神の狂気を求めて︵三︶
ーヒェロニムス・ボッスの旅一
掛 下 栄 一 郎
承
前
さて︑ふたたび第四十三室正面の五点のボッスにかえろう︒ ﹃愚者の治療﹄の左隣︑右から二点目に︑ボッス晩
年の傑作﹃三王礼拝﹄のヨ嵐祭壇莇がある︒ブリュッセルのアンデルレヒト教会および︑ブルージュのグローニン
ゲソ美術館所蔵の三連画︑フィラデルフィア美術館ならびに︑ニュー・ヨークのメトロポリタン美術館所蔵の︑そ
れぞれ﹃三王礼拝﹄の図︑とりわけ︑ほぼ彼の真筆に間違いないとされている︑フィラデルフィアのそれに比べて
みて︑この作品が︑構図の安定性︑登場各人物の内面の心理のみごとな表出︑ボッス特有の美しいブラバントの風
景を思わず背景の描写︑風景と人物との対比の妙︑中景︑遠景にさり気なく描かれたいくつかのエピソードの︑い
かにもボッスらしい意外性をひめた深い含意︑渋さの中に落ち着きをたたえたその美しい色調︑ポール.ラフォン
はこれを彼の初期の傑作と見倣しているが︑やはりこの作品は︑いかなる点から見ても︑ボッス晩年の名作である
ことはほぼ間違いのないところであろう︒フィラデルフィアの﹃三王礼拝﹄に比べてみても︑マリアの表情に見ら
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.
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ボッス『三王礼拝』プラド美術館
人物のさり気ないまなざしの中に︑私たちの心奥の琴線に共鳴してくる︑
とか︒すでに何度も述べたように︑欝勃たる神の狂気の炎と︑
比類のない緊迫感の中に︑ボッス芸術の真髄が見られるとするならば︑ れる犯しがたい気品︑あるいは左パネルの︑着衣を乾かすヨセブの︑複雑な想いをこめた鋭いまなざし︑そして何よりも︑他の多くの彼の作品を特徴づけている.屋根上や壁の穴からこの情景を見つめる周囲の野次馬的人物の厳しく真剣な目付きは︑見る者の心に生涯忘れ難い強烈な印象を刻印するのである︒ ボッスの絵には︑一目見たら終生忘れることのできない︑不思議なまなざしを持つ人物が数多く登場するが︑それらは︑かならずしもその絵の中心人物的であるとは限らない︒むしろ︑その絵の主題とはほとんど何の関係もないと思われる︑周囲の不特定な人物にそれが多い︒たとえぽ︑ ﹃逸楽の園﹄右パネル中央の︑
﹁樹木人間﹂のまなざしに感じる圧倒的な内的浸透力
は例外としても︑中央パネルの︑逸楽にふける多くの
不思議な力を持つものがいかに多いこ
鋭利な覚めた知性の徹透性との交錯の生み出す︑
こうした世の常の理解を絶した︑不可思
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議な︑しかし︑見る者に忘れ難い強烈な印象を残す﹁まなざし﹂こそ︑その最も傑出した証しというべきであろ
う︒ 既述のような︑狂気と正気との均衡の見地からのボッス作品の系譜から見れば︑この作品は︑ ﹃愚者の治療﹄や
﹃愚者の舟﹄から﹃逸楽の園﹄︑あるいは︑リスボンの﹃聖アントニウスの誘惑﹄に至る︑いわゆる狂気の顕在性
の高い作品のそれにではなく︑フィラデルフィアの﹃三王礼拝﹄や︑ロッテルダムのボイマンス美術館の﹃カナの
結婚﹄︑あるいは︑すでに述べたマドリッド︑ラザロ・ガルディアノ美術館の﹃聖ヨハネ﹄から︑ ロッテルダムの
﹃放蕩息子の帰宅﹄に至る︑どちらかと言えば︑狂気の要素は絵の内面に沈潜し︑正気の理知が比較的表面に顕在
して︑私たちにも︑正気の理解の可能性を期待させる作品の系譜に属しているように思われる︒
トルナイもリンフェルトも指摘するように︑この作品は︑あくまでも︑宗教的典礼の為のものである︒三連画の
神の狂気を求めて(三)
r三王礼拝』外翼画
左右両パネルには︑寄進者の夫妻の像が︑
それぞれ守護聖人として︑聖ペテロと聖ア
グネスに伴われて描かれており︑中央パネ
ルの聖母子と三博士の礼拝も︑伝統的な様
式にしたがったものである︒またグリザイ
ユ︵灰色単色画︶で表現された外翼の絵
も︑受難の物語りの描かれた祭壇に立つイ
エスを些剛にした︑聖グレゴリウスのミサの
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図で︑いずれも︑きわめて正統的な典礼を予測させるものである︒
しかしわれわれは︑この絵の細部をさらに仔細に検討するとき︑そこに︑ボッス特有の深く鋭い寓意が︑彼の天
才の創造になる︑独自の﹁記号﹂を介して語られていることに気づくのである︒ ﹁ボッスが︑全世界を害する異質
的︑敵対的諸力と呼ぶものが︑独自の記号を介して表現されている﹂と︑リンフェルトも語っているが︑ボッス芸
術の精髄は︑ここでは︑ともすれば見落しがちな細部に︑さり気なく︑しかし︑きわめて深い配慮をこめて描きこ
まれているのである︒
この絵では︑奇異なもの︑破壊的なものはほとんど表面にはあらわれていない︒中央パネルの聖母子と三人の博
士が︑屋台骨としてこの絵をどっしりと支えており︑限りない安定感を生み出している︒しかし︑その安定感をよ
りいっそう強めているのは︑実は︑この作品の細部に︑さり気なく描かれているいくつかのエピソードであること
は︑まことに興味深い︒すなわち︑すでに指摘した左パネルの︑焚火で布を乾かすヨセブの︑複雑な鋭いまなざ
し︑崩れた塀のアーチ形の門の上部のひきがえる︑両門柱下部の怪物︑あるいは︑風雪︵セックスの象徴︶に合わ
せて踊る一組の男女などの含意するものが︑絶妙な内的対比のもとに︑この絵の中心主題を支えているのである︒
中央パネルでは︑さきに述べた︑野次馬たちの悪意にみちたまなざし︑とりわけ︑小屋の入口で︑半裸に赤い着
衣を羽織った人物の︑卑俗さと冷酷さにみちた貧欲な視線の印象は強烈である︒この人物こそ︑やがて三博士の去
ったあと︑二才に満たないベツレームの幼児を︑ことごとく虐殺せしめた︑ヘロデを象徴するものであるとする見
解が多い︒また︑メルヒオールが献呈する金の置物には︑ ﹁イサクの犠牲﹂が刻まれており︑来るべきイエスの受
難が暗示されているが︑その置物の下には︑異端の象徴であるひきがえるが押えこまれている︒さらに︑後に立つ
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神の狂気を求めて(三)
黒人の博士カスパーと︑その侍女の着衣の裾には︑人頭の鳥や共食いする魚が描かれており︑一見︑のどかそうな
背景の田園風景の中にも︑売春宿を象徴する白鳥の印のある小屋の前の男女︑あるいは︑右パネルの︑狼に襲われ
ている男女や︑不気味な白骨の散乱する処刑場の情景などが︑入念に配されているのである︒これらはいずれも︑
人間の根源的な悪︑すなわち︑ ﹁全世界を害する異質的︑あるいは敵対的な重力﹂としての不安︑邪悪︑迷妄︑悲
惨のみごとな表現で︑ボッスの作品に︑特有の緊迫感を付与しているのである︒
絵の内部に慎重にちりばめられた︑こうした虚妄の力が︑この作品の屋台骨である画面中央の五人の人物にしっ
かりとからみ合い︑この作品の宗教的本性に︑磐石の重みをあたえるとともに︑神の狂気の芸術作品としての︑比
類のない緊張を醸成しているのである︒そう言えば︑リンフェルトも指摘するように︑外翼グリザイユのイエスの
背後に描かれている︑捕縛に始まる受難の物語りの頂点としての︑ゴルゴダの十字架の情景が︑祭壇の構成からは
み出さんぽかりに強烈に印象づけられているのも︑いかにもボッスらしい配慮である︒
もはやこれは︑単なる典礼的作品の次元をはるかに超えたものである︒狂気の要素が︑作品の表面からではな
く︑沈潜した内部から︑強烈な滲透力をもって滲出し︑それが表面の徹透した知性とみごとに均衡して︑作品全体
に限りない安定性と緊張を生み出しているこの作品こそ︑まがうかたなく︑心技充実したボッス熟年の名品の一つ
と言うべきであろう︒
﹃三王礼拝﹄の左隣り︑上絵﹃七つの大罪﹄のすぐ前に︑ボッス晩年の作品﹃聖アントニウスの誘惑﹄がある︒
一切の持てるものを中郷してひとり荒野に隠棲し︑あらゆる世俗の誘惑を斥け︑禁欲的生活の中に信仰の真理を求
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ボッス『聖アントニウスの誘惑』プラド 美術館
エネチアのデュカーレ宮の三連祭壇画﹃三入の隠者﹄の中の一枚がそれである︒
品と考えられているが︑特にプラドのこの作品は︑前述の﹃三王礼拝﹄と筆がよく似ているところがら︑
時期のものとする見解が多く︑これをボッスの最後の作品とする美術史家︵ジャック・コンブ︶もいるほどであ
る︒ もちろん︑世俗の誘惑や悪魔との︑聖アントニゥスの壮絶な精神的闘争という本来のテーマは︑リスボンの壮大
な三連画に︑美しい色調と圧倒的な迫力をもって︑最も的確詠唱に描かれている︒それに対して︑プラドのこのア
ントニウスには︑もはや︑リスボンのそれに見られるあの激しい緊張感は存在しない︒ めた︑このエジプト生まれの隠修士の所行は︑ボッスのしぼしぼ好んでとりあげたテーマである︒しかし︑ 一口に﹃聖アントニウスの誘惑﹄と言っても︑描かれる情景はさまざまである︒今日︑彼の工房の作︑あるいは模写とされるものまで含めれば︑かなりの数の同一主題の作品が知られているが︑彼の真筆に間違いないとされているものは三点しかない︒すなわち︑リス トリプテイツ クボンの国立美術館所蔵の壮大な三連祭壇画と︑このプラドの瞑想的作品︑それにいま一点︑ヴ いずれも︑ボッス円熟期以降の作 ほぼ同じ
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神の狂気を求めて(三)
このアントニウスは︑すでに荒野での厳しい修業によって︑一切の世俗への執着から解放され︑ひとり静かに︑
池のほとりのあぼら屋に悠々自適の隠棲の生活を送っているかのようである︒しかしなお︑えたいの知れない奇妙
な小悪魔たちが︑周囲からアントニウスに働きかけようとするが︑もはや彼はそれらに一瞥だにあたえない︒隣り
にひかえているお供の豚の表情も︑小悪魔たちにとり囲まれているにもかかわらず︑至極平安である︒ラザロ・ガ
ルディアノ美術館の﹃聖ヨハネ﹄に通ずる一種の柔和さが︑この作品にもただよっているが︑ ﹃聖ヨハネ﹄ではそ
れが︑淫楽と腐敗の象徴と考えられる︑卵の殻のような傍の不気味な植物の包蔵する強烈な破壊力との間に︑重厚
な緊迫感を醸成しているが︑この作品では︑描かれた小悪魔たちに︑もはや前者の激しい破壊力は存在しない︒
さりとてここに︑神の狂気と正気の理知との均衡が生み出す緊張がないわけではない︒この絵にただよっている
のどかな静心さの中にも︑一種厳しく鋭い緊張が︑作品の表面にではなく︑もっと深く沈んだところに形成されて
いるようである︒夢見るように柔和な聖者の表情の中で︑ただそのまなざしだけは鋭く深い︒現世の誘惑や悪魔を
見すえるそれとは︑全く次元を異にするこの不思議なまなざしは︑ボッスの天才の創造の↓つで︑常に︑はるかな
永遠の無形の世界を見つめ続けており︑見る者の心底に︑生涯忘れることのない強烈な印象を刻印するのである︒
荒野の苦行によって︑ ﹁至高の叡智を獲得した聖者は︑今や無感動の岩と化してしまったが︑なお生きている唯一
の部分たる彼の眼だけは︑超入間的な強さで︑一切の理解を絶した事物を見つめているのである﹂とトルナイも語
っている︒
45第四十三室には︑プラド美術館の所蔵する︑いま一つのボッスの三連画の大作﹃乾草車﹄と︑あと二点の模作が
ボッスr石弓の射手』プラド美術館
スト﹄が所蔵されているが︑そこに描かれた人物の表情の深さと厳しさに対比させてみると︑
ものと見倣さざるをえないようである︒
いま一点の模作は︑ ﹃聖アントニウスの誘惑﹄の標題を持つもので︑部分的にはボッス芸術にしばしぼ登場する
いわゆる﹁全世界を害する異質的︑敵対骨力﹂の表現としての︑彼独自の﹁記号﹂が刻印されてはいるが︑それら
諸記号の緊密な有機的結合において︑彼の名作に見られるような完成度が︑いまひとつ不足しているという不満を
ぬぐいされないものである︒この作品は︑プラド美術館でも模作として扱っている︒ 展示されている︒模作の一つは︑﹃石弓の射手﹄と題されているもので︑これは︑ベルン︑アントワープ︑フィラデルフィアの美術館所蔵の︑それぞれ﹃荊冠のキリスト﹄と題された︑比較的良質の模作とされている作品の中の一人物を描いたものである︒プラド美術館の目録では︑この作品は直筆とされている︵一九七二年現在のカタログ番号二六九五︶が︑多くの美術史家は︑これを模作としている︒そう言えば︑エスコリアル宮に︑ボッス晩年の佳品﹃荊冠のキリ やはり一瓢を輸する
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神の狂気を求めて(三)
さて︑プラド美術館にあるあと一点のボッスの大作は︑ ﹃乾草車﹄である︒典礼的なものを除いて︑ボッスに
は︑三連画の大作が四点存在する︒すなわち︑リスボンの﹃聖アントニウスの誘惑﹄︑ウィーンの美術学校ギャラ
リーの﹃最早の審判﹄︑ならびに︑プラド美術館の﹃逸楽の園﹄と︑この﹃乾草車﹄である︒本来は︑典礼として
の祭壇画の形式である三連画の形で︑ボッスが︑最も心血を注いだと思われる力作を残していることは︑まことに
興味深い︒事実︑この四点はすでに述べたように︑ボッス独自の深い含意をひめた︑ ﹁記号﹂としての神の狂気の
要素が比較的作品の表面に顕在し︑それが︑内面の深奥から鋭く私たちを見つめる徹透した理知のまなざしとの間
に︑比類のない緊迫した均衡を生み出している︑いかにもボッスらしい作品の系譜に属しているのである︒
﹃乾草車﹄は︑四つの三連画の中では最も若い時代︑おそらく︑一五〇〇年以前に書かれたものとする美術史家
が多い︒﹁ボッスの世界観は︑深い敬慶から霊感を得ている︒この作品は私たちに︑いわば︑パノラマ風の構成に
よる世界のイメージを展開してくれるが︑三連画という形式は︑とりわけその目的に適合している﹂とトルナイも
語っているが︑これは注目すべき指摘で︑画家は︑人生の動的な経過を︑いわぽ一種のカレイドスコープ的役割を
果たす表現手段としての三連画という形に︑前人未踏の新しい効果を期待して託したのではなかろうか︒おそら
く︑他の三つの三連画の大作に関しても︑事情は全く同様であろう︒
外翼を閉ざした正面には︑みすぼらしい姿の一人の放浪者が︑一目見たら終生忘れることのできない︑あのボッ
ス特有の深い含意をこめた不安そうなまなざしで︑足早に通り過ぎる情景が描かれているが︑トルナイが︑ ﹁悪意
にみちた世界を通り過ぎる放浪者﹂と表現しているように︑これは︑ボッスらしい深い﹁人生の縮図﹂への洞察で
ある︒なお︑この放浪者は︑晩年の傑作︑ロッテルダムのボイマンス美術館所蔵の︑ ﹃放蕩息子の帰宅﹄の主人公
r乾草車』外翼画
部の三枚の絵である︒左パネル㈹は︑言うまでもなく﹁創造﹂から﹁楽園追放﹂までのエピソードである︒
し︑一見きわめて正統的︑典礼的なこの絵の中にも︑ボッス独自の天才的﹁記号﹂が縦横に駆使されており︑
に︑天上の神の足下から︑大群をなして地上に降下する﹁全世界を害する異質的︑敵対的力﹂の象徴としての奇妙
な昆虫動物︑あるいは︑手前の岩山の上の例の卵殻植物の不気味な幻想的迫力が︑この絵に︑他のパネルに拮抗す
る激しい緊張感を付与しているのである︒
主人公の人生への問いに対する主たる答えを︑われわれは中央パネル⑧に見ることができる︒画家は︑ ﹁世界は
乾草の山のようなもので︑誰もが我先にとそれを奪い合う﹂という︑フランドルの古い諺から霊感を得たと︑トル に酷似しているが︑ボッス自身の象徴的自画像と解する美術史家も多い︒追いはぎに身ぐるみはがれる旅人︵危難︶︑懇懇に合わせ踊る男女︵愉楽︶︑彼方の絞首台など︑仔細に見れば︑ このさり気ない一幅の絵の中にも︑人生の種々相を象徴するエピソードが巧妙に描きこまれており︑人生
への深い問いかけの中で苦悩する主入公の︑不安
気な︑しかし真剣なまなざしが︑この絵全体に磐
石の重みを与えているのである︒
主人公の問いかけに対する解答が︑すなわち内
しか
特
48
四
神の狂気を求めて(三)砥)
ボッス『乾草車』プラド美術館
ナイも指摘しているが︑元来︑乾草には種々
の含意があり︑要するに︑虚しい﹁世俗の財
宝﹂︑﹁人生のはかなさ﹂の象徴と解されよ
う︒その虚栄を得んがための命がけのいさか
い︑それを得たと思う束の間の満足や愉楽︑
あるいは︑風笛を吹く男に言い寄るふしだら
な尼僧︑飽食のため肥満して︑なお酒杯を手
にする懇懇な破戒僧︑剣を手にした皇帝を従
えて︑白馬にまたがり︑世俗の富と政治的︑
宗教的権力を盲目的に追い求める法皇の姿な
どに︑人間の愚かな欲望へのいましめと︑当
時のローマ・カトリック教会に対する痛烈な
非難の寓意を読み取ろうとする美術史家も多
い︒この絵の中にわれわれは︑すでに見た
﹃愚者の治療﹄や︑ ﹃愚者の舟﹄にこめられ
たボッスの含意︑ ﹁人間のあらゆる迷妄への
敏感さと︑節度を失した過度への厳しい批
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﹃聖アントニウス﹄と同じ系譜の︑神の狂気が絵の表面に顕在し︑ ⑥
目躍如たる作品と言えるであろう︒仔細に検討すれぽ︑ここにもわれわれは︑
な記号を発見することができる︒ ﹁紅蓮の炎に燃え落ちる塔﹂という︑
では︑その情景の手前で︑悪魔たちの手によってせっせと﹁地獄の建設﹂がおこなわれているが︑
珍らしく興味深い発想で︑通常の理解を絶した彼の天才的直観の産物と言うべきであろう︒
なおこの三連画には︑いずれも直筆と見られてきたものが二種類存在する︒すなわち︑プラド美術館にあるこの
作品のほかに︑いま一つエスコリアル宮殿にも所蔵されている︒描かれている内容の細部にもほとんど差異が認め
られず︑ともにボッス自身の署名もあり︑わずかに︑中央パネル右前方のテーブルの上に︑水差しがあるかないか
のちがいくらいしか気がつかない︒エスコリアル宮の方をボッスの原作と見る美術史家︵バルダス︶もいるが︑そ
ちらの方は補修のあとがかなり沢山あり︑また色調も多少暗くくすんだおもむきがあり︑今日では︑いっそう明る
く生気にあふれているプラド美術館所蔵のものが原作であり︑他方は︑彼の工房による︵多分ボッス自身も加わっ 判﹂︵リンフェルト︶の︑ いっそう豊かな表 現を見ることができるのである︒ 天上から主イエス・キリストが見下ろすこ のパネルを﹁審判﹂とするならぽ︑右パネル ◎は﹁地獄﹂と解されよう︒これこそまさし く︑ ﹃逸楽の園﹄の右パネルや︑リスボンの炎となって燃えたぎる︑狂気の画家ボッスの面 ボッスの天才の創造になるさまざま ボッスお馴染みのテーマに加えて︑この絵 これはきわめて
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て︶入念な模作であるとする見解が有力である︒
神の狂気を求めて(三)
ここ数年︑寝ても覚めてもいつも脳裡をよぎっていたプラドのボッスとのランデ・ブウの夢が︑いまようやくか
なえられたかと思うと︑張りつめていた緊張が急にゆるんで︑疲れがどっと出てきた感じである︒考えてみれば無
理もない︒日本からの時差ボケがまだ完全に治りきらないのに︑今朝は暗いうちに起きてパリをたち︑猛暑のマド
リッドに到着するやすぐさま︑ラザロ・ガルディアノ美術館の﹃聖ヨハネ﹄に会い︑食事もそこそこにプラド美術
館に駆けつけて︑待望のボッスに再会し︑いつの間にやら緊張と感動の三時間を過してしまったのであるから︒
本来ならぽ︑プラド美術館に入ったからには︑何はともあれここの宝物︑とりわけ︑グレコにはじまり︑リベ
ラ︑ムリリヨ︑スルパランからゴヤに至るスペインものの豊富なコレクションをというところであろうが︑今の私
の気持は︑ボッスとの再会によって醸成したこの新鮮な感動を︑いかなる名作であれ︑別の画家の作品を見ること
によって︑いささかなりとも損いたくはないというのが本音である︒イタリア・ルネッサンスの屈指の名作の数々︑
北方ルネッサンスの豊富なコレクションとともに︑再会は明日に延ばし︑今日一日は︑ボッスからの感動を心ゆく
ばかり噛みしめるべく美術館をあとにしたのである︒
マドリッドには︑あと一点ボッスの直筆がある︒現イスパニア王家の王宮︵レアル宮殿︶所蔵の﹃十字架を担う
キリスト﹄である︒レアル宮は︑マドリッド市の西部高台にあるルネッサンス風の広大な宮殿である︒正面広場に
は︑ヴェラスヶスの作になるフェリペ四世騎馬像があり︑その先の壮大な国立歌劇場から︑アレナ通りを経て町の
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ボッス『十字架を担うキリスト』マド リッド レアル宮
クションの一枚である︒もちろん︑フェリペニ世の蒐集になるもので︑
スの誘惑﹄などとともに︑エスコリアル宮殿に納められていたものである︒同一主題の作品が︑
にも存在するが︑前述の︑フィラデルフィア美術館の﹃三王礼拝﹄と︑
が︑この場合にも考えられる︒すなわち︑この作品におけるイエスのまなざしの深い清らかさ︑
の表情に読みとれる罪と悪の深さ︑それに︑背景の風景や建物の幻想的な美しさから考えて︑
画家の比較的若い頃︑おそらく一五〇〇年以前の作品であるのに対して︑
年以降のものとする美術史家が多い︒ 中心プエルタ・デル・ソルに通じている︒ 十八世紀半ぽに建造されたこの建物は︑ハプスブルグ家の権勢を思わず壮大なもので︑ 一八○○に及ぶ室数を数えるという︒現在では一般人の見学に解放されている︒ここの見ものは︑繋ぎ合わぜれば︑全長七キロメートルにも及ぶと言われる豪華絢欄たるタピスリーであろう︒ヴァン・デル・ワイデンやヴァン・ダイクからゴヤに至るオリジナルな名作を織りあげたすばらしい作品も多い︒ さて﹃十字架を担うキリスト﹄は︑この王宮のコレ かつては︑ ﹃三王礼拝﹄や﹃聖アントニウ ウィーンの美術館 プラドのそれとの関係と同じようなこと 周囲の野次馬たち ウィーンのそれは︑ この作品は︑円熟期後期︑多分一五〇五
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神の狂気を求めて(三)
たしかに︑ボッス独自の﹁記号﹂の含意は︑ウィーンのものよりもこの方が格段に深く明確である︒周囲の人物
の︑底知れない嘲けりと悪意の表情の深さが︑中央のイエスの︑限りなく清らかな愛と善意のまなざしとの間に︑
強烈な緊迫感を生み出しており︑この絵を︑通常のキリスト教的宗教画の次元をはるかに越えた︑神性と獣性との
ボッス『十字架を担うキリスト』ガン市立美術館
凄絶な拮抗を象徴する名画たらしめているのである︒
やがてこの絵は︑さらに凝縮されて︑最晩年のすさま
じい名作︑ガンの市立美術館所蔵の﹃十字架を担うキ
リスト﹄へと結晶してゆくのである︒
マドリッド滞在中の一日をさいて︑エスコリアル宮
を訪れた︒十六世紀後半︑スペイン・ハプスブルク家
の絶頂期に︑その権勢のすべてを注いで建造された︑
スペイン・ルネッサンスを代表するこの王宮兼︑修道
院兼︑墓所という︑前代未聞の宏壮な建造物の偉容
ば︑今日でも他に比類がない︒現在ここには︑前述の
﹃乾草車﹄ほか数点のボッスの模作とともに︑やはり
彼の後年の名作﹃荊冠のキリスト﹄が所蔵されてい
る︒同一主題の作品がロンドンのナショナル・ギャラ
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謙
ボッス『荊冠のキリスト』エスコリアル宮
ものよりも鋭く刺激的で︑イユスの表情も︑すべてを見通した思慮の深さに加えて︑
ろ厳しく闘争的ですらある︒周囲の人物の表情や目付も︑
色彩も大胆で︑表情もいっそう個性的で︑このテーマの絵としては︑
スと邪悪なる者との対比の生み出す緊迫感の強度からすれぽ︑
るのである︒おそらくこれは︑ロンドンのものよりも数年後︑ リーにも所蔵されているが︑全体の印象として多少のち︒かいを感じさせる︒ すなわち︑ロンドンの方は︑絵全体が︑動的である
よりはむしろ静的で︑色彩も比較的柔かくあでやかで
ある︒プラドの﹃三王礼拝﹄と筆の似ているところが
ら︑ほぼ同じ時期︑一五一〇年頃の作とされている︒
しかし︑イエスのまなざしの高貴で清澄な深さと︑嘲
笑と悪意と憎悪にみちた周囲の人物の目付や表情との
対比は︑静かな全体の調子をとおしても︑ひしひしと
感じられる︒
これに対してエスコリアルのこの作品は︑全体とし
てもっと激しさをひそませている︒色調もロソドソの
慈悲深いというよりも︑むし
ロンドンのそれよりはむしろガンのものに近く︑服装の
より凝縮された感がある︒したがって︑イエ
この作品は︑ロンドンのそれをはるかにしのいでい
ボッス最晩年の筆と推定されよう︒ ︵未完︶