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生産力理論への「偏向」を中心に

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生産力理論への「偏向」を中心に

佐 藤 広 美

      〈目  次〉

はじめに

1 生産力理論への「偏向」をめぐる留岡と生活綴方人      一「後期生活教育論争」から一

[ 「教育政策」認識の形成と生産力理論への「偏向」

 の必然性

皿 国家権力機構への参入の論理

     一「社会政策論争」を通して一 おわりに

はじめに

 本稿は,留岡清男(1898〜1977)の戦前における「教 育政策」認識を明らかにすることを目的とし,とりわけ 1940年に彼が大政翼賛会に参画したことにみられる権力 機構内部への参入がなぜ生じたかを,生産力理論への

「偏向」をめぐる問題に焦点づけながら検討していくこ とを課題とする。

 留岡ないし戦前教育科学研究会(以下,教科研と略す。

留岡は教科研の幹事長)の理論的弱点として,権力認識 の不明確さや権力への協調を指摘する先行研究は少なく ない。そしてその要因を生産力理論への「偏向」ないし その影響に求めることはほぼ通説となっている(1)。し かし,それらの指摘が,では留岡はなぜ「偏向」したの か,あるいは「生産力理論」とはそもそもどのような内 容をもっていたかという点についての検討を十分に行 なっているとはいいがたい。多くの理論課題がなお残さ れているのである。

 では,教育学における生産力理論への「偏向」とはど のような内容をいうのか。生産力理論とは,生産力の発 展さえ促進されれば社会は自動的に変わるとする主張で あり,戦時下,教育学にあらわれたその理論的特徴は,

ファシズムに対する最後の抵抗線を生産力の高度化を目 的とした教育政策における「合理性」「計画性」の内に求 め,教育の根本的機能を労働力の形成においてのみとら え,生産関係的視点を欠落させて変革主体の形成を課題 の外におく。そして,国家権力の検討を十分に行なわ

ず,国家権力機構内部への参入ないし国策に協力するこ とで教育改革を展望する,点にある(2)。本稿は,留岡が この理論に「偏向」した理由を,権力機構内部への参入 に論点をしぼって検討を加えていくことにする。

 本論の構成は次のようにした。第一に,生産力理論 は,留岡ばかりでなく当時多くの理論家・実践家をとら え,生活綴方人の多くにも影響をあたえたのであり,

「後期生活教育論争」(1937〜38)は生産力理論の受容を めぐる論争でもあった。したがって留岡のこの理論への

「偏向」のあり様を生活綴方人との論争を通し明らかに し,その特徴を探ることにした。第二に,それでは留岡 はなぜそのような「偏向」をきたしたかを彼の「教育政 策」認識の形成過程をおいながら検討した。そして第三 に,留岡の「偏向」の要因を,生産力理論そのものの形 成にそくして検討し,明らかにするようにした。こうし た検討を通して,留岡の、隼産力理論への「偏向」を克服 する条件は存在したのかを,そしてその克服のための課 題は何であったかを明らかにしていくよう努めた。

1 生産力理論への「偏向」をめぐる留岡と生活 綴方人

     一「後期生活教育論争」から一

 「後期生活教育論争」は,教科研と生活綴方人との組 織的統一を促した重要な契機とされるが,両者の出会い は生活綴方人に生産力理論の影響をより強く与える結果 となった(3)。しかし,生産力理論への「偏向」の過程 は,教科研(留岡)と生活綴方人では同一ではなく,む

しろ反発と対立がくり返されてきた複雑な過程であり,

以下で明らかにするように生産力理論を克服する契機が 点在していたことを示しているのであった。そこで権力 機構内部への参入に対する両者の対立を視点に「論争」

を再整理していきたい。

 1937年8月に北海道綴方教育連盟から招かれて訪問し

た城戸幡太郎と留岡による生活綴方教育への批判が『教

育』(1937.10)に載った。とくに留岡は,生活主義によ

る綴方教育は「畢寛,綴方教師の鑑賞に始まり感傷に終

るに過ぎない」㈲と痛烈に批判した。この留岡の批判こ

(2)

そ「上からの教育政策論的な生活教育の構想」(5)と称さ れてきたものであった。

  『生活学校』誌はこの留岡発言に対する生活綴方人の 反論をすぐに載せたが(1938.1),留岡は同誌で再び反 批判を行なった。彼は,「生活綴方の方法と技術および その効能」に疑問を投げかけ,その本来の任務は「文章 表現の能力の訓練」であるとするとともに,現行教科課 程の改革の重要性をのべる。すなわち,「生活教育のた めに献身するといふのならぽ」「現行教科課程そのもの についての根本的検討をなし,生活教育の適合する教科 課程を研究し建設してみることに努力してはどうか」(6)

と。

 現行の教科課程の改革の必要性については,同年3月 に開かれた教科研主催「生活教育」座談会でも留岡はく

り返し提起し,さらに新しく「社会研究科」の特設をの べている。彼は「生活教育の実践の現実は,政策史的に 考へる心構が熟さない為に,無理な悩みを敢へてしてゐ

るのではないか」とし,「不完全な現行学科課程の増内 でもがいてばかりゐ」るとして批判した(T)。留岡がく

り返し「現行教科課程」の改革を主張した背後には阿部 重孝らが参加している教育改革同志会による一連の改革 案の提出という状況があった(8)。37年6月に「教育制 度改革案」,38年10月に「教科内容の改革要領」が発表さ れている。

 この論争に加わった教科研の代表的な理論家として他 に波多野完治がいる。彼は後期生活綴方教育実践を「日 本の初等教育界における貴重なる教育的遺産」と高く評 価しつつ,その綴方実践は「自分たちのおかれた社会的 基盤をはっきりと意識しない」と批判し,生産主義の生 活教育の流行についての主たる理由を「日本国家の再編 成」と関連させてとらえることを指摘する。すなわち,

「生産力の拡充の問題が三年程前から大問題となり,教 育においても職業指導の方針が職業選択の方向から技術 教育の方向へと大転換を行った」とし,「このような生 産重視の国策が,本来農民児童の教育スP一ガンであっ た生産生活の教育を全国的な流行たらしめたのであろ う」としたのである。そして生産主義の教育目的は,一 人前の生産者をつくることであるとした(9)。

 たしかに波多野は,実践の客観的基盤の変化を鋭く指 摘した。しかし「国家の再編成」の内実こそ問われなく てはならない。たとえぼ,職業指導行政は1927年の「児 童生徒の個性尊重及職業指導に関する訓令」以来,「個 性尊重」「適職指導」をたてまえとしてきたが,38年の文 部・厚生両省の「小学校卒業者ノ職業指導等二関スル訓 令」により,児童の職業を国家の必要に適合せしむべき

ことが指示され,軍需産業に振り向ける職業指導へと転 換してきていた。軍需重工業の発展がめざましい時期,

彼の「生産者」の提言は,「生産重視の国策」に無批判な ままでは,軍事目的に奉仕する産業人の養成へと傾斜せ ざるをえない危険をはらんでいた(1°)。

 彼は,38年8月,「教育を一つの再生産行程とし」てみ るとし,41年2月には「文化は再生産の見地からは,生 産性を高める一つの要素と考へられる」と,同年4月に は「教育は生産力の拡充であること」と論を展開して いく(1D。現実の社会・経済矛盾の分析が十分でないま ま,教育の主要な機能を労働力の形成にみる「生産力理 論」の特徴をみせている。彼の生活綴方批判には生産力 理論への契機が胚胎していたといえる。

 この留岡・波多野の批判にこたえ,佐々木昂は「社会 研究科」と称すべき教科が設けられたとしても,その運 営には問題は残ると教科課程の制度的改変の限界をの べ,さらに波多野の生産教育の主張にみられた問題につ いて注意を促していく。彼は,産業人に橋渡しする現在 の職業指導乃至紹介は,殆ど教育でなく,その理由はひ たすら産業の奴隷を志向しているからだとしつつ,自分 が望む方向は「産業の一コンマでありながらも,それは 奴隷を意味するものではなく,産業を乗切る或は企画す

る意欲や知性を志向」することだとした(12)。この「産 業を乗切る」「企画する意欲や知性」の内実がどのよう なものか,明らかでない。しかし,教育内容へのきびし い国家統制の下では教科の新設は問題を真に解決できな いであろうし,社会矛盾を変革する主体の形成という視 点が生産人の養成に位置つかなければならない,との考 えがこの佐々木の主張にあらわれていたのではないか。

 佐々木にはもともと確かな公教育批判が存在した。綴 方についての最初の論文「感覚形態1」で,彼は「現実 態としての教育作用は或特定のイズムを前提として行は れて」いるとし,それは「時に選択された極く少数の個 及び群以外の総てはその生活欲求と却って逆転」してお り,「権力が保証を与へる公正な虚偽の存在」(13)こそ公 教育の本質だと指摘したのであった。佐々木は,権力に よる教育支配の質を「生活と表現」(14)との矛盾と緊張 においてとらえていくのである。

 しかし佐々木に問題がなかったわけではない。生活教 育論争の少し前,37年の1月,彼は農村更生運動に参加

した自らの態度・立場について,「結局は世の教師たち と同じく更生に態度しつつ部落の労働と消費とを生存の 極限に追ひつめてゆく合理化運動をやりつつあるのであ

ろう」「しかしそれも又可なりであるといふ結論を逆説

的に実践したいと思ふ」と説明している(15)。押し寄せ

(3)

るファシズムにどう対抗するのか。政策への関与のあり 方は決定的な問題として浮かびあがってきていた。「逆 説的な実践」は佐々木の苦悩が反映した表現であるが,

しかしこの「逆説的な実践」とはまさに生産力理論の重 要な理論的基調となっているものであった。

 1939年6E,留岡は秋田の北方教育社を訪ねている。

生活綴方人が大挙参加した教科研第1回研究協議会の 2ヶ月前である。この年の1月,留岡の実兄幸男が秋田 県知事として赴任しており,北方教育社同人との懇談は

この県知事官舎でもたれた(16)。この官舎内で留岡は明 確に同人に対し,教育行政機構への協力・参入を提起し た。彼は「北方教育社が県教育会の一部を構成して,県 教育会に対してその内部から働きかけること」の是非を 尋ねている。それは「既成団体」に対する次のような考 え方,つまり「…・或る段階に達すると,既成品の存在 を別の見地からみなほして,自分達の信念と運動とをそ れに浸透させてゆく方向を相当高く買はなけれぽならな い必要があるのではなかろうか」(17)との判断に基づい ていた。留岡の体制内参入による改革の論理がここにみ られる。この考え方は約一年後の40年4月に出された教 科研綱領の留岡の解説に端的に示されていく。同綱領は

「一般に行政は監督と指導との権力であると考へる観念 が強」く「行政を敬遠する傾向が多い」が,「行政が権力 であるとする観念と共に,行政を敬遠する傾向も亦間 違ってゐる」とし,「教育研究に関する限り,われわれは 行政との協力を排除すべきではなく,行政も亦われわれ

と共に積極的に協力すべきである」とのべていた(18)。

40年10月の城戸・留岡の大政翼賛会への参画は必然の結 果ともいえた。留岡はこの月,大政翼賛会参画について の「一身上の弁」をのべ,「教育翼賛運動の実質をかた め,方法を具体化するところの研究と実質とは,今後 愈々促進されなければならない」(19)とし,教科研は大 政翼賛会と一体となって進まなけれぽならないとしたの であった。

 では,この39年6月の留岡提起に対し北方教育社同人 はどう対応したか。同人の一部からの強い賛同もあった が,多数意見としては,協力関係を持つのはいいが,主 体性を失う可能性があるとして,留岡の提案は否決され た。この時点では,綴方人はなお行政機構への参入に警 戒・批判的であったのである(16) (17)。

 しかし事態の推移は,彼らをこのままの状態にとどめ おくことを許さなかった。同人の加藤周四郎はこの年の

(39年)11月秋田市高等小学校を退職し,同年12月県学 務部職業課秋田職業紹介所少年係主任として起用され,

佐々木昂は翌40年9月,同じく秋田職業紹介所少年係主

任へと転出した。さて,問題はこれら行政機構への転身 がどのような考えのなかで生じたかである。

 北方教育社同人の問では,社会への開眼に役立ったも のとして風早八十二の『日本社会政策史』(1937)があげ られ,それは佐々木昂の推せんであったとされる(2°)。

では風早らの生産力理論はどのように佐々木に影響をお よぼしていったのだろうか。

 38年6月,職業指導における「産業の奴隷」への養成 を批判しえた佐々木ではあるが,生産力理論への「偏 向」のきざしはすぐにあらわれる。その一ヶ月後の7 月,彼は真の集団勤労は心身の鍛錬を別として積極的に は生産力の拡充に応えるべきものとのべ(21),翌年の8 月には,東北の人的資源の配置や養成を計画化すること なしには,日本重工業は進展しないとし,重工業の進展 に,生産力の拡充に農村の経済的社会的問題の解決をも

とめていく(22)。こうして北方性教育論最後の論文「秋 田の北方教育運動」(1939.10)で,彼は「今日もはや,

人的資源といふ一つの面からぼかりでも農業問題を重工 業の段階から,又重工業の問題を農業再編成から切り離 して考へることは出来なくなった」としつつ,「今や真 にこの国の政治政策を知ることなくして教育の実践は行 はれ得なくなった。私どもは昨年の北方教育創立十周年 の記念式に於て北方性教育運動は国策の線に設定された ことを宣言した」とのべるのであった。教育科学運動へ の参加は彼にとってここに「必然のコース」(23)と自覚 させられるに至るのである。

 こうして佐々木は行政機構内部への転出を決め,内部 からの改革に自らの理想を託していったのではないだろ

うか。

 以上,教科研(留岡)と生活綴方人における生産力理 論への「偏向」のプロセスを整理してきた。そしてとり わけ,留岡の綴方人への提言に対する佐々木の反発に

「偏向」の克服の契機をみいだした。では,留岡はな ぜ,「教育政策論的」な改革にこだわりつづけたのか。そ の理由を解くためには,彼の教育政策認識が検討されな けれぽならないだろう。

ll r教育政策」認識の形成と生産力理論への  「偏向」の必然性

 留岡は,彼の戦前唯一の著書r生活教育論』(1940)の

中で,その目的を教育政策に学的根拠を与えるためとし

た(24)。留岡の教育理論の検討にとって「教育政策」認

識の分析はきわめて重要なものであろう。前節でみた生

活綴方人に対する「教育政策論的」改革の提示は,彼の

理論の特徴を端的に示した例であった。

(4)

 その留岡が,戦前のすぐれた教育行政学者として知ら れる阿部重孝の教育学を,階級性の認識が弱く,教育を  「国家的統制の一線に沿」ってみる傾向が強いと批判す

るように(25),教育政策に教育運動を対置して教育改革 の筋道を探る方法意識を持っていたにもかかわらず,結 局は,権力機構への参入による改革を展望する生産力理 論に陥ってしまうのはなぜなのか。本節の課題の焦点は ここにある。今まであまり言及されることのなかった留 岡の初期の論稿に触れながら検討をすすめていきたい

(26)

B

 (1) 「教育政策」への関心まで(1923〜193D  留岡は,1923年東京帝国大学文学部心理学科を卒業し

たのち,同大学院にすすんだ。26年法政大学心理学研究 室に職を得るが,29年父幸助の事業を受け継ぎ,北海道 遠軽の家庭学校へ赴任する。33年4月,雑誌r教育』編 集のため上京するまでの3年半を留岡は,少年教護事 業,農村改良・農村教育運動の遂行に従事した。この時 期留岡は,少なくない論稿・翻訳文を諸雑誌に載せてお り,のちの教育理論の思想的原型がこれら諸論稿のうち につくられていたことを知ることができる。すなわち,

従来の教育哲学の観念性を批判し,教育実践上の課題に 心理学研究を結びつけるよう努め,また社会改革との連 動において教育改革を展望したことである。

 留岡は,東大を卒業したのちも価値心理学を中心に研 究をつづけ,『心理研究』『心理学研究』に海外の研究論 文の紹介(ブレソダーノ,リップス等)(27)を行なう一 方で,個別実証的研究(「知覚の表現的構造」「疑惑の実 験的考察」等)をすすめた(28)。当時,日本の心理学研 究は一つの過渡期をむかえ,研究の流れは翻案概説の時 代からオリジナルな学術研究の時代へと移っていたとさ れる(29)。留岡はこの時期,研究の実証的方法を身につ けていったのではなかったか。

 同時に,彼は教育実践への関心をもちはじめていた。

感化教育への関心は早く,29年北海道の家庭学校に赴く 以前,父幸助が主筆を担当した『人道』に論稿をのせ,

時に父にかわって「社論」を書くまでに至っていた。そ こでは「吾々の知識は吾々の生活から遊離し」(3°)たと し,実践の意義を強調するとともに,従来の観念の遊戯 に陥りがちな教育学を批判してみせるのであった。

 「教育は従来の如く教育の哲学の中に幡鋸すべき性質  のものではなく,寧ろ常に実際の効果に重点を置く一  つの実行に移り行ねぼならない」(31)

 この精神は,心理学批判にもあらわれ,客観主義を戒 め,「治療的精神」を説き,さらに個人の犯罪の生物学的 観点のみの原因追求を批判し,社会調査の必要を説き,

犯罪の原因の社会的歴史的分析の観点を強調した(32)。

 実際的研究の意義の強調は,必然的に教育改革と社会 改革との連動に思いを広げていく。この時期の彼は,マ ルクス主義の文献に言及するなど社会改革の根本的意義 に少なくない理解を示していたと思われる(33)。彼は家 庭生活の社会的機能の推移とその破壊をのべつつ,家庭 生活を原因にもつ「少年犯罪の研究は最早感化教育の一 手段たるに止まらず,必然的に社会改造の大きな動きに 連らねばならぬ」(34)としたのであった。

 ここで注目したいのは彼の労働教育への言及である。

労働教育は感化教育の思想原理として彼の一貫した主張 をなすものである。1934年,よく引用される論稿「労作 教育思想の再検討」で留岡は,労作教育は教育方法ない し技術の問題として扱われてきたとし,それを批判しつ つ,肝心なのはその「歴史的社会的発生」の根拠をとら えることであるとし,労作教育は「その原理は宙に浮い た人格の自発性とは別に,最も現実的な形に於て,労働 者階級の中に」(35)見い出さなければならないとした。

この労作教育批判の要点はこの時期にみられる。彼はペ スタロッチ,ケルシェンシュタイナーの意義を認めつ つ,「人間の姿が社会と歴史とを通じて歪められた跡を 客観的に認識することに於て充分克明であり的確であっ たといへるか」(36),と疑問を提示した。そして,彼はブ ロンスキーとシャッキーの労働教育思想にまで検討の筆 をすすめ,「現実の生活のうちから現実の構造を変革す ることを考へねばならぬ」ところに労働教育の歴史的使 命があるととらえた(37)。ブロンスキーを最初に紹介し たのは山下徳治の『新興ロシアの教育』(1929)とざれる が(38),それがブロンスキーの「労働学校」論に触れる ことなく彼の思想の簡単な紹介におわっていたのと比 べ,留岡のブロンスキーへの立ち入り方は注目されてよ

い。

 こうした理論形成の歩みを通して留岡は,一層つよく

「教育政策」に関心をもちはじめていくのであった。す なわち,教育の階級性を指摘し,教育の行政的官僚的独 占を批判し,政治運動に連結した農民の教育運動こそが

「真の教育的主体」であるという,つまり教育運動に対 置させて「教育政策」を分析する(39)ことにすすみでる のである。

 (2)生産力理論への「偏向」の必然性(1932〜1940)

 留岡が教育政策に自らの学問的関心を集中させていっ

たのはなぜか。それは彼の従来の教育学批判のうちに明

瞭にみてとれる。彼は教育学の対象はなにより教育の事

実でなければならず,しかも第一義的には政策的形態の

うちにとらえることが必要であるとの考えを強くもって

(5)

いた。彼は教育に対する一般の意識は「社会に於ける政 策的形態の一つとして率直に把えることが希薄である」

とし,「単に人間一般,人格一般の陶冶の方法として抽 象化するのが常で」c4°)あるとのべる。この教育の観念 的抽象的把握は,事実の本質的認識を回避させ,矛盾を おおいかくす「教化」イデオロギーに転化するとし

(39) C教育学の「高踏」性は逆に現実の政治・政策の優 位性を認めることになるのであって,教育の政治への

「隷属」を脱するためにも教育の政策的形態にまで認識 の広がりをもとめることが必要であるとの考えを留岡は

もった(4°)。

 その彼の政策研究の特徴は,教育政策の実証的数量的 そして歴史的比較史的手法を駆使した点であり,宗教的 慈善や人道的同情にのみ政策の動因をみようとせず,

「因果関係の科学的認識」を追求する姿勢であった。「文 部省年報」等,彪大な資料群を整理した「道府県教育史 統計資料」(岩波『教育学辞典』1939)の解説で,その資 料の不整備を衝き,「教育行政または教育政策が必ずし

も社会事情の進展に即応して改変されなかった実情を示 唆する」(4Dとのべているところに,教育政策の社会的 基盤の実証的探求を精力的にすすめた彼の姿をみること ができよう。

 では留岡は,実際の教育政策をどのように分析したの であろうか。その批判の内実はどのようなものであった

ろうか。

 彼は教育政策における国家による統制機能を鋭くみぬ いた。先にみたように阿部の教育改革論を「階級政策と して錯綜する教育を,国家的統制の一線に沿うてながめ る」(25)きらいがあると批判し,阿部が中心となって作

成したとされる教育改革同志会の教育制度改革案

(1937)を,教育は国家の義務であり,学校は国家の営 造物であるとの「考へ方のラインから一寸も離れてゐな

い」(42)と評した。

 この教育政策の国家統制主義批判は,助長主義に立つ 教育行政の支持となる。彼は,現在の教育全般は「教育 当局の直轄」でなければならぬという一点に塗り潰され ているとし,教育される者の年齢や生活に応じた教育方 法・形態を軽視・画一化しているとのべ,「我国の教育 行政に助成的要素の希薄であり欠如し勝ち」(43)を批判 する。そして教育法規の勅令主義を問題にし(44),教育 行政の訓令・通牒の「空虚な内容」(45)に対して教師の

自主的で主体的な努力の意義を説くのであった。

 しかし留岡は,教育政策にのみ改革の実現の手段を依 存させたわけではなかった。教育運動に基本的な力をみ いだす主張もみられ,それはとりわけ初期に顕著であっ

た。先に紹介した農村教育運動を扱った論稿(1932〜

33)がそれであり(39),そこでは無産党の教育方針や木 崎村の無産小学校を高く評価していた。

 もっとも,政策・行政の機能に積極的意義を見い出さ なかったわけではない。同じ時期の論稿「我国の感化事 業」で,彼は「社会並びに教育の真の科学化は,社会的 施設並に制度として具体化せねばならぬ」(46)とのべて いた。そして改革における政策機能の働きへの期待はそ ののちも彼をとらえていくのである。すなわち,彼は小 商工就業者の就労・就学条件を詳細に分析し,その劣悪 な条件を指摘し,職業指導の限界をのべ,改革の主体を

「同業組合」にみいだすが,結局は「政府」の「保護政 策」「啓蒙運動」〔47)に改革の期待を寄せるのである。

 留岡は教育改革を教育政策と教育運動とのダイナミズ ムにおいて把握する基本枠組みをもちえた。しかしその 枠組を十分科学的に分析することをすすめなかった。そ

の基本要因の一つは国家権力の位置の究明が不十分で あったことにもとめられよう。留岡の教育政策研究が,

その合理的遂行のための批判とされる所以である(48)。

ここに国策協力への傾斜の危険は十分に内包されていた。

 さらに,彼の生産力理論への「偏向」の必然性を探る ことに焦点をしぼりながら,彼の政策認識を検討してい

こう。

 留岡は「児童の教育権の擁護と確立」(49)をもって文 部行政を批判するという,今日からみて注目すべき主張 を展開している。その留岡が生産力理論に陥った理論的 弱点は何か。

 彼は,行政・制度の児童観は「文政型・仙救型・行政 型」(5°)に分裂しているとし,「総合的に之を処理すべ き」(5°)であるという今日の「福祉と教育の統一」思想 に連なる論(5Dを展開する。そして文政型の児童観を批 判し,「小学校令」33条の貧困児童および心身上の障害 児童に対する就学の免除・猶予規定の撤廃を主張し,こ の規定は「国家が教育の権利のみを主張し,児童の教育 権を尊重し確認せざる一証左である」(49)と評した。

 留岡の児童研究は「制度に体現された児童観」(52)の 探求において特徴をなした。岩波『教育学辞典』の「児 童問題調査運動」の項に自ら筆をとり,児童にまつわる 社会問題を社会政策の見地から検討せんとする意図にお いてこの運動は行なわれてきたと解説していたが(53),

彼の研究はまさにこの立場に立つものであった。上記小 学校令33条批判はその研究成果の一つといえよう。

 しかし,留岡の児童観には重大な問題性があった。

 「教育=調教」観がそれである。彼は,教育は強制であ

り,調教(Dressierung)でなければならず,調教は賞罰

(6)

をその手段とし条件とすべきであるとしたのである(54)。

 「調教」という考えは子どもの自発的成長への配慮と鋭 い矛盾をもつのではないか。この「教育=調教」観は次 の彼の「教育=発育」批判の文脈に重ねてみるとき,そ の問題性はさらに明らかとなる。

 彼は教育を単なる「発育」または「発展」と考えるの は教育を社会から「遊離」させるとし,国家や社会が必 要とする「人的資源を酒養する企画」こそ教育であると の考えを支持した。そして国家と社会の要求を「労働力 の再生産によくたへるところの健康の保持と増進」と,

 「労働力をそれぞれの生産部面に適応して加工又は技術 化する」(55)ことととらえた。ここには教育の機能を労 働力の形成においてのみとらえる生産力理論の特徴がみ

られる。

 さらに重大なことは,たとえば労働力の形成にのみ教 育の機能をとらえるこの産業的要請にそった教育の合理 的編成の主張は,時に教育の国家統制主義批判の文脈で 行なわれている点である。彼は,明治以降の教育界の観 念形態は「国家人の養成」に帰結してきたとし,「社会人

と産業人」の養成をこそ考えるべき旨をのべ,伝統的な 教育観念を批判した(56)。あるいは,教育の「地方主 義」を論じ,教育の「協同組合」主義の意義を説きなが ら,彼は青年教育の危機を「行政的単位の一元を以て塗 り潰され」た点にもとめ,教育の「行政的」単位から  「経済的産業的」単位への転換を主張したのであるc5 7)。

 留岡の論稿に散見される「社会的経済的生活の機構」

の用語もリアルな社会構造認識を伴うことに十分ではな かった。児童・労働者を単なる労働力ととらえるのでは なく,生活機構の改革者ととらえる上で,留岡の論は子 どもの発達観と社会構造に対する認識の不十分性ゆえに 重大な問題性を残していた。そして,このような不十分 な認識のうちで,教育の国家統制主義批判に対置させて 教育機能の「経済的産業的」編成の強化を強調すること は,生産力の発展こそが社会を変革させるとする生産力 理論への「偏向」に陥る危険を内包していたのではない だろうか。そのことは同時に,国家権力の分析を怠ら せ,権力機構内部への参入を生じさせた原因ともなった のではないか。教育の階級性を指摘し,「児童の教育権」

を論じながらも,国策協力に傾斜した留岡の必然性もこ の点に一つ大きな理由があると思われるのである。

 以ヒ,留岡の生産力理論への「偏向」の必然性を彼の 理論にそくして明らかにしてきた。ところで,生産力理 論とはそもそもどのような内容をもつものであったのか。

なぜ,当時の多くの理論家・実践家はこの理論に囚われ たのか。是非とも立ち入った検討が必要と思われるので

ある。

 次節では,生産力理論の形成過程を検討しつつ,この 理論が留岡の教育政策認識に影響を与えた原因を明らか にするよう努thたい。大河内一男と風早八十二の「社会 政策」論争が直接の検討対象となる。

皿 国家権力機構への参入の論理     一「社会政策論争」を通して(58)一

 風早は戦後,『日本社会政策史』の「新版に寄せる」に おいて,大河内を当時最もすぐれた社会政策学者とし,

従来の超絶的な絶対専制的官僚主義的社会政策理論に対 し「学」としての社会政策を以て闘っていたと大河内を 評価し,「殊に人民戦線の立場から,大河内氏と共同戦 線を張っていた」(59)とのべている。しかし,両者は全

く考えが一致していたのではなく,むしろ鋭い対立を含 んでいた。「社会政策」の一般論についての両者の対立 は避けがたかったのである。

 教育政策・理論史の分野からみて,従来,両者の差異 への注目は十分とはいえなかった。しかし,当時,社会 政策・体制批判の最も有力な理論として登場したといえ

る「生産力理論」内部において論争が展開されていたこ とは,注目されてよい事実である。すなわち,この論争 の過程においてこそ「生産力理論」の意義と限界が,つ まり体制批判のより根源的な可能性と,結局はそれを失 敗に終わらせ,体制内批判の理論へと転じていく姿が明 瞭にとらえられるからであり,またこの理論のもつ影響 力を的確に把握できるからである。

 風早は先の「新版に寄せる」で,社会政策理論の中に 階級闘争をとり入れたことに大河内は反対した(59)との べている。はたして,大河内は本当に階級闘争の範疇を 排除しようとしたのか。そして風早は,階級闘争を社会 政策理論にとり入れることに真に成功したのであろうか。

 大河内は風早との論争以前,「概念構成を通じて見た る社会政策の変遷」(1931)「労働保護i立法の理論に就 て」(1933)等で,すでに彼の社会政策理論の骨格をつく りあげていた。彼は社会政策とは,経済社会の生産力拡 充のための「内在的必然」として成立し,個別資本によ る盲目的な労働力濫用を合理的に規制すべく現われた

「社会的総資本」による労働力の合理的配慮の体系であ る,とした。

 この大河内理論に対し,日本の社会政策史を詳細に論 じたr日本社会政策史』(1937.12)の序で,風早は,

「大河内氏にあっては,社会政策は何よりも資本の拡大

再生産そのものに必要な,又必要な限りの労働力の保全

の政策を意味する」としつつ,「資本の拡大再生産その

(7)

ものに必要な,労働力保全の政策は労働者の自主的運動 の圧力を限界とする」のであって,「この圧力を緩和す るためにあへて個別的資本の利潤を犠牲に供せしむると ころに社会政策の本質に不可欠な要素が見出されるの で」あり,「このことに対する過少評価は,資本制労働関 係におけるディアレクティークな運動法則の抹消に帰着 せざるをえないだろう」(6°)と,批判した。

 ここには,明らかに社会政策の成立にとって労働運動 が不可欠なものであるとの把握がある。しかし,本書そ のものは社会政策一般の定義づけを狙いとしたものでは・

なかっただけに,風早の社会政策への一般的理論化は次 の「社会政策と資本の運動法則」(1938.5)で行なわれ ることになる。

 風早は,労働力の保護i自体が資本にとって無条件に合 目的的ではないと大河内を批判し,資本にとっての労働 力の保護の要請は相対的であり,「それは利潤率維持の 限度においての要請」であって,「労働力の保護が生産 にとって無条件的な絶対的な要請となるためには,価値 法則が揚棄され」(61)なければならないとした。

 労働力保全が資本制経済にとってけっして無条件に要 請されることはなく,それを可能とするのは資本制生産 の価値法則の揚棄であるとする。これは的確な指摘で

あった。

 では風早は社会政策をどう定義したか。はたして階級 闘争をとり入れ,資本の圧力による労働者階級の状態に

もたらす客観的結果とそれに対する主体的対抗のなかで 社会政策の成立を把握することが出来たのかどうか。風 早は次のようにのべている。

 「社会政策とは,個別的な資本が労働力を犠牲にして  遂行する利潤率低下阻止の諸手段を,利潤率維持に  とって合目的的な限度に抑制せんとして労働力の保全  を行ふところの総資本の方策施設である。」(62)

 ここには,階級闘争の必然的産物としての社会政策と いう把握は抜け落ちている。社会政策を資本家階級の労 働力収奪に対する国家による抑制・緩和策,その政治的 譲歩としてとらえる芽を見い出すことはできない。社会 政策の本質は,結局,個別資本と総資本との労働力取扱 上の対立による総資本の側からの労働力保全としてとら えられてしまっている。この定義には『日本社会政策 史』で用いた分析方法も全く生かされていない。そして 個別資本と総資本の矛盾・対立のうちに社会政策の成立 をみる,この把握は大河内の規定と同一のものであり,

それこそ当の批判の対象者である大河内によってこの規 定は承認されるのであった(63)。

 大河内は風早への反論を「社会政策に於ける生産と分

配」(1938.11)で行なう。大河内の反論は風早の上記の 理論的矛盾,その理解の不徹底さを鋭く衝いた。つま

り,「若し例えば労働力の合理的保全の為の労働者保護 が,労働者の自主的運動を俊ってのみ必要とせられるも のとすれば,労働力保全にとっての総資本の配慮は社会 政策の本質究明にとっては無意味な規定となるであろ

う」,と風早の社会政策規定における労働運動と総資本 の関連把握の矛盾を衝き,自らは労働者の自主的運動の 圧力は社会政策のための条件とはなっても本質規定とは なりえないとし,「労働者運動の存在如何に拘はらず,

労働力保全のための配慮は経済社会全体の,即ち総資本 の,自己保存的方策として,早晩日程に上され実現せら れねばならない」(64),とのべた。

 風早はこの大河内の反論を甘受しなければならなかっ たのではないか。大河内は社会政策を「総資本」の内的 要請による理性的行為の産物ととらえた。階級闘争を排 除したのではなく,それを社会政策の成立にとっての本 質的規定からはずし,一つの外的要件としたのである。

つまり大河内は,労働者運動は進歩的官僚の努力や開明 的工場主の運動,人道主義者・宗教団体・学者等の世論 の圧力と同じように社会政策の成立にとってそれを順当 に貫徹させる「外的要素の一つに過ぎない」(65)とした。

 こうして国家権力自体による改革の展望が開けてくる のである。

 風早が大河内と比べ,社会政策の原因究明において労 働者の「主体的意志」を強調したことは明らかである。

しかし,風早はそれを徹底することができず,結局大河 内と同一レベルにとどまってしまった。それは風早が社 会政策の展開自体のうちに変革の契機を見いだす,つま

り権力内部に加わり改革の方途を見いだす「参画1の論 理を準備してしまった点に端的に示されている。

 風早は,「社会政策の拡充自体が,上からのでなく,い はば下からの改良を促す要因を創り出す源泉になる1と し,つづけて「けだし,社会政策は,それみずからとし ては飽くまで資本制自体の順当な発展を促進せしむべき 要請の一つであり,其処に根本的な限界をもってゐる政 策なのであるが,しかし資本の順当な発展・成熟は,同 時に交換価値としての労働力と使用価値としての労働力 との矛盾の認識,したがって労働力と労働力担当者との 不可分な関係への認識を促し,そのことによって労働力 担当者(それ自身,価値法則に対する批判者である)の 地位の向上・自覚の成長を促す」(66)とのべた。

 社会政策は労働者の社会矛盾の認識を促し,「価値法 則を揚棄する要素をも育成」(63)するというのである。

社会政策が労働者の自己実現に積極的に寄与し,やがて

一7一

(8)

は当の国家体制そのものを超える主体的力量を培うとの 期待が,この文脈にあらわれているのではないか。そし てこの点はまさに大河内の一貫する主張であったのであ る。例えば大河内は社会政策の「想はれざる結果」とし て,「現存の経済機構に対する意識的な批判者である」

「労働者階級」の自然的肉体的条件の維持・確保をあげ ており,この自然的肉体的存在の確保は彼等の組織的能 力を強靱にし彼等の「革新的」精力を強化するための前 提とのべていた(67)。

 彼等は結局,国家とは何か,に正面から取り組むこと を怠った。社会政策は国家の意志を通してのみあらわれ るから,現象的には個別的資本と総資本との利害の喰違 いから生まれるように見える。しかし,国家の意志は社 会の矛盾せる,敵対せる勢力の意志を反映しており,国 家の本質は階級闘争の必然の産物としてとらえる必要が あった。こうして国家自身による改革の途が提示されて いく基盤が用意されるのである。権力機構内部への参入 による改革の論理はここに必然化してくるのであった。

 では,なぜ生産力理論は教育政策認識に影響力をもち えたのだろうか。生産力理論とは一般に,生産力の発展 をめざしてそのために社会構造を合理的に再編成しよう

と主張する理論であり,その政策批判の視点は「合理 性」「効率」であった。留岡の教育政策分析が政策の合理 的遂行のための批判に傾いたのであるからこそ,そこに 生産力理論の影響をみてとることは正しい。だがそれで は留岡が生産力理論に傾いた原因を説明したことにはな

らない。

 しかし,ひとたび生産力理論の形成過程をみれぼ,生 産力理論が階級闘争と「社会政策」との関係や「労働者 の自主的運動」(風早)という表現にみる社会改革の主 体形成についての「論争」を通して形成されてきたのが 分かるのであって,まさにこの点において留岡への影響 をとらえてみることが重要なのではないだろうか。この 時期(1937〜40),教育学の分野で階級闘争と教育政策 を正面にすえて論じることはますます困難な状況にあっ た。留岡はみずからの教育政策認識の理論的根拠を求め て,この理論の動向に関心を示していったのではないか

(68)

B

 たとえば留岡は,1932年,無産階級の内部から動き出 す社会事業の自治化の流れに注目し,今後その流れは従 来の「国家的統制」による社会事業を「圧倒」するであ ろうとのべ(69),さらに36年,岩波の『教育学辞典』に おける「協同組合」の項目で,「協同組合運動はその発生 の歴史に於て既に労働組合運動と表裏の関係をなし」た とし,その発生とともに教育的運動を用意し発展させた

ことは注目に値する(7°)と指摘した。一方風早は1937年 10月,雑誌r教育』の巻頭論文で,労働者教育運動の衰 微の主体的原因を「教育運動の労働運動よりの遊離」

「後退」にとらえ,その教育運動が知的・情操教育とし てだけ行なわれるのは不十分であって,「日常的・実践 的な闘争に随伴して行はれる」必要を論じていた(71)。

こうした風早の教育と労働運動とのダイナミックな関連 把握に上述のような認識をもつ留岡が十分な理解と関心 を示すことができたであろうことは明らかと思われるの

である。

 しかし,同時に,この生産力理論が国家権力を正面か ら分析することをせず,権力機構への参入の論理を準備 したこともまた,留岡における国策協力への傾斜に少な からぬ影響をおよぼしたこともたしかなのではないだろ

うか。

おわりに

 あらためて,本稿のまとめをおこなおう。

 留岡が教育政策に関心を寄せたのは,現実の社会や教 育の実際を離れて「高踏」的な教育学に遊ぶことは,逆 に現実の政治に教育学が従属し支配されてしまうとい

う,従来の「哲学的」教育学への批判意識からであり,

教育政策分析を行なうことで現実の政治批判が可能であ ると考えたからであった。この教育政策への関心は,実 践的な心理学研究のあり方を考え,社会改造との連動に おいて感化教育実践を探求した初期の研究生活のうちに 形成されてきたといってよい。

 留岡は教育政策と教育運動のダイナミズムのうちに教 育改革の筋道をとらえる基本枠組みをもちえた。しか

し,子どもの発達観や社会経済的構造に対して十分な認 識を欠き,教育の国家統制主i義を教育機能の「経済的産 業的」編成の強化において批判してみせる等の理論的弱 点をもったゆえに,生産力理論への「偏向」に陥った。

この生産力理論への「偏向」は,一方で教育の階級性を 論じながらも国家権力機構への参入をもたらす原因と

なった。

 留岡のこの理論偏向は,ある転機をもっておとずれた のではなく,その芽は教育科学研究運動にとりくみはじ めたときにすでに胚胎していたのではないか。彼は,感 化教育を労働原理を基本とする社会的経済的生活の機構 のうちに位置づける意義をのべるが,その「機構」は,

労働の「分配」や消費の「統制」といった事柄(72)以上 の内容を含むものではなかったのである。

 しかし,留岡に生産力理論への「偏向」の克服を促す

契機が存在しなかったのではない。後期生活教育論争が

(9)

それである。この論争で留岡は「教育政策論的」改革に 固執したが,佐々木昂ら生活綴方人はそれに何度か反発 を示したのであり,それは「偏向」を克服する契機とも なりえた。だが,留岡は実践に学び実践から理論をひき だす姿勢に乏しかったのであり,「偏向」の克服は「可能 性」のままにとどまったのである。

 留岡や生活綴方人が期待と反発を交差させながら生産 力理論に陥っていった要因は,生産力理論そのものの形 成過程にあったともいえた。この生産力理論は,階級闘 争と「社会政策」の関連や変革主体形成の問題を「論 争」として内在させて形成してきたのであり,この点に 留岡らが影響されていった大きな原因があったのではな かったか。留岡の教育政策認識における生産力理論への

「偏向」は,教育政策と教育運動へのダイナミズムや社 会改革の主体形成の把握への志向に原因をもち,その把 握に失敗した結果としての姿であったのである。

(1)留岡に言及した研究は数多い。ここでは彼の教育政  策認識と生産力理論との関連を指摘した代表的研究を  あげておく。柳久雄「民間教育運動の抵抗と行きづま  り」r現代日本の教育思想・戦前編』 黎明書房1962  年,岡本洋三「教育政策の認識と教育運動の理論」r講  座日本の教育2民主教育の運動と遺産』新日本出版  社1975年など。

(2)井深雄二「戦後初期の教育科学論」名古屋大学教育  学部紀要第28巻1981年

(3)中内敏夫r生活教育論争史の研究』 日本評準1985  年p.103,横須賀薫「北方性教育運動と『生活  台』」 r作文と教育』1965年11月号p.9

(4)留岡清男(以下,留岡と略す)「酪聯と酪農義塾」

 『教育』第5巻第10号1937年10月p.60「北海道と酪  農義塾」と改題して r生活教育論』G940)に所収。

(5)宮坂哲文「生活教育の系譜」r生活教育』籠山京編  国土社1956年p.21

(6)留岡「教育に於ける目的と手段との混雑について」

 『生活学校』第4巻第2号1938年2月pp.18−19

(7) 「『生活教育』座談会」『教育』第6巻第5号1938年

 5月p.85

(8)川合章r近代日本教育方法史』青木書店1985年参  照pp.321−322

(9)波多野完治「生産主義教育の生産性」『教育』第6巻

 第5号1938年5月pp.23−27

⑩ 海老原治善『現代日本教育実践史』 明治図書1975  年p.753,木ド春男「高校教育の歴史的視点」『高校教

 育と生活指導』 明治図書1972年pp.45−49

(11)波多野完治「高山氏の提案を読みて」『生活学校』

 1938年8月p.17,同「児童文化構i造論」r児童文化  上』 教育科学研究会編西村書店1941年2月p.7,

 同「児童文化の理念と体制」『児童文化論』 国語教育  学会編岩波書店1941年4月p。32

⑰ 佐々木昂「生活・産業・教育」『生活学校』第4巻第  5号1938年6月 r佐々木昂著作集』所収無明舎出  版1982年p.215

㈹ 佐々木昂「感覚形態 工」『北方教育』第3号5月号  1930年5月前掲書p.11

(14 大田尭「生活綴方の根本問題としての『生活と表  現』一佐々木昂の仕事をふりかえりながら一一」『作  文と教育』1959年10月号,志摩陽伍「佐々木昂の歩ん  だ道」r生活指導』 1963年8月号,参照

(1S 佐々木昂「村落更生に態度する口」『生活学校』第3  巻第1号 1937年1月 前掲書p.173

㈹ 戸田金一r秋田県教育史北方教育編』 みしま書房  1979年p.457

⑰ 留岡「旭川の教育人と北方教育社」『教育』第7巻第  8号1939年8月p.89

⑱ 留岡「教育科学研究会の五大目標」『教育科学研究』

 第2巻第4号1940年4月p.4

働 留岡「一身上の弁」r教育科学研究』第2巻第10号  1940年10月p.7

⑳ 渋谷道夫「北方性教育運動」『教育』No.1301961年7  月P.78

⑳ 佐々木昂「秋田における集団勤労の報告」『教育報  告』 1938年7月 前掲書p.220

⑳ 佐々木昂「昨日・今日・明日」r教育報告』 1939年  8月前掲書p.224

⑳ 佐々木昂「秋田の北方教育運動」『教育』第7巻第10  号1939年10月p.121

⑳ 留岡r生活教育論』 西村書店の序p.2

(2S 留岡「阿部重孝論」『教育』第4巻第1号1936年1  月p.180 『生活教育論』所収,なお阿部重孝の教育  改革論については,拙稿「阿部重孝の教育制度研究の  特質と問題点」r教育科学研究』第2号1983年3月東  京都立大学教育学研究室,「阿部重孝における教育制  度改革論の研究」同前第3号1984年7月参照

⑳ この時期の留岡研究への示唆を高橋智氏(東京都立  大)からうけた。

⑳ 留岡「ナトルプの観たるリップス」『心理研究』1925

 年3月,r心理学研究』の1926年8月から29年4月ま

 で価値心理学を中心とする文献解説を行なっている。

(10)

㈱ 留岡「『疑惑』の実験的考察」『心理学研究』1928年  6月,同「知覚の表現的構造について(其の一)」(三  井透と共著) 同前1929年8月

⑳  『講座心理学1歴史と動向』(八木・末永編) 東  大出版1971年吉田正昭執筆部分p.281

(3① 「草履轟」(清渓,留岡のペンネーム) 『人道』第  269号1928年3月p.31清渓が留岡のペンネームであ  ることについては,山本幸規「解説『人道』につい  て」復刻版r人道』不二出版 1983年 参照。

⑳ 留岡「保健事業に於ける進化説適用の『矛盾』につ  いて」r人道』第221号 1924年2月P.9

爾  「感化教育に於ける治療的精神」(清渓)『人道』第  268号1928年2月,「塵れゆく家庭」(清渓)同前第  284号1929年6月,「トーマス・モットー・オスボル  ソに就て」(清渓)同前第304号1931年2月

㈹ 菅忠道「記録教科研運動とその担い手」r日本教育  運動史3』 三一書房1960年p.152,「慶れゆく家  庭」(清渓)前掲,p.2

(34 「感化教育における治療的精神」(清渓)前掲

(3S 留岡「労作教育思想の再検討」『教育』第10巻第10  号1934年10月p.49

㈹  「『労働』をめぐる教育思想の発展」(清渓)『人道』

 第302号1930年2月P.2

(30 同前P.3

(3D笹島勇治郎「解説プロソスキーについて」『ブロン  スキー労働学校と総合技術教育』明治図書1975年  p.178

㈲ 留岡「本邦に於ける農村教育運動」r岩波講座教育  科学』第11冊の付録r教育』1932年8月,同「農村教  育運動」『岩波講座教育科学』第20冊1933年3月

㈲ 留岡「教育と地方主義」『産業と教育』第2巻第7  号1935年7月p.11

ω 留岡r岩波教育学辞典』の「道府県教育史統計資  料」の「解説」 1939年p.2505

㈲  「教育改革同志会教育制度改革案批判」(座談会)

 『産業と教育』第4巻第7号1937年7月p.58

㈱ 留岡「教育と地方主義」前掲p.13

(44 留岡「文部省のお家騒動は何を象徴するか」r教育』

 第2巻第6号1934年6月p.112

㈲ 留岡「教育巡礼記一山形・秋田の教育」 『教育科学  研究』第1巻第3号1939年12月p.29

㈲ 留岡「我国の感化事業」『岩波講座教育科学』第6  冊の付録『教育』 1932年3Hp.34

(40 留岡「職業輔導の限界と主体」『職業指導』 1936年  11月

㈱ 岡本洋三「教育政策の認識と教育運動の理論」前掲  p.320

㈲ 留岡「児童保護に於ける文政型と仙救型」r教育』第  3巻第12号1935年12月p.33

6① 留岡「児童観と生活教育←)」『教育』第8巻第1号  1940年1月 「児童観と教育」と改題してr生活教育  論』に所収

(51)小川利夫「児童観と教育の再構成」『教育と福祉の  権利』勤草書房小川ほか編1972年,土井洋一「教育  福祉問題の史的展開と研究の動向」『教育と福祉の理  論』一粒社小川・土井編著1978年参照

働 山田昇「『教育科学』の学問的系譜」r和歌山大学紀  要14』 1964年p.9

㈹ 留岡「児童問題調査運動」『岩波教育学辞典』1937  年P.993

働 留岡「感化事業」『岩波講座教育科学』第10冊1932  年7月p.36,同「生活の中からみた不良少年」r愛  育』第3巻第2号1937年2月p.7 「不良少年の生活  構造」と改題して『生活教育論』に所収

(55 留岡「青年教育改革の指標」『青年指導』第5巻第11  号1940年2月p.12「青年教育への指標」と改題して  『生活教育論』に所収

㈹ 留岡「義務教育年限延長問題と基の社会的影響」

 『社会事業』第20巻第5号1936年8月pp.16−17

(50 留岡「教育と地方主義」前掲pp.12−13

㈹ 本節の叙述は,岸本英太郎『社会政策論の根本問  題』 日本評論社1950年,同『大河内一男著作集第5  巻』青林書院新社1969年の「解説」,高畠通敏「生産  力理論」『転向中』平凡社1960年に多くを負ってい

 る。

㈲ 風早八十二r新版日本社会政策史上』青木文庫  1951年p.12

㈹ 風早八十二『日本社会政策史』 日本評論社1937年  PP.5−6

㈹ 風早八十二「社会政策と資本の運動法則」『労働の  理論と政策』 大洋社1938年p.85

働 同前 p.90

㈹ 大河内一男「社会政策に於ける生産と分配」『社会  政策の基本問題』 日本評論社1938年p.168

(6φ 同前pp.169−170

(65 同前p.170

㈹ 風早八十二 「社会政策と資本の運動法則」前掲p.

 119

(60 大河内一男「社会政策の形而上学」 前掲書pp.126

 −128

(11)

(6D たとえば『教育』は,風早の「労働組合における教  育活動の再検討」(共著 1937.10)を,大河内の  「『休養』の社会的意i義」(1938.10)「『生活刷新』の  社会的意義」(1940.1)「国民生活の論理」(1940.

 4)を各々巻頭論文として載せている。

(69)留岡「我国の感化事業」 前掲 p.39

㈲ 留岡「協同組合」『岩波教育学辞典』1936年p.535

⑳ 風早八十二・相馬十吉「労働組合における教育活動  の再検討」『教育』第5巻第10号1937年10月pp.8−

 12

⑫ 留岡「感化事業」 前掲pp.37−39

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