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森光昭森光昭

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(1)

一八三四年のはじめ︑ヘッセンの雌命巡勤の失敗後ダルム

シュタットの両規の許に州っていたピュヒナーの周りにもつ

いに官恵の手が伸びはじめ緊狼した雰朋剣につつまれるよう

になった︒逃亡はすでに只体的な洲画になりはじめていた︒

このような价況は︑経済的平群が人間の社会的平奪の実現で

なければならないという考えから出発する革命思想を現狸に

具体化するための試みのあらゆる可能性が失われた敗北的な

怖況であった︒﹁ダントンの死﹂はまさにこの中から生まれ

てきた︒しかも︑ここに出てくるダントンは革命の成果を固

守しようとして外国の侵略軍を敢然と阻止するために立ち上

った英雄時代のダントンではなく︑すさまじい勢いで流血と刀暴力を呼ぶ革命の懐惨な現実に完全に眼を背け積極的に何の ゲオルク・ピュヒナーの﹁ダントンの死﹂

(1)

行動も起さない受動的なダントンである︒ドラマは峨命の峅

い而を容赦なく描き出し︑全休の色洲は略維である︒作蒋が

ヘッセンの抽命逆勤の雌もラディカルな指導群であったこと

を知っている背にとって︑作品のこのよう趣賠い傾向は一つ

の大きな蹄きであろう︒そしてここから次のような粘倫に向

うのも︑きわめて自然なことと荷えるかもしれない︒紘命巡

勁の失敗は彼に革命のもつ非人間的側而︑無念味さを深く偲

識させそれまでの楽天的な進歩への偏仰を根底から打ち砕く

ことになった︒挫折感の中で坤吟しながら沸かれたこの作品

には︑失意と幻滅に満ちた彼の心中がダントンの口を借りて

なまなましく吐露されている︒ダントンは悲劇の英雄であ

り︑いわばピュヒナーその人である︒このドラマは現実の政

治的・革命的実践から身を引いた人間の︑転向を示す記念碑

的な作品である︒

一般に︑革命的精神の所有者や実践者が文学者としても常

森光昭

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に革命的であるとは限らない︒つまり︑文学創造の場におい

て︑現実の要諦に答えて革命に有効的に勘らく作品を書くと

は限らないのである︒これは又︑次のようにも言えようl

作品に革命的な要素がないからといってそのことで直ちに創

作者の政治的思想や行動を云々することはできない︒現実の

場における人間を何の限定もつけず安易に文学の場における

人間に移行させることや︑また︑この逆の操作を行なうこと

は︑人間の桁神と感悩が彼の多槻な活動の領域において現実

と触れ合うその接点における複雑多岐な相を無視してしまう

ことになる︒

﹁ダントンの死﹂の作者を単に外的な蕊邸によって判断す

るならば︑政治的なパンフレット﹁ヘッセンの急使﹂からこ

の作品に至る変化︑戦闘的な敢命家の姿から椛力によって逃

亡へと強制され実際的な飛命行動に桃わることが全く考えら

れなくなってしまった状況の巾で蛾命を識美するのではなく

革命の典の湊を赤裸々に描こうとした作家への変貌も︑﹁転

向﹂という便利な謝築によって片付けられてしまう危険性が

ある︒

ピュヒナーが政治的活動と装術的活動をはっきり侭別して

いたことは︑飛要なことがらである︒この区別が彼を﹁蒲き

ドイツ﹂から別つ脱因であった︒彼はこの中心人物グッコウ

に一審親しみを虻えていたが︑二人の間にある越えがたい満 を次のように表現しなければならなかった︒﹁とにかく率直に申し上げると︑あなたとあなたの友だちが肢も賢明な道を歩んで来られたという風にはどうしても私には思えません︒社会を理念を用いて教養ある階級の側から変革することができるのでしょうか︒全く不可能ですよ/︑私たちの時代は全く物質的です︒あなたがたがかって︑より直接的な方法で政治的な羽を起していたとしたら︑やがてあなたがたは変革がひとりでに止ってしまう地点に到逮したことでありましょう︒あなたがたは教養ある階級と無教養な階級との間にあ

︵1︾る源を決して飛びこえようとなさらないのです﹂つ八三六

年︑シュトラースプルクからグッコウに宛てた手紙︶﹁若き

ドイツ﹂派の人々が脚分たちの主狼を直接向けた教擬があ

り文化の恩忠に浴している階級に対するビュヒナーの不僧感

は微底している︒﹁敬養があり裕補な少数の人々は椛力に対

していかに鍛歩を要求しようとも︑結局︑伸大な階級︵繩l

︵ワロ︶民衆︶との対血的関係を決して放棄しないでし狸う﹂︵同上︶

彼は一八三三年六月︵ギーセンに﹁人椛協会﹂を没肱する

約九カ月前︶の手紙の巾で︑﹁岩きドイツ﹂を代変に当時の

多くの作家や知織人が歩んでいた軌道とは全くちがう別の仙

道に乗り出した日分の姿をこう表現している︒﹁私はなるほ

ど自分の主義に従って行動するでしょう︒しかし大衆の必然

的な要求のみが変縦を揺ぐことができるのであり︑個人の巡

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動や叫びはすべて空しい愚行であることを晶近になって学び

ました︒彼らは番きますI人々はそれを読みません︒彼ら

は叫びますl人々はぞれを聴きません︒彼らは行動します

︵内邑﹀l人々は彼らを助けません﹂︵一八三三年六月︑シュトラ

ースプルクから家族に宛てた手紙︶︒このように革命の主体

を教養ある階級ではなく一般大衆の上におく態度が︑ピュヒ

ナーを同時代の人々から孤立させるのである︒

﹁ヘッセンの急使﹂が書かれた一八三四年︑ルードルフ・

ヴィーン・ハルクの﹁美学的出征﹂︵﹁なんじ︿若きドイツ﹀に

この鏡述を献ぐ﹂という献本の辞をもつ︶が出版された︒こ

の題名﹁美学的出征﹂という言葉は︑芸術をもって現実を変

革しようとするこの派の基本的姿勢を巧みに象徴していると

言えよう︒作品の中に人を変革の行動へと駆り立てる刺激物

が巧みに挿入されていても︑一般民衆はそもそも作品を手に

するであろうか?かりに作品を手にしたとしても教養のな

い人々が本当に正しくそれを理解することができるだろうか

?刺激物を文学的な香でつつむこのようなやり方は結局サ

ロンの政治談義の域を出るものではないか?︒⁝・・︒ピュヒナ

ーの考えがこの方向にあったことは間違いない︒彼が文学を

通して革命の役に立つようなものを伝達しようとする意志を

全く持っていなかった理由は︑革命の主体を教養のない階級

の中に求めたところにある︒ ピュヒナーを正しく理解しようとする場合︑我々は彼の中にある二面性をはっきり理解しておく必要がある︒つまり︑宿命論に呪縛された意識と絶えずそれを打ち破ろうとしている変革への意識︒ヘッセンの革命運動はすでにこの二つを前提にしている︒一般に宿命論的な考え方は人間からあらゆる変革の意志や行動を奪いとってしまうか︑あるいは︑そのような考えが引き起す苦しみから逃避する手段としての一時的に過激な行動へ人を駆り立てるものであるが︑ピュヒナーにはこのどちらもあてはまらないのである︒

﹁ダントンの死﹂の世界を交配している宿命的な人間観・

世界観が︑これが書かれる前の革命連動の挫折から生まれた

ものではないことを知っておくことは︑この作品を正しく理

解する上に欠かせないことがらである︒また︑ドイツを去っ

てから後の行動は表面的にみるとギーセソ時代のそれと全く

対照をなしているが︑彼の内面においては変革への意志は一

貫して持続していること︑言いかえれば︑行動の世界は非連

続であるが意識の世界は連統であるという事実も重要であ

︵4︶

ブ︷ぜ︒

芸術作品は一つの完結した独自の世界を持っている︒そこ

に登場する人物はその世界に生きているわけで︑彼はまず何

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よりもその世界の中で見られなければならない︒ある作品が

それ自身の固有の世界をもった真の芸術作品になり得ている

か否かは︑ちょっと考えるほど単純明快な事柄ではない︒し

ばしば︑我々は固有の世界だと思っていたものが実は単なる

みせかけの世界に過ぎぬことを知って︑大きな幻滅を味わな

ければならないのである︒だが︑作品を正しく理解しようと

するならば︑一応作品に独立した世界があると仮定して作品

そのものに接近する以外によりふさわしい方法はない︒これ

に反して作品の外にある何物かをもってそれを計ろうとする

と︑それは現実を再現しているか否かという最も素朴な次元

でしばしばとらえられ︑その世界は現実の諸々の鞭がらに全

く拘束されてしまうことになる︒この自明なことがらが︑作

品の素材が歴史からとられ歴史上の有名な人物が作品に現わ

れてくるとなると︑必ずしも自明のことではなくなってしま

う︒一般日浦化された既知の歴史的知識や偏見をもって作品

に迫りその独立性をいとも簡単に犯し︑作品の世界を歴史的

諸事実に隷属させてしまう危険性が大きいのである︒

塀実の重みから生じるこの種の危険性は作品を享受する側

にのみあるのではない︒一つのある歴史的覗象に心をとられ

てそれをもとに一つの作品を創造しようとする時︑その邪象

が歴史的に有名であればあるほど︑事実の重みはますます塒

大して創作の自由を拘束する︒既知の獅実に反したことを書 けば︑作品独自の真実性を獲得することも殆んど困難になる︒だが︑事実をあまりに尊重し︑その結果︑事実の軍みに完全に屈してしまう場合︑そこから生まれてくるものは︑歴史の香物を単に文学的な装飾をほどこしてアレンジしたものに外ならない︒これが芸術作品を主張できないのは言うまでもない︒なぜなら︑歴史の書物においては生起する蛎象の因果関係に重点がおかれ論理的な記述がなされるわけであるが︑真に優れた歴史の書物で︑事象の底にある人間の存在の種々の相をあきらかにし人間の本質に迫らないようなものはあり得ないからである︒歴史の書物も歴史を素材にした文学も共に歴史的事実の上に立つ︒後者が真に芸術性を勝ち得るためには︑作家の想像力が現実からみた場合一つの虚の空間を創造しなければならないが︑その際も決して獅実を拒否することができないのである︒比愉的に一高えば︑前者が歴史の写真であり︑後者は歴史の絵画であると荷えるかもしれない︒作家の想像力によってある程度デフォルメされた歴史の像は︑しばしば︑論理的記述をもってしては絶対に到連することができないような其実を鋭く剃り出し人間存在のありようを赤裸々に鮒示してくれるであろう︒

ピュヒナーは﹁ダントンの死﹂を書いた後︑しばしば︑作

家の歴史に対して取る態度︑作家と歴史的素材との関係︑作

︵P回︶家と歴史家との関係などについて述べている︒しかし︑我々

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はまず第一に作品そのものを分析することから始めなければ

ならない︒作品が訴えかけてくるものに排かに耳を傾け︑作

品の椛造を分析することによっておのずから作者の創作方法

や作品に侭いた怠図が明らかになって米なければならないの

である︒

ダントンはもはや茄命家ではない︒彼は人間がお互に懲志

を疎通し理解し合えるものであると考えることができない︒

他人は彼にとって永遠に未知の人間である︒人と人とを結び

つけるかに見える愛さえも︑彼をこの絶対的な孤絶の境地か

ら救い出すことができない︒ダントンと妻のジュリーはとも

かく表面的には愛し合っている︒ジュリーはダントンを心か

ら愛し信頼し︑さらにそのような自分自身をも信じている︒

このような彼女がダントンとの間に築いた愛のささやかな歴

史から彼も自分と全く同じように考えていると思うのは全く

あたりまえのことである︒だから︑彼女がごく軽い気持で

﹁あなたは私を傭じないの﹂︵﹁全築﹂第一巻︑九頁︶と討った

塒︑それを受けるダントンの爵葉は彼女が全く予想だにしな

いことであった︒﹁さあ︑わかるものかノ.おれたちはお互

に何も知っちゃあいないんだ︒おれたちは象みたいなもん

だ︒お互に次々に手をさしだしあうが︑全く御苦労なこと

だ︒ただ︑厚い皮をくっつけてごしごしこすり合っているだ

けじゃあないのかIみんないたって孤独なんだ︒﹂︵九頁︶ ︵第一幕第一場︶︒ダントンは彼女の眼が蝋いこと︑髪はちぢれ愛で肌はきれいであること︑さらに彼女がいつも彼を﹁ジョルジュ﹂︑﹁ジョルジュ﹂と呼ぶことを知っている︒彼にとって知るとはそういうことである︒それは︑人間の外にあり感覚的にとらえ御るものを知覚する行為以上の何物でもない︒つまり︑これは結局︑何も知らないと.雨うことである︒内面的なもの︑一.鄙葉を媒介にして我現される一切のものが︑彼にとっては信用の慨けない不破なものなのである︒革命家であって人間の連帯の可能性を信じていないものはない︒戯曲の誇頭のダントンとジュリーの簡単な言葉の過り取りの中に︑ダントンがいかに革命家の対極的な地点に到述してしまった人間であるかが浮き彫りにされている︒

革命は一つの亜大な分岐点に差し掛っている︒ロ・ヘスピェ

ールを中心とする政治は今や恐怖政治の方向に急速に傾斜し

て行くところである︒ダントンたちはもはや革命の進行を瓠

まない︒﹁執命は再細成の段階に来ているんだ︒l峨命は

終って共和制が始まらなければならないんだ﹂︵エロー︶︵一

一頁︶︒ロペスピェールに対抗できるのはダントンしかいな

い︒ダントンが対決への毅然とした態度を示さないにもかか

わらず︑仲間たちはかえってそこに英雄の悠揚せまらざる態

度の片鱗を見たような気になって︑いざとなれば絶対に彼が

立ち上ることを固く信じている︒初端にすでに我々はダント

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ンが伝統的な悲劇に登場する主役のような緊張した動的な行

動を展側する人物ではないという予感をもつのであるが︑第

一幕第一場の展開の棋様はこのような人物がロペスピェール

といかに対決するか︑その過程に我々の関心を染中させるか

にみえる︒だが︑この場の股後の所でlダントンが部屋か

ら出て行った後lカミーュとエローが交わす曾葉は︑ダン

トンという人物の本賞的な特徴とそれに規定される対決のあ

り方をするどく暗示する︒カミーュー﹁うつちやっとけ/︑

なに︑いざとなったら︑どうしてあいつが手をひっこめてお

るものか︒﹂エロー﹁その通りだ︒だが︑それも単なる暇つ

ぶしのためさ︑ちょうどチェスをするようにな︒﹂︵一二頁︶

ロペスピェールは︑裏町で粗末な身なりの民衆たちが一人

の身なりの良い若者を取り囲んで︑﹁あいつはハンカチなん

かをもっていやがる/︑貴族だ/︑街灯へつるせ/︑街灯行

きだ/︐﹂︑﹁そら︑ぶつ殺してしまえ︑穴のない服など藩てい

る奴はノ.﹂︵一四頁︶と口々に喚き散らしている所へ幾場し

てくる︵卵一幕第二場︶︒雌命を撤底的に遂行しようとする彼

の語る雷葉は革命家のそれである︒ジャコバン党の首領は冷

然と首う︒﹁諸君の立法者はいつも監視を怠らず︑諸君の手

をとっている︒その眼をごまかすことはできない︒諸君の手

とてそれを脱れることはできない︒共にジャコバン党に入ら

れよ/︐諸君の同志は双手をあげて諸君を迎え入れることで あろう︒我々は我々の敵に対して血の裁判をやるのだ︒﹂︵一五一六頁︶

ジャコパン党のクラブにおける彼の演税は彼の即想とそれ

を実現するための手段を鮮明にする︒彼にとって︑ダントン

たちの﹁憐偶﹂の上に立つ行動は︑国民から武器を燕い取

り︑さらにその武器を持つ腕をもぎ取り︑いわば雌命の力を

奪い取ることによって国民を裸のまま国王に篭し出してしま

うものなのである︒﹁共和国の武器はテロであり︑共和国の

力は道徳である﹂︵一八頁︶︒彼の政治の根木原理は道徳であ

る︒道徳の力によってテロは有害なものではなくなり︑正義

実現のための最も強力な武器となるのである︒共和制に真向

から対立する専制政治が自由の声をあげようとする一切のも

のをテロの力によって圧殺するように︑共和制の実現をめざ

す革命政府は自由に反対するあらゆる声を同じくテロの力で

粉砕する︒つまり︑﹁確命政府は暴政に対する自由の専制政

治である﹂︵一八頁︶

弗一聴節一場でダントンの仲間であるフィリポー︑エロ

ー︑カミーュがそれぞれ賊命の現状に対して非難の喬莱を口

にしている︒だが︑彼らとても決して専制政治の復活を望ん

でいるわけではない︒ただ︑彼らが革命の続行に反対するの

は︑革命があまりにも多くの人間の生命の安易な蟻牲の上に

進行しているように彼らにはみえるためである︒﹁みんなが

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それぞれ言いたいことを言い天性を発揮させなくちゃならな

いんだ﹂︵エロー︶︵二頁︶は︑ロペスピエールが頭に描く

未来の理想の共和国が実現されれば可能になることであろ

う︒だが︑この考えを現在に適用することは︑彼にとって革

命の破壊行為を意味する︒また︑カミーュの﹁国家形態は国

民の体にぴったりあった透明な蒋物でなければならないん

だ︒血椅の膨張︑筋肉の緊張︑腿の艤嬢がみんなその中には

っきり現われていなければならないんだ﹂︵二頁︶という

考えも︑ロ・ヘスピエールの理想の国家の中で実現されるはず

のものである︒だが︑カミーュが﹁その務は爽隙災しいもの

あり︑醜いものありでまちまちだろうが︑みんなそのままで

存在する樅利があるんだ︒我々が好き勝手に服を裁断する鐡

格はどこにもないんだ﹂という時︑彼とロペスピエールの軌

道のちがいが露になる︒カミーュは王政が打倒された現在︑もうすでに共和制の素地が充分出来上っていると考えてい

る︒ところが︑ロペスピエールにとって王政の打倒は共和国

建設の第一歩を踏みだしたに過ぎない︒王政を支えていた階

級が完全に根絶された時にはじめて︑彼の嵩う共和国の基礎

が出来上るのである︒その時まで︑域命勢力は封建的な残津

と戦いを続けなければならない︒

ダントンたちが描く共和国において自由・平等・博愛が文弱字通り実現されたら︑その国家がロベスピエールの理想の国 家に変質することは必定である︒ロペスピエールがダントンたちに反対せざるを得ないのは︑彼がこの実現の可能性を全く見ないばかりか︑共和国とは単に名ばかりでその美名の下で貴族政治がおこなわれる危険性をはっきりつかんでいるためである︒

ロペスピェールとダントンとの対決は第一幕第六場で起

る︒青年と老人の対決である︒理想のためにはいささかも蹄

膳することなくテロを使用することを断嵩する青年の正義に

対するあまりにも激しい怖熱は︑人に不安と恐怖の念を抱か

せる︒一方︑老成したダントンの態度は︑経験に滞んではい

るが典理に対して搬唯さを兼ね伽えていないある稲のタイプ

の人間が︑世の中の酸いも甘いもすべて心得ているわい︑と

いう風なしたり顔をして脳而もなく︑世の中はかくかくしか

じかのものである︑と断言する時︑人が感じずにはおれない

ような白々しさといやらしさをもっている︒彼はロペスピエ

ールの徳を戒んじる糟神を郷楡する︒﹁良心なんてものは猿

が自分を写して苦しむ鏡みたいなもんだ︒その前じゃあ︑み

んな出来るだけおめかしをして︑自分の流儀で楽しもうとす

るんだ︒﹂︵二七頁︶ロペスピエールが彼に向って﹁君は徳を

否定するのか﹂というと次のように答える︒﹁それに悪徳も

ね︒この世には快楽主義者しかないよ︑もちろん品のないや

っと品のあるやつとがあるがね︒キリストは最も品のあるや

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つさ︒これが人間同志のあいだに立てうる唯一のちがいなん

だ︒みんなめいめいの天性に応じて行動する︒つまり︑好き

なことをやるわけさ﹂︒︵二七頁︶彼がその性質からしてロペ

スピエールになれないことは言うまでもないが︑彼はもはや

いかなる社会変革にも関わりを持つことを心底から好まない

人間である︒もし彼が行動を起すとすれば︑それは天性に従

って生きることが妨げられる場合だけである︒

二人の対話は決して噛み合わない︒ロペスピェールはあく

までロペスピエールであり︑ダントンはあくまでダントンで

ある︒だが︑対話の主導樅はダントンの側にある︒使命感に

燃えて革命の先頭に立つ青年が老成した背年ともいうべきダ

ントンの人間的幅に圧倒されている︒血が豊かに流れている

肉体をもった個性的なダントンの姿に対して︑ロペスピエー

ルは非個性的なマリオネットのような姿を示している︒この

両者の対照は︑ダントンが部屋を出て行く時吐く捨て台詞

.刻もぐずぐずしちゃおれない︑目にものみせてくれるぞ﹂

︵二七頁︶に真実味と迫力を与えるのに十分である︒

ダントンとの対決はロベスピエールに二人の間の決定的な

ちがいを明らかにしたにとどまらなかった︒その時ダントン

から受けた無言の圧力が︑彼が日頃無意識のうちに圧殺して

いた感情を刺激する結果になったのである︒彼は公的な場に

おける彼自身の碓信に満ちた姿からはおよそ想像することの できないような宿命論的な考えに陥る︒窓辺に歩み寄る彼の眼に夜の大地はもはやいつもの休らぎを与えない︒彼が自分の峻厳な徳の原理に照らし合わせて葬り去った数々の思想や希望がその闇の中から半ば人間の肉体の形を取って手足を伸ばしわけのわからないことをぶつぶつつぶやきながら浮び上ってくる︒彼は煩悶するl﹁われわれが眼をさましていることにしても︑いくらか明るいだけの夢ではないだろうか︒われわれは夢遊胸者ではないのか︒われわれの行動にしても夢の中のものと変らず︑ただそれよりいくらかはっきりした︑きまった︑一画したものにすぎないのではないだろうか︒そのことで一体誰がわれわれに文句を一高おう︒﹂︵二九頁︶彼は今まで自分の意志の力を信じていた︒その力で革命家になっていると思っていた︒しかし︑それが錯覚にすぎないことを知る︒﹁禍は思想にあるのさ・思惣が行動になるかどうか︑身体がそれを奏でるかどうか︑そいつは全く偶然のことなのだ︒﹂︵二九頁︶

革命の機械とも言うべきサント・ジュストの登場は︑ロペ

スピエールを夢遊病者から革命家へと引き戻す︒彼はサント

・ジュストに︑彼の学校時代からの友達であったカミーュが

あらわに彼を攻撃しはじめたことなど種々例をあげて羽態が

異常に切迫して来ていること︑さらにそれに対応するために

公安委員会の辿中も逮捕のために万全の準側を整えているこ

(9)

とを伝げられると︑いとも簡単にダントンたちの逮捕に同意

する︒彼は言う︑﹁では早くしろ︑明日だ︒断末魔の苦しみ

は長くするものじゃないぞ︑おれはこのところ気がたってい

るんだ︒ぐずぐずするなよ・﹂︵三一頁︶だが︑こう言った彼

の舌の根がまた乾かぬうちに︑彼は心中の苦しみを表に出さ

ざるをえないはめになる︒冷酷な言葉が示しているように︑

サント・ジュストに逮捕の同意を与えた時︑彼はおそらく苦

しみを意識していなかったであろう︒彼は革命の自動機械が

去り一人になり自分自身と向きあった時︑自分の行為の意味

を考えはじめる︒このように彼が現実の激しい動きの世界か

ら一歩退いて自分の心の内部へ眼を向けるようになったの

は︑ダントンによって彼が今まで知らなかった︑いやあえて

知ろうとしなかった人間の別の側面を知らされた結果であ

る︒彼の独白は心の中に現われはじめた訳のわからぬ苛立ち

を何とか抑えようとする欲求に促されて攻撃的な形で始ま

る︒﹁そうとも︑おれは血のメシアだ︑人を犠牲にするが︑

おれじしんは椴牲になぞならないんだ︒あの方はみずからの

血で彼らを救済されたが︑おれは彼らを彼ら自身の血で救済

するのだ︒あの方は彼らを罪あるものにされたが︑おれは罪

をみずから引き受けるのだ︒あの方は苦揃の歓喜を味われた

が︑おれは首切り人の苦しみを味わうんだ︒おれとあの方と鵠はどちらがより多く自分を棄てたであろうか?﹂︵三○頁︶ 内心の苦痂の傷口におおいをかけようとすればする程︑彼は饒舌になり︑舌はますます彼の意志を裏切って行く︒﹁いや待てよ︑どうもこの考えにはちょっとおかしなところがあるぞIいったいどうしておれはいつもあの方ばかり見ているのだ?まったく人の子はおれたちみんなの中で十字架にかけられている︒おれたちはみんなゲッセマネの庭で血の汗を流しつつ戦っているのだ︒だが︑誰一人として自分の傷で他人を救おうとする者がいないのだ︒lおお︑わがカミーュノ・おまえたちはみんなおれから離れて行くlすべては荒涼として無だIおれは一人ぼっちだ﹂︵三一頁︶

ダントンはロ・ヘスピエールとの対決の場で︑﹁目にものみ

せてくれるぞ﹂と豪語した︒しかし︑これが全くの虚勢にす

ぎなかったことがすぐに明らかになる︵第二幕第一場︶︒そし

て何の抵抗もなく簡単に逮捕されてしまう︒この翌日︑国民

公会でロペスピエールは祖国を救うために一部の卑劣漢をギ

ロチンにかけることの正当さについて演説する︒ゾントンた

ちは直接︑革命裁判所に送られるので︑もはやロペスピエー

ルとダントンとの直接的な対決は起らない︒ダントンの運命

に対する関心は革命裁判所における彼の擬舞いに関してさま

ざまな想像を呼び起す︒革命の敵︑裏切り者の烙印を押され

て生を奪われるかどうかの土壇場で︑ダントンはかっての英

雄らしさを取り戻すであろうか︒彼の行動を追ってきた者

(10)

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は︑結局また裏切られるのではないかという疑念が湧き起っ

て来るのを禁じ得ないが︑今度は今までとは違った極限状況

であるという一点がこれを押えつける︒フランス革命史に通

じていない人︑あるいはまた筋の緩慢な展開の中で一度も戯

曲の題名について思いをめぐらせなかった人のうちの幾人か

は︑シェイクスピアの史劇﹁ジュリアス・シーザー﹂におけ

るあの有名な︑感動的なアントニーの演説の場面l﹁ブル

ータス万歳﹂の歓呼の嵐の中で壇上にのぼり︑舌三寸を武器

として民衆の感怖に巧みに訴えかけわずかの間に﹁ブルー

タス万歳﹂を一八○庇転回させてしまった甥而lを思い起

し︑革命裁判所を屈服させ﹁ダントン万歳﹂の絶叫の中に立

つダントンの姿を思い描くことであろう︒また︑革命史に詳

しい人でも︑歴史的躯実の上に構築されたもう一つの現実の

中でダントンが堂々とした雄姿を見せてくれることを期待す

るであろう︒さらに︑この作品と全く同一の歴史的事実を扱

った︑ロマン・ロランの作品﹁ダントン﹂の中のダントンを

思い出す人も多いであろう︒

ダントンたちは革命裁判所の被告席に︑不正を働らいたた

め告訴されている欺偽師や銀行屋と一緒に坐らせられてい

る︒法廷の窓はすべて開け放たれ︑外の群衆のどよめきが法

廷内に伝わってくる︒ロペスピエールの台頭にもかかわらず

依然としてかなりの人気と関心の的であるダントンが立ち上 ると︑訊問の成行きを注視している法廷内の民衆の間に大きなどよめきが起る︒激昂しかつての英雄の姿を取り戻したダントンの伸容にはじめから裁判官たちは圧倒されており︑次第に被告と裁判官の位磁が逆転して行く︒裁判官がダントンに向って︑国民議会が彼を然るべき邪実に韮づいて告発したことを告げると︑彼は蝋笑する︒するとそれはたちまち民衆に感染し︑﹁法廷全体がホーマー的な歓蒋の発作に沸きかえる︒﹂彼があらかじめ舗求しておいた紙人の出廷を強く要求するに及び︑一段と民衆のどよめきが商潮しやがてそれは嵐のような﹁プラボーノ.﹂の絶叫になって行く︒成行きを恐れた検邪の要諭が認められ︑被告欠席のまま審議が行われ判決が下されることになって︑ダントンたちは獄へ連れ戻される︒激昂した法廷の内外の民衆が﹁ダントンを/︐ダントンを返せ/︐﹂と法廷になだれ込む︒だが︑指導者を欠く群衆はただ騒ぐばかりでどう行動すべきか迷っている︒彼らを制するには︑サント・ジュストの冷ややかな真向から彼らを見渡すギロチンの眼だけで充分であった︒突然潮が引いたように静かになった彼らに向って︑この間隙を利用して保安委員の一人が︑今夜港に小麦および薪炭が到着することを伝げると︑あまりにも飢えと欠乏の中にあった彼らはダントンのことなど全く眼中になかったかのように出口へと殺到する︒裁判は根強い好奇心をもっているほんの一部の人々だけが見守

る中で再開され死刑の判決が下される︒

(11)

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以上は︑﹁ダントン﹂︵第三幕第二場︶の第三幕のあら

すじである︒この作品においてはダントンはビニヒナーの作

品におけるダントンとは異なり愛の力を信じ︑愛による政治

をロペスピエールの徳の政治に対置する︑現実と向い合って

いる政治家である︒ロペスピエールが共和国の敵を憎まない

者は共和国の犯罪者である︑人殺しへの憐側は犠牲者に対す

る残酷を窓味する︑克容は国家を破滅させる罪悪である⁝⁝

と言うと︑彼は稗える︒﹁敵も味方も愛し合おうではないか︑

愛はすべての荊疑︑すべての過去を洗い流す﹂︒愛の力が徳

の力によって完全に組み伏せられている現状を彼は憤怒を抱

いて苦々しく凝視している︒しかし︑愛の政治を実践するた

めに職種的に力を用いて徳の政治に対決を挑むようなことは

しない︒なぜなら︑そうすればたちまち徳の政治が陥ってい

る誤謬に卿らもはまり込むことになり︑その結果︑徳の政治

と同一の次元に立つことになってしまうからである︒﹁美徳

の名に隠れておのれの馬鹿げた自尊心や狂おしい破域欲を満

たすために水性を否定し﹂敢命を血で血を洗う愚劣さの中へ

吃しめて行く剛想家どもを彼は激しく憎んでいるが︑決して

雅命そのものを呪い否定するわけではない︒ヴェステルマン

は法廷から退出しながらダントンに向って言う︒﹁君の踏踊

の結果がこの有様だ︒君はロベスピェールの機先を制すれば

よかったんだ︒﹂それに対してダソトンは容える︒﹁︿革命﹀ はおれたち二人が揃って指導しなければ立ち行かない︒しかもあいつの首を絞めない限り︑おれは身を守ることができな

︽︽︒︶かつたろう︒おれは自分よりも︿革命﹀を愛する︒﹂彼は殉

教者の道を選ぶのである︒

この作品においては︑法廷におけるダントン︵たち︶と裁

判官たちとの対決に大きな比重が置かれ︑第三幕は法廷の場

のみで筋が展開されるわけであるが︑このことはビュヒナー

の﹁ダントンの死﹂と著しい対照をなしている︒ここでダン

トンが登場してくるのは︑たいてい︑リュクサンプールの牢

獄の場而であり︑あるいは革命裁判所付脳監獄︵コンシェル

ジュリー︶であり︑革命救判所の場面はそれに比較してごく

俄かである︒

ダントンは裁判官に向って逮抽が不当であることを主狼

し︑公安委n余の耐々を脱告としてまた祇人として呼び出す

ことを強く要求して︑聴衆の鋳意を勝ち得る︒また︑自分自

身の過去の数々の英雄的行為を列準し︑全生命を振い起して

職うような盗勢を示す︒これは聴衆の大喝采を惹き起す︒彼

らの中に起ったこのような反応はダントンの法廷における振

舞いが英雄的であったためであろうか︒

﹁おれはシャン・ドゥ・マルスで王制に宣戦布告し︑八月

十日にそれを打ち破った︒国王を一月二一日にギロチンにか

け︑国王たちに挑戦した﹂︵源三頁︶・﹁おれは九月には尚族た

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とになるか否かが決定される般後の瞬間に敵の論理を打ち砕

くために無意識のうちに現在の自分ではなく過去の自分の姿

を前面に押し出して行動しようとしたことはいわば当然の結

果であると嵩えよう︒

一方︑これに反して︑ロランの﹁ダントン﹂においては︑

ダントンは英雄として死んで行く︒なるほど︑最後の軍大な

瞬間に︑法廷内にどっとなだれ込んだ民衆は冷酷なサント・

ジュストの盗を見るとギロチンの匁を恐れて沈黙しヴァディ

エによって食料品などを薇んだ船が到肴することを教えられ

ると瞬時に甑を返して出て行ってしまうわけであるが︑彼ら

は﹁ダントンの死﹂における群衆のように彼を見捨ててしま

ったわけではないのである︒ここで強調されるのは︑ダント

ンの英雄的な振舜いが民衆に我耐的な感動・共感しか呼び起

さなかったということなどではなく︑茄命の中で飢餓の底に

いる民衆にとって︑一人の英雄の巡命lやがて近い将来に

それが臓接自分たちの上に鋭くはね返ってくるものであるに

しろに関わりを持つことよりも現在の卿分たちの命をつ

なぐ一片のパンの方が爪婆であるという︑いわば人間の存在

のありように関わる一つの典実であり︑さらに︑民衆のエネ

ルギーの混沌とした無方向性とそれがもたらす残醗さなどで

ある︒法廷でダントンの演じた英雄的な爵勁がこれによって明掴われることはいささかもあり得ない︒ ここで︑ダントンに﹁英雄﹂とか﹁英雄的﹂とかいう言葉

を冠することについて一言ふれておかなければならない︒一

般に我々がダントンに対してもっているイメージはロペスピ

エールのそれと同様︑秩序を維持する側の史観を強く反映し

ている︑学校の教科書や歴史書を通して獲得されたものであ

り︑歴史的実在としての彼らの全体を我々に許されている限

りの股大限の公平さをもって把握しているとは決して言い難

いからである︒普通われわれの抱いている英雄としてのダン

トンのイメージは卑劣極まりない幾酷なテロリストとしての

ロベスピエールのイメージと対をなしている︒ロマン・ロラ

ンの作品﹁ダントン﹂の巾でダントンはなるほど英雄として

扱かわれてはいるが︑それは決して通俗化されたダントン伽

ではない︒つまり︑ロペスピエールをことさら瞳しめること

によって一肘光り姉く英雄の姿ではないのである︒ロ・ヘスピ

エールも彼と同棟︑英雄として扱かわれているのである︒ダ

ントンの眼からみると餓険な野心家︑災徳を傘に締た恐るべ

き偽稗家︑苫を行なうことではなく筋を通すことばかり考え

ている︑主凝に凝り間まった人物であるロペスピエール︵彼

を兇る多くの歴史家の眼はほとんどこのダントンの眼であっ

た︶が別の角度から眺められている︒第二蕪における勘而が

それである︒彼が下術していたデュプレ家の彼の部殿での︑

彼とデュプレ夫人︑彼と長女エレォノールとの問の会話は︑

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彼の人間的苦悩をあらわにすることによって人間ロペスピエ

ールの姿を鮮明にする︒エレオノールが彼に向って﹁あなた

は誰かを疑っていらっしゃいますの?﹂と尋ねると奪彼は次

のように答える︒﹁誰も彼も信じられないのです︒抗弁の下

に好計が待ち伏せているのがわかります︒彼らの眼︑彼らの

口︑彼らの握手︑彼らの身体全体がいつわっています︒疑惑

の念が私のあらゆる考えを毒するのです︒私の性質はもっと

優しい感惜に適うようにできていました︒私は人々を愛して

います︑できれば彼らを僧じたいと思います︒けれども私の

ように︑彼らが恐怖や野心や遊楽や悪い心のために十ぺんも

自らの誓いにそむき︑己れを売り︑友を光り︑軍隊を売り︑

祖国を光るのを毎日見ているばあい︑なおも信頼することが

︵の〃︶どうしてできるのでしょう?︒﹂

民衆︵ここではデュプレ夫人とエレオノールによって代表

されている︶の眼から見ると︑ロベスピエールはダントンが

かってそうであったように英雄である︒ダントンたちを逮抽

することが決定される場面ではじめ蹄路している彼がサント

・ジュストらによって次蛎に税得されていく梯子も︑彼がサ

ント・ジュスト風のテロリストとは本鷺的に異なった︑革命

の泥沼の中で苛悶しながら雌命の成果を固守しようとする英

雄であることを示している︒

このようなダントンやロペスピエールの描き方は歴史上の 重大な人物を簡単に善悪の物差で裁断し︑一方を理想化し他方を厄しめるといったような︑無意識のうちに人が落ち込みやすい誤謬から完全に免れているが︑これは理想主義に激しい反発を感じていたピュヒナーにもそのままあてはまる︒

ダントンとロペスピエールの扱かい方を見ることは︑とり

もなおさずこの戯曲の真の主題を見極めることであり︑それ

はまた作者の意図の方向をつかむことに通じている︒すでに

我々はダントンの運命の展開を追った︒だが︑途中で奇妙な

邪態に逢着しなければならなかった︒第三幕以後︑このよう

な試みはドラマの筋のごく一部分しか包括し得ないことに気

がつかないわけにはいかなかった︒つまり︑登場人物の動き

を対立という概念で把握することが困難になってしまったわ

けである︒第二蕪までダントンとロペスピエールとの間に

は︑伝統的な悲劇にみられるようなダイナミックな対立では

ないにしても︑ともかく対立があり︑それを中心として筋が

展開している︒第三・第四幕においてダントンの敵︑直接の

対立の相手は革命裁判所になった︒前のドラマトゥルギーに

立つなら︑ダントンと革命裁判所との対決の校棟がここでも

中心に位随しなければならない︒だが︑これは僅かに戯曲の

筋を前へ押し進めるための推進役としての機能をもつにすぎ

ない︒そしてさらに詳しく見ると︑これが言えるのは卵三群

のみであり︑第四係になるともはやこれさえもなくなってし

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まうのである︒ロマン・ロランの﹁ダントン﹂と比較する

と︑これは著しい違いである︒この作品においては︑爺命の

椴牲にならなければならなかった茄命家の悲劇的巡命が筋の

展開の細部まで規定し︑あらゆる邪件が主題の周りに収散し

つつ結末に向って早いテンポで一直線に進んでいくのであ

る︒

﹁ダントンの死﹂の後半において示されるのは︑緊張した

対決の過程ではない︒ダントンの運命に関わる事件の展開は

それほど重要な意味をもたず︑情況における人間のありよう

が中心になっている︒牢獄に閉じ込められたダントンたちの

神や生あるいは死についての対話や独白︑公安委員会におけ

る公安委貝たち︵サント・ジュスト︑バレール︑コロー︑ピ

ョー︑ただしロペスピエールは議場しない︶の対話︑民衆た

ちのさまざまな反応と動き︑リュシールやジュリーの独白⁝

⁝すべてが人間存在そのものに鋭く照明を当てるような具合

になっている︒したがって︑主役であるダントンは他の幾場

人物︵カミーュ︑フィリポー︑エロー︑リュシール︑ジュリ

ー︑ラクロア壱・・⁝︶に対して︑本来主役として当然立つべき

はずの特椛的な地位に決して立ってはいないのである︒

一見︑全体としての統一を全く欠いているかに見えるこの

ドラマに内的な統一感を与えているものは一体何であろう

か︒テンポの緩慢な筋の展開に前進の力を与えるダントン の孤疑逵巡が引起す一秘の期待がドラマに統一感をいくらか与えることができるのは︑第三幕の終りまでである︒場と場あるいは同一の場における対照あるいは雰囲気や人物のあいだの対剛の効果こそが︑この作品に劇的な雰囲気を砿し出し統一感を与えているものである︒たとえば︑カードゲームに興じて暇な時間を過ごしている結榊な身分の人々が登場する第一幕第一場は︑それにつづく第二場の﹁裏町﹂の場面︵民衆は革命がいまだ真の平等をもたらさず依然として特権的な階級が存在することに憤慨し︑ギロチンさえもまだまだ生ぬるいと喚めいている︶ときわだった対照をなしている︒ダントンとロペスピエールの登場の仕方も同様である︒ダントンは内省的な人間として登場する︵節一幕第一場︶︒ロペスピエールは裏町の民衆の中へ峻厳な革命家として現われ︑﹁ロペスピエール万歳﹂の歓呼を受ける︵第一郡第二場︶︒この対照によって︑ダントンの内竹的な姿がほとんど戯画化されてしまうほどである︒ダントンと饗の深刻な対話とカードゲームに興じているエローと婦人との間のふざけた会話︑牢獄におけるダントンたち囚人の身を刺すような苦しみの場面と革命裁判所や公安委員会の場面︑牢獄でスピノザ風に神の証明を真剣にやっている︒へインたちの周りに漂う哲学的な雰囲気とそこへ引っぱってこられたダントンたちの陽気な冗談︑獄吏・駁者・往来の女たちの残酷な響きをもった会話と獄窓に

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カミーュの姿をみつけてその下から呼びかける︑半ばすでに

狂鈍の中にあるリュシールの台祠︑みずから灘を飲んで夫の

後を追うジュリーと夫に追いつくためにギロチンで死ぬこと

を決意して﹁玉槻万歳﹂と呼び番兵に迎れ去られるリュシー

ル・⁝・・という風に到るところに対照が設けられている︒そし

て︑対照の効果はドラマに緊張を生みだし︑場が拡散しない

ことを防ぐだけではなく︑場や雰囲気や人物などをそれぞれ

向き合わせ相互作用の中に置き︑そこから自然に典実が浮び

上ってくるようにする︒

対蝿の効果が特に力を発揮しているのは第四鞭である︒こ

こでは死を戒前にしたダントンたち︑自殺するジュリー︑ギ

ロチン兇物を薬しむ市民︑番兵につかまるリュシール︑など

の場珈が対照から生まれる劇的な緊張の山や谷を鋭く形づく

りながら大きなうねりとなって連なっている︒個々の内部に

ある対照もみごとで︑独立した充実感を形成している︒例え

ば︑第五場﹁革命裁判所付属監獄﹂︒ダントン︑カミーュ︑

エローらは沈黙している神々にそれぞれ呪いの言葉を発す

る︒ダントンが﹁この世の中は混沌だ︒虚無こそ生まれるべ

き世界神だよ﹂︵七二頁︶と絶叫し︑その場の悲壮な雰囲気

がまさに概点にのぼりつめようとした瞬間に献吏が豊塒し︑

その結果︑それが断ち切られる︒そればかりか次の瞬間には

全く逆の雰囲剣へ傾斜して行く︒獄吏﹁さあ︑だんながた︑ 出発だ︑車が戸口で待ってるぜ︒﹂フィリポー﹁みなさんおやすみ︑落狩いて大きな掛布団をかぶるとしよう︒そうすりや心臓もすっかり止まり︑眼も閉じるというわけだ︒﹂エロー﹁カミーュ/喜べよ︑いい晩になるぜ︒雲が跡かな夕空に浮かんでいるぞ︑まるで黄昏のオリンポスの山に色あせて沈んで行く神々の姿のようだ﹂︵七二頁︶

このように感情や緊張が異常に高まるその直前にそれを断

ち切り︑その結果かえってそれを一挙に高めるという方法

は︑この作品の随所にみられる︒

ダントンとロペスピエールのちがいについてはすでに述べ

た︒ダントンの眼からみるとロベスピエールとサント・ジュ

ストは全く同じ孤顛の人間であろう︒だが︑作舳中における

この二人の人物は一併した時抱く感じよりはるかに大きく異

なっている︒ロ・ヘスピエールの話す内容がいかに抽象的であ

っても︑それは現実の政治に密着している︒彼は共和国の建

設という具体的な目標に向って進む実際的な革命家である︒

ところが︑サント・ジュストは外界から遮断された地下室で

糀命の理論を弄んでいる革命理論家である︒このような人物

が典の革命家であるはずがない︒彼の話は結総から結論へと

飛んで行き︑ロペスピエールの只休的な思考方法に著しい対

照を示している︒自然の法則をもちだしてダントンの処刑を

正当化しようとする彼は一見合理的な思考をすすめているか

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にみえるが︑実は理性を越えたある信念の狂信者だと言えよ

う︒第四幕に登場してくる他の公安委員︵バレール︑コロ

ー︑ピョー︶と同様︑彼を行動に駆り立てるものは椛力への

あくことなき渇剖であり︑彼にとってフランス革命の理想な

ど何の関係もない︒ロペスピエールにとって革命は共和国の

完成と共に終るが︑彼にとっては彼の根本的欲求が満たされ

ない限り茄命は永述に続くのである︒ピュヒナーが用いた寅

料はロペスピエールとサント・ジュストがこの時期には殆ん

ど同一の考え方をし行動をしていたこと︑二人の謡の内群も

︵品⑤︾殆んどかけ離れていなかったことを示している︒したがっ

て︑彼は資料巾のサント・ジュストにかなり手を加えたわけ

である︒このことはサントジュストに対するピュヒナーの反

発が強かったことを示す︒司方また彼はロペスピエール自身

にも資料にない新しい面をつけ加えることにより︑ロペスピ

エールとサント・ジュストの距離を大きくした︒第一線第六

場のロペスピエールは︑すでに触れたように︑硴信にみちた

龍命家ではなく一つのマリオネットにすぎない︒﹁禍は思想

にあるのだ︒思想が行動になるかどうか︑からだがそれを奏

でるかどうか︑そいつは全くの偶然なんだ︵二九頁︶﹂と叫ば

ずにはいられない彼の姿は︑彼の前で辛辣に良心を否定し天

性に従った行動を讃歌したダントンが︑自分が関わりを持つ粥た九月の大虐殺を思い出し良心の激しい苛責にあって﹁おれ たちは得体の知れない力によってあやつられている人形なんだ︒おれたち自身無だ︑無なんだ︒亡霊どもの手にある剣だ︑お伽噺のようにただその手が見えないだけなんだ﹂︵四一頁︶と悲痂な叫びをあげる時の姿と同じように目に見えないある大きな力にうちひしがれている︒ピュヒナーの創造したロベスピエールは人間の術命論的な存在のあり方に大きな衝砿をうけ︑蒜悩する心を持つに致った孤独な峨命家であア︵︾O

生の倦怠にとらえられ﹁必然﹂の爪脈の下で叩吟を練り返

すだけのダントンは碓命の椴牲となるl英雄としてではな

く峨命の裏切り者︑敵の蟠印を押されて︒彼とロ・ヘスピェー

ルを比校した場合︑彼の方が作者のより大きな共感の対象に

なっていることは明白である︒だが︑典のピュヒナーの務は

ロベスピエールを除外した所にはその像を結ばないこともま

た明白である︒

このドラマの場而のつながりは非常にゆるやかで個々の独

立性が強い︒すでに見たように緊張は鋳嫌にはなく個々の場

面にある︒このドラマは叙躯的であるといえよう︒一体︑ピ

ュヒナーにこのような叙事的構造を持ったドラマを神かせる

原因になったものは何であろうか︒

まず第一に︑彼のドラマトゥルギーを規定したものとし

て︑理想主義に対する激しい反発がある︒娃じめ彼は理想猫

(18)

94

義者として出発したのであったが︑フランス革命史の熱心な

研究の過程で︑彼は初期の革命に対するオプティミズムを打

ち砕かれ︑人間は﹁必然﹂に縛られたマリオネットであると

いう認識を穫得した︒当時の手紙の一節は次のようにこの衝

撃的な認識を伝える︒﹁私は人間の性質の中に賊ろくべき同

一性を︑人間の諸関係の中にあらゆる人にそして誰にも与え

られていない避けることのできない暴力があるのを見出しま

す︒個人は波の上の泡に過ぎず︑偉大さは単なる偶然であ

り︑天才の支配は人形芝居であり︑鉄の法則に対する笑うべ

き格闘であります︒せいぜいできることはこの法則を認識す

へ︒︾︶ることであり︑それを支配することは不可能です︒﹂このよう

な認識は︑シラーの﹁人間は何物かであろうとする存在であ

︵︑︶る﹂に晩く対虹する︒人間の自由意志に蕊づく自由な行動の

可能性を傭じている剛想主義作家は﹁現尭の忠実な再現のか

︵川︶わりに人間の伸大な概々の可能性を描写する﹂︒迎命によっ

て倒れる英雄の悲劇は人間の侭大さの繩しである︒ここに︑

理想主義の長所も短所も含まれているが︑ピュヒナーの世界

観・人間観からすれば︑このような方法は人間を歪曲して理

想化するものであり︑そこに生まれるのは偽りの人間像に他

ならなかった︒彼は攻撃する︒﹁いわゆる理想主義作家につ

いて言えば︑彼らが作ったものは馬鹿げた鼻と大げさなパト

スをもった操り人形ばかりで︑その苦悩や喜びが私に共感を 覚えさせ︑その行動が私に反発や讃嘆の気持を呼び起してくれるような肉と血をもった人間ではないということです︒一筒でいえば︑私はグーテやシェイクスピアを亜んじますが︑

︵肥︶シラーはほとんど買いません﹂︒彼は︑道徳の教師ではない

作家はあるべき世界ではなくあるがままの世界を示さなけれ

ばならないと考えていた︒フランス革命のドラマを密く場合

にあてはめて言えば︑それはダントンや革命の刺客たちを道

徳的英雄として仕立て上げることを拒否するところにはじめ

て可能になるものである︒

第二に︑彼の主要な関心が事件の発展の仕方にではなく︑

そこへ登場する人間のありように向けられていたからであ

る︒そのため筋の一賀性に対する配慮が二義的なものになっ

た︒

第三に︑作考が二人の主要な人物のどちらか一方に全而的

な共感を覚え︑他方を全耐的に瓶否することができず︑両者

を相対化しつつ各々に自己を語らせようとする意識が強く働

いていたためである︒︵岳9.9.農︶

︵注︶使用したテキストー⑦g畠国胃冒の司段ヨニ言胃乏⑦男

巨弓堅国風凰犀国曾﹄.塁卸旨号巨門偲即○ず昌黒冒回至言①醗営命﹃ぐ曾旨甲

本文中の頁はこのテキストによる︒

︵1︶国彦のゴョ鴎韓毒胃丙①回自己国風具p冨昼目︑壷のご韓ロ弓くくめ?

(19)

95

旨園﹈鱈翫.妙一色.

︵2︶少.P︒.

︵3︶夢.草○.切勗P

︵4︶これは﹁ダントンの死﹂以後の作品の分枅によって明らかに

なるであろう︒

︵5︶一八三五年五月五日付の両親の手紙︒同じ年の七月二八日付

の手紙︒ここでピュヒナーは歴史に忠実であることを特に強調

しているが︑作品創造の粉において彼がこの態度を一賀させて

いるとは言いがたい︒

︵6︶ロマン・ロラン全典︑節一○巻﹁ダントン﹂︑︵みすず杏脇︶︒

︵7︶同上︑三一頁︒

︵8︶弓三⑦す⑱﹃ぬの﹃︒宛言三四﹃QmPp富︒異邑の己鈍具︒口円晩⑯︑い◎︲

員8P勺胃置.岳認.い︑韻I認.

︵9︶国屋︑琴己男吋診.曾○・印勗騨

︵︑︶︑⑥三二⑦司舎︒こすの﹃竺儲向﹃壷四ケの胃⑦・・今与いいnヶ罠曾至言印﹃声①・

国掌巴.君色目閏叩墨閂目目︒国夢百局z画号さ肩曾后忠.

印︒い︒

︵Ⅱ︶勺◎晩⑱鼻.ご色︒mo8﹃閲国蒔呂︒$皀口画昌︒国唄司︒q・・冒釦

ゼミ一﹃汚のヨ且めい一三︒﹃︻﹈い︵ロ毎画︶い◇四m︒

︵鯉︶国唇向言.の﹃亜諺.掌○.い岳騨

参照

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