設忠 魂神 域計 画﹂ の大 東亜 道路 との 類縁 性 一 九四 六 年 五月

︑丹 下 は 戦災 復 興 院#

よ り 復 興 都 市 計 画 策 定 を 委 嘱 さ れ る

︒こ れ を 受 け

︑丹 下 が 広 島 入 り を し て

﹁爆 心地 に近 い現 場小 屋を 根城 にし て一 ヶ月 余り を︑ まだ 血な まぐ さい 現 地 で︑ 調査 や 計 画の 作 業 をし た

$ の は 同 年 夏 のこ とで あり

︑さ らに 秋か ら初 冬に かけ て二 回目 の滞 在調 査を 行っ たと さ れ て いる

%

︒こ の 作 業の 結 果 は同 年 末 に は 戦災 復興 院な らび に広 島市 に提 出さ れ︑ 翌一 九四 七年 一月 一〇 日に 開 催 され た 第 一九 回 広 島市 復 興 審 議会

&

で︑ 丹 下 自身 によ る説 明が なさ れた

︒戦 災復 興院 が丹 下に 作成 を依 頼し た復 興﹁ 計画 図﹂ に関 して は現 在所 在が 不明 であ る が

︑そ の﹁ 説明 書﹂ に相 当す る﹁ 広 島市 土 地 利用 計 画 説明 要 旨

﹂︵ 以 下﹁ 説明 要 旨﹂ と 記載

︶に 従 い︑ こ の時 点 で 丹 下 が広 島の 復興 計画 をど のよ うに 思い 描い てい たか を知 るこ とが でき る︒

﹁ 説明 要旨

﹂は

! .

﹁ 土地 利用 計画 の概 要﹂

" .

﹁土 地利 用計 画上 特に 既定 計画 又は 既定 方針 に対 して 修正 を要 す る 諸事 項及 び計 画上 特に 留意 する 点﹂ の二 部か ら構 成さ れて いる

︒全 体を 通し てと りわ け目 につ くこ とは

︑そ の第

"

部 にお いて

︑主 要幹 線道 路を 変更 して 斜路 を取 り入 れる こと の必 要性 と重 要性 を力 説し てい る点 であ る︒ ここ でい う 斜 路と は︑ 広島 駅か ら市 街中 心部 に位 置す る紙 屋町 を経 て︑ 後に 平和 記念 公園 が設 置さ れる こと にな る旧 中島 町へ と 至 る 道︵ 図1

︶の こ とを 意 味 する

︒加 え て 第

!

部 のB

.

﹁ 用 途地 域

﹂の う ち2 の︵ 1︶ に掲 げ た﹁ 中 央商 業 地 域﹂ の

― 111 ― 丹下健三「広島計画」と原爆ドーム

(4)

説 明 で︑

﹁中 ノ 島 本町 筋 に 発生 し た 問 屋街 が 広 島市 の 商 業的 中 心 地 を な し てい た

﹂と ひ もと い た 上 で︑

﹁現 在 は 住居 分 布 が市 街 に 分 散 す る結 果広 島駅 を利 用す る通 勤者 が異 常に 膨張 しそ れに 伴い それ ら 商 店街 は尚 東漸 しつ つあ る﹂ 現状 分析 をし てい る件 を見 ると

︑丹 下 が この 時点 で広 島駅 と市 街中 心部 を結 び斜 めに 走る 幹線 道路 の建 設 に 如 何 に 執 念 を 燃 や し て い た か が わ か る

︒こ の 斜 路 に 対 す る 執 着 は

︑実 は平 和記 念公 園設 計時 にも その 問題 意識 を継 続さ せ︑

﹁︵ 平 和 記 念公 園

旧中 島町

︶敷 地の 北東 から 45°の 角度 でこ こを 横断 する 道 は 広 島 の 銀 座 だ っ た 道 で

︑交 通 路 と し て 残 し た い

! と 考 え︑ 実 現 さ せた

︒戦 後か ら﹁ 説明 要旨

﹂作 成こ ろま での 時期 の丹 下は

︑通 勤 現 象 も しく は 都 市部 の 人 口 移動 問 題 に 集 中 的 に 取 り 組 ん で い る"

︒ そ の只 中に 作成 した 広島 復興 計画 にお いて

︑東 の新 興住 宅街 を後 背 地 に持 つ広 島駅 と西 広島 の住 宅街 にあ る己 斐駅 を市 内中 心部 を経 由 し な が ら最 短 距 離 で 繋 ぐ た め の 斜 路 お よ び そ れ に 続 く 旧 西 国 街 道

︵図 2︶ の建 設 は︑ 丹 下に と っ て最 大 の 関 心事 で あ り︑ 最 重 要 課 題 で あっ た︒ そし てそ れは

︑戦 中に 丹下 が作 成し た﹁ 大東 亜建 設忠 霊 神 域 計 画

﹂︵ 一 九 四 二

︑図 3︶ と の 関 連 で も 語 ら れ る べ き で あ る

︒ 同 計画 は正 式な 名称 が﹁ 大東 亜道 路を 主軸 とし たる 記念 造営 計画

1 丹下建三が計画した広島駅から紙屋町を経て中島町に至る斜路

(広島市街地図[1934年現在、原図広島市所蔵]上に筆者が作図したもの)

丹下健三「広島計画」と原爆ドーム ― 112 ―

(5)

2 「図1」の斜路を延長して己斐駅に至る旧西国街道を加えた地図

(広島市街地図[1934年現在、原図広島市所蔵]上に筆者が作図したもの)

3 大東亜道路

(丹下健三「大東亜道路を主軸としたる大東亜建設忠霊神域計画」1942年より部分)

― 113 ― 丹下健三「広島計画」と原爆ドーム

(6)

主 と し て大 東 亜 建設 忠 霊 神 域計 画

﹂と あ るよ う に 皇居 と 神 域 とす る 富 士山 麓 を﹁ 大 東亜 政 治 の 中枢 と な る べ き 新 都 市

! を経 由 し なが ら 最 短で 結 ぶ 大 東亜 道 路 の建 設 を﹁ 主 軸﹂ に据 え た も ので あ っ た︒ 従来

︑同 計 画 と平 和 記 念 公 園 の 類縁 関係 につ いて は︑ 前者 の本 殿と 後者 の慰 霊碑 の類 似や

︑同 じく 拝殿 施設 に対 する 国民 広場 と平 和記 念館 に対 す る 平和 広場 の配 置の 類似 のも とに 比較 して 語ら れる こと を常 とし てき たが

"

︑丹 下 が 建 築家 で あ る以 前 に 都市 計 画 家 で あっ たこ とを 念頭 にお くと

︑広 島市 復興 審議 会に 却下 され 未遂 に終 わっ たこ の﹁ 斜路

﹂の 建設 こそ

︑戦 中に 作成 し た 計画 を引 き継 ぐ要 であ った と語 られ るべ きで ある

#

︒ 第

二節

地 域区 画︑ とり わけ 平和 記念 公園 敷地 の利 用計 画に つい て

﹁ 大東 亜建 設忠 霊神 域計 画﹂ にお いて

﹁中 枢と な る べき 新 都 市﹂ すな わ ち

﹁東 京 の膨 張 を 防が ん と す﹂ る新 し い 首 都 は﹁ 住宅 地域

﹂﹁ 政 治地 域﹂

﹁経 済地 域﹂

○○ 地域

﹂︵ 読み 取れ ず︶ の四 区 画 か ら構 成 さ れて い た$

︒ そ して こ の 首 都 から 西に 離れ て丹 沢山 系の 手前 に﹁ 大東 亜文 化中 枢﹂ が置 かれ

︑さ らに 西進 して トン ネル を潜 った 先の 富士 山麓 に

﹁忠 霊神 域﹂ の建 設を 計画 して いた

︒こ れに 対し て先 に述 べた 一 九 四六 年 末 に丹 下 ら が 提出 し た 復興 の 土 地利 用 に 関 す る

﹁説 明 要旨

﹂で は 広 島市 内 を﹁ 住 居 地域

﹂﹁ 工 業 地域

﹂﹁ 商 業 地域

﹂﹁ 無 指 定地 域

﹂の 四 つ に 分 類 し て い る%

︒ 同 年 七 月 に作 成 し た﹁ 広島 市 復 興 都市 計 画 の基 礎 問 題﹂ と題 し た 論 考の 分 析 で﹁ 山陽 工 業 地帯 の 形 成 と そ の 軍 事 的 発 展

﹂を

﹁広 島市 の性 格﹂ とし た上 で︑ その 再建 を復 興展 望の 柱と 据え て い るこ と&

から

︑丹 下 ら が広 島 を 工業 都 市 と 位 置 づ けて い た こと は 明 ら かで あ る︒ そ の結 果

︑大 東 亜の 新 首 都 で は

﹁政 治

﹂と

﹁経 済

﹂に 当 て ら れ た 地 域 が﹁ 工 業

﹂と

﹁商 業﹂ に割 り当 てら れた と 見な す こ とが で き る︒ さら に は

﹁説 明 要旨

﹂に は

︑特 別 用途 地 区 と して

︑﹁ 公 館 特 別地 区﹂ と﹁ 港湾 特別 地区

﹂と

﹁文 教特 別地 区﹂ の三 つの 地区 を提 案し てい る︒ この うち

﹁文 教特 別地 区﹂ を戦 中

丹下健三「広島計画」と原爆ドーム ― 114 ―

(7)

に 構想 した 新都 市で は﹁ 大東 亜文 化中 枢﹂ に相 当す ると 判断 でき る︒ する と残 りの

﹁公 館特 別地 区﹂ と﹁ 港湾 特別 地 区

﹂の うち

︑前 者は やは り大 東 亜新 首 都 の﹁ 政治 地 域﹂ に 相当 し

︑後 者 は 富士 山 麓 の﹁ 忠霊 神 域﹂ に 相 当す る

︒﹁ 公 館 特 別 地区

﹂に は 市 庁舎 を 新 設 し公 会 堂 や図 書 館 もあ る 市 民 のコ ミ ュ ニテ ィ

・セ ン ター を 想 定 し

︑﹁ 港 湾 特 別 地 区

﹂ は 大東 亜建 設計 画の 富士 山麓 同様

︑自 然の 立地 条件 を背 景に して いる から であ る︒ こう した 地域 区画 の面 でも 広島 復 興 の土 地利 用計 画は

︑戦 中の

﹁大 東亜 建設 忠霊 神域 計画

﹂を 踏襲 する もの と見 なす こと がで きよ う︒ 本論 で問 題と な る のは

︑旧 産業 奨励 館を 含む 細工 町と 中島 地区 から なる 将来 平和 記念 公園 とな る地 帯を この 時点 で丹 下が どの 区画 に 配 した かで ある

︒石 丸紀 興が 地元 紙で ある

﹃中 国新 聞﹄ や﹃ 広島 県史

﹄な どを 参照 に広 島の 復興 都市 計画 を細 密に 検 証 し た 先行 研 究 によ る と︑ 少 な くと も 中 島地 区 は﹁ 公 館特 別 地 区

﹂ に 分 類 さ れ て い た!

︒ 石 丸 が そ う 判 断 し た 一 九 四 七 年 二 月 五 日 に

﹃中 国新 聞﹄ に掲 載さ れた

﹁丹 下案 と呼 ばれ るカ ット

﹂︵ 図4

︶に 従 う なら ば︑ 中島 地区 の対 岸に ある 旧産 業奨 励館 のあ る細 工町 は﹁ 無 指 定地 域﹂ に区 分さ れて いた こと がわ かる

︒つ まり この 時点 で丹 下 は

︑旧 産業 奨励 館に 特別 な役 割は 担わ せよ うと して いな かっ た︒ と こ ろ が︑ 頴 原 澄 子 に よ る 原 爆 ド ー ム 保 存 の 過 程 に 関 す る 詳 細 な 研 究"

に よ れ ば︑ 丹 下 が 戦 災 復 興 院 へ

﹁説 明 要 旨

﹂を 提 出 す る 以 前 に

︑戦 災復 興院 は﹁ 告示 第二 三一 号﹂

︵ 一九 四六 年一 一月 一日 付け

︶ で

﹁広 島 復 興 都 市 計 画 公 園﹂ を す で に 公 に し て い た︒ そ の な か で は

︑中 島地 区は もと より 旧産 業奨 励館 の位 置す る細 工町 も中 央公 園

4 「(丹下案とされる)広島用途別地域配置計 画」『中国新聞』1947年2月5日(石丸紀興

「広島復興都市計画と丹下健三」より再録)

― 115 ― 丹下健三「広島計画」と原爆ドーム

(8)

の 一部 とし て公 園敷 地の なか に含 まれ るこ とが 決ま って いた ので ある

︒一 方︑ 頴原 は同 じ研 究の なか で丹 下が

﹁説 明 要 旨﹂ を提 出し た同 じ一 二月 に広 島市 共済 組合 が発 行し た﹃ 広島 復興 都市 計画 街路 網公 園配 置図 二万 分ノ 一﹄ では 旧 産 業 奨 励館 の 建 つ敷 地 は 公 園緑 地 と して 色 分 けさ れ て い な い こ と も 伝 え て お り!

︑こ の 時 期

︑こ の 敷 地 を め ぐ る 解 釈

︑す なわ ち旧 産業 奨励 館の 存廃 をめ ぐる 判断 は︑ 復興 計画 を練 る当 事者 の間 でも かな りの 混乱 を来 して いた 状況 を 物 語っ てい る︒ そし て﹁ 説明 要旨

﹂の

﹁公 館特 別地 区﹂ は︑ 平和 記念 公園 の現 状と 比較 して 大き く異 なる 点に も注 目し なけ れば な ら ない

︒こ の時 点の 丹下 らは

︑こ の地 区に 市庁 舎や 公会 堂を 建設 して 市民 の集 まる 場を 築こ うと して いた が︑ 原爆 死 没 者の 慰霊 のた めの 施設 は全 く想 定し てい なか った

︒ 第

三節

旧 産業 奨励 館│ 一九 四八 年の 転機 以上 のよ うな 丹下 が立 てた 広島 の復 興計 画は

︑第 一節 でも 触れ たよ うに 一九 四七 年一 月一

〇日 に開 催さ れた 第一 九 回 広島 市復 興審 議会 にか けら れた

︒当 日の 記録 を見 ると その 会場 は︑

﹁ 政庁 及三 滝荘

﹂と なっ てお り︑

﹁丹 下・ 武両 氏 よ り 土 地利 用 計 画の 説 明 があ り

︑二

︑三 意 見 交換 後 会 食し て 散 会す

"

とあ る

︒こ れ を 受け て 一 月一 九 日 に開 催 さ れ た 第二

〇回 復興 審議 会は 委員 長の

﹁所 謂丹 下案 が問 題と なっ て居 るが

︑審 議会 とし て一 度決 定し た案 を変 更す るか ど う か に つい て 意 見を 窺 い たい

# とい う 発 言 から 始 ま って い る︒ こ の会 に は 丹 下・ 武の 両 者 は出 席 し てい な い

︒要 す る に復 興審 議会 側か らす れば

︑丹 下ら が作 成 して い た﹁ 広 島市 復 興 計画

﹂は あ く ま でも 参 考 意見 で あ り︑

﹁審 議 会 の 決 定 意 見よ り よ り以 上 に よ い案 が 出 れば

⁝⁝ 修 正し て も よ い﹂$ 程 度 の 位 置 づ け し か さ れ て い な か っ た よ う で あ る

︒ そ の 結 果︑ 道路 案 に 関し て は﹁ 早 急を 要 す る 問題

% とし て 丹 下が 強 く 主張 し た 斜 路は 取 り 上げ ら れ ず︑ 市役 所 の 位

丹下健三「広島計画」と原爆ドーム ― 116 ―

(9)

置 も元 案ど おり 元の 庁舎 を使 用す るこ とと して

!

︑丹 下が

﹁公 館特 別地 区﹂ とし た 中 島 地区 に 移 転新 築 す る案 は 賛 同 を 得る こと がで きな かっ た︒ 復興 審議 会は 同年 三月 六日 に開 催し た第 二一 回を 持っ て実 質的 な審 議を 終了 し︑ ほぼ 一 年 後の 一九 四八 年三 月一 七日 に解 散し てい る︒ この 復興 審議 会の 決定 事項 を反 映し てい るの が︑ 前節 で触 れた 頴原 も 参 照に して いる 一九 四七 年末 に発 行さ れ た﹃ 市勢 要 覧﹄ 復 興第 二 年 号で あ る

︒そ こ では ま ず﹁ 戦 災復 興 計 画 の樹 立

﹂ の 項目 に﹁ 広島 は世 界平 和の 記念 都市 であ る︒ 市の 復興 は︑ 世界 平和 を象 徴す るに 足る 理想 的な 文化 都市 を目 標と し な けれ ばな らな い﹂"

と 唱い 上げ

︑﹁ 復興 計画 の内 容﹂ の第 三項 目で

﹁こ の度 の復 興 区 域 内は そ の 面積 の 一 割以 上 を 緑

︑公 園に 充当 する 計画 で進 んだ

︒そ の種 類は まづ 原子 爆弾 の爆 心地 附近 にあ る中 島慈 仙寺 鼻一 帯を 平和 記念 公園 と し て計 画 し た﹂# こ とを 記 し てい る

︒細 か い記 載 は な いが

︑こ こ で 旧産 業 奨 励館 が 位 置 する 細 工 町が 中 央 公園 の 敷 地 と して 市内 第二 の大 公園 に算 入さ れて いた こと は頴 原が すで に報 告す る 通 り であ る$

︒し か しな が ら︑ や はり 一 九 四 七 年末 の﹁ 復興 計画 の内 容﹂ 五項 目の どこ にも 慰霊 施設 建設 に関 する 記述 を見 出す こと はで きな い︒ この

﹃市 勢要 覧﹄ 発行 から 三月 ほど 後に あた る一 九四 八年 三月 二八 日︑ 朝日 新聞 紙上 に広 島平 和記 念カ トリ ック 聖 堂 建築 競技 設計 に関 する 開催 要項 が発 表さ れる

︒締 め切 りは 三ヶ 月後 の六 月で あり

︑丹 下は この 間︑ 寝る 間も 惜し ん で 設計 案の 作成 に取 り組 んで いた とい う証 言が ある

%

︒そ の設 計の 特徴 や一 等が 無 く 二 等当 選 で あり な が ら丹 下 案 が 実 施に 至ら なか った 経緯 の詳 細に つい ては

︑藤 森の 論&

に 譲る が︑ 本稿 と の 関 連で 注 目 すべ き は︑ こ こで 丹 下 が︑ 応 募 要項 では 必須 要件 では なか った 鐘楼 を敢 えて プラ ンの なか に組 み込 んで いる 点で ある

︒藤 森が 指摘 する よう に︑ そ れ は五 年前 にオ スカ ー・ ニー マイ ヤー がブ ラジ ルに 建て た聖 フラ ンシ ス教 会︵ 一九 四三 年︶ の影 響と 見る 向き もあ る が

︑施 主が 必ず しも 希望 して いな かっ た実 践的 な機 能を 担わ ない 建造 物︵

鐘 楼︶ を敢 えて 敷地 内の プラ ンに 加え た 事 実は

︑機 能的 な斜 路の 建設 や︑ 公会 堂や 図書 館な ども っぱ ら実 質的 な役 割を 果た す施 設の 建設 を目 指し てい た一 九

― 117 ― 丹下健三「広島計画」と原爆ドーム

(10)

四 六年 末当 時に 較べ ると 大き な変 化と いえ る︒

﹁ 復興 に 必要 と さ れる 建 造 物 は何 か

?﹂ その 問 い に対 す る 丹下 の 答 え が 実質 的な もの から 象徴 的な もの へと 変わ って 行く 契機 とし て︑ 鐘楼 を含 めた 故に

︑一 九四 八年 六月

︑聖 堂設 計競 技 会 のた めに 作成 した プラ ンの 意義 は大 きい

︒し かし

︑だ から とい って

︑こ の時 点で も旧 産業 奨励 館が 丹下 の関 心に 入 っ てい た訳 では ない

︒ 聖堂 コン ペの 審査 が行 われ たほ ぼ二 ヶ月 後に あた る一 九四 八年 八月 二五 日︑ 東京 渋谷 の羽 沢ガ ーデ ンで

﹁広 島復 興 懇 談会

﹂が 開催 され た︒ 参会 者に は長 崎英 造産 業復 興公 団総 裁を はじ め建 設次 官︑ 衆議 院議 員︑ 財界 人な どの 他︑ 浜 井 信三 広島 市長 に加 え︑ 丹下

︑武 とい った 復興 計画 に携 わっ てき た建 築家

・都 市計 画家 も名 を連 ねて いた

︒し かし 懇 談 会の 内容 は︑ その 記録

!

によ ると 前年 九月 から 広島 市復 興顧 問に 就任 して い た オー ス ト ラリ ア 軍 少佐 で 建 築 家の S

・ A・ ジャ ヴィ ーの 意見 を傾 聴す るこ とに あっ たよ うで ある

︒そ して この 席で ジャ ヴィ ーは 旧産 業奨 励館 を念 頭に お い て次 のよ うな 発言 を行 って いる

︒ 観光

事業 の重 要性

︑特 に広 島の アト ムは 注目 せら れて いる

︒原 爆記 念物 保存 が必 要だ

︒本 件は 市の 収入 増加 に も なる

︒保 存が 一日 遅れ れば それ 丈保 存が 困難 とな る︒ 直

接的 に は 語っ て い ない が

︑旧 産 業 奨励 館 の 廃墟 を 観 光 の目 玉 と して 早 急 に保 存 せ よ とい う 主 旨 で あ る︒ 加 え て

﹁ア トム

﹂と いう 抽象 的な 言葉 によ って

︑原 爆を

﹁原 子力 と い う新 時 代 エネ ル ギ ー の行 使

﹂と 受 けと め る こと が で き る よ う な言 葉 の すり 替 え を 行っ て い る︒ 爆 心 地 を 市 民 の コ ミ ュ ニ テ ィ

・セ ン タ ー と し て 復 興 し よ う と し た 丹 下 案

﹁平 和記 念﹂ の具 体的 な内 容を 示さ ぬま ま広 域公 園 と した

﹃市 勢 要 覧案

﹄に 対 し て︑ こ こで 初 め てこ の 地 を観 光 資 源

丹下健三「広島計画」と原爆ドーム ― 118 ―

(11)

的 意義 から 捉え る主 張が され たの であ る︒ そし てそ の目 玉が 旧産 業奨 励館 であ った

︒外 国人 によ るこ の種 の提 案は ジ ャ ヴィ ー以 前に も 行 わ れて い た!

︒ し かし 一 堂 に会 し た 関 係者 を 前 にし た 直 接的 な 提 案 はこ の と きが 初 め て であ り

︑ こ れを 機に

︑公 園は 記念 公園 へ︑ そし て旧 産業 奨励 館は 保存 する 対象 へと 舵が きら れる よう にな って いく

"

︒ 第二

章 競技 設 計 当選 案 一九 四 九

︿遺 骸 と して の 原 爆ド ー ム

﹀ 第

一節

配 置図 の意 味す ると ころ

│﹁ 原爆 の遺 骸﹂ を出 発点 とし て 一九 四九 年四 月広 島市 は﹁ 広島 市平 和記 念公 園及 び記 念館 競技 設計

﹂の 募集 要項 を公 表す る︒ しか しな がら 前章 で も 取り 上げ た穎 原の 研究 によ ると

︑市 が公 にし た正 式な 募集 要項 は現 存せ ず︑ 同年 四月 一七 日付 け﹃ 中国 新聞

﹄な ど こ の競 技設 計を 告知 した 六件 の新 聞・ 雑誌 の掲 載記 事か らそ の内 容を 推し 量 る こ とが で き るの み で ある

#

そ の う ち 最 も詳 しい

﹃建 設月 報﹄ の記 載に よる と︑ 予定 地に 関し ては

﹁広 島市 の中 央部 中島 町及 び細 工町 の一 部を 加え た約 一 二 三︑ 七五

〇平 米﹂ と明 記さ れて いる 上に

﹁対 岸の 一部 には 元産 業奨 励館 の残 骸が ある が︑ これ は適 当修 理の 上存 置 す る 予 定﹂$ と まで 記 さ れて い る

︒﹃ 建 設月 報

﹄に 記 され た 募 集要 領 に は︑

﹁ 設計 方 針﹂ の 項 目 に﹁ 平 和 記 念 館﹂ に 関 す る定 義が 記さ れて おり

︑そ こに は﹁ 世界 平和 運動 の各 種国 際会 議を 招集 でき る集 会場

︑原 子爆 弾災 害の 一切 の資 料 を 蒐集 して 世界 平和 愛好 者の 参考 及び 研究 に供 する 陳列 室︑ 平和 の祈 りを 告げ る鐘 を釣 した 平和 塔等 を有 する 建造 物 で あ る こと

% と記 さ れ てい る

︒と こ ろ が︑ 第二 等 当 選の 山 下 壽郎 建 築 事 務所 案 を 見 る と︑ 記 念 館 はA

.

講 堂

︑B

.

各 国委 員控 室︑ 小委 員会 室︑ 図書 室及 び事 務室

︑C

.

大 食堂

︑D

.

記 念塔 から 構成 され てい て︑ 陳列 室が 含ま れて い な い︒ 第三 等当 選の 荒井 龍三 案に はA

.

集 合室

︑B

.

陳 列室 と鐘 塔&

の 記載 があ る こ と から 一 応 募集 要 領 にあ っ た 平

― 119 ― 丹下健三「広島計画」と原爆ドーム

(12)

和 記念 館の 三条 件を 満た して いる

︒こ うし たこ とか ら︑ 平和 記念 館の 施設 の中 身の 要件 に関 して は︑ どこ まで 詳し く 応 募者 に伝 わっ てい たか

︑あ るい は審 査基 準に おい てど こま で重 視さ れて いた かは 不明 であ る︒ しか しな がら

︑丹 下 は これ に対 し﹁ 世界 的な 平和 会議 ので きる 集会 場︑ 原爆 資料 陳列 室と

︑研 究室

︑図 書室

︑食 堂等 から なる 施設 と︑ 平 和 の祈 り を ささ げ る 鐘を 吊 る すた め の 塔 を︑ 公園 と 一 体と し て 計画 す る﹂! 案 で 臨 み︑ 応募 要 領 で唱 わ れ てい た 平 和 記 念館 に関 する 定義 の要 件を 全て 満た す形 で競 技に 挑ん だ訳 であ る︒

﹁ 平和 を創 りだ すた めの 工場 であ りた い﹂ とい う一 文 が 入っ て い るこ と に よ り︑ この 案 は︑ 審 査員 は も とよ り 若 い 世 代か ら支 持を 得︑ 今日 に至 るま で好 意的 に受 け止 めら れて いる

︒し かし

︑こ の一 等当 選案 趣旨 説明 を注 意深 く読 む

︑実 はそ れは

﹁悲 惨な 原爆 の犠 牲に よっ て︑ 第二 次大 戦の 終止 符は うた れ︑ 世界 に平 和え の希 望と 意思 が生 まれ て き た﹂"

と いう 言い 回し や︑

﹁広 島が 受け た原 子爆 弾は 世界 平和 の礎

# とい う文 言か ら顕 著に 読み とる こ と がで き る よ う に

︑戦 後 アメ リ カ によ っ て 刷 り込 ま れ た﹁ 一〇

〇 万 人 神 話﹂$ を 出 発 点 と し て い る こ と が 浮 き 彫 り に な っ て く る

︒ つ まり 原爆 投下 によ り戦 争は 終結 した

︒そ の結 果︑ 日本 本土 上陸 作戦 で失 われ たで あろ う百 万人 の命 が救 われ たと す る ト ル ーマ ン 大 統領 の 言 説 を前 提 に して い る ので あ る

︒そ し て︑ その こ と は論 文 の 冒頭 に 掲 げ た 当 選 案 配 置 図︵ 図 5

︶が

︑旧 産業 奨励 館を 下に

︑百 メー トル 道路 を上 に配 した 南北 逆転 の地 図に なっ てい るこ とに 反映 され てい る︒ 丹 下 の配 置図

︵図 5︶ が南 北逆 転し てい るの は︑ 二等 当選 の山 下案 が親 水空 間を 重視 して 川縁 にあ る公 園と いう 発想 か ら 南北 を横 に配 した 配置 図︵ 図6

︶で 掲載 して いる のと 同じ 論理 で︑ 設計 者の 趣旨 の発 想の 源を 反映 した 意図 的な も の と判 断で きる から であ る︒ した がっ て丹 下 は︑ この 一 等 当選 案 趣 旨説 明 で

︑﹁ 原 爆の 犠 牲﹂ あ るい は 同 じ文 の 後 の 箇 所 で 用い て い る言 葉 を 使 うな ら ば︑

﹁ 原爆 の 遺 骸﹂%

旧 産業 奨 励 館︶ を 出発 点 と して い る こと を 理 念 の上 で も

︑ 南 北を 逆転 させ た配 置図 によ る視 覚的 にも 明確 に表 明し てい るこ とに なる

&

丹下健三「広島計画」と原爆ドーム ― 120 ―

(13)

第 二節

陳 列館 と旧 産業 奨励 館及 び平 和ア ーチ の位 置と 形に つい て 前節 でも 見た よう に募 集要 領の

﹁設 計方 針﹂ で定 義さ れて いた 平和 記念 館に つい て︑ その 細か い内 容が どこ まで 応 募 者 の あい だ で 共 有 さ れ て い た か は 不 明 で あ る

︒そ う し た な か

︑丹 下 は ま ず

﹁陳 列 室﹂! を﹁ 陳 列 館﹂ に 格 上 げ し

︑ そ の上 でそ れを 敷地 内の 適当 位置 に配 する こと から 発想 を広 げて いっ たの で は な いだ ろ う か"

︒ 独立 し た 建物 に 格 上 げ され た陳 列館 は︑

﹁ 原子 爆弾 災害 の一 切の 資料

﹂を 展示 す る こと に よ って

︑旧 産 業 奨 励館 に 匹 敵す る も うひ と つ の

﹁原 爆の 遺骸

﹂に なり 得る から であ る︒ 補助 線 を入 れ た 配置 図

︵図 7︶ を見 る と

︑公 園 予定 地 を 北で 区 切 る画 面 下 の

5 平和記念公園競技設計一等当選案「配置図」

(『建築雑誌』1949年10、11月号より再録)

6 平和記念公園競技設計二等当選案(山下壽郎案)

「配置図」(『建築雑誌』1949年10、11月 号 よ り 再録)

― 121 ― 丹下健三「広島計画」と原爆ドーム

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幹 線道 路か ら旧 産業 奨励 館ま での 距 離 と︑ 予定 地を 南で 区切 る画 面上 の 百 メー トル 道路 から 陳列 館ま での 距 離 はほ ぼ均 等に 位置 して いる こと が わ かる

︒こ れに よっ て公 園予 定地 を 北 と南 で仕 切る 幹線 道路 から 等距 離 の 位置 に﹁ 原爆 の遺 骸﹂ とい う二 つ の 目玉 が配 され るこ とに なる

︒ 次に 配置 図の なか で南 北の 中心 を 探 すと

︑そ こに は第 一章 第一 節で 触 れ た﹁ 45°の 角度 でこ こを 横断 する

⁝ 広 島の 銀座 だっ た道

! があ るこ とに 気づ かさ れる

︒﹁ 交通 路と して 残し たい

﹂丹 下 は こ こに 公 園 のセ ン タ ーを 設 け る こ とは 避け る︒ 次の 発想 とし て予 測さ れる のは

︑な らば この 45°の 斜路 の北 の基 点で ある 元安 橋東 詰め を三 角州 内の 北 限 とし て想 定し てみ るこ とで ある

︒そ こで は じ めて

︑﹁ 戦 争 中の コ ン ペ でも 使 っ てい る

⁝⁝ つづ み 形 を使 う と

︑敷 地 の 中の ネッ トワ ーク がで きて

︑さ らに セン ター がで きる

"

とい う思 考の 連鎖 が生 まれ てい った と考 えら れる

︒ 実際 には

︑丹 下が 設定 した セン ター は陳 列館 寄り に位 置し

︑そ れに 較べ れば 旧産 業奨 励館 はは るか 遠く に建 って い る

︒し かし なが ら︑ その 位置 関係 は︑ 当選 案趣 旨説 明の 二番 目に 掲げ た図

透 視図

︵図 8︶ を︑ 南上 空か らの 眺め で 示 すこ とに よっ て︑ ほぼ 等距 離に ある よう な印 象を 見る 者に 与え るこ とに も成 功し てい る︒ 陳列 館の 両脇 には 国際 会

7 「図5」に補助線を引いた配置図(南の幹線

から旧産業奨励館までの距離Aと北の百m 道路から陳列館までの距離A’が等しい。ま た慰霊碑から陳列館までの距離Bと等しい

距離B’につづみ型の北端が設定されてい

る。)

丹下健三「広島計画」と原爆ドーム ― 122 ―

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議 がで きる 集会 場と 市民 のた めの コミ ュニ ティ

・ セ ン タ ー を や は り

﹁つ づ み 形﹂ に 配 し て い る

︒そ う す るこ と に よ っ て

︑﹁ 平 和 を 創 る た め の 工場

﹂の

﹁実 践的 な機 能﹂ を担 うい わば ター ビ ン が 備 え ら れ る こ と に な る と い う 想 定 で あ る

︒ 丹 下 が 設 定 し た ネ ッ ト ワ ー ク の セ ン タ ー に は

︑﹁ 平 和を もた らす ため の尊 い犠 牲で あっ た︒ そ の霊 をや すめ るた めの ささ やか な碑 を置 きた い と 思 う

! と い う 発 想 か ら 慰 霊 碑 が 置 か れ て い る︒ この 文言 から も丹 下は

﹁百 万人 神話

﹂を 前提 にし てい るこ とは 明ら かで ある

︒二 つの 物的

﹁原 爆の 遺骸

﹂に 挟 ま れて

︑本 当の

﹁遺 骸﹂ とな った 原爆 犠牲 者に 関し ては

︑そ の名 のみ がこ こに 置か れる こと にな るが

︑こ の碑 は﹁ さ さ やか

﹂で ある 故に

︑本 来の 碑が そう であ るよ うに 死者 の名 前を 直接 刻む もの では ない

︒そ れは 犠牲 者の 名を 記し た 名 簿を 収め た箱 を覆 う︑ いわ ば蓋 に相 当す るも ので ある

︒大 量死 は結 局︑ ひと り一 人に 対応 する もの では なく

︑例 え ば

﹁百 万人

﹂と いう 数字 や﹁ 霊﹂ とい う抽 象的 な言 葉に 置き 換え られ た︒ 丹下 がこ こで 想定 した 碑は

︑そ うし たこ と を 象徴 する シズ メの ため の﹁ 蓋﹂ であ ると いう こと がで きる

"

︒ その 周り には 小さ な円 形の 池を 設け

︑敷 居で 囲う

︒配 置図 に記 され た碑 は正 方形 であ り︑ その 結界 は正 円で ある た め

︑こ こ に は来 場 者 に礼 拝 の 方 向を 指 示 する も の は何 も な い︒ 碑 の周 り を 円く 囲 ん で死 者 を 憶 う仕 組 み に な っ て い

8 平和記念公園競技設計一等当選案「透 視 図」(『建 築 雑 誌』1949年10、11月 号より再録)

― 123 ― 丹下健三「広島計画」と原爆ドーム

(16)

︒敢 えて いう なら ば上 空に 架か る平 和ア ーチ に吊 るさ れた

﹁世 界人 類平 和の 祈り を告 げ る 鐘﹂ の音 を聞 き︑ 碑の 下に 眠る 霊を 慰め る︑ 天地 に想 いを 馳せ る来 場者 の姿 が想 定さ れ て いる

︒く どい よう だが

︑こ こで 丹下 は︑ 死者 に対 して も旧 産業 奨励 館に 対し ても

﹁祈 り を 捧げ る﹂ とは 語っ てい ない

︒﹁ 平 和の 祈り

﹂は 鐘に よっ て﹁ 告げ

﹂ら れる ので ある

︒ 当選 案趣 旨説 明に おけ る アー チ に 関す る 記 述は 誠 に 素 っ気 な い︒

﹁ わた く し は塔 と い う 類 型を 用い るか

︑ア ーチ とい う類 型を 用い るか

︑あ るい は何 も建 てな いか

︑こ の三 つの 類 型 のな かで

︑最 も自 然に 全体 の構 想の なか に生 れて きた アー チを

︑捨 てる 必要 性を 感じ な か った

︒﹂! と ある

︒設 計の 最終 段階 でそ れを 決め た こ と︑ ま たそ れ に あま り 執 着を 持 っ て い ない こと が文 面 か ら読 み と れる

︒趣 意 書 の 三番 目 に して 最 後 に示 し た 図 面︵ 図9

︶は

︑ 記 念 館 の立 面 図 をア ー チ と 一体 と し て示 す こ とに よ っ て

﹁全 体 の 構 想 の な か に 生 れ て き た

﹂と いう 言葉 が意 味す ると ころ を示 唆し てい る︒ つま り︑ この アー チは 陳列 館を 視覚 的 に 覆う 屋根 とし て﹁ 生ま れて きた

﹂の であ る︒ さら に文 中︑ 自ら がデ ザイ ンし たア ーチ を

﹁ハ イパ ボラ

﹂︵

双 曲線

︶と 呼ぶ こと によ って

︑エ ーロ

・サ ーリ ネン によ るト ーマ ス・ ジ ェ ファ ーソ ン記 念塔 との 違い を強 調し てい る︒ 後者 が半 円状 で文 字通 り虹 の形 を志 向し て い たの に対 し︑ 丹下 らが いう 双曲 線は

︑二 つの 定点 から の距 離の 差が 一定 であ る点 を連 ね て でき る曲 線を 意味 して いる

︒そ して

︑そ の形 が﹁ 生ま れて きた

﹂根 拠が 旧産 業奨 励館 と 陳 列館 とい う二 つの 定点 に根 ざし てい るこ とを 示唆 して いる

9 平和記念公園競技設計一等当選案「平和アーチ、平和記念館立面図」

(『建築雑誌』1949年10、11月号より再録)

丹下健三「広島計画」と原爆ドーム ― 124 ―

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第 三節

慰 霊堂 計画 とそ の挫 折 前二 節で 取り 上げ た当 選案 趣旨 説明 には 記述 もな く︑ そこ で 示 され た配 置図 や透 視図

︵図 5︑ 8︶ 上で もは っき り確 認を す る こ と は で き な い が︑ 同 案 に は 慰 霊 堂 の 建 設 も 予 定 さ れ て い た

︒同 案 を 忠 実 に 置 き 換 え た と さ れ る 石 膏 模 型!

の 記 録 写 真

︵図 10︶ に認 め ら れる ア ー チの 東 側 の 川 縁 に 建 つ﹁ ロ の 字﹂ 状 の 四角 い建 物が それ であ る︒ そこ に慰 霊堂 の建 設が 予定 され て い たこ とを 裏付 ける もの とし て一 九五

〇年 一一 月九 日の 市長 発 言 で﹁ 一つ の考 えで は公 園の アー チの 横に 慰霊 堂を 作る こと を 考 え て い ま す﹂"

と い う も の が あ る

︒ま た 同 じ こ ろ 丹 下 ら が 作 成 し て い た 次 章 で 取 り 上 げ る 平 和 公 園 プ ラ ン の 図 面 の な か に も

︑そ の位 置に

﹁ロ の字

﹂の 建物 を確 認す るこ とが でき る︒ 慰霊 堂の 建設 に関 して は︑ 丹下 は後 の回 想で 競技 設計 が行 われ る前 の思 いや 市関 係者 との やり 取り とし て︑ 次の よ う に語 って いる

︒ 私た

ちが 考え た広 島の コミ ュニ ティ

・セ ンタ ー は⁝

⁝広 島 市 民生 活 再 建の 中 核 的 な施 設 で ある ば か り でな く

︑ あ の広 島の 記憶 を統 一の ある 平和 運動 にま で展 開し てゆ くた めの 実践 的な 機能 をも った 施設 であ って

︑そ れに 加 え て記 念塔 のご とき もの の必 要を 認め なか った ので ある

︒し かし

︑こ のよ うな 判断 にも かわ らず

︑わ たく しの 心

10 平和記念公園石工模型(画面中央平和アー チの左端に見えるロの字の建物が慰霊堂)

― 125 ― 丹下健三「広島計画」と原爆ドーム

(18)

情 は︑ 迷わ ざる を得 なか った

︒慰 霊堂 を含 む記 念塔 を︑ 広島 の人 々が 求め てい るこ との なか に意 味が ある よう に 思 える ので あっ た︒ 無垢 の犠 牲者 を︑ 父や 母や

︑妻 や子 にも つ広 島の 人の 希い にた いし て︑ 何か 慰霊 し︑ 祈念 す る ため の施 設を

︑さ さや かな もの であ るに しろ

︑も ちた いと 感じ たの であ る︒ これ が私 たち の答 えで あっ た!

︒ この

文で 注目 すべ きは

﹁私 たち

﹂と いう 丹下 グ ルー プ の 思い と

︑﹁ わ たく し の 心 情﹂ と語 る と きの 丹 下 個人 の 思 い を 厳密 に言 分け てい る点 であ る︒ つま り丹 下グ ルー プと して は︑ 慰霊 堂は おろ か記 念塔 さえ も広 島再 建の ため には 不 必 要と 結論 づけ てい た︒ しか し丹 下個 人の

﹁心 情﹂ から

︑競 技設 計時 に広 島再 興の 場に 慰霊 堂を 加え るこ とを 決め て い たと いう こと にな る︒ 一 方︑ 同じ 回 想 の中 で

︑丹 下 は﹁ 平和 の 鐘 を 釣し た ア ーチ が そ び え︑ その 直 下 に慰 霊 堂 が埋 め ら れ てあ る﹂"

と も 語 って いる

︒そ れを 裏付 ける もの とし ては 一九 五一 年二 月二 一日 の市 長発 言で

﹁慰 霊堂 とし まし ては 地表 に出 てい る 部 分は 小さ い碑 で 良 いで す か ら地 下 室 を造 り 納 骨 の場 所 と 原爆 で 死 んだ 人 の 過 去帳 を 置 こう と 考 えて い ま す﹂# と い う もの があ る︒ この 発言 は︑ 先に 挙げ た一 九五

〇年 一一 月九 日の 市長 発言 と矛 盾す るが

︑そ の理 由は

︑こ の間 にイ サ ム

・ノ グ チ の慰 霊 碑 なら び に 慰 霊堂 案 が つく ら れ︑ そ れが 何 ら か の形 で 市 長の 耳 に 伝わ っ た と いう こ と で 辻 褄 が 合 う

︒こ れに つい ては 第四 章で 改め て詳 述す る︒ ここ で興 味深 いの は︑ 市長 が慰 霊碑 に関 する 二回 目の 発言 をし た会 議に 委員 とし て同 席し てい た岸 田日 出刀 が市 長 の 慰霊 堂地 下室 案を 支持 して 次の よう に語 って い る点 で あ る︒

﹁市 長 さ んの 碑 は 良 い考 え で す︒ する と 塔 の真 下 で 良 い でせ う︒ 実例 はエ トワ ール の凱 旋門 のと ころ にあ りま す︒ なか なか 良い もの です

︒碑 の下 に地 下室 を造 って はど う で せ う﹂$ と し た上 で

﹁ア ー チの 東 の 四 角な の は 何 で せ う

﹂と 質 問 を 続 け て い る︒ こ の や り と り か ら わ か る こ と は

丹下健三「広島計画」と原爆ドーム ― 126 ―

(19)

第 一に

︑後 にア メリ カ国 籍故 にノ グチ の慰 霊碑 案を 退け た岸 田が

︑そ の設 計者 の名 を知 らぬ 時点 では むし ろそ の推 進 派 であ った こと

︒第 二に は原 爆死 没者 の納 骨堂 をパ リ︑ エト ワー ル広 場の 凱旋 門下 の第 一次 世界 大戦 の無 名戦 士の 墓 に 擬え よう とし てい るこ と︒ そし て第 三に 平和 記念 公園 競技 設計 審査 員の 主導 的立 場に あり なが ら︑ 審査 が終 わっ て 二 年以 上が 経過 した この 時点 まで

︑丹 下が 個人 的な 心情 か ら設 計 に 加え た 慰 霊堂 の 存 在 を認 識 し てい な か っ たこ と

︒ 以 上の 三点 であ る︒ つま り︑ 平和 記念 公園 競技 設計 審査 の講 評を 書い た岸 田は 一九 五一 年二 月ま で﹁ 慰霊

﹂に は関 心 が なく

︑そ れが 凱旋 門下 の無 名戦 士の 墓に 擬せ られ る﹁ 忠霊

﹂と いう 文脈 で理 解し たと きに

︑に わか にそ の推 進派 に 転 じた とい う事 実で ある

︒結 局︑ 会議 記録 によ れば

︑岸 田の この 発言 がひ きが ねと なり

︑丹 下が 当初 出し てい たア ー チ 横の 慰霊 堂案 は取 り下 げら れて ゆく こと にな るの であ る!

︒ 第三

章 平和 公 園 計画

一 九五

│ 一九 五 一

︿コ ア と して の 原 爆ド ー ム

﹀ 第

一節

﹁平 和都 市建 設計 画の 中心 課題

﹂と して の平 和公 園計 画 平和 記念 公園 競技 設計 の審 査が 終了 して 間も ない 一九 四九 年一 一月 一日

︑広 島市 の市 長室 は﹁ 広島 平和 都市 建設 構 想 案﹂ の策 定に 入る

︒翌 年二 月四 日に これ を一 九四 九年 度版 とし てま とめ

︑さ らに それ を同 年四 月﹁ 広島 平和 都市 建 設 構想 試案

﹂と して ガリ 版刷 りで 公表 した

"

︒そ の第 二章 は﹁ 平和 都 市 建 設計 画 の 中心 課 題﹂ と 題さ れ

︑第 二 節﹁ 平 和 施設

﹂の 項で

︑﹁ 爆 心地 であ ると 同時 に︑ 市の 中心 を含 む 地 帯に 約 八 五ヘ ク タ ー ルの 平 和 公園 を 造 成す る

﹂こ と を 明 記す る︒ そし て同 項を

﹁国 際の 交歓 に供 し得 ると 共に 市民 のコ ミュ ニテ ィ・ セン ター とな り得 る諸 種の 文化 施設 や リ ク リ エー シ ョ ン施 設

︑更 に 児童 の た め の諸 施 設 を配 置 す る﹂# と いう 言 葉 で 結ん で い る︒ すな わ ち︑ 一 九四 九 年 四

― 127 ― 丹下健三「広島計画」と原爆ドーム

(20)

月 の競 技設 計募 集時 には

︑旧 中島 町と 細工 町を 敷地 に平 和記 念館 等を 建て

︑約 一二

・四 ヘク ター ルの 敷地 に﹁ 平和 記 念 公園

﹂と する とし てい た計 画は

︑わ ずか 一年 後に は︑ 公園 予定 地を 北に 大き く広 げ︑ 旧軍 用地 や広 島城 址を 含む 敷 地 に文 化・ リク リエ ーシ ョン

・児 童の ため の施 設を 設置

︑名 前も

﹁平 和公 園﹂ と改 める 計画 へと 変更 され るこ とに な っ た!

︒ そし てそ れが

︑広 島市 が﹁ 戦災 復興

﹂か ら﹁ 平和 都市 建設

﹂へ と計 画を 進 展 さ せる 上 で の中 心 課 題の ひ と つ に 取り 上げ られ た訳 であ る︒ 広島 市公 文書 館に は︑ 丹下 健三 らが 一九 四九 年一 一月 二七 日か ら一 九五 一年 六月 二九 日に かけ て広 島市 長を はじ め と する 市上 層部 に宛 てた 手紙

︵以 後︑ 日付 順に

﹁第

○信

﹂と 記述

︶二 三通 が保 管さ れて いる

︒こ の期 間は ちょ うど 丹 下 が競 技設 計で 一等 当選 した 後か ら平 和大 橋の デザ イン が決 定さ れる ころ まで の時 期に 相当 し︑ そこ から 本稿 に取 っ て 貴重 な証 言を いく つか 拾い 上げ るこ とが でき る︒ 本章 にと って 重要 なこ とは この 書簡 から 丹下 が広 島市 作成 の﹁ 広島 平和 都市 建設 計画 構想 試案

﹂に どの 程度 関与 し て いた か︑ また それ に伴 う平 和公 園計 画が どの よう に進 行し たか が推 し 量 られ る こ とで あ る︒ 第 五信

1950. 3. 30

﹇以 後︑ アラ ビア 数字 は書 簡に 記さ れて いる 年月 日 を 示す

﹈に は

﹁今 回︑ 平 和都 市 建 設 事業 と し て公 共 事 業費 の 支 出 が 決定 いた しま した こと は︑ 何分 とも 残念 な位 の小 額で 皆様 の必 至の 御努 力に むく いる には 定ら ない よう に思 われ ま す

﹂と い う 一文 が あ り︑ 年度 末 に 決 定し た 次 年度 予 算 に対 す る こ の反 応 は︑ 少 なく と も 丹下 が 一 九 四 九 年 度 中 か ら

﹁広 島平 和都 市建 設構 想案

﹂の 策定 に関 する 相談 を市 当局 か ら 受け て い たこ と を 物 語る

︒ま た 同 じ書 簡 に は広 島 市 の 社 会教 育課 長か ら児 童図 書館 の設 計に 関す る催 促 を受 け

︑﹁ い ささ か 不 意打 ち で あ わて ま し たが

︑目 下 そ の大 略 の 設 計 を進 めて おり ます

﹂と いう 文章 もあ り︑ 平和 公園 の﹁ 児童 のた めの 施設

﹂に 関し ては

︑文 化や リク リエ ーシ ョン 施 設 に先 立ち 設計 を進 める よう 広島 市側 から 要請 があ った こと が文 面か ら読 みと れる

︒続 く第 六信

1950. 4. 7

︶ では

丹下健三「広島計画」と原爆ドーム ― 128 ―

(21)

挨 拶の 後﹁ お申 し越 しの こと

︑早 速に とり かか る手 筈に いた して おり ます

﹂と いう 文に 始ま り以 下疑 問点 を列 挙し て い るが

︑広 島の 都市 計画 の施 設配 置に 関 して は

︑﹁ 施 設の 配 置 につ い て

︑県 の 案︑ 市の 略 案︑ あ るい は い ろい ろ の 人 の 案が ある と思 いま す︒ これ らに つい ては 今后 の大 筋を 決め なけ れば いけ ない ので すが

︑そ れを どの よう に決 定す る の でし ょう か︒ 今回 の計 画は 例え ば今 后専 門委 員会 が出 来て そこ で検 討す るた めの 原案 を作 製す るつ もり で考 えて お い てよ いも ので しょ うか

﹂と いう 疑問 文で 終わ って いる

︒こ の内 容は

︑丹 下が

﹁平 和都 市建 設計 画の 中心 課題

﹂と し て 北に 拡張 した 平和 公園 の計 画を 一九 五〇 年四 月の 時点 から 具体 的に 練り 始め たこ と︑ そし てそ れは

﹁た たき 台﹂ と す るた めの 丹下 事務 所に よる 試案 であ った こと を伝 えて いる

︒ 第九 信︵

1950. 4. 20

︶ では

﹁全 体計 画│ 中央 公園

│児 童セ ンタ ーの 計画 は目 下進 行中 です

︒五 月五 日ま でに 印刷 に 廻 せる よう にす る予 定で 進行 中で す﹂ とい う文 があ る︒ これ によ ると 競技 設計 から 北に 展開 した 中央 公園 を含 む平 和 公 園は 児童 セン ター の計 画を 中心 に︑ わず か一 ヶ月 の作 製期 間で 完了 した こと が分 か る︒ 続く 第 十 信︵ 代筆

1950. 5.

4

︶ では

﹁パ ンフ レッ トは 十日 まで に印 刷に 出す 予定

﹂と いう こと や﹁ 児童 図書 館設 計図

︑意 見書 は中 旬に 送り ます

﹂ と いう 記述 があ り︑ 第十 三信

1950. 5. 27

︶で もパ ンフ レッ トの 納期 に関 する 記述

︑な らび に児 童セ ンタ ーの 基本 計 画 につ いて

︑広 島市 の督 促に 促さ れる かの よう に青 図を 送る 旨の 内容 が書 かれ てい る︒ そし て第 十四 信︵

1950. 7. 8

︶ に は︑ 再刊 され る﹃ 国際 建築

﹄と いう 雑誌 に﹁ 広 島計 画

﹂に 関 する 掲 載 依頼 が あ っ た旨 を 告 げ︑

﹁こ れ は 日本 語 と 英 文 と両 方を のせ ます

︒そ れは 主と して 日本 の代 表的 なも のを 外国 に紹 介す ると いう 意味 から です

﹂と した 上で

﹁も し 御 必要 なら ば︵ 抜刷 り

引用 者註

︶単 価 など 調 べ て差 上 げ ます

﹂と 結 ん で いる

︒こ の

﹃国 際 建築

﹄︵ 一 九 五〇 年 一

〇 月 号︶ は少 部数 なが ら海 外に 送ら れ︑ そこ から 次の 展開 が広 がっ てゆ く︒ 藤森 によ れば

︑﹁ ル

・コ ルビ ュジ ェの もと

︑ 第 8回 CI AM の事 務局 長を 務め てい たホ セ・ ルイ

・セ ルト が︑

︵﹃ 国 際建 築﹄ で﹁ 広島 計画

﹂の こと を知 り

引用 者

― 129 ― 丹下健三「広島計画」と原爆ドーム

(22)

︶ル

・コ ルビ ュ ジ ェ 事務 所 時 代の 仲 間 の前 川 國 夫 に参 加 要 請の 手 紙 をよ こ し

!

︑ 前 川に そ の 旨を 告 げ られ た 丹 下 が これ にの る︒ 翌年 ロン ドン 郊外 のホ デス ドン で開 催さ れた この 会議 の議 題は

﹁都 市の コア

﹂で あっ た︒ 第

二節

﹁広 島の コア

﹂の 主張 第8 回C IA M で 丹下 が 発 表し た 原 稿と 計 画 図︵ 11図

︶は

The C ore of H iroshima

﹂ と い う タ イ ト ル で﹃ 新 建 築

﹄一 九五 四年 一月 号に 再録 され てい る"

︒ それ によ ると

︑ま ず 原 稿は

﹁わ れ わ れの 問 題︵

都 市 の コア

︶の 意 味 を 明 確 に する た め に︑ 手短 に 歴 史 的な 概 観 をし て み たい

﹂と い う 書 き出 し に 始ま り

﹁西 欧 は︑ かつ て ギ リ シ ア の ア ゴ ラ

︑ロ ーマ のフ ォー ラム

︑そ して 中 世 都 市 の プ ラ ッ ツ ァ と い っ た︑ ま さに 物的 類型 とし て︿ コア

﹀を 持 っ て い た﹂ と 書 き 起 こ し て い る

︒こ の三 者の なか では

︑自 由都 市 の自 由民 の手 によ るプ ラッ ツァ が

︿コ ア﹀ と呼 ばれ るの に最 もふ さ わし いと した 上で 日本 に目 を転 じ

︑封 建君 主時 代の 城は 都市 の権 力 の︿ コア

﹀で あっ たか もし れな い が

︑そ れ は 民 の も の で は な く︑

11 「平和都市建設の中心課題としての平和公園 配置図」1951年

丹下健三「広島計画」と原爆ドーム ― 130 ―

(23)

江 戸時 代に なっ ては じめ て市 や祭 事が 神社 で町 衆に よっ て開 かれ るよ うに なっ たが

︑そ れは 一時 的で 形式 上の 西欧 中 世 のプ ラッ ツァ にす ぎな かっ たと 述べ てい る︒ 次に

︑近 代に なり 資本 主義 の発 達と とも に生 まれ たビ ジネ ス・ セン タ ー は市 民生 活と はほ ど遠 く︑ 公園 も︿ コア

﹀と 呼ぶ にふ さわ しい 綜合 的な 性格 を欠 いて きた とす る︒ そし て︑ 日本 で

は 共同 体や 閉じ た社 会が 人々 の生 活に 影響 を 及ぼ し 続 けて き た ため

︑︿ コ ア

﹀に つ いて 考 え ると き

︑ま た そこ へ 回 帰 し て し まう 嫌 い があ る が︑ そ う では な く﹁ 流 動的 で 開 かれ コ ミ ュ ニテ ィ に おい て

︑人 間 社会 の 心 を 探 求 す べ き で あ る

﹂こ とが 主張 され る︒ われ われ が暮 らし

︑こ れか ら築 き上 げて いく 開か れた コミ ュニ ティ のな かに

︑こ の失 われ た 心 を探 し当 てる ため には

︑ど うし たら よい か︒ こ の課 題 に 対し

︑丹 下 は 商業 主 義 的 な娯 楽 施 設を 退 け︑

﹁ リク リ エ ー シ ョン 施設

︑文 化セ ンタ ーそ して それ らを 綜合 的に 配置 する 計画

﹂の 三つ が重 要で ある こと を主 張し てい る︒ そし て 問 題は この 後に 続く 件に 次の よう な記 述が ある こと であ る︒ 私た

ちが 委嘱 を受 けて いる ヒロ シマ

・ピ ース

・セ ンタ ー・ プロ ジェ クト は︑ 私た ちが 心に 抱く コア の理 想の タ イ プに はな りえ ない

︒し かし

︑さ まざ まな 行政 管轄 権の もと にあ る都 市計 画の さま ざま な要 素が

︑綜 合的 統一 へ と 組織 され

︑実 現に 向か って いる

︑日 本に おい ては 大変 稀な ケー スと なっ てい る!

︒ ピー

ス・ セン ター

・プ ロジ ェク トす なわ ち平 和記 念 公園 の 計 画だ け で は︑ それ は 都 市 のコ ア に なり え な い こと が

︑ ま ず主 張さ れて いる

︒そ れと とも に︑ 屋外 競技 場等 を含 むリ クリ エー ショ ン施 設と 文化 セン ター が一 体的 な計 画の も と に配 置さ れる こと によ って

︑現 代の 都市 のコ アを つく り出 すこ とが 出来 ると する

︒そ れが 丹下 の本 会議 にお ける 主 張 であ った

― 131 ― 丹下健三「広島計画」と原爆ドーム

(24)

この 観点 から

︑平 和公 園 の配 置図

︵図 12︶ に目 を 向け ると

︑旧 産業 奨励 館 を基 点に して

︑慰 霊碑 ま でと 全く 等距 離の 位置 に つづ み形 の児 童ホ ール の 建 設 が 予 定 さ れ て い る

︒陳 列館 まで と等 距離 に はプ レイ

・グ ラウ ンド と プー ルが ある

︒つ まり 精 神的 なも の︵ 過去 の死 者 の慰 霊と 未来 を担 う子 供の ため の施 設︶ と身 体的 なも の︵ 原爆 の遺 骸を 保存 陳列 する 施設 と成 長す る身 体を 育む 施 設

︶が 旧産 業奨 励館 を中 心に 南北 に対 称的 に配 置さ れて いる ので ある

︒そ して

︑平 和記 念公 園の ポイ ント は︑ 丹下 グ ル ープ の主 張に 従え ば︑ 国際 会議 がで きる 集会 場と 市民 が集 うコ ミュ ニテ ィ・ セン ター にあ った よう に︑ 平和 公園 の 主 力施 設も 児童 セン ター の北 に広 がる 国際 リク リエ ーシ ョン 施設 に配 置さ れた 屋外 競技 場︑ 美術 館︑ 科学 博物 館︑ 図 書 館が 担う よう に設 計さ れて いる

︒旧 産業 奨励 館は こ れら 全 て の施 設 の 中心 に あ り︑ そ こか ら 同 心円 状 に 南 は過 去

︑ 北 は未 来を 志向 する 施設 配備 がさ れて いる の であ る

︒そ し て平 和 公 園計 画 図 に おい て

︑旧 産 業奨 励 館 は﹁ 原 爆遺 跡

Remains of A tom-bombed S tructure

︶と 表 記さ れる

︒す なわ ち︑ この 時点 から

︑旧 産業 奨励 館は

﹁ 原爆 の遺 骸﹂

Ruins

12 「図11」に補助線を入れたもの(旧産業奨励

館から平和アーチまでの距離Aと児童セン ターまでの距離A’が等しい。また旧産業奨 励館から陳列館までの距離Bとプレイグラ ウンドまでの距離B’が等しい)

丹下健三「広島計画」と原爆ドーム ― 132 ―

図 3 大東亜道路
図 14 イサム・ノグチ «Hiroshima Memorial to The Dead» 1952 年

参照

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