『釈摩訶衍論』請来時における二、三の問題(関)
仏教者を巻き込んだ広範囲な論争であった。 論』の真偽論争の規模は、真言内部から勃発したものではく、戒明が『釈論』を請来した直後より起り、当時の主要な 論』作者を新羅の月智あるいは月忠とするが、経録や僧録に基づく説ではなく、信憑性に足るものとは言えない。③『釈 考えられ、従来支持されてきた、三船の論難は資料に不明な部分が確認できるため再考の余地がある。②天台側が『釈 当性を二、三の問題を設定して論じ、以下の三つの結論を導き出した。①『釈論』を最初に偽撰と判定したのは賢と 『釈論』のわが国への請来時におこった真偽論争を考察した。淡海三船と最澄の論難を中心に、当時の論争内容の妥
一、問題の所在
本研究は、『釈摩訶衍論』(以下『釈論』)が日本に請来直後から起きた真偽論争について論じるものである。後述するようにこの問題については先行研究によって既に概説されている。しかし、従前の研究では典拠を示すのみで、詳細までにはいたっていないと思われる。本研究では、これまで見落とがしがちであった三つの点から再検証を試みる。①『釈論』が何時頃請来され、誰によって偽撰と判定されたのか、②そして真偽論争がどのくらいの規模(範囲)で行われていたのか、③その上で、古来議論されてきた真偽問題の説が、現代の先行研究において有効な資料となりうるのかという点も闡明にしたい。なお、本研究において主に取り扱う資料として、『釈論』請来時の動向や成立について偽撰と真
『釈摩訶衍論』請来時における二、 三の問題
関 悠
倫
智山学報第六十八輯
撰の両説を集成し分析を試みている、杲宝(一三〇六〜一三六二)記・賢宝(一三三八〜一三九八)補の『宝册鈔』を用いることにする。
二、戒明請来と三船と最澄の論難
『釈論』に対し偽撰説を主張したことでよく知られている、淡海三船(七七二〜七八五)と最澄(七六七〜八二二)12
の論難の内容を概観したい。結論を先取りすれば、三船の論難については、不審な点があるため取り扱いには慎重を期すべきと考えている。
三船は四点、最澄は七点の論難をあげており、すなわち ○淡海三船の説3
⑴
しているが、「迴天鳳威」という称号によって表現されたのはこれまで未見である。 序文にある「迴天鳳威姚興皇帝製」とあるが、「姚興」は後秦の皇帝であり、大秦皇帝と称し、没後文桓皇帝と称
⑵
「姚興皇帝」の姓名表記も「姚」が性で「興」が名であるから皇帝の姓名を取って表記するのも通常の作例から異なる。
⑶
『起信論』は承聖三年(五五四)に真諦三蔵により訳出されたと知られている。だが『釈論』の序を見れば真諦訳
出より一五三年前に翻訳されたことになり、撰述年代の不合一性が生じて不自然である。
⑷
『起信論』は文体がしっかりして理路整然としているが、
『釈論』は似ても似つかないものであり、到底龍樹作とはみられない。
○最澄の説4
①
『釈論』の翻訳に携わった「筏提摩多三蔵」なる人物についての記録が明らかではない。
②
隋唐代の目録において『釈論』の記録が見当たらない。
『釈摩訶衍論』請来時における二、三の問題(関)
③
『釈論』の第八
・九巻において梵字に似ても似つかわない字が採用されている。
④
『起信論』と『釈論』の所説の教理内容が不一致である。
⑤
『起信論』は梁時代に真諦三蔵により翻訳されているのに、
『釈論』は秦時代に筏提摩多三蔵により翻訳されているのは『起信論』より早く翻訳されたことになり時代の差異がある。
⑥
秦時代以降の目録において諸師が『釈論』を引用していない。
⑦
戒明の請来により当初、
龍樹造とされていたが、「尾張大僧都」によって違う説が打ち立てられ偽論の疑いがある。
とあり、双方で重複した難問は、『釈論』が真諦訳の『起信論』より早くに製作された点と、『大乗起信論』(以下『起信論』)と『釈論』の教理が一致しないとする点を矛盾とするのみである。これ以外をみると、三船の作とされる論難は、その大半が『釈論』の序の内容に対するもので、本論に対するのは、わずかに論調が『起信論』のものと違和感があるとする程度のものであり、具体的な課題を提示するまでには至っていない。
一方、最澄の説は『釈論』内部の構造(特殊文字・教理内容)に言及しており、明らかに三船よりも、『釈論』成立(『起信論』も同様)に深い造詣と知見を持っていることを窺わせる。「釈摩訶衍論」という論書を日本に最初に請来した人物は戒明(?〜八五〇)である5。戒明が『釈論』を請来したとする記事は、同論の論難を示す書物にすべて共通して示される。したがって請来した人物について筆者は戒明説を支持したい。
戒明が請来した『釈論』によって影響を受けた人物、すなわち空海を検討した研究がある。小野玄妙による、空海が『釈論』との邂逅により入唐留学を発意したとする見解6、次に寺崎修一や堀池春峰による、『釈論』が真言密教において中心的な役割を果たしていることから、請来した戒明を空海の師匠であると示唆した見解である7。他にも、三氏の見解を精査し新たな知見から空海と戒明の関係を指摘した、高木訷元の見解がある8。いずれも戒明の存在が空海に大きく影響を及ぼしたとする視点から検討しており、『釈論』と空海と真言密教の接点を模索する上で有効なものといえ
智山学報第六十八輯
よう。
しかし、戒明が請来した『釈論』に関する記事は検討しているが、三船と最澄の偽撰説主張を精査していない。特に三船の偽撰説に関して無批判で受け入れている。ここではまず、戒明が『釈論』を請来した年代と偽撰と判定する人物について、諸説がある点を鮮明にしておきたい。
三、三船論難の妥当性 ―「尾張大僧都」説―
戒明の請来年代について先学の指摘を確認すると、『唯識同学鈔』の宝亀十年(七七九)説、『守護国界章』の宝亀一二年(七八一)説、『本朝高僧伝』の弘仁年間(八一〇〜八二三)説がある。現在の学界の動向では、『唯識同学鈔』の説、すなわち宝亀十年説が主流である9。これは最初に論難を出した、淡海三船の手紙の年月日より判断されている を参照)を見ると以下のようにある。 10。先に三船が『釈論』を借覧する経緯を見ていくことにしたい。それが示されている『唯識同学鈔』(仏教全書本 一昨日至。垂二示従レ唐将来釈摩訶衍論一。聞レ名之初喜レ披二龍樹妙訳一。開レ巻之後。恨レ穢二馬鳴真宗一。今検二此論一。実非二龍樹之旨一。是愚人仮二菩薩之名一。而所レ作耳。
11
その内容は、三船が、戒明により請来された典籍のなかに、かの有名な龍樹が注釈したとされる『釈摩訶衍論』の存在を知り、喜び勇んで閲覧をしたのだが実際には馬鳴の説いた内容を穢すものだと知り恨んだ。そしてこの論は愚かな人物が龍樹の名に仮託して造論したに違いないと判断し、その趣旨を直ぐに戒明宛に文として送ったとするものである。他の『宝册鈔』所収の『唯識同学鈔』から論難提出の期日を確認していこう
12。
『釈摩訶衍論』請来時における二、三の問題(関)
釈摩訶衍論真偽事三船真人送戒明和尚状云。釈摩訶衍論十卷馬鳴菩薩本論龍樹菩薩釋論一昨使至。垂二示従レ唐新来釈摩訶衍論一。(中略)是大虚妄也。又検本論、文雅義圓。今此偽釈、文鄙義昏。同巻異筆必非二同訳一理則明矣。今大徳当代智者。何労遠路持二此偽文一来。(中略)真人三船白。宝亀十年閏五月二十四日状戒明闍梨座下。
13
三船が宝亀十年(七七九)五月二十四日に戒明宛に文を送ったと明記されている(仏教全書本と一致)。それが歴史上最初の真偽論題を扱った根拠とされている。この説が後に定説となり、空海が依用するまで、偽書として『釈論』を取り扱われることになったとされている。続いて、戒明の入唐に際しての記事を確認すると、『本朝高僧伝』
下のように説いている。 14には以 釈戒明(中略)宝亀季。奉レ敇入唐。謁二自宗匠一。遍二遊勝地一。住二金陵龍華寺一。謁二伝大士像一。又登二城南半亭山一。(中略)安二大安寺南唐院一。招レ衆供養。又以二持来経論疏章一表二上闕庭一。十年己羊。(中略)明以二延暦年中逝一矣。
15
戒明は勅によって「宝亀季」=宝亀元年(七七〇)に入唐し、「十年己未」=同十年(七七九)に帰朝していて、大安寺南唐院に住して、延暦年中に入寂したと記録されている。加えて戒明の業績として有名な『首楞厳経』の請来については、『本朝高僧伝』に記されてはいるが、『釈摩訶衍論』の名は確認できないことも指摘しておきたい。戒明は、帝に献上された『大仏頂経(『首楞厳経』)』という経典を諸僧が偽経と判定し焚焼しようとしたが
同調せず、逆に周囲の見解を覆した 16、彼は異論を唱えて ていたことが窺える。 17。この逸話から戒明という人物が、当時の仏教界において、かなりの存在感をもっ
智山学報第六十八輯 もう一点、戒明が入唐から帰朝にいたるまでの記録をした、唐の思託の『延暦僧録』という書物を確認したい。これは日本最初の僧伝であり、思託という人物は鑑真の中心的な弟子の一人として知られる。その『延暦僧録』
明が『大仏頂経』の真偽問題について激烈な問答をして自らの主張を勝ち得たとする記事を確認できる 18でも、戒 すると、二、三の疑問がおこる。 19。以上を整理 それは①戒明が『釈論』を帰朝後、直ぐさま天皇に上表し垂示したとする七九九年に、間髪入れず三船が『釈論』を借覧している点、そして、②二日余りの内に『釈論』の内容を、三船が精査して戒明宛に文を送り論難を唱える点、さらに、③日本最初の僧伝である戒明の事績を伝える『延暦僧録』(『本朝高僧伝』も同様)は「釈摩訶衍論」の名が無く、これからは『釈論』が請来され上表された時期を確認できない点、である。
三船が皇族であり
20、なお且つ文章博士の地位
を偽撰とする記事は、管見の及ぶ限り確認できなかった。 に三船の事績を記録した信頼性のある『続日本紀』には、宝亀十年五月二四日の日付で戒明に送ったとされる、『釈論』 21にいたことを考慮としても、手続きが早すぎるように思える。さら この疑問に対して、諸氏の見解を見ると、森田龍僊
22と中村本然
淳 23は宝亀十年(七七九)説を支持しており、大山公
24と那須政隆
宝亀年間に置き換えると宝亀一二年となる。まず天応元年(七八一)説から検証してみることにしたい。 25は天応元年(七八一)説を支持している。この天応という年号はわずか一年のみの改元であるから、
最澄の『守護国界章』には「天応年中に大安寺の戒明法師が唐より将来し、これを尾張の大僧都なるものが世間に伝えるために検閲した結果、偽撰であると判定した」
明和尚が帰朝の際に将来した」 26という説を確認でき、『唯識同学鈔』には「天応年中薬師寺の戒
〜一一一五)の『釈摩訶衍論決疑破難会釈抄』にも「天応年中に戒明が将来して、尾張大僧都が偽撰と判定した」 27とする記事(薬師寺という表記については後述する)が確認できる。済暹(一〇二五
説いている する記事が確認できる。さらに後代の、天台の貞舜(一三三四〜一四二二)が『天台名目類聚鈔』のなかで同様な説を 28と
29。
『釈摩訶衍論』請来時における二、三の問題(関)
次に「尾張大僧都」について検討したい。最初に、元慶四年(八八〇)に清和天皇(八五〇〜八八〇)の勅命により撰述された、五大院安然(八四一〜九一五)の『悉曇蔵』にその名が確認できる
30。 至二大唐開元目録一不レ載疏師不レ引、是以不レ足二帰信一。此論者大安寺誡明法師去天応年中、自レ唐請来。尾張大僧都、為二伝検勘一。日已勘成二偽論一
一二一二一施行。次我和上據大安寺新羅国僧珍聡口説是新羅国中朝山僧月忠偽作於延暦寺目録注云月忠 二一二文次依空海僧都上表。(中略)釈摩訶衍、菩提心論、阿毘達摩蔵、可以流通官符
31。 『悉曇蔵』では、
天応年中に戒明が『釈論』を請来し、それを検閲したのが尾張大僧都であり、偽撰と判定したとする。その後、空海が依用したとあり、さらにその続きには、円仁(我和上)の説として、大安寺新羅国僧珍聡なる人物の口説によって、同国の中朝山月忠なる人物の妄造であるとする(この月忠がどのような人物なのはかは不分明である。そのため安易に信頼することは避けるべきであろう。この考察は紙幅の都合機を譲る)。
ここでも「尾張大僧都」なる人物が『釈論』を偽撰と判定しているが、どのような人物なのかまでははっきりしない。これについて『宝册鈔』には示唆的な内容を確認できる
ており、この賢璟なる人物が、「尾張大僧都」ではないかとしている 身であり、宝亀五年二月二四日に律師に任じられているとする。そして延暦三年には大僧都となり、同一二年に入寂し 32。すなわち、「僧綱補任」によると法相宗の賢璟が尾張の出
を最初に偽撰とした人物ということになる。 33。この記事からは、賢璟が戒明の請来した『釈論』
ではなぜ『本朝高僧伝』と『唯識同学鈔』の三船の消息は、七九九年と記したのか、これについて大山の見解を紹介したい。大山は、天応を宝亀年間に換算すれば「宝亀一二年」と見なければいけないところを勘違して、当該年代の終りを意識しすぎたあまり宝亀十年と記したのではないかと推考している
34。 しかし、戒明の事績を述べる『本朝高僧伝』に、『釈論』に対する記述は一言も言及されていない問題は残る。また、
智山学報第六十八輯 文章博士である三船が年代表記を誤るかという疑問に対しては、これに関連した指摘が森田より出されている。森田は、『誰識同学鈔』所引用の三船の消息に記される『釈論』の翻訳に対する年代換算について精査した結果、「又自二弘始三年一、至二承聖三年一、相去一百五十五年」
には相去ること一五二年ということになり、一五五年と表記する三船の「失検」であると指摘している 35とは、弘始三年は西紀四〇一年、承聖三年は西紀五五四年であるから実際
に対する認識はそれほど厳密さをもっていなかった可能性があり不確定な要素があることが確認できる。 36。三船の年代 一方、三船がこれに対する戒明による反論の応酬があっても不思議はないが、戒明から三船に対する反論の書簡や消息は管見の及ぶ限り確認できない(『本朝高僧伝』にも無い)。それがなされるのはだいぶ時代が下った真言の学匠が反駁するのみである。そして、最澄の『守護国界章』において、三船の名が確認できない点も問題である。三船の消息の原本は残されておらず、その初見は貞和二年(一三四五)六月より翌年五月頃の成立とされる、『アキャシャ鈔』巻第一八の「釈摩訶衍論真偽事」所引「三船真人送戒明和尚状」とされる。後に同書は杲宝が口述し、観宝が筆述し、それをさらに賢宝が貞和六年(一三五〇)に改訂・補修した『宝册鈔』に収載されている。
他方で、『唯識同学鈔』に見える消息は、笠置上人貞慶(一一五五〜一二一三)の門下である良算が大成させたものである。したがって、一一〜一三世紀の著作の中のみに三船の『釈論』に対する見解(論難)が確認できることになる。以上のことから、戒明が宝亀元年(七七〇)より天応元年(七八一)まで入唐し、帰朝後、尾張大僧都賢璟によって偽撰の判定がなされたと考える。すなわち筆者は、大山・那須説である天応元年(七八一)説に戒明が『釈論』を請来したとする見解を支持することにしたい。しかし問題はこれだけではない。淡海三船に『起信論』の注釈書が存在することが後藤昭雄により、『龍論抄』という新出の資料の発見により指摘されており
を書いていても不自然ではないと見える。 37、その観点からすると戒明宛の書状 これについて筆者の推考述べると、発見された金剛寺所蔵の『龍論抄』を披見する環境にないので詳しく言及できないが、恐らく『龍論抄』という文献は『釈論』の本朝請来以後、同論がどのように取り扱われてきたのかその動向を網
『釈摩訶衍論』請来時における二、三の問題(関)
羅しているように推測される。その上で、三船の『起信論』注釈書について言えば、当文献は新訳(=実叉難陀訳)の『起信論』序に対するもので、旧訳については触れていない点を慎重に取り扱うべきと考える。さらに、『龍論抄』の成立や作者は不明であり、三船の事績を記録した『延暦僧録』に記載される「淡海居士伝」と、平安末期の南都を代表する学僧蔵俊(一一〇四―一一八〇)の著作である『大意抄』が引用されているとする情報のみのようである。三船の時代よりだいぶ時期が下る著作になるから、三船の『起信論』注釈書が存在したこと以外、前述したように三船の戒明宛の書状そのものの存在を補強するものとは言い難く、関連性があると指摘するにとどまるだろう。
まずは後藤説を踏まえて、『龍論抄』を精査する必要があろう。今後の課題としたい。また、この後藤説に基づき考察した論考に柏木弘雄
38や山本幸男
討を加え、新たな知見を呈示したい。 39の指摘がある。次項では、三船が戒明宛に送ったとされる書状についてさらに検
四、大安寺と薬師寺の二人の戒明
最初に、三船の消息には大安寺僧戒明に対して何ゆえ「戒明(阿)闍梨座下」と表記したのかという点から検討を試みたい。宝亀年間の当時において書簡に「(阿)闍梨座下」と表記する用例が存在するのか、また大安寺戒明を阿闍梨と記録する文献がいつ頃から登場するのか、三船が当の消息以外に「(阿)闍梨座下」と記すものが存在するのか、調べる必要がある。
ここでは、先行研究の説を参照しながら進めていくことにしたい。戒明の文体を比較分析している蔵中進は以下のように論じている。蔵中は、三船の消息が空海(七七四〜八三五)の『風信帖』と形式上相似しており、また先行研究の古文書研究の成果を参照しながら、三船の消息は奈良末期と見て間違いないと推測している
形式等は、かえって奈良朝末期のものではあり得ないのではないか、との感さえ抱きたくなる」と不審な点があるも認 目を向けると、「あまりも理路整然とした内容と簡潔な文体、そしていかにも一通の書状としての首尾一貫した体裁と 40。しかし、後半の解説に
智山学報第六十八輯
めてはいるものの、最終的には「私はやはりこれは正真正銘淡海三船の手になる書状と考えるべきであると思う」
結論づけている。 41と 筆者は蔵中の緻密で実証的な研究に敬意を払いつつも、空海の『風信帖』との相似点、特に末尾と深い関連があると指摘しているにも関わらず深く検討を要していない点を問題と考え、改めて検討し直したい。まず、空海の『風信帖』の内容を確認することにしたい(関連箇所に傍線を付す)。
風信雲書。自天翔臨。披之閲之、如掲雲霧。兼恵止觀妙門、頂戴供養、不知攸厝。已冷。伏惟法體何如。空海推常、擬隨命、躋攀彼嶺。限以少願、不能東西。今思与我金蘭及室山、集會一處、量商仏法大事因縁、共建法幢、報仏恩徳。望不憚煩勞、蹔降赴此院。此所々望々。忩々不具、釋空海状上。
九月十一日東嶺金蘭法前 謹空
42
これは空海が弘仁三年(八一二)九月一一日に最澄宛に送った書簡であり、空海が最澄に対して、『摩訶止観』閲覧のお礼をしながら、比叡山には行けない旨を告げたあと、最澄と堅慧と私(空海)の三人で仏教の根本問題を語り合い仏教活動を盛んにして仏恩に報いたく、どうか労をいとわず、この院(乙訓寺のことか)まで降りて来てほしいと、お願いをしたものである。
では蔵中が「空海の「風信帖」の末尾は本状末尾の形式と相似している」と指摘している箇所を、再度、当該文献の後半部分と比較してみたい。それは「釈空海状上。九月十一日 東嶺金蘭法前」という箇所と、三船消息の「真人三船白。宝亀十年閏五月二十四日状戒明闍梨座下」である。確かに形式が類似しているものの、宛先の人物に対する敬称に
『釈摩訶衍論』請来時における二、三の問題(関)
ついて言えば合致するとは言えないと思う。
むしろ空海の『風信帖』ではなく、三船消息と合致すると見做し得るのは、氏も関連性を推考していた、最澄の『久隔帖』ではないかと考える。結論を先取りすれば、明らかに敬称やその他の点で極めて類似している点を確認できる。『久隔帖』には以下のように説いている(関連箇所に傍線を付す)。
久隔清音、馳恋無極。傅承安和、且慰下情。大阿闍梨所示五八詩序中、有一百廿禮仏并方圓圖并註義等名。今奉和詩、未知其礼仏圖者。伏乞令聞阿闍梨。其所撰圖義並其大意等告施。其和詩者怱難作、著筆之文難改後代。惟示其委曲、必造和詩、奉上座下。謹附貞聡仏子。奉状。和南。
弘仁四年十一月廿五日小法弟最澄状上高雄範闍梨法前
43
これは最澄が、弘仁四年(八一三)一一月二五日付で書いた書簡であり、「久隔清音」の句で始まることからこの名がある。宛名には「高雄範闍梨」とあり、これは高雄山寺(空海のもとに)に派遣した最澄の弟子である泰範(七七八〜?)を指している。しかし、「大阿闍梨所示五八詩序中」という一文から、空海が四十歳を迎えて「五八詩(五八は四十を意味する)」、すなわち「中寿感興詩」を最澄に贈っていることから、「大阿闍梨」とは空海を指しており、泰範宛だが空海の目に触れることを予想して書かれたのは明らかである(むしろ空海宛に書いたとも考えられる)
44。 その内容を簡単に説明すると、大阿闍梨(空海)の示された五八の詩の序に、『一百二十礼仏』、『方円図』、『註義』等という書名が示されている。私(最澄)もその詩の韻に和して返礼の詩を作って差し上げたいのだが、いまだに『礼仏図』なるものを知らない。どうかこの旨を阿闍梨(空海)に伝えてもらい、『方円図』・『註義』とその大意とをお知らせいただきたい、必ず詩を造り阿闍梨(空海)に奉りたい、という内容である。
智山学報第六十八輯 最澄の書簡と三船の消息を比較することにしたい。まず「高雄範闍梨法前」と「戒明闍梨座下」の表記が酷似しているのに気づく。加えて最澄の消息では「大阿闍梨」や「阿闍梨」の語が確認でき、その上で末尾には「小法弟最澄状上 高雄範闍梨」とある。つまり最澄は泰範を天台宗の立場ではなく密教(真言宗=東密)の相承者の立場として敬意をはらっていることになる。そのため泰範が兄弟子であると認めた上で「(阿)闍梨」という敬称を使用していることになるだろう。その上で、空海の『風信帖』を見ると、最澄に対し空海は「阿闍梨」または「闍梨」という敬称を用いていないことに注意を要する(この時期はまだ最澄に潅頂を授けていない
45)。
補足のため空海が阿闍梨と敬称とする人物や傾向を、彼が密教の付法を記した『秘密曼荼羅教付法伝』から調べると、「第一因起応通分とは亦た分けて三となす。一には叙意。二には付法阿闍梨の名号を列ねて及び以て徳を表す」
梨耶」といった表記の敬称を用いている 七人いると明かしていき、真言密教における伝統的な相承者の名号について「付法阿闍梨」や「伝法阿闍梨」や「阿闍 べている箇所の続きに、空海の阿闍梨に対する認識、および阿闍梨を用いた人物が確認できる。空海は密教付法の者に 46と述 のことは、空海以前の「阿闍梨」の敬称使用についても大いに参考になると考えられる は明らかである。空海が最澄に対して「阿闍梨」を用いていないのは、密教の受法ではない者だからと判断できる。こ 47。つまり空海は阿闍梨と表記する場合、密教相承者に対して使用しているの
48。 その点を念頭に『久隔帖』を見ると「奉上座下」とある。これも戒明宛の書状にある「(阿)闍梨座下」の表記や用例と接点があると指摘するには十分であろう。さらに、三船の著作のなかで、「闍梨座下」といった表記が使用されたかを調べると、三船の書状(戒明宛の書状)以外に「闍梨座下」と敬称が表記された説は、管見のおよぶ限り確認できなかった
49。 例外として、『唐大和上東征伝』付載の序には「法進闍梨」という表記が確認できる(関連箇所に傍線を付す)。
爰有鑑真和上。張網而會臨。法進闍梨照知炬而戻止、像化多士於斯為盛、玄風不墜寔頼玆焉、弟子浪跡囂塵、馳心
『釈摩訶衍論』請来時における二、三の問題(関)
真際、奉三帰之有地、欣一覚之非遥
50。 一見すると説示に登場する「法進闍梨」は「戒明闍梨」と表記上類似していると見做せる
鑑真と一緒に来朝した法進を戒律伝授(受戒)作法上の師として理解している ここで示される「闍梨」の表記法や意味は受戒作法における指導者という意味で使用されていると考えられる。蔵中も 51。しかし、素直に読むと 法進について、彼の職位を記録した詩には「伝灯賢大法師大僧都沙門釈法進」とある 52。筆者もそのように理解したい。この 潅頂を受法した人物のみ適応されることを見逃してはいけない。 かる。最澄の『久隔帖』の宛名に示される「高雄範闍梨法前」の用例と基本的に一致しており、その様な場合、密教の 船の書状にある「戒明闍梨座下」という表記を、今一度考えると、戒明その人への尊称として使用されていることが分 はないのは明らかであり、『唐大和上東征伝』の「闍梨」と戒明宛の書状の「闍梨座下」とは同例とは見做せない。三 53。すなわち阿闍梨という表記で
したがって戒明を受法者と見做したことになるが、そのような記録は管見の及ぶ限り確認できなかった。実はこの「戒明」という人物については、歴史上、大安寺と薬師寺に同名異人がいたことが分かっている
関連箇所に傍線を付す)。 は先に述べたごとくであり、薬師寺の戒明については、『薬師寺唐院記』に以下のように記されている(傍注は〈〉、 54。大安寺の戒明について
薬師寺大唐院。是遣唐法相請益使大和上戒明闍梨創作也。額云太唐院。和上即阿波国之土産。阿智之胤流。承仕請能大徳伝灯写瓶。依学忠継律立師〈立師恐師立〉身掲名。当於仁明天皇仁明天皇代。簡遣唐之使鐘闍梨運。廼従黄紙之詔
55。 薬師寺戒明は当寺の大唐院を創建した阿闍梨として記されており、彼は仁明天皇(八一〇〜八五〇)と第五四代天皇
智山学報第六十八輯円仁が筆録した『入唐求法巡礼行記』には「法相請益法師。〈戒明〉不得入京。更令弟僧義澄。著冠成判官傔従。」 この記事からも宝亀元年(七七〇)から天応元年(七八一)に入唐した大安寺戒明と別人なのは明らかである。さらに、 (在位八三三〜八五〇)の御宇、法相宗の請益僧として入唐をはたし、潅頂を受法したと見做し得る記述を確認できる。
記されている(傍注は〈〉、関連箇所に傍線を付す)。 56と この記事よれば、法相の請益僧として戒明が入唐しているとある。前述した『薬師寺唐院記』の記事とも一致している。これまでの情報を集約させると、薬師寺戒明とは、円仁(七九四〜八六四)(入唐・承和五(八三八)〜一四(八四七))とともに法相宗の請益法師として入唐して、帰朝後「戒明(阿)闍梨」として薬師寺の大唐院を創建していることになる。前述した『誰識同学鈔』の「天応年中薬師寺の戒明和尚が帰朝の際に将来した」
りちがえた典型的な古い例ということになるだろう。 57は、大安寺と薬師寺の戒明をと 次に、大安寺と薬師寺の戒明が混同されたのかを考えたい。それに関説する記事が『大安寺唐院記』(平安時末期の撰述)
58のなかに確認できる(関連箇所に傍線を付す)。
一同寺大唐院。是唐法相請益。使大和尚上戒明闍梨所創作也。額云大唐院。三間四面檜皮葺堂一宇
59。 このように薬師寺戒明の記録した記事が大安寺の戒明の記録として入り込んでいることから、後代では混同されたのはほぼ間違いないであろう。『大安寺唐院記』が平安時代末期の作であることから、その原本にあたる『薬師寺唐院記』の成立は前者よりも先行することは確実である。
以上のことから、現段階で知り得た点を以下の五点にまとめて指摘したい。①戒明の事績を記録する『本朝高僧伝』や『延暦僧録』には『釈論』請来に関する記事が確認できない。②最澄の『守護国界章』の論難、済暹の『釈摩訶衍論決疑破難会釈抄』の説、安然の『悉曇蔵』の説等、には戒明が天応年中に請来し、『釈論』を最初に偽撰と判定した人
『釈摩訶衍論』請来時における二、三の問題(関)
物を尾張大僧都(賢璟)と述べている。③大安寺の戒明の経歴からも阿闍梨であるとする記録は確認できない。戒明宛の書状にある「戒明闍梨座下」という表記や用例は空海や最澄の時代の用例と共通点が多い。④三船のその他の著作を確認しても、戒明宛の書状のように「戒明闍梨」といった職位として阿闍梨を表記する用例は管見の及ぶ限り確認できない。⑤戒明(阿)闍梨に関する記事の所在を調べると、『薬師寺唐院記』や円珍の『入唐求法巡礼行記』の記事であり、それは大安寺の戒明とは別人の薬師寺の戒明が大安寺の記録として流入していることを確認できる。以上のことから、三船の消息にある「戒明闍梨座下」という表記は大安寺ではなく薬師寺の戒明を指示したものという見方もできるのではないだろうか。
まとめ
ここまでの検討で判明した点を当初掲げた問題に対応させていく。
①
『釈論』
を最初に偽撰と判定した人物について賢璟とする説があり、三船の説を紹介していない文献を確認した(最澄や安然等の説)。三船の消息について、戒明を阿闍梨とする点を検討した結果、歴史上では、戒明が二人(大安寺と薬師寺)存在しており、後代の大安寺の記録に薬師寺の戒明の経歴が流入していることを確認した。さらに、三船の消息にある文体を、空海の阿闍梨に対する認識や使用例、そして最澄の書状との類似点から比較検討した。以上のことから三船の消息は、戒明に対する記述に不可解な点があり、さらに検討を要する資料ではないかと考えられる。
②
『釈論』の真偽論争の規模は、真言内部から勃発したものではく
時の主要な仏教者を巻き込んだ広範囲な論争であった 60、戒明が『釈論』を請来した直後より起り、当
61。
③
現段階では、
三船の論難の実在性の有無について決定的な言及はできないまでも、不審な点がのこされていること、「大安寺新羅国僧珍聡口説月忠説」の情報源について不審な点があること、加えて先行研究のなかには月忠(知・智)
智山学報第六十八輯
説を支持して、そこから新羅との接点を推考していたこと等については、未消化の問題があるため、取り扱いには慎重を期すべきと指摘したい。今後『釈論』に関連する請来時の状況や真偽論争について議論し直す契機になればと考えている。
1
『宝册鈔』大正蔵七七
八二〇下―八二二上2
『宝册鈔』大正蔵七七
八二一中3
『宝册鈔』大正蔵七七
八二〇下―八二二上4
『宝册鈔』大正蔵七七
八二一中5
三船とされる消息に戒明請来の記事が確認できる。そして最澄の
『守護国界章』(大正蔵七四 一六二中)にも確認できる。6 小野玄妙「仏教の美術と歴史〈下〉
」(『小野玄妙著作集』一〇 開明書院 一九七七 八九七―九〇七)7 寺崎修一
「弘法大師の師主に関する一考察」(宮本正尊編『常盤博士還暦記念仏教論叢』弘文堂書房 一九三三)、堀池春峰「弘法大師と南都仏教」(中野義照編『弘法大師研究』吉川弘文館 一九七八 一〇一―一五九)参照されたい。8 高木訷元「弘法大師空海の入唐求法への軌跡」
(『高野山大学密教文化研究所紀要』一三 二〇〇〇)9 中村正文
(本然)「釈摩訶衍論の成立に関する諸資料」(平川彰編『仏教研究の諸問題』山喜房 一九八七 一一一―一一二)
10
蔵中進『唐大和上東征伝の研究』
(桜風社 一九七六 八四)
11
仏教全書の内容は見えない。また、『宝册鈔』大正蔵七七八二〇下―八二二上には若干異なるが同じ内容が確認できる。 『唯識同学鈔』仏教全書七六三五七下また大正蔵六六一七五下にも同題の著作が収載されているが、今趣意とした
12
とされる。同書を杲宝が口述し観宝が筆述し、それをさらに賢宝が貞和六年(一三五〇)に改訂・補修したものが『宝册鈔』 とされる『アキャシャ鈔』巻第一八(真言全二一一四三)の「釈摩訶衍論真偽事」所引「三船真人送戒明和尚状」である 三船の「送戒明和尚状」の自筆原本は残されていないものの、その初見が貞和二年(一三四五)六月より翌年五月頃の成立
『釈摩訶衍論』請来時における二、三の問題(関)
に収載されている(『密教大辞典』 一二中―下 参照のこと)。以上の二種の他に、『唯識同学鈔』(仏教全書六七 三五四―三五八)の「真如熏習」に「古人淡海居士送于戒明闍梨消息」として引用されている。以上三種の書状にある内容の同異については既に、松本信道による指摘がある。松本は書状の名称の表記に注目し、編纂の過程で付与されたものであると分析し指摘している(「淡海三船「送戒明和尚状」の再検討」『駒沢大学仏教文学研究』一三 二〇一〇 参照されたい)。
13
『宝册鈔』大正蔵七七
八二〇下―八二二上
14
『本朝高僧伝』の成立は元禄
参照しながら進めていく。 ことが先行研究によって指摘されている。本研究ではその点も鑑みて、当文献以外に成立年代の古い思託撰『延暦僧録』も 一五年(一七〇二)とされている。つまり後代の作であるから史実として認めがたい点が多い
15
『本朝高僧伝』仏教全書一〇二
九九下
16
三七一九八七)を参照されたい。 すでに先行研究によって延暦七年が妥当であるとしてされている。松本信道「『延暦僧録』戒明伝の史料的特質」(『駒沢史学』 三』に傍証として収載されたもので、『延暦僧録』自体が完本として現存していない。『延暦僧録』の成立年代については、 この記事については唐思託の『延暦僧録』(仏教全書一〇一七八上―七九上)にもある。厳密には、『日本高僧伝要文抄第
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『本朝高僧伝』仏教全書一〇二
九九下
18
『延暦僧録』
(『日本高僧伝要文抄第三』収載)仏教全書一〇一 七八上―七九上
19
学文学研究紀要』六八二〇一三)。 なお、戒明の入唐から帰朝に関する時期については、松本信道が興味深い指摘をしている(「徳清の入唐について」『駒沢大
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『続日本紀』
新訂増補国史大系二 二一二(天平勝宝三年正月二七日の条)尚、これについて蔵中進『唐大和上東征伝の研究』(桜楓社 一九七六 一三七)には「宝亀十年(七七九)には、淡海三船は正五位上の位にあって文章博士、前年二月からは大学頭にも任ぜられていて、当代における学界、教育界の最高指導者であり、年齢は五十八歳になっていた」と指摘されている。
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『続日本紀』新訂増補国史大系二
二一二(宝亀三年四月二〇日の条)
智山学報第六十八輯
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森田竜僊『釈摩訶衍論之研究』
(うしお書店 一九九二 七九〇―七九一 四九八)
23
中村正文
(本然)「釈摩訶衍論の成立に関する諸資料」(平川彰編『仏教研究の諸問題』山喜房 一九八七 一一一―一一二)
24
四五八) 大山公淳「釈摩訶衍論の真偽問題」(干潟博士古稀記念会編『干潟博士古稀記念論文集』干潟博士古稀記念会一九六四
25
那須政隆『釈摩訶衍論講義』
(成田山新勝寺 一九九二 五)
26
『守護国界章』大正蔵七四
一六二中
27
『唯識同学鈔』大正蔵六六
一七五中―下
28
『釈摩訶衍論決疑破難会釈抄』大正蔵六九
五七〇下
29
何以疑論輙遮華嚴經此亦一愚失耳 『天台名目類聚鈔』善本仏典四〇七二上「「此論者大安寺試明法師去天應年中自唐將來尾張大僧都為傳撿勘曰已勘成偽論汝
( 矣) 。」とある。貞舜の生没年については小野玄妙編『仏書解説大辞典』八を参照した。
30
鎌田茂雄他編『大蔵経全解説大事典』
(雄山閣出版 一九九八 八〇二)、また、末木文美士『平安初期仏教思想の研究』(春秋社 一九九五 五四)には、『悉曇蔵』の成立について当文献の序から「元慶四年(八八〇)四〇歳の時に撰述」と指摘している。
31
『悉曇蔵』大正蔵八四
三七四下
32
『宝册鈔』大正蔵七七
八二五下
33
望月信亨『大乗起信論之研究』
(金尾文淵堂 一九二二 二四〇)に詳しい。参照されたい。
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四六一) 大山公淳「釈摩訶衍論の真偽問題」(干潟博士古稀記念会編『干潟博士古稀記念論文集』干潟博士古稀記念会一九六四
35
『宝册鈔』大正蔵七七
八二〇下―八二二上
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をとったまでと考えれば、それほど目くじらを立てるほどのことはあるまい」と私見を述べ三船説の正当性を主張している 森田龍僊『釈摩訶衍論之研究』(うしお書店一九九二六四三)この森田説に対して蔵中進は「三船はおおよそその年数 霊供作法(一)霊供作法(二)霊供作法霊供之作法 『作法集』『十結』(宮野版) 霊供作法次第対照表
先護身法次霊供を備う次右手五指を立て食物を覆う
次八葉印次箸を立てる
次普供養三力次集餓鬼印次開咽喉印次光明真言
次読経
次撥遣 先護身法次加持供物次三盤 立箸次浄土変次普供養次光明真言次発願
次撥遣次退去 向供所蹲踞先護身法次加持供物次ラン字加持次取箸飯上竪横立之次大鉤召印「次小三鈷印」次普供養印明結誦次五色光印「次施甘露印」「次九條錫杖」「次華座」次撥遣 先護身法次備霊供次右手立五指覆食物次八葉印次立箸次普供養三力印明次集餓鬼印次大鉤召印次五色光印次秘印
『釈摩訶衍論』請来時における二、三の問題(関)
(『唐大和上東征伝の研究』桜風社 一九七六 一四〇)。
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後藤昭雄『平安朝漢文文献の研究』(吉川弘文館一九九三)、同書「中国へ伝えられた日本人の著作」(『日本歴史』六一〇 一九九九)、「『延暦僧録』「淡海居士伝」佚文考」(『日本歴史』五一〇 一九九〇)。同書「『延暦僧録』考」(『国語と国文学』六五―二 一九八八)
38
柏木弘雄『
『釈摩訶衍論』を読む』(真言勧学之会 一九九九 一六五)
39
山本幸男『奈良朝仏教史攷』
(法蔵館 二〇一五 三一四―三四五)
40
蔵中進『唐大和上東征伝』
(桜楓社 一九七六 一四五)
41
蔵中進『唐大和上東征伝』
(桜楓社 一九七六 一四五―一四六)
42
『日本銘筆選三六
光明皇后 空海 最澄集』(二玄社 二〇一六 一四―一九)
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『日本銘筆選三六
光明皇后 空海 最澄集』(二玄社 二〇一六 八四―八九)
44
『日本銘筆選三六
光明皇后 空海 最澄集』(二玄社 二〇一六 九二)
45
最澄は入唐したおり、
順暁から潅頂を受法している。しかし中国では密教の系譜上、恵果(七四六〜八〇五)を主系であり、その第一の後継者が空海(七七四〜八三五)であるから、順暁の密教受法は主系の流れとは見做されていない。
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『秘密曼荼羅教付法伝』弘大全一
一「第一因起感通分者亦分為三。一叙意。二列付法阿闍梨名号及以表徳。」
47
『秘密曼荼羅教付法伝』弘大全一
四
48
られたことが、『増鏡』内野の雪の巻に見えている」とある。 る僧をいう。そのうち主たる師僧を大阿闍梨といった。道家公の子法助が伝法潅頂のとき、道深法親王が大阿闍梨でいれせ 和田英松・所功校訂『新訂官職要解』(講談社学術文庫一九八六三七〇)「伝法阿闍梨とは、天台・真言の大法を伝え
49
五五二八上―五四三下、『大安寺碑文一首並序』仏教全書(鈴木学術財団本八四三九二上―三九三上、『経国集』群書 いる。それらをもとに資料の記述を調べた。本章で問題とする点については氏の指摘はない。『唐大和上東征伝』群書類従 資料については蔵中進『唐大和上東征伝』(桜楓社一九七六一四九―一五〇を参照されたい)において既に指摘されて
智山学報第六十八輯 類従八 五〇九下―五一〇上、には管見の限り関説する記事は確認できなかった。
50
『唐大和上東征伝』群書類従五
五四二上
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だと、『釈氏要覧』に見えている」と解説されている(和田英松・所功校訂『新訂官職要解』講談社学術文庫一九八六 『官職要解』を見ると、「阿闍梨アジヤリともアザリともよみ、略して闍梨ともかく。規範の義で、能く子弟を糾正する意 三七〇)。『釈氏要覧』大正蔵五四 二六〇下「闍梨 寄歸傳云。梵語阿遮梨耶。唐言軌範。今稱闍梨。蓋梵音訛略也。菩提資糧論云。阿遮梨夜。隋言正行。南山鈔云。能紏正弟子行故」とある。
52
蔵中進『唐大和上東征伝』
(桜楓社 一九七六 二二一―二二二)
53
『唐大和上東征伝』群書類従五
五四二下
54
二〇〇〇五四―一七一)しかし小林は三船の消息に登場する「戒明闍梨」については注目していない。 小林信彦「世界仏教史の立場から見た正統空海伝の成立過程」(井上克人編『「大乗起信論」の研究』関西大学出版部
55
『薬師寺唐院記』仏教全書(鈴木学術財団本)八五
一一上
56
『入唐求法巡礼行記』一
仏教全書(鈴木学術財団本)七二 九二下
57
疑爲僞論。隨南大寺新羅國僧珍聰云。是論本國大空山沙門月忠撰云云 『唯識同学鈔』大正蔵六六一七五中―下「次至釋論文者。天應年中。藥師寺戒明和上。歸朝之時。將來此論。諸宗學者。
是以往古賢士云」とある。恐らくこの説に登場する薬
師寺戒明は、大安寺の戒明と勘違いをしたものであろう。つまり薬師寺戒明は円仁(七九四〜八六四)(入唐・承和五(八三八)〜一四(八四七))とともに入唐した人物のことを指すので時代が異なり後代の人物である。
58
仏教全書の『大安寺唐院記』解説には平安時代末期とある(仏教全書(鈴木学術財団本)九九
一一二中―下)。
59
『大安寺唐院記』仏教全書(須鈴学術財団本)八四
六九〇上―中
60
て述べたようにおおむね賛同できる。しかし『釈論』の真偽問題および成立地の問題について、真言諸宗で論じられるべき 展開』山喜房二〇一六)筆者は福士が主張する三船と最澄の論難が未だに解決していないとする見解には、本論文を通じ 福士慈稔「『釈摩訶衍論』の真偽問題について」(三友健容博士古稀記念論文集刊行会編『智慧のともしびアビダルマ仏教の
『釈摩訶衍論』請来時における二、三の問題(関)
とする見解には、『釈論』が請来された直後からの真偽論争が真言、天台、法相などの諸宗間で行われている動向を見ても、真言諸宗で議論するべき問題とは思えない。本研究で取り扱った問題は今後さらに他方面より議論されるべきであろう。
61
が展開され、甚だ活気に満ちた時代であった」と論じている。筆者もその通りだと考える。 平安期初期にかけての仏教界は、天台・真言の新興宗派の確立とともに、在来の諸宗をも巻き込んで、諸宗間で激しい論争 末木文美士「道宣『郡家諍論』について」(平井俊栄監修『三論教学の研究』春秋社一九九〇)末木は「奈良期末期から