東南アジアと御朱印船貿易
重 藤 威 夫
四
五 六
目 次
倭憲と御朱印船貿易…………97 御朱印船貿易の発展…………99 御朱印船の航海………101 御朱印船の貿易品と資本額…103
A輸出入品………103 B資本額………103 荒木宗太郎…………106 末次平蔵政直……1斜
倭冠と御朱印船貿易
朱印船貿易時代は,豊臣秀吉時代の文緑元年(1592)頃から,徳川家光将軍の寛永12年
(1635)までのわずかに40年余にすぎない短い期間であったが,日本歴史上,まことに豪 快な時代であった。
鎖国令によって,日本人は狭い島国にひっそくせざるをえない運命に立ちいたったが,
本来の日本人は海外雄飛という積極進取の気風をもった活力にみちた民族であることは,
朱印船貿易時代に活躍した朱印船貿易商人たちによって実証されている。
東南アジアと長崎との関係は,まず御朱印船貿易によって始るといっても過言ではない であろう。
御朱印船制度が創始された理由は,いろいろあるが,当時の我国の内外の諸状勢が,御 朱印船制度をつくらねばならないように立ちいたらしめたのである。
国内の事情としては,豊臣秀吉が,天正15年(1587)に,島津氏を降伏させて,九州を 平定し,天下を統一した。彼は国内が平和になったので,それまで海外各地を荒しまわっ ていた倭憲の海賊的行為を禁止するとともに,積極的に海外貿易を奨励する政策をとった。
倭憲は室町時代から戦国時代にかけて,さかんに活動したが,明の国王からいく度も倭 憲鎮圧の要求が我国に対して,絶せられた。そこで周防,山口の領主であった大内氏は勘 合符貿易により,貿易を統制することによって,倭憲の勢力を鎮圧しようと試みた。
レかレその効果はなく,倭竃の勢力は少レも衰えなかったqかれらはシナ沿岸はもとよ
りルソン,シャム,トンキン,アンナン,カンボジヤ,ジャワなどの南方諸地域に進出し
た。
かれらは700石一800石積の和船にのって,少いときは数十人,多いときは数千人の徒党 をくんで活動した。八幡大菩薩の旗幟をひるがえし,上陸するときは,法ら貝を吹きなら して進退し,日本刀を振りかぎして奪戦した。
閉庁のなかには,明人が時々参加していることがあった。かれらは倭憲の群に投じて,
その本国を荒すものがあった。そのなかで最も有名なのは,五峰王直であった。
王直は四国からの亡命者をかり集めて,自ら首領となり,我国の五島と平戸とを根拠地 として,明国の海岸を掠奪し,荒しまわった。そして掠奪した硝石や綿糸,綿織物その他 の諸産物を船にのせて,シャムや南方諸地域を往来し,莫大な富を蓄積した。五峰舶主と 名乗って,その威名を東南アジア諸地方にとどろかした。
彼は「倭人万人あらば,もって大明国を取るをうべし」と豪語して,意気さかんであっ た。そこで明国の国王はじめ一般人民たちも、倭憲をおそれることはなはだしく,わが国 に対して,門門の鎮圧を要求してきた。 ,
弘治2年(1556)に世宗は,使者を我国に派遣し,13代将軍足利義輝に対して,倭憲の 禁止令を要求した。鎮西探題の大友義鎮は,将軍義輝の返答を次のように伝えた。
「方今群雄四方に割拠し,争乱止まず,また兵を海外に用ふるいとまなレ。いわゆる八 幡賊の如きは,辺睡不逞の徒のなすところにして,制止を加うるに由なし。」
倭憲は永豫元年(1558)には,臨海,福清,恵安などの諸県を攻めて,男女4,000人余
・を捕虜にし,翌2年には漸東をおとしいれ,3年にほ二半を攻めた。 しかし5年G562)
に興引回を襲撃したが,明二巴三光に撃破された。それ以後は,猛威をたくましくし・た倭 憲の勢力もおとろえるようになった。
、元来,海賊商売は一見巨利をつかむようであるが,危険負担が大であって,実質的な利 益は少いものである。1,000石やF2,000石積の大船に,商品を山のように積込み.正常な貿 易取引による方法が,はるかに危険負担が少く,したがっで利益が巨大であることは当然 である。御朱印船貿易の発展によって,正常かつ安全な貿易取引が普及すると共に,倭憲
・1による海賊が次第におとろえて行くことは自然の成行どいうべきである。倭憲衰退の根本 原因はここにある。
∴豊臣秀吉が九州を平定し,天下を三山した年,即ち天正15年G587)に,彼はキニリシタ シ禁教にのりだし,宣教師追放令を出した。20日以内にパテ膨ンくキリーシタン宣教師)、の
.わが国内からの退去を命じた。ついで翌天正16年(1588)に,キリシタン領長崎と茂木と
:を没収して,公領・・(直轄領)にした。 , 、
冒秀吉がこのようなギリシタン弾圧にのりだした主な原因は,仏教僧侶施薬院全宗(徳運
)のざん訴によるものである。彼はその当時,織田信長の暴挙によって,焼打にあっ一た此 叡山の再興を秀吉に願っており,キリシタンぎらいであったg彼はキリシタンが隆盛に向
いつつあるのを見て,内心大いにおだやかではなかった。
キリシタンが仏教寺院を破壊したことが,秀吉の弾圧のおもな理由として,普通の歴史 書にあげられているが,事実はそうではない。破壊した事実はない。長崎では住民がすべ てキリスト教に改宗してしまったので,廃寺になった寺を天主教会に改築した例はあるが,
僧侶が現に住んでいる寺院を破壊した例はない。二三12年(1569)に,長崎の領主の長崎 甚左衛門が,天主教会とするために,一廃寺をポルトガルのバテレンであるガスパル・ウ イレラに寄進した例がある。ウイレラはそれを改造してトードス・オス・サントス教会と した。トードス』オス・サントスとはポルトガル語で「諸聖人」の意味である。
このトードス・オス・サントス教会は,慶長18年12月22日(1614.1.31)の徳川家康の キリシタン禁教令の直後,破壊されてしまった。それまでは慶長2年(1597)には,コレ ジヨ(大学)が,その翌年にはセミナリヨ(中等学校)が,天草からここに移され,西洋 文化の花が咲いていた。また遺欧少年使節たちがもって帰った金属活字機械も,天草から
ここに移され,貴重な学術上ならびに宗教上のいわゆるキリシタン版が出版された。きわ めて短い運命に終ったとはいえ,今から370年以前にすでにヨーロッパ風の大学やグーテ ンベルク式の金属活字版出版がなされたことは,我国の文化史上注目すべき事実である。
これはあとで仏教寺院として復興され,現在春徳寺として残っている。
秀吉の弾圧のほかの理由は,「なぜ人民にキリスト教を強制するか」とか, 「なぜ宣教 師たちは,大切な牛馬をたべるのか」などあげられているが,これらも本当の理由とは考
\ ノ えられない。
秀吉は宣教師追放令は出したが,貿易禁止の考えはなかったので,朱印船貿易を本格的 にはじめた。そのためには正常な海外との貿易を邪魔する海賊行為を厳禁する政策をとっ た。倭憲を厳重に取締るように全国的に命令した。
1すでに秀吉は天正14年(1586)の9月に,小早川隆景に命じて,能島の海賊を攻めほろ ぼさせた。天正16年(1588)7月には,全国的な海賊禁止令を出して,厳島の海賊および 全国津々浦々の漁師船頭の検閲を命令し,領主で怠慢なものには成敗を加うべき旨を通達
している。その禁令は大いに徹底したらしく,加藤清正の領内でも「ばはん⊥に出たもの を捕えたことが報ぜられている。翌天正17年(1589)には,秀吉は肥前の松浦鎮信に命じ て,海賊テッカイの捕縛を命じている。
(1)
なお全国的な海賊禁止令と同一日付である天正16年7月8日に刀狩令を発布しているが,
海賊禁止令には,右の理由のほかに彼の全国を統一し,その威令を及ぼそうという目的が 併存していたことが看取される。
二 御朱印船貿易の発展
秀吉の海外貿易奨励政策は,家康時代に引きつがれてさらに拡大き,れた,積極的に日本
人が海外へ雄飛する時代が始つた。
文緑元年(1592)に,秀吉がはじめて朱印状を南洋渡航船に下付したとされており,日 本人の海外渡船はそのころから始つたと考えられる。しかし秀吉が下付した海外渡航船の 朱印状は,一枚も残っていない。
江戸時代に南方に渡航した朱印船の数は,正確な数をあげると,慶長9年(1604)から,
寛永12年(1635)の鎖国令までの32年間に356隻に上っている。
秀吉が下付した朱印状で,現存するものは一枚もないが,家康が下付したものは,現在 24通残っている。その書式はおおむね同一型式をとっている。その一,二例を次に示す。
御 朱 印
慶 長 九 右 年
郵 駅 八 月 堂 倉
太 自 泥 日 國
舟本
也 到
御 朱 印
慶 長 第 二 十 乙 已 年 九 月 十
日
東 自
評日 船本
也 到
これは家康が慶長9年(1604)に下付した太 泥国への渡海朱印状である。太泥国とは,パ タニ(Patani)と読み,マレー半島の東部海 岸にある一小王国である。
これは角倉了以に下付されたものである。
異国渡航の御朱印状の有効期間は,一一航海に限られた。一航海が終ったならば,これを 返却しなければならなかった。御朱印帳によれば,同一人に対して,同一地方宛の御朱印 状が毎年引つづいて下付された場合も少からずある。
もし船主に故障があって,航海をなさず,そのまま翌年に入ると,その御朱印状は無効 になり,取扱当局者に返却しなければならなかった。
相国寺所蔵文書,慶長十年乙已七月朔日付,安南国宛御朱印状の上包に「此御朱印乙已 島津へ被下愚へ共,舟不渡,慶長十一年九月十三日此方へ来ル」と記してあるのはこの事 例である。
(2)
渡航先は南シナ,トンキン,コーチシナ,シャム,マレー半島,フィリピンなどの南方 各地に及んでいる。
朱印船はすべて長崎を基点として渡海した。
長崎朱印船の貿易商人として,末次平蔵,船本弥七郎,荒木宗太郎,高木作右衛門,後 藤宗印,糸屋随右衛門などが有名である9長崎の代官村山等安も朱印船を派遣している9
京都の朱印船商人としては,茶屋四郎次郎,角倉四国が著名である。堺からは木屋弥三左 衛門,西類子(西ルイス)などがあり,大阪からは末吉孫左衛門などがある。
御朱印船にのって,はるばる万里の波濤をこえて,東南アジアの各地に活躍した人々は,
商人が最も多く,その大部分を占めている。しかし家康は朱印状を商人に限らず大名,武 士階級にも与えて,海外への日本人の雄飛を奨励する政策をとった。彼はさらに日本人に 限らず,長崎や平戸に在住する唐人や西洋人にも朱印状を与えて,海外貿易を広く振興し ようとした。
大名としては薩摩領主の島津忠恒,平戸の松浦鎮信,有馬の有馬晴信,佐賀の鍋島勝茂,
因幡の亀井弦矩,肥後の加藤清正などがある。
朱印船貿易が盛んであった慶長9年(1604)から,元和2年(1616)までの13年間に83 人の船主と193隻の外航船があり,年間平均約15隻の朱印船が,長崎から東南アジア各地 へ向けて航海の壮途に上ったことになる。
三 御朱印船の航海
朱印船が東南アジアへ向けて航海するには,二つの航路にわかれていた。
e 長崎一マカオ・シャム航路
長崎を出帆して,港口の伊王島から男女群島に向い,そこから針路を西南に転じて次 第にシナ大陸に近づく。福江省陣門から,南に向い,右手に大陸を見ながらマカオにい たる。そのほかマカオに行かない場合は,南シナの沿岸からトンキン,ツーラン(コウ チシナの一港)サイゴン,シャム,パタニなどに向つた。
口 長崎一ルソン航路
長崎から男女群島に向い,そこから針路を南に向け石垣島に達し,さらに南航して,
タイワンの東方海岸の沖を南に下ってルソン島にいたる。
朱印船の大きさは,大は角倉船の800トンから,小は島津氏が甲州で建造させた50トン 余のシナ船などがあるが,同船を除けば,いずれも100トン以上,即ち1,000石積以上の船 で,平均して268トンになる。
(3)
角倉船は長さ30問,幅9問の船で,397人が乗船することができた。そのうち水主(船 頭,水夫)は80人であった。水夫以外の317人は便乗して渡海し,海外貿易で一旗あげよ
うとする商人たちであろう。この角倉与市の朱印船は,寛永3年(1626)10月に長崎を出 帆して,翌年3月にシャムに渡った。
慶長9年(1604)に,加藤清正が建造した新造船は,長さ20間,幅5間余で,座敷を三 重に設け,16畳の広間と 浴場がある大船であった。彼は慶長12年(1607)に西洋宛,14年
にはシャムとコーチシナ宛の朱印状を下付されているが,この大船を使用したであろうこ とは当然に推察できる。
(4)
以上の二塁は朱印船の中でも大型に属するものである。
朱印船はすべて帆前船であるから,その航海は季節風によって左右されることは当然で ある。冬の北東季節風にのって,長崎から出帆し,夏まで南方の各港に碇泊する。そして 夏の南西季節風にのって帰国するのを通例とした。したがって一航海を往復するのに半年 を必要とした。
朱印船の渡海がはじまった頃は,日本人の中で遠洋航海に通じているものがすくなかっ た。そのために,朱印船が東南アジア方面に渡航するときには,ポルトガル,スペイン,
オランダ,イギリス,シナなどめ外国人のパイロットを傭入れることが多かった。
しかしこれより以前,キリシタンの宣教師の渡来と共に,彼ちによって天文学,地理学 が伝えられ,また地図や地球儀が輸入されて日本人の目を世界に向けさせるのに大いに役 立った。
我国の遠洋航海術は,ポルトガル人によって伝えられた。
長崎在住の池田与右衛門が,同じく長崎に住んでいたポルトガル人で朱印船貿易家のマ ヌエル・ゴンサルヴェス(Manoel Gonsalves)の指導をうけて,元和4年(1618)に「
元和航海記」を編輯した。 1
池田与右衛門は,慶長14年(1609)12月に,長崎港外の神ノ島付近で撃沈されたポルト ガル船の引揚作業を試みた。彼は寛永13年(1636)に,長崎奉行の許可をえて,京都の人 で水学という者と共同して,沈没貨物銀高600貫目余を引揚げた記録をもっている。
マヌェル・ゴンサルヴェスは,慶長18年(1613)1月11日にシャム国へ,同じく19年
(1614)1月1旧にコーチシナ国への朱印状を下付された船主である。
池田与右衛門はゴンサルヴェスの船に便乗して,元和2年(1616)から,8両年にわたっ て,ルソンに渡航し,その間にゴンサルヴェスから西洋流の航海術を学んだ。そしてポル
トガル人の按針(パイロット)が疑問としている点については,自ら工夫研究して,ほぼ その法を明かにすることができたので,子孫のために醗訳記録して,後世に残すという目 的で,右の書を公にした旨を彼は書いている。
(5)
彼らはすでに全円儀,半円儀を使用して,太陽の位置を観測し,その角度を計ってのち,
ついで緯度を算定し,船の位置を決定した。夜は北斗七星などの恒星を観測して位置を定
めた。
元和航海記には羅針盤方位図が記載されているところがら,羅針盤を使用して船の方向 を定めたと考えられる。
海の深さを測量するには,「釣瓶を打つ」という方法を用いた。釣瓶と称する重さ8−
9斤ある即製の楕円形の筒をつくって錘となし,その尖端に油と豚の脂肪を混和したもの をつめた。これを海中に沈めて,海底の土質と同時に水深を知るようにした。錘には80尋 の長さの縄をつけた。水深40尋位のところが最:も航海に適するとなし,水深がこれ以上深 い時には陸地に近寄って航海すべきものとしたg
航海図としては,ポルトガルの航海士が使用した海図やそれを手本として作られたもの が.数枚現存している。用紙はすべて羊皮紙であって,ポルトガル船によって輸入された ものである。その中の一は東京の国立博物館に所蔵されて居り,慶長3年(1598)に作製 きれたもので,地名はすべてラテン語が使用されている。
要するにポルトガル人によって,その当時では最も進歩した西洋流の航海術が伝えられ たために,海難事故を防ぐに役立ったことは明かである。
四 御朱印船の貿易品と資本額
(A) 輸出入貿易品
朱印船によって,我国から東南アジアの各地へ向けて輸出されたものは,銅,鉄,遊園,
銅器(やかん),漆器,まき絵,傘,せんす,びょうぶ,硫黄,樟のう,麦粉,加工食料 品などであった。
東南アジアから我国に輸入されるものは,生糸,絹,絹織物,さとう,薬種,伽羅,丁 字,唐木,鹿皮,さんご,陶磁器,蘇木などである。
マニラからは右のほか,羅紗,予々緋などの毛織物,ぶどう酒,金などが輸入された。
コーチシナからば,その特産晶である胡しょう,蜜,籐,鮫などがある。
カンボジヤからは,漆,象牙,水牛角,さい亀 びんろう子,大楓子,くじゃく尾,う こんなどが特産品として目につく。
シャムから輸入されるもので,目につくのは鉛,錫などめ金属である。
(B) 資 本 額
朱印船は一隻平均500貫目余の銀を積込んで渡航した。多い場合には1,500貫からL600 貫余に上ることもあった。
これは貿易資金として,東南アジアの各地で,種々の産物を買付けるために用意したも のである。
これらの資金は,朱印船貿易家が単独で出資する場合もあったが,他から投銀と称する 資金を借りる場合が多かった。
朱印船が海外に渡航する場合には各種の投資方法があった。
e 朱印船貿易家が単独で全額を出資し,自己の船を礒装して渡海する場合 口 朱印船貿易圏が,他の船主から傭船して経営する場合
日 二人以上の朱印船貿易家が,共同出資による場合
,四 一朱印船貿易家の船に,多i数の客商が船賃を払って便乗し,資金や商品をたずさえ て,複合的に貿易を経営し,さらに彼らの船賃や運賃が,船主の貿易資金にくり入れ ちれた場合
㈲ 船長や水夫などが,各自相当多額の資金や商品を船に持込んで,渡航先で貿易した
場合
因 国内の有力者や商人などが,他人の朱印船に,商品や資金を託して,間接にその貿 易に参加した場合
以上の6形態は単独であった場合よりも,むしろその2又は3が組合せられた場合が多か つたに相違ない。
(6)
以上六つの場合があったが,何れにしても資金が不足する場合には,渡航船主である朱 印船貿易家は,他から投銀という一種の投機的性質をもった資金の融通をうけねばならな かった。
この貿易資金の融通は,普通の貸借関係のほかに,投機的性質をもち,さらに海上保険 の性質をもったものであった。 、
その貸借方法は次のようにかなり複雑したものであった。
渡海する朱印船主のほかに,甲乙の貸借当事者がいて,朱印船主に金融する形式をとる のである。つまり,この船主が出航しようとするにあたり,甲は一定の銀をこの船主に提 供し,共同資本として,渡航地で産物を買入れたり,渡航費を支弁したりする。甲と朱印 船主は貸主の乙に対して,連帯保証人の立場にある。
この海外貿易によって生ずべき利益を見込んで,いわばこの予想利益を担保として,甲 は乙から一定の銀を借受ける。元利金の返済は,その朱印船が無事帰航した後に行われる。
もしその船が海難その他の原因で,帰航しなかったときには,元利金の返済の義務はな いことを予め約束しておくものである。したがって投機的な性質が大きかった。この貸付 金を投銀というのは,その投機的な性格からこのように名付けられたものである。
帆船時代の遠洋航海の危険は,現代に比べると極めて大きかった。天候の変化による不 可抗力的な海難のほか,この時代には海賊の危険も多かった。難破,掠奪,海損の危険は 大きかった。
このように海難の危険が大きかった時代に,危険性の多い投機的な条件の下に貸借関係 が行われたのは,一見不思議に考えられるが,当時の冒険心のさかんな時代精神と貿易利 潤がはなはだ大きかったことを考えねばならない。この時代の海外貿易の利益は極めて大 きかったので,資力がある金融業者は,かなりの危険を覚悟で貸付けを行い,高率の利息 を手に入れることができたのである。
朱印船は冬に北東季節風にのって,東南アジア各地に向って出帆し,夏に南西季節風に のって帰帆するのが通例であったから,一航海往復半年かかった。
したがって貸借の期問は,約半年であることは明かである。その利率は3割ないし5割 であるが,多いのは8割,11割に及ぶものがあった。つまり年利にして,6割ないし10割,
多いときは16割,22割になるときがあった。利率の高低如何は,借主の信用状態によって 定められることは明かであるが,さらに渡航地及び第三者である朱印船主の信用如何によ
っても定められることは当然であろう。次にその一例を示す。
(7)
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借 用
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銀 子
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事
これはるいす清二郎が,中野彦兵衛(即ち,末次彦兵衛)から,投銀を借入れた証文で ある。これを資銀として渡海した「ひごしいくわん」の船が,帰朝したとき,元利合せて 返済すべきことを約束したものである。
ひごしいくわん(肥後四官)とは明国人四官のことである。彼が朱印船主で,元和3年 G617)にコーチシナへの朱印状を下付された。翌4年にも渡海している。
るいす清二郎とは,西類子のことで,彼は長崎の大浦に居住し,朱印船貿易家どして有 力な存在であった。彼は大村藩の武士の出であるが,のち武士たることをやめ,朱印船貿 易家として度々ルソンに渡航した。ルソンとの貿易の便宜上カトリックに帰依した。晩年,
朱印船貿易家をやめると共に,「ころび人並」として,法華宗に改宗した。
この場合は西類子が,申野彦兵衛から,金を借り,明人四官と共同出資で,四官を渡海 朱印船主として,コーチシナとの貿易を行ったものであろう。西と四官とは貸主の申野に 対して連帯保証人の地位にある。
「かいしゃうは不存候」とは,もし海難その他の原因で,四官の船が帰らなかった場合 には,返済の義務がないことを意味したものである。 「かいしゃう」とは海上の意味であ
る。
この場合は,元金は丁銀子で500目,利息は5割の250目である。元利合計,750目にな
る。
この貸借関係はその年度内では決済されなかった。翌元和4年8月28日頃,660目を支 払って,残金の90目は翌5年に支払う約束になった。船が無事帰帆したことは明かである
が,全額が一度に支払われなかったことは如何なる理由によるものであろうか,記載して ないので知るをえないが,支払が延滞しているところを見ると予期通りの貿易利潤がえら れなかったのであろうか。あるいは他に何らかの事故で出費が多かったことによるもので
あろう。
朱印船に関係した投銀の証文は十数通票っている。その貸借金額は次の通りである。
(8)
匙 左記の金額は,朱印船一隻に積込んで外 6賃 目…………1
5貫目…………2
3 貫 目…………1
2貫目…………6
1貫500目…………2
1貫…………2
500目・・・・・・・・・… 1
地にもち渡った資金の100貫ないし1,600貫 目(一隻平均500貫目)に比べて,かなり 少額である。これは少額の資本が多数の貿 易商に対して,川口も投資されたことを示 すものである。当時の航海技術と朱印船が 100屯あまりの木造帆船であったことを考 えれば,投資の危険分散方法として,この ような方法をとることが必要であったこと が了解される。
五 荒 木 宗 太 郎
荒木宗太郎は,肥後熊本の藩士の出である。天正16年(1588)に長崎に来て,浦上淵村 稲佐郷飽の浦に居住した。
その前年は豊臣秀吉がキリシタン弾圧にのりだした時である。即ち,天正15年6月19日 に,彼はキリシタン禁教を令し,20日間を限って,バテレンたちの国外への追放を命じ,
長崎と茂木とを天主教会の手からとり上げて,公領とした。しかし海外諸国との貿易につ いては,禁圧の考えはなく,むしろ奨励政策をとった。
黒船の儀,商売の事に喚問格別の事,年月を経,諸事売買鏡町候
文腺元年(1592)に秀吉は,はじめて朱印状を長崎,京都,堺の商人に下付して,積極 的に貿易奨励政策をとった。
この時,長崎商人の手によるもの5隻,同じく京都3隻,堺1隻の朱印船が出ることに なったが,何れも長崎を基点として渡海した。
長崎斯界町乙名荒木作三郎家所蔵の古文書には,
文腺の初,従日本国異国通商のため,渡海被為成御免,京都より三艘,堺の浦より一・
艘,長崎より五艘の船主は,東京,交趾,四聖塞,早川,六事等之国々江渡海国候。右 之内一艘は,私先祖宗太郎と申者ニテ,元和八年壬戌年壱徳院様御朱印頂戴仕,広南学 来仕候
とあって,荒木宗太郎の朱印船が,文緑元年G592)に渡海したように書いてあるが,
実際に彼がはじめて渡海したのは,慶長11年(1606)である。文腺元年(1592)と慶長11 年(1606)との間に渡海したかどうかは明かではない。右の文書で元和,8年 Ga22)に朱 印状を下付きれ,ベトナムに渡海したと書いてあるが,これは彼の第4回目の渡海にあた
る。
この時代は長い戦国時代の遺風があって,人々の間に豪快な気運がみなぎっていた。国 内の戦場で覇を唱え得なかったものは,海外に雄飛することによって,そのうつぼつたる 志をとげようとした。我が国の歴史上,日本人の海外雄飛の機運がもっとも盛んな時代で
あった。
荒木宗太郎も秀吉の海外貿易奨励政策に着目して.その時代の主流をなした海外雄飛の 気運に乗じて,海外で一旗あげようとの志をもつようになった。そこで武士の身分を捨て て,商人となり,東南アジアの各地に渡航して,海外貿易に従事し,新「しい運命を開拓し ようとした。
朱印船主のなかには,親族,子弟あるいは番頭,手代などを代理人として派遣したもの もあったが,彼は自ら自己の朱印船に乗込んで,万里の波濤をこえ,海難の危険を冒し,
実際に海外貿易に従事した。
彼の渡航回数は,6回に上っている。これは記録によって,たしかめえられる数である。
第一回 第二三 門三回 第四丁 丁五回 第六回
慶長11年(↑606)……1 慶長15年(1610)……1一 元和5年(1619)……1 元和8年(1622)……τ 元和9年G623)……1 寛永9年(1632)……1
二 二 艘 艘 艘 艘 計 6 〃
慶長11年から寛永9年までの26年間に,6回渡海している。この数はほかの朱印船主の 朱印船派遣i数に比較すると多い方である。
寛永12年(1635)の家光将軍の鎖国令によって,朱印船貿易はとだえてしまった。
荒木宗太郎は,主としてコーチシナとシャムに渡航した。
コーチシナ即ち広南では,安南国王の王族,玩氏に格別の知遇を与えられた。防氏は安 南国で,軍事上,行政上極めて高い地位にあった。安南国天下統三都元帥瑞国公,安南国 大都統瑞国公などと称して我国ともしばしば外交上の交渉をなしたことがある。
いわばその当時の安南国の陸海軍を統帥する元帥と総理大臣の二つの地位を占めていたと 考えてよいであろう。
元和5年(1619)に,彼の第3回目の渡航のとき,翫氏はその娘を彼に嫁がせた。
そのとき「安南国書」を荒木宗太郎に授与した。それには両国〔安南と日本〕の和親を はかり,日本国の船主荒木宗太郎を安南国の貴族に列せしめ,彼に防太郎という名称を与
える旨が書いてある。一種の結婚承認書あるいは結婚誓書ともいうべきものであろう。こ の国書は現在,長崎市立博物館に所蔵されている。
かくて彼は安南王女を同伴して,帰国した。彼はその妻と共に,長崎の飽の浦に居住し,
終生の夫婦の契を全くした。その妻アニオーとの間に一女家須(やす)が生れた。宗太郎 は寛永13年(1636)に没した。アニオーは正保2年(1645)に没。長崎市の大音寺に夫妻 の墓が残っている。維新前までは,その旧宅は保存されていた由であるが,現在はその居 宅も居宅趾もわからない。
この夫人の名は系図に王加久戸売と記されてあり,大音寺の墓碑には,慧光院覚誉妙心 大姉と刻んである。通称アニオーさんの名で,親しまれていた。アニオーの意味は明かで ないが,一種の愛称であろう。
安南王女が長崎に来るときにもつてきた鏡がある。その鏡は黒漆ぬりで金まき絵を施し た木箱の中央にはめこまれている。その箱のふたは,左右に開くようになっているが,右 側のふたには二羽の鶴,左側のにはこ匹の亀が金まき絵で画かれている。この絵の意匠と 箱の構造から見ると,この木箱は我国で製作したものであろう。このように精巧なうるし 塗で,金まき絵の美術工芸品は,その当時は安南国で製作できるとは考えられない。まさ
に我国の作品であろう。漆器やまき絵は,その当時我国から,東南アジア諸国へ向けての 主要輸出品の一つであったからである。我国から輸出されたか或は荒木宗太郎が持参した 木箱に,安南国で鏡面を入れたものであろう。この鏡は現在,長崎市立博物館に所蔵され
ている。
荒木宗太郎に下付された朱印状の写しが,現在,長崎市立博物館に所蔵されている。元 和8年(1622)彼の第4回目渡航のときに下付されたものである。この朱印状は宗太郎の 孫,伊太郎好信の代まで伝えられたが,天和元年(1681)に長崎奉行所へ返納し,その写
を家伝として後世に残されたものである。
元 和
十 八 一 年
月 四 日
船 也
交 従 日 趾 本 国 到
朱 印 船 絵
荒 里木 菌宗 渡太 海郎船 之 図
この朱印状写の下方に,荒木船の絵が書いてあるが,それによって荒木船が使用してい た旗印を知ることができる。
この荒木船の旗印は,オランダの連合東インド会社の マークを正に倒置した格好をしている。
V.O.Cは次の会社名の頭字をとったものである。
Vereenigde Ostindische Compagnie
(連合東インド会社)のマーク チューリップを図案化したものである。
荒木宗太郎が,自己の船の旗印になぜこのように,オランダ連合東インド会社のマーク とまぎらわしいマークを用いたか?ということについては,いろいろの説があるが,いず れも臆説の範囲を出ない。荒木家の子孫の黒川たい子氏の談話では,これは荒木の姓を表 わしたものであるとされている。つまり荒木の頭字のAをくずしたものであるという説で ある。しかし,これを倒置するとオランダ連合東インド会社のマークと伺一のものになる ところに疑問が生ずる理由がある。
荒木宗太郎の渡海に関連した投銀の証文が残っている。これは当時の海外貿易での投資 (9)
の方法を示す実証的な事例であるから,貴重な史料といわねばならない。
島 井 徳 左 衛 門 殿 上
野 又 左 衛 門 花 押 並 印
元 和 九 些 再 十 五
日
本帰申右手朝候我
形之 等
我銀荒子は刻但銀
籍藷翻
申第門尾候にの市 三相船左渡に衛 し海門
可上 に
上候候 し以申申借
、 、
ま し さ
ん 用 申 候
利合分丁 四銀わ子 半貫り五 覚
若 目
か者こ
い但申 め
候たは り ば 五
壱拾わ め
り有
上掲の証文申;r但めたり五拾め有」というのは,目垂り,即ち,重量の超過が50匁あ ることを示す。したがって,元金は5貫50匁あることを貸借当事者間で承認したことを示 していると考えられる。当時は秤量貨幣であったからである。重量の超過がなく正味5貫 目あった場合には,「丁銀めたれなし也」などという言葉を証文中に記入している。
「若かこい申候はば壱わりましさん用申候」というのは,朱印船の出帆が,なんらかの 事情でおくれた場合には,次の季節風まで一年間待たねばならないから,出帆延期の場合
には,利率を1割増にするという契約である。
朱印船は冬の北東風に乗じて,東南アジアに向うのであるから,その時期を失うと翌年 冬の季節風まで,一年閥待たねばならな
かった。投銀はその性質上,一航海を終 らなければ,元利金の決済はできないか ら,貸主にとって,元本を一年間据置く ことが不利であるのは明かである。その ために右のような特約が必要であった。
この証文の貸借関係は次のようになる。
島 井
勝 野
、・投ノ
銀 関
係 荒
木 船
勝野又左衛門が,丁銀5貫目を島井徳左衛門から借受け,これを自己の「銀子同前に」
膏尾市左衛門に転貸したものである。
高尾はこの金を荒木惣右衛門即ち荒木宗太郎の朱印船にのせ,渡航先での商晶買入れの 資本としたものである。高尾と荒木船との関係は,高尾が客商として,船賃その他の費用 を船主兼船長の荒木宗太郎に支払って,荒木船に便乗し,資金や商品をたずさえて渡航し,
複合的に貿易を営むという関係に立っている。高尾と荒木とは,別個の計算で貿易取引を なしたと考えられるが,共同の計算で行い,損益は按分比例的に分担した場合もあったで
あろう。
荒木船の帰朝後,元利金の決済をなす約束である。
「本手形は我等請取置申候也」とあるのは,,高尾から差出した投銀の借用証書は,勝野 が受取っていることを意味している。投銀の貸借関係は勝野と高尾との間だけに成立して いるのであって,もし荒木船が帰港しないときには,勝野が損失を負担することになる。
島井と勝野との関係は,普通め貸借関係である。したがって,この島井と勝野との間の 貸借関係の証文には,「海上は我等不存候」という投銀の貸借関係の証文に,常に用いら れる文言は・書かれていない。
勝野は島井からこの証文のように4割半の利率で銀子5貫目を借入れ,その金を高尾に は投銀関係でさらに高率の利息で貸したものである。そしてその間の利さやを稼ごうとし たのである。勝野は他人の金で,乾坤一酌の大投機を試みたものである。俗に他人のふん
どしで角力をとるという言葉があるが,まさにこの関係にあてはまる。
六 末次平蔵政直
長崎は元亀元年(1570)に,その翌年からポルトガルの定期船が入港することに定めら れた。そこで多数の商人が各地から集って来た。大村純忠は,幅71年(元亀2)の3月ご ろ,家臣朝長対島を長崎町割奉行に任じて,長崎に派遣しヂ町割を行わせた。
現在の下町,築町,江戸町,樺島町あたりは,むかし海浜で」その海に小さな岬が突出 していた。現在の馬町,桜町から県庁がある外銀町につづく高台がそれである。町割はこ の長い岬の上に行われた。この長い岬ダナンカサキが長崎の地名の起りで,長崎の領主長 崎甚左衛門は,その姓をこの長崎の地名かちとったといわれている。長崎甚左衛門は,大 村純忠に属し,その夫人は純忠の娘であった。大村純忠も長崎甚左衛門もキリシタンであ
った。
最初は,島原町,大村町,文知町,外浦町,平戸町,横瀬浦町の六町であった。その町 名はその町に移住した人々の出身地を示すものといわれている。文知町はのち外浦町に,
横瀬浦町は平戸町に合併し,島原町は明治5年に万歳町と改称された。
そののち次第に発展して,1594年(町営2)・に23町が完成した頃は,戸数3,000戸,16 11年(慶長16)に人口25,000人,1614年《慶長19)には,50,000人に増加した。その頃は 市民が全部キリシタンであった。 ・ 腫 一・一
末次氏の先祖は,1571年(元亀2)の開港後まもなく博多から移住してきた商人であっ
た。
平蔵の父,興善は,私財を投じて;C新しぐ一町を開拓した。興善町といわれるのがこの 町である。興善は商才に富み,家業繁栄して巨富を蓄積した。平蔵も父以上に商才と胆略 に富み,ポルトガル人に楽ならって海外雄飛の志を,早くから抱いていた。
1592年(草原元)に,秀吉が朱印状を富商に授けて,海外貿易を奨励すると共に,末次 平蔵は荒木宗太郎,糸屋随右衛門,船本弥平次と協議し,朱印状の下付をうけて,それぞ
れ貿易船を東南アジアの各地に派遣した。
この時,朱印状を授けられたものは8人であるが,末次平蔵だけは2艘を出し,他の7 入は1艘を出したので,派遣船は9艘となり,世に9艘船と称されている。.
長崎から末次平蔵,荒木宗太郎,糸屋随右衛門,船本弥平次,京都かち茶屋四郎次郎;
角倉了意などが,船を派遣した。すべて長1埼から出帆した。
末次平蔵はその後,長崎代官の地位につき,勝山町の宏荘な邸宅に居住した6今の勝山 小学校があるところである。彼は海外貿易による巨額の利益金のほかに,代官と:して毎年 村々からとりたてる年貢と幕府に上納する運上銀(年に50貫目)との差益を手に入れで,
ますます富み栄えた。
末次平蔵は家康時代に入ってから,1604年(慶長9)から,1634年 (寛永11)まで,30 年間に9回の朱印船を派遣レている9寛永5年(1628)には2艘派遣レているので,派遣
船数は10艘になる◎
第1回…………慶長9年(1604)…………1 第12回…………元和6年G620)……・・…・1 第3回…………元和8年(1622)…………1 第4回…………元和9年(1623)…………1 第5回…………寛永3年(1626)・・…・……1 第6回…………寛永5年(1628)…………2 第7回…………寛永8年(1631)…………1 第8回……・・一寛永10年(1633)…………1 第9回…………寛永11年(1634)・・……一1 計 10 この派遣船数10というのは,
た。朱印船貿易家は105名を数えるが,その70%は,
艘以上を派遣し,第一流に位する朱印船貿易家は次の通り。
⑳ 角倉了意(京都)………16 ← 末吉孫左衛門(大阪)………・……・・12 李 旦(シナ人) (平戸)………・・…・…12 茶屋四郎次郎(京都)………・……・・11 船本弥七郎(長崎)・・…・…………11 末次平蔵(長崎)………10 木原弥三左衛門(堺)………10 ヤン・ヨースチン(長崎)………10 末次平蔵政直は,長崎代官の要職につき,勝山町の宏荘,
艘
〃
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〃
〃
はなはだ多い方で,朱印船主としては第一流の存在であっ 1一一2艘の船しか出していない。10
華麗な大邸宅に居住し,その 繁栄を誇った。寛永2年(1625)に,諏訪神社の復興にあたって,宮司の青木賢清を助け て,壮大な社殿の造営に多大の尽力をした。
初代の平蔵政直以後,代々栄華を極めた。寛永12年頃1635)の鎖国令以後も,それ以前 の貿易利益金の巨大な蓄積と長崎代官としての収入によって,繁栄をつづけた。しかし古 来,藤原氏や平氏の栄華の歴史が示すように,一家一族の繁栄は永続した例はなく,数代 にして滅亡するのが,歴史の鉄則である。
一町人の身分でその富は,40−50万石の大名も及ばずといわれた末次家も4代目で,没 落の悲運を味わねばならなかった。
第4代末次平蔵茂朝は,先代のあとをついで,明暦元年(1655)に,長崎代官に任ぜら れた。しかるに延宝4年目1676)にいたって,かんぽじやへの密貿易が発覚して,一家一 門全員が厳重な処罰をうけ,家財,家屋敷,地所など全部の財産を長崎奉行所に没収され て,一家滅亡してしまった。
(1助
末次平蔵の召仕〔番頭〕の陰山九太夫が,唐人小通詞〔小通事〕〔註〕下田弥惣右衛門 と共謀して,かんぽじやへの密貿易を企てた。
鎖国令が出されてから,すでに20年を経ている。幕藩体制下の厳重な渡海禁止の法令を 犯すのであるから,万一発覚すれば,主犯が極刑に処せられるのは勿論であるが,徳川時 代の刑罰政策は,家長の罪は一家一・門にその累が及ぶのを原則としたから,一家一門の全 滅を覚悟しなければならなかった。危険極りない企業であった。しかしこのような危険を 冒してでも,乾坤一頃の冒険をやるだけの貿易利益金があったことを,その反面において は物語るものである。過去の9回にわたる渡海による巨額の利益金をあげえた夢が忘れが たかったのであろう。
陰山と下田の二人は,唐人王憎憎所有の船を買取り,王仁尚,七二官という唐人船頭を 恥入れ,かんぽじやへ商船を派遣した。 ,
主人の末次平蔵は,投銀をなすという形でこの密貿易に参加した。
この事件が発覚した端緒は,奉行所へ訴入したものがあったことによる。
この密貿易が発覚したのは延宝4年(1676)正月であるから,渡海船を派遣したのは,
その前年であろう。
訴人の密告によって,奉行所では大いにおどろいた。末次平蔵茂朝は長崎代官の要職に あり,長崎奉行の片腕ともいうべき地位にあったからである。初代の平蔵政直以来,末次 家は代々長崎代官という重要な地位にあったからである。長崎奉行は1年かあるいは数年 で,交代するが,長崎代官は世襲的であったから,その実際上の権勢は長崎奉行以上であ つたであろう。まして,末次家は朱印船貿易家の子孫として,近隣の35万石の大名鍋島家 以上の豪富を蓄積していたといわれる大分限者であったからである。
延宝4年(1676)1月9日に,茂朝は奉行所の捕手に召取られて厳重に取調べられた。
しかし申開きができず,五島町の筑前侯邸に御預けになった。主犯以下の処罰は,犯科帳 によれば,次のように申渡された。
(1)陰山九太夫(平蔵召仕)…………44才。町中を引まわしの上,長崎港内の早島では りつけ。
(2)下田弥惣右衛門(唐人小通詞)…39才。同罪。
(3)弥留九郎右衛門………44才。唐人共へ投銀の才覚をなし,船修復の肝煎 をなした。町中引まわし,斬罪,裸島に獄門。
(4)末次平蔵母………63才。女人の身で唐人と交際。投銀をなす。壱岐
\
へ流罪。
・ (5)末次平蔵政直………43才。代官の身で投銀。家屋敷,財宝欠所。隠岐 国へ流罪。
⑥ 末次平兵衛(政直長男)…………20才。隠岐へ流罪。
(7)三十郎(平蔵末子,但中西八郎左衛門養子)…3才。平蔵母と共に壱岐へ流罪。
(8)陰山虎之助(九太夫子)…………9才。斬罪。父と同所に獄門。
(9)九太夫妻………・…・・…………25才。娘(2才)と共に,高木彦右衛門の奴。
ω 九太夫娘ひさ………・・…・……13才。高島四郎兵衛の奴。
ω 末次平左衛門………25才。密貿易の件については知らなかったが,平 蔵の名代になって,諸事用向を勤めたので,家屋 敷没収。江戸,京,大阪,堺,奈良,伏見,長崎 近辺追放
そのほか多数の人々が,一家一門に属するという理由で,町内預け,親類預けや追放の 処分になっている。
次に没収された家財の目録が残っている。これによれば50万一60万石の大名も及ばない (13
と称された豪富の実体を知ることができる。世評が誤でなかったことが証明される。
一現銀8,700貫目余 一・金小判3,000両入30箱 一 黄金10枚入10箱
一 銀10,000貫目余但貸置所也
一 正宗刀脇指並唐物早戸,其他諸道具入土蔵1戸 一・伽羅1本;長さ1丈ヰ尺,末口6寸2分 一 同上7本,長さ9尺,末口5寸
一同上60本,長き4尺5寸.末口・5寸 一 同上長持18檸,但小木也
一 同上足駄5足
一驚せんだんの入たる長持5樟 一 さんご国大小玉3箱
一 水拳玉諸種2箱 一 笹子の芙蓉3飾 一 セイコウの茶壷 一 古真畔5
一・今渡茶壺75 、 , 一・同茶碗500余
一 ちんだ酒〔赤ブドー酒〕黒塗樽5 、 一 唐古筆名画掛物700幅
一 唐物諸道具1,500箱 一 銑子家具10人前
一 染付けの皿鉢,その他種々の器物600箱
噌めのう硯1面
一 めのう屏風大小17讐
一 古絹長持5樟但金らん銀らん広東製也 ・一 刀脇差200腰但折紙鑑定あり
右のほか宝蔵の諸道具共に,中積り金小判にして凡60万両余也
勝山町の末次家の本邸は,町年寄高木作右衛門に下賜され,十善寺郷の別荘は長崎奉行 所々属の薬園となった。本興善町の末次平左衛門の邸は,長崎奉行所々属の糸蔵になった。
〔註〕 唐通事,オランダ通詞と区別する慣例であるが,犯科帳(一)P.28では唐人小通 詞と書いてある。延宝4年(1676)頃には,まだその区別がなされていなかった と考えられる。
(註)
(1)岩生成一:朱印船貿易史の研究P.47.
(2)川島元次郎:朱印船貿易史P.74.岩生,同上書P.73.
(3)岩生,同上書P.120.
(4) 〃 〃 P.112.
(5)川島,同上書P.102−110,岩生,同上書P.155−163.
(6)岩生, 〃 P.287.
(7)東京大学史料編纂所々蔵,川島,〃P.150.
(8)岩生,同上書P.285.
(9)川島, 〃 P.206.
(1①古賀十二郎,長崎開港史P.1−30.
片岡立証,長崎の殉教者P.75−6.
ω 岩生,同上書P.184.
(12 長崎奉行所,犯科帳(一)P.28−30.
⑱ 長崎叢書(長崎略史上)P.75. 長崎港草川島,同上書P.569.