唐末宋初の華厳と密教 i 安岳石窟を手がかりとして i
鎌 田 茂 ま 住
序
安岳石刻は四川省安岳県にある︒安岳県は東は大足︑高は内江︑西は肱業︑北は遂寧に接しており︑成議(成
都 i 重慶)吉道の要衝に位置している︒北買の建徳四年(五七五)に安岳渠が置かれ︑麿の天宝(七四二
‑ pa e
t a
五
六 )
年間に安岳郡と改名されたが︑現在は安岳県となっている
c安岳石刻の歴史は古く︑玄妙観の題記によれば︑道教造像の始まちは唐の寵元六年(七一人)に始まったとい
われる︒また仏教造橡の始まりは鼠仏設の題記により︑震の関元十二年(七二四)とされており︑中暑から北宋
( 九
二 一
山
223
一 一
一
O )
にかけての四百年間にわたって彫刻されたといわれ託︒
安岳石窟の造像には多くの勝れた特賓がある︒たとえば安岳石窟には唐代の完備した摩崖の臥仏造後が存在す
ること︑静泰の﹁一切経論百浮﹂があること︑五代の石刻造像が多いこと︑北宋時代の美麗な石刻造復があるこ
と︑円覚濡にある五代時期の地蔵菩薩像は中国の薦方ではもっとも吉いものであること︑また円覚︑掃の地獄変も
中国最古のものであること︑枇皇道場の柳本尊の十煉移行図も最も吉いものであること︑玄妙観などには道教の
造像が多いこと︑寵仏道三教融合の造像が多いことなどがあげられていじ︒
国際仏教学大学院大学研究紀要第四号 平成十三年三月
唐末宋初の華巌と密教(鎌田)
安岳石刻には美しい造像が多い︒観音調の繋竹観音︑千仏秦第五六号寵の観音菩護︑円覚潟の河弥詑仏︑華厳
濡の鉾音菩薩︑浮慧山石の弓月観音などは美しい造像として有名である︒
この安岳石刻の造像に誌密教の造像が多い︒本孜では赤雲郷の華厳洞︑円覚洞や枇麗道場に焦点をあてて︑安
岳石刻における密教的な造像とその思想史的背景を明らかにしたいと思う︒
安岳石刻の歴史と現状
安岳石刻の黄金時代詰唐代中期である︒その頃︑臥仏院︑千仏案︑著山寺︑玄妙観︑雲蜂寺︑上大仏寺などの
石窟が造営された︒安岳地方が自然の石質に恵まれていただけでなく︑文化的にも弘教の崇拝者が輩出した︒麿
の関元年間(七二ニ i 七回二)︑この地方の郭史として赴任してきた章忠を始め︑楊珪︑崖克譲︑禁令賓などが
そ れ
で あ
る ︒
清の周冒頭撲の﹁安岳金石間志﹂によると︑唐の関元中に造立された碑文の次の二つの碑目が収録されている︒
( 1 )
憲棲産山寺讃銘序︹碑自考︺膏関元戊辰︑前刺史︑楊珪︑崖克譲︑及一罪公立︑失其名︑今剥落︑
( 2
)
窟西崖禅師受戒︹碑目考︺普州刺史章忠撰︑関元十年建︑
( 1
)
﹁唐譲崖山寺讃銘浮﹂は︑膏の関元戊辰(七二人)︑普州刺史であった楊珪︑出生克譲及び一房公が立てたも
のという︒棲崖山寺というのは︑不明である︒﹃安岳石旋﹂の巻末に収録されている﹁安岳石刻分布図を見ても
棲崖山寺は見当らない
c( 2 )
﹁唐西崖禅師受戒序﹂は︑関元十年(七二二)︑晋州刺史章忠が撰したものである︒﹁唐童日﹂巻七十四上︑
表第十四上の﹁宰梧世系西上に︑東巻章氏の系譜が載っているが︑その子孫は関公房と啓した︒その最後に﹁忠︑
晋州刺史﹂とあるのが章忠である
Q西山屋禅師については不明である︒あるいは棲星山寺に住したのでかく呼ばれ
る の
で あ
ろ う
か ︒
﹁安岳石刻﹂によると︑安岳石刻の最古の造像題記は唐の関元十二年(七二回)といわれ︑その他︑唐の関元︑
天宝︑成通︑天復︑五代の天或︑広致︑宋代の端扶︑紹聖︑崇{卒︑大観︑淳黒などの年号の題記があるというつむ
これによれば西歴七
0
0 年
か ら
一 一
一
O 年(北宋の大観四年)に至る四百年間に開墾されたことがわかる︒
次に安岳石刻の重要な仏洞について﹁安岳石刻﹂によりながらその概略を述べよう︒
円覚混
円覚潟は安岳県域の東二華皇の雲居山の上にある︒震宋持代の摩崖造像一 O 三盆︑大小造後一九三三体︑碑刻
題記二十五︑及び唐代の仏塔がある大きな石窟である︒
円覚混を代表するのは西方三重である︒三像の高さは七メートル前後で︑中心に阿弥陀仏︑左に観音菩薩︑右
に大勢至菩護がある︒それぞれ三造後の一つ一つが一禽に絞められであるため三つの大きな禽からなっている︒
三大禽の左右の壁には飛天が離刻されている︒
千仏葉
県域の西五華里の大雲出の上にある︒造像のある地区は七 O
五 メ
i トルの高さに達している︒南北の再岩に一
O 五禽があり︑造後数は三 O 六一体ある︒そのほか摩崖浮図七︑麿碑三︑題記二六がある︒
唐末宋初の華厳と密教(鎌田)
唐末宋初の華厳と密教(鎌毘)
区宮
最大の釈迦牟尼仏は高さ六・二メ i トルあり︑その他︑多くの菩薩︑羅漢︑金剛力士︑護法神︑飛天︑供養入
などが︑さまざまな経変を形作ってよ号︑その離揺は優美である︒
(密 )
﹁安岳県志﹂の記載によれば千仏秦摩崖造像は精の関皇十三年(五九三)に関撃されたという︒千仏秦にある
最も年代の新しい題記は︑南宋の慶一元一元年(一一九五)であるから千仏棄は約六
O
O 年の歳月の間に閉塞された
こ と
が わ
か る
︒
臥仏院
臥仏践は県域の北二十五キロの八廟郷の弘仏溝にある︒私の記震では一九八九年八月二十四 5 に行った時には
貯水湖を小舟で渡り玖仏践に行ったことを記寵している︒舟が着いて上陸し水田の畦を歩くと間もなく鼠仏院に
着いた︒長さ一華里の両傑の岩壁に二二九の大小の窟寵と︑二ハ
0
0 体の造像がある︒この中で最大なのが釈迦
牟尼浬繋復である︒この造畿は一般に弘仏と呼ばれ︑これによって臥仏誌という名称がつけられている︒
この臥仏は全長二三メ i トル︑頭長三メ:トル︑一肩幅三・一メ i トルである︒頭を東に︑脚を茜に向け︑両手
は体に沿って伸ばし︑左を下にして臥せており︑地上約一 0 メートルの岩壁土に安童されている︒釈遊仏の謹繋
における超脱した状態をよく表わしている造後である︒
臥仏の上半身の上部に釈遊説法図があり︑その冨の中には二十余人の弟子︑菩薩︑鬼王︑力士の造像が措かれ
て い
る ︒
臥仏禽と相対した窪壁にあるのが有名な鼠仏溝蔵経調である︒第四六号窟の左壁には農の静泰撰の﹁一切経論
日序﹂と﹁大唐東京大敬愛寺﹂という文字が刻されている︒なお現存する刻経題記は関元十五年(七二七)︑十
七年︑二十三年のものである︒
静泰撰の﹁一切経論序﹂大正五十五・一入 O 下ー一八一下)は静泰の﹃衆経呂録﹂の浮文である︒これは東京
の大敬愛寺の一切経目録の序文である︒この目録は鱗徳二年(六六五)に完成されたものである︒その内容は跨
の彦環等撰述の﹁衆経目録﹂を増祷したものである︒その序には次の知く記されている︒
龍朔三年(六六三)正月二十二日勅して敬愛道場に於て一切経典を写さしむ︒又麟徳元年(六六四)正月二
十六日の勅を奉じて履味沙問十人恵襲︑明玉︑持察︑道英︑曇遼等を取り︑並に楚楚にして尤も文義に関へ
るものを選び︑参覆量校すること言末三年︒(中略)旧経論七百四十一部二千七百三十一巻を写し︑又大唐
三蔵法師新訳の経論七十五部一千三百三十五巻を写し︑新旧を合して八百一十六部四千六十六巻を入蔵す︒
其れ古来よち日あちて需も本なき者︑合三吾八十二部七百二十五巻あち︒(大正五十五・一八一上)
この静泰の﹁一切経論 E 録序﹂が何故︑西川省の安岳県の臥仏院に石刻されているかは不明であるが︑石却に
ある梨経題記を読むことができればその理由が明らかにされるにちがいない︒これらの題記の刊行が望まれる所
以である︒私が訪れた時には時間がなく︑これを記録することができなかったのは残念である︒
なお︑題記の一つには﹁開元二十一年臥仏院僧玄応書﹂と書かれている︒ここに臥仏院僧玄応とあるが︑玄応
といえば二人の玄応を思い出すことができる︒第一は﹃玄応音義﹂を書いた玄応であ号︑第二は宋代の淳州報勧
院 玄
応 (
九 一
O
九七五)である 第一の﹁一切経音義の撰述者である玄芯は玄突の訳場に列じたが︑貞観の末︑ i
9動によって﹁玄応吾義﹂の撰述に従事した
Gしかし︑完成に至らずして浸したようである︒道宣の序には︑
大慈思寺玄応法師あり︑博文強記にして︑林苑の宏標を鏡み︑本文を窮討して︑古今の互体に通ず︒故に能
唐末宋初の華厳と密教(鎌田)
ヨ三
唐末宋初の華厳と密教(鎌田)
く源流を援校し︑持代を勤関し︑雅古の野素を割り︑演芸の浮謹を削り︑通俗を情して教を顕はし︑集略を
(五 )
挙 げ
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真 に
文 字
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図 ︑
一 一
百 音
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鏡 と
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な り
︒
とある︒本書は現存音義中の最古のものであり︑その解釈辻正確で学者の宗とする所なるのみならず︑また多数
の 古
俣 書
︑ ﹁
勧 学
篇 ﹂
︑ ﹁
小 学
篇 ﹂
︑ ﹃
韻 集
﹂ ︑
﹃ 切
韻 ﹂
︑ ﹃
字 書
﹂ 等
の 諸
書 を
引 用
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い る
貴 重
な も
の で
あ る
︒
ちなみに本書は﹁麿書﹄巻五十九︑志第四十九︑芸文三に﹁玄応大麿衆経音義﹂として著録されている︒
第一の玄応が屠初︑七世紀の貞観中(六二七 i 六四九)に活寵したのに対して︑第二の宋の玄恋は十世紀の人
である︒この玄応の伝は﹁景徳伝燈録﹂巻二回に収録されているが︑彼は泉州の出身であり︑津州で活躍してお
り︑四期と辻全く関係がない︒第一の玄志もまた恐らく西川と辻関係がないと誰定されるので︑﹁関元二十一年
歌仏民指玄応書﹂とある玄応は︑二人の玄応とは別人であり︑唐の関元年間(七二二
eg
g‑
2
七四こに四川︑安岳県
で活躍した信と思われる︒
耽崖濡は県域の南五十里の石羊鎮塔子山上にある︒摩崖造像四四六体︑碑刻題記三十二がある︒耽慮潟は耽慮 枇虐潟
潟︑幽屠堂︑千仏洞︑観音堂よちなる︒
明 の
万 一
浩 年
間 (
一 五
七 三
i
一 六
二
O )
の碑文によると︑枇麗謂の造像は五代の天福年間(九三六 i 九四四)に
離像され︑その後︑論難された︒耽麗潟は五代から北宋にかけての由民密教の道場であった︒後述するが耽麗濡
の歯居洞に辻西川密教の五代祖締である柄本尊の造像がある︒
耽産調は高さ六・六メートル︑幅一臣メ i トル︑深さ四・五メ i トルあるが︑その中に柳本尊の了煉修行図が
ある︒その南側には斧や剣を持った金問神がいる︒
観吾堂の中には俗称︑紫竹観音がある︒この観音は容貌が美しいので知られており︑風流観音ともいわれる︒
華巌混
華厳混は県域の東高五十六キロの赤雲公社の籍蓋山上にある︒造像一五九体︑碑刻題記二四︑華厳混や大般若
洞の大窟が集中している︒
華厳濡は高さ六・二メ i
ト ル
︑ 幅
一
0 ・一メートル︑深さ一一・三メートルの大窟である︒正面には高さ五・
二メートルの華厳三聖僚がある︒その左右両側には高さ四・一メートルの十大菩薩の坐像がある︒窟の両壁の上
方には経変が措かれており︑窟頂に辻巨大な﹁埼﹂の字が刻されている︒
若山寺 若山寺は県域の東南六 0 キロの頂新郷虎頭山上にある︒正面の崖壁の上に窟禽が難られているが︑摩崖の造像
六十三体がある︒五メートルから七メートルの造像が八体︑四メートルぐらいのものが三十余体ある︒峰環の絶
壁の造復は雄韓壮観である︒造後年代は北宋と推定されている︒
そのほか︑孔雀場には孔雀明王像があり︑浄慧岩には数珠観音録︑玄妙観には金剛力士像︑仏慧調には千手観
音像など多くの著名な造像もある︒
唐末宋拐の華厳と密教(鎌田)
ーむ
唐末宋初の華厳と密教(鎌田)
j 又、
安岳石窟の密教像
安岳石裂の中で顕著なのは華厳三聖像などの密教像が多いことである︒まず最初に華厳拐について見てみよう︒
先に述べたように華厳謂詰県域から約五 0 キロの赤雲郷にある︒下車してから石径に浴って籍蓋山に登ると︑
しばらくして華最洞がある︒その入口には﹁箱蓋山華厳洞﹂の六字が書かれている︒洞門の右舗に﹁粧功徳記﹂
が あ
る が
︑ そ
の 中
に ︑
夫古洞華議︑乃周昭遺迩︒(誼毅著﹁中国仏教与安岳石刻芸術﹂中国旅遊出張社︑
一 五
O 頁
)
と記されている︒題昭遺跡とは後濁世宗の廃仏を指すと考えられるので︑この華厳調は五代の北局代に離像され
た も
の と
思 わ
れ る
︒
華厳混に入ると︑その広大さに驚かされる︒高さ七メートル︑幅︑および奥行きとも十一メートル以上もあり︑
その中には造畿が一五九体もある︒まさにその大きさ詰大足石窟の円覚洞に匹散するものがある︒大きさばかり
でなくその風格は︑大足石窟の円覚調と︑安岳石窟の華厳稿はその双壁といえる
c華厳混には密教造沿海が多い︒もっとも宥名なのが正面に離刻された華厳三聖像である︒華厳三聖畿については
﹁印度学仏教学研究﹂四十四巻二号(手成九年三月)において発表したが︑地域的にもっとも多いのが西川省な
のである︒華厳三重像の儀礼を始めて行ったのが華厳宗第五祖宗密(七八
Oi
八四こであり︑西川を中心とし
て活動したので︑華厳三聖像が西川に多いのではなかろうか︒
華厳像の再鎖には高さ四・一メートルの十大菩薩像がある︒十大菩藍は大足石窪の如く円覚詞の中にあるのが
普通であるが︑安岳石窟で辻華厳洞の中にある︒華議三重像と円覚十大菩在地とが一つの洞窟内に一緒に難刻され
ているのが︑安岳石窟華厳演の特色である︒﹁華厳経﹂と﹃円覚経﹂との融合が造像において行われている
c華
厳宗第五担の宗密は﹃円覚経の研究に力をそそ︑ぎ︑﹃円覚経大琉﹄︑﹁円覚経大疏紗﹂︑﹁円覚経路読﹄︑﹁円覚経路
疏鈴﹂などを著わしており︑宗密においては﹁円覚経﹂がその思想形成の中心であった︒華厳洞内に﹁華敷経﹂
と﹃円覚経﹄の融合がみられることは︑宗密の影響が顕著であることを示している︒
円党十大菩奮はそれぞれ異った法器を持ち頭には花冠を戴き︑絢の前には要港を飾号︑脚は蓮台を踏んでいる︒
この十大菩薩の中では左側の第三尊像である弊音菩寵がもっとも優美といわれている︒
諸菩薩の上の岩壁には極楽世界の図案が措かれている︒長さ二 0 メートルの衆妙香国である︒宝浩は金銀など
七種の宝物から或り︑池の水は請澄で入種功徳水をたたえている︒
安岳石窟の華厳濁には円覚濡の十大菩薩が安置されているが︑華厳調とは挺に円覚調という窟もある︒
県域の東にある雲居山円覚洞は安岳県の遊覧地であったが︑黒域を出て約半時間︑岩壁の揮に挟まれた腕腕と
続く石設を登ると︑雲居山円覚洞が視野に入る︒高くして検ならず雲中に釜えるが如くであり︑そこには多くの
仏 禽
が 見
え る
︒
西別省人民政府は‑九六一年︑この円覚需を保護するために碑記を建立した︒この碑記によってこの円覚謂の
正式の名称が真相寺円覚調であることが明らかにされた︒
この円覚需には窟禽一
O 三︑造像一九三三体︑碑記題記二五ある︒真相寺は山の陽︑円覚揮は山の陰にあった︒
円覚調は僧了月が主となって造営した︒その時代は北宋といわれている︒十二円覚菩寵が造復されているので円
覚 洞
と い
わ れ
る ︒
唐末宋初の華議と密教(鎌田)
ブL
麿末宋初の華巌と密教(鎌田)
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(七 )
円覚十二菩薩の形成については︑すでに﹁印震学仏教学研究﹂四十七巻一号に発表した遥ちである︒すでにそ
の論文で述べたように円覚洞と称する潟は大足宝頂山石窟にもあり︑宝頭由円覚洞と安岳円覚調を詳細に比較検
討する必要があろう
c安岳円覚混の方が関撃年代が古いと思われる︒この二つの円覚謂でもっとも大きな桔違点
は宝頂山円覚掘に詰﹁華議経﹄入法界品の主題である﹁善芳章子五十三参ち﹂の浮彫があることである︒
円覚洞の大きさは深さ八・五メ;トル︑幅五メ i トル︑高さ四・五メ i トルである︒洞壁には二メートル余り
の三世仏像があり︑その両側には六体の弟子の像があるが︑頭部は文革時に破壊された︒
円覚の意味については︑調ロに建てられている﹁真相寺円覚洞記﹂には次の如く述べられている︒
仏寺の円覚に由りて︑昌己の円覚を知る︒(中略)父子に仁あり︑兄弟睦まじく︑朋友あい信じ︑夫婦窓あ
ち︒利は期ち義を思い︑気は期ち和を思い︑酒は期ち柔を患い︑色辻期ち節を患う︒(﹃中菌仏教与安岳石刻
二 ハ 一 頁 )
芸 術
﹄
仏教の円党が濡教思想によって紛節されていることがわかる︒円覚洞の理念試人倫を重んじ︑道認を崇拝し︑
礼儀を尚ぶところにある
Gまさしくこれは﹁円覚経﹄の中国思想化といえよう
G円覚調の調外の左側に高さ七メートルの仏塔がある︒
円覚洞の近くには高さ七メートルの浄瓶観音(楊柳観音)や︑同じく高さ七メ i トルの阿弥陀仏がある︒さら
に右禽には七メートルの大勢至菩薩がある︒
そのほか安岳石窟における密教像として見落すことができないのは︑耽麗調にある柳本尊十煉修行図や︑仏慧
滑に見られる千手観音像︑孔雀道場の孔雀明王像などである︒とくに柳本尊十煉修行図は宝頂山石窟の柳本尊道
場よちも造像年代が古いと思われるが︑安岳石窟と宝頂山石窟の椀本尊後は今後比較検討し︑その実態とその思
想的背景を究明する必要があろう︒
四
窟末・宋初に活躍した四川の密教者
唐末から宋代にかけての西川を中心とした中冨密教の人脈については況とんど不明である︒﹁宋高舘伝﹂など
の高舘伝類から密教的︑な行法や呪衡を行じた人々をあげると︑定蘭
( i
八四九
i )
︑有縁(入三五 i 九 O
七 )
︑ 元
慧(八一九 i
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六 )
︑ 永
安
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八 五
回
i )
︑道賢 (j
九三三
i )
︑守真(八九回 i
九七こなどをあげることが
で き
る ︒
まず定蘭辻﹃宋高摺伝﹂巻二十三に収録されている麿成都宥福感寺定蘭伝によってわかる︒
定薦︑姓は楊氏︑成都の入である︒始め屠殺を業としていたが︑その非を海い仏教に帰依︑三萄を教化した︒
彼は一つの伽羅を造ったが︑その名を聖寿寺と称した︒聖寿寺といえば大足宝頂山石窟の上方にある寺院と同じ
名前である︒この聖寿寺ができる前に︑父母が亡くをり︑供養の費用がなく︑命日になる度に悲突した︒そこで
青域山に入って裸となり︑蚊娯蕗蝿をして縦しいままに膚体を吸わせ︑自分の持っている体の中の財産である血
を吸わせて供養した︒
えぐ
次に血をとって写経し︑さらに管を煉き︑耳を抜き︑自を矧り︑その肉で鳥獣を飼養した︒まもなく歩けなく
な号︑人の扶けがなければ物に触れてつまずいた︒
後︑異人があり¥掌に珠穎のような宝珠を輩︑げ︑自の中に入れ︑しばちくして轄寵すればもとのままであった︒
冥々のうちにお告げがあり︑南天王が師の摂球を還したのだという︒遠近の人々は定蘭の神異に驚薮した︒
唐末宋初の華畿と密教(鎌田)
著末宋拐の華厳と密教(鎌田)
定欝は常に人に﹁吾れ聞く︑﹁善戒経﹂の中︑名づけて無上施となす︒吾︑頼わくば勤行して速かに上果を求
めん﹂と言っていた︒思球を施すのが最上の撞であるというのである︒
大中三年(八四九)︑唐の宣宗は謡して入内して供養させるため優礼をもって迩えた
G弟子の有縁が恒に左右
に執事した︒大中六年(八五二)二月︑罵縛を焚焼しようと頼ったが︑宣帝は年が老いたので焼身することなく
務めて久長修煉するように勧めた︒定蘭は宣宗の詔に従わずついに焚焼して絶命した︒弟子の有縁は上表して名
を易え塔を建てた︒帝は覚性を詮し︑塔を悟真と稔した︒回毎都では定韓関落院と呼び︑今に至るも香火が絶えない
と い
︑ っ
︒
易には定蘭のような焼身苦行者がいたのであり︑このような精神嵐土をふまえて榔本尊のような密教行者が輩
出 し
た の
で あ
る ︒
定蘭の弟子有縁については﹁宋高僧伝﹂巻十二に唐藷雲連雲院有縁伝として別に伝が立てられている︒有縁 有縁
( 八
三 五
i 九 O 七)は俗姓は溝︑東問梓這の入である︒小学の年に︑成都の語感寺に行き︑{疋蘭菩薩に仕えた︒
障の定薦に従って宣宗の下に随侍出入し︑その多くは宮中にいた︒ある朝︑宣宗に召されると︑帝は筆で有縁の
杉背に﹁この童子辻朕と縁有り﹂と書いた︒そこで有議は招請されて官一宗に仕えた︒
大中九年(八五五)︑自公敏中(﹁旧唐書﹂巻二ハ六︑附白居易伝︒﹃新唐書﹂巻一九同)益都(成都付近)を
鎮して戒壇を開くにあたって︑浮衆寺で関壇した︒浮衆寺は浮衆寺無相が住した西出雀の浮衆宗の拠点であった︒
続いて京輩(長安)において経律を聴習した︒その後︑身に布褐を設︑手に墨教を執り︑海内に遊行し︑雲水靖
宗の法調︑小馬神轄に参禅した︒その為︑叢林の禅者にして︑札謁しないものはなかったという︒
ついで滋州(安徽省)の華山に住し︑さらに高進して武夷出に至った︒乾符三年(八七六)︑結雲(翫江省処
州)の竜泉大奏山に至って践を立てた︒調部に上奏して寺額を給されて竜安寺と号し︑勅命によって七僧を度し
た︒住すること十八年連雲院に移住した︒太守慮約は︑語︑って州の関元寺の別院に入れて︑四事供施した︒天祐
了卯の歳(四年︑九 O 七)西見八 E 疾を示し︑六月期呂に至って浸した︒報齢七十三︑脱五十二︒遺旨によって
制置の揚習司空(生没年不詳)に喪務を主らしめ︑寺の南菌において茶批した︒火減して舎利数百粒を得た︒後︑
四十九粒井ぴに遺骨一協を収め︑石塔に収めた︒晋の開運二年乙巳の歳(九四五)︑文泰律師が落碑を撰した︒
有縁は前半生は定麗に師事して西川で教化にあたり︑後半生は江需において活擢した︒
元慧(八一九 i 八九六)の伝は﹁宋高抽出伝﹂巻二十三に震呉郡嘉興法空王寺釈元慧伝として収録されている︒
俗姓は陸氏︑晋の平原の内史機(陸機︑﹁亜日童日﹂巻五回)の喬孫である︒髪齢にして穎悟︑長じて湿器︑枯亀と
ならんことを畏れ︑痩雁とならんことを患い︑開成二年(八三七)︑親を辞し︑法空王寺に於て請進の下で弟子
となる︒会昌元年(八四二恒揚に往き戒法を納め︑はじめて枇尼を習った︒五台山に入り五台を礼し︑奇瑞を
観た︒二年︑嘉禾(嘉輿)の建輿寺におり︑志を立てて三白の法(牛乳︑牛酪︑白米を三白食といい︑密教修行
者が食するもの)を持し︑五部の曇肇羅を誤請し︑管上に香住を蒸いた︒五年(入四五)︑会昌の法難に遭い︑
権に在裕となって隠れた︒大中の初(八四七)︑ふたたび法門に入り︑七年(八五三)に至って廃仏で破壊され
た法空王寺を重建した︒また香を管に燃し︑報患山の仏牙を供養したちした︒
この中で三自の法を疹したこと︑五部の
E受陀羅を誠請したこと︑膏上に香を残したことが密教穆行者としての
面白躍如たるものがあり︑元慧が九世紀の密教行者であったことは明らかである︒
次で西川よち瀧江省の天台出に盆き石橋を渡った︒成通中(威通十四年三月︑長安の両告に詔して黒麹法問寺
の仏骨を迎え︑十二月仏骨を還置した︒拙著﹁中国仏教史﹂第五巻に仏の中指の骨舎利を髄送し︑鳳麹の重真寺
憲末宋初の華議と密教(鎌冨)
屠末宋初の華厳と密教(鎌田)
区ヨ
に往き︑左の揖指を燥し︑口に﹃法華経﹂を請した︒その指︑月を払燃えずしてまた生じて前のごとくであった︒
乾寧三年(八九六)九月二十八日︑尊勝院で浸した︒報齢七十八︑信脱五十八︒弟子端震等︑神座を奉じてこれ
を呉会の需に葬ち二ニ自和尚と呼んだ︒ここに三由と謂うのは白銀︑白水︑自塩の事である︒
永安の伝は﹁宋高僧伝﹂巻二十一に唐成都府︑水安伝として収録されている︒永安は眉州(四川)洪雅の入であ
る︒大中入年(八五回)三月中に成都に至り︑庭帥白公敏中に拝謁して寺額を語奏した︒当時︑寺額を下賜され
なければ︑その寺院は存立することができないので寺額の下賜を上奏しなければならなかった︒勅額寺混となる
ことが寺院の存立の必須条件であった
Gかわや
永安は足肢のために一肩輿にのって至った︒富に入った永安を聖寿寺の中に安置すること十 E
︑ 白
公 敏
中 は
僧 五
︑
六名を差し昼夜互いにこれを守って観察させた︒内外の飲食もまた誌ぼ常人に同じであったが︑衣を解いて二行
(大小便か)をする意志はなかった
c言徒自公︑裁額を上奏して到る 5
︑すなわち辞して君都に帰った︒
永安もまた足鼓なるにかかわらず︑奇行を行ったので一種の神異者であったといえよう︒
釈守真(入九四 i 九七この伝記は﹁宋高僧伝﹂巻二十五の宋東京開宝寺守真伝にある︒彼は永興万年の入︒
俗姓は紀︒郷人その孝を美となし︑遂にこれを日して紀丁蘭と E う︒後漢の了蘭は母の死後︑木を刻んで母の復
を造り︑これに事うること生ける母に事うるごとくしたという故事によってこのように呼ばれたのである︒なお
敦埠本﹁父母恩重経﹂などにも丁薦のことが記述されており︑ちなみに大足石窟の宝頂山石窟の父母恵重経変に
も記されている︒守真もまた丁蘭の後喬と見なされたのである︒
黄巣の乱が起ると︑寵宗は難を避けて萄に避難した︒守真もまた易に移った︒冠するに及んで︑たまたま聖寿
寺に遊び︑修進律師の︑すぐれた行遮と語の常度を越えるを見て︑すなわち帯を解き冠を御し︑北冨してこれに
事え︑十悪の中の身三︑口四︑すなわち殺生・鍛盗・邪淫・妄語・締語・悪口・両舌を制制することができた︒
守真の修学過程をみると︑先ず従朗蹄に謁して﹃起信論﹂を学び︑次の性光訴に依ち法界観を伝えられ︑後に
演︑秘嵩黍を札して議制教を授けられた︒すべての必要を得て︑みな指婚を尽すことができた︒諸法に明達し︑妙
典を宣暢してより四十年間︑怠たることはなかった
G朝廷より昭信という号を賜った︒当時︑師号を賜わること
は最高の名誉であった︒
﹃起信論﹂及び﹁法界観﹄を講ずること︑七十余遍︑みな澄を以て伝え︑器を用って器に投じ︑法を嗣ぐ者二
十許入とい'われた︒濯頂道場を開くこと五遍︑僧尼︑士庶三千余人を度した︒水陸道場を開くこと二十遍︑常に
五更に文殊五警の教法を行じ︑夜︑二更に至って西方無量寿の教法を鯵して阿弥陀の尊号を口称し︑念仏三昧を
修して浄域に生れることを期した︒
宋代には﹃起信論﹄と朴腰の﹁法界観﹄の研究が盛んであり︑その影響を受けて守真もまた﹃起信論﹂や﹃法
界観﹄を研究したのである︒濯頂道場を開くこと五遍︑水産道場を開くこと二十遍というから密教の犠規を行っ
たことがわかる︒本陸道場というのは水陸会のことで︑不空訳の﹃瑞伽集要救阿難陀羅尼焔口儀軌経﹄︑﹁議伽集
要焔口雄食儀﹂などにもとづいて盛んに行われた仏教儀む)である︒当時これらの密教儀礼が修され︑庶民もまた
密教犠札に接する接会があったのである︒
関宝四年(九七二秋八月九日を以て︑大衆に命じて念仏せしめ︑仏声すでに久しくして止めしめ︑奄然とし
て帰寂した︒俗寿七十八︑舘脱五十三︒その月二十一日︑北永泰門の智度院の傑に焚葬した︒その舎利光潤なる
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︑ こ
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次に道賢の伝は﹃宋高僧伝﹄巻二十五に後唐鳳類唐道賢伝と題されて収録されている︒道賢はいづこの入なる
かを知ちず﹃孔雀王経﹂(不空訳﹁仏母大孔雀明王経﹄三巻)を持議することを毎呂の習環としていた︒その後︑
唐末宋拐の華厳と密教(鎌田)
ヨ三
唐末宋初の華最と密教(鎌田)
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議調濯頂の法を受け︑持明(詑羅尼)の功はいよいよその感応が多かった︒嘗って夜に夢みるに仏が道賢を携え
て行くが︑その歩歩に濃雲を踏んで行くこと牡牛に乗っているかのようであった︒毎行幾百里行ったか不明であっ
た︒通過する地方を指して︑これは摩謁詑なり︑これ辻志波菌︑南印震︑茜印度︑選湿弥羅等の国であると言っ
た︒行きながら国の名を記し︑喜びが勝えなかった︒自がさめると五天の究音悉曇語言を理解していた︒
時に西域の僧が来た
G葱嶺の北の諒僧は往往にして偽って五印人と称していた︒道賢は語言に接すれば︑語手
︒一一一口うことを斥けて﹁汝は是れ某国の人なり﹂と言った︒北戎南交の人々に対してあえてこれをあざむくこと辻
なかった︒西域の道裕辻︑みな密蔵を裏承し︑間関黍と号していた︒
長輿四年(九三三)︑後唐の明宗が︑従厚(関帝)をたてて帝とするに及んで︑鳳期の清泰(廃帝)明宗の第
三子﹃泊五代史﹄巻西五)はその命に従わず王思詞(﹃泊五代史﹄巻六五︑﹁新五代史﹂巻四五)を遣して清泰を
伐たしめた︒清泰は域によって自ら守った︒清泰は道賢に問︑った︒﹁危きこと甚だし︑如何と﹂と︒それに対し
て道賢は﹁窒八郎を召されよ︑あらかじめ勝負を知るべし﹂と答えた︒清泰は域から出て大衆を捷した︒その貫
入部辻一中を差し武器を持って罵請に来て迫関の状をなし︑跳寵して甲胃を解き於を投げて走った︒道賢は﹁これ
外敵必らず降るの象なり﹂と︒果して彼の説︑っ通りになった︒
清泰は兵を擁して東し︑道賢を召して倶に京洛に入り︑帝位に郎いた︒改元して請泰と称した︒道賢は上奏し
ホ り
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て﹁年号告ならず︑何ぞや水清くして石見わる﹂と述べた︒その後︑二年たって勅命を下して井州に移った︒晋
たの
の高祖(石敬塘)は天平軍をつくり︑丘︿を陸んで自ら屈め︑潜かに契丹と連合して長駆して京洛に入り︑清泰は
自ら焚娃した︒それは石敬塘があらわれる瑞誌であった︒晋丘︿が未だ来ないうちに︑道賢は先に京洛に終った︒
今︑南京(開封と洛陽)に大教を伝うる者は︑皆法孫であるという︒
五 結
a::::I
五代から宋代にかけて(遼金代)︑華厳と密教の融合の書が多く著わされた
c例えば道賢の﹁顕密成仏心要集﹂
は﹃大自経﹂と﹃華厳経﹄との一致を説き︑慧克の﹃密冗円音往生集﹄では密教と念仏との融合が説かれ︑また
覚苑の﹁大日経譲密診﹄では︑華設と密教との融合が説かれている︒これらの書は多く北方において著わされた︒
これに対して薦方においても密教と華厳の融合が晃られる︒それは主として仏教文物︑すなわち造像の面にお
(九 )
いて顕著であった︒例えば安岳石窟の柳本尊十縞帰国や︑大足石窟の柳本尊接行道場に見られる柳本尊こそ西川の
議伽密教の関桓である
cまた︑大足石窟の柳本尊修行道場を造った超智鳳も西川の瑞髄密教の法灯を継承したも
のである︒安岳と大足の造復こそ︑回出における華散と密教の融合の反映であるといえる︒安岳や大足石窟に見
える華最三聖復︑円覚十二菩寵袋︑孔雀明王像︑千手観音などの変化観膏像などの諸橡をこの目で見たならば︑
何人もこの事実を否定することはできないであろう
cこのような西川密教が形成された背景には必ず四問者に伝播した密教があったにちがいない︒その事実を確認
したいために書いたのが本論稿である︒本論文でとりあげた定蘭︑元慧︑永安︑守真︑道賢などの伝記を検証し
てみると︑明らかに彼らは密教行者として活躍していたのである︒西川には確かに密教の行者が存在したという
ことである︒これらの密教行者がいたからこそ四川には密教が伝えられ︑密教が宣布され︑密教を受容した多く
の民衆がおり︑それらの民衆のエネルギ i が結集されて大足や安岳のすぐれた造像が生まれたのである︒
仏教思想史を研究するには文献のみでは不十分である︒必ず可能な隈り仏教文物に関する情報を頭において患
想史を考えなければならないことを↑痛感する次第である︒
産末宋拐の華厳と密教(鎌畠)
寸コ
唐末宋初の華厳と密教(鎌田)
I、』、
注
(こ迂毅﹁中国仏教与安岳石刻芸術﹂(一九八九年八月︑中国旅遊出張社)三頁︒
( 二
) 同
上 ︑
西
i 五
頁 ︒
(三)安岳文物保管所一編﹁安岳石窟﹂(一九八四年十月︑西川省社会科学説出版社)三 O
頁︒本書は私がご九八九年八月)
安岳県外事弁公室より贈呈されたものである︒記して惑諜の意を表したい︒
( 回
) 向
上 ︑
五 頁
︒ (五)玄志﹃一切経音義﹄序︑縮崩蔵経︒
(六)﹁華厳三重像の形成﹂(﹁印度学仏教学研究﹄四十四巻二号︑平成八年三丹)
( 七
) ﹁
円 覚
十 二
菩 藍
の 形
成
i
﹁ 円
覚 経
﹄ の
造 像
化
i ﹂
( ﹁
印 度
学 仏
教 学
研 究
﹄ 四
十 七
巻 一
号 ︑
平 成
十 年
十 二
月 )
︒ (入)拙著﹃中菌の仏教儀礼﹄(東京大学東洋文化研究所︑一九八六年三月)︒
(九)揺稿﹁宝頂山石窟における父母思重経変相留をめぐって﹂(﹁国際仏教学大学院大学紀要﹄第二号︑平成十一年三月)︒
Summary
Hua‑yan and 乱 1 i ‑ j i a oi n t h e Late Tang and Early Song Dynasties: Getting on t h e Track o f
t h e An‑yue Cave
Shigeo Kamata
The An‑yue c a v e which was excavated from t h e 6 t h y e a r o f t h e K a i ‑ yuan p e r i o d o f t h e Tang dynasty ( 7 1 8 )
Song dynasty ( 9 2 4 ‑ 1 1 1 0 ) i s w i d e l y known f o r i t s s c u l p t u r e of t h e l y i n g and throughout t h e Northern
著末宋初の華議と密教(鎌司)
Buddha , mentioned i n t h e Y i ‑ q i e ‑ j i n g ‑ l u n ‑ m u ‑ l u ‑ x u and i n o t h e r s o u r c e s .
"The h i s t o r y and t h e p r e s e n t s t a t e o f t h e An‑yue ( 2 )
I n s e c t i o n
c a v e " , 1 f i r s t r e f e r r e d t o t h e l o c a l o f f i c e r s who c o o p e r a t e d and a s s i s t e d t h e image‑making p r o j e c t s . 1 t h e n i n t r o d u c e d t h e h i s t o r y and t h e p r e s e n t s t a t e o f Yuan‑jue‑dong , Q i a n ‑ f o ‑ z h a i , Wo‑fo‑yuan , P i ‑ l u ‑ d o n g , Hua‑yan‑
dong , M i n g ‑ s h a n ‑ s i , e t c .
( 3 ) M i ‑ j i a o images i n t h e An‑yue c a v e " , 1 c o n s i d e r e d I n s e c t i o n
t h e c o n c i l i a t i o n of Hua‑yan (Avatamsaka) and M i ‑ j i a o ( T a n t r a ) paying t w e l v e t h e
and s a g e s Hua‑yan
t h r e e o f t h e
a t t e n t i o n t o t h e images Yuan‑jue B o d h i s a t t v a s .
I n s e c t i o n ( 4 ) M i ‑ j i a o monks of t h e S i ‑ c h u a n p r o v i n c e a c t i v e during t h e l a t e Tang and t h e e a r l y Song d y n a s t i e s " , 1 d e s c r i b e d M i ‑ j i a o monks o f t h e l a t e Tang dynasty and t h e e a r l y Song dynasty i n S i ‑ c h u a n . Based
Y ong‑an , Shou‑zhen ,
c l a r i f i e d p a r t i c u l a r l y t h e a s p e c t of them b e i n g a c t i v e a s M i ‑ j i a o a s c e t i c s . C o n c l u s i o n " , 1 emphasized t h a t i n r e s e a r c h on t h e and on m a t e r i a l s s u c h a s t h e Song‑g α o ‑ s e n g ‑ z h u α n , 1 r e f e r r e d t o D i n g ‑ l a n ,
Dao‑xian and t o o t h e r monks , Yuan‑hui ,
ブL